心を騒がせるな。 神を信じなさい。
そして、私をも信じなさい。


(ヨハネによる福音書14の1)



20129619号 内容・もくじ

リストボタン種を蒔くもの、成長

リストボタン思い起こすこと

リストボタン信・望・愛と聖霊  

リストボタン私たちに与えられるもの

リストボタン神による回復、再び来られること―再臨

リストボタンことば

リストボタン休憩室

リストボタン編集だより

リストボタンお知らせ

 リストボタン報告  


 

リストボタン種を蒔くもの、成長させるもの

私たちの周囲の植物は、農作物以外は、みな自然に生えたもの、言い換えると、神が蒔かれたもの。鳥や風によって運ばれるということも、鳥や風を創造されたのは神であるから。
そして水(雨)を注ぐこと、これも神がなされること。成長させる力、光と熱と水、空気、養分があると細胞分裂して成長するような計画書を神が造られた。それゆえに成長させていくのも神である。
そのような自然の世界に撒かれるさまざまの種だけでなく、神は人間の魂にも人を通して種を蒔かれる。
主イエスは、福音が人の魂に根を下ろすことを、種蒔く者のたとえで教えられた。
(マタイ13章)
祈りも、相手の魂、あるいは集会に聖霊の種を蒔こうとすることである。
主イエスは徹夜で祈ることさえされた。それはサタンと戦い、燃えるような熱心でこの世界に霊の種を蒔こうとされたのであった。
信仰の父と言われる旧約聖書のアブラハムも、神がまかれ、神が水を注ぎ、成長させた。神の大きな御計画のうちにあること―星のように増え広がることを彼に約束した。
神の力がそのようになすのである。種まきのたとえも同様で、神が成長させ、いかにこの世の力が妨げようとも、神の力、 神のご意志が働くときには、何十倍と成長していく。それほどに、種を蒔くように人を導き、その種を神が成長させていく。

…私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神である。
だから、大切なのは、植える者でも、水を注ぐ者でもなく、成長させて下さる神である。 (Ⅰコリント3の6~7)

私たちは、神からの福音の種を与えられ、少しでもほかの人たちの心に福音が根付くようにと種を蒔きたいと願う。そして、自分自身もさらなる成長をさせていただくため、また神からの真理の種をいただいた人たちも成長していくようにと日々祈る。


リストボタン思い起こすこと

単に思い起こすなど大した意味もないと考えるだろうか。誰かを思いだす、しかも主にある良き心をもって思い起こすということの重要性が聖書に記されている。

旧約聖書において、類まれな武人であり、指導者、また詩人、竪琴弾きでもあったダビデが、怒りの感情に負けて、自分をひどく侮辱した男ナバルへの復讐の攻撃をしようと400人の部下を引き連れて来た時、ナバルの妻アビガイルは、それが神の前に重い罪となるのをダビデに直言し、止めさせたことがあった。
ナバルへの攻撃をまさに敢行しようとしている400人の兵士たちを前にして、その指導者であるダビデにその重大な過ちを告げるということは、危険な行動であった。しかも、ダビデは数々の困難をも乗り越えてきたような行動力と英知を兼ね備えた指導者であったのだから、そのような人物相手に神の前で間違っていると直言することは、よほどの勇気、神からの英知と力を与えられていないとできないことであった。
しかもそのアビガイルは、自分のためには、次のようにだけ願いを述べた。

…主があなたをお恵みになるときには、はしためを思いだしてください。(*(サムエル記上2531

*)思いだすと訳されている原語(ヘブル語)は、ザーカル で、英語のremember と同様に、覚えておく という意味にも用いられる。

命を助けること、あるいは家族のとくに愛するものを助けること、財産の保全等々、なにも求めることをしないで、ただ、ダビデが主の恵みを受けるとき―王となるとき―思いだしてください、とだけ願った。ここにこの女は、神とともにある人に思いだしてもらう、ということが必要なすべてを含むことを知っていたのを示している。
この女性の神と共にある心と決断は、ダビデの心を動かし、多くの部下の手前そのような一人の女に自分の間違いを示すことはふつうの感情ではできないことであったが、ダビデはその女の信仰と英知によって霊的に目覚め、自分の誤りを認め、大いなる罪を犯すところであったと、その女に感謝し、祝福を与えたのである。

この「思いだす」ということについて、私たちの心に思い浮かぶのは、十字架上でイエスとともに処刑された重い罪人のことである。その罪人もまた、主イエスが御国に行くときに思いだしてくださいとだけ願った。

…イエスよ、あなたが御国に行かれるときには、私を思いだしてください。 (ルカ2342

この短いひと言を祈りつつ繰り返し歌う讃美として、次のものがある。単純なメロディーで祈りの静けさが伝わってくる讃美である。

イエスよ、御国に おいでになるときに
イエスよ、わたしを思いだしてください。(讃美歌21112

Jesus, remember me
when you come into your kingdom.
Jesus, remember me
when when you come into your kingdom.

2000年も昔の磔にされた重い罪人の言った言葉が、現代の私たちにいかなる関わりがあるのだろうか。この言葉は、実は驚くべき内容をもっている。十字架で見るも無惨なかたちで喘ぎ苦しみ死を目前にしたイエスであるのに、そのイエスが、復活し、神の国に帰って行かれることを確信していたのである。
キリストの12人の弟子たちすら、その代表格のペテロすら、イエスが自分はもうじき律法学者や長老など指導的人物たちに捕らわれて殺され、三日目に復活すると予告されたことがあった。そのとき、ペテロは、イエスをわきに引き寄せて、そんなことは決してあってはならない、とイエスをこともあろうに叱責したのである。
それほど、弟子たちすらイエスが殺されしかも復活するなどは考えたこともなかった。そして、イエスが息を引き取ったときでも、弟子たちはもちろんイエスのために香油を塗るなど死者へのなすべきことをしようと早朝にイエスが葬られた墓(石灰岩の岩穴)に行ったマグダラのマリアたちも復活などとても信じてはいなかった。
そのようにだれも信じられなかった復活を、この十字架で処刑された重い罪人は信じることができていたのである。
キリスト教の真理はこのように、まったく本人も周囲の人も誰一人予測できない者に、深遠な真理が啓示されることがある。キリスト教の真理を担っていた信徒たちを撲滅しようと各地を迫害していた人物(パウロ)さえ、そのさなかで熱心なキリストを信じる者へと180度転換をしたことも同様である。
真理は、主イエスが言われたように、神の思い―ご意志のままに吹くのである。その風を受けたものは、どんなに罪深かったとしても、またいかにかたくなな心であったとしても、また病気や体の障がいがいかに重くとも、神の御心の時が来れば、驚くべき真理の風―聖なる霊によって変えられる。
このような聖なる霊の風を受けた罪人であったからこそ、彼のひと言の願い―あなたが御国に行くとき、私を思いだしてください! ―が深い意味を持ち、後世の人たちにも伝えられることになった。
現在はイエスは神の国におられる。そのイエスに「思いだしてください!」( 覚えていてください ) と祈ること、そこに重要な意味がある。
イエスが私たちを思いだして下さる、覚えていて下さること、それさえあったら、ほかには何も要らないといえるからである。
愛なるイエス、いまは神と一つになっておられるゆえに全能であり、すべてをなすことができるイエスゆえに、そのようなお方が覚えていて下さること、私たちの困難なときであっても思いだしてくださり、新たな力と救いを与えて下さると信じることができる。
パウロもまた、そのように、信徒たちを思い起こしている。

…あなた方が主イエスを信じ、聖徒(キリスト者)たちを愛していることを聞いて、祈りのたびに、あなた方のことを思い起こし、絶えず感謝している。
(エフェソの信徒への手紙1の15

愛とは常に主にあって思い起こすことである。その人が神の道を歩み、神の祝福を受けるようにと思い起こすことである。祈りも同様である。他者のために祈るとは、主にあって思い起こすことだ。
人間的な愛は、そこに神なくして思い起こすことであり、それはたちまち憎しみにも転じ得る、永遠に消えることのないお方である主イエスが私たちの内に住んでいてくださっているゆえに、人間的な感情や罪ゆえにそのように思いだせなくとも、静まって考えるとき私たちの間違いが示され、ふたたび主にあって思いだすことができるように導かれる。
私たちの祈りとは、神を思いだすことである。人間のことばかり念頭にあるときには、さまざまの不安や人間的感情が生まれて平安を失う。
私たちが何かをしているときでも、主にあって行うことが目標である。それは神を思いだしつつ行うことだからである。
神は太陽のように、善人にも悪人にもよきものを注いでくださっている―と主イエスは言われた。それはいつも神だけは、キリストだけは、いつも私たちすべてを思いだしてくださり、覚えていてくださって、良きものを注いでくださっているお方だということを示している。


リストボタン信・望・愛と聖霊

何らかの信・望・愛、それは最も重要なことであるのは特定の宗教に関わりのない人でも感じている。
例えば、人を信じることは大切だとよく言われてきたし、希望をもつことの重要性は、信仰のあるなしを問わず絶えず言われているし、愛についても同様である。
人間は、何かを信じていなければ生きていけない。例えば、毎日の食物のなかに毒が入っていると本気で思うならば食べることはできないし、私たちが日常的に使っている列車や車に事故が起こって死ぬのだと思っていたらそれらに一切乗ることもできず、移動もできない。日本の国の面積がいくら、人口がいくらといったこともみな信じているわけである。
また、子どもでも大人になったらサッカー選手とか看護師などになりたいというような希望がある。悲しみや苦しみのときには、それがいつかは解決するという希望を持っている。
また、愛という言葉も、歌謡曲や若者の歌で日常的にテレビや音楽番組などで耳にする。
しかし、このような一般的によく言われている信・望・愛と聖書における信・望・愛とは基本的に異なる。
聖書は、神と結びついた信・望・愛の書物である。
それは巻頭第一巻の冒頭に置かれた言葉にすでに現れている。
神が天地を創造された。天地というとき私たちの住む地球、そしてそれを取り巻く宇宙全体を指す。そしてそこにまずあったと記されているのが、闇と混沌であった。
混沌と訳された原語(ヘブル語)は、二語から成る。トーフーとボーフーである。(*
この二つの言葉はいずれも「何もない、空しい」という意味をもっている。そのため口語訳では、「地は形なく、むなしく」 と、訳している。

*)旧約聖書では、トーフーは20回ほど使われており、それらは「荒れ地、荒野、荒廃、形がない、空しい、混乱、無駄 」などと訳されている。
トーフーは、イザヤ書で特に多く用いられており、旧約聖書全体で20回用いられているなかで、イザヤ書で11回と半数を超えている。次のように「空しい」としばしば訳されている。
・役にも立たず、救い出すこともできない むなしいものに従って、わきへそれてはならない。それはむなしいものだ(サムエル記上1221 新改訳)
・ 君主たちを無に帰し、 地のさばきつかさを(むなしい)ものにされる。 (イザヤ書4023 新改訳)
・その鋳た像はむなしき風(ルーァハ)である。・偶像を造る者はみな、むなしい。 (イザヤ書 449 新改訳)
次にボーフーは、旧約聖書では3回だけ用いられ、創世記、イザヤ書、エレミヤ書に各一回ずつである。
・…私が地を見ると、 見よ、茫漠として何もなく、 天を見ると、その光はなかった。 (エレミヤ書423) 「茫漠として」の原語は、トーフー であり、「 何もない」は ボーフー という語であり、ここは、創世記の最初の箇所と同じでこの二語が重ねられている。
なおこのボーフーという言葉は、「混乱」とも訳される。
・混乱を起す下げ振りを(イザヤ書3411 口語訳)


このように、天地創造のときには、闇と混沌、あるいは空しさ、荒廃があった。これは、いつの時代にも 私たちがこの世を見て実感することである。
この闇と空しさ、混沌、荒廃、荒野という状態のただなかに、吹いていたもの、それが神からの風、神の霊であった。
神の霊が動いていた、あるいは、霊は風も同じ原語 ルーァハなので、神からの風が吹いていたとなる。*

*)このことは、次のように英語訳の重要なものが、そのように訳している。
a wind from God swept over the face of the waters. (創世記1の12 NR
a divine wind sweeping over the waters. NJB
a mighty wind swept over the waters NAB
また、関根正雄訳も「神の霊風が吹き…」と訳して、霊と風とを合わせた霊風という訳語を用いている。


最初から、神の霊風がはげしく吹いていた。あるいは神の霊が水面を覆うように動いていた。
なぜ、この記述があるのだろうか。
多くの人は、この最初の創世記の記述を読むときに、闇があってそこに光があったということにだけ特に心に留めているように思われる。
事実、「光」が神の言葉によって存在したということは、きわめて重要なことで、新約聖書のヨハネによる福音書の冒頭にも霊的な表現で繰り返されている。
しかし、この天地を創造されたこと、光を神の言葉によって創造されたこと、それとともに並べられて書かれていることも、意味深い。それは、神の霊(風)の重要性を指し示すものなのである。
昨年の東北大震災においては、歴史始まって以来 大地震による津波のおびただしい映像が撮影され、原発の大事故も詳しく撮影されたと言える。そのような悲劇的事態を繰り返し目にして、いったいどこに神の風が吹いているのかと思われるであろう。
しかし、それははるかな古代から同様である。その記録がなされていないゆえに、私たちは大したことが起こっていないように錯覚しているだけなのである。江戸時代においても、1782年ころから、岩木山の噴火などの原因のため、東北地方では深刻な冷害となり、米など作物ができず、激しい飢饉となった。津軽藩だけでも、死者は10数万人にもなり、そのため道路際には飢え死にした人たちの死体があちこちでころがっていたという。
ヨーロッパにも14世紀に、ペストの大流行があり、数千万人が命を落としたとされている。このような現実をもし、私たちがそこに生きていたなら、いったいどこに神の風が吹いているのかという思いを持ったであろう。
しかし、それでも神の風は吹いていたのである。創世記の冒頭に書かれているように、闇と混沌のただ中において、神の霊風は吹き続けていたのである。
だからこそ、そのような中でも神とキリストを信じる人たちは絶えることなく、後世へと伝えられて行ったのである。
ローマ帝国の300年近い長い間、また日本の豊臣秀吉によるキリスト教禁令からはじまり、江戸時代も通しての迫害は、やはり300年ほども続いた。それは実に厳しい迫害であって、磔にして下から燃やす、首だけだして生き埋めにする、あるいは大分県の温泉地帯にある高熱の液体がわき出るところに投げ込むなど、すさまじい迫害が行われた。明治政府になっても、真冬の凍りついた池に信徒を投げ込み、またその人を引き出す、そんなことを繰り返したり、三尺牢といって1メートルほどしかない格子の箱状のものに入れられて、死に至るまで苦しめる等々が行われた。(島根県津和野峠)
そのようなひどい状況がなぜ生じてきたのか、世界の歴史には もし細かく再現するなら驚くべきそうした苦難の実態が現れてくるであろう。
聖書の最初の記述、闇と混沌のただなかを、神からの霊風が吹いていたという短い記述は、現在までのさまざまの時代にあって、いかなる闇と空しさがあろうとも、そこに神の風が吹き続けてきたのだということを知るとき、いっそうその意味するところが深いものがあるのを知らされる。
人類の生きてきたあらゆる時代、状況にあって、どんなに神などいないと思われるような状況があっても、なお確かに神の国からの聖なる風は吹いてきた。それゆえに、どのような暗い時代でも神を知らされ、新たな力を与えられ、周囲にもそのことを証しして生き抜いた人たちが続いてきたのである。

神からの風(霊、息)の重要性は、またエゼキエル書37章では、死せる者たちに、神の霊風を吹き入れることによって生き返ることが示されている。 (関根正雄訳では、「霊風」)

…これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。(エゼキエル書37の5~6)

そして、そのことは、創世記の第二章において、別の表現で記されていることからもうかがえる。
第二章では、水なき荒野が広がるなか、水がわきあふれていたとあり、エデンの園にも水が流れていたと記されている。そして、これは、主イエスがヨハネによる福音書7の37で言われたように、聖霊を指し示すものである。

祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
わたしを信じるものは、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている御霊について言われたのである。
(ヨハネ 7:3739

このように、創世記の最初の二章は、聖霊すなわち、神からの霊的な風であり、そしていのちの水の重要性をすでに記しているのである。
キリスト者の信・望・愛は、この聖霊によって生まれ、育てられると言えよう。
私自身、イエスが十字架で処刑されたということが、私の魂の奥深いところでの罪が赦されるということを不思議なほどすぐに信じることができた。その一冊の小さな本のわずか1頁で私はキリストの福音の確信といえる、十字架による罪の赦しの信仰を与えられた。それは、どうしてだったのか。主イエスが言われたように、「風は思いのままに吹く。」(ヨハネ3の)
聖なる風(霊)が私に吹いてきた、というほかはない。このように、信仰も自分で勝ち得たものでなく、一方的に与えられるものであることを、私はその出発点において深く知ることになった。
聖書を見ても、イエスを裏切った弟子たちが、立ち返り、新たな力を与えられて福音伝道に文字通り命をかけていくようになったのは、それは単にイエスの教えでもなければ、イエスがなした多くの奇蹟を見たからでもなく、また弟子たちの理性的判断でもなかった。
それは、聖霊が注がれて初めてイエスが復活したこと、十字架の処刑は罪のあがないのためであったことなどを深く体得したといえる。ここに弟子たちは本当の信仰を得たのである。ペテロはそれ以前に、主イエスから、私は何者だと思うか、と尋ねられ、神の子です、と答えてイエスからそのように確信できるのは、父なる神による(啓示による)と言われた。
神が直接に示したこと、それは聖霊が示したということと同じである。
このように、イエスが神の子と信じること、十字架の処刑が罪の赦しの福音に他ならないこと、死せる者が復活することなど、キリスト教の根本的真理はみな、学問や経験、あるいは教育によるのでなく、聖霊により啓示による。
そのことは、主イエスの次の言葉が表している。
「聖霊があなた方にすべてのことを教える、思い起こさせる」(ヨハネによる福音書1426
このように、イエスを神の子と信じるその信仰は、啓示によるのであり、言い換えるとそれは聖霊がそのように教えるのである。ここに信仰と聖霊の深い関わりがある。そしてそのように私たちを信仰へと招かれるのは、神の愛ゆえなのである。
次に、希望ということ、このことは信仰があってはじめて成り立つ。困難がたちはだかってどうすることもできない。病気が重くて治らないかもしれない、自分の罪ゆえに取り返しのつかない事態が発生した…こうした場合に神の愛と万能を信じてはじめて希望が生まれる。
このように、信仰と希望、そして愛は常に結びついてはたらく。この三つをもって生きることこそ、正しく生きるということになる。この生き方は、また言い換えると、聖霊によって生きるということになる。パウロの次の言葉は、聖霊に従う新しい生き方があり、文字に従うこと(たとえ聖書であっても)を、究極的真理だと思ってはならないということを示している。
「文字に従う古い生き方でなく、霊に従う新しい生き方で仕えるようになった。」
(ローマの信徒への手紙7の6)

愛もまた、聖霊による。聖霊は、愛、喜び、平和等々をその実として与えるからである。
また、神からの恵みを知ることも、またその聖霊によらなかったら分からない。

…私たちはこの世の霊でなく、神からの霊を受けた。それゆえ私たちは神から恵みとして与えられたものを知るようになった。(Ⅰコリント2の12
聖霊を与えられなければ、神から受けたものが分からない。どれほど計り知れないよきものを与えられたか分からないのである。
聖霊はまた、福音宣教の力を与える。 使徒たちが命をかけて福音伝道をはじめたのは、キリストの教えとかかずかずの奇蹟を見たからではなかった。また、パウロにおいてもその学問や育ちのよさといったものでもなかった。十二使徒たちも、パウロも共通しているのは、聖霊により、生きておられるキリストによって初めて福音伝道の力を得たのである。
このように、私たちにとって最も重要な、信・望・愛ということは、すべて聖霊ということと深く結びついているのがわかる。これらは相互に関わりあっているのである。信・望・愛は、聖霊―神ご自身でもあり、神の国の風とも言える―によって産み落とされる。他方、信・望・愛を私たちが与えられてそれを働かせて生きることによって、さらなる聖霊が与えられることを信じることができる。


リストボタン私たちに与えられるもの

神を信じて何が与えられるのか、日本において大多数の人々が、宇宙を創造し、万物を維持し、導いている唯一の神を信じないのは、信じたところで何もよいものが与えられない、かえっていろんな戒めによって生きることが楽しくなくなると信じている。
神を信じたりキリスト教に入ると、…せよ とか、…しないと裁きがある、人のためによいことをせよ、などという窮屈な教えに従わねばならない、だからそんなものは信じたくないといった気持をもつ人が多い。
これは、まったく間違ったことである。
聖書の世界ほど、ゆたかに与えられた人々がいるのを知らない。豊かに与えられているからこそ、寝たきりで何十年も生きていても、また重いハンセン病のような顔かたちも正視できないほどに変えられてしまうという病気の苦しみとともに結婚も就職もできない、社会から隔絶した生活を強いられる…そうした極限状況にあってもなお、キリストを信じるときにはその病苦にも打ち倒されない力が与えられる人が生み出されてきた。
また健康な人にも、自分の心に巣くうよくないもの―罪を知らされ、その赦しを感謝しつつ生きるという新たに生まれ変わった生活を与える。能力のある人もない人も、健康な人も病気の人も、そして老人、死の近い人、あるいは子どもでも、文化の発達していない未開の人たちでも、大都会のただなかの学者であっても…ありとあらゆる国々の無数の変化ある人間に対応して、そうしたいかなる人間にもよきものを与えることができる―それがキリスト教で言われる神であり、その神を信じることで、いまただちにどんな状況にある人間でも、かつてえられなかった良きものが与えられるのである。
そのようなありとあらゆる状況にある人間を満たすことができるということ、それは限りなく広く、深いもの、そして永遠的なものである。
こうした無限の内容を与えられる、というのがキリスト教という信仰の約束しているところである。
それは、新約聖書の最初から、記されている。
キリストの教えとして最も広く知られている山上の教えがそれである。

…ああ、幸いだ。心の貧しい人たちは。
なぜなら、天の国(神の国)はその人たちのものだからである。(マタイ福音書5の4)

天の国とは神の国と同じであり、神の国が私たちのものとなるということは驚くべきことである。神の国とはあらゆるよきものがある国だからである。神の国とは言い換えれば、神の完全な御支配、愛と真実による御支配そのものである。
このように、ただ心貧しくあるだけ、私たちが自分自身の弱さ、醜さ、汚れを知ったうえで、神にそれを清めてくださいと願う心、神に導かれることを願うだけで、神の国という最もよきものが与えられる。
これほど容易で、しかもいかなるものにも比べられないよきものが与えられる道があるだろうか。
主イエスは、「求めよ、そうすれば与えられる。」(マタイ福音書7の7)と言われた。みずからの内に誇り、自慢する心などが打ち砕かれ、そこから神に求めよ、と言われている。そのためには,権力や学識、地位、年齢、身分などいっさいは関係していない。
こうした神の与えようとするお心は、新約聖書全体に見られる。
朝から雇われることをずっと待ち続けた―ほかの人たちは早くから雇われて行ったが、一部の人たちは、誰もやとってくれなかったため、夕方まで待ち続けた。これは人間のいわば残り物のように、放置されていた。
しかし、そのような何も持たないゆえに無視されていたような人でも、神のぶどう園で働くことができると、招かれて出て行った。そして、朝から働いた人と同じ賃金が与えられた、という不思議なたとえ話が記されている。(マタイ20116
見捨てられたような人たち、だれも雇おうとしない人たちをも、神は呼び出し、能力ある人たち、多く働いた人たちと同じように祝福を与えるという神の与えようとするお心がここにはよく表されている。
主イエスが弟子たちを派遣するとき、ある家に入ったらまず、「平和があるようにと言いなさい。」と言われた。
(マタイ101213
これは単なる挨拶ではなく、祈りである。平和というのは、単に争いがないということでなく、この平和と訳されたギリシャ語(エイレーネー)のさらに元にあるのは、ヘブル語であり、ヘブル語ではシャーロームという。これは完全にされる、満たされるという意味を本来持っているのであり、家々に入るときには、その家が神のよきもので満たされるようにという願いをもってせよ、ということである。
このシャーローム (平和、平安)があるようにという祈り、願いは、使徒パウロも常に持っていて、その手紙の最初の部分にはほとんどいつもこの祈りが記されている。

 …神とキリストからの恵みと平和があなた方にあるように。
(ローマ信徒への手紙1の7、コリント信徒への手紙1の3他)

こうした祈りに応えて与えるのが神であり、聖書の神の特質であるということを表している。

…すべては、あなたがたのものである。…
パウロもアポロもケファ(ペテロ)も、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。
一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのである。(Ⅰコリント3の2123

ここに、いかに神が与えようとする存在であるかがはっきりと記されている。パウロやペテロといった特定の指導者が自分たちのものだといって党派争いをするような小さな考えではなく、本来キリストを信じ、神を信じた者には、そうしたいっさいが実は与えられているのである。
世界が私たちのものだ、というのは、この世界のさまざまの現象、山々、海や川、星々など自然の清い美しさ、力強さ、荒々しさもすべて私たちに与えられている。そればかりか、この世界に起こる苦しみや悲しみ、災害などのことであってもなお、そこからよきものをくみ取ることができる、それすらも、よきに転じるようにしてくださるのが神である。だからこそ、キリストを信じるものには、世界が与えられる、と言われている。
逆に、キリストという最もよきお方、愛の神を信じることをせず、そんなものはあり得ないと思う場合には、この世界のよきものは取り去られていくということなのである。
生が与えられる―これは、ここで言われていることのなかで最も分かりやすいと言えよう。神を信じるときには、神の本質である永遠に壊れることのない命―生命が与えられるということである。とくにこれはヨハネによる福音書で繰り返し強調されている。ヨハネによる福音書の事実上の最後のところに、まさにこのことを記している。

…これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。(ヨハネ2131

だが、…生も死も…あなた方のものだ、と言われている「死」があなたがたのものだとはどういうことなのか。ここでは、死の力に勝利する力が与えられているから、死そのものをも手中におさめているといった意味でいわれている。
別の箇所で、「死も、…現在のものも未来のものも、力あるものもいかなるものも、神の愛から私たちを引き離すことはできない」(ローマ8の3738より)ということと同様である。

さらに、「今起こっていることも将来起こることも、いっさいはあなた方のもの」と言われている。この言葉をよりよく理解するためには、パウロが別の箇所で述べている言葉が助けとなる。

…わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。(ローマ8の32

ここでもパウロは、すべてのもの、本当に必要なすべてのものを与えて下さるという確信を述べている。この確信を与えたのは、神であり、聖霊がそのように教えたのである。聖霊はすべてのことを教えると主イエスが約束されたとおりである。
さらに、広く知られた次の言葉がある。

…神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っている。(ローマ8の28

これこそは、すでに述べた「今起こっていることも将来起こることも、いっさいはあなた方のもの」ということを言い換えた表現に他ならない。
このように、主イエスが簡潔に、「求めよ、そうすれば与えらる(聖霊が与えられる)」(ルカ福音書11の9・13)と言われたことが、さらに言い換えられた表現なのである。聖霊こそは、神そのものであり、それゆえにいかなることも良きに転じることもでき、そうして私たちに与えることができるのである。


リストボタン神による回復、再び来られること―再臨

神、あるいはキリストが再び来られる、という啓示は聖書に数多く記されている。それはより広い表現で言えば、回復ということである。もうだめだ、役に立たない、絶望的だ、人、あるいは民族、国家はまったく滅んでしまった。どうすることもできない、こうした状況は、私たちの現実の生活のなかで至るところに出会う。
そのような状況を回復してくださるというのである。
人間はいかにしても正しい道が歩めない、真実とか純粋な愛などが持てない、大きな罪を犯してしまった…等々によって自分はもうだめだ、という気持はだれでも何らかの状況で思い知らされていく。
新約聖書には、「あなた方は、以前は自分の罪のために死んでいたのだ」(エペソ書2の1)という表現があるのはこうした私たちの実際に経験する事実からわかることである。
そのような人間やその人間の集合体であるさまざまの組織―学校、会社等々―にあっても、当然そのような死んだような状況がある。毎日の新聞などで見られるさまざまの事件、悲劇などは、そうした死んでいるような状況を映し出している。
聖書はこうした現実を正面から見つめ、そこからの回復を一貫して述べている書物である。
私たちの命、これも一瞬の交通事故で失われる。そうでなくとも、老化や病気で確実に失われていく。それはもう回復できない、というのが普通の感じ方であるし、常識だと言えるだろう。
しかし、新約聖書にはそこからの回復が中心的な内容として記されているのである。
回復不可能に見える荒廃した状況を再び回復させるために神が来られる―それはすでに旧約聖書のとくに預言書に繰り返し現れる。預言ということの根本は、そのことなのである。
どのようにそのことが現れるか、その一部をみてみよう。

まず、聖書の冒頭にある広く知られた箇所、暗闇と混沌のただ中に、神の「光あれ!」というひと言によって光が存在するようになるという宣言、これはあらゆる回復の根本的真理が言われているのである。
いかに暗く、絶望的であってもそこには、神の風が力強く吹いている。*
それは闇と混沌のなかに光を与え、回復させようとする神の創造のエネルギーを示すものとなっている。

*)創世記の第1章に、「神の霊が動いていた」と訳されているが、この霊とは原語のヘブル語では、風をも意味する言葉であり、それゆえに、「神の風(あるいは 強い風)が吹いていた」とも訳される。関根正雄訳や中沢訳は風と訳しているし、重要な英語訳である次の二つの訳なども、次のように「風」と訳している。
a divine wind sweeping over the waters. NJB
a wind from God swept over… (NRS

このことだけを深く受け止めるだけで、永遠の昔から、神はいかなる絶望的な状況、闇や空しさ、混沌のあふれる状況であっても、そこに神の風を送り、光を与えることによって回復させようとしておられるのを感じ取ることができる。
神は最初から、そして一貫して回復の神なのである。
このことは、エデンの園においても見られる。罪を犯して楽園を追放されたアダムとエバ、彼等はそのまま時間の流れの中で消滅してしまう存在でなく、彼等の子孫として現れる者は、誘惑者、サタンの頭を砕く…という不思議な預言がなされている。それは、ひとたび蛇(サタン)の力によって追い出された彼等には、最終的にはそのサタンの力を根本的に砕くお方が現れるということで、そこに回復の道が備えられていることをはるか昔から預言しているのである。(創世記3の15
こうした回復への道は、とくに預言者によって、神ご自身が未来の定められたときに来られる、そして一切を裁かれ、正しい世界にされるということが記されるようになった。

…荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ
砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
野ばらの花を一面に咲かせよ。
人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
心おののく人々に言え。
「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。
敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
神は来て、あなたたちを救われる。
そのとき、見えない人の目は開き、聞こえない人の耳が開く。
荒れ野に水が湧きいで
荒れ地に川が流れる。
(イザヤ書35の1~6より)

このように、いかに荒廃した状況であろうとも、神が時いたって来られるときには、根本的な回復がなされ、そこに水が流れ、うるわしい花が咲くという新しい世界のことが預言されている。
これらの預言は、思索や研究あるいは経験によって書いたのでなく、それらとまったく別に、イザヤが直接に神から啓示され、ありありと見たものであった。人間の研究や議論ではこうした内容は決して生まれてこない。

… 国々にふれて言え、主こそ王と。
世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。
主は諸国の民を公平に裁かれる。
天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ、
海とそこに満ちるものよ、とどろけ
野とそこにあるすべてのものよ、
喜び勇め、森の木々よ、共に喜び歌え
主を迎えて。
主は来られる、地を裁くために来られる。
主は世界を正しく裁き、真実をもって諸国の民を裁かれる。 (詩篇961012

詩篇というのは、旧約聖書におさめられた詩集である。しかしその詩は、ほかの詩集と異なり、個人的な感情、感動を述べたり、ホメロスの詩のような歴史的事件をもとにした内容であったりする以外に、この詩のように深い預言的内容をも含んでおり、預言書という側面をも持っている。
この詩で言われているのは、神は存在しないように、あるいはまた支配していないように見える。しかし、本当は、神は今も支配されており、王である。
そして必ずこられる。その支配を万人の目に明らかなようにするために。
その主の日、それは大いなる裁きの日であると共に、究極的な喜びのときでもある。私たちが悲しみ、苦しむのは、罪の故である。罪があるから、その赦しを受けないから、いろいろなことも重荷となる。もし魂の根源において罪赦され、清められ、そこに聖なる霊がすんで下さるときには、私たちのあらゆる悩みは消え去るであろうから。

この悪や混乱に満ちた世界、武力、富や権力などが支配し、弱者が踏みにじられる世界は決してそのままではない。神を信じる民は必ず顧みられ、この世界は神がその正義と真実の力を与えた王(メシア)が支配するようになる。あるいは、神ご自身がそのように愛と真実をもって世界を支配するときが必ず来る。

旧約聖書の最後の書にもこうした大いなる回復の預言が記されており、旧約聖書の最後を飾るものとなっている。

…見よ、その日が来る。 炉のように燃える日が。
高慢な者、悪を行う者は
すべてわらのようになる。…
しかし、わが名をおそれ敬うあなた方には
義の太陽が昇る。
(マラキ書3の1920

その日とは、人間を悩まし苦しめるあらゆる悪が火で焼かれるように滅ぼされる。そのただなかに、神を信じ仰ぐ者たちには、正義そのものである太陽と言える―メシアが現れる。
このように、いかなる暗い状況があろうとも、神は必ずそこから回復される。その信仰は啓示であり、単なる思想といったものではない。
その啓示の通り、義の太陽というべきキリストが現れた。
そして、そのキリストは、個々の人間が罪によって死んだ状態になっているのを赦し、さらに聖霊を与えて新たに生きる者とされた。
そして、人間が霊的に新しくされる、キリストの栄光と同じ姿にされることが示された。

…キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる。
(ピリピ3の21

このような約束によって私たちは、人間がこの罪深い姿から全く変えられることを信じることができる。
しかし、私たちの願いは、自分がそのように変えられるということで終わるのではない。私たちが属するこの世界、宇宙がどうなるのか、それはちょうど人間が寿命が来たらその体が弱り老化してついには死んでしまうように、人間の生物的な生命を支えている太陽すら寿命があるのであり、それによって人間世界は終りを告げる。
こうした究極的な疑問に答えるのが、再臨という信仰である。キリストが一度来られて、十字架にかかり、人間の根本問題である罪の赦しをなされた。
その後に残ったのは、それではこの未来を含めての人類全体、宇宙はどうなるのかという問題である。これは、人間のこの小さな頭脳では計り知れない問題である。
個々の人間は信仰によって罪赦され、復活の体となり、キリストの栄光のからだのように変えられる。
それと同様に、この世界も最終的には、現在私たちが見ているようなものと全くことなる、霊的な天と地に変えられるというのである。それが新しい天と地という表現で示されている。
このようなことは、本来人間の思考を超えたことである。それゆえに聖書というかたちで、神からの啓示が与えられている。死後の世界や人類の罪の赦しということも、科学的な思考を超えた世界である。数学や物理その他の自然科学は、本来定量的(数えられるもの)なものにしか及ばない。
人間の死のかなたに復活があり、キリストの栄光の姿に変えられるということが、科学的な議論の彼方にある霊的事実であるのと同様、この世の最終的状態ということも、やはり科学ではまったく答えることができない。ただ、科学では人間が死んだらカルシウムなどの金属化合物を主体とした骨になり、その他は二酸化炭素など気体となって空気中に飛散してしまうということしか言えないのであって、復活のからだがどんなものか、科学ではいっさい答えられない、科学を超えた世界である。それと同様、この世界の究極的な未来というのもやはり科学ではまったく論じることができないものなのである。
そのような究極的な未来は、聖書ではキリストが再び来られることによってなされると記されている。それは再臨という日本語が用いられている。
しかし、再臨(*)と訳されている原語(ギリシャ語)は、パルーシアであるが、この訳語は日本語としては一般には使われず、大多数の人にとっては不可解な言葉と言えよう。

*)再臨という訳語は意外なことであるが、新共同訳も口語訳にも用いられていない。新改訳聖書にⅠコリント1523に一度あるのみである。しかし、再臨という訳語そのものは聖書に用いられていなくとも、キリストが再び来られる、という内容は、パルーシアというギリシャ語で、さまざまのところで出てくる。
パルーシアというギリシャ語は パラとウーシアから成る。パラとは「側に」という意味の接頭語であり、ウーシアとは、ギリシャ語の エイミ の変化形である。エイミとは、英語の be動詞にあたる言葉で、「~である、存在する」という意味。
それゆえ、パルーシアとは、「側にいる」が元の意味であり、そこから、側にいる状態になる、すなわち「到着、到来する」という意味にもなった。
中国語訳の聖書は、「再来」と訳しているのが二種、「彼が来るとき」(他來的時候)と訳しているのも二種ある。
新約聖書において、単に「いる」と訳されている箇所は次である。


…私が いる ときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい 。(ピリピ書2:12

また、「到来する(行く)、来る」と訳されているのは、次のような箇所である。

…ふたたびあなた方のところに 「行く」 ので、ピリピ書 1の26
…テトスが来たことによって (Ⅱコリント7:6 新改訳)…敵軍の到来(近づいたこと)を… the arrival of the army, (Ⅱマカバイ8:12
再臨というと、まったくキリスト教の特殊な用語となり、一般にはまず使われていないし、聖書のなかにもその訳語はすでにあげた新改訳聖書の一つの箇所だけである。しかし、元の原語は、「来る」とか「到来する」、「ある」、「いる」 などごく普通の意味に使われている言葉なのである。
これも、本来の原語と、日本語の訳語とのニュアンスがかなり異なる例の一つである。
このパルーシアというギリシャ語*は、再臨という訳語のほかには、「再び来られる」とか、「来臨」などという訳語も使われている。

*) なお、ラテン語では、これは、アドウェントゥス adventus であり、これは 「ad ~の方へ」、「venir 来る」 から成り、「~へ来る、到来する」という意味であるから、この語から生まれた アドベント advent という語は、キリストの到来、という意味に用いられ、クリスマス前の4週間を指して言われる。そして、さらに、再臨という意味にも用いられる言葉となっているのも、本来の原語の意味を反映している。
それに対して、再臨という訳語はキリストの降誕には用いられない。


主イエスは、その生涯の終りが近づいたころ、ご自身は十字架で処刑されてそれきりなのでなく、復活し、そして神の定めた時至って再び来られるということを語られた。

…その苦難の日々の後、
太陽は暗くなり、
月は光を放たず
星は空から落ち、天体は揺り動かされる。
その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲のうちにあって来るのを見る。
天使たちは、天の果てから果てに至るまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。(マタイ242930

 このような記述はあまりにも私たちの通常の世界とかけ離れていて信じがたいと思う人が多いであろう。しかし、普通の科学的な考えでは到底受けいれられないと感じるのは、復活も、イエスの十字架による罪の赦しも同様である。
 これらはすべて、論理や科学でなく、ただ信仰により、啓示によって受けいれることが可能となる。主イエスが、新しく生まれ変わらないと神の国を見ることができないとか、御国に入ることができないと言われたのもこうしたことを指している。
 この主イエスの言葉は、私たちにこの世界の究極的な状況を指し示すものである。いかなる困難や暗き出来事がこの世に生じようとも、そうしたただなかを通って神の御計画は前進していく。
 言い換えると、いかなるこの世の混乱や苦しいことがあろうとも、それらすべてに神の力は勝利されるという確実な真理をこうした言葉は示している。
 再臨の信仰こそは、究極的な勝利の信仰であり、ここに至って私たちの心の世界や周囲の社会とか自国の繁栄といった限定された領域を超えて、それらすべてを包み込む宇宙そのものが、神の力によって新しい天と地になることが示されている。

 この主イエスの言葉による再臨の記述と別にヨハネによる福音書でも、「再び戻ってくる」という表現でしるされている。
ヨハネによる福音書だけは、再臨のキリストをほかの福音書のようには記さない。聖霊が来ることこそ、再臨の本質であり、そのことを力を込めて記している。
 聖霊とはキリストの別の現れでもあり、神でもあるゆえに、旧約聖書から一貫して言われてきた主が来たりたもう、ということの成就であるとヨハネは啓示されたのである。
現代の私たちにおいても、再臨を単に未来のこととしてだけ受け取るべきでなく、聖霊が来て下さることによって再臨の本質を部分的に味わわせていただいているという実感を与えられることが重要なのである。
再臨の本質的内容は、いかなる闇と混乱があろうとも、突然にして光は到来し、それによって一切が変えられる、ということである。そのことは聖書の冒頭から言われている。闇と混沌がすべてを覆っていたが、そこに光あれ! との神のひと言によって、光が存在し、その後も神の言葉によって 混沌のなかに神の御支配がなされていくということである。
また、再臨後の世界は、ヨハネ黙示録に、「いのちの水の川」が流れていると描写されているが、このことも、すでに創世記の2章において言われている。

ヨハネによる福音書では、ほかの三つの福音書のように、雲の内にあって(乗って)来る、といった表現はみられず
そのかわりに、次のように、神のもとに行くがふたたびあなた方のところに戻ってくると記されている。

・私は父のもとに行く。しかししばらくしたら戻ってくる。(ヨハネ14の3)
・私はあなた方を孤児にはしない。あなた方のところに戻ってくる。(同1418
・私は去っていくが、また、あなた方のところに戻ってくる。 といったのをあなた方は聞いた。(同1428
I am going away and I am coming back to you ヨハネ1428

再臨とは、主イエスが言われたように、偽りの宗教的指導者たちが起こり、戦争がはじまるのでないかという混乱、そして飢饉、人間同士が憎み合う、真理への迫害が起こる―そうしたまさに闇と混沌のただなかに、キリストは来られるということである。
これは、聖書巻頭にある、闇と混沌のただなかに神の風(霊)が吹き、神の言葉によって光が生じるということと本質的な共通点を持っていると言えよう。
聖書巻頭の言葉は、天地創造という過去になされた神のわざについて記されたことであり、それ以降無数の人間や社会になされてきたわざであり、現代も絶えずなされつつある真理であると共に、はるかに再臨をも預言しているのである。
このような再臨ということ、それは、その本質的なことは、現代の私たちが経験できることなのである。
悪と混乱の地平線の彼方に、神の愛による御支配が見えてくること、その愛によってすべてを完全なよきもの―新しい天と地へと造り替えられることこそ、我らの究極的な希望である。


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(342)独創性
…独創性ということがよくいわれるが、それは何を意味しているのだろう! われわれが、生まれ落ちるとまもなく、世界はわれわれに影響をあたえはじめ、死ぬまでそれがつづくのだ。
いつだってそうだよ。一体われわれ自身のものとよぶことができるようなものが、エネルギーと力と意欲のほかにあるだろうか! 私が偉大な先輩や同時代人に恩恵を蒙(こうむ)っているものの名をひとつひとつあげれば、後に残るものはいくらもあるまい。(「エッカーマンとの対話」岩波文庫より。ゲーテの言葉*))

*)ゲーテ(17491832年)は、ドイツの代表的詩人、作家として有名であるが、自然科学の研究も手がけ、政治家、法律家でもあった。

・ゲーテは天才として知られているが、その彼であっても、その思想やさまざまの作品の内容は、先人の大きな恩恵によっているのだという。より聖書的に言えば、私たちが何かよき働きや考えを持ったり、それを著した本や研究をだしたとしても、それは彼自身が生み出したものでなく、過去の無数の人たちの持っていたものを取り入れたゆえなのである。
さらにそのことをさかのぼると、そうしたよきものを与えたのは人間でなく、神であり、キリストであるというところに達する。歴史上のあらゆるよき大きな働きはみなその源をたどるとキリストに、神に到達する。私たちの独創性を生み出す源は神であり、主イエスが聖霊がすべてを教えるといった言葉が思いだされてくる。
他人の物真似でなく、真にその人独自の歩みをしようと欲するならば、神とキリストに結びつくことが不可欠となる。
神と結びついた自然の姿―野草や樹木、花々の姿、色彩、そして山河や空のさまざまの姿―それはいかに独創的であることだろう!

(343)より高き力
私はより高い力が私を守ってくださらなければ、どの人間の胸にもいかに恐るべき考えが生まれ育つかもしれないということをはっきりと知っています。
(「美しき魂の告白」の最後の部分―「ウィルヘルムマイスターの修業時代 第6巻」筑摩書房版 世界文学体系「ゲーテ」 223頁)

Ich so deutlich erkannt habe,welche Ungeheuer in jedem menschlichen Busen,wenn eine hohere Kraft uns nicht bewahrt,sich erzeugen und nahren konnen.

・この文を含む「ウィルヘルムマイスターの修業時代・遍歴時代」という作品は、日本語訳では、三段組みの小さな文字で大型本 六百頁に及ぶ大作であり、そのなかにさまざまの英知に富む言葉が含まれている。
ここにあげた人間の本質的な弱さを知っているゆえに、「自分の力、能力などを誇るという気持には決してならない」―と述べている。これは、人間の罪そのものを深く知った人の言葉である。
私たちもみな、「より高き力」を待ち望む。それがなければ人間は救われない存在であるから。 使徒パウロが、「あなた方は、以前は自分の罪のために死んでいたのだ」(エペソ書2の1)と述べているのもこうした人間の本質を知っていたからである。


リストボタン休憩室

○明けの明星と木星
夜明けには、現在とても輝かしい星々が見えます。
午前4時ころには、木星の強い輝きが、南の空高いところで見られます。そのすぐちかくには牡牛座の一等星アルデバランがあります。
そして、南の空には、オリオンやおお犬座のシリウス、小犬座のプロキオン、双子座などが見えますが、それらより一段と強い光で輝いているのが金星です。
このような、冬の星座の最も輝かしい星々のただなかで明けの明星が見えるのは珍しいことです。


リストボタン編集だより

来信より
○…明るく見えるこの世界の奥深いところには闇がずっと横たわっているのである。そのような闇の根源は一人一人の人間の心の中に闇があるからである。その闇のことを罪といっている。それは教育や科学技術、医学、福祉がどのように発達しても、その心の深い闇を消すことはできなかった。キリストはこの人間に宿る深い闇に光をもたらすために来られた。…(「いのちの水」誌2009年1月号)
この深い闇をもっている者、それは自分のことだ、と思った。(関東地方の方、91歳と書いておられました)

○「いのちの水」誌と共に送られてくる「集会だより」は、赤い線をたくさんひいて、ちょっとでも心の弱ったとき、不安のとき、再び読んで また新しい希望をいただくことの繰り返しで、私にとっては、今のところ、聖書とともにとても大切な信仰書となっています。 (関東の方)

・「集会だより」は、5人の方々によって、主日礼拝や家庭集会での聖書講話の要約が書かれており、それぞれかなりの時間とエネルギーが注がれています。それを私(吉村孝雄)が全体を見て、入力ミスや記述の間違いあるいは不十分なところがないかチェックし、それからわが家の輪転機にかけて印刷し、それを水曜集会のあとで参加者10人ほどが折り畳んで作成しています。
各地での家庭集会にて語られるみ言葉の深い意味が少しでも伝わるようにとの願いでなされています。今後とも主がここに書かれた方のように、そこからみ言葉の真理の一端を受けて力を与えられることの一助となればとねがっています。

○8月号の「後世への最大遺物」という文について、 勇気も高尚もなかった人でも、愛し清め給う イエス・キリストの愛、どんなに落ちぶれた人であっても、神に立ち返ることが十字架の御愛のゆえにできるのだと、大変慰められ、感謝でした。 (東北の方)


リストボタンお知らせ

○西澤正文氏 特別集会
9月16日(日)午前10時~午後2時
・テーマ… 愛について
 善いサマリア人から学ぶ
聖書箇所 ルカによる福音書1030節~37

○「内村鑑三と新渡戸稲造」の録画。
NHKの教育テレビで、2012年7月1日に放映された内容の録画DVDです。
見ることができなかった方々にお送りすることができます。1枚200円です。送料は何枚でも100円。(300円以下の切手でも可です)
若い世代はもろちん、現在の日本人の多くは内村鑑三といっても知らない人が大多数と言える状況です。この番組の内容は内村鑑三と新渡戸稲造に関するごく一部分でしかありませんが、この二人を知らない人に紹介するのにはよい内容となっています。
このようなDVDから、内村鑑三や彼の書いたものに関心を持ち、さらに聖書、キリスト教に導かれる人が出ますようとねがっています。

○祈の友・四国グループ集会
去年は、徳島での開催だったので、今年は高知の開催予定でしたが難しいとのことで、松山市での開催です。「祈の友」以外の方々も自由に参加できます。
・日時 2012年9月22日(土曜日、秋分の日)午前11時~午後4時
・内容は、聖書講話(冨永尚、吉村孝雄)交流と自己紹介。午後三時の祈りなど。
・場所 松山市友輪荘
・申込先 冨永 尚 E-mail松山市土居田町 747の4
・電話 090-3784-2888

○9月の移動夕拝
・9月25日(火) 場所 奥住宅 徳島県板野郡藍住町矢上字安任171-8 午後7時30分~9時。スカイプでの参加もできます。スカイプでの参加希望者は 貝出久美子まで。(

1014日(日) 吉村孝雄は次の二つのキリスト集会にて御言葉を語る予定です。
①阪神エクレシア 午前10時~12時。 JR元町駅から歩いて5分ほどの、神戸私学会館にて。問い合わせ先 川端紀子)電話 078-578-1876 E-mail
②高槻聖書キリスト集会 午後2時~4時 問い合わせ先 那須佳子 ・集会場…高槻市塚原585 電話 0726937174

○第40回 キリスト教(無教会)四国集会
・2013年5月11日(土)~12日(日)の予定で、徳島の担当です。
○次の報告に記した近畿無教会集会での、岩谷 香さんの講話(証し)、、吉村孝雄の再臨に関する主日礼拝講話の録音を希望者の方におおくるすることができます。
普通のCDラジカセで聞く型式にすることも、MP3対応にすることもできます。MP3対応機器を持っていない方は、前者で申込ください。いずれも送料とも200円です。 回 近畿地区無教会 キリスト教集会 8月26(土)~27日(日)
毎年の夏に行われている京都市西部の桂坂での集会で、今回のテーマは「再臨」という、一般の無教会や教会などの特別集会でも、取り上げられているのはほとんど見ることがないものであった。しかし、再臨ということは、十字架による罪の赦しの信仰、死にうち勝つ復活の信仰とならんで、キリスト教信仰の根幹をなすものである。罪の赦しは個人的な意味が強く、復活も人間が死んだあとのことであるが、それなら、この世界、宇宙全体は最終的にはどうなるのか、ということについては、再臨の信仰によらなければ解決がない。そして新約聖書はそのことについて明確な啓示を記している。
今回の集会によって参加者は改めて、あるいは初めてこの、「主イエス再び来たりたもう」 という二千年前から変ることなく伝えられてきた真理の一端に触れることができたということで大きな意味があったと思われる。
参加者は、部分参加を合わせて五十数名。近畿地区以外では、遠く青森県や東京、広島、徳島、岡山、愛媛などからの参加があった。
土曜日の講話は、青森からの岩谷香、「内村と矢内原の再臨信仰に学ぶ」では、前者を那須容平、後者は新山靖彦(いずれも大阪府)が担当、主日礼拝の聖書講話は、吉村孝雄が担当し、特別讃美のプログラムでは中川陽子(徳島)が担当した。

○愛農聖書研究会(愛農聖研)への初めての参加
第108回の愛農聖研に今回初めて参加する機会が与えられた。8月28日(火)~30日(木)までの三日間であった。プログラムは、聖書講話、自己紹介、早朝祈祷、聖書の学び、讃美の時、証し、座談会、分かち合いなど。そのうち聖書講話は、佐藤全弘―関西合同聖書集会代表(Ⅰコリント11章1~4)、犬養光博ー日本キリスト教団無任所牧師(Ⅰコリント9の1923)、日高伴子ー蘇原教会牧師(Ⅰコリント6の1920)、吉村孝雄(ローマ5の1~3他)の4名によるものであった。
讃美のときは、聖書の引用文を交読しつつその間に、「つかわしてください-世界のさんび 1」から讃美を多く歌っていくという形でなされ、祈りとみ言葉と讃美を一つにしたものであった。
私が担当させていただいたのは、聖書講話以外に、三日目の早朝祈祷の1時間で、司会と20分ほどの祈りについての聖書からのお話し、それから夜の座談会での発題であった。夜の座談会は次の三つに分かれてなされた。カッコ内は担当者。①小谷純一読書会(佐藤全弘) ②原子力発電と聖書(吉村孝雄)③信仰のイロハ(日高伴子)。
私は、原発それ自体に関する本は現在では多数のものが現在も発行が続いており、いくらでも読むことができるが、聖書やキリスト教から見た原発というテーマでの書物はごくわずかであるので、そのことについて発題をさせていただいた。
早朝祈祷の讃美のときには、霜尾共造さんのピアノ伴奏のほかに、野村行生さんのチェロが加わって伴奏がなされるという、早朝祈祷の讃美としては異例のこととなり、その二つの伴奏によっていっそう讃美が豊かにされ、心がうるおされる思いであった。
今回の参加者は、部分参加も合わせると35名ほどで、地元の三重県以外からは、長野県、沖縄県、長崎県、大阪、舞鶴市、和歌山市、愛知県、岐阜県、愛知県など各地の何らかの愛農学園と関わりある方々であった。
毎年二回もこのような集会を開催すること、しかも50年以上にわたって継続されてきたことのなかには、背後に多くの愛農にかかわる方々の祈りと具体的な開催のための準備の働きが積み重ねられてきたことを思ったことであり、そうした長い歳月を導かれた神の御手が感じられた。聖霊社代表の堀田新吾さんは、「!!愛農聖書研究会に御参加を!!」と題したB4用紙一枚に、次のような言葉が書かれてあった。

「…愛農に連なる皆様。 私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ誰も父のもとに行くことはできない。」と言われています。…愛農運動は人類救済、救地球運動です。 小谷純一先生が起こした愛農運動は、人づくりからはじめて一歩一歩目標に向って前進する土台となる運動です。その基礎にキリストを通して神のみもとにいき、あふるきる希望と喜びに満ちた歩みをさせていただくことであります。…」

このような文の最後に、一人一人にコメントを書いて送っているとのことであったが、これは小谷純一がかつて行っていたことを踏襲しているということであった。これは一例であるが、背後でのこうしたいろいろな方々による、主にあるご奉仕のゆえにこの愛農聖研も長く続けられてきたのだと感じた。
今後ともこの愛農聖研が、主の祝福を受けて続けられ、若い年齢の方々や初めての方々にもより参加しやすいものへと主によって導かれるようにと願ったことである。