渇く者は来たれ、望む者は価なくして 生命の水を受けよ。

(黙示録2217



201310月 第632号 内容・もくじ

リストボタン人生の秋

リストボタンを覚まして

リストボタン信仰、それは全てを包む―ジョン・ニュートン

リストボタン雨のごとくし

リストボタン小泉元首相の原発ゼロ論

リストボタンことば内田正規、ローマの殉教者

リストボタン休憩室宵の明星、ゴーヤ

リストボタンお知らせ「野の花」



リストボタン人生の秋

 

 秋、それはしばしば美しい。紅葉、果物の色づく季節。そして澄んだ大気と夜空の星、さらに虫の歌声。

 しかし、それらは都会ではどれも味わえない状況となっている。

 いつの季節も変わらぬコンクリートの建物の林立と道路、そして車、人、人、人…。そこには、秋の美しさや清さを感じることは難しい。

 だが、人生の秋は、今も昔も、そして都会であっても田舎であっても感じさせられる。そしてそれは多くの人にとって喜びでなく、哀しみや痛みをもって感じることも多い。

 秋には、草木も多くは、次第に枯れていく、死んだようになっていく。人間も老年になると年ごとに確実に弱まり、自由に動けなくなっていく。

 かつては親しかった友もやはり動けなくなり、孤独となっていく。施設に行く場合にも他人との不自由な共同生活となる。自分の病気や、老齢化の問題のほかにも、家族のことなどさまざまの問題を抱えている人も多いだろう。しかも、老人の嘆きなど心して聞いてくれる人も少ない。何かをせよと勧められてもそれができなくなる。

 そうした状況にあればこそ、そのような人生の秋となってもなお、活力を与えてくれるものを私たちは求める。

 そのような力を持つものは、ただ神だけである。神は、私たちを愛をもって創造された。それゆえに、どこまでも共に歩んでくださる。歩けなくなったときには、私たちを担って御国へと進んでくださる。そのような神の愛はすでに今から2500年ほども昔に知られていたことに驚かされる。

 

…彼らの苦難を常に御自分の苦難とし

御前に仕える御使いによって彼らを救い、

愛と憐れみをもって彼らを贖い、昔から常に、彼らを負い、

彼らを担ってくださった。(イザヤ書63の9)

 

 また、私たちが大きな苦しみに直面して祈ることもままならぬとき、聖霊が私たちの心に近くあって共にうめくといわれるほどにとりなし、祈ってくださる。

 

…(神の)霊も弱い私たちを助けてくださいます。

 私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。(ローマ 826

 

 この二つのことこそ、私たちの人生の秋において、なお新たな力と支えを与えられ、導かれていくために不可欠なことである。そしてそのような恵みはただ神を信じ、祈り願うだけで与えられるというのが私たちに与えられた約束なのである。 

 


リストボタン目を覚まして

 

 私たちの日常生活で、とくに何らかの信仰を持っているかどうかに関わらず重要なことは、精神的に目覚めた状態にあるということであり、それはたいていの人にとって分かりやすい戒めであろう。

 新約聖書にもこの「目を覚ましていなさい」ということは、重要なこととして現れる。

 ギリシャの都市、コリントのキリスト者に対する第一の手紙の最後に述べられている二つの重要なことの一つは、目を覚ましていなさいということであり、もう一つは、「あなた方に属するすべてを愛の内に end agape(愛によって )、生じせしめよ」(原文の直訳、Ⅰコリント1614)である。目を覚ます―これは言い換えると神を常に仰いでいなさい、ということである。

 この二つのことが、キリスト者の日常生活の中心にあるべきこととされている。

 主イエスが、へびのように賢くあれ、と言われたことも、心貧しきもの―みずからの罪を知り、神にたえずその罪の赦しを乞う者であれ、と言われたことも同じである。

 主イエスは、その山上の教えの冒頭に、心貧しい状態こそ、幸いだと言われた。自分の能力とかお金、地位などに頼る心は、イエスが言われた心貧しき状態とは逆のことである。

 それは、自分が持っているものに頼っているということであり、それは自分や物を見つめていることであり、眠っていることである。

 まず、神の国と神の義を求めよ、といわれたこと―それも目を覚ましておれ、ということの別の表現に他ならない。

 いつも祈れ、すべてに感謝せよ、いつも喜べ ―この言葉も、祈り、感謝すること、そして与えられていることを見つけて感謝できるということは、 霊的に目覚めていることを示すものである。

 また、身近なもの、日常的なことのなかに、神からのメッセージを汲み取ることもまた、目覚めていることである。

 目を覚ましているか、眠っているか。それはまた、生きているか、死んでいるかということでもある。

 「あなた方はかつて死んでいた。それをキリストによって復活させていただいた」(エペソ書2の1)と言われている。 復活したとは、新しい命を受けたことである。その新しい命は、つねに人間を目覚めさせている。

 聖霊はまた、目覚めさせる力がある。知識を幾ら持っていても、目覚めにならないことも多い。聖霊はすべてのことを教える。(ヨハネ1426)人間の知識も眠らせることがしばしばある。

 原発の危険性は、早くからわかっていたにも関わらず、この40年あまりという長い年月、圧倒的多数がそのことについて眠らされていた状態にあった。いまから、70年ほど前の東南アジア・太平洋戦争も、いかにそれが間違ったことであるか、韓国や中国、東南アジアの人たちにいかに多大の害悪を及ぼしていたか、ということについても、一般の人も、学問ある人たちも、あるいは文学者や音楽家などの芸術家等々、みな眠らされてしまって、起こっている事態の真実を知らない状態となっていた。

 また、恐れが強くなると、人間的な考えが支配して、この世のまちがいを見抜くことができなくなる。一般のキリスト教会もあの戦争を聖戦というほどに眠ってしまった。その点、無教会の鈴木弼美、矢内原忠雄、藤沢武義、浅見仙作などの人たちは、引き起こされた戦争や当時の政府や軍部に対して目覚めた心を持っていた。

 預言者たちは、ほかの大多数が眠っている状態のときに、ひとり目覚めていた。それは神からの啓示を受けていたからである。神によって引き上げられていたからである。一般の人たちよりはるかに高い霊的状態であり、神ご自身が見えるほどに目覚めていた。アモスやゼカリヤ等々の預言者たちは、周囲の人たちが見ないものを見ることが与えられた。霊の目覚めということもきわめて高いものがある。この世の状況を見抜くだけでなく、天の国、神の世界のことまでも見えるほどに目覚めは深く、高かったのである。イザヤもエゼキエルも神を見た。

 自然の世界、この世のこと、歴史のこと、そして未来のことを正しく見るには、霊的な目覚めが不可欠である。

 偶像崇拝は眠っていることである。偶像崇拝を一貫して非難し続けたのは、目覚めよということであった。

 神が見えないこと―それが眠っていることだからである。アブラハムも妻のことを偽った。自分の命を守るために。ダビデも大罪を犯した。それも眠っていたからである。

 また神は愛であるから、愛なきことも眠っていることである。例えば数学や物理の計算などは、コンピュータという機械が人間よりはるかに巧みになすことができる。

 霊的には死んでいるものでも計算はできる。

 主イエスが言われた、私の内にとどまっていなさい。そうすれば私もあなた方の内にとどまっている。と言われたことも、主イエスの内にあることを求め、願うとは、目覚めようとしていることである。この世のことに心が奪われていたらそのようなことは思わないからである。

 主イエスが私たちの内にいてくださる、キリストが私たちの内に生きているという状態こそ、最も目覚めていることである。キリストは主なる神と同質であり、主は夜も、まどろむことも眠ることもないからである。(詩篇121の4)

 

 万事を愛をもって生じさせよ。これはⅠコリント13章で詳しく述べられたことである。コリントの集会が混乱したのは、神の愛でなく人間の党派争い―自分が上になろうとする気持ち―がもとにあったからである。

 目覚めていないで、人間の思いが強くなってしまい、愛に立つことなく、信仰に立たず―それゆえにそうした問題が生じた。

 私たちはどうしても目覚めていることができず、眠ってしまう。それはゲツセマネの園において、イエスがもう死ぬばかりに苦しんだとき、弟子たちはみな眠り込んでいたことに象徴的に示されている。

 なぜ一人くらい目覚めていることができなかったのか―と思われるだろう。

 主イエスの目覚めと比べるなら、皆眠っているのだということである。それは、神のいのちに比べるなら、みな死んでいる。愛も真実も正義も保つことができない汚れた存在にすぎない。

 あるいは、ローマの信徒への手紙に、清い人はだれもいない、などと記されていること、さらに主イエスご自身も、カラシダネほどの信仰があれば、山も動くと言われた。それほどに皆、信仰がないのだということになる。

 このように、イエスの最後の夜の必死の祈りにもかかわらず、弟子たちが皆―一人の例外もなく眠りこけていたという記述のなかに、人間の本性が示されているのである。 

 


リストボタン信仰、それは新しく、すべてを包む理解力

      詩 ジョン・ニュートン

 

見ること、聞くこと、感じること、味、そして香りをかぐこと。

それらは、私たちが 高く評価する贈り物だ。

しかし、信仰はそれだけでそれらすべてに勝っている。

しかも、それらすべてを含んでいる。

 

鷲が飛んでいるときに見るよりも鋭く

信仰は、知られていない世界を 注意深く見る

栄光に満ちた光の世界を見、

王座にイエスがおられるのを見る

 

信仰は 力強い神の声を聞く

そして神が言われることを熟慮する

神の言葉、その業、賜物、そして鞭

それらはそれぞれに各人の信仰に語りかける

 

信仰は、天の力を感じさせるもの

(ルカ846 「病の女が私の服に触れたとき、私から力が出て行った…」)

そして、その無限の源から

新鮮な活力が、たえず得られる。

 

Faith a new and comprehensive

 sense.

 

Sight, hearing, feeling, taste and smell,

Are gifts we highly prize;

But faith does singly each excel,

And all the five comprise.

 

More piercing than the eagles flight

It views the world unknown;

Surveys the glorious realms of light,

And Jesus on the throne.

 

It hears the mighty voice of God,

And ponders what he saith

His word and works, his gifts and rod,

Have each a voice to faith.

 

It feels the touch of heavenly powr,

Lk 8:46

And from that boundless source,

Derives fresh vigor every hour,

 

*)この詩は、ジョン・ニュートンが発行した「オルニー賛美歌集」Olney Hymns (1779年発行)第3巻、Ⅳ-43 に収録されている。有名な、Amazing Graceは、その讃美歌集の第1巻第41番目にある。第1巻は、聖書の箇所が選ばれてそれに関する関連の詩が収録されている。Amazing Graceは、歴代誌上171617節に関連して作られた詩である。 これが、のちにいろいろな曲が付けられて歌われるようになったが、そのなかで、現在の曲が世界で最も愛好されるようになった。

 イギリスのスコットランドのバグパイプによる演奏は、そのバグパイプ自身が持っているある種の哀しみをたたえ、かつ重々しい演奏が、このAmazing Graceの内容を表現するのにふさわしいため、映画「Amazing Grace」では、最後に多くの演奏者によるバグパイプ演奏のAmazing Graceで 締めくくられている。

なお、この映画は、讃美歌の映画でなく、イギリスの奴隷貿易廃止、奴隷制度の廃止のために、キリスト教精神をもって献身的に働いた政治家、ウィルバーフォースの伝記映画で、2007年に公開。それは世界で初めて彼のリーダーシップによって、1807年奴隷貿易廃止されたことを記念して製作された。 

 


リストボタン霧雨のごとく、またしずくのように

 

 神が何かをなされるとき、さまざまの仕方でなされる。しばしばそれは突然に見える。使徒パウロは、まったく突然に天よりの光を受け、キリストからの呼びかけを受けた。それは、彼がキリスト教徒を迫害して、国外にまでその追跡をしている途中であった。パウロはキリスト教徒を殺すことに加担さえしていたが、それほどの人が、キリスト教に回心するとは本人も周囲の人たちもまったく想像したこともなかっただろう。

 アブラハムにしても、長く住み慣れた地にあったのに、突然神からの呼びかけによって、遠く離れた地に行くようにと命じられた。

 12弟子たちも、仕事をしている最中―例えばペテロやヨハネたちは漁師としての仕事をしているとき、マタイは徴税人として働いているとき、イエスから呼びかけが突然あった。それに従って彼等は弟子となった。

 このように、キリストの弟子となるときは、だれも予想のつかないときに突然行なわれることがある。

 しかし、じつは、そのような突然の呼びかけのときにも、静かに振り返ってみるとき、さまざまの語りかけ、道筋が備えられていたのを思いだす。

 私も突然にキリストの十字架の意味を知らされ、そのときからキリスト者となった。

 しかし、それまでに、生まれたところが、敗戦の3カ月後の混乱のさなかの中国(満州)であったこと、そのために、日本に帰るまで筆舌に尽くしがたい困難に直面し、そのことから、10カ月後にようやく帰国できたものの、母が重い病気になったこと、死ぬかどうかという状況にあり、辛うじて命をとりとめたものの、それ以後は、病弱となって寝ていることが多く、そのためもあって家庭が暗かったこと、またその後もいろいろと家庭に問題が生じた。

 …そうしたすべては、実は、神のはたらきが少しずつなされている過程だったのだと気付いたのである。

 

…神は、時にはその業を静かな霧雨をとおしてなされる。…嵐のごとくでなく、ひとしずく、ひとしずく、またひとしずく…と。

God sometimes does His work through gentle drizzle not storms. drip, drip, drip.*

 

*)アメイジング・グレイス(Amazing Grace)という有名な讃美歌作者であったジョン・ニュートンの晩年の言葉。これは、前述のウィルバーフォースに対して語りかけた言葉であった。

 このことは、だれにでもあてはまることである。今もなお神はそのお働きを時には静かにだれも気付かないような仕方でなさっている。主イエスも言われた。

 

…人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。(マルコ4の2627

 

 神は徐々に、静かにその業を確実になさっていく。どんなに遅いと思われる場合でも、神はつねにそのみ業をなされる。時には突然、そしてあるときには、しずくが静かに落ちるように…。

 神のなさり方は、実に千差万別である。私たちの周囲の自然はそうした神のわざがいかに多様性に富んでいるかを日々私たちに指し示しているといえよう。

 主イエスが例としてあげた、植物も種が蒔かれると、音もなく成長していく。そして時が来ると花を咲かせ、実をつける。人は、種を蒔く。しかし成長させるのは神である。          (Ⅰコリント3の6~7)

 このような静かなる成長は、私たち一人一人において神がされる。神の命の水を飲み、霊の太陽である神の光―命の光を受けつつ歩んでいく。それは神の国のいのちをひとしずく、またひとしずくと受けていくことである。

 旧約聖書に、ヨブという人のことが記されている。

 神を信じて歩み、子供たちの罪の清めのためにも定期的に捧げ物をしていた信仰の心がしっかりした人であった。

 しかし、突然財産は奪われ、子供たちは殺され、みずからも恐ろしい病気に苦しむようになり、そのうえに妻からも信仰など捨ててしまえといったひどい言葉をも投げかけられる状況となり、耐えがたい日々となってしまった。

 そこからヨブは生まれてくるのでなかった、なぜ自分は生まれたときに死んでしまわかったのか…と自分の運命について苦しみうめくようになった。 友人もそれをみて慰めに来たが、それは慰めにならず、ヨブの苦しみは彼の罪のゆえだと非難することになり、それをヨブはみずからの罪のゆえでないと反論し、彼の苦しみはずっと続く。

 そうした長い時が経って、突然 神はヨブに神のわざの深さ、高さ、そしてその無限の広がりを語りかけた。そうしてようやく、ヨブは本当の意味で神に立ち返り、そこから癒しと祝福を与えられた。

 ヨブ自身が気付かない苦難のときにも、神のわざは着実になされていたのである。

 こうした記述も、神の業は、どんなに変化がないと思われるときでも、確実に注がれているのだとわかる。ひとしずく、そしてまたひとしずくと、その恵みは注がれていく。しかし、人間はそれに気付かないだけである。

 それゆえに、私たちはそうした神の愛とその業を信じるという道を示されている。見ずして信じるものは幸いであるといわれたとおりである。(ヨハネ 2029

 

 どんなに神の恵みがないと思われるときであっても、神は恵みの水を滴り落ちるように計画しておられる。

 鍾乳洞では、石筍が1メートル成長するには、1万数千年もかかるという。

 そのような成長はいつまでもゆっくりとしているが、神の御計画においては、たしかに長い間、ゆっくりとほとんど分からないような変化しかないように見えても、時至れば突然にして変えられる。

 それは旧約聖書以来、主の日、あるいは終りのときと言われている。

 このことは、主イエスも、その時まではだれも気付かない。同じような日々が流れていく。しかし終りのときは、突然にして来る、と言われている。

 それは、この世界、宇宙全体のこととして言われているが、それはまた私たち一人一人の復活も似たところがある。

 地上に生きている間、神の恵みはたえず注がれているが、罪はまた私たちにどこまでもついてまわる。

 しかし、そうした弱く土の器という汚れた存在であるにもかかわらず、死後の復活のときには、ラッパの音とともに一瞬にして変えられると記されている。

 

…ここで、あなたがたに奥義を告げよう。私たちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。

 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちないものによみがえらされ、私たちは変えられるのである。(Ⅰコリント155152

 

 このように、小さなしずくが落ちるように、気付くこともないような恵みが日々注がれているということと、いかに闇や混乱が続くようであって神のわざなどないようにみえても、必ず、神はその業を突然に現して私たち、そしてこの世界全体を新しい天地としてくださる。ここに私たちの最終的な希望がある。

 

 

生きるとはどういうことか

 

 人はパンだけでは生きることはできない。

神の口からでる一つ一つの言葉で生きる。(マタイ4の4)

 

 普通には、生きるとは、口から食物をとることである。これは動物にすべて共通している。口から入る食物とは、化学的栄養分をとって生きるということであり、それは口のない植物や細菌類などもみな共通している。栄養分を外界から取り入れることが生きることだということは、そのようにすべての生きているものに共通である。

 しかし、人間にだけは、そのような食物だけでは、動物として生きることはできても、人間として生きることは、できない。

 それは、みずからの命を断つ人、あるいはそうでなくとも、心の病気となり、生きる気力をなくして影のようになってしまっている人はたくさんいるがそれは食物がないからではない。

 それは、口から入る栄養分以外のものを取らないからである。

 聖書は生きるとは何か、ということを一貫して述べている書である。聖書の巻頭の言葉、闇と混沌にあって、そこに神の霊の風が吹いていて、さらに、光あれ、という神の言葉によって光が存在するようになった。この記述もそのまま、生きるとは何かを示している。

 それゆえに、主イエスは、「イエスは、また人々に語ってこう言われた、「私は世の光である。私に従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつ。」(ヨハネ 812

 神からの光、それはそのまま命であり、本当に生きることになる。

 この世は混乱と闇である。しかしそこで生きるとは、神の国からの風を受け、神の光を受けて歩むことなのである。

 それがなかったら本当に生きることはできない。口から入るパン、食物だけでは、そのような闇を照らすことはできないし、霊から与えられる力をも生み出すことはない。

 アダムとエバという人間の最初のモデルにおいても、食べて死ぬ木といのちの木があった。そこにも何が人を生かすのか、ということが出ている。 そこでは、食物がいくらあっても、神抜きに知るだけでは死に至るということが意味されている。

 ノアの大洪水という記述も、神に従わず―言い換えると神の言葉を食べないでそれを拒んでいると、滅びてしまうということを意味している。ノアが滅ぼされずに生きることができたのは、神に従ったこと、すなわち神の言葉を食べたからである。

 イザヤ、エレミヤ、アモス等々の預言書と言われている人たち―それは偶像を礼拝することは死に至る。しかし、真実の神を礼拝することは生きることになるということから、一貫して人々の間違った選択を指摘して神に立ち返ることを強調しているのである。そしてそのことは、神の言葉によって生きることである。

 偶像崇拝とはこの世界、宇宙を創造された神でなく、人間の作り出した創造上のもの―神話の人物とか動物や大木、あるいは人間などを神として拝むことである。

 そうしたものは人間の魂の深い要求を満たすものでなく、本来滅びいくものでしかない。それゆえに、そのようなものに魂を結びつけることは滅びに至る。

 心の貧しい人たちは幸いである―なぜなら神の国はその人たちのものである。生きるとは心貧しくあり、神の国を受けることである。心貧しいとは心に何ら誇るものがないことである。

 自分は本当に何も持っていない、力がない、という実感が心貧しいと表現されている。しかし、それだけではそのような気持ちをさらに強く持つなら、何も自分にないから絶望的となり、死へと向う心になりかねない。

 聖書は、その心貧しさから神を仰ぐとき、そこに命そのものである神の国を与えられるということなのである。生きるとは、心の貧しさを絶えず保ち、そこから神を仰ぐことである。

 また、悲しむ者は幸いだ、と言われている。悲しみもそれが深くなるだけなら、死に近づく。しかし、そこから神を求めるとき、神からの慰め、励ましを受けて悲しみのただ中にあって生きる力、歩むべき道が与えられる。

 悲しみのとき、苦しみのときも上よりの励ましと力を受けつつ歩むこと―それが生きることだ。

 そして、主よりの励ましや力を受けることは、神の言葉によって生きることに他ならない。

 わが内には、キリストが生きている、そしてそのキリストからの言葉により、その霊によって導かれて生きる―そのようになることが本当に生きることだ。

 詩篇23篇にあるように、主をわが牧者として、導かれ、憩いの水際に伴っていただき―これは、神からの言葉を受けて、励ましや慰め、そして力を受け、魂を日々リフレッシュしてもらいつつ、生きること―これが本当に生きることである。

 神によって正しい、罪はない(義)とされる―このことも、正しく生きるために不可欠のことである。義とされないとは、神から不正であるとみなされることであるが、 不正な状態であり続けるものは最終的には滅ぼされる。

 復活の信仰、それも私たちが天からのからだが与えられると信じることである。それは死を越えて生きることである。

 こうしたすべては、人間が生きるということは、神の口からでる言葉によるのを示している。―アブラハムが住み慣れた郷里を捨てて、神からの語りかけによって歩みはじめた。それによって彼は本当に生きるとは何かを体得していった。

 アブラハムだけでなく、その後のヤコブ、ヨセフ、モーセ、ダビデたちにおいても、彼等が本当に生きることができたのも、神の言葉を聞いてそれに従ったからである。

 それが彼等の力となった。神の言葉―天来のパンによって彼等は困難を越えて、生きることができた。彼等も神の口からでる言葉によって生きたのであった。

  新約聖書の時代になって、神と同質であるキリストが地上につかわされ、さらに死して復活し、聖霊となって使徒たちの心の内に住み、そこから親しく言葉を語りかけるようになった。

 キリストが内に住んでくださっている、あるいは聖霊が内に与えられているときには、その間近におられるキリストからの言葉によって導かれ励まされ、命が与えられるようになる。

 神の口から出る言葉によって生きることが現実になって現れる。

 現代の私たちにとって、神の言葉によって生きるために、聖書が与えられている。聖書を心して読むときには、私たちに、いのちのパンが与えられる。魂の糧を与えられる。数千年前に語りかけた神の言葉を、私たちも受けることができる。神は力であり、それゆえ、その神のご意志の表れである神の言葉も力である。また、神は愛である。それゆえ、神の言葉もまた愛である。

 逆に、心の冷たい人間は、その言葉もまた冷たくなる。いくら表面的な態度をつくろっても、その内部にある実体は隠すことはできない。「巧言令色鮮(すくな)し仁」(孔子・論語学而第一)と言われているとおりである。主イエスも「口から出て行くものは、心の中から出てくる」(マタイ1518)と言われた。

 しかし、昔は聖書という書かれたものはほとんどの人は持っていなかった。それでも神の言葉を聞いてそれを命の糧としていた人たちは多くいた。

 その一つの明白な証しが詩篇である。詩篇には、ダビデの歌と記されているのが多いが、それ以外に、コラの子たちの作とされたものもいろいろある。(詩424449848588篇)

 また、アサフの歌と題されたのも、詩507883篇などあり、さらにモーセの祈りと題された詩篇90などもある。

 そして作者名が記されていない詩も多く、当時の真剣に神を信じる人たちの心の情景がまざまざと表されている。このような多くの人たちは、みな、書かれた神の言葉を持ってはいなかった。

 それは直接に神からの語りかけ、活ける神の言葉を受けた人たちだった。

 

…私の魂は沈黙して、ただ神に向かう。

神に私の救いはある。

神こそ、私の岩、私の救い、砦の塔。私は決して動揺しない。…

わが魂よ、沈黙してただ神に向かえ。

わが希望は神から来る。

         (詩篇62の2~3、6)

 

 このようにただ神に心を注ぎ、神に信頼して向う心には、主は答えてくださる。この詩の作者が置かれていた状況は、悪しき者が周囲に多くあり、人を攻撃し、滅ぼそうとするような険しいものだった。

 そのような時に、人間に心を揺さぶられることなく、神に向ったのである。

 そこからこの詩の作者が聞き取った言葉は次のようである。

 

…ひとつのことを神は語り、ふたつのことを私は聞いた、

力は神のものであり

慈しみは、私の主よ、あなたのものである、

ひとりひとりに、その業に従ってあなたは人間に報いをお与えになる、と。(詩篇621213

 

 このような活ける神からの直接の言葉を聞き取ったときには、同時に人は力を与えられる。人間のさまざまの汚れた言葉、悪意のある言葉は私たちから力を奪い取る。

 しかし、神の言葉を受けるときには、新たな力を与えられる。

 次のような詩も同様である。

 

…神よ、あなたは私の神。私はあなたを捜し求め、

私の魂はあなたを渇き求める。

あなたを待って、私の体は乾ききった大地のように衰え、

水のない地のように渇き果てている。(詩篇63の2)

 

 ここにも全身で神からの力、その御心、神の命を待ち望む人間の姿がある。そのような求めに、神は時至れば答えられた。それによってこの詩の作者は、次のように告白することができた。

 

…今、私は聖所であなたを仰ぎ望み、あなたの栄えと力を見ています。

命のある限り、あなたをたたえ、手を高く上げ、御名によって祈ります。

私の魂は満ち足りました。

最もよき食物(*)を受けたように。

私の唇は喜びの歌をうたい、私の口は賛美の声をあげます。

床に就くときにも御名を唱え、あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。(詩篇6347より)

 

*)新共同訳は、「乳と髄」と訳しているが、口語訳は、「髄とあぶら」、新改訳は、「脂肪と髄」と訳している。この原語は、双方とも 「脂肪」 を意味するので、英語訳も口語訳、新改訳のように、前者あるいは後者が fat(脂肪)と訳されているのもある。古くからの英訳では marrow and fatness (髄と脂肪)(KJV)と訳されているが、それでは何の意味が現代の人には分からないため、現代訳では異なる訳語が用いられている。

 

 例えば、現在の英訳の代表的なものの一つ、新国際訳(New International Version  )は、 脂肪(fat)を訳語として用いず、「食物のうちでも最も豊かなもの 」 with the richest of foods と訳している。あるいは、他の英訳では、 with rich food (CSB)のように訳しているのもいくつもある。

 

 現在の人々のイメージでは、脂肪 というと 到底最もよい栄養物とは考えられていない。むしろ逆であって、脂肪は肥満と直接につながるということでいかに脂肪分をとらないで食事するか、などが大きな関心事になっているから、そうした状況からこの詩を読むと 不可解なことになる。

 

 これは、古代の社会的状況を考えて受け取らねばならない言葉の一つである。古代には、脂肪は貴重なエネルギー源であり、脂肪分を豊かに持っている動物は、健康的な証拠とされていた。実際、私が小学生のころ、父が副業として鶏をたくさん飼育していたので、しばしば私も鶏をさばくことがあった。その時、病気で死んだ鶏は、黄色い脂肪分がほとんどなく、健康な鶏は豊かな脂肪分があったのをよく覚えている。こうしたことから古代では脂肪分は豊かさ、健康の象徴として、よき部分のしるしとされていて、神にも捧げられていたほどであった。

 

 このように、渇ききった魂に平安と力が与えられ、喜びで満たされるようになったのは、ひとえにこの作者が真実に神を信じて求め続けたからであった。そのような新たな生き生きした生となったのは、神からの応答、その活けるみ言葉による。

 ここでも、神の言葉によって生きる、ということが、旧約聖書の詩人によって生き生きと描写されていることを知らされる。

 詩篇はこのように、その全体が神の言葉によって生きることを述べているのであるが、とくにそのことを繰り返し強調して歌っているのが詩篇119である。この詩は神の言葉がいかに人間の生活全体にわたって重要なものであるかを繰り返し、さまざまの表現を用いて表している。

 

…わが魂は、塵に着いています。(*

み言葉によって、命を得させてください。(詩篇119の25

 

*)塵に着いている、この表現では何のことか分からない。日本語で塵とはゴミのことでもある。「ごみ」を辞書でひけば、塵 と出る。聖書で 人間も塵から出て、塵に帰る という表現がある。しかし、これは聖書が書かれた地域、砂漠や雨のわずかしか降らない感想した地域であり、土がそのまま土ぼこりとなって飛び散ることから 塵と訳されたりするが、この原語 アーファールは、土とも訳される言葉である。

…それでペリシテ人は、すべての井戸に土を満たしてこれをふさいだ。 (創世記2615)

 

 それゆえ、人も死んだら塵に帰る、という表現も、死んだら土に戻るということである。

 

…すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る。(コヘレトの言葉 320

 

 自分の魂は、土に着いている、すなわち土のような汚れたもの、地上的なもの―憎しみやねたみ、あるいは快楽やあそびなどに固着してどうしても本当に正しい道が歩めない―といった意味を持っていると考えられる。

 そのようなときに命を与え、立ち上がらせ、正しい道に歩ませてくれるのが 神の言葉だと知っていたのがうかがえる。

 神の言葉がなければ、土で表されるような低いもの汚れたものからどうしても離れられないという苦しみを持っているのである。

 この詩篇119にある、次のような言葉もほぼ同様である。

…あなたのみ言葉(*)を喜びとしていなければ、私はこの苦しみの中で滅びていただろう。

私はあなたのみ言葉(**)を永遠に忘れない。

それによって命を得させてくださったのだから。(9293節)

 

*)原語は トーラー。律法と訳されることが多いが、新改訳は「み教え」、口語訳は「おきて」と訳している。新共同訳でも、「み言葉」、あるいは「教え」(詩篇12)などと訳している箇所がある。

 

**)この原語は、ピックーディーム。これは新改訳で「戒め」、口語訳で「さとし」と訳され、新改訳では「命令」と訳されている。これらを見て分るように、詩篇119では、神の言葉に多様な言葉を用いている。それは詩であるから、単一の言葉では単調にすぎるからである。日本語では、律法、教え、み言葉 というのはニュアンスが相当異なる。しかし、原語はいずれもトーラーである。あるいは、戒め、さとし、それと命令  とは 意味が異なる。にもかかわらずこれらの原語は、同じである。こうしたことから分るように、詩篇119では、原語を抜きにして、そうした多様な訳語だけを取り上げてどう違うのか、などと考えても無意味であって、「神の言葉」として受け取ることがより全体の意味をただしく受け取ることができる。

 

 このように、詩篇の119では、とくに神の言葉こそが命を与えるものだということが深く捕らえられ、繰り返し、さまざまの言葉によって表現されている。

 神の言葉についてだけの詩、しかも11頁に及ぶ、長大な詩となっている。それは神の言葉の重要性については語っても語っても尽きることがない、という作者の思いの反映であるとともに、神がそのように神の言葉の深さを啓示してそのように書かせたのだということである。

 そして、この詩が書かれてはるか後の時代―おそらく500年ほども後になって、主イエスが、人はパンだけで生きるのでなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるという言葉を言われ、それが世界に永遠に告げられることになったのも、この詩篇作者の受けた啓示の深さを物語るし、このように編集した人も神に導かれて特別に多くのスペースを与えたのだと考えられる。

 現代に生きるキリスト者もみな、その程度の差はあれ、神の言葉を霊の食物として取り入れている。

 主が教えられた祈り(主の祈り)には次の祈りがある。

 

… 私たちの日毎の食物を今日も与えてください。

 

 この祈りには、当然霊的な食物も含むと考えられる。口から入る食物だけでは生きることはできないとはっきり言われているゆえに、口からの食物だけの祈りを最も大切な祈りとして教えたということはあり得ないからである。

 主の祈りは万人にあてはまり、またいつ何時でも祈ることができる最も深く広い意味が込められた祈りである。

 私たちも、いのちのパンである神の言葉、そして霊のキリストを日々受けて生きること

を目指したいと願うものである。 

 


リストボタン小泉元首相の原発ゼロ論

 

 自民党で以前から、原発に反対を明確にしているのは、河野太郎だけである。その他に原発ゼロの会に属している議員としては、原発に近い茨城県から比例で当選した女性議員と千葉県から去年12月の選挙で当選した若い議員の二人にとどまる。これだけ福島原発の大事故で今までもそうであったが今後も果てし無く続く廃炉、除染、廃棄物処理などの泥沼状態が続くにもかかわらず、わずか数人しか原発に反対の議員がいない。不思議というか驚くべきというべきか。

 しかも一人は、以前、夫が自殺したため、その身代わりとして立候補して比例で当選した人物であり、もう一人は自民党の波に乗って議員になったばかりの人。発言力はおそらくほとんどないのではないか。

 それに対して河野太郎は、自民党の中で一貫して反対しているというめずらしい人物だ。自民党議員から、共産党に移ったらどうかとか皮肉を言われることもあったという。

 こんな、原発賛成ばかりの人たちの自民党の大集団のなかで、最近めずらしく政界を引退した元自民党の首相であった小泉純一郎が、原発を止めることをはっきりと言っている。

 今年8月中旬に、小泉は、三菱重工業、東芝、日立という原発製造メーカーの原発担当の幹部とゼネコン幹部との5人が、ヨーロッパに視察に行った。核廃棄物の最終処分場(オンカロ)(*)を地下深いところに建設しているフィンランドと脱原発を進めるドイツを視察ということだった。

 

*)オンカロとは、フィンランド語で「洞窟」。放射線廃棄物には、半減期が数万年~百万年を越える長寿命のものも多い。プルトニウム二三九(2万4000年)セレン七九(6万5000年)、ジルコニウム九三(153万年)、セシウム一三五(230万年)等々。半減期が一〇万年以上のものが六種もある。こうした長い寿命の放射性物質を閉じ込めておくための最終処分場。

 

 それを直接に視察してきて、彼は、こう言ったという。

10万年だよ。300年後に見直すっていうんだけど、みな死んでるよ。日本の場合、そもそも捨て場所がない。原発ゼロしかないよ。」

 また、一般的には、今すぐゼロは暴論という声が優勢だが…という問いかけについては次のように答えた。

「逆だよ、逆。今、ゼロという方針を打ち出さないと、将来ゼロにするのは難しいんだよ。野党はみんな原発ゼロに賛成だ。総理が決断すりゃできる。あとは、知恵者が知恵を出す。」

 そして戦いにおいては撤退が一番難しいのだと言って、中国戦争のことに触れた。

「昭和の戦争だって、満州から撤退すればよいのに、できなかった。

 『原発を失ったら経済成長できない』と経済界は言うけど、そんなことないね。昔も、『満州は日本の生命線』と言ったけど、満州を失ったって日本は(戦後)発展したじゃないか。」

「必要は発明の母って言うだろ? 敗戦、石油ショック、東日本大震災、ピンチはチャンス。自然を資源にする循環型社会を、日本が作りゃいい」(毎日新聞 2013年8月26日 「風知草」)

 

 このような考え方は、原発に反対する人たちの間では、大震災が起きる前から言われていて、その後も繰り返し言われていることである。

 しかし、最初に述べたように自民党は過去何十年と原発を強力に推進してきた政党であり、現在も原発推進の議員がほとんどすべてである状況のなかで、すでに引退したとはいえ自民党という原発推進の考えに染まってきた重要人物が、原発ゼロを公然と主張していることが注目されているのである。

 小泉はアメリカのブッシュ大統領が始めたイラク戦争を積極的に支持し、大量破壊兵器もなかったのが明らかになって彼の判断も間違っていたにもかかわらずそれを認めようとしなかったり、小泉内閣の最後の年の敗戦記念の日の8月15日に首相として参拝したりして中国や韓国との関係を悪化させることにもなったように、その判断力には、とても信頼できないものがある。

 しかし、原発問題は、現状と将来を見る時にそれは止めるべきだというあまりにも明白な証拠がある。 彼は、イラク戦争もアメリカのいうことを鵜呑みにして支持したし、靖国参拝もそれによって中国や韓国との関係がどう悪化していくのか、明白な予想をつけることができなかった。

 しかし、原発は、この二年半、現在から10万年後の将来にわたるその危険性、制御の著しい困難性は、目の前にある。これほどの証拠を見てもなお、原発をどうすべきか見えないのが現在の自民党の議員たちだが、小泉はさすがにこの原発の異常な問題性に気付いたということだろう。

 日本人は早くこの原発の処理に取り組まねば、ますます廃棄物の増大で、国富が無駄に使われる一方となる。汚染水問題というが、それは原発そのものに内在する問題であり、汚染水が解決されたら終わるといったものでは全くない。廃棄物は地下深くに埋めても10万年は管理せねばならないのであれば、福島の原発の膨大な廃棄物はそのまま置いておけば、10万年はそこには住めない。どこに持っていっても、同様である。しかも持っていくところが日本にはない。ということは、原発の運転をやればやるほどその廃棄物は蓄積され、いよいよ困難も蓄積していく。

 原発は本質的に人間には完全に制御できないものである。日本の首相が、原発はコントロールされているなどと言ったが、あのような明白な偽りを世界に向って発信してしまったことで、日本人の人間性の品質が疑われることになりかねない。

 人間が作ったものだから、人間が制御できると言う人がいる。

 しかし人間それ自体が制御できないのである。いつ心がわりするか分からないし、怠慢や不注意、さらには、大量の人間を殺害しても何とも思わないような異常な心理になる。 こういう心理にならないように、人間全体をだれかが制御したりできないから、いつの時代にも不可解なことが生じるのである。

 そのような人間が原発を動かしているのである。その原発が制御できないのは当然である。

 人間の心がいかに制御できないか、それは、何百万、数千万の人間を殺傷することになった大規模な戦争を、聖戦などといって国民全体が推進していくことにまでなったことを見ても分る。

 人を一人殺しても大変な重罪である。にもかかわらず、何万という人々を殺害してその勝利を提灯行列して喜ぶ、というほどに国民全体がそれを受けいれたこともあった。

 それほどに人間の心はまちがった方向に進んでしまうのは、日中戦争、太平洋戦争を見ても分る。

 そうしたコントロールできない人間だからこそ、テロも起こす。

 さらに、コントロールできないのは、自然の無限の力である。大陸や海洋の下部の膨大な岩盤の動きは人間が制御などまったく不可能であり、それゆえ地震を止めたり、台風の動きを変えたり、竜巻の発生と進行をコントロールなど、人間が制御することなど、不可能である。

  そうした大自然の力がふりかかれば人間の建造物などいかに作ったところでひとたまりもない。 神への畏れは、英知のはじめだと聖書にある。人間の罪深さを知り、神の創造された大自然の力の無限性を畏れるときには、到底原子力発電というものは存続させてはいけないのだと知らされる。 

 


リストボタンことば

 

(351)…わが主イエスよ、あなた様を思うのは、私の霊感でございます。…あなた様のみ言葉の一つ一つを、胸の中で味わっていますと、何とも言えないすがすがしい気持ちになってまいります。あなた様のみ言葉は、みんな平易ですから、私どものようものにもよくわかります。…

「幸いなるかな、悲しむもの、その人は慰められん」と仰せになりましたが、本当にそうだと思います。

  悩みのときに、じっと心を澄ませて、あなた様のみ言葉を思い続けていますと、次から次に、お優しい言葉の数々が浮んできて、それが命あるもののように、一つ一つ私の心の傷を包んでくれます。まことに活ける泉です。(「清流」内田正規遺稿集 26頁 1956年)

 

・内田正規は、1934年24歳のとき、結核にて苦しむ人たち相互の祈りの会として、「午後三時相互祈祷療友会」を結成し、同時に連絡雑誌として「祈の友」を創刊。ここに引用した文は、黒崎幸吉が出版した本に掲載。なお、黒崎も「祈の友」に加わっていた。

 この内田の文に表れているように、神の言葉(主イエスのみ言葉)こそは命であり、心に深い傷を持った者に癒しを与えてくださる。人はパンだけでは生きられない。み言葉によって命を与えられるということがこうした文からもはっきりと示されている。

 

(352)「私たちが、自分の力の中ではなく、神の力の中にいることを知って下さい。」(「殉教者行伝」教文館発行 82頁)

・ここで引用した「殉教者行伝」は、17世紀以来、「殉教者伝」あるいは、「聖者伝」として集められていたものからの訳であり、これらは、2世紀中頃から4世紀に至る古代のキリスト者たちの、逮捕、拷問、処刑などの迫害に関する、不可欠の基本的資料だとされている。

 この言葉は、ローマ皇帝を神としてあがめ、犠牲を捧げることを拒み、キリストと神のみを礼拝するということのために、群衆の前で野獣と戦うことを宣告された若き女の言葉。

 彼女の父親は、自分の娘が殺されること、その女の乳児がどうなるかと不安と恐れに取りつかれていたが、ここに引用したのは、その父親に語りかけた言葉。

 父親は、自分と子供や兄弟のためにどうか神々やローマ皇帝を拝んでくれ、と必死に頼んだが、女は、いかなる困難のなかにあっても、またこの世を悪が支配しているようにみえてもなお、自分たちは神の力の内にあるのだという確信をもって父親を説得したのであった。

 拷問や野獣の餌食になることを宣告されてもなお、神の愛とその御支配を確信し続けていられた、古代の殉教者たちの勇気に満ちた言動は、驚くべきものがある。これは日本の秀吉の時代から江戸時代の迫害の記録を見ても同様なものがある。肉親からの哀願をも越えて、神への従順を堅く守り、残された家族は神が守るとの啓示を受けてみずから命をささげていった人たち…。極限的状況にあって、神が何を与えるかを示している。 

 


リストボタン休憩室

 

〇金星など

 夕方には、宵の明星(金星)が強い輝きを日々見せており、晴れているときにはいつも戸外に出て、その輝きに込められた御国からのメッセージの一端を受け取っています。

 明け方に見られる明けの明星を古代のキリスト者たちは、それを闇のなかに輝くキリスト、再び来られるキリストを象徴するものとして受け取っていました。(黙示録2216

 宵の明星も、一日の終りを、神の光を見つめて終えるようにと語りかけているのを感じます。

 なお、その夕刻には、頭上に最も明るく輝いているのは、こと座の一等星ベガ、それよ

り少し東よりに明るいのは白鳥座のデネブ、そしてそれらの南(下方)にはわし座の一等星アルタイルが見えています。

〇ゴーヤをいくつか石垣沿いとか他の木や草の茂るそばに空いたところに植えたら、たくましく成長して雑草なども木々をもものともせず実をつけました。それ自身はなよなよとしたつる草ですが、その蔓のおかげで、生い茂る雑草とかを越えて高い木に巻きつき成長します。

 私達も、弱くなよなよしたものですが、信仰という蔓によってこの世から脱して御国へと成長できるのだと思います。 

 


 リストボタンお知らせ

 

「野の花」文集 について

 毎年1月に発行している「野の花」文集の原稿を募集しています。従来の「野の花」を読んでくださっている方々はわかると思いますが、北海道から九州までの多様な地域からの投稿者があります。

 

★発行の目的

なるべく多くの方々に投稿していただき、それらが投稿した人や読むキリスト者の励ましや新たな知識、考え方の共有となり、また、投稿した方々が、知り合いの未信仰の方々に「野の花」文集を手渡したりして、少しでも、キリスト教関係以外の人の目にも触れる機会となるようにとの伝道目的からも発行しています。

日本では、キリスト者の考えが知られることはとても少ないので、少しでもそれを補うことになればとねがっています。

 「集会だより」のお知らせを読んでいない方もおられると思いますので、メールにおいても書いておきます。

 ○内容は次のようなもので書いてお送りください。

1、いつもの礼拝や家庭集会での学びで印象に残ったこと。

2、生活における証し、体験、感話。考えていること。

3、読書の中からの感想。

4、社会的な問題に対してのキリスト者としての考え。

5、心に残っている聖句、讃美歌の歌詞、読んだ本からの抜き書き。

6、その他。

○ 締切りは、1031日。

○2000字以内。(聖句、讃美歌、読書からの 心にのこった言葉などごく短いものでも結構です。)

 なお、編集上で、一部の内容をカット、あるいはわかりにくい表現などがあれば、趣旨を変えないで表現に修正などを加えることがあります。

 

〇原稿の送付方法と送付先

・送付方法…原稿は、次のいずれかの方法でお送りください。

①インターネットメールでのテキストファイルの添付。

 これが最も好都合です。

 添付の方法が分からない方は、メール本文に書いていただいても結構です。

 

 縦書きにする必要はありません。ワードで作成したときでも、保存はテキストファイルで保存したものを送ってください。 テキストファイルの形式は、そのまま、レイアウトソフトに入れることができますが、ワードのファイル(doc, docx )で送られますとそれをテキストファイルに変換する手間がかかるからです。

 メールアドレスは「いのちの水」誌奥付にあります。

 

②メールをしていない方は、ワープロに印刷したものを送って下さい。

③ワープロもなさっていないという方は、普通のコピー用紙、原稿用紙、ハガキ、手紙用紙などに書いて郵便でお送り下さい。

 ただし、ファックスは、書いた人の文字が薄かったり、受信した内容が見えにくかったりでしばしば正確に判読できないこともありますので、郵便局に行けないといった方だけに限定したいと思います。

・送付先…E-mail  

pistis3ty@ybb.ne.jp

(奥付のアドレスでも可。      tymail

郵便    773-0015   

小松島市中田町字西山9114

  電話050-1163-4962

FAX    0885-32-3017

 

☆個人情報について

なお、原稿に関しては、相互の交流のために、「野の花」に原則として住所、E-mail、電話番号などをも掲載していますが、それらを掲載してもいいかどうか○を付けて原稿とともに返信くださいますか。

個人情報ということに過度にこだわることは、こうした主にある交流という観点からはマイナスとなりますのでなるべくそれらを掲載しています。

 送られた 原稿に、下記のことに関して 希望とか記述なければ、住所、電話番号、E-mailなどを掲載します。それらの連絡先が掲載されていますと、投稿された文に感想や問い合わせなどあったりして、新たな交流が生まれることもしばしばあるからです。

 ☆発行は来年1月です。 

 なお、伝道、贈呈のために、「野の花」を複数部数を御希望の方は、その希望部数をもお知らせください。去年、複数部を希望された方はそのまま今年も同部数をおくりますが、それに変更ある方もお知らせください。

 訂正  

 前月の「今日のみ言葉」の聖句「 わが神、主よ、私はあなたに叫んだ。」ですが、印刷したものには、「…主よ、私をあなたに叫んだ」となっていたのがありましたので、訂正しておきます。

 

徳島聖書キリスト集会案内

・場所は、徳島市南田宮一丁目一の47  徳島市バス東田宮下車徒歩四分。

(一)主日礼拝 毎日曜午前1030分~
(二)夕拝 第一、第3火曜。夜7時30分から。 
  
 毎月第四火曜日の夕拝は移動夕拝。(場所は、徳島市国府町いのちのさと作業所、吉野川市鴨島町の中川宅、
  板野郡藍住町の奥住宅、徳島市城南町の熊井宅を毎月移動)です。

☆その他、第四土曜日の午後二時からの手話と植物、聖書の会、第二水曜日午後一時からの集会が集会場にて。
また家庭集会は、板野郡北島町の戸川宅(第2、第4の月曜日午後一時よりと第二水曜日夜七時三十分より)

・海陽集会、海部郡海陽町の讃美堂・数度宅 第二火曜日午前十時より)、

・いのちのさと集会…徳島市国府町(毎月第一木曜日午後七時三十分より「いのちのさと」作業所)、

・藍住集会…第二月曜日の午前十時より板野郡藍住町の美容サロン

・ルカ(笠原宅)、徳島市応神町の天宝堂での集会(綱野宅)…毎月第2金曜日午後8時~。

徳島市南島田町の鈴木ハリ治療院での集会…毎月第一月曜午後3時~などで行われています。 

 また祈祷会が月二回あり、毎月一度、徳島大学病院8階個室での集まりもあります。問い合わせは左記へ。