恐れるな。ただ信ぜよ  (マルコ福音書5の35)

神にできないことは何一つない。(ルカ1の37)



201411月 第 645号 内容・もくじ

リストボタン秋の白い花の賛美

リストボタン神の愛の飢饉の中で

リストボタン奥深い山で思ったこと

リストボタン福音書における信仰による救い

リストボタン休憩室

リストボタン編集だより

リストボタンお知らせ

リストボタン集会案内



リストボタン白い花の賛美

 

 秋遅くに咲く野草として、リュウノウギクという真っ白な野菊の仲間がある。平地にはみられず、一部の山に11月になってしばらくしてから咲き始める。愛媛県の西部、40キロも西にむかって細長く伸びている佐田岬半島やその付近の地域にはその群生が道路沿いなど各地にみられる。ほかの地域ではあまり見られないものだが、この地域では山際の日当たりのよい部分などに一面にその白い美しい花を咲かせている。

 その一株をわが家のある山に移植したら、毎年花を咲かせて、晩秋を楽しませてくれている。

 キク科には、春に咲くマーガレットやガーベラのように園芸植物としてよく親しまれるものから真夏のシンボルのヒマワリや、秋といえば思いだすコスモス、また各地で11月になると、ときおり見かける3~4メートルにもなる皇帝ダリアのような大型の植物等々のように、春から晩秋にいたるまで、小さな野草、あるいは雑草と言われるものから美しい花まで実に多様な花がある。

 その中でも、ほとんどの花が終わって種を付けたり枯れてしまう晩秋になって咲き始め、野生で群生してその純白がことに印象的なのがこのリュウノウギクである。

 竜脳樹という香料となる樹木のもつ香りと似ていることからこの名前がある。私はその白色とともに葉の香りも惹かれるものがある。その純白の花が広がる山の一角を見ると、黙示録にある神への賛美を思いだす。

 

…あらゆる国民、民族から集まった無数の人たちが、白い衣を身につけて神とキリストの前に立って、賛美、栄光、英知、感謝、力等々が永遠に神にあるように、と大声で賛美していた。    (黙示録7の9~12より)

 キク科の花のすべてに共通している特徴、それは小さな花が集まって一つの花を構成していることである。これがキク科の花の特徴だが、全体として一つの花となっているのが興味深い。

 一人一人のキリスト者が小さな花であってそれが集まった集会(教会)が、全体として一つの花となるのを思いだす。そしてさらに、世界の無数のそうした集会(教会)のそれぞれがまた小さき花であり、それが全体として神の大きな集会となってこの世に咲き続け、神への賛美をささげ続けてきたのである。

 これからも、神によって清められ、白い衣をまとって神への感謝と賛美を歌い続ける民は、いかなる時代の変容にもかかわらず、新しく次々と起こされていくであろう。

 


リストボタン神の愛の飢饉のなかで

 

 今日、書物はいくらでも手に入る。インターネットやテレビ、ビデオ―さまざまのものによって飛躍的にその情報は増大し、また余裕のある人たちは、世界のどこにでも行くことが簡単にできるようになった。じっさい、戦前から戦後しばらくの間では、外国旅行など夢物語のようであったが、現在では年間で2千万人近い人たちが、海外に出かけるようになった。

 そして、科学技術はこれまたわずか100年足らずで、想像もできないほどの変化を見せた。

 こうしたさまざまの目に見える世界の激変にもかかわらず、まったく進んでいない領域がある。

 それが、聖書に記されているような無差別的な愛であり、真実や清さである。

 愛―それはいかに外国旅行をしても、ノーベル賞を受けるような画期的な研究成果を出しても、またオリンピックで金メダルを続けて獲得するようなスポーツの天才であろうとも、またモーツァルトやベートーベンなどのような魂を揺るがすような音楽を生み出す天才であっても―それでもなお、キリストが持っていたような真実の愛は生まれない。

  学問や人生経験、旅行、科学技術、スポーツや芸術…いかなる精神の領域で豊かな才能や経験が与えられようとも、また、いかに多額の費用を投入しようとも、それでもなお、聖書に記されているような無差別的な愛へは、一歩も進まない。他方、それらの学問や才能、あるいは研究や文学的能力などまったくなくとも、そうした愛を持っていることがありうる。

 ストー夫人の書いた「アンクル・トムズ・ケビン」に描写されている、黒人奴隷トムや彼を霊的に導いたといえる白人の少女エヴァはまさにそうした例である。

 ヨハネ福音書を書いたと伝えられてきたヨハネはただの漁師であって学問や世界の各地を旅するとかそのようなことは一切なかった。それでも神からの深い愛を与えられていて、それゆえに、その福音書では、愛の重要性を強調することが多くみられる。

 古くて新しい戒め―それこそ愛である。互いに愛し合え、それによって世の人は、イエスに結びついているのがわかる。(ヨハネ13の34~35)

 わが愛に留まって居れ。私を愛するか―等々の言葉は、ヨハネによる福音書の著者が神の愛を注がれ、その愛の内に留まりつづけていたのがうかがえる。

 そしてその愛こそ、あらゆる困難を越えて、この世の闇や混乱のただなかにあっても、「満ちみちたもの」を感じさせ、この世は神の慈しみ―愛で満ちていると言わせるほどの深い実感が生まれる。

 このことは、すでに旧約聖書において預言的に記されている。

 

…主よ、あなたの慈しみは天に、あなたの真実は大空に満ちている。(詩篇36の6)

 

 この世は、パンの飢饉でなく、神の言葉の飢饉になると、数千年前の預言者が言ったが(アモス書8の11)、言い換えると、それは、この世は、神の愛の飢饉が満ちているということができよう。

 しかし、その愛は学問やお金、権力、教養、経験等々いかなるものでも買うことのできないものであるが、聖書には、驚くべき単純な方法で私たちは与えられることが記されている。

  「求めよ、さらば与えられん」(マタイ7の7)―という主イエスの言葉ががそれである。

 神の愛というのは最も深く無限なものである。それは「神は愛である」と言われるように、神の本質的なものだからである。

 そうしたものが、ただ心から求めるだけで与えられるというのである。

 それは主イエスよりさらに500年ほども古い時代に書かれた書にすでに記されている。

 

…さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。

来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。(イザヤ55の1)

 

 ここで水とかぶどう酒、乳などと言われているもの、それは神の愛であり、そのみ言葉であり、力である。愛のないものは来たれ、ただで飲め、ただで神の愛をもらえ…と言われているのである。

 神の愛こそは、私たちの魂をうるおすもの、死せるものを生かすものだからであり、いかなる人間をも根底から満たすものであるゆえ、もっとも人間の深い要求だからである。 

 


リストボタン奥深い山村にて思ったこと

 

 11 月5日(水)の朝、自宅を出発して九州のいくつかの集会でみ言葉を語るために、まず大分に向った。大分の梅木さん宅での集会のあと、鹿児島に向う途中の阿蘇山の南部にも訪問予定があったが、前日に仕事の都合がつかなくなったと連絡があり、訪問は次の機会となった。それで大分から阿蘇山の南部を通り、妻の父親の出身地である、宮崎県の椎葉村経由で鹿児島に向った。

 椎葉村にある上椎葉ダムは、私の小学校時代から社会科の教科書に写真が掲載されていてそれ以来私の記憶にずっと留まっていた。椎葉村は、阿蘇山からでも、南に80キロ、宮崎県の日向市からでも70キロ余も川をさかのぼり、たどりつく秘境である。そこから集会が行なわれる鹿児島市への距離の短いルートとして、熊本県の人吉市経由を考えた。

 椎葉村から出たところ、曲がりくねった細い山道は、ますます高度が上がり、椎葉の村落がはるか下方に見えるような高い山へと上がっていき、車内にある高度計では1100メートルを越えていた。延々とほとんど全く車の通らない狭い山上の道をとおり、ようやく下りはじめたのでこれで人吉にまでおりていくと思ったら 、再度道は山に登りはじめ、標高900メートルを越えるような高所へと上がっていった。車が一台通れるほどの道が大部分で、スピードもあがらず、相当長時間を走ってようやく下りとなって人吉市に着くことができた。

 平家の人たちが源氏の追討を逃れて、この椎葉村(* )までやってきたと語り伝えられている。よくもこのような山深いところに、機械も食糧もなく、急峻な崖や深い渓谷等々があるところにいかにしてたどりつくことができたのか、そしてなにを食べて生き延びたのか、くわや鋸、鎌等々の鉄の機具がなければ、到る所にある森林をどうして開墾できたのか、大きな樹木一本を伐採して、それをさらに小さく切るにも鋸がなければできない。鍬がなかったら樹木の根の強固なからみあいを断ち切ることもできない。


* )平家の落人たちが逃げ延びて住んだところは、徳島県の祖谷川上流の剣山の深い渓谷の源流地帯なども知られている。椎葉村に平家の残党がひそんでいることが源氏に知られ、その追討のために那須与一の弟の那須大八郎が遣わされ、そこで貧しいながらも農耕にはげんでいる平家の残党たちを見て、那須大八郎は彼等を討つことを止め、そこに住み着いた。そして平家の残党の女性と結婚し、その子孫(32代目)が今も椎葉村に住んでいる。(「平家秘史」123頁地域文化出版発行)

  冬の厳しい寒さや食物ができない困難な状況、さまざまの毒虫や暑さ、寝具や衣服の調達等々なにをとっても、生きていくのはきわめて困難と分る。そうしたおよそ人間が生きられるような状況でないところでも、生き延びてきたということのなかに、強靱な生命力というべきものが与えられていたのを思う。追い詰められた状況にあっては、人間は安楽なときには想像もつかない不可能としか思えないような力を発揮するのだと思われる。

 そのような強固な意志やそれを実行する力が芽を出してくるのだ。

 盲人の方が、とくに生まれつきの全盲の場合は、点字の本を驚くべきはやさで指先でなぞって読んでいく。私は盲学校でも勤務し、一般の点字以外に英語、数学などの複雑な点字も修得してそれを教えていたのであるが、そのときから、生まれつきの盲人に接して彼らの読む早さには驚嘆していた。いかにしてあの小さな突起がたくさんある点字を指先ですべるような早さで読めるのか不思議でしかたがなかった。指先の能力が開かれたらあのような信じがたい可能性が開けてくるのである。

 サーカスなどで見る綱渡りなども、ほんらい人間の足はあのような綱の上を歩くようにはできていないはずであるが、それも特別な訓練と熱心によってそこに秘められていた能力が現れてくるのである。

 このようなことを考えるとき、人間の可能性の深さ、広さを思う。そのように神は人間に無限の可能性を与えているのであって、それを全力をあげて求めていくときには、そうした隠れた力が現れてくるのである。

 ローマ帝国や日本の江戸時代、あるいは世界の各地で生じたキリスト教迫害の歴史において、通常では信じがたいような力をもって耐え難い苦痛をともなう拷問をもあえて受けた人たちがいる。そうしたことも、このような人間のうちに秘められた可能性、その力の計り知れないものが感じられる。

 そしてそうした閉じられていた領域から驚くべき力を引き出し、あるいは、そのような力のないところに新たに大いなる力を与えるのが、神なのである。神との関わりが深くなるほど、あり得ないと思われることがなされるようになる。

 こういう人間にみられる能力の開発は、細胞自身がその多様性を持っていることを思い起こさせる。最近iPS細胞に関連して広く知られるようになったこと、細胞の初期化によって閉じられていた可能性が開かれてさまざまのものに成長していくことは、別の霊的な意味でも重要なことを暗示するものがある。

 神の霊、神の光が私たちの魂にそそがれるとき、いわばその人間の魂が初期化され、それまで固定化していた魂が、さまざまの方向に成長していくということなのである。

 使徒パウロも、ユダヤ教に固まっていてキリスト教徒を撲滅しょうと国外にまで出かけて迫害を続けていたが、そのさなかに復活のキリストの光を受け、その語りかけを聞いて、まったく変えられた。そして神とキリストに導かれ、多くの啓示を与えられ、それが聖書の言葉として記され、以後の全世界に計り知れない影響をもたらすことになった。

 パウロは復活のキリストによってまさに魂が初期化され、人類のさまざまの方面に根源的な影響を与えていったのであった。

 聖書の歴史はまさにそうした驚くべき力が神によって与えられてきた歴史である。

 ノアの箱船―巨大な船を作って洪水を逃れたこと、モーセが前を海に、後からエジプト軍が大挙して迫ってくるという絶体絶命のときに、神に向って叫び、祈ったときにかつてない力が与えられ、海が分かれて道が生じ、そこを通って紅海を通り、滅びを免れたということ、このようなことも通常なら決してあり得ないことが、特別な状況のときに神によって与えられたということである。

 その他、聖書には到底あり得ないと思われるようなことが多くみられる。しかし、それは私たちの通常の感覚で見るからである。神が本当に必要とされるときには、私たちの目には不可能と思われることがなされる。そのような力の世界が開かれていく。

 

…イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(マルコ10の27)

 

 私たちは、絶えずさまざまの意味における力不足に悩み、この世の巨大な力を前にして、どうせどうにもならないのだ、とあきらめていくような弱き心になりがちである。

 主イエスは、そのような私たちの心を見つめ、この言葉を語りかけておられるのである。 

 


リストボタン福音書における信仰による救い 

 

「信仰による救い」という主題でお話ししますが、普通はこのタイトルでは、ローマの信徒への手紙3章や5章とかガラテヤ信徒への手紙などが必ずと言っていいくらい取り上げられます。しかし、今日は、「福音書における信仰の救い」はどういう風に書いてあるかということと、それはパウロがロマ書やガラテヤ書で力を込めて述べていることとどのように関係しているかということを、聖書から読み取っていきたいと思っています。主イエスは、救いに関してどのように語られたのかということです。

 人間の意見や考えはいろいろで、わずか(な期間と人間に)しか通用しません。しかし、神の言葉はずっと何千年も変わらず続いていて、その永遠性ということにおいて圧倒的に違います。例えば、プラトンはギリシャ哲学者として、また西洋哲学の源流としてとくに重要な人物です。しかし、この鹿児島県でプラトンを毎日必ず読んでいる人、若いときから晩年にいたるまで毎日読み続けている人が何人いるでしょうか。ほんのわずかでしょう。しかし、若き日から、毎日聖書を読んでいる人は、数多くいると思われます。そういうことからも分かりますが、聖書の真理の永遠性や普遍性は、群を抜いているのです。

 では、聖書にはこの大事な「信仰による救い」をどう書いてあるのでしょうか。

 

 今日の聖書の箇所は、少女の復活と長く婦人病で苦しんできた一人の女性に関するところです。(マルコ福音書5の21~43)

 まず、ユダヤ人が礼拝の場所としている会堂の責任者ヤイロの娘さんが死にそうだという事、もう一つ12年もの長い間出血がある婦人病の人を共にイエスが癒されたことが書いてあります。その際両方に共通して言われていること、そのことを他の箇所とも関連させて学びたいと思います。 

会堂長のイエスへの信頼

  まずユダヤ人の会堂長ヤイロという人が、娘が死にそうだからどうか来て手を置いてやってください、とイエスの「足もとに」「ひれ伏して」願っています。どれだけ必死であったかが分かります。会堂はユダヤ人にとって非常に重要な場所です。その責任者の人が、ひれ伏してまでして願ったのです。私たちはいくら信仰熱心であっても、それほどまではしないと思いますが、この人は大勢の人が見ていることも視野に入らない、気にならないほど、ひたむきに主イエスのいやしの力を信じていたのがわかります。

 私たち日本人は周りや相手を非常に気にします。人の目が気になります。そのことは、日本語はとくに敬語が非常に複雑で、相手によって「あなた」「あんた」とか「君」「おまえ」「おまえ様」「てめえ」など、さまざまの表現があります。日本では、目上の人に向かって「あなた」とは言いません。相手がどんな人かということを考えないといけません。これは、日本人は単一民族的で、習慣や生活などがよく似ているからです。

 そういうわけで、この聖書の箇所では、社会的地位のある会堂長が、周囲の人たちがどのように思うか、などということをまったく考えず、このようにひれ伏したという態度は、私たちには驚かされるのです。

  この人は、イエスさまに全面的に信頼していることがよく分かるわけです。イエスが手を置いただけで、死の力から回復できるんだ、イエスは死を越えた力を持っているんだと信じています。

 

 私たちはここを読むときに、まずこういう風に、その人が置かれた状況を思い浮かべて考える、その場におるように考えることが大事です。聖書を読むときは、その置かれた状況を思い浮かべて(自分もそこに身を置いて)考えることが大切なことになってきます。

 

苦しみ続けた女性のイエスへの信仰

 ところが、イエスがヤイロの懇願に応えて彼の家に行くその途中で、12年間も出血が止まらない女の人が登場します。旧約聖書に、出血の病にある人が誰かにさわったら、人も物も汚れるとあります。特に女性の出血の病気で汚れるとあります。(*

 

*)女性の出血が終わるまで汚れているので、その女性に触れた人や物も汚れる。それで衣服も水洗いし、体を洗わねばならなかった。(レビ記15の25~27)

 

 日本でも、大相撲では女性を土俵の上にあげません。女性は出血、月のものがあるから汚れているという宗教上の考えのゆえに、土俵に上げてはならないということだったのです。

 かつて女性の大臣や大阪府知事が、表彰式で土俵にて賞を手渡そうとしたが、伝統破壊だといって上げなかった。そのとき、男女平等とか女性の地位向上を言っていた人も不思議なほど沈黙してしまった。このように、昔からいろいろな国で、女性の出血は汚れたものだとされてきた。 

 この女は、「汚れ」ということがあったから自由に外に出られなかった。12年間も。この12という数は、その文字どおりの意味というより、神の御計画のうちに置かれた時間といった意味があると考えられます。

 この人は単に病気の苦しみにさいなまれていただけでなく、当時のユダヤ人の宗教からみて、汚れているとされていたために、人々から排除されていたのです。もちろん結婚も出来ない、非常に苦しい状態でした。まともな人間とみなされず、全く孤独でした。沢山の医者にかかったけれども治らず、お金も使い果たしてしまった。苦しみを誰にも聞いてもらえない絶望的情況で、非常に追い詰められていた。(5の26節)

 そこにイエスが来るということを知って、その服にさわった。服にでもさわれば癒されると信じて。見つかったら大変です、その女性にさわったら汚れるとされていたのですから。それゆえに、イエスに触れたことが知られて女性は、「恐れた」と書いてあります。

 

  ここで不思議に思われることがあります。

  この人たちの信仰は単純・率直です。イエスの力を全面的に信じています。両方とも、もう死ぬかも知れない、あるいは絶望的な状態で、死んだような人とみなされていたのです。だから、恥も外聞も捨て、もうこの方しかいない、このイエスという方がいなければ絶望だ、生きていけない。その必死な気持ちでイエスに対し、全面的信頼をもって迫っています。

  長い出血の病気の女性は、ふだんはイエスが教えたり不思議な奇跡を行なっている所に来ることも出来なかったのに、どうしてこのような信仰をこの女の人は持つことができたのか、そのいきさつは書いてない。

 会堂長にしても、このような信仰をいつからどうして持ったのか、その過程は書いてないし、分からない。しかし、彼らには、イエスはどんな人間にもできないことが出来るという信仰があった。そしてその信仰によってこの女の人は直ちに癒された。

 こんな事は余りにも現実離れしている、今の時代の私たちには関係ないと思われるかも知れませんが、本質的には私たちの毎日の生活に大いに関係があるのです。私たちは憎んだり嫌ったりするのでなく、わるい人のために愛の心をもって接したいと思っていてもどうしてもそれができない。愛せない。

 また、言ってはいけないことを言ってしまうこともあります。私たちの罪・汚れは洗っても洗ってもなくなりません。しかし、今日の箇所が現代の私たちに告げようとしているのは、そのような悪しきものが止まらない私たちの魂の状態が、イエスを信じたら癒されるということなのです。

 私の場合も、古書店で一冊の本を手にして、イエスの十字架の意味を書いている部分を読んで、イエスの十字架の死の意味を知らされ、それを信じることができたのです。

 その信仰はまさに与えられたものですが、それによって、自分中心や目に見えるものだけを存在するとして万事を考えるとか、人のために祈ることなどできない心、この世に対する絶望的な気持ち―そうした悪しき心の部分のはたらきが相当程度、とどめられるということを経験しました。それは、聖書に書かれている女性の汚れたものが出て行くのが止まったということに通じるものです。

 魂から悪しきものが出て止まらなかったのに、それがかなりの程度において止まったのです。そして、力を受けました。イエスのところに来たら、不思議なことですが、どうしても止まらなかった魂の出血と言えるものが止まったのです。この事が数千年続いて来ているのです。ですから、一見すると私たちには関係ないことのようですが、霊的には変わらずずっとあてはまるのです。

 この間の全国集会で、私どもの集会の全盲の人が証しをされました。中途失明となると、目が見えない、何もかもが真っ暗できわめて不自由です。しかし、しばしば中途失明の方は、その耐えがたい不便さとともに、手引きされなかったら歩くこともできない、何ら普通の仕事ができないとみなされ、能なし、役に立たず、と周りから見なされる、それがそのような失明者の苦しみをさらなる大きなものにする場合が多いのです。

 しかし、イエスさまとの出会いによって力を得ると、そうした苦しみや悲しみ、あるいは屈辱感が絶えず心からあふれてくるのが止まる、という人たちを私もじっさいに盲学校教師を何年か経験して、視覚障がい者が私たちの集会に参加するようになって知るようになったし、ほかの県のいろいろな盲人の方々のことを盲人関係の本や、キリスト教の雑誌などでも読んで知るようになったのです。

 さまざまの苦しみを抱えた人が、イエスさまのところに来たら、苦しみが絶えず流れ出る状況だったのにそれが止まったのです。そういうことがあるわけです。人間の力ではどんな人をも愛することはできませんが、イエスさまにはできるのです。また、悲しみや苦しさを止める不思議な力があるのです、キリスト、イエスさまには。

 

 この場合でも、34節「あなたの信仰があなたを救った」とあります。信仰は、本来人間の努力では持てません。人間が出来ることではありません。与えられるものですが、与えられたら自分で保っていかねばなりません。油断していたらなくなるのです。実際、私の知っている人でも、しっかりした信仰を持っていたと思われていた人がだんだん離れていって、それがまるで違うものに変わっていった人があります。

 ヨハネ福音書に「風は思いのままに吹く。…新しく生まれた人もそれと同じだ。」(3章8節)と書いてあります。

 その人がどのようにして信じられるようになったのか分からないのです。

 例えば、私が学校で同じようにキリストや神様のことを話しても、信じる人はごくわずかです。信じない人がずっと多いのです。パリサイ人などは、イエスの奇跡や教えを目の前で見て、聞いても、悪魔のなせる業だと言ったりしたのです。

 

会堂長の信仰と

    タリタ・クミ(起きよ!)

 けれども、このヤイロという人はイエスさまを信じたのです。その信仰は、「イエスさまはあらゆる力を持っておられる」という信仰です。

 次の35節を見ますと、もう娘さんは死んだと言われました。これに対してイエスは、「恐れるな。ただ信じなさい」と。何を信じよと言うのかというと、「死んでも生き返るんだと信じよ」ということです。「子供は死んだのではない。眠っているのだ」と言うイエスを人々は嘲笑う中、イエスは両親と三人の弟子だけを連れてその子の部屋へ行き、手を取り「タリタ、クム(タリタ、クミ)」と言われた。これは、「少女よ、起きよ」という意味です。そうしたら、本当に起きた。

 ここでも会堂長は、イエスの「恐れるな。ただ信ぜよ」という励ましの言葉を受けて、イエスが手を置いたら人々が死んだと言われている我が子も助かるのだと信じ続けたのがうかがえます。

 

 ところで、なぜ原語のまま「タリタ、クム(クミ)」としたのでしょうか。十字架上でのイエスの最後の叫び「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜ我を見捨てたのか)も同じく原語で残されています。

 これは、当時の人々が非常に強い印象を持ったからこそだと思います。「タリタ、クム(タリタ、クミ)」が、当時の人々に特別な深い印象と感銘を与えたということです。それで、イエスの生の言葉、その時話したままの言葉で残したのです。

  「娘よ」とありますが、これは、実はあらゆる世代の人たち皆に言われていることなのです。私たち、死んだような者に向かって。

 私たちは正しいことがどうしても出来ない。愛とか正義とかできない。私たちは本当の愛とか正義・真実とかには死んだような者です。

 エペソ書2章にこうあります。「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」(1節)、「しかし、憐れみ豊かな神は、私たちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、…」(4、5節)。

 みな死んでいた、などという聖書のこういう箇所は、ほとんど引用されません。けれども、イエスのようにみずからの命を与えるまでも、誰に対してでもどこまでも愛するとか、殺されようとしても真理に忠実であるといった、非常に高くて深い基準に照らすときには、私たちはとてもそんな純粋な愛や正義などはなく、皆死んだような者にすぎません。

 「タリタ、クム(クミ)」「娘よ、起きなさい」と言われた。これはその死んでしまった少女だけに言われたのでなく、そこで聞いていた人たち皆にあてはまるのです。そしてこの出来事から、二千年も経った現代の私たちにも当てはまるのです。

 タリタ、クムタリタ、クミ) ―起きなさい!というようなことは、ごく普通に家の中で使われる言葉です。それをわざわざ原語で残しているのは、皆が、自分にもそしてあらゆる人に対して言われた言葉だと、この福音書を書いた使徒が啓示によって知らされたからです。「あなた、起きなさい」と。

 イエスさまは死んでいた者に「生きなさい」と言われたのです。私たちが持っている愛とか正義など、本当に弱いものです。キリストを信じていても、うっかりすると迷い込んでしまいます。聖書の記事は昔あった事にすぎないと考えると現在の私たちには関係ないものになります。しかし、聖書に書いてあることは、不思議なほど現在の私たちにつながっているのです。ここでもイエスは「信じなさい」と言われたのです。「死んだ人をも起こすイエスの力を」です。

 

エパタ(開け!)

 このような箇所は他にもあります。

 主イエスが、人々が一人の耳が聞こえず、言葉も出せない人(ろうあ者)を連れてきて、イエスが手を置いて(イエスが持っている神の力によって)いやしてほしいと願ったときのことです。

 このとき、主イエスは、天を仰ぎ、深く息をして、その人に向って「エパタ」(開け!)と言われた。すると、たちまち耳が開き、はっきりと話すことができるようになった。(マルコ7の32~34)

 ここでも、開け、というひと言をわざわざアラム語のままで残してあります。イエスは当時、アラム語という言葉を用いて話していたのです。

 それは、とくに周囲にいた弟子たちや人々にとって強烈な印象を残すものとなり、そのイエスのひと言の力が深く彼らの心に刻まれ、さらに、歴史の流れのなかにも深く刻印されたことになりました。

 ここでも、この「開け!」というひと言は、単なる大昔の特殊な話ではなく、そのじっさいにあった出来事は、それ以後の時代にも常に生じることなのだということが周囲にいた人たちに啓示されたのです。

 そして現代の私たちにも、主イエスは、やはりこの短いひと言とその力を、信じる人たちに与え続けてきたと言えます。

 私たちの前途は、さまざまの障害によって閉じられています。私たちの考えや能力、体力、あるいは人間関係、この世の悪の力、災害…等々、いたるところで私たちの心や行動は制限され、閉じられている世界に置かれています。

 苦しい病気になれば、とくにそれは痛切に感じられます。文字通り閉じられた部屋にて動けなくなりますし、事故災害などによっても私たちは不本意な場所や環境に閉じられてしまいます。

 そのような随所に生じる不自由と束縛にあって、主イエスは心から求める人たちに、「開け!」との力強い言葉を語りかけておられるのです。

 じっさい、イエスが最も用いられたペテロ、ヨハネ、ヤコブなどは漁師であってなんら学問や社会的活動、あるいは各地を旅した経験とかもなく、小さな―せいぜい直径10数キロほどのガリラヤ湖を漁場とした狭い閉じられたところでの生活であったのです。

 しかし、イエスを信じ、従っていく生活となり、主から「開け!」とのみ言葉を聞きつつ歩むことによって、彼らの狭い精神の世界は開かれていきます。そしてペテロは主イエスから、私のことをどのように思うか、と問われて、「あなたは神の子メシアです」と、イエスの本質を深く知ることができたのを示しました。

 それは、当時の宗教学者たちにも与えられなかった魂の目が開かれたしるしだったのです。

 

あきらめない信仰

  次に、「フェニキアの女の人」の信仰の記事です。この人はユダヤ人ではないし、ガリラヤ湖から、60キロほども離れた地中海岸にある地域の人なので、イエスの話など聞いていなかったはずです。しかしそういう人がイエスが来られたことを知って訪ねてきて、娘の病気のことで必死に頼んだんです。

 しかしイエスさまは「わたしは、イスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていない」と言って、願いを聞いてあげませんでした。しかし女性は、一見見放されたようなことを言われたにもかかわらず、「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパンくずはいただきます」と、あくまでイエスを信じ続けたことから、イエスが「あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」と言って癒されたのです。(マタイ15の28)

 このフェニキアの女の人は、どういう風にしてこのような信仰を持てたのか分かりませんが、そういうような不思議なことも一方ではあったということです。共通しているのは、イエスが、いかなる人間にもできないことをなし得る力、神と同じような力を持っているということを信じていたことです。

 

万能の神への信仰の重要性

 このような神の全能(万能)を信じる信仰は、ずっと前の旧約聖書の時代から流れてきたのであって、その神と同じ本質を主イエスが持っていることを信じる人が起こされたというのがこうした記事の意味するところなのです。

 そしてそれは、今日の箇所と関係はないようですが、最初に話しましたパウロの「信仰によって義とされる」ということと関係があるのです。十字架のイエスを信じたら罪を赦される(私もそうだった)ことと、イエスさまがこのような絶大な力を持っていることと深い関連があるのです。

 その関連を、パウロは創世記の「アブラハムの信仰」と呼応させつなげているのです。 パウロが、ローマの信徒への手紙において中心となっている、「信仰によって私たちは義とされる―神様が信じる人に向って、あなたの罪は赦された、正しいんだよと言って下さる、罪を赦してくださる」と言う基になっている所があるのです。

 それが、創世記15章のアブラハムの信仰によって義とされたという記事です。パウロはロマ書4章で、繰り返しこの創世記15章のアブラハムの信仰に言及しています。

 では、創世記15章はどういうことかと言うと、アブラハムには子どもが生まれなかった。もうあきらめていた。けれども、主がある時に、それもわざわざ夜、外に出て空を見なさいと言われた。このパレスチナ地方では、空の澄み方が日本などとは全然違うのです。本当に星座がわかりにくいほど、現代の私たちには見たこともないほどの星の数が見えます。神は「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみよ」と言われた。そして数えられないアブラハムに「あなたの子孫はこのようになる」と言われた。アブラハムはあきらめていたのに、神からのそのような語りかけを聞いて、その神の言葉が実現することを信じたのです。神はそれを義とされた。これが、ずっとはるか後の新約聖書の中心の教義となっていったのです。彼の信仰は単純です。ただ神の万能を信じたのです。

 人間的には絶望と思っても、神様にはできるのだと信じたのです。絶望と思ってあきらめるか、それとも神様はできると信ずるか、ここが大きな分かれ道です。さっき、なぜ「勝利をのぞみ」という賛美歌(We shall overcome)」(讃美歌21-471)を歌ったかというと、今も悪の力はいたるところに存在し、強大ですが、それにもかかわらず、神の万能を信じる私たちは、絶えず勝利していくのです。いかなる権力者も聖書の真理を抹殺出来ないのです。今に至るまで何千年もこの真理は全く変わっていません。       

 中国の場合、信仰の自由が不十分であり、キリストの信仰を一般の人たちに伝道したりできません。聖書の配布も一般の書店では購入できず、教会でしています。けれど、クリスチャンはじわじわと増え、現在1億3千万くらいになっていて、世界有数のキリスト教大国だと数年前に朝日新聞でも報道され、またNHKでもその中国のキリスト教徒の増大が驚くべき状況となり、共産党員よりも多くなっていると報道されています。(キリスト者の人口ではアメリカに次いで世界第二のキリスト教国となっている)

 中国政府は、そのキリスト教の力を押さえようとして、二千人もが入れるような大きい教会がほぼできあがったにもかかわらず、それを打ち壊しました。これもNHKニュースで報道されました。

 しかし教会の建物は打ち壊せても、この真理はいくら打ち壊そうとしても出来ません。打ち壊そうとした人たちが滅びに至るのです。      

  そういう風に、一方においては悪の力が強いように見えますが、他方ではこのようにキリスト者は絶えず勝利する。それで、私たちも、人間の力で考えて、こんなことは出来るはずがないから信じないとするのか、それともアブラハムのように、人間は出来ないが神様はできると信じるのか、生涯の大きな分かれ道です。ですから、ある意味で信仰は「与えられるもの」でありますが、また一方では、与えられた信仰をもとにして、人生の途上に置かれた選択肢を神を信じて「選び取っていく」ものでもあるのです。

 

 アブラハムは、現在のような慈善行為など、何かよいことをしたということは書いてない。ただ、神様の全能を信じた。神はアブラハムのこの信仰を義とされた。神様が全面的に認めてくれた。神様との結びつきがそのように神の万能を信ずるということから始まるが、そのような信仰の姿勢は、ずっと続いてきた。

 それでパウロは、そのことを用いてキリストを信ずることと結びつけて書いています。アブラハムが、神の全能を信じて義とされたように、神は、イエスを復活させたと信じることによって義とされる。と記されています。(ローマの信徒への手紙4の24)

 

 キリストに与えられた神の万能の力ゆえに、死してなお復活し、その死は万人の罪をあがなうことのできる力を持ち、人はただ信じるだけで義とされるという道を開いてくださったのです。

  ローマの信徒への手紙というのは、信仰に関してはとくに重要なことが書いてあります。その4章、「アブラハムの信仰」と書いてある所です。その3節「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」。行いによって神様から義・正しいとされたのではないと、4章2節でも書いてあります。その後も書いてありますが、17節でも「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じた」とあります。

 これは、女性の胎が言わば死んでいた、生み出す力が無いものになっていた。そのようなものに神は力を与えた、生み出す力が存在していなかったのにその力を与えた―そういう意味で、アブラハムは無から有を生み出す神を信じたということです。彼は万能の神を信じたのです。

 24節「…わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められる」のです。こういう風に、このパウロの論法を見たら分かりますように、復活をさせる神の力・全能の力を信じたら、アブラハムと同じように、私たちも生まれたときから罪がありますが、義とされるのです。

 25節「イエスは、わたしたちの罪のために死んで、わたしたちが義とされるために復活された」。主は十字架で死んだだけなら、ただの人間であり、死の力に敗北するようなものなら、到底人間全体を死せる状態から解放して命を与えることなどはできない。

 それゆえ、パウロは、「イエスの復活がなければ、私たちはすべての者のうち最もみじめな者だ。皆空しい。」と強い表現で記しています。(Ⅰコリント15の17~19)

 復活をしたから神の子で、神様と同じ力をもった存在だと証明された。私たちが義とされるために、復活というのがなければならない。キリストは、すべての人の罪を担って死んだ、そして復活した。それゆえに死にうち勝つ神の無限の力を与えられているゆえに、万人の罪をも赦すことになる。神からの万能の力を与えられているからその事が出来る。

 その力―神の全能の力を、12年間も血の病に苦しんできた女の人も、あるいは全盲の人やハンセン病の人も信じて、必死でイエスさまに叫んで救いを求めたのです。弟子たちがうるさい、黙っておれと言っても「憐れんでください」と、イエスが万能の力を持っていると信じて叫び続けた。そして癒やしを得た。

「あなたの信仰があなたを救った」の言葉と共に。このように、新旧約を一貫して流れているのは万能の神を信じる信仰です。ここが大きな分かれ道です。神は万能だから何でも出来ると考えるか、神はいるとしても万能ではないのではないかと考えるか。

 

 日本人が考える神様は、人間の願いを聞いてくれるような神ではありません。日本では山、例えば富士山がご神体であり、また奈良県の三輪山(みわやま)でもその山が神体として崇拝される対象です。また、大木や白蛇なども神として拝むところがあります。狐や狸、あるいは太平洋戦争で、中国人などをたくさん殺した人でも、例えば靖国神社では神として祀られています。また豊国神社は豊臣秀吉を神とあがめる神社です。彼は気に入らない者を次々と処刑するとか、今から400年以上昔ですが、朝鮮に大軍を攻め込ませて、朝鮮の人たちの村落を破壊し、数十万人を殺害したのです。そんな人が、神になって何でも聞いてくれるなど、到底考えられないことです。

 しかし、聖書の神は根本的に違うのです。全能の神なんです。

 マリヤが、まだ結婚していないのに子が生まれると聞いたとき、「どうしてそんなことがあり得ようか」と到底信じられない気持ちであったが、天使が次のように言った。

 

…聖霊があなたに降り、いと高き方(神)の力があなたを包む。…

神にできないことは何一つない。(ルカ1の35~36より)

 

 この御使いの言葉をマリアはすぐに受け入れ、神の万能を信じたのでした。

 

 イエス御自身も「全能の神」を言われています。

「…しかし、わたしは言っておく。

あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、

天の雲に乗って来るのを見る。」(マタイ2664節)

 

  こういう見方です。神様といっても、いろいろな神がありますね。愛の神様、真実の神様、憐れみ深い神様など。そうしたすべてを備えた神だからこそ、全能の神というのです。

 そのように重要なことだからこそ、ヨハネ福音書やヘブル書の最初の部分、あるいはコロサイ書1章の15~17節などに、神とキリストの同一であること、その神とキリストが天地万物を創造し、現在も万物を支えているという神の万能を記しているのです。

 

 それからもう一つ。私たちは全能の神様を信じることが困難な時代に生きています。しかし、困難な時代だからこそ、その中でそれを信じることが大切になるのです。それを問われています。ローマ帝国の長期にわたる迫害という困難な時代にこそ、全能の神を固く信じる人たちがつぎつぎと起こされ、そのような人たちによってキリスト教は滅びることなく、伝えられて言ったのです。

  今日、私たちのこの時代、ますますイエスさまが言われたように、さまざまな偽預言者とか、戦争のうわさとかがあります。また、イスラム国のようなつかみきれないようなものが、だんだんはびこったりしています。そして日本にも、こういうことに合わせるように集団的自衛権を認めたり、数知れない犠牲のもとに生まれた憲法9条をなくしてしまおうとするような勢力が増えています。

 そういうような困難な状況になって、一層私たちに問われているのは、「全能の神」の信仰です。

 黙示録では、迫害のただ中に書かれたにも拘わらず、というより、それゆえに全能の神のことが強調されています。

 このことを最後に触れておきたいと思います。

 

 …聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。

全能者である神、主、

かつておられ、今おられ、やがて来られる方。(黙示録4の8)

 有名なイザヤ書からの引用「聖なるかな」の後、「全能者である神、主」と。英語では「Lord God Almighty」です。オールマイティなのは、本来イエスお一人だけです。また完全にオールマイティなのは神様だけです。

 

 同じ黙示録11章17節にもあります。

「今おられ、かつておられた方、

全能者である神、主よ、…」と。

 全能者である神、Lord God Almightyが、今のこの困難な時代におられると。このように、特に全能者ということが言われています。

 

 黙示録の最初1章の8節にもあります。

「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、

 全能者がこう言われる。

『わたしはアルファであり、オメガである。」

 

 このように私たちは、愛の神ということだけでなく、全能の神を信じることが大切です。全能の神を信じておればこそ、苦しめられ殺されても必ず復活させていただけるんだと確信でき、世の終わりには必ず悪の力が滅ぼされるんだと迫害に耐える力が与えられるのです。

 だから、ローマ帝国のきびしい迫害の時代に書かれた黙示録では、繰り返し全能の神を言っています。

 私たちにおいても、今後の大きな世の流れの中で何が起きるか分かりません。けれども、これからの時代どのようになっても、全能の神を信じて生きれば必ず勝利するのです。アブラハムからずっと、この信仰は続いてきているのです。

 この世界、宇宙の最終的状況として、再臨―キリストがふたたび来られること―があります。私たちの次第に老齢化していく体、また病気でおかされた体であっても、キリストの栄光の姿へと復活させていただけると約束と同様、この世界がいかに荒廃しようとも、神は万能であるからこそ、新しい天と地(黙示録21章)を創造されると信じることができます。

 このように、復活、十字架によるあがない、再臨といったキリスト教信仰の柱となることはすべて、神の万能への信仰がもとにあります。それゆえ、主は、その重要なことを信じることをアブラハムの時代から今日にいたるまで一貫して祝福されてきたのです。

 現在に生きる私たちも、神の全能を信じてその祝福をさらに受け継ぎ、人々に証ししていきたいと願っています。 

 


リストボタン休憩室

 

〇木星

 去年の冬に見られた木星が 1年ぶりに見えるようになってきました。

11月下旬には、夜の11時すぎには、東から上がってくるのでその強い輝きを目にすることができます。冬の寒さの中で輝く木星の光は、透き通るような感じを与えてくれるものです。

 見たことのない方はぜひ、夜遅いですが晴れた夜に東方の空を見ることをお勧めします。 

 


リストボタン編集だより

来信より

〇最近、祈りの時間を確保する重要性を感じています。短くても、神様と一対一で対話する静寂の時間を持つのです。そこから神様からのよきもの、力を賜物として頂けます。

 聖書を読む時間、賛美をする時間を1日のうちにとっておくのも大切ですが、祈りの時間をとっておくのも忘れてはなりません。祈りながら思いました。

 人間は肉体が死ぬとき、病気などで思考が安定しなくなってきたとき、最後に出てくるのは難解な神学書などではなく、暗唱していた聖句を伴う祈りや好きな讃美歌のメロディーの一節くらいしか出てこないのではなかろうかと。生きがい、のことを人はよく口にしますが、主イエスを救い主として仰ぐ信仰こそは、死にがいのある本当の生き方のような気がしました。                (四国の方)

 

〇カトリックとプロテスタントの違い、それと万人救済説の問題点について聖書を基に正しい見解を示して下さりありがとうございました。

 カトリックのことをどう受け止めるべきか、今回の吉村さんの見解の中に、解決がありみ言葉を通ってしか正しい信仰への道がない事を思います。

 自分の気持ちや感性をみ言葉より重視していたら、万人救済説のようにキリストの十字架の意味も復活もなくなるという事を思いました。

 私達のこの信仰生活も伝道の意味もなくなりみんな同じになってしまいます。

 神様は人間とは比較にならない超越した存在であり、人間の知恵で分からない事もみ言葉を良しとして受け入れていく姿勢が、「いのちの水」誌10月号によりはっきり示され、こうした問題で迷っている人には目からうろこだと思いました。

 大抵の人にとって謎のような苦しい人生に、み言葉の解き明かしによって意味を見いだし、励まされ、生きた主イエスの霊を具体的に受け取れるよう、目の前の手の届く所に「いのちの水」誌のような印刷物を置いてくださる、そのような橋渡しのための働きはとても大事だと思います。

 神様の世界は目に見えないので、この世の強力な力に支配されすぐ曇って見えなくされ、誤謬や迷信が入ってきます。

  キリスト者の方々が、日曜日の礼拝のたびに、心の中のゴミが取りのぞけられ、霊の目が見えるように、み言葉が解き明かされること、そして、目的地である神の国に迷わず向かっていくことができるようにと願っています。(四国の方) 

 


リストボタンお知らせ

〇クリスマス特別集会

・場所…徳島聖書キリスト集会

(徳島市南田宮1丁目147

・日時…1221日(日)午前10時~14時。

・内容…子供とともに、賛美、聖書講話、交流会など。

・申込締切…1217日。ただし食事を申込しない場合とか、部分参加のときは、申込が遅れても参加できます。

・会費…昼食代金として500円。

・申込先…貝出久美子

 

〇第17回冬季聖書集会  

  主催キリスト教独立伝道会

 

・場所…横浜市 上郷・森の家

・テーマ…「私の愛にとどまりなさい」

・1月23日(金)~25日(日)

・内容

聖書講話(3回)…吉村孝雄

讃美タイム

早朝祈祷

体験を語り合う

感話会

キリスト教の映画(DVD)鑑賞など。

・問い合わせ、申込先…土屋聡 

 E-mail

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23日(金)

13 受付

14時…開会礼拝

1450分~聖書講話(その1)

1930分~DVD鑑賞

 

24日(土)

640分…早朝祈祷

930分~聖書講話(その2)14時~讃美タイム

1530分~体験を話し合う

1930分~感話会

 

25日(日)

早朝祈祷

930分~主日礼拝…聖書講話(その3)

反省会

1150分~閉会礼拝

 

12月の阪神での集会

1214日(日)午前10時~12時 神戸市元町駅前の兵庫県私学会館にて。

          (川端)

・高槻での集会 1214日(日)午後2時~4時 高槻市塚原58那須宅にて。

 問い合わせは

〇今月号は、九州、中国地方のいくつかの集会に出向いていたために、「いのちの水」誌を書き上げる時間がなく、思わぬ間違いがあるかもしれません。不十分なものになりましたが、これをも主が用いてくださいますように。 

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 リストボタン徳島聖書キリスト集会案内

 

・場所は、徳島市南田宮一丁目一の47  徳島市バス東田宮下車徒歩四分。

〇徳島聖書キリスト集会場での礼拝、集会

(一)主日礼拝 毎日曜午前1030分~(二)夕拝 第一火曜、第3火曜。夜7時30分から。  毎月第四火曜日の夕拝は移動夕拝。(場所は、毎月、徳島市国府町いのちのさと作業所、吉野川市鴨島町の中川宅、板野郡藍住町の奥住宅、徳島市城南町の熊井宅を移動)

・土曜日集会…第四土曜日の午後二時~。  手話と植物、聖書の会、

・水曜集会…第二水曜午後一時から。

〇集会場以外での家庭集会など。

・北島集会…板野郡北島町の戸川宅(第  2、第4の月曜日午後一時よりと第二  水曜日夜七時三十分より)

・海陽集会、海部郡海陽町の讃美堂・数度宅第二火曜日午前十時より)、    ・天宝堂集会…徳島市応神町の天宝堂での集会(綱野宅)毎月第2金曜日午後8時~。・小羊集会…徳島市南島田町の鈴木ハリ治療院での集会。毎月第一月曜午後3時~。・いのちのさと集会…徳島市国府町(毎月第一、第三木曜日午後七時三十分より「いのちのさと」作業所)、・藍住集会…第二月曜日の午前十時より板野郡藍住町の美容サロン・ルカ(笠原宅)、つゆ草集会…毎月一度、徳島大学病院8階個室での集会。・祈祷会は月1度(第一金曜日午前10時~)。