神は私たちの避けどころ、私たちの砦。
苦難のとき、必ずそこにいまして助けて下さる。
私たちは決して恐れない。


(詩篇4623より)


20114 602号 内容・もくじ イースターの祝福を祈ります。

リストボタン祈り

リストボタン復活の力を待ち望む

リストボタン生きる力が絶えたとき

リストボタン神の愛ー闇と混沌の中にて

リストボタン原発と憲法9

リストボタン安全という虚構

リストボタン二つの目に見えない力―原子力と聖なる霊

リストボタン放射線の見いだされた過程

リストボタン原発について―以前に書いた記事から

リストボタン原子力の危険性について(1999年10月「はこ舟」誌)

リストボタン人間の力の過信(原子力発電のこと)2004年8月 「はこ舟」第523号

リストボタン二種類の残り物ー原発の廃棄物の危険性(「いのちの水」誌2007年3月号)

リストボタン原発の危険性について(「いのちの水」2007年7~8月号題558号)

リストボタン坂口シマコ姉、召される

リストボタンことば

リストボタン休憩室

リストボタンお知らせ

リストボタンお知らせ



リストボタン祈り

今回の大規模な地震、津波、さらに原発による災害によって、家族や家、あるいは仕事などを失った方々、いまもさまざまの苦しみと不安にある方々の上に、主の慰めと支えがありますよう、そして、求めよ、そうすれば与えられる、という主の約束にしたがって、聖なる霊が与えられますようにと祈ります。


リストボタン復活の力を待ち望む

困難な事態、人間的に考えて建て直すことの不可能なように見える状況に直面するとき、私たちが一番必要なのは、死をも越える力、復活の力である。
死んだものをもよみがえらせる力があるならば、絶望をも新しき希望、壊れることのない希望に変えることができる。
物質的な復興はそのうちになされるであろう。
しかし、魂の復興のためには、復活をなさしめる神の力が不可欠である。
その復活をもなしとげる神の力こそ、深い傷を受け、孤独に悩み、絶望に立ちすくむ魂をも再生させることができる。

すべてを失った者の祈りを顧みる

大震災で、家族も、家も、持ち物もすべてを失った人たち、何を支えに生きていくことができるだろうか。
がんばって、と言われてもその力も出てこないという人もいるだろう。
そうしたあらゆる目に見えるものが失われてもなお、残っているもの、それが目に見えない神の愛であり、神の力である。
人間の長い歴史において、迫害や戦争などですべてを失った人たちが大量に生み出されてきた。
しかし、それでもなお、その無に等しいなかかから、神の助けを実感してきた人がいる。
そのような社会的な大混乱でなくとも、ハンセン病のような病気になれば、家族も、健康も、仕事や友人、将来の希望…何もかも失ってしまった。
その闇と混沌のなかから、神を知らされ、その神の愛を信じてすがっていった人たちの中には、たしかにそのような絶望的状況のただ中に、それまで全くなかった力と慰めが与えられて、精神的に立ち上がることができた人たちがいる。
殉教した人たち、それはまさにすべてを奪われ、喪失した人たちである。
しかし、最初の殉教者であるステパノの例で分るように、そのすべてを失ったところに最も大いなる神の愛が注がれ、それは自分を殺そうとする人たちの憎しみをも越えて、それらの人たちのために祈ることすら可能となった。
「ああ、幸いだ、貧しきものたちは!」との主イエスの言葉、あるいは、「ああ幸いだ、悲しむ者たちは!」という言葉は、一見不可解に見える。
しかし、これはすべてを失い、貧しきものとなった人、悲しみに沈む人たちにこそ、神の国が与えられ、神からの慰めという大いなる宝が与えられるという約束なのである。
キリストこそは、すべてを失った挙げ句、十字架に釘づけられるという極刑を課せられた。しかし、そのキリストの祈りは聞かれ、万人の救いの源となられた。たしかにすべてを喪失した人の祈りを聞かれ、主は、最も祝福されたお方となった。

…主はすべてを喪失された者の祈りを顧み、
その祈りを侮られなかった。(詩編 10218

 


リストボタン生きる力が絶えたとき

この世は、神を信じているからといって、安全なことばかりというわけにはいかない。最も神を深く信じたお方であった主イエスご自身が、あのような厳しい生涯を送り、その最期は十字架であった。
そのとき、わが神、わが神、なぜ私を捨てたのか!という絶望的な叫びをあげられたほどであった。
最も深い信仰を持っていても、なお そうした大いなる苦しみ、ふつうなら絶望にうちひしがれて立ち上がれないようなことも起きる。
聖書には、今から2500年余り昔、外国からの軍隊の攻撃によって国が滅ぼされたなかでつくられた詩がある。それは預言者エレミヤの悲しみと祈りが記されているということで、エレミヤ哀歌とも言われる。そのなかに次のような言葉がある。

…わが魂は平和を失い
幸福を忘れた。
私は言う、
「私の生きる力は絶えた
ただ主を待ち望もう」と。

バビロンからの軍に囲まれ、エルサレムの町は攻撃され、人々の信仰の中心となっていた神殿は焼かれてしまった。多くの人々は死に、あるいは傷つき、多数が遠い異国のバビロンへと連れて行かれた。
激しい攻撃により、荒廃したおそるべき状況となったが、そのような状況にあっても、なお、「主を待ち望もう」と、心を神に向けることができた。

…私の魂は沈み込んでいても
再び心を励まし、なお待ち望む。

聖書に示された信仰は、こうした不屈の希望を生み出した。信仰、希望、そして愛、この三つはいつまでも続くと言われている通りである。

…主の慈しみは決して絶えない。
主のあわれみは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる。(哀歌3章より)

キリストの弟子のうちで最も広範な領域に福音を伝えたのは使徒パウロであった。そのパウロも、こうした絶望的な状況へと追いつめられたことがあった。

…兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。
わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。

パウロのような、神からの啓示を深く受けてその手紙が聖書として永遠に残っていくほど、神と深く結びついていたにもかかわらず、このような苦しい状況、もう死ぬと思うほどになったことが分る。
そしてそこから、死をも乗り越える神に頼るようになった、神への信仰が一段と深いものになったのである。
私たちの本当の信仰、それは何不自由のない安楽な生活のなかではぐくまれるのでなく、こうした苦難の中から育まれる。

… 神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。
これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。(Ⅱコリント1の8~10

 


リストボタン神の愛ー闇と混沌の中にて

旧約聖書のなかで最も愛されている箇所の一つは、次の詩である。

…主はわたしの羊飼い
わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。…
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださるから。…
わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。(詩篇23篇より)

死の陰の谷をあゆむとも、私は災いを恐れないという。私たちがこの世に生きるとき、誰しも死ぬかと思うほどのことに、1度や2度は出会うだろう。今日、大きな自然の災害によって苦しむ多くの方々のうちには、まさに「死の陰の谷」を歩んでおられる方々が多いと思われる。
なぜ、神はそのような苦しいところを歩かせるのか、なぜこの苦しみは自分なのか、なぜ、ほかの人でないのか…といった疑問は、苦しい状況が深刻であるほど、次々と持ち上がってくると思われる。
苦しみは現実に襲いかかってくる。それがなぜ、ほかの人でなく、自分なのかといった疑問は答えることができない。
しかし、はっきりしていることは、そのような苦しみのただなかにあって、神は求めるものに魂の糧と力を与えられるということである。神の愛は、そのように苦しみを通して与えられるということが実に多い。
健康で恵まれた家庭であっても、やはり神の愛を感じることはできるだろう。しかし、どんなにしてもぬぐいさられない悲しみや苦しみのなかに注がれた神の愛は、生涯忘れることができないものとなる。
ダンテにおいても、キリスト教世界で生み出された長編の詩のうちで最も高い内容を持っていると言われるが、その著者ダンテもまた、祖国を追われ、流浪のなかで、神曲という大作を書き上げていった。
この有名な、一見牧歌的ともみられる詩篇23篇の直前に置かれている詩篇22篇は、前半の部分に恐ろしい試練に遭遇したひとつの魂の叫びが記されている。
…わが神、わが神、なぜ私を捨てたのか! という絶望的と見える叫びである。この詩篇22篇の冒頭にあるこの叫びは最も深い人間の苦しみを表しているゆえに、キリストも十字架の上で、この叫びをそのまま出されたほどであった。
これは底知れない闇であり、神などいない、神の愛などあり得ない…と思われるような状況である。
しかし、その十字架の処刑こそは、主イエスご自身が、たとえようのない苦しみにあってもなお、その十字架のもとに、天にあった神の愛を地上へと招き寄せたできごとであったのだ。

聖書は、人間世界、宇宙全体について書いてある書である。そしてその領域は、過去、現在、未来にわたっている。
そしてそれらすべてを通して神の愛が働いていることを記した書物である。
それは、聖書巻頭の書である創世記の最初からそのことが明確に述べられている。

… 初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。(創世記1の1~2

この創世記の最初の言葉によって、この世界の現状と、その現状に対して注がれる神の愛が簡潔な言葉で書かれている。
現状を表す「混沌」と訳されたその原語は、トーフー という語と ボーフー という語が並べ置かれている。トーフーとは、混沌、混乱を意味する語で、ボーフーとは、荒れ果てた、とか空虚、形がない、といった意味を持っている。
(英語でいえば、formlessness, confusion, unreality, emptiness といった意味をこれらの語は持っている。)
新共同訳では、このトーフー とボーフーの二語を合わせて「(地は)混沌であって…」と訳しているが、ほかの二つの邦訳は、原文が二語からなっているので、次のように別々に訳している。

地は茫漠として何もなかった…(新改訳)
地は形なく、むなしく…(口語訳)

この訳語に表れているように、この最初の状況をあらわすヘブル語は、何の形もなく、混乱、空虚であったという意味を持っている。
そのような状況は、人間の現実を象徴的に示すものである。聖書はなぜそのようなものがあるのか、というより先に、現実の状況をまず言っている。過去の天地創造のことを記述しながら、じつは過去から現在にいたる人間の状況を述べているのである。
しかし、それは単なる暗黒や混沌ではなかった。そこに、よきものを生み出そうとする神の風、霊の風が吹きつのっていたのである。
それこそは闇に光をもたらそうとする神の愛の現れだと言えよう。
私たちも誰か困難にあり、闇にある人のことを思うとき、何とかしてそこに神の力や祝福が及ぶようにと、祈りを送る。それは、人間の魂の闇と混沌の中に御国の風を少しでも送ろうとすることである。
また創世記の第二章にあるように、渇ききった大地に水を湧きださせること、そこにも神の愛がある。愛とは、渇ききっていのちが失われているところに、うるおいを提供しようとすることである。
最初の人間、アダムとエバについても、エデンの園において、見てよく、食べてもよい果樹がゆたかに備えられており、いたれり尽くせりといった状況であった。それにもかかわらず、そのゆたかな恵みに満足することなく、アダムとエバは誘惑に負けて罪を犯した。そのような人間であったにもかかわらず、なお、神は彼らを見つめ、「どこにいるのか」と自分たちが神との関わりのもと、どのようなところにいるのかを自ら気付いて立ち返ることを待っているのを示すことをうかがわせる。このような姿勢こそは、神の愛をはやくも示すものである。
愛は、直接に忍耐とかかわっている。
カインの重い罪についても同様である。
あえて神はただちに厳罰にして滅ぼすことなく、見守った。これははるか後に主イエスが放蕩息子のたとえで語ったことと通じるものがある。
神の愛は、苦しめることをも含んでいる。人間の愛は、苦しみから遠ざけようとする。
病気にならないよう、事故に遭わないように等々である。人間の愛は、決して愛する者を病気にしたり、寝たきりにしたり、目が見えないようにすることはない。目が見えなくなるかも知れないと思うと全力でそうならないようにするのが人間の愛である。
しかし、神の愛は、そうではない。最も恐ろしいハンセン病のような病気、目が見えなくなってそれまでのあらゆる仕事、交遊、娯楽、いっさいが失われてしまうというような恐ろしい事態に、また家庭の分裂や恐ろしい拷問を伴う長期にわたる迫害等々、そんな目に遭わせることすらある。
そのようなことを通って神は愛であることを示そうとされる。
創世記における、ヨセフが受けた苦しみ、エジプトにおいてイスラエルの人々が受けた苦しみ、それらはみな神の愛であった。
主イエスは、十字架にかかって万人の罪を身代わりに受けて死なれた。そこに神の愛がある。そしてその愛は、たんに家族がみんな理解あり、世の人からも認められ、いろいろなものに恵まれているという、いわゆる幸福な状況によって示されたのではない。
まったく逆であり、「神が自分を捨ててしまった!」という絶望的な叫びをあげる状況のなかで実現していった。
当時の宗教的、政治的指導者たちから、そして民衆たちからも、十字架につけよ、との叫びが渦巻き、そして三年間もともに生活してさまざまの教えや、そのわざ、奇蹟をとおしてイエスが神の子であることを示されたにもかかわらず、弟子たちすらイエスを見捨て、逃げていく。またイエスの世話をしたり付き従っていた女性たちも深い悲しみに沈むばかりで、そこには誰も神の愛や光を見ることはできなかった。
そして鞭打たれ、さげすまれ、つばをはきかけられ、釘で受け付けられて恐るべき苦痛のなかから死んでいった。
「わが神、わが神、どうして私を捨てたのか!」というふりしぼるような叫び、それはまさに闇と混沌であり、得たいの知れない深淵がそこにあった。
しかし、そのような状況のただなかに、神は最も大いなる神の愛のわざを実現していった。
独り子を人間の罪のあがないのため、十字架に付けるために遣わしたこと、そこに神の愛があるのであるから、こうした外見的には最も愛とはかけ離れた恐ろしい状況のなかで神はその最も深い愛を押し進められたのであった。
このことから、私たちは、いかに外見的に恐ろしい状況があってもなお、神のその愛を押し進めておられるのだと信じるように導かれる。ステパノの殉教のことも同様である。
パウロももう死ぬというほど追いつめられたとき、死から復活させる神の愛を思い起こしたと書いている。(Ⅱコリント一章)
使徒パウロも、十字架で処刑された重罪人も同様であった。 私自身、かつて外には、学生運動の渦巻く闇と混沌、内には、深い精神的な闇の中からただ一冊の本によって、光が射して信仰の世界へと導かれたのだった。

イエスよりも900年ほども昔、預言者エリヤは真理に敵対する王妃のきびしい迫害によって、もう死ぬほかはないとまで思い詰め、砂漠のような荒れ地で命絶えようとした。
しかし、神はそのようなエリヤに力を与えて立ち上がらせ、かつてモーセに神の言葉が告げられた聖なる山へと行くようにと命じた。そこで彼は死んだようになっていた状態が新たにされ、遠いシナイの山に向かった。そこに到達した彼は、神に命じられて大風や地震、火の前に立った。
しかし、そのようなもののなかには、神はいなかった。それらのあとに、静かな細い声があった。その声は彼に新たな力と命令を与えるものであった。こうした混乱と闇が私たちには襲ってくる。しかし、そのただなかに、そしてその後に静かな細き語りかけがなされた。
神の愛は、そうした語りかけのなかにもある。
ここでも、エリヤは死を覚悟し、生きていけないと思ったほどのなかから、神は語りかけている。

旧約聖書において、今から2500年以上も昔に、次のようなうるわしい記事が書かれた。

…荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ
砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
野ばらの花を一面に咲かせよ。
花を咲かせ
大いに喜んで、声をあげよ。…
人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。

弱った手に力を込め
よろめく膝を強くせよ。
心おののく人々に言え。
「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。
悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」…

荒れ野に水が湧きいで
荒れ地に川が流れる。
熱した砂地は湖となり
乾いた地は水の湧くところとなる。

そこに大路が敷かれる。
その道は聖なる道と呼ばれ
主御自身がその民に先立って歩まれる。
解き放たれた人々がそこを進み
主にあがなわれた人々は帰って来る。(イザヤ書35章より)

これは、あらゆる空しさ、混乱、闇を貫いて響きわたるメッセージである。このイザヤ書の箇所は、戦いに破れ、遠い異国に捕らわれて行ったたくさんの人たちが、時至って砂漠地帯を通って魂のふるさとであるシオン(エルサレム)に帰ってくるという預言である。
長い闇と混沌のなかに神の御手が臨み、そこから導き出されることを示す内容となっている。そしてこの預言の言葉は、単に古代のイスラエルの人たちだけにあてはまるのでなく、以後数千年の人類への預言ともなった。
乾ききった大地、それはいつの時代でも人々を取り巻いていた。この世の力、闇の力に捕らわれ、そこから出て行くことのできないところにあった人間は、そこから解放する道が分からなかった。そのただなかで霊的な渇きに苦しみつつ生きていた。
そのような状況の人間に、いのちの水をもたらし、枯れた魂の世界に花を咲かせるのが神の愛である。
そしてそれは、新たな世界に目が開かれることであり、歩けなかったのに新たな力が与えられて前進できるようになることである。さらに、神からの語りかけなどまったく分からなかったのが、私たちを超えたところからの静かな細い声を聞けるようになることである。

…そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。
荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。(イザヤ356
これらのことは、すでに述べたように、創世記2章ではやくも暗示されていたことであった。
魂がうるおされること、そのたとえようのない祝福を、このイザヤ書の言葉のように深く啓示されたのは驚くべきこと である。
そしてこうした深い霊的な世界が示されたのは、ふるさとが敵国によって荒らされ、多くの人たちが殺され、残ったものたちもその相当数が捕囚として遠くの国々に連れて行かれたという状況にあったときである。これからどうなるのか、なぜ神はこのようなことをなさるのか…そうした数々の疑念が次々と人々の心に現れただろう。
人間の予想や希望とまったく異なる、時と場所において、神はその啓示を与えられるのである。
このような新たな世界に招かれていること、それはこの霊感ゆたかな預言書においてしばしば語られている。

…「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。
あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。(イザヤ 551

このような神の招き、それは後に主イエスが言われた次のような言葉を指し示すものとなっている。

「渇いているものは私のもとに来たれ!」(ヨハネ7の37)

乾いたところにうるおいを与えるもの、それは詩篇全体においても流れている。そして、聖書の最後においても、究極的な神の愛の実現した世界は、ゆたかな水の流れとして記されている。(黙示録22章)
神の愛を受けるとは、魂のうるおいを受けること、心に静かな流れが生まれることである。そして、憎しみとは渇きである。
私たちの現在の世の中、それは大地震や津波、あるいは原発のようなものによって、あるいは、病気や戦争、食料不足、飢饉など、さまざまの問題にみちている。
こうした状況は、古代からつねにかたちを変えつつ続いてきた。そのなかで、キリストが現れ、いかなる状況にあってもただ神へのまなざしをしっかりと向けること、いかに助けがないように見えても神を仰ぎ、神への叫び(祈り)を止めないこと、それによって時至れば、魂に水が流れるようにして下さることを信じることができる。
だが、ときには、そうした平安が与えられないほどに世の状況が悪化することもある。
しかし、そのようなこともすでにキリストは、見抜いておられた。
この闇の世界を究極的に救うのは、科学技術や学問、政治でも、福祉でもない。
最高の物理学、化学などの学問を用い、それらの学者を結集し、莫大な経費を用いて生み出されたもの、それは、原爆や原発という致命的な害悪を与える物体なのである。
しかも、そこで生み出される放射能物質は現在生きている人たちだけでなく、永久的に人類に害悪を及ぼし続けるものを地上に生み出していくのであり、子孫への犯罪行為と言わねばならないだろう。
今から2500年以上も昔、神からの言葉として次のようなものがある。

…主はこう言われる、「人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる。」(エレミヤ書175

原発にかぎらず、人間の判断や人間の力、政治や権力など、あるいは人間の造り出した科学技術の産物などに全面的に頼るとき、そこには本当の幸いは決して生まれない。
すでに、旧約聖書の創世記に、数千年前に記されているバベルの塔という記事がある。人間がその技術を誇り、高い塔を建て、天まで届く塔のある町を造ろうとした。しかし、神がそこに裁きを与え、言葉が通じないようにされ、その町の建設も中断したという。(創世記1145
神のさばきとして、「言葉が通じないようにされる」ことが記されている。究極的な真理そのもの(神)に背き、自分を高いもの、強い者とするとき、人間は言葉が通じなくなる。
しかし、真理の前に自分の卑小さを知らされ砕かれてひざまずく心を与えられるとき、いろいろな人たちと心の言葉が通じるようになる。
そして、このような低き心を与えられるとき、神の万能に絶対の信頼を持つことができるようになる。
そしてこの世界の究極的な解決もその神から与えられるものとして受け取ることができる。
その究極的解決とは、神の子なるキリストの再臨である。キリストが神の力によって来られるときにあらゆる闇の力は敗退する。
そしてそれはすでに、キリストの復活や聖霊が与えられることによって、部分的にせよ体験できるようになっている。
その聖霊の力、それはいかなる大波をも越えて伝わってきた。この世には、地震や津波のような目を奪うような力がある。それらは人間の力では、到底考えられない破壊力を持っている。
しかし、それらのどのような力にも増して強力な力をもってこの世のあらゆる荒波、迫害、権力の支配を越えて全世界に伝わっていたのが聖霊の力である。
すでにキリストが生まれたときから、その国の王はイエスを抹殺しようとした。イエスが成人したときにもさまざまの敵対する力が現れて、ついにイエスを最も苦しい釘付けにして処刑することまでした。死という最強の力によってイエスは消し去られ、 それによってキリストが地上にもたらした目に見えない波、霊的な波は止められたと思われた。
しかし、そこからいかなる悪意や死の力にもうち勝つ、目には見えない大いなる波ー聖霊の波動ともいうべきものがこの世界に現れた。
そして、ローマ帝国の300年近くにわたる迫害という名の巨大な壁をも乗り越えて、世界へとキリストの波動は伝わって行った。
それはヨーロッパ全土にひろがり、さらに南北アメリカへと伝わり、アフリカ大陸の南端を経てインド洋を越えて、さらには、太平洋をも越えて日本に到達した。
過去三千年という長い歳月、聖書の真理は、その間のどのような壁にも妨げられることなく、あらゆる障壁を越えていく力を持っているのを証ししてきたのである。
また、地震、津波と並んで、原発という目に見えない放射能によって多くの人がおびやかさている。そのために生活ができなくなり、いちじるしい困難が今後も続くと考えられる。
このような目に見えない力である放射能による苦しみ、それを耐えていくためにも、それを越える力が必要とされる。そして数千年を越えてきた聖霊の力、真理の力は、やはり目には見えない力であるが、そのような苦しみにある人たちをも支える力を持っている。
それは、キリストの真理にしっかりと支えられたときには、使徒パウロも述べているように、あらゆる困難にもうち勝つ力を与えてくださると約束されている。

…これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めている。
わたしは確信している。死も、命も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない。(ローマの信徒への手紙8の3739より)

このような確信もまた、目に見えない神によって与えられなければ、自分で持つことはできない。自分の意志や決断などいかにもろく弱いことだろう。
神より与えられ、聖霊によって与えられた確信を持ちつつ、ときには希望のないように見える死の陰の谷というべきところを歩んでいかねばならないこともある。
主イエスは、そのあらゆるものを見通す神の目によって、今後を見て言われた。この世には、究極的な解決のときまでは、闇と混沌が続いていくと予告されている。毒麦は世の終わりまであちこちに生え続けていく。
それは、戦争の動乱、地震、飢饉、愛が冷える、等々のこととなって現れるという。

…戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。(マタイ福音書2467

しかし、こうした闇と混乱、そして渇きのただなかを、全世界を導く神の御計画は進んでいく。
それはしばしば私たち弱い人間の理解をはるかに超えたことであり、深い苦しみや悲しみも伴うであろう。
それでもなお、今から三千年も昔に啓示を受けた人が記していることは現代の私たちへの道標である。

… たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れない。
あなたがわたしと共におられるから。(詩篇234

そうした人間の一切の考えや希望を超えたところで働いている神の愛と真実、正義がなす御計画なのである。
そして最後の到達点は、すでに述べたように、聖書の最後の黙示録に記されている。
すなわち、新しい天と地であり、いのちの水の河が流れ、神とキリストが照らす世界であり、いっさいの涙はぬぐわれる世界である。

 


リストボタン原発問題と憲法9条

この二つの問題は、共通したところがある。
ともに、非現実的だとして、多くの政治家たち、評論家、マスコミ、学校教育などでも、とくにこの近年は真剣に扱ってこなかった。
何十年という長い間、政権政党であった自民党と政府は、その間、原発の危険性と憲法9条の重要性について真剣に検討することもなく、葬り去ろうとしてきた。そしてそうした政治的圧力のもと、社会的にもこの二つの問題はごく一部の人が考えるだけという状況になっていった。
自民党が今度政権を取り返したら、まずやろうとしていることの一つは、憲法9条を変えるということである。
「…原発反対というと、左翼だとか、反体制だというレッテルを貼り、原発の安全性を問うということすら、非現実的だとして、社会の片隅に追いやられてきた。それが、原発の安全論争自体を萎縮させてきた。…」(毎日新聞4月10日)とあるが、憲法9条に対しても、それを守ろうとする考え方に対しては似た状況がみられてきた。
しかし、莫大な経費を使って武力を装備していくという現実的な考え方、それこそが、二度にわたる世界大戦を生み出したのである。
そして、増大するエネルギーをいかに危険があっても確保し、人間の贅沢な浪費は現実だとして認めていく考え方が、長大な地震帯のすぐ近くに、原発を50基を越えて林立させるという事態を生み出し、今回のような大きな悲劇と不安をもたらしたのである。
これに対して、キリスト教の根本の考え方は、まず神の国と神の義を求める、というものであり、目先の現実的な要求を第一にするというこの世の考え方と真っ向から対立する。
それゆえに、憲法9条の平和主義を守り、また、原発がある国だけでなく周辺の国々という広大な領域に大きな害悪を与え、さらに永遠に、子孫に重大な危険を残すようなエネルギー生産の仕方そのものに反対するのである。
そしてこの、まず聖書の真理にしたがって神の国を求めるということこそが、永続的な幸いを与えるという本当の意味での現実的なあり方なのである。

 


リストボタン安全だという虚構

原発の報道において、絶えず繰り返し言われているのが、「安全だ」ということである。「ただちに」影響はない、などという言葉も同様である。大気中に拡散され続けている放射線物質、水道水、農作物などの摂取の報道にも常にこの言葉がついてまわる。
許容基準の100倍の放射性物質を含んだ水を大量に放出し始めたときにも同様である。
魚介類、海草などについての報道でもやはりこの言葉が使われている。
いたずらに不安をあおってはいけない。原子力や放射性のことについて科学的な知識をほとんど持たない一般の人たちを不安に陥れるだけだ、ということもよく言われる。
しかし、原発の事故で最も恐るべきことを、事故以来一カ月になろうかとしているのに、NHKなどのテレビなどの放送では全くといってよいほど触れてこなかった。
先ごろようやく最悪の事態として、さらなる水素爆発と言っていたが、しかし、その水素爆発または、水蒸気爆発を起こしたらどうなるのか、ということには触れない。
しかも、それは原発に関してずっと以前から今回のような事故の生じる可能性を一貫して、その職業的な地位も犠牲にして主張してきた原発の専門家たちなどもはっきりと言っていることである。
それは、冷却がうまくいかない場合、高温のために燃料が溶けて圧力容器の底にたまり(すでにかなりが溶けてそのような状態になっているとみられている)、その容器をも、またそれを包む格納容器をも溶かして、おびただしい放射能をもった物質が外部に放出しつづけていくことであり、それを止めることができなくなってしまうことである。
さらに、そこに水があればその水と水蒸気爆発を起こして、格納容器ごと吹き飛ばしてしまう。そうなると、燃料のなかにある膨大な量の放射性物質、しかもきわめて高い放射能を持つ物質が広範囲に拡散されるということである。
ことにその中に含まれるプルトニウムは、大気に微粒子となって拡散されると、きわめて微量でも、それを吸入すると強いα線を出すためにガンになる可能性が大きくなる。そしてそのプルトニウムの半減期は2万4千年であり、5万年ほども経過してもなお、4分の1にしかならない。人間の生きる時間の長さを考えるとこれは永久に残るといえる長期間である。
そのようなことが生じるなら、数千万の人たちがいる東京を中心とした関東一帯はもちろん、中部地方からさらに、直線距離で福島原発から580キロほどの大阪を中心とした関西もその放射能の影響を大きく受けることになる。
チェルノブイリの事故のときには、放射性物質は、決して同心円状でなく、風向きと雨の降り方によって非常に偏った分布となった。500キロ離れても高い放射線量を示すところもあったが、150キロ程度の距離でもそれほど多くの放射線を受けていないところもあった。
8000キロ離れた日本でもその放射線の影響を受けた。
こうした、アメリカやソ連の原発の大事故があり、それ以前にも、イギリスの原子炉事故(1957年ウィンズケール炉)、ソ連の放射性廃棄物の管理がずさんであったために生じた大爆発事故(1957年)、また、1999年に起こった東海村JCO臨界事故では、死者2名と667名の被曝者を出した。(JCOとは、茨城県東海村にある住友金属鉱山の子会社の核燃料加工施設。)それ以外に、さまざまの事故が発生してきた。
それでもなお、推進する経済産業省、政治家、電力会社、原子力にかかわる学者たちは自分たちの利益を第一として、「安全」だ、を繰り返してきた。
このような発言は、次の聖書の記事を思いださせる。

…皆、利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで皆、あざむいて言う。
彼らは、手軽にわが民の傷をいやし、平和がないのに、『平和、平和』と言う。(エレミヤ書6の1314、同 811

預言者とか祭司を、政治家、御用学者、役人、電力会社などに置き換え、彼らは、手軽に、原発の安全を説いて、心配はなにもないと言い続けた。平和を「安全」と置き換えて読むことができる。
このエレミヤの言葉は、今から2500年以上も昔に言われたのだが、現代の問題でもある。
私たちは、本当の安全、平和というものは目に見えるもの、この世の地位の高い人間たち、肩書の立派な人たちの言うことでなく、数千年前から、いかなる時代の変化にも変ることなく流れてきた永遠の真理、聖書の真理にこそ聞き従いたいと思う。

 


リストボタン二つの目に見えない力 ー原子力と聖霊

3月11日の大地震、大津波の被害も甚大で、現在もなお、15万人以上の方々が、不自由で苦しい避難所で生活しておられる。家族の一部またはその多くが波に呑み込まれ、家は失われ、職場もなくなり、茫然とした状態で生きておられる方々がたくさんおられる。
それだけでも、日本の歴史で最大級の大被害であるのだが、それに加えて、福島原発の問題が発生した。これもまた、チェルノブイリに次ぐ、歴史的な大事故となった。
 国連放射線影響科学委員会のワイス委員長は4月6日、ウィーンで記者会見し、福島第1原発の事故について、「スリーマイル島原発事故よりはるかに大規模なのは間違いない」と述べ、さらに、同委員長はスリーマイル島原発事故では放射性物質はあまり放出されなかったが、「今は世界中の大気に放射性ヨウ素の痕跡がある」と説明したという。
原発の問題は、つきつめれば、目に見えない巨大なエネルギーの暴発というだけでない、その根本問題は、人間に有害な、目には見えない莫大な放射能の問題なのである。 放射能がなければ、阪神大震災の復興のように、数年で目ざましく復興し、次々と新たなビルは建てられ、被災地での生活も回復していく。
 東北地方の多大なる被災を受けた地域も着実に道路から瓦礫は取り除かれ、水道、ガス、電気も復旧しつつあり、食料はより改善され、仮設住宅は建設がはじまっているし、政府からの支援のほか、一千億円を越える一般からの巨額の義援金の配分もそのうちになされるであろう。
 さまざまの大切なものを一度に奪われた人たちが受けた心の傷、深い孤独、悲しみはいやされることがないと思われるが、少なくとも設備や生活面での復旧は着実になされていきつつある。
 それに対して、原発の被害とその危険性は日増しに増大していく一方である。避難勧告も最初は10キロ、ついで20キロ、さらに30キロの範囲へと避難範囲は広がろうとしている。
放射能汚染も大気から、水、土、そして海と広がり、外国への影響すらも生じている状況となっている。韓国では、雨が降ったのでそれに含まれる放射能から子供たちを守るために、130校ほども臨時休校になったという。
 原発が生み出す莫大な放射能は、数年程度ではなくなることもないし、撤去することもできない。
 東京電力の榎本聡明顧問が毎日新聞のインタビューで答えた内容が、一面トップで掲載されていた。それによれば、原発の使用期限を超えたときには、原発を廃棄する(廃炉)必要があるが、そのためには、20年~30年という長い年月を要する。
今回の福島原発では、損傷した核燃料を取り出す専用の装置を開発してそれを作ることから始めなければならないから、廃炉を終えるには、それ以上かかることは確実だという。
 つまり福島原発の最終的決着は2、30年以上かかる見通しだ、と報道されていた。(毎日新聞4月8日朝刊、榎本氏は、今回の事故のあった原発の試運転など、勤務経験ある技術者。)
 さらに、これらの廃炉にしたその後の膨大な廃棄物はどうなるのか、20年~30年先の廃炉のあとがまた解決方法がいまだに決められない状況なのである。 
それら廃棄物の最終的な処理というのも、莫大な量の放射性物質をどこかに持っていくしかない。しかし、どこかに持っていっても、そこで放射能をなくすることもできないのである。
地中深く埋めるということしかできない。しかし、その場所も狭い日本で受けいれるところはどこがあるだろうか。ドイツやスイスなど地下660メートルから1200メートルなどの岩塩や堆積岩などの深いところに処分する計画がある。
 日本でも、地下300メートルほどに埋める候補地を募った際、高知県と徳島県の境界に近い高知県東洋町の町長がその話しを受けいれようとした。それは、2006年のことであったが、住民の強い反対でそれは中止となったことがあった。
 しかし、そのような地下に広大な処分場所を作るというが、そんなところを数十万年も管理しなければならないのであり、そんなことが可能なのか、そのような途方もない長い年月に何が起こり得るのか、だれも分からない。
何万年をも越えて、いわば永久的に未来の子孫にそのような重い負担をかけつづけること事態が、自分と関係のない人間に対してはどうなってもいいという姿勢であり、未来の人間に対する犯罪行為だと言わねばならない。
 アメリカのスリーマイル島の原発事故では、事故の16時間後に冷却がはじまったし、チェルノブイリ事故でも、事故発生から10日後には、冷却がはじまった。
しかし、福島原発では、一カ月経っても冷却機能は回復していない。このまま冷やし続けなければならない。
大気中に放出された放射性物質は、風で遠くまで運ばれる。雨が降れば、その地点に高濃度の放射性物質が地上に落ちていく。チェルノブイリでも800キロ離れたところでも強い放射能が計測された。
決して同心円のようにいつも薄まるわけではない。
原発の事故によって、たくさんの人々の生活が破壊されつつある。田園地帯や平和な市街地も広い領域で住むことができなくなった。農業も酪農などもできなくなり、漁業も、そしてそこでの平和な一つ一つの家庭の生活も破壊されていった。
さらに、もし原発の冷却がうまくいかないときには、燃料棒が溶けて原子炉圧力容器の下部にたまり、それが高温になっていくときには、溶けだしてその圧力容器をも溶かし、その外側の原子炉格納容器へ落ちていく。そしてそこに水があれば、水蒸気爆発を起こして、膨大な量の放射能ープルトニウム239のような半減期が2万4千年という人類の生活の時間からいえば、永久的に消えないともいえる危険物質が外部に拡散されることになる。このプルトニウムや、半減期30年ほどのセシウム137、半減期約29年のストロンチウム90などの大量飛散こそが、最も重大な事態である。
 プルトニウムは、呼吸によって体内に入ると、発ガン性が非常に強く、400万分の1グラムという極微量が許容量だという。(「元素の小事典」高木仁三郎著 岩波書店)
プルトニウムは、25万分の1とか、50万分の1グラムといった極微量でも、ガンを引き起こす。プルトニウムを静脈注射したとき、その毒性はサリンを上回り、青酸カリに匹敵する。犬の動物実験では、プルトニウムの致死量は、0.3ミリグラム/Kgであるから、犬と人間とは違うが、おおまかにいえば、体重50Kgなら、0.02グラムほどで急性の重金属中毒を起こすという。そして、プルトニウムは肺に留まり続け、非常にゆっくりとしたはやさで血管へと移行し、最終的には骨ガンや肝臓ガンをも引き起こす可能性があるという。
(神奈川大学教授 常石敬一教授、京大の原子炉実験所元講師の小林圭二氏などによる。これらの記述は、「プルトニウム」56頁 講談社刊、「週刊現代」412日号などによる。)

これに関して、NHKニュースの解説者が、プルトニウムは重くて遠くに飛散しにくい、そしてまた決まり文句のように「安全だ」を繰り返していた。
しかし、このような解説の仕方は、一面的である。
プルトニウムは重いことはたしかだが、それが微粒子になると、1000分の1ミリ~1万分の3ミリ程度となり、これはインフルエンザウイルス(1万分の1ミリ)よりも少し大きい程度の微少なものであるから、遠くまで運ばれる可能性は十分にある。セシウムはさらに遠くまで飛散するから それらによって、関東の広大な地域が汚染されることとなるだろう。
例えば、もし冷やすことができなくなったら―例えば、いまのような作業している近くで大地震が起こったようなときである―そのときには、いまの冷やす作業もできず、最悪の事態が生じる可能性が高くなる。
こんな、危険なものを、しかも世界で最も大地震が生じる頻度が高いような地域で、54基も造り続けてきた。
破壊された4つもの原発は廃炉が確定し、さらに5号機、6号機も廃炉とする可能性があるとのことであるから、それらを合わせると、これまた歴史上で初めての膨大な量の高濃度汚染物質の廃棄という大問題が生じる。
これもまた解決の方法がない。 最終処分した放射性物質を埋めておく場所も、方法もないからである。青森の六ヶ所村での再処理工場でも、そこで再処理した廃棄物をどこに埋めるのか、その場所すら決められていない。どこの県も何十万年も厳重に保管せねばならないような恐るべき廃棄物を自分の県に持ち込もうとするところはない。
沖縄の基地を引き受けるという県は、何十年たってもどこにもない。放射性廃棄物は、米軍基地よりはるかに危険性が大きいのであるから、そのような場所を引き受ける県など簡単に現れるはずはない。
これからも、終わることのないように見えるほどの難問が原発にはつきまとう。
これらすべては、原子力発電というものが目に見えない放射線を出すこと、しかもきわめて多量で、しかも永遠的といえるほどの長期間出し続けるからである。
原子とはもともと、英語の ATOM という言葉は、「分けられないもの」という意味からきている。(*
 人類の何十万年という長い歴史で、この原子を破壊して莫大なエネルギーを取り出すということは、ごく最近のことである。ずっとそれは強固な原子核のなかに秘められたエネルギーとして取り出すことはできなかった。それを人間が、中性子を用いて原子を壊して破片としたり、別の原子に変える方法を見いだした。そしてそれがかつてない大きなエネルギーを取り出すことにつながった。

*)原子とは、英語でアトム atom というが、これは、ギリシャ語でatomos(アトモス)に由来する。a は否定を表す接頭語。tom は テムノー temno(切る)あるいはトメー tome(切ること)に由来する。

 物質の究極的な粒子であり、それ以上分けることができないと考えられていたのでこのような名前がつけられた。しかし、原子は、さらに原子核と電子によって成っていることが明らかになり、さらにその原子核も陽子や中性子から成っていることも判明した。
 そして、その原子核が壊れるときに莫大なエネルギー、通常の物を燃やしたりする化学反応のおよそ百万倍ものエネルギーを放出することも明らかになった。
 そしてそのような巨大なエネルギーを取り出すということも、ヒトラーの率いるドイツに勝利するためという目的のゆえに、アメリカに亡命した優秀なユダヤ人物理学者たち(*)を中心として何十年もかかると言われていたことがわずか数年で可能となった。

*)1939年、アメリカに亡命したユダヤ人物理学者のシラードは、同じくユダヤ人であったアインシュタインの署名した信書をルーズベルト大統領に送った。その信書のなかで、非常に強大な新型の爆弾が作られることをのべている。その後イギリスからもユダヤ系の物理学者フリッシュたちの考えによって核兵器が造りうることが明らかになっていき、それによりアメリカが、原爆をつくることへとつながった。

 このように、ヒトラーのユダヤ人への大迫害があったため、アインシュタインやほかの優れたユダヤ人科学者がアメリカに渡り、彼らが中心となって原爆がつくられるようになった。
 もし、ヒトラーがあのようにユダヤ人を迫害しなかったら、このようにドイツにいたユダヤ人の優秀な科学者も原爆をつくることにはならなかっただろう。 また、原発も、当時はエネルギーが足りないということではなくて、原爆の材料を製造するために原子炉がつくられ、その機能を維持しておくために、平和利用という聞こえのよいかたちにして原発に転用したのであった。原発がこのようにできてしまったのは、軍事目的を後方支援するためだったのである。
 現在の原発の問題をさかのぼっていくと、このように意外なことにつながっていく。
原爆や水爆などの核兵器、それは、軍事兵器としてだけでなく、このように、その時だけで終わらず、はるか後の世代にまで、重い影を残していくことになった。
 こうした原発、放射能に関することは、知れば知るほど、その困難な事態がわかってくる。それらを単に知るだけでは、私たちは希望の道が見えてこない。
 原子力そのものが、エデンの園で言われていた「禁断の木の実」であったと感じている人は多い。
「その実を食べる者は必ず死ぬ」 (創世記2の17
 これは、単に科学や技術にかかわる知識だけでは、死に至るという深い意味をたたえた言葉である。
 このような状況にあって、私たちにはエデンの園に植えられていたと記されてしいる、もう一つの木の重要性が浮かびあがってくる。
 それが「命の木」である。 (創世記2の9)
 この命の木のことは、その後の聖書では不思議なほど現れてこない。(*

*)旧約聖書の格言集に「正しい者の結ぶ実は命の木である。」(箴言1130)のように、創世記の記す意味とは違ったように使われている箇所が若干ある。

 旧約聖書は1400頁もあるにもかかわらずである。
 それがようやく現れるのは、聖書の最後の書、黙示録である。

…耳ある者は、御霊が諸教会に告げることを聞け。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。
(黙示録 27
…川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。 (黙示録 222
 この世の目には見えない悪の力に、信仰により神の力によって勝利する者には、命の木の実が与えられるという。言い換えるとそれは神の命、永遠の命が与えられるということである。
 そして、その木の葉があらゆる国の人々の病をいやすという。木の葉にこのような象徴的な意味が与えられているのは、聖書ではこの箇所だけである。人間は、単なる知識や技術だけでは死に至るのを防ぐことができない。死からの勝利、それは命の木の実を食べ、その木の葉によってあらゆる病ーからだの病を持たない人も何らかの心の病、罪を持っている―がいやされるという。
 これはまた、主イエスが言われた、「私が与える水を飲む者は、永遠のいのちが与えられる。イエスを信じるだけで、命の水がその魂のうちからあふれ出る」(ヨハネ福音書4の14、7の38)ことを言い換えたものである。
 このような永遠の命あるいは、いのちの水と言われているものこそ、この世界に存在する、もう一つの目には見えないが巨大な力を指し示している。
それは神であり、聖なる霊である。
 この目に見えない力こそは、過去数千年にわたって人類をその根底において変革し、歴史を動かしていくという強力な力なのである。

 


リストボタン放射線の見いだされた過程

3月11日以降、世界の歴史上で前例のない事態が発生した。歴史上でも最大級の大地震、そして大津波、さらに史上二番目といえる、原発の大事故という三重の苦難が襲ってきた。
そのうち、最も今後も長い間影響を及ぼすと考えられるのが、福島原発の大事故である。
この目には見えないが、人間の命にとって破壊的な力を持つ放射能は、どのような過程を経て見いだされれるようになったのか、簡単にその過程をふりかえってみたい。

この目に見えない放射線という現象に最初に気付かれたのは、1895年のX線の発見である。レントゲンは、真空放電管に高い電圧をかけ、黒い板紙で覆ったガラス管を放電させると、暗室内の白金シアン化バリウムが蛍光を発しているのに気づいた。それまで知られていない何かが放電管から出ているに違いないと考え、それをX線と名づけた。
それはからだをも透過して、写真に映すことができる、ということを見いだした。
ついで、ベクレルは、その翌年、蛍光を発生する物質に太陽光を当てれば放射線も発生するのではないかと考え、写真乾板を黒い紙で包み、その上に蛍光物質であるウラン化合物を付着させた。ところが、悪天候で太陽の出ない日が続いたため引き出しにしまい、数日後に取り出してみると、写真乾板が黒く感光していた。
 このことからベクレルは、ウランは他からエネルギーを与えられなくても放射線を発生する能力(放射能)があることを、発見した。
フランスのキュリー夫人は、ウラン以外のトリウムからも放射線が出ていること、さらに、それらとも異なる物質からも放射線を出すものがあることを突き止め、それがポロニウムであり、さらに、ラジウムという物質であることを発見した。1898年のことである。
そして、イギリスのラザフォードは、ウランから出ている放射線に二種類あることを発見した。それらは、α線、β線と名付けられた。 さらにガンマ線も見いだされた。その後、キュリー夫妻の娘のイレーヌとジョリオ夫妻は さらに別の放射線があることを見いだした。
そして1932年にチャドウィックは、その放射線をいろいろな物質に当てると、陽子が飛び出すこと、その放射線は陽子と同じ質量を持っていて電気的には中性であることから中性子と名付けた。
1938年、オットー・ハーンは、中性子をウランに当てるとバリウムができることを見いだし、それは、ウランがほぼ半分に割れたためであることを、女性科学者リーゼ・マイトナーが明らかにした。
これによって中性子がウランを分裂させて別の原子を生み出すことが判明した。
さらに、イレーヌとジョリオ夫妻は、その分裂のときに、中性子が新たに、23個生み出されることも見いだした。
このことが、連鎖反応を起こすことの発見であった。
ここから、原爆や水爆、そして原発という道がはじまったのである。
このように、はじめは単なる科学的好奇心から生まれたものが、今日世界を揺るがす核兵器や原発という悪魔のようなものを生み出したのであった。
福島原発の大事故により、日本人は現在だけでなく、これから数十年という長い間、放射能のもたらす害毒を受けることになり、きめわて多数の人たちが、苦しみ、また悩まされ、あるいは農地から追われ、長い歳月の経験から造り出した農産物や、魚などが売れなくなり、また家族の分断が起きるという悲劇的な事態をもたらすようになってしまったのである。
こうした歴史的な過程を振り返るとき、人間の学問や知的探求心だけでは、決して本当の幸い、魂の平安は訪れないのがよく分る。
聖書に示された、愛と真実が無限に含まれている神の言葉の世界こそ、私たちの魂の探求の根源となり、究極的な目標とならなければならないということを指し示しているのである。

 


リストボタン原発について
ー以前に書いた記事からー


原発がいかに危険であるか、今回の原発の歴史上二番目といえる大事故によって日本人、そして世界の多くの人々もあらためてその厳しい現実に思い知らされつつある。
私自身は、理学部化学科の出身であり、高校の物理や化学の教師として生徒たちにもしばしば原子力の危険性を語ってきた。そして、「いのちの水」誌(旧名の「はこ舟」時代をも含めて)にも、原発に関してその危険性を記してきた。
それらの記述は、今日のような切迫した状況のもとではなかったが、今日のこの状況にあって、日本全体、さらに世界の大きな関心事となっているので、参考にしていただいたらと、再度掲載することにした。
-------------------
原子力の危険性について(1999年10月 「はこ舟」誌)

今回の東海村の核燃料加工会社で生じた大事故(*)において、初めて原発関係施設からの放射線の危険が一般市民にも体験されることになった。
 原子力を利用しようとするとき、必ず生じるのが放射線である。そしてこれが特に問題となるのは、人間にはそれを知覚したり、守るための感覚が備えられていないということである。
 ほかの危険なものに対しては、人間(動物)にその危険を知覚し、それから身を守るようにできている。例えば、熱さについてはただちに熱さを知覚して、そこからからだを移動させたり、そうした熱いところに近づかないようにして身を守ることができる。
 また、刺のようなものに対してもそれが皮膚を刺す痛みによってその危険をただちに感じとって、わずかの痛みによって、その刺に刺される危険から身を守ろうとする。
 あるいは、寒さに対してもそれを感じて暖かくしようとするし、寒さの中に置かれると、ふるえるがそれは筋肉を収縮させて熱を発生させ、寒さから身を守ろうとするための現象である。
 また、毒虫の毒についても、刺されるとただちに痛みが生じてそれ以上刺されることから身を守ろうとする。有毒物質についても、苦さ、しびれ、痛みを感じて吐きだそうとするし、有毒ガスなら強い刺激臭などを感じて息を止めようとするなどして反射的に身を守ろうとすることが多い。
 このようにさまざまの感覚によって危険なものに出会ってもそれを感知し、それを取り入れることを避けるとか、そこから逃げることができるように人間(動物)は創造されている。
 しかし、放射線はこうしたものと全く違っていて、人間は防御する仕組みを持っていない。放射線を浴びても痛くもかゆくもない。これは、だれでも放射線の一種であるエックス線を病院で照射されてもなんら熱くも寒くもないし、痛みもないことでだれでも想像できる。
 もし、放射線を受けて吐き気がしたら、もはや相当の放射線を浴びてしまっているという状態である。だから、チェルノブイリ原発事故のときも、今回の東海村の事故の場合も駆けつけた消防隊員たちは、放射線事故だと知らされない限り痛くも熱くもないので大量の放射線を浴びて一部の者は取り返しのつかないことになったのである。
 人間の五感で、放射線を感じることができないということは、神が人間や動物を創造されたときに、放射線から身を守るような能力を与えていなかったということになる。それほど原子力を人間が用いるということは自然に反していることだと言えよう。
 しかも、ひとたび原子力を用いて発電をするということになると、そこから生じる廃棄物はプルトニウムのように、二万四千年も経ってもやっと、そこから発せられる放射線の量が半分になるにすぎないような物質もある。だから、放射線を出す量が初めの四分の一になるまでには、その倍であるから、五万年ちかくもかかることになる。これは、人間の生活の長さからいうと、ほとんど永久的といってよいほどに長い寿命をもっていることになる。
 今回のような事故が生じて、原子力を用いるということがいかに危険を伴うかを庶民も実感したにもかかわらず、政府は一向に従来の原子力政策を変えようとしていない。
 他方、ヨーロッパの状況はどうであろうか。
 スウェーデンでは、二十年ほども前にすでに「脱原発」の方針に転じている。一九八〇年に原発の国民投票で「二〇一〇年までに、全部の原発を段階的に停止する」と決議された。そのために、使用済み燃料の施設の建設や、最終処分のための研究などに八千億円もの巨額の費用を投じる予定になっているという。
 ドイツでは、昨年誕生したシュレーダー政権によって、原発を徐々に減らすという脱原発の方針が打ち出されている。そして、期限は明示しないが、原発を廃止するという方向に進むことになっている。
 また、昨年末までに三百万キロワット近い風力発電機が設置され、世界最大の風車大国となっているという。こうした姿勢は第二次世界大戦で敗戦となった日本とドイツが原子力に対する姿勢では大きく異なっているのがはっきりとしている。
 日本では、原子力発電に向かって、突き進むばかりであって、こうした風力や太陽エネルギーを本格的に用いる研究とかに力をわずかしか注ごうとしていない。風力発電の分野では、ドイツの百分の一にも達していないという。
 また、イタリアでは、チェルノブイリ事故の翌年に、国民投票で、八〇%が反対の意志表示をし、政府も原発推進を止め、計画中の二基も白紙に戻すことに議会でも承認されたのであった。フィンランドでも新規の五基の原発の計画は凍結となった。
 そしてスイスでも新規原発を十年間凍結することになった。そのほか、ベルギー、オランダ、ギリシャ、デンマークなどでもそろって、新規の原発建設計画は凍結された。
 フランスでも、「放射性廃棄物の健康と環境への害は数十万年、あるいは数百万年にわたって継続する」このような人間にとっては、永久的とも言える害をもたらす原発への依存度を少なくしていく方向へと向かっている。その一つの現れは、高速増殖炉の開発を中止することにし、世界最大の高速増殖炉である、「スーパーフェニックス」を廃止する作業が今年から始まっている。フランス政府は、これ以上原発を建設しないで、エネルギーを別の手段でまかなう計画を出したが、これは、それまでの原発は不可欠だとする大前提が初めて破られた例だという。
 高速増殖炉にしても、アメリカやロシア、ヨーロッパなど欧米の国々がみな中止、または廃止の方向に向かっていたのに、日本だけが、強力に推進という立場を崩さなかった。それが、「もんじゅ」のナトリウム漏れの大事故が生じてやっと、高速増殖炉に向かっていた方向を転換することになった。しかし、今度は、危険なプルトニウムをウランと混ぜて発電に用いる方法にかえて無理に使っていこうとしている。
 何度事故が生じても、今回もまた政府は原発推進の方向は変えないと断言している。こんなことでは、ある外国の研究者が、アメリカのスリーマイル島原発事故や、チェルノブイリ原発のような大事故が生じなかったら日本の政府は原発の危険性に目を開こうとしないと言っていたが、本当にそんなことになりかねない様相を呈している。
 なぜ、日本人はこのように、現在および、将来の人間に対して永久的ともいえるほどの危険を持つ原発に対して鈍感なのであろうか。ひとたび大事故が生じると、はかりしれない放射能汚染や、犠牲者をつくることへの重大な罪の重さ、あるいは何万年もの歳月にわたって危険な放射線を出し続ける廃棄物を子孫にのこすことの罪の深さを認識できないのである。…(後略)

*)1999年9月30日、JCOの核燃料加工施設内で核燃料加工の工程中に、ウラン溶液が臨界状態に達し核分裂連鎖反応が発生。この反応は約20時間持続した。これにより、至近距離で中性子線を浴びた作業員3名中、2名が死亡し、667名の被曝者を出した。
た。国際原子力事象評価尺度はレベル4で、周辺の多数の住民が緊急避難を強いられた。
この事故は、わずか 1ミリグラム(1000分の1グラム)のウランが燃えただけの反応であった。核分裂反応はふつうの物が燃えるという化学反応と比べると、100万倍ほども大きいのである。
なお、JCOとは、茨木県東海村にある住友金属鉱山の子会社の核燃料加工施設、株式会社ジェー・シー・オーのこと。

---------------------------
人間の力の過信(原子力発電のこと)2004年8月 「はこ舟」第523号

関西電力の原発、美浜三号機の配管破断事故で、死者四人、負傷者七人という日本の原発史上最大の事故が生じた。そうした事故はアメリカで、一九八六年にすでに生じており、美浜三号機と同様に、配管が破断して高温の蒸気が噴出し、四人が死亡、八人がやけどをしたことがあった。
しかし、その後関西電力は報告書で、「日本の原発では徹底した管理が行なわれており、そのような事故は生じないと考えられる。また、配管が磨耗して薄くなってしまっているかどうか膨大な箇所の検査をした」という内容の報告書を国に提出していたという。
かつて、阪神大震災のときにも、その一年程前にアメリカのロサンゼルスでの大地震で高速道路の橋桁が崩壊したとき、日本の技術者は、日本ではあのようなことは決して起きないと自信にみちた調子で語っていた。しかし、現実にはそれよりはるかに大規模に高速道路の橋脚が倒壊し、橋桁が落下して甚大な被害が発生したのであった。
今回の原発の事故に、アメリカのスリーマイル島原発の事故のように、さらに別の安全システム上の事故が重なったなら、重大事故である炉心溶融(*)ということにまでつながりかねない重要な事故であった。
このように、科学技術への過信は場合によっては取り返しのつかない事態を招くことになる。
多くの科学技術者や、それを用いる政治に関わる人間たちは、人間のすることはすべてきわめて不完全であるという基本的な認識ができていないことがしばしばある。今回の破断事故も、破断したところが点検リストに入っていなかったということであり、ほかにもそうした点検リストからもれている箇所が多数見つかっている。
厳密に正しく検査をしようとすれば、膨大な数の点検をしなければいけないのであって、それらを完全にするかどうかは、下請けの会社の誠実さにもかかわっている。いくら電力会社の首脳部や技術者が命令したところで、最終的に保守点検をするのは人間であり、その人を動かすのも人間であり、その人間は疲れも生じるし、勘違いもある。またときには嘘もつくし、安楽を求め、楽に収益を得ることを考える傾向がある。
それゆえ、どんな精密な科学技術であっても、個々の人間のなかに宿るそうした不真実な本性があるかぎり、今後もいかに検査などを徹底すると言ってみても、絶対安全などということはあり得ないのである。
このようなことはごく当たり前のことであり、だれでもわかっているはずのことであるが、いつのまにか、「絶対安全」だとかいう言葉が発せられるようになっていく。そして事故が起こってからいろいろの間違いや手抜き、嘘などが発覚する。
もしも、日本の原発でチェルノブイリのような重大事故が生じたら、日本では人が狭い国土に集中しているために、死者や病人がおびただしく発生し、国土は放射能で汚染され、大混乱に陥って農業などの産業、経済や交通などにも致命的な打撃が生じることが予想されている。
また、日本ではロシアのように別のところに大挙して移住するところもなく、住むところもなくなる人が多数生じるという異常事態になるであろう。
だが、日本ではそんなことは生じないなどと、何の根拠もないのに、断言するような電力会社や科学者、技術者、政治家もいる。しかし、過去の原発事故の歴史や、今回の事故を見てもそのような断言は虚言に等しいといえる。
そうした綱渡りのような危険な原発を止めることを真剣に取り上げ、そのためにはどうすればよいのかということを真剣に考えていくべき時なのである。
人間の弱さがこうした社会的な問題にもその根底にあり、その弱さや不真実、利益、金第一主義といった本性をいかに克服できるのか、それが根本問題である。
このような人間の奥深い性質に関わることは、どんなに科学技術が発達しても少しも変えることはできない。
社会的な汚れと混乱を声高(こわだか)に非難してもそれを言う人自身のなかにも同様な汚れ、罪がある。
現代の科学技術は、はるか数千年の昔に書かれた創世記にある、バベルの塔を思い起こさせる。

…彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。
彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。」(創世記十一・4より)

この素朴な言葉を表面的に読むだけでは、単なる神話か、昔の空想的物語にすぎないと思う人が多いだろう。しかし、創世記は随所に以後数千年にわたって真理であり続けるような内容が、それとなく秘められている。
ここでも、数千年前のメソポタミア地方で最も貴重な技術的産物が、大きな塔であった。それがバベルというところにあったために、バベルの塔というように言われるようになった。
当時の技術がすすんで、石の代わりに、自然にある土を用いて建築材料とするレンガを造り出し、アスファルトをも得て、高い塔を作り、天にまで届かせようと考えたという。
現代でこれにあたるのは、科学技術のさまざまの産物であり、それらは、人類を破滅に導くような核兵器や、クローン人間を造るとか、自然界にない動植物を造り出すことなど、危険なものも今日では数多く現れている。人間の精神まで、科学技術が進んだら左右できるのではないかなどということすら言われている。
しかし、そうした科学技術とその産物はいかにもろいものであるか、また人間がそうした科学技術の産物に頼り、それらは絶対安全だなどと言い出したとき、人間がみずからの醜さ、弱さや無力を忘れて、何となく神の座に座っているのと同様である。
私たちはつねにまず第一の出発点は私たち自身にあることを知り、私たちの内部のそうした不純、罪を赦され、清められ、そこから新しい力を受けるという原点に立ち返ることこそが、基本になければならないと思う。
キリストが来られたのは、まさにこの最も困難な問題の解決のためなのであった。
自分自身がまず、そのようにして内部の罪から解放され、神の国のために生きるようになっていくこと、それが私たちのなすべきことであり、また信仰によってなすことができることである。
この世の全体としての状況は、最終的には神ご自身が導かれるのであってそれを私たちは信じて生きることが求められている。
キリストが人間の罪の赦しため、罪の力から引き出すために地上に来られたという意味は、現代の世にあってますますその意義を深めているのである。

*)炉心の核燃料が融点を超えて溶融する原子炉の重大事故。一九七九年三月に米国スリーマイル島2号機で起きた事故では、原子炉炉心の約半分が溶融した。さらに一九八六年にソ連のチェルノブイリ原発で起こった原子炉の炉心溶融(メルトダウン)は、全ヨーロッパに放射能をまき散らした。

この事故以降、この原発周辺の広大な地域で、数万人が放射能に関係のある病気で死亡している。この事故によって生じた甲状腺ガン患者は二千人近いと言われている。またこの原発事故により広島原爆の六〇〇倍ともいわれる放射能が北半球全体にばらまかれ、広大な地域が汚染され、数多くの人が放射線を受けることになった。
被災三国(ベラルーシ、ウクライナ、ロシア)だけでも九〇〇万人以上が被災し、四〇万人が移住。六五〇万人以上が汚染地に住み続けている。
福井県の原発で炉心溶融のような大事故が生じると、京阪神の大都会をすぐ近くに控えていることから、 ロシアのチェルノブイリ事故をはるかに上回る死者と、一〇〇万人を越えるガン患者が生じるとも想定されており、その場合の被害の甚大さは、阪神大震災などとは比較にならない。
---------------------
二種類の残り物 ー原発の廃棄物の危険性 (「いのちの水」誌 2007年3月号 )

徳島県に隣接する美しい太平洋に面した高知県東洋町が、高レベル放射性廃棄物の最終処分場の調査に応募した。その説明でそのような施設は科学技術を駆使して造られるから安全だということが繰り返しいわれる。
しかし、阪神大地震のちょうど一年前(一九九四年一月一七日)にアメリカのカリフォルニアで大地震があり、高速道路の橋桁が落下した。そのときに、日本の土木技術がすぐれているから、あのようなことは日本では生じ得ないと、土木工学の専門家が確言していたものであった。
しかし、そのような専門家の予測は見事にはずれて、高速道路の橋桁の大規模な落下が生じた。
このように、専門家が言ったとしても、信頼できないことは多くある。計算上は生じないといっても、実際に工事にかかわるのは、人間であり、耐震工事の手抜きや、最近あちこちの原発で発覚した、重大な臨界事故隠し、データ捏造や記録の抹消などでわかるように、人間が弱い不正な存在であるゆえに、安全だなどという断定をすること自体できないことなのである。
日頃の生活でゴミは多量に出てくる。そのゴミはほとんど高温で燃やしてしまうことで処理できる。コンクリートの建物などは、埋め立てなどに使ったりもする。それらはそのうち風化して土に帰っていく。
しかし、まったく異なる困難を持っているゴミがある。それが原子力発電所から大量に生み出される高レベル放射性廃棄物である。それは、原発の使用済みの核燃料から、プルトニウムを取り出した後に残るさまざまの物質(*)である。

*)それらは、ストロンチウム九〇(半減期28.8年)セシウム一三七(30年)という比較的半減期が短いものもあるが、アメリシウム二四一(430年)、ヨウソ一二九(1570年)プルトニウム二四〇(6564 年)、プルトニウム二三九(24000年)セレン七九(65000年)、ジルコニウム九三(153万年)、セシウム一三五(230万年)等々。半減期が一〇万年以上のものが六種もある。

そうした放射性物質には、外部に出される放射線の量が半分になるまでに、数千年から数十万年といった我々の生活で考える時間をはるかに超えた年月がかかるのが多く含まれている。そのような物質を大量に生み出していくこと自体、はるか後の子孫まで重大な問題を残していくのであり、間違ったことである。
こうした放射性物質を三十年~五十年間、地上で発熱や放射線の半減期が短いものが減衰するのを待ってから、ガラス固化体とし、地下三百メートルに埋める。それは大規模な地下坑道を掘ってそこに埋めていくという巨大な事業となる。
このような施設が造られるなら、その長い期間に大地震が生じたりすると、次第にその坑道が壊れ、あるいは地下水がしみ込み、どのようなことが生じるか分からないのである。検査するといっても内部に人間が入れないのであり、地上から深い穴を掘って調べるしかない。そのような調査をしたところで、一部しか分からないし、その穴をあけることで、地上に放射性物質が漏れ出る通路を造ることになって新たな危険性も生れる。
また、そうした放射性物質を原発から船や陸路で運搬するときに、何らかの事故、テロなどが発生してそれらが外部に放出されるとすれば、重大な事態となるだろう。また、そのような長期にわたる巨大な工事がなされているときに、大地震が生じて、埋設工事中の施設が破壊されるなら、大量に放射性物質が放出されることになる。
このような危険な大工事を、一部の専門家は、安全だなどと主張しているのには、驚かされる。いったい誰が何万年も先のことを保証できるというのであろうか。そのような根拠のないこと、非科学的なことを一部の科学者が政府側の立場に立って言うのである。
エネルギーをたくさん使うのは、自然のなりゆきのように前提してから、こうした危険な原発の増設をしてきた。
しかし、今月号の別稿で述べたように、食物一つとっても、日本では、毎日三百万人分もの食品を捨てていることになるというし、年間千百万トンを越える膨大な量の食物が捨てられているという。それはそれらを製造、運搬するときに使われた多量のエネルギーをも無駄に消費していることになる。
このようなエネルギーの無駄は他にも数知れずある。原発のこうした永年にわたる危険性を考えるとき、このようなエネルギーの膨大な無駄遣いをなくする方に力を注ぐべきなのである。
そしてこのようなエネルギーの無駄は、生活の贅沢化に伴っている。その贅沢化の根源はやはり物質によって心の満足を得ようとするところにある。
こうした根源的な心の問題は、物質でなく、目には見えない霊的な賜物によって満たされることがなかったら、いくらエネルギーの節約などを強調されても実行が難しい。キリスト教の真理は、魂に深い満足を与えるのであり、それゆえにおのずから質素な生活に満足できるように仕向けていく。その意味で、こうした現実のエネルギー問題の根源にある人間の欲望と満足の問題の究極的な解決の鍵を握っているのである。
聖書(福音書)に六回(*)も繰り返し記されている記事、それは五〇〇〇人のパンの奇跡といわれるものである。わずか五つのパンと二匹の魚を主イエスが祝福すると、五〇〇〇人もの人たちが満たされたばかりか、その残りを集めたら十二のかごにいっぱいになった、というものである。

*)これらの記述には、五千人が四千人、五つのパンと二匹の魚が、七つのパン、など若干の違いがある。

これは、表面的に受けとるとおよそあり得ないことのように見える。しかし、実はここに深い真理が隠されている。だからこそ、繰り返しをいとわず、筆記用具や紙などがきわめて貴重であった時代であるにもかかわらず六回も書かれているのである。
神の真理は、ひとたび主イエスの祝福の手に触れると、それは無数の人たちを満たすことができるし、そのように満たした残りのものにも、その祝福の力は完全に残っているというのである。
それが「残ったものも十二のかごを満たした」という意味なのである。そしてたしかに、主イエスの時代の人々を満たした真理はいくら使っても使っても変質したり消滅したりせず、二〇〇〇年を経た現在でも、無数の人たちを満たし続けているのである。
それに比べると、人間が創り出した原子力発電所においては、使ったあとの「残り」が、何万年、何十万年も危険性を持ったものとなり、ひとたび大地震などや事故など予期できないことが起こると悲惨な事態が生じる。 ここにその違いが歴然としてくる。
この二種類の「残ったもの」の大きな違い、それこそは、神が私たちをどちらの方向に招いているかを象徴的に示しているものと言えよう。
------------------
リストボタン原発の危険性について (「いのちの水」2007年7~8月号 題558号)

七月には、予期できないことが政治や自然現象、科学技術の方面で生じた。しかし、その中で、とくに将来的にも重大な問題をはらんでいるのが原発と地震の関係である。
今回の新潟県中越沖地震において、新潟柏崎原発では、現在までに変圧器の火災や放射能漏れなど重要度の高いトラブルが六十件余り発生したが、その後、さらに、床の変形や蛍光灯の落下など比較的軽微なケースも含めると、トラブルの総数が一二六三件にものぼったという。
とくに注目すべきは、原子炉の真上にある重さ三一〇トンというクレーンの部品が破断していたことで、この原子炉はたまたま定期点検中で稼働していなかったから、大事故に至らなかったが、もし稼働中であったなら、そしてクレーンで核燃料の交換などのときに破断していたら、はるかに重大な事態が生じていたかも知れないのである。
また、事故への対応が遅れたのは、停電があったからだというが、このことについても、専門家は次のように言っている。
「今回、柏崎はチェルノブイリに匹敵する事故が起きてもおかしくない、危機一髪の状況にありました。火災がおきたこと自体も世界で初めてのケースで、世界中に打電されましたが、さらに危ないことが起きていたのです。原発内での停電はたいへん危険なのです。
停電のせいで、冷却水を動かすポンプに何らかの支障が発生した場合、冷却水は一気に高温になり、放射能はあふれ、大事故が起きることになります。」(京都大学原子炉実験所・小出裕章氏 、「週刊現代八月四日号」)
この小出氏は、毎日新聞でも、次のように今回の事故のうち、とくにクレーンの部品が破断していた事故について次のように述べている。
「使用中に地震が来ていたら、大事故につながった可能性がある。燃料が落下すれば、破損して放射能もれにつながるし、使用済み核燃料プールに重いものが落下すれば、燃料を収めたラックが破損して、臨界事故(*)になる可能性もある。」(毎日新聞七月二五日)

*)臨界事故とは、核分裂が制御できなくなって、放射線や熱が外部に放出され人体や機器の損傷がおきる事故をいうが、それが大規模となるとチェルノブイリ事故のような大惨事となり、広大な地域が汚染されて人間が住むこともできなくなり、とくに日本のような狭い国土であれば壊滅的な打撃を与えることになる。

また、この柏崎地域の原発は、一〇〇万キロワットを越える大型のものが七基も並んでいるという世界で最大級の原発地域であるのに、地震対策が最初から不十分であったことが指摘されている。東京電力はこの原発を建設する前の調査で、今回の地震を起こしたと考えられる断層の一部を見出していながら、耐震評価の対象からはずしていたという。
そして、実際にこの原発の地下二〇kmには、今回の地震を引き起こした活断層が走っていた。また、耐震強度をマグニチュード六・五としていたが、それは今回の地震の強度の六・八以下であった。
また、地震の揺れの強さを示す加速度についても、柏崎原発は八三四ガルを想定して設計されていたが、今回の地震は二〇五八ガルという驚くべき高い数値であり、想定をはるかに上回っていたという。(毎日新聞七月三一日)
このように、科学技術とか、それによる人間の予想などというものはしばしば自然の広大無辺の現象を予見することはできないのである。にもかかわらず、科学者、技術者は、こうした実際の事件や事故が生じないかぎり、絶対に大丈夫だとか、大事故はあり得ない、それは科学技術を知らないからだ、などといって本来自分たちが決して予見できないものをあたかも予見できるかのように説明してきた。
もし今回も、原子炉の運転中にもっと大きい地震に見舞われていたら、クレーンの破断事故は、どうであっただろうか。燃料が落下したりして、放射能を持った物質が大量に外部に拡散し、あるいは臨界事故となり前述の小出氏が述べているようなチェルノブイリ級の大事故につながっていたかも知れないのである。
そんなことはあり得ない、などとよく原発推進派の学者や政治家は言うが、今回の事実でもはっきりしたように、そうした学者や政治家たちの言うことはまるで信頼がおけないのである。
前述の小出氏たちが作成した京都大学原子炉実験所が作成した「日本の原発事故 災害予想」」という文書には、大事故となった場合には、今回のケースなら、柏崎市では人口の99%までが死亡し、近隣の市街地でも放射能の強い影響のために、半数が死亡する、さらに、関東、東海、近畿という日本の中心部全体にわたって数十万という人たちがガンで犠牲になり、放射能の影響は東北にまで及ぶといった予想がたてられているという。
たしかに、チェルノブイリ原発事故がいかに国を超え、世界的に広大な被害をもたらしたかを考えると、チェルノブイリとは比較にならない大人口が密集した日本であるから、これは決して誇張したものでないことがうかがえるのである。
チェルノブイリ事故では原発から三百kmも離れた地域にまで高度に汚染された地域が広がり、事故原発のすぐとなりにあるベラルーシ共和国では、高濃度に汚染された地域に住む人々は四百万人にも及んでいた。
柏崎原発から東京まで直線距離では二百数十キロほどしかない。原発の大事故という事態になれば、一つの市や町が被害を受ける、といったこととは比較にならない状況となって日本中が大混乱となるであろう。
そんなことは起きない、地震にも万全の対策をしてあるのだ、などとよく言われてきた。原子炉本体を入れてある建物は、大事故が絶対に生じないように最も強固に安全に設計してあるはずである。
しかし、その重要な建物のなかのクレーンに破断事故が生じていたということは、人間のすることがいかに現実に対応できないかを証明したものとなった。
しかも、今回の地震がもっと大規模であって、原子炉の破壊などが生じていたら、このような恐るべき予想が現実に生じたかも知れないのである。
環境問題で二酸化炭素の排出を抑えるために、原発が再び建設を増大させようとする機運がある。しかし、 今回は地震に対するもろさに限って書いたが、原発から大量に出てくる放射性廃棄物の処理という困難な問題や、原発の増大によって核兵器が作られる危険性が同時に増えていくという難しい問題などを考えると、原発には本質的危険性を深く内在させているのである。
そして人間の科学技術や政治の力などをはるかに超える自然の災害の前に謙虚になるなら、人間がどんなに科学技術で安全だと保証しようとも、そういう保証は到底信頼できるものではない。科学技術そのものが大いなる限界を持っているうえ、そうした機器類を扱うのは人間であって、その人間はどんな過ちを犯すか分からない弱いものであるからである。
アメリカのスリーマイル島の原発の大事故、チェルノブイリの原発事故なども、機器類の問題とともに、人間の操作ミス、判断のミスが深くかかわっていたのである。
原子力発電においては、一度大事故が生じたら、取り返しのつかないことになるのであり、いかに困難であっても原発を次第に減らしていく方向へと向かうのが、この問題に対するとるべき道なのである。

 


リストボタン坂口シマコ姉、召される。

4月2日、徳島聖書キリスト集会の最も古くからのメンバーであった坂口シマコさんが召されました。92歳でした。前夜式は、私が埼玉県に出向いていたので参加できず、ご家族、親族の少数者の方々と、集会員有志の参加でなされました。
葬儀は、翌3日にキリスト教式でなされました。(吉村孝雄司式)シマコ姉の愛唱の讃美歌「慈しみ深き」、「あまつ ま清水」、「主われを愛す」などを賛美し、姉のとくに愛された詩篇23篇をもとに語りました。
シマコさんは、戦前、若き日に大阪茨木市の西田五郎宅(その息子さんが元キリスト教愛真高校長の西田潔氏、いずれも故人)に、お手伝いとして一時働いたことがありました。そのとき、西田さん夫妻の導きによってキリスト教信仰を与えられ、さらにそこでなされた無教会の伝道者、服部治氏の講話にも教えられ、後々まで服部さんとの関わりも与えられることになったのです。
シマコさんが使っておられた聖書の表紙裏には、次の聖句が添付されてあります。

「あなた方は、立ち帰りて
落ち着いているならば救われ
穏やかにして信頼しているならば、力を得る」(イザヤ書3015

またその次の頁には、次の言葉が書いてあります。
「聖書を一つの指輪に例えるなれば、その先端に光り輝く宝石は、一つは、ローマ書34章であり(十字架の真理を示されている)、今一つはコリント前書の15章である。(復活と世の終末を示されている)
ー娘時代に、西田かつ様よりまなぶ。」

シマコさんの、次女多恵さんによると、この指輪のたとえは何度もきかされていたとのことです。私(吉村孝雄)も何度か聞いたのを覚えています。

また、その聖書の裏表紙には次のようなことが書いてあります。

…1978年7月号の「はこ舟」(「いのちの水」誌の旧名)に毎日聖書を5分間素読せよとのおすすめに従い、8月30日より素読を始める。まず、旧約聖書から1章ずつ学ぶことにした。

そして、それを1年4カ月ほどして旧約聖書を読み終えたときの感想も、裏表紙に次のように書き留めてあります。

…1978年8月30日より学びかけた旧約聖書を今日(1979年1222日)学びおえた。(一読するだけの学びであったが) また、種々なる事情で素読のできない日もありて、長くかかった。旧約聖書を学んでいかに主は義に在し、愛の恵みの御神であられたかを、また選民の民イスラエルの人々をいかに愛されたかを学ぶことができた。地上に生を許される間、何べんでも素読をつづけたく思ふ。
明日から(23日)新約聖書を素読するが、旧約にもまさるともおとらない御恵みがいただけるようおいのりを捧げる。(1222日夜)

坂口さんは、内村鑑三がよく使った「仰瞻」(ぎょうせん)という言葉を深く受け止めておられ、家族にも書いて渡したりしておられたとのことです。私もよくシマコさんから聞いていました。難しい漢字で現在では意味の分る人は少ないかもしれないのですが、この「瞻」(せん)という漢字自体に「仰ぎ見る」という意味があり、仰瞻という言葉は、仰ぎ見るという意味が強調されたニュアンスを持った言葉です。
長女の宇山典子さんは、母の一番の思い出としては、ただ何をするにも祈っているその姿が忘れられないと話されていました。
また次女の月岡多恵さんは、やはり母親が祈りの人であったことを話され、家族への伝道を心に深くとどめていたこと、クリスマスのときには家族、親族を集めての集まりを続け、最初にもらったクリスマスプレゼントは、「ナイチンゲール」という本であったこと、そのときは「何や、本か」と思ったりしたけどあとになってその本に託された意味がわかってきたこと、そのような福音の種まきを子供や孫たち、知り合いの人にもいろいろとやっていた。
「… でも、母もいっぱい人として足りないところもあって、私も、なんや、クリスチャンなのに…と反発をいっぱいしました。でも、弱い者だったからこそキリストを信じすがっていたのだと今は分かります。…」とも話されました。
キリスト教信仰というのは、立派だからでなく、弱くだめな者だと知ればこそ、キリストにすがり、その罪の赦しがとてもありがたく、何にも変えがたいと実感するところにあります。そして罪赦され、新たな力を与えられるということ、それに尽きると私も思っています。
坂口シマコさんの長男、義和さんは、すでにキリスト教信仰を与えられていたのですが、県外に就職したばかりなのに、勤務先の仕事中の事故で25歳の若さで召されました。
大きなショックを受けたにもかかわらず、坂口さんは、その死を生かすべく、家族や集会の有志を招いての記念会を毎年自宅でされるようになりました。その会に私も参加してその家族に伝えようとする熱心がとても印象的だったのです。
その後も、私は召された義和さんとは年齢もほぼ似ていたためもあり、お家を訪問した折りなどにシマコさんから「吉村さんを見ると義和を思いだす」とよく言われました。お家には、ずっと義和さんの写真が飾ってあり、召された長男を主にあって覚え続けていたのだと感じていました。
また、郷里の山村に住んでいたシマコさんの実妹も数十年前からキリスト者であり、天理教の家に嫁いだが、そのしゅうとめさんも後には天理教を止めてキリスト者となったと言われていました。
その後の長い生活における日々の祈り、そしてまた祈りを込めた記念会やクリスマス会によって次女の多恵さん、そして長女の宇山典子さんも信仰が与えられ今日に至っています。次男の望さんは、奥様を最近亡くされたばかりで深い悲しみのなかで今回の葬儀を迎えました。望さんにも信仰が与えられ、若くして召された御長男の信仰が受け継がれ、主イエスが約束された「ああ、幸いだ、悲しむ者は!その人たちは(神によって)慰められるからである」というみ言葉が成就しますようにと祈っています。

 


リストボタンことば

346)およそ、苦しみの問題を解く秘訣は、神とともにあって苦しみを受けねばならないということに尽きる。
すなわち、われわれのうちなる卑小なものをことごとく「焼き尽くす火」であられる神のそば近くあることに耐えうるために苦しみを受けるのである。
(ヒルティ・幸福論第三部152頁)

 


リストボタン休憩室

野性のネコ
朝ごとに、山の小さな谷ぞいを歩きます。それは心身のためによいからです。からだは運動によって血液循環はよくなり、また心は、周囲の自然によってまた祈りにより、そして聖書の言葉を思いつつ歩きますと、新たな意味が示されることがよくあります。
この「いのちの水」誌に書くべきことも、そうした朝の山を歩くときに与えられることがしばしばです。
その谷川で、野良猫を時折みかけます。そして時々新しい小鳥の羽が散乱していることがあり、そのネコが小鳥を襲って獲物にして飢えを満たしたのです。飼い猫はのんびりこたつのなかで眠っておれますが、野良猫は、厳しい雪の降るような寒さのなかでも、必死で獲物を得ようとして長時間草むらや谷の側にひそんで待ち続け、ちょうど目の前にきたものを全身を一つにして飛び掛かるわけです。
それはとても困難なわざです。いくらネコが必死になっても、羽もあり、小さくて、目のするどい小鳥たちに飛び掛かる前にたいてい逃げられてしまいます。しかし、その必死な姿は涙ぐましいものがあります。ペットとしてかわいがる人もなく、自然の厳しさのなかで野性のわざを磨いて生きているのです。
人間も、心身を集中して何事かに向かうときそれをとらえることができるのだと感じたことです。ダンテは政敵から追われ、命の危険のなかで神からの示された言葉を全力で神曲という詩に結晶させました。
聖書に記されている預言者や詩の作者たち、またパウロなど福音の伝道者たちは、神によってそうした集中力を与えられ、神の言葉を聞き取り、あるいは福音を伝えるはたらきへと導かれたのだとわかります。
私たちも、祈りに心を集中して求めるとき、新たな力や、困難から脱する道が示されたり、またすぐには与えられずとも、何年、あるいはもっと長い年月のあとにその祈りがかなえられることを知らされることがよくあります。

 


リストボタン報告とお知らせ

○浦和キリスト集会20周年記念礼拝に参加(埼玉県うらわ市)
関根義夫氏が責任者である集会に招かれて4月2日(土)と3日(日)、聖書講話と懇談の会がが与えられました。
今回は、朝はやく徳島を発って、礼拝前日の土曜日の午後に時間を取ることができたので、森山浩二さんが寮長をされている春風学寮(*)を訪ねることができました。ちょうど春休み中でその学寮の学生さんの参加は、交流会が終わるころに一人、その日に寮に入った学生が加わっただけでしたが、そこから10キロほどの距離にある、登戸学寮の学生4人と寮長の小舘美彦さんが来られ、さらに森山さんの親族の方の参加もあり、2時間あまりの交流会を与えられ、感謝でした。
登戸学寮生の4人のうちの2人は、今年2月末に三日間徳島集会訪問をされ、また他の二人も、去年の青年全国集会で共に参加していたので再会を感謝でした。
その夜は、うらわ市の埼玉教育会館にて、2時間ほどの交流会が与えられました。遠くから1時間半ほどもかけて、高齢の武祐一郎氏(キリスト教独立学園元校長)が参加して下さり、合わせて15人ほどの方々とともに主にある交流の機会が与えられて感謝でした。
武さんが、「関根さんもはやく仕事(医者、病院長)を終えて、キリスト教伝道にすべてを注ぐ生活になって欲しい」との願いを言われていましたが、私も福音伝道に一日のすべてを注ぐ人が無教会から次々と出てほしいと願っています。
翌4月3日(日)は、「神の愛-闇と混沌のなかで」という題で、詩篇2322篇などを引用しつつ話しをさせていただきました。東日本大震災に親族、友人が被災されている方もあり、また福島原発からの放射能の影響を弱いとはいえ、日々受けていることもあって、参加者の方々の真剣な姿勢が感じられました。
私も、このような日本の状況にあって、今回の大災害を切実な問題として受け止めておられる方々を前にして、いかに語るべきか、主からのみ言葉を日々待ち望みました。
主が参加された方々のうえに聖霊を注ぎ、み言葉の力を与えてくださいますように、そしてさまざまな被災を受けられた方々、今後も心身に重い負担となっていくであろう多くの方々の上にも主の愛の御手が臨みますようにとの祈ります。
浦和集会以外の集会の方、またふだんは勤務その他で日曜日の礼拝に参加していない方々の参加もあり、午後の交流会によっても、新たな交わりも与えられ、多くの恵みを受けた二日間でした。主催者の関根義夫氏ご夫妻、浦和キリスト集会の方々、祈りをもって準備してくださったことを思い、深く感謝です。
今後とも、主が責任者の関根義夫氏夫妻と集会の方々を守り、祝福して下さり、浦和キリスト集会がさらに福音のために用いられますようにと祈り願っています。

*)春風学寮について
春風学寮は 1929年、道正安治郎によって創立。内村鑑三にはじまる無教会のキリスト教精神を土台に、「神を畏れ、学を励み、…寮生相互に愛と信頼とを厚くする」ことを目的として設立された男子学生寮。創設者の道正氏は若き日におけるアメリカでの7年間に及ぶ遊学体験を積極的に生かすべく、満鉄を敢えて辞し、私財を全て投入し、満鉄社員の子弟養育のため、東京に理想的な居住環境を整えた。以来、戦中(道正氏は平和的発言により治安維持法違反嫌疑で投獄)、戦後の困難な時期を乗り越え、春風学寮は多くの若人達に純粋なキリスト教信仰の伝達と共に、青春の豊かな出会いと協同の学びの場を提供し続けて今日に至った。

○イースター特別集会
イースター(復活節、復活祭)は、別稿で述べたように、キリスト教で最も重要な記念の行事です。共に参加していかなるこの世の力にも打ち倒されない、復活の力を与えていただきたいと願っています。
・日時 4月24日(日)午前10時~14時。
・場所 徳島聖書キリスト集会場
・内容 こどもと共に、手話讃美、コーラス、聖書講話、有志の感話。食事と交流会など。
・申込 会費500円。(昼食代金)
・申込先 貝出久美子(電話 090-1176-9040E-mail kumistaurostoko@ybb.ne.jp

○移動夕拝
今月は、4月26日(火)夜7時30分から、中川 啓・春美夫妻宅です。

○詩篇講話のCD(MP3版)は、第1篇~第90篇までの4枚が出来上がったので、希望者にお届けできています。後半91篇~150篇は、試作版ができていますのでそのうちにお届けできると思います。これは10数年前からの主日礼拝や各地での家庭集会、あるいは県外での講話などを集めたもので、手直しする時間がなく、そうした集会で話したそのままの録音で、不十分なものですが、完全なかたちにしようとする時間が到底とれないので、そのままでも少しでも参考になればと、制作したものです。
このCDを聞くための機器として、パソコンがあればよいのですが、パソコンがなくても、聞ける機器としては、持ち運びできて便利なMP3対応のCDラジカセも私のところで扱っていますので、希望の方は申込ください。最近も何人かから申込がありました。操作は全く普通のCDラジカセと同じです。(送料共1万円)

○第38回キリスト教四国集会
・日時 5月14日(土)13時開会~15日(日)12時閉会。
・会場 高知共済会館 高知市本町5-3-20
・聖書講話の担当者 原忠徳、冨永尚、吉村孝雄
・申込先 原 忠徳 alma42pe_pa@yahoo.co.jp (高知市春野町南が丘8-1-2)
・申込締切 4月13日(締切後の参加については申込先に問い合わせて下さい)
・会費 全日参加は九千円。部分参加も可。

 


リストボタン編集だより

来信より
○…「今日のみ言葉」(*)で先月の詩編103のみ言葉は毎日何回も言っては覚えました。不思議な導きがあって覚えようと口ずさんでいるうちにいやなことも思わなくなって喜びが心からわき出てきてみ言葉によっていつも守られているのが感じられました。み言葉による神様からの力が与えられ恵まれました。それから賛美も覚えようとして少しずつ覚えて散歩や家事をするときもいつも覚えた賛美を歌っていました。
特に1時間ぐらいの散歩の時にみ言葉を言って賛美して祈ってを何回も繰り返しながら歩いていると空や山や景色が素晴らしく輝いて見えるのです。何よりも楽しみな時を持つことができました。
今日はまた不思議な夕日をみました。近くの池に丁度夕日が沈む前できらきらとなんともいえない輝きが池の水面に映って今まで見たことのないような何色もの光が水面に絶え間なくゆらゆらと輝いてあまりの美しさにしばらく眺めていました。
主の臨在が感じられて涙が出てきました。いつも何十年も通っている景色ですがこんなに美しい輝きは初めてでした。
悪しき者…私には自分の外部の事よりも、自分の中の悪しきものを、み言葉が除いてくださり、魂を主に向かわせてくださるように守ってくださるように思います。
雪をかぶった梅の花、何とも言えない清楚な美しさです。雪の重みも寒さもかぶりじっと耐えて与えられた場所で可憐に咲いている姿は何の文句も言わないで主にみこころのままにお従いしますと言っているようで信仰のあり方を教えられ感動しました。(四国の方)

*)「今日のみ言葉」とは、インターネットメールで、希望者の方々に、毎月一度、み言葉とその説明、それに私の撮影した主として植物の写真とともに送信しているもの。そのみ言葉を次に引用しておきます。
…わたしの魂よ、主をたたえよ。
主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
主はお前の罪をことごとく赦し
慈しみと憐れみの冠を授け
長らえる限り良いものに満ち足らせ
鷲のような若さを新たにしてくださる。…
天が地を超えて高いように
慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。(詩篇1031-11より)

○…高木仁三郎氏(*)の原発に関する本を読んでびっくりいたしました。今起こっている事故のことがほぼ正確にすべて予測されているではありませんか。これだけ正確な予測が出ていながら「想定外」とはいったい何事でしょうか。「想定外」とは意図的想定無視であることがはっきりわかります。
このような政府や電力会社のやり方に無関心であった私たちの罪も深く反省させられました。
石原知事の言い草ではないけれど、確かにこのような日本人全体への天罰という面は否定できません。…(関東の方)

*)原子核化学者。都立大学助教授を退職し、とくに原発の危険性を一貫して知らせてきた。別稿の記事を参照。(1938~2000年)。

○今月号は、原発の問題について今後も長期にわたって難しい問題となりつづけることなので、この問題について多くを費やしてかきました。
目に見えない原子力の力はこのように大きな災いをもたらしますが、同じく目に見えない神の力、聖なる霊の力は、永遠の清さと愛をたたえており、何と大きく異なることかと思います。
日本人が今後、この危険な原子力に依存することを止め、神の力を求め、そこに魂の根底を置くようにと願っています。