わたしは疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす。

(エレミヤ書3125



20115 603号 内容・もくじ

リストボタン永遠の復興

リストボタン沈黙の神

リストボタンわが力なる主の助け

リストボタン原発の限界

リストボタン原発を許容するに至らせたもの

リストボタンことば

リストボタンお知らせと報告

リストボタン編集だより

 


リストボタン永遠の復興

大震災より二カ月、ようやく被災を受けた各地で復興が進んでいる。しかし、福島原発の大事故のように、復興というところまでいかず、その事故が、さらなる重大な事態にならないようにその悪化を止めることに必死の状況が続いているところもある。
しかし、たとえそうした目に見えるところでの復興ができていなくとも、打撃を受けている人々の魂の内なる復興は可能である―聖書にはそうしたメッセージが数多く記されている。
十字架上で、一人の罪人が、その重大な犯罪によって処刑され絶命しようとするとき、かたわらにて同じく釘付けにされていたイエスへの信仰を表した。イエスこそは、殺されても復活して神のもとへ帰るお方だと信じたのである。その信仰のゆえに、主イエスは、「あなたは今日、パラダイスにいる」と約束された。
それは、彼の魂の永遠の復興ともいうべきことであった。
また、38年も重いからだの病気で苦しみ続けていて、立ち上がることもできなかった人が、主イエスによっていやされ、立ち上がることができた。(ヨハネ5の1-9)
その他これに類することはいろいろと見いだすことができる。こうした記述は、イエスこそは、いかなる苦難や打撃にもかかわらず、その魂を復興させるお方だということを指し示すものである。
私自身、立ち上がれないと思われるような状況から、目に見えない主の御手によって引き上げられたのであった。
現在の各地の被災を受け、また長く住み慣れた地を追いだされ、うちひしがれている人たちに、霊的な復興をなさしめる神の力が臨むようにと祈るばかりである。
そしてその力によって、目前のさまざまの困難を乗り越えていって欲しいと思う。


 


リストボタン罪のない人はいるかー災害の意味

突然の災害、事故、あるいは犯罪に巻き込まれた方々、罪もない人がなぜそのような目に遭ったのか、と言われることがよくある。
この場合、罪のない、というのは法律的な罪がないということで、人の物を盗ったり、傷つけたりしていない人ということを意味している。
だが、聖書においては、そうした目に見える法律的な罪ももちろん指摘しているが、さらに深く掘り下げて、そのような行動を起こさせる心をも問題にしている。
実際に何らかの法律的な罪を犯さなくとも、心でそのような考えを抱いたらそれが罪である。
人を殺していなくとも、ある人を憎んだらそれだけで、人を霊的には殺したと同然である、というほどに厳しい見方をしている。

…あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人を殺す者であり、そのような人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。(Ⅰヨハネ 315

私たちすべての人が、そのような意味での罪を持っているということは、身近なたった一人に対する自分の心の動きをみるだけでわかる。
家族や職場、あるいは何らかの集まりで出会う人、または行きずりの人…そのような人に対して私たちはどれほどの愛を持っているか、という一つのことで自分がいかに愛を持っていないかーすなわちいかに罪を持っているかがわかってくる。
どのような状況にあっても、だれでも誰かに出会っている。その一人に対して、その人の運命がよくなるようにと、言い換えるとその人に本当の幸いが与えられるように、と祈り願っているだろうか、ということである。
主イエスの言葉で言えば、その人の心に神の国がきますように、あるいは、その人の日々の生活の内にも神の国がきますように、との祈りを持っているかどうかである。
そして、その祈りにおいても、そのような一人に対して、例えば一瞬思いだして祈る、しかしあとは全く忘れている、ということと、一日の内で絶えず思い起こして祈る、ということとは大きな差がある。その人のために祈るというときでも、その人の毎日が祝福されて導かれるように、その家族も主に導かれ、一人一人が悪に誘惑されないように、仕事についている人ならその職業上でのことが主に用いられるように、幼な子があればその幼い魂が主に結びつくように、病気の人なら、いやされるように、またその病気を通してより神の愛に触れ、信仰と希望と愛が深められるように…等々、たった一人に対してもその祈りはどこまでも続いていく。
さらに、その祈りの対象を職場での同僚、キリスト教集会(教会)の人々、県外での関わりある人たち…等々に広げていくときには、限りなく祈りは広がっていく。
そして、自分に何らかのよきことをしてくれた人たちだけでなく、無関係な人、さらには敵対するような人、中傷する人にまで広げていくなら、祈りは際限がない。
このように祈りの対象やその純粋さ、あるいは真剣さをつきつめていけば、こうした愛に基づく祈りが、十分にできている、などと言える人は一人もいないということになる。
それどころか、身近な人への祈りを怠り、周囲の人への当然の感謝もなく、愛のないことにすら気付かず、ちょっとした他人の言葉や、自分を認めてくれない、などと不満とか妬み、反感などを持ちやすいのである。そうでなくとも、周囲の人間に対して無関心であることがあまりにも多いといえるだろう。
私たちの持っている愛など、神の無限の愛に比べるなら、大海の一滴のようなものでしかないと言えるだろう。
ということは、それほどに私たちは愛のない、さらには愛に反している存在だと言える。
愛こそは、神の本質であり、その本質に反することはみな罪ということになるから、私たちの存在は本質的にどこまでも弱く、罪深いものだということになる。
聖書に、次のように記されていることは、このように人間の本性を掘り下げて見ないかぎり、あまりにも誇張した表現だと思われるだろう。
「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。
すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行なう者はいない、ひとりもいない。」(ローマ3の1012
このような、人間の現実をどのような書物よりも厳しく、しかも深く見つめることから出発しているのが聖書である。
愛は最も大切、ということは多くの人に、特定の信仰を持っているかどうかにかかわらず、一致した気持ちであろう。たしかに最も大切であるが、その愛というのは、ほとんどの場合、今までにみてきたような罪深い人間の持つ愛であって、その愛は、自分中心であり、愛のお返しがなかったらたちまち消えたり、憎しみや怒りになってしまうようなはかないものであり、実体がないようなものである。
罪のない人はいない、そこからあらゆる問題が生じている。それは私たちが気付かない、人間の心の深層で犯された罪も含んでいる。
今回の原発の問題も、まさにその人間の深いところに宿っている罪が根源にある。権力や金、名誉、快楽、目先の利益を求めるという人間の罪がその根底にあって、今日のような状況が生み出されてきた。
そして、私たちにふりかかるさまざまの災害は、天災であれ、人災であれ、人間全体に深く宿る罪を知らせるため、そこから立ち返らせるための神からの語りかけを含んでいると受け止めることができるが、それだけでなく、およそ私たちが受ける病気や苦しみ、悩みなどあらゆる問題は、じつはこの一点、神に立ち返るようにという神のご意志が背後にある。
「地の果てのあらゆる人々よ、私を仰ぎ望め、そうすれば救われる。」(イザヤ書4522
今から二五〇〇年ほども昔、一人の預言者が神の言葉として聞き取ったこの短いひと言は、あらゆる時代のすべての人々へと語りかけられたメッセージなのである。

 


リストボタン沈黙の神

人は、困難な出来事に出会ったときに祈るような気持ちになる。その人が特定の宗教を持っているかどうかを問わず、生きるか死ぬかといった危機的状況にある人が、助かるかもしれないとか、決定的なことが起きようとするとき、人の力ではどうすることもできないから祈るような気持ちになる、ということはだれにでも生じるだろう。
神を信じる者にとっては、苦しい状況に置かれるほどに祈る。祈らざるを得ない。
しかし、そのとき神はすぐに答えてくださらないことも多い。激しい痛みのある病気や不治の病、また、家族の対立といった最も自分に身近なところにある苦しみに直面して、いくら祈っても何も神の声も励ましもまた安らぎも与えられないということもある。
こうした神の沈黙は、聖書にも多く記されている。

…神よ、沈黙しないでください。
黙していないでください。
静まっていないでください。

御覧ください、敵が騒ぎ立っています。あなたを憎む者は頭を上げています。
あなたの民に対して巧みな謀をめぐらし、あなたの秘蔵の民に対して共謀しています。
彼らは言います、「あの民を国々の間から断とう。イスラエルの名が再び思い起こされることのないように」と。
彼らは心をひとつにして謀り、あなたに逆らって、同盟を結んでいます。(詩篇83の2~6)

この詩は、最初から神に対して真剣な姿勢で、神からの応答を待ち望んでいる。
周囲には敵対する人たちがいて、自分たちを滅ぼそうとしている、という緊迫した状況にある。そのような危機的状況にあって、神に祈るけれども、神は何も答えて下さらない。
このようにこの詩は、神の沈黙が大きな問題となっている。
詩篇には、このような祈りにも答えて下さらない神のことがしばしば現れる。

…主よ、あなたを呼び求めます。
わたしの岩よ
わたしに対して沈黙しないでください。
あなたが黙しておられるならわたしは墓に下る者とされてしまいます。(詩編 281

ここにも、神が答えて下さらなかったら、滅んでしまう。神からの応答こそ命であり、救いである、という切実な叫びがある。
神を信じない人たちは、神からの応答がないために信じようとはしない。自分に対してだけでなく、この世のさまざまの出来事に対して神は沈黙している。何の反応もない。だから神はいないのだ、と言う人は実に多い。
答えてくれる神なら、だれでも今回のような災害を起こしてもらいたくないという気持ちがあるのだから、その願いに答えて災害は起こさないはずだと考えるのである。
神を信じるようになっても、神の沈黙は、大きな試練となるし、信仰から離れるのもこの神の沈黙のゆえである場合も多い。 イスラエルの人たちが、エジプトにおいて奴隷のように扱われたが、彼らは増え広がり、それを恐れたエジプト王によって、生まれた男子はナイル川に投げ込まれていくという民族の絶滅に瀕する状況となった。そのような時に至る四百年もの間、神はまったく応答はしてくださらなかった。
このことは、すでに創世記において示されている。

…時に主はアブラムに言われた、「あなたはよく心にとめておきなさい。
あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、苦しめることになる。」 (創世記 1513

このように、すでに、アブラハムに対して外国で奴隷として四百年という長期にわたって苦しむ、神からの応答がないという状態が続くと預言されている。
それほど神の応答がないということは、神の御計画の内に早くからあったのがわかる。
ようやく神からの答えがあったのは、長い年月にわたる奴隷の苦しみの果てであった。

…それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。
その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。
労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。 (出エジプト記 223

これを見ても、神の沈黙が破られるのには時として耐えがたいような長い年月を要することがある。しかし、その間、神は見放していたのではなかった。人間の側にわからなかっただけである。それは神の定めた時があるということである。
このような長い神の沈黙をテーマとした聖書の文書がある。それがヨブ記である。
豊かで平和な生活のなか、突然、財産や子供たちの命が奪われるという予想もしなかった悲劇が襲った。そしてヨブはそれにもかかわらず、神をあくまで信じ続けた。裸で生まれたのだから、裸で帰ろう、という潔い言葉を残している。
しかし、自分の体がひどい病気でさいなまれるようになり、それは夜も眠れないほどの事態となったと思われるが、そうなると食事も入らなくなってくるし、精神的にも不安定となり、肉体の苦痛とあいまってさらに耐えがたくなる。
ヨブもついに耐えられなくなって、自分の生まれた日をのろうほどになった。
その苦しい長い日々、その間まったく神からの応答がなかった。見舞いに来た宗教的な知識ゆたかな友人たちは次々と言葉をかけてきた。しかし何の解決にもならないばかりか、かえってヨブは苦しむばかりであった。
人間からは応答があっても、自分の苦しみをまったく理解してはもらえない。それは応答のようで、真の応答ではないものであった。
相手が自分の考えを一方的に語っているだけなのである。
そのような長期にわたる苦しみを経て、神の時がきて神からの答えがあった。
それは直接に苦しみの意味を教えるものではなかった。ただ、いかにヨブが自分中心に見ているかを思い知らされた。
彼がわからないのは、その突然にふりかかってきた苦しみの意味だけではない。
周囲の至るところに生じている自然の物事を冷静にみるとき、至る所で人間にはまったくわからないことが満ちているのを知らされたのであった。
宇宙のこと、地上の動物や植物のこと、それらの一つ一つは無限の神秘に包まれているのである。
そのような大きなことでなくとも、人間は明日のことすら分からないほどに、万事の意味がわかっていない小さな者にすぎない。
自分が小さき存在であることを示され、そこからすべてを愛をもって支配されている神を知るようになることこそが、私たちの苦しみの深い意味であることを知らされる。
自分が正しいあり方から遠くはずれていること―言い換えると罪深き存在であること―このことを知ることもまた、自分が小さきことを知ることでもある。
沈黙する神、それはどのように信仰の深い場合でも生じる。
主イエスは、ゲツセマネの激しい祈りのとき、夜通し祈られた。うつ伏して祈るという他では例のないような祈りをされ、また血のような汗を流して必死で祈られた。それは沈黙を続ける神からの応答を求めての祈りであった。
「できることなら、この杯(十字架の死)を除いて下さい、けれども私の意志でなく、あなたのご意志をなして下さい」という切実な祈りは、明確な神からの言葉を待ち望む姿勢が現れている。
そのような全身全霊をあげての祈りによって、神はイエスに答えられ、イエスも十字架の道を歩むことを確信された。
しかし、それだけで終わらなかった。十字架の処刑となり、釘で打ちつけられての極限の苦しみに至って、イエスは「わが神、わが神、なぜ私を捨てたのか!」という叫びをあげられた。それは、神が自分を捨ててしまったと思われるほどに神とのつながりが断たれた、と感じられたからであっただろう。それは神の沈黙のゆえだった。
主イエスのように神とのつながりが完全であったお方であってもなお、肉体の激しい苦しみのときには、神とのつながりの実感は消えてしまうということが分る。わからなくなるのである。
しかし、そのような状況にあって人間の側での実感がなくとも、神は応えておられたのであった。それゆえに、死しても復活して神のもとに帰られたのである。
この世界は、一見どこにも神の生き生きとした応答などないように見える。大災害などは、とくにそうである。無惨にも流されていく多数の人たち、どこに神の語りかけがあるのか、それは通常の考えではわからない。
今回のような大きな災害でなくとも、突然の事故や苦しい病気、家族関係の破壊等々、神などいない、いるとしても人間の苦しみに何も答えないではないか、という疑問を持つ人が多いであろう。
これは今にはじまったことではない。はるか昔の人間の歩み以来、こうした謎のような状況は続いている。
そのような状況の中、神がその沈黙を破って、人間に生き生きとした語りかけをされるときがある。 その語りかけられた内容こそが、聖書なのである。
アブラハムに、突然語りかけられた神、そこからその神のことが連綿と受け継がれていった。それまでも、アダムやカイン、またノア、といった人たちへの語りかけがあった。しかしそれは断片的であって、その語りかけが伝えられていったということも明確には記されていない。
アブラハムへの語りかけこそは、その後、現在に至るまで数千年を経て受け継がれてきたのである。
そして至るところで神は沈黙し、何もしない、いるのかいないのか分からない、愛の神など存在などしていない、という洪水のような人間の考えのただ中において、神の語りかけを聞き取る人たちが起こされてきた。
この神の語りかけを知る以前には、どの民族もみなそれぞれ文字通りの沈黙の神々を人間が作ってきた。ちょうど、王や支配者は彼らの支配欲、権力欲や周囲の人間の意志によって作られてきたように、偶像もさまざまの人間の目に見えない力への恐怖と願望が作ってきた。
しかし、そうした神々は何のたすけもしないということは明らかなことである。人間が作った石像や架空の存在、あるいはすでに死んでいる人間を拝むということは、そうしたものを作った人間の意図を拝むことであり、人間を越えるものではあり得ないからである。
人間を越えるものの助けを求めつつ、人間に頼るということになってしまうのである。
沈黙のように見える中にあって、神はとくにイスラエル民族を通して絶えず語りかけてきた。モーセもその中の一人であった。彼も400年にわたる長い民族の苦難の後でようやく神は具体的に特定の人間を選んで語りかけた。
そのモーセにおいても、エジプトの王の命令によってイスラエルの男子はみなナイル川に投げ込まれていく運命となったが、そのときにナイル川に籠に入れて流された子供がふとしたことから、エジプトの王女によって発見され、王子として育てられた。そして成人となってモーセは自分の生い立ちのことを知り、苦しんでいたイスラエル人を救おうとしたが、たちまち追われ、死ぬほどの苦しみに逢いつつ、九死に一生を得て遠く離れた国に逃れ、そこで結婚し、静かな羊飼いとしての生活をしていた。
その間、神は全くモーセに語りかけなかった。沈黙のままであった。特別に選ばれた人間ではあったが、神は死に瀕するような苦難を通らせたのであった。
そうした平和なときのなか、突然、神は長い沈黙を破ってモーセに語りかけられた。人一人いない荒れ野で呼びかけられたのである。
その語りかけこそは、その後のイスラエル民族全体にとって決定的な転機となり、解放の力となり、実際に荒野、砂漠地帯を通って40年という長い歳月をも過ごしつつ、目的の地に導く原動力となった。
はじめにあげた二つ目の詩のように、「神が沈黙しているなら、墓に下る者となる(滅びてしまう)」、言い換えると、あらゆる困難のなかにあっても、滅びずに生きていけるのは、神の語りかけがあるからだということになる。
聖書の全内容は、滅びようとする人間に絶えず神がその愛をもって語りかける、それによって人間が立ち返り、それゆえに滅びずに生きていく、さらにキリストの時代以降では、神が永遠の命を与える、ということを中心として書かれている。
大多数の人間は、こうした語りかける神を実感できないのに対して、一部の人は数千年も昔から、すでに旧約聖書の時代からこの天地に響くものを聞き取っていた。

天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても
その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。(詩篇1925

ここには、この広大な宇宙に響く声、神の言葉を聞き取った人の実感がある。大空の太陽、星、雲、青空等々が神のわざを示すとともに、そこからある種の響き、声を発しているというのである。それは世界の果てに向かう。何のためか、神の栄光とその力を知らせるための語りかけなのである。
ここには自然のさまざまのものが、神からのメッセージを受けて語りかけることが示されている。これは霊的な響き、言葉なのである。
この声やメッセージが身近な自然の草木や谷川の流れなどにもたたえられているゆえに、私たちはそのようなものに接すると、心が平和になり、清められる実感を持つのである。
こうした、言葉にならないことばというべきものとちがって、人間がはっきりと理解できる言葉で語りかけがなされるということ、それは聖書の全体にわたって書かれているのである。
旧約聖書の後半部にみられる預言書、その言葉は、沈黙していた神が特別に人を呼び出して語りかけ、それを人々に告げさせたということである。さらに、そのような預言者の言葉を軽んじ、滅びへと向かっていく人間に対し、長い沈黙を破って神ご自身の本質を備えたお方をこの世界に送られた。それがキリストであった。
キリストによって私たちはだれでもがこの神の沈黙というなかにあって、語りかける神をだれもが知らされるようになった。それは、まず、12人の弟子たちになされた。
12人の弟子たち、それは漁師が半数近くも含まれていた。また当時の人々から忌み嫌われていた徴税人もいた。あるいはローマ帝国に武力で抵抗するようなグループに属する人さえいた。
そうした人たちは、自分の日常の仕事や、反体制の意志をもって活動していたから、神の語りかけなど考えたこともなかっただろう。あったのは習慣的な仕事や自分の意志に従って行おうとする決意、といったことだったろう。
そのようなただなかに神の語りかけがなされ、そこから彼らはこの世界に、生きてはたらいておられる神を実感するようになった。
そのような本人の意志や願いとは全くかかわりなく語りかけられる場合もある。使徒パウロも同様であった。あるいは、友人、家族、書物などからその語りかけを受ける場合もある。自然のさまざまの姿から神の言葉を聞き取る場合もある。
沈黙の神ではあるが、そのような実に多様な状況において、無限の変化をもった方法で神は語りかけておられる。
そのような神からの語りかけを聞き取るために、個人的な祈りがある。それとともにたった二人でも主の名を覚えつつ集まるならば、そこに主イエスがいるのだと約束された。これは修行とか学問、あるいは経験、瞑想の深さ等々といった通常予想される宗教的な条件とはまったく異なる。
ただ、素朴に主イエスを信じ、その愛を信じて集まるだけでそこに主がいてくださるのなら、どんな無学な人、経験のない人、また過去に犯罪や大きな間違いを犯した人、人から見捨てられたような人であっても何ら変わりなく、主がそこに来てくださることになる。
このような信じる小さき者を重んじて下さるということ、ここに神の愛がある。
主イエス(神)が二人、三人のうちにいてくださるということは、言い換えると、そこにおられる主が語りかけてくださるということである。そこにいても何もはたらきをしないなら、そこにおられる意味がない。愛とは常に意味を持っている。語りかけるため、そして力を与えるためにそこに来てくださるのである。
そうした共同体として語りかける神があるとともに、神とキリストの別の現れである聖霊が注がれ、その聖霊によって語りかけられ、みちびかれることが新約聖書ではきわめて重要な祝福として記されている。

…(神の)霊も弱い私たちを助けてくださる。
私たちはどう祈るべきか知らないが、霊ご自身が言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる。
霊は、神の御心にしたがって、聖徒たちのために執り成してくださる。(ローマ8の2627より)

聖なる霊が執り成してくださる、あまり私たちはこのような表現を使わないが、これは、聖なる霊が私たちの魂の深いところに共にいて下さって、私たちの苦しみや悲しみをうめきをもってというほどに深く知って霊的に語りかけてくださるということである。
そしてその執り成し、語りかけの最終的な目的は、単なる一時的な励ましではない。それは、「御子と一緒にすべてのものを私たちにくださる」ためであり、「死も支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、いかなるものにも支配されずに、私たちが神の愛のうちにとどまり続けるため」なのであり、そのために、道からはずれないように、警告し、励まし、罪をも赦してくださるためなのである。(ローマ8の3438より)

こうしたさまざまの神の語りかけ全体について次の聖書の言葉を心に留めておきたい。

「あなた方は、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。」(ヘブル書1225

 


リストボタンわが力なる主の助け―詩篇18篇前半

主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。(2節)
主はわたしの岩、砦、逃れ場(3節)
わたしの神、大岩、避けどころ
わたしの盾、救いの角、砦の塔。
ほむべき方、主をわたしは呼び求め
敵から救われる。

この詩は、全体としてスケールの大きい詩である。天地の現象が作者の世界にあって、その天地のさまざまのものが動員されて苦しむ者に助けを与えるという内容がある。
黙ってなにも人間との関わりなど関係なく自然現象が生じているというのがほとんどの人間の実感であろうが、そうした通常の感覚とは大きくことなる、躍動する自然を実感していた一人の魂がここにある。
日本人の多くは、自然に対しては、身近なささやかな美や動き、音に目を注ぐということがある。それゆえに、無限の宇宙に輝く星などはまったくといってよいほど万葉集、古今集といった伝統的な古来の日本の詩歌では取り上げられていない。
そうした限定された自然観とは大幅に異なる見方を持っているのがこの詩の作者である。
この詩の冒頭には、力ある神、というのが強調されている。人間の問題、それはすべて力不足ということにある。自然の災害、敵対する人間からの攻撃、憎しみ、悪意などによる打撃、裏切りといったことへの精神的な苦しみ、愛されない孤独、職業や家族の問題、病気や死の苦しみ…それらはみな、私たちが弱く、それらの迫りくる力に耐えられないということが問題なのである。
もし耐えられるなら、それだけの力があれば、死にもうち勝ち、あらゆる悪意や攻撃、孤独、あるいは愛するものの喪失などにも耐えて、平安と喜びを持って生きていけるだろう。
他人からの侮辱や差別などに耐えられないのは、相手のせいというより、自分がそれに耐える力を持っていないというのが根本原因なのである。
そのため、この詩ではまず力の根源を見いだした喜びが冒頭に歌われている。
主は、限りない力である。そのことをわが岩、大岩、砦の塔などとさまざまに表している。現代のキリスト者は、神のことをまず、わが岩、大岩!と言って呼びかける人はいるだろうか。
それほどこの作者の実感は私たちには何か遠いものと感じられるだろう。言い換えるとこの詩の作者が生きていた地域は砂漠や草木もほとんど生えない乾燥地が至るところで広がっていたから、所々にある岩はよく目立ったのである。
そして作者はそれらの岩、巨岩を単に無意識にみるのでなく、それが神の不動性、強固な存在を象徴するものだと実感していたのである。
岩を見ても神の動かざる助け手としての存在を思ったのである。
 神に対してキリスト者が祈る場合、「主よ、わが力よ!」というようには祈らないのではないか。その点詩篇の祈りというのは、変化に富んでいる。わたしの力という言い方は、個人的に力を与えてくださるということで、抽象的に万能であって、我々と関係のないところで何かとてつもない力を持っていると漠然とみるのでない。
歩む力、立ち上がる力、苦しいときにもそれに打ち負かされない、そういうわたしの力そのもので、あなたがいないと力が出ないという気持ちがこもっている。だからこそわたしはあなたを慕うとある。実際足が弱ると杖がどうしても必要になる。わたしたちも人生の日々の歩みの中で、神という杖の力がないと歩けないということもばしばある。だから弱ったときに、その力をいっそう感じられるからこそわたしはいっそうあなたを慕うと言っている。本当に苦しいとき、歩けないときに力になってくれるからこそ慕うというわけである。このような経験がなければ、慕うということは起こらない。
3節に「主は岩、砦の塔、大岩」とあるが、これらはみな不動の力を持っているとみなされている。救いの角という表現も、牛の角というのは力の象徴として用いられている。しかし、救いの角という言い方は、私たち日本人においては全く使われない。それは風土にもよる。
わたしがかつてイスラエル地方に行ったときに、アイベックスという大きな力強い角を持ったヤギを実際に見た。こういうことから、牛の角などを力のシンボルとして神のことを救いの角と表現している。
砦の塔というのは、これは見張ってくれるということである。敵からの攻撃を見張って、撃退するのが砦の塔で、これも一種の力である。盾になるというのも、敵の矢の攻撃を跳ね返すというのも一種の力である。
2
節で「わが力よ」と言ったのを、より詳しく書いているのが3節である。神に対して、わたしたちはいろいろな感じ方がある。神は愛であるという言い方は、新約聖書でされている。神は清い、英知である、霊である、まっすぐであるなどといろいろな表現がある中で、特にここでは神の持つご性質のうち、力ということを特に強く感じたということである。
そのような力ある神にすがるとき、私たちは敵対する力、私たちを滅ぼすような力から救いだされる。

死の縄がからみつき
奈落の激流が私をおののかせ (5節)
陰府の縄がめぐり (6
死の網が仕掛けられている。
苦難の中から主を呼び求め
わたしの神に向かって叫ぶと
その声は神殿に響き
叫びは御前に至り、御耳に届く。

主の怒りは燃え上がり、地は揺れ動く。山々の基は震え、揺らぐ。 (8節)
御怒りに煙は噴き上がり
御口の火は焼き尽くし、炎となって燃えさかる。
主は天を傾けて降り
密雲を足もとに従え
ケルブを駆って飛び
風の翼に乗って行かれる。
周りに闇を置いて隠れがとし
暗い雨雲、立ちこめる霧を幕屋とされる。
御前にひらめく光に雲は従い
雹と火の雨が続く。
主は天から雷鳴をとどろかせ
いと高き神は御声をあげられ
雹と火の雨が続く。
主の矢は飛び交い稲妻は散乱する。
主よ、あなたの叱咤に海の底は姿を現し
あなたの怒りの息に世界はその基を示す。

この作者が実際の経験であった苦しみの中で、どのような力を発揮してくださったのかということが5節からある。この詩はダビデが書いたものとされているが、ダビデは現実にサウルに殺されそうになったことが何度もあった。死の縄、陰府の縄は同じようなことで、5,6節で言おうとしていることは、死がもうそこまでやってきていた。死の縄がからみついたということは、どんなにしても死がそこまできて逃れられないと思ったということである。
自分の力ではからみついてどうすることもできないけれど、この人にできることは主に向かって叫ぶことであった。苦難の中から主を求めて叫ぶということは、これはどんな場合においても残されていることである。
わたしたちも非常に苦しくてどうすることもできないときにでも、神助けてくださいと、それだけしか言えなくても、それだけは最後まで言える。神への一点に凝縮したような必死の叫びによって、その声が神に聞こえ、8節からあるようにいかに神が立ち上がってくださるかということをさまざまな表現で言っている。この詩の作者に浮かんできた世界の大きさに驚かされる。
 現代の私たちであれば、「神はその万能の力でもって立ち上がってくださった、救いのために立ち上がってくださった」というようなごく普通の表現で言えないものを、こんなにイメージ豊かに書いている。
詩人の霊的世界の中でまざまざとこのようなことが実際に起こったのであろう。悪の力がそこまで迫ってきていることに対して、神は怒られて大地を揺れ動かすほどの力をもって、この詩人の叫びに答えてくださった。山々が震えたり揺らいだり、煙が吹き上がったりというすさまじい力を神は持っている。 このような神の力を5節から16節まで言っている。

…神はケルブを駆って飛び
風の翼に乗って行かれる。

ケルブの複数形はケルビムというが、これは翼を持った鳥のような、また天使のような存在であり、これは罪のあがないをする、一番神聖とされる神の箱の上部のところに向かい合わせて置かれていた。
聖書ではいかなる像も作ってはならないとあるが、唯一例外だったのがケルビムである。「神は、ケルブを駆って飛ぶ」というのは、どんなところにおいても神は翼を持ったケルブに乗っていくように、翼を持っているかのように、自由自在に行くことができる存在だということである。
人間には絶対なしえない自然の驚くべき現象を、すべて神がなさっているという、根源的な力そのもののような神が、この詩の作者の、叫びに似た祈りに答えてくださる。
神の力の前には、どんなものでもみんなあらわにされるし、どんなところでもことができる。
この詩で、大地が揺れ動くこと、風、雨雲、霧、光、雲、ひょう、火、天から雷鳴を響かせる、光は矢のように飛び交い、稲妻…などじつにさまざまのものが用いられている。ここには、地震や雷鳴、火山、大風などの天地に見られる現象すべてが神の力の現れとして、しかも助けを求める者の祈りに答えての神の力が発揮される、というイメージがある。
死の縄によって縛られ、激しい流れに呑み込まれ、もう滅びてしまうというとき、この作者は必死で神に叫ぶ。
そのときに、神はその切実な祈り、叫びに答えて下さったのである。
ふつうは神の助けは、心の内なる力として感じられるが、この作者には、私たちの心の外にある風や雲、雷鳴や稲妻といったものが、みなその力を表すものとして実感されたのである。
ひとたび神が近づくときには、このように、ふだんは単なる自然現象としか思えなかったものが、にわかにいのちをもって現れ、神の使者として自分を助けるために力強く活発にはたらき始めるという体験がこの詩の背後にある。
それまで眠っていたものが、突然に起き上がって自分を助ける力として動き出すという実感なのである。
自然の力は、あるときには野草の花のように、やさしく麗しさと繊細さをたたえて私たちに現れる。それはまさに神の愛や真実さ、そして美を目に見えるかたちで私たちに告げようとする姿にほかならない。どんな困難にあっても、このように土からでも初々しい新芽を出し、成長し、そして花を咲かせるのだ、という神からのメッセージがある。私たちが神に立ち返るほど、それらは私たちの魂にそのメッセージをもって働き始める。
また、自然の現象は、ときに私たちを迫害するかのように働く。しかし、それらもひとたび私たちがしっかりと神に立ち返るとき、神の真実や愛に信じて固くすがるとき、そうした荒々しい自然によって打ち倒されたと思われる状況に置かれてもなお、そこに人間の思いを超えた神の真実な力や愛が現れるであろう。
大変な災害もまた、それらをもってしても、人間の側で、固く神の愛を信じて待ち望むときには、その神の愛からは決して引き離すことはできないということは、次のような聖句からもうかがわれる。

…主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ、
大水の中から引き上げてくださる。
敵は力がありわたしを憎む者は勝ち誇っているが、
なお、主はわたしを救い出される。
彼らが攻め寄せる災いの日、
主はわたしの支えとなり
わたしを広い所に導き出し、
助けとなり喜び迎えてくださる。 (1720節)

 先に述べたように、この詩の作者は、神が、天地にみなぎる絶大な力を持っているお方であることをはっきりと示された。
このような力を持った神であるからこそ、高い天から御手をもってとらえて引き上げてくださる。
当然敵も力を持って襲ってくる。しかし神はそれらすべてに勝利する力を持っている。だからこそ神は救ってくださる。敵が人間的な力を持って攻め寄せてきても、主が支えとなって広いところに導き出し、助けとなって喜び迎えてくださる。
このように追い詰められて死がそこまできている人であっても、力そのものである神なのであるから、その神に向かって祈り、叫ぶなら、その大いなる力を持ってわたしたちに手を伸ばしてくださる。
苦しいときに神に祈ったら、助けてくれた、と普通に言うのでなく、この詩人の霊的世界には、天地のさまざまのものがまざまざと浮かび上がってきて、それら一切が神の力を表すものとして現れた。
この詩の作者は、さまざまな現象を神の力の現れであり、そのような力をもってする神の救いのわざをあらわすものだとはっきり分かったからこそ、この詩の最初に、
「主よ、わたしの力よ」
と記して、神の大いなる力が自分の力となったことを感謝とともに述べているのである。
人間の世界においては、昔から今に至るまで、その小さな知恵で奪い取った権力や武力で、さらなる富や権力などを求めて互いに戦い、勝利を得ようとしている。
しかし、そうして得た権力、支配、富などは、神の一声で滅ぼされてしまうものにすぎない。
自然の万物を支配する強力な力を持った神は、どんなことがあってもこの地から失われないし、壊れたりしない。
このように、この詩は、神の人間の想像をはるかに超えた大きな力が、死に直面している作者を驚くべき仕方で、助け出してくださったという感動が詩のかたちをとって歴史に刻み込まれたものなのである。

 


リストボタン原発の限界

福島原発が大事故を起こしたが、その原因が想定外の大地震とそれによる大津波で、電源装置が水につかってしまったからだと言われる。だから、電源装置を十分に高いところに設置しすること、高い防波堤を築くことによって防ぐことができるとしている。
中部電力は、高さ12mの防波堤を築く決定をしているという。
首相は、浜岡原発の危険性のゆえに、停止を勧告した。数年かけて点検し、防波堤を築き、電源装置などの安全化などの対策を十分にしたうえでの再開を目指している。
まず今回の福島原発の大事故の原因は、津波で非常用電源が水につかったと言われるが、実はそうでなかったことが専門家によって指摘されている。
* 津波が襲ってくる前に、原子炉の配管が地震の強い振動によって激しく揺れて破損し、その破損した箇所から高温高圧で大量の放射能を帯びている熱湯が、激しく吹き出した。
それゆえに、原子炉内の燃料棒が大きく露出し、高温となり、放射線の作用やジルコニウムが水と反応して生じた水素によって、水素爆発を起こしたと想定されている。
このように、耐震設計が十分に安全になされていると主張してきた原発が地震によって深刻な打撃を受けていたということなのであり、従来の原発が地震に耐えるとしてきた主張も全面的に成り立たなくなる可能性が高い。

*)田中三彦による、このことに関する詳細な記述が「世界」(岩波書店)今年の5月号134頁~143頁に掲載されている。
田中は、元原子炉製造技術者。福島第一原発の圧力容器設計を担当。著書に「原発はなぜ危険か」(岩波書店)。最近は原発の解説記事やインターネットのYOUTUBEなどでよく見られる。


津波の前に、原子炉が地震によって深刻なダメージを受けていたと考えられるにもかかわらず、産業界ははやくも、「津波対策さえ十分にすれば、日本の原発は安全だ」と主張して、はやくも原発路線の継続を考えている。(毎日新聞53日)
しかし、津波対策をいくら十分にしたとしても、原発そのものが地震に弱いという致命的な問題がある。
これは、次の二つの問題が重要である。
一つは、原発は一般に想像されているよりはるかに配管、パイプが多いということである。強度の振動でそれらが損傷をうけやすい状況なのである。
しかも、配管内の冷却水は、300度ほどの高温、約70気圧もの高圧というきわめて特種な状況で循環しているから、パイプが地震で損傷すれば、そこから激しい勢いでその高温の熱湯が吹き出すということになる。(また、定期点検のときには温度が下がり、そのときの温度差があるからパイプが収縮するため、床に配管を固定することもできない部分がある。)
すでに述べた田中三彦が、今回の事故においてそのような状況が生じたと言っているのである。
しかし、このようになることは、すでに以前から、知られていたのであって、手許にある5年前に発行された書物にも書かれている。
この本には東海大地震で浜岡原発に大事故が発生すると、その放射能で首都圏が壊滅的な打撃を受けるということを記したものである。
原発の配管の長さの総計はどれほどになるのか、そんなことはほとんどの人は考えたこともないであろう。
これは総延長では、80キロほどにもおよび、その溶接箇所は、2万5000箇所にも及ぶという。そのような長大な配管はそこを通る高圧の熱水の高い放射能によって徐々に変質しもろくなっていく。 原発には、そのような構造上の欠陥がある。
さらにそれと関連しているが、そのための定期点検は強い放射能を帯びているその配管のひび割れや消耗を調べるのであるから、作業員たちはわずかの時間、ナットを締めるにも、何人もが交代で走るように現場に行って、少しずつ作業を進めるというほどに、危険な作業なのである。
そのような作業ゆえに、当然その担当者が手抜きをすることが十分に有りうるし、破損の点検なども手抜きすることが有りうるのはだれが考えても分ることだ。
人間とは弱いものであって、疲れていたり、すぐ次の作業員に作業を引き継ぐなら、自分の担当の作業を急いだり、簡単にすませたりすることがあるだろう。
ほかの自動車とかの機械と根本的に異なるのは、数分とか10分とかいったわずかの時間しか持続して使えないような危険な場所がいろいろとあるという点である。
いかに設計上は優れた技術者が作成して安全だと少なくとも理論的にはなされても、実際に原発を支えているのは、現場の作業員である。疲れ、弱さもあり、またその報酬のためだけにその危険な作業に加わっているのであるから、当然間違いもミスも手抜きもある。それを監督する人も、そのような膨大な長さの配管や溶接作業を一つ一つ確認できるはずもない。
ビルや橋の建築においても、手抜きということがよくあり、以前にも耐震設計を偽っていたことが大問題となったことがある。どんなことにもそれは起こりうる。
このように、いかに津波対策をしようと、またどんなに耐震設計をしようとも、なおそこに関わる人間の弱さというものはいかにしても克服ができない。また、機械化していくといっても機械にも必然的にミスが生じうる。長く使っているうちに故障、誤作動のない機械などはあり得ない。
このように、機械そのものも壊れることがあるし、人間も絶えず疲労し、また精神的に疲れたりしていると、これぐらいのことは…と小さな破損なども放置しておくという可能性がある。人間そのものがいわばつねに一種の「壊れる」という状況を持っているのである。
その上に、検査、点検を人間がするのであるから、当然一部の箇所しか見ない、ということも起こりうるし、意図的に簡略化したり、生じた事故を起こっていないとする人間も生まれる可能性がある。
このように、さまざまの点で大きな限界を持っている人間が最終的に関わるゆえに、必ずミスや情報隠し、また金や地位への欲望などによって不正をする等々があちこちで生じることが予想される。じっさい今までにもそのようなことは数多く生じてきた。
例えば、報告を義務づけられた事故だけでも、2007年に23件、翌年08年にも23件、08年に15件もの事故が報告されている。
また、1995年以降だけをとっても、レベル1からレベル4の事故は、11件、さらに内部告発によって発覚した事故も過去35年ほどで、15件ほど生じている。内部告発ということは、よほどのことがないとなされないのであって、まだまだ隠された事故が相当あったと考えられる。 (「原子力市民年間2010 216217頁」七つ森書館発行)
こうした事故もその大多数は一般にはほとんど知られることもなく、テレビなどで繰り返し放映される「絶対安全だ」という宣伝だけが、人々のなかに刻み込まれてきたのであった。
このように、原発は大きな限界を持っている。それは人間が、限界を持っているからなのである。
その人間の限界を深く知るほどに、途方もない大事故が起こったら取返しのつかないような原発はつかうべきでないのがわかる。
人間の限界を知ればしるほど、そのような人間を支え、力を与え、自分の利害を考えないで真実な洞察をする力を与えるお方ー神へとまなざしは向けられる。 神こそは、限界のないお方なのであるから。

 


リストボタン原発を許容するに至らせたもの

今回の福島原発の大事故によって、おそらくほとんどの人たちにとって予想もしなかった状況が襲いかかっている。静かな自然や清い大気、水、そしてふるさとや農業、水産業という大事な仕事を追いだされた人たちは、原発のためにこんな状態になって「腹が煮えくり返るようだ」と悲しみと怒りをぶちまける人もいた。
しかし、このような重大な事態が起こりうることは、実は何十年も昔の早い段階から言われてきたー想定されていたのであって、決して想定外でなく、たんに電力会社や自民党、通産省(現在は経産省)、科学・技術者、そしてマスコミ等々が無視してきたにすぎない。
さらに国民の大多数も、そのようなものに安全を信じ込まされてきたのであった。
それなら、どのような過程でこうした「絶対安全」という虚構が形成されてきたのか、その一つの過程を書いてみたいと思う。

次は、一人の学者の書いた記事からの引用である。(「時代の風」毎日新聞 2011年326日)
加藤陽子氏
*が、自分は原発を必要なもの、安全なものとして認めてきたと、次のように書いている。

*)日本の歴史学者。東京大学教授。専門は、日本近代史。文学博士

…戦争や軍隊について自分が書く時には、自分がそれらを「許容していた」という、率直な感慨を前提として書かねばならない、と大岡(昇平)は理解する。その成果が「レイテ戦記」にほかならない。この大岡の自戒は、同時代の歴史を「引き受ける」感覚、軍部の暴走を許容したのは、自分であり国民それ自体なのだという洞察だろう。
 以上の文章の、戦争や軍部という部分を、原子力発電という言葉に読み替えていただければ、私の言わんとすることがご理解いただけるだろう。
 原発を地球温暖化対策の切り札とする考えは、説得的に響いた。また、鉄道等と共に原発は、パッケージ型インフラの海外展開戦略の柱であり、政府の策定にかかる新成長戦略の一環でもあった。生活面でも「オール電化」は、火事とは無縁の安全なものとして語られていた。これらの事実を忘れてはならない。
私は(原発を)「許容していた」。…

学者が、このようにはっきりと、自分の間違いを告白するということは珍しいことである。この加藤陽子氏は、今年はじめの毎日新聞紙上に次のような内容を書いている。
ここでも、比較的よく読まれていると思われるその著書のなかで書いた記述の間違いを正直に告白し、それまで全く関心のなかったと思われる聖書や内村鑑三に関心を持つようになったことを記している。

… 神や仏は私をよけて通られているに違いない。そう確信できるほど、祈りや宗数的体験とは縁のない暮らしをしてきた。だが、ある一件をきっかけに考えが変わった。神が私に近づいてきたなどと言えば、今度は人が私をよけて通りそうだが・……いやまじめな話、聖書への理解が日本近代史を考えるうえで必須だと悟ったということだ。
きっかけは経済学者のケインズ。第一次大戦後のパリ講和会議にイギリス大蔵省代表として出席したケインズは、ドイツの賠償案の策定にあたっていた。欧州の再興を期すには、報復的賠償を科してはならず、アメリカからの対独援助も不可欠だとケインズは説いた。だが、ウィルソン米大統領はこの提案を拒絶した。憤慨したケインズは「あなたたちアメリカ人は折れた葦だ」とのシブイ言葉を残し、会議半ばでパリを去ったのである。
 このエピソードを「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(朝日出版社)で紹介した私は、[折れた葦]とはパスカルの「人間は考える葦」のもじりで、「考えるのをやめた人」との意味でアメリカを批判したものだと書いた。
これに対し、牧師の方から次のようなご教示をいただいた。 
「折れた葦」とはイザヤ書 36章6節「見よ、今、お前はエジプトという、あの折れた葦の杖を頼みにしているが、それは寄りかかる者の手を刺し通すだけだ」に由来するのではないだろうか、と。 
ここで「折れた葦」は、頼りがいのないもの、との意味で使われている。よって、ケインズのアメリカ批判は、考えるのをやめた人ではなく「まったく役に立たない人」と読むべきなのではないかとご教示くださった。
これは本当にヒヤリとする経験で、無知の怖さを思い知らされた。
悔い改めた私は、昨年から、本当に遅ればせながらではあるが、明治を代表するキリスト者、内村鑑三の全集を読むことにした。
内村といえば、教科書的には、日清戦争に際しては「日清戦争の義」をキリスト教国の欧米列強に向けて書き、戦争を支持するが、日露戦争に際しては非戦論に転じた、との説明で済まされてしまう。
 だが、内村の言葉を実際に読めば、非戦論も人間の言葉のぬくもりとともに迫ってくる。日清戦争の翌年、1896年のクリスマスに書かれた「寡婦の除夜」という詩を目にすれば、内村の変化がいかなる点で起こったのかがよくわかる。冒頭の1連を引く。
  月清し、星白し
  霜深し、夜寒し I
  家貧し、友少なし
  歳尽て人帰らず(後略)

 寡婦とは夫を亡くした女性を指すが、2連以下を読めば、清国艦隊との海戦で名高い威海南や台湾攻略戦で夫を亡くした妻たちだとわかる。家庭の幸福が破壊されるさまを見て、非戦への転換が早くから起こっていたのだった。…(毎日新聞 2011年1月16日)

およそ、名の知られた学者がこのように自分の聖書の理解が乏しかったことを全国紙で述べたということはかつて見たことがない。一般的に日本人は文化人も含めて、聖書の理解が著しく浅いといえる。新聞、テレビなどのマスコミにおいても聖書そのものの真理について語られたりすることはほとんどない。聖書そのものはよく売れても、大多数の人はその意味が分からないままに書棚に積まれてしまうだけのようだ。
それだけに、このようにあからさまに自分の無知を書いているのには、意外な思いを抱いた。 また、そのように書くことができたのは、一つには日本の他の学者たちも、このような誤りには気付かず、ケインズの言った言葉が、聖書のどこから引用されているか、など、まず分からなかったはずで、その意味も理解できていなかっただろうと感じていたからではないか。
他の学者たちならみんな知っているようなことなら、さすがに知らなかったとは言えないであろう。
しかし、そこからそれまで祈りや宗教的なことにはまったく無縁であったのに、「聖書への理解が日本近代史を考えるうえで必須だと悟った」と言われ、さらに遅ればせながら昨年から内村鑑三全集を読むことにしたという。
自分の間違いや洞察の不足などを正直に語ること、そこには真実がある。こうした真実性こそは、学者の命であり、一般の私たちにとっても同様である。
しかし、原発に関わる科学者・技術者たちはそのような真実への軽視があり、逆に金や利得にからめ捕られるという傾向が長く続いてきた。
一般の人々は、政治家、官僚、電力会社や、原発を推進する側の利益に沿って国民を欺いてきた科学者、マスコミ…そうした巨大な力によってだまされてきたのである。
日本のノーベル賞科学者たちは、過去40年ほどをみると、10数名いるが、彼らが、今まで原発の危険性について発言したのはー私の知るかぎりでは、ほとんど目にしたことがないし、今回の大事故という国家的大事件が発生しても同じ科学者として、しかも日本の代表的科学者であるはずの彼らの発言はどこにも見たことがない。
ノーベル賞を受賞するほどの科学者ならば、原子力の専門でなくとも、核分裂などに関する基礎知識があるし、少し学べばすぐにその途方もない危険性は明らかになったはずで、それにもかかわらずなぜそうした科学者の原発に関する発言がないのか不思議である。
彼らも、また自分の研究をするためには多額の費用が必要であり、その獲得のためには担当教授とか文科省とかから嫌われるとそうした費用がもらえず研究に差し支える。それゆえに、このような科学と技術の問題であるとともに政治問題でもある原発のことには触れようとしなかったのではないかと考えられる。
今まで黙っていた者が、事故があったからと当然にその問題性を発言したら、今までなぜ黙っていたのか、という反論が生じるゆえに沈黙を守っているのかもしれない。
その中で、科学者(天文学者)として著名な池内了(さとる)
*が、原発問題について次のように書いている。

…原子力関係の科学者・技術者がネットワークを組み、原発に反対する論調があれば、直ちに回報がまわされる。そして、微に入り、細をうがってその論調を検討し、少しでも間違いがあれば、抗議のメールを集中させるというわけである。
数年前、NHKの教育テレビで、「禁断の科学」という番組に出演したとき、私は愚かにもそのテキストで少し間違ったことを書いた。
彼らは、それをあげつらってNHKに番組を中止せよ、と圧力をかけてきた。(私自身への直接の抗議はなかった)
今後NHKが原子力問題に及び腰になるという効果をねらってのことだと推測される。
公明正大な討論こそ、科学者・技術者が遵守すべきことであって、反対の意見を持つ者やジャーナリズムを萎縮させる科学者・技術者の集団って何なのだろうか。(「世界」岩波書店2011年5月号 5657頁)

*)池内了は、1944年生。京都大学理学部物理学科卒。天文学者。宇宙物理学者。総合研究大学院大学教授・学長補佐。名古屋大学名誉教授。理学博士(京都大学)世界平和アピール七人委員会の委員。大佛次郎賞、講談社科学出版賞選考委員

経済学者、文学者、政治家、芸能界はもちろん、どの分野の人であっても、明確に原発の危険性を語った有名人というのが思いだせない。
原発関係の裁判ですら、そのほとんどは原発推進の人たちの主張を採用してきたのであった。
それほどに、この原発の安全という根拠のない主張が国民に広く浸透してきたのである。
ビートたけし の次のような発言がごく当たり前のように浸透していたのである。

「…原子力発電を批判するような人たちは、すぐに『もし地震が起きて原子炉が壊れたらどうなるんだ』とか言うじゃないですか。…
でも、新しい技術に対しては、『危険だ』と叫ぶ、オオカミ少年のほうがマスコミ的にはウケがいい。」

(「週刊金曜日」
*426日号 42頁、これは、佐高信(まこと)が、「新潮45」の201010月号での、ビートたけしと、原子力委員長・近藤駿介との対談の引用をして批判している記事のなかにある。この週刊誌は、一般の書店では置いていない。直接にインターネットなどで講読を注文する。
「スポンサーや広告主におもねらずに市民の立場から主張できるジャーナリズム、権力を監視し物申せるジャーナリズム」を目指し、また、休刊した『朝日ジャーナル』の思潮を受け継ぐものとして創刊。「日本で唯一の、タブーなき硬派な総合週刊誌」を標榜しており、反戦・人権・環境問題など市民運動・市民活動の支援、体制批判を主に扱っている。(ウィキペディアによる)

原発は地震によって安全だということを信じきっているこんな発言が堂々とまかり通り、原発の危険性という事実を述べる者を、オオカミ少年呼ばわりをするほどに、見下してきたのであった。
彼は、「原発反対を言えば、マスコミに受けがいい」などと放言しているが、そんなことはない、逆である。
過去何十年という長い間にわたり、原発反対を明確に主張したら、マスコミからも相手にされなくなる事実は、後に述べる高木仁三郎や小出裕章氏などの件を見ても明らかなことである。
ここに引用した内容は、「週刊金曜日」誌の、佐高信(まこと)が書いている「電力会社に群がった原発文化人」と題する記事のなかにある。
そこには、 アントニオ猪木、荻野アンナ、それから脳科学者の茂木健一郎や養老孟司らもあげられ、勝間和代、大前研一、堺屋太一といったよくマスコミで出てくる人物も含まれる。森山良子のような歌手、星野仙一のような野球監督、北村晴男、木場弘子、漫画家の弘兼憲司(ひろかねけんし)等々も含まれている。
星野は、「僕も時には熱くなる男だけど、地球がこれ以上熱くなったらかなわんね」というセリフを関西電力の宣伝で語り、温暖化を口実として原発を増大させるという宣伝に一役買っていたという。
このように、とくにテレビなどでよく出てくる人物を原発推進の強力な担い手として絡(から)めとって、原発は安全だ、原発に反対などするのは、まともな人間でないのだ、といった雰囲気を形成するのに利用してきたのである。
今から35年以上も昔であったろうか、私が高校の理科教員であったころ、徳島県教育委員会主催の、高校理科教育研究会の講師として、四国電力の者が講演して原発の安全性を強調したことがあった。この研究会は県下の高校の理科教師全体の会であって、そこにて原発の宣伝をさせるほど、教育委員会というのもすでに原発宣伝の一環をになっていたのである。
私は教員になった頃に、福島原発の一号機が運転をはじめ、まもなくその原発の危険性を知るようになっていたから、そのような一方的なやり方にとても驚いたので今も記憶に残っている。
このようにして、政治家や官庁(通産省)、電力会社、科学者、技術者、そして教育から産業全体、マスコミ、そしてさまざまの文化人…といって多方面に手を伸ばして、原発の安全性をアピールしてきたのであった。
そして実にさまざまの人たちがそうした宣伝に乗せられて原発は安全だ、として何ら疑問を持たずにきたのである。
このことに関して、高木仁三郎
*の最後の著書から見てみよう。
高木は、原発科学者としては貴重な存在であり続けた。圧倒的多数が原発賛成の流れに組み込まれていくなかで一貫して原発の危険性、その本質を明らかにして、原発の非人間的な現実を説き続けたからである。

*)高木仁三郎(1938-2000)は、日本の物理学者、理学博士(東京大学)。東京大学理学部化学科卒業。理学博士(東京大学)。 専門は核化学。東京都立大学助教授、マックスプランク核物理研究所客員研究員などを経て都立大学を退職し、 原子力資料情報室を設立、代表を務めた。
原子力業界から独立、自由な立場で、原子力発電の持続不可能性、プルトニウムの危険性について、専門家の立場から警告を発し続けた。特に、「地震」の際の原発の危険性を予見し、安全対策の強化を訴えたほか、脱原発を唱え、脱原子力運動の中心的人物でもあった。


その著書とは、「市民科学者として生きる」(岩波書店)であり、 この書は、彼がガンで次々と転移し、死が近いとも覚悟するほどの苦しみも経験していくなかでベッドの上で書かれた最後の著書で、書き終えた翌年死去した。この本から少し引用する。

「…私自身がしばしば経験したことだが、反対派には、東京電力や東北電力などの監視体制が存在して、例えば、私の講演会に誰々が出席したか、街頭で演説すれば、家の前に出てそれを聞いたのは誰々か、すべてチェックされてしまう。反対派の講演会には、公民館を貸さないし、ときには旅館も拒絶されたことがある。」(「市民科学者として生きる」202頁)

また、スリーマイル島の原発事故があり、原子力資料情報室の活動が多少注目されてきた頃、ある原子力の業界誌の編集長にあたる人が訪ねてきた。彼は高木をほめ上げて、将来の日本のエネルギー政策を検討する政策研究会をやりたいといい、高木をその研究会の責任者になって欲しいと言ってきた。
そして、その人物は、「とりあえず3億円をすぐにでも使える金として用意している、それはあなたが自由に使える金だ」と告げた。
高木は、当時の資料情報室は30万円ですら、飛びつきたいほどの資金不足の状況だったから、3億円あったら、ずっとこの資料情報室は金に困らないのでないか、という思いが1分ほど頭にはあったと書いている。
しかし、すぐにそれは、彼らが自分を取り込むための誘惑だと直感して断った。「それにしても一時金が3億円とは!現在だったら、百億円くらいに相当しようか」(211212頁)
このように金をもって取り込むという手法は、いろいろなところで使われたと考えられる。
例えば、アントニオ猪木(元プロレスラー、元参議院議員)はかつて青森県知事選挙応援のとき、原発一時凍結派の候補から一五〇万円で来てほしいと頼まれて、その候補の応援に行くつもりであったが、推進派のバックにいた電気事業連合会(日本全国の10の電力会社の連合会)から、1億円を提示されて、あわててその一五〇万円を返して、そちらに乗り換えたという。(「週刊金曜日」426日臨時増刊号 40頁)
こうした金の攻勢に加えて、社会的に抹殺しようとする働きかけもなされた。前述の高木仁三郎は次のように書いている。

「科学技術庁に地域の住民団体に随行して行ったとき、たまたまある大学のA教授に出会った。そこで玄関口で少しだけ立ち話をした。彼は、かつての核化学の研究仲間で、原発推進論者となり、政府の委員会の委員をしたり、原発の推進の討議に登場したりしていた。
その後、1年ほど後に別の地域での原発賛否討論会で再びA教授に出会った。そのとき、彼は『あのとき、科学技術庁のところで高木君と親しそうに話していたと言って、後から庁の役人たちに相当の懐疑心で見られたよ。
彼らにとって、高木君は、ウジ虫のような存在で、ー昔一緒に学問をやっていたよーと言ったら、自分まで何かけがらわしい存在に見られてしまったよ。近寄るとバイ菌に感染すると思ってるんだ。ほんと。』
原発反対派は、そんな風に扱われた。虫ケラ同然の扱い…」と高木は書いている。(「市民科学者として生きる」209頁)

このように、社会的にも徹底的に排除しようとしていったのである。大金が動き、大規模なもの、マスコミによく登場するようなものは、オリンピックや大相撲、プロ野球など、しばしばこうした闇の状況がついてまわる。
東京電力だけとっても、年間の宣伝費は二五〇億円~三〇〇億円にも達するという。これは、毎日平均して七千万~八千万円という膨大な費用を、政治家や地域対策だけでなく、このような学者、文化人、有名人への対策にもつぎ込んでいったと考えられる。
こうした闇の力によって原発が絶対安全だという宣伝が広く流布し、高木仁三郎のような良心的な科学者を排除し、また、京都大学原子炉実験所の科学者たちのうち、原発の危険性に警告し続ける6名ほども、せいぜいが助教授で多くが定年まで助手(助教)という、ひどい待遇を受けねばならなかったのである。
現在この原子炉実験所に残っているのは、今仲哲二、小出裕章の二人だけであるがいずれも、定年が近づいている現在も助手(助教)のままである。
冒頭に記した、東大の加藤陽子教授のように、大多数の人々が「原発を許容していた私」という状況になってしまったのは、原発推進側があらゆる方法を駆使して真実を覆い隠そうとした結果なのであった。
この点において、戦前に、日本は神国だ、絶対に外国との戦争には負けないのだという宣伝を繰り返し聞かされ、大多数の日本人が実際にそのように信じ込んでいったことや、ただの人間にすぎない天皇を現人神だと言われ続けてそのように信じていったのと似た状況がある。
以上述べてきたように、原発というものが巨大な偽りを包み込んだ複合体であり、大多数の日本人を呑み込んできた存在であり、その危険な本質さえ知らされないままとなり、国民もその本質を記した著書などもごく一部の者しか顧みることをしなかった。その結果、現在のような悲劇が生まれているのである。
原発の大事故による災害は、ほかのどんな環境破壊をもはるかに越えるものである。そして数知れない人々の暮らしを破壊し、人間生活の根源となる産業である農業をも破壊してしまう。
それゆえに、原発からできるだけ早期に脱却し、清い水や大気、そして安心して農業、畜産業、水産業やその他の仕事にいそしむことのできる社会のために、原発の実体を学んでいきたいと願うものである。
毎日新聞の投書欄に次のような記事があった。(5月8日付)

…「原発と共存していくしかない」との意見には全く同感できません。投稿者は長崎県に住み、第三者的に福島原発事故を見ているから気楽なことが言えるのです 。
私は政府や東京電力の「絶対安全」を信じて、東電主催の見学会に参加し、わが国の技術力の高さに誇りさえ感じました。
しかし、すべてうそでした。「想定外」「未曽有」を繰り返しますが、識者の警告を無視した結果なのです。私の住む郡山市は、原発から60キロはなれていますが、子供たちは野外に出ることを制限されています。
一般市民は、毎日発表される放射線量の数値を血圧記録のように記録し、不安な生活を続けているのです。
原発による電力は、30%近くを占めるといいますが、全国の温水洗浄便座の保温をやめるだけで、原発一基分の電力が節約できるといいます。
原発は全部廃炉にし、電力の供給範囲内で安心して生活するのが、真の幸せというものです。(福島県郡山市・須藤貴美男)

原発の放射線はこのように、数知れない人々の平和な生活を破壊し、混乱と不安と悲しみに陥れるのである。

聖書の最後の書である黙示録のその終章にあるつぎの言葉は、福島原発を追われた人たちーとくにキリスト者である人たちにとって、はるかな理想的状況となって浮かんでくるであろう。

…天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。
川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。
そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。
もはや、のろわれるものは何一つない。(黙示録2213より)

現実の世界ではこのような状況、うるわしい大地、流れる水は清く、農作物がゆたかに実を結び、そのゆたかな作物によって人々の健康が支えられ、のろわれた放射能はなにもない…それはまだまだ先のことであろう。
しかし、唯一の愛の神をあくまで信じ、主を仰ぎみるものには、その人の魂のうちに、いのちの水の川が流れ、そこから溢れるまでになると約束されている。(ヨハネ福音書738
そのような命の水によって、被災を受けた現在の苦しい状況が支えられるようにと願ってやまない。 そのような霊的な水は、世界のいずこにあっても、またどんな状況にある人をも、求める者をうるおしてきたのであるゆえに。

 


リストボタンことば

347)本気と助けと希望

本気ですれば
たいていのことができる
本気ですれば
何でもおもしろい
本気でしていると
誰かが助けてくれる

…実際私は、多くの困難をその都度「誰かに助けられて」乗り越えることができた。…大学を辞めて進路を断ったということが、本気にさせるという意味をもったのだろう。
その「本気」とは、確信と希望ということに尽きると思う。理想主義者の私は、核のない社会が必ず実現することへの強い確信を持っている。
…だから私はいつも希望をもって生きていられる。生きる意欲は明日への希望から生まれてくる。
…私の場合は、この確信と希望は、無数ともいえる人々との出会いから生まれた。
…実際に、名を呼ばれて受賞
*のためにスウェーデン国会の式典ホールの演壇に上がる数十秒の間に、私の頭の中には、走馬灯のように全国の人々の顔が次から次へと浮かんできた。…
(「市民科学者として生きる」高木仁三郎著 岩波書店 222223頁)

*)ライト・ライブリフッド賞。1980年にスウェーデンにおいて創設された賞。第二のノーベル賞と称されることもある名誉ある国際的な賞。主に環境保護、人権問題、健康、平和などの分野にて功績を残した人物、団体に与えられる。(ウィキペディアによる)

・高木仁三郎については、今月号の「原発を許容するに至らせたもの」を参照。高木はキリスト者ではなかったが、 彼のこの「確信」を「信仰」に置き換え、さまざまの「人の助け」を「愛」と置き換えるとき、聖書にある最もよく知られた言葉、信仰と希望と愛に通じるものを感じさせる。
高木のような特別な能力がなくとも、また病身であったり老年であってもなお人間を本気にさせるものがある。それが聖霊なのである。
ペテロも三度のキリストを否定したような弱い人間であったが、聖霊が注がれると命まで捨てる覚悟をもつほどに本気となった。
私自身も、福音を伝えたいという気持ちが一貫してあり、いくつかの公立高校の他に盲学校、ろう学校、そして養護学校などの勤務も経験したが、そのいずれの勤務においても、教科を教えるかたわら放課後の読書会やときには、授業のなかで教科の理科の内容に関連付けて福音を語ってきた。
そのすべてにおいても、いろいろな反対もあったし困難も生じたが、不思議と、聖霊の助けというべきものがあり、職場においても一部の同僚や生徒からも、そして教職を辞めて後は、集会員ほかいろいろな方々からの祈り、助けがあったし、今もそれは続いている。

 


リストボタンお知らせと 報告

○中部地方などへの訪問
5月28日(土)~6月1日(水)ころまで、私は、長野や静岡などのいくつかの集会にてみ言葉を語らせていただいたり、個人的訪問の予定があります。問い合わせは、吉村、または連絡先まで。

・5月28(土)17時~1830分半 松下宅家庭集会(長野県下伊那郡松川町元大島5441-5

・5月29日(日)主日礼拝 10時~14時 上伊那聖書集会(伊那市西箕輪大泉新田2020 有賀製材所事務室2階 連絡先 有賀進宅 電話 0265-76-6646

・5月30日(月)午前9時半~12時 南アルプス聖書集会
(ふだんは加茂悦爾宅ですが、今回は山口清三宅。山梨県北杜市長坂町大八田604-1 問い合わせは加茂宅(電話 0552822750) ・集会場所 山口宅 電話 0551-32-0026
・5月30日(月) 午後3時~5時 多摩集会 八王子市緑町1704(永井宅)電話0426250178

・5月31日(火)午前10時~12時 清水聖書集会(西澤宅)
静岡市清水区山切102-80
電話 054-363-0456
☆以上の各地以外にも、「祈の友」その他の個人的訪問の予定をしています。

○イースター(復活祭)特別集会の報告
4月24日のイースターには、いつものように、子供のための紙芝居「イースターの朝」、こどもと一緒の賛美やいのちのさと作業所に関わる方々の歌、聖書講話、讃美タイム(コーラス、ギター賛美、デュエット、手話讃美)、7名による感話、昼食と交流、全員によるひと言メッセージなどのプログラムで、ふだんは参加できない方々、県外(香川県)の参加者、また年に数回の特別集会だけに参加できる方、初めての方などが参加して、死せる者の復活、再生をテーマとしてみ言葉を学び、礼拝を与えられました。(参加 81名)

○原子力発電の問題点、その本質などについての本の紹介
1、「世界」岩波書店発行の月刊雑誌
福島原発の大事故以来、原発の危険性を問うた書籍がたくさん購入されているようです。岩波書店の雑誌「世界」は、現在の日本で発行されている月刊雑誌のうち、質的な高さはトップクラスと考えられます。今年1月号の特集「原子力復興という危険な夢」は、今回の大事故が起きる直前でもあり、「世界」の編集者とその投稿者、そして岩波書店の見識の高さが明らかになり、預言的内容となったと言えます。
徳島聖書キリスト集会としても、「世界」を60冊ほど購入しましたが、2週間ほどで すべて(一部県外)が集会員によって購入され、関心の高さを感じています。
この5月号への購入希望が相次いで、いつもの号ならやらない増刷をしたというのに、インターネットでも購入が困難となっており、ネットの古書店でもまだ発行されたばかりの五月だというのに二倍ほどになっています。また、1月号は、原発の危険性への警告を特集した号でしたが、それはネットでは、1万円(定価840円)いどにもなっています。
それほどこの雑誌への評価も高まり、原発への正しい考え方を求める人たちが増えて、関心が高まっているのです。
・「隠される原子力・核の真実」小出裕章著 創史社 1400円(著者は、過去40年を越えて一貫して原発の危険性を説いてきた学者。京都大学原子炉実験所助教)→この本については、ネットで購入できますが、インターネットをしていない方、書店が近くにない方などは、奥付の吉村孝雄宛て申込があれば、複数冊であってもお送りできます。一冊1400円5冊以上は、一冊千円とします。(いずれも送料当方負担)
2、「原発事故はなぜくりかえすのか」高木仁三郎著 岩波書店 735円(これは、原発の危険性を生涯にわたって説き続けた著者が、ガンの重い病状のなかで、ベッドに横たわったまま、死期の近づくのを意識しつつ、最後の力をふりしぼって書くべき内容を録音し、そのテープ起こしに手を入れたところまでやり、その数カ月後に逝った。)

3、「原発はなぜ危険か」田中三彦著(元原発設計技師の証言)同右

4、「市民科学者として生きる」高木仁三郎著 岩波書店 これは著者がガンになって最後の書とするつもりで書いたもの。その直後に東海村JCO臨界事故という重大事故が発生し、さらに言い残しておきたいこととして書いたのが前述の2の本であった。

 


リストボタン編集だより

来信より
今までキリスト教関係の印刷物でも全くといってよいほど原発の危険性が語られたり、論じられてこなかったと思います。
こうした無関心や安全神話を信じきっていたということが、今日のような問題を生み出す土壌となっていたのです。
来信も次のように原発関係のことが多くありました。

・…このたびの震災については、地震と津波だけでも大変なのに原発という人災も加わり、現地の方のことを思うと、いたたまれない気持ちになります。…(原発の問題については)今からでも遅くはないと思って学んでいます。小出裕章さんの「非公式ブログ」のまとめなども、毎日目を通しています。誠実で原発のことに詳しい方なので、最も信頼できる情報源です。
先日、小出さんの研究室を取材した映像を見ていますと、聖書と思える本と田中正造の大きな写真がありました。神様を信じておられる方なのかも… と思いました。 「隠される 原子力と核の真実」小出裕章著を読みはじめました。 真実の情報源を得ながら、主に望みをおいて日々の生活を落ち着いたものにしたいと願っています。(関東の方)

・3・11大災害、特に福島原発災害に関する人災、安全デマについての私の感想や見解は全く吉村先生と同じです。全体を何度も熟読させていただきました。核兵器や原発は本当に現代のバベルの塔であると思います。
 3・27毎日新聞1面に、09年6月経済産業省審議会で巨大地震「貞観(じょうがん)地震」の近未来再来が勧告されていたにもかかわらず、東電は反発し、無視を続けていた旨の記事がスクープされていました。原発事故はこれを今まで推進を続けてきた自民党と東電のエゴによる人災です。
 現在我々日本人が、社会の価値観や仕組みを改め、神への愛と隣人愛(自由優先ではなく、収入格差の大幅縮小と助け合いの実行)の重要性を認識し、社会の仕組みの大きな変革を実行する絶好の機会が到来しているのに、これまで特権的に貧しい人々の犠牲に於いて自らの幸せを享受してきた一部の人々は原発社会を增税で復興して災害直前と全く同じ格差不平等社会を再建しようとしています。人間はなんと罪深いのでしょうか。…(九州の方)

・…インターネットのyoutubeで小出裕章氏の講演を聞いたり記事を読んだりして、原発の恐ろしさを改めて知らされていました。今まで自分が、いかに無知だったかも思い知りました。集会の人にも回して、少しでも共に学んでいきたいと思います。(関西の方)

・問題なのは、東京電力という企業だけではない。恥ずかしいことに、私は原子力発電所がいかに危険なものか知らないできたが、原子力を専門とする科学者は十分に理解していたはずである。
しかし、…原子力ムラと言われてきた原子力科学者の大部分の人たちは、原発には問題がない、と言い続けてきた推進派の人たちである。他方、原発は大きな危険を抱えていると警告し反対してきた科学者は昇進や研究費で差別を受けてきたという。…(東北の方、これは個人的来信でなく、印刷物の引用。)

・…今号は、特に、原発、放射能のことに関しての情報、過去における貴兄の論考が掲載されてありましたが、このような事態になったことを主の御前に畏れ、この重大性にふるえる思いがあります。
今月号の「憲法9条と原発」の記事を、集会の教友にもコピーをとって送りました。(関東の方)

・「プルトニウム」についての高木仁三郎著の本
*を読みました。こんな重大事故が発生しなければ原発のことすら、無知のままでー 自分の生活に密着しているにも関わらずー生活していました。
「知らない」というのは、罪だなと思います。何に関しても…。 原発の危険性を語ってきた科学者たちの名前も教えてもらったので、調べて本を読んでみます。(関西の方)
*)「プルトニウムの恐怖」岩波書店刊

訂正
2頁4段目左11行 後半→広範
30頁2段目左5行 意図的無私→意図的無視