私たちは皆、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていく。

(Ⅱコリント3の18より)



20143月 第 637号 内容・もくじ

リストボタン冬にあっても目覚める

リストボタン汚れなき美しさ

リストボタン汝自身を知れ

リストボタンダビデ一家を襲った闇と光5

リストボタン苦難の中からの祈り―詩篇35

リストボタン二つのまなざし

リストボタンオリンピックの背後にあるもの

リストボタンアンパンマンと聖書

リストボタン来信より

リストボタン ことば

 リストボタンお知らせ 


リストボタン冬にあっても目覚める

 
寒さ厳しいただなかでも、咲き続ける花がある。スイセン、ウメ、ツバキ、ビワなどである。

 これらのうちで、ビワの花は最もなじみのないものであろう。その花の香りといっても大多数の人は知らないのではないかと思われる。

 その花はごく地味であり、葉も堅くて大きいがその香りは心を平和にするようなやさしさがある。

  ウメとツバキは、樹木の花として対照的である。ウメは薄い花びらに多くのオシベ、葉もまだ出ていていない真冬に花だけがまず咲いていく。

 ウメは、厳しい寒さのなかで美しい花と香りによって、私たちの心を引き寄せる。

 ツバキは厚くて濃い緑の葉と真っ赤な花びらによって、冬の山でひときわ目立っている。その花は、寒さにも負けない命の力を表している。

 すべてが眠ったような、あるいは枯れたようになっているただなかで、このようにそれぞれの個性を表しつつ、目を覚まして花を咲かせているものがある。

 イスラエルやその周辺の地方には、日本のウメと同じように冬に白い花を咲かせるアーモンド(あめんどう)の木がある。栽培されているものはうすいピンク色であるが、かつて見た現地のものは純白であった。それは荒涼とした砂漠地帯にあるシナイ山のふもとの聖カタリナ修道院の庭で2月下旬に咲いていたものである。(なおこの修道院で、聖書の古代写本としては特に重要なシナイ写本が発見された。)

 預言者エレミアに神が語りかけた言葉に、そのアーモンドの花が出てくる。

 

…主の言葉が私に臨んだ。「エレミヤよ、何が見えるか。」

私は答えた。アーモンドの枝が見えます。」(*

主は私に言われた。「あなたの見るとおりだ。私は、私の言葉を成し遂げようと、見張っている。

    (エレミヤ書1の1112

*)アーモンドは、ヘブル語では、シャーケード。 それに対して、神が「見張っている」と訳された原語は、「見張っている、目覚めている、油断なく注意している」といった意味があり、その動詞は、シャーカドで、この箇所では、分詞形なので、シャーケードとなっていて、見張り続けている という意味をもっている。

 
このように、アーモンドのヘブル語名そのものが、「目覚めている」という意味をもっているのであり、古代の人が、この花の特質をこの名で表したのだと考えられる。

 真冬にほかの多くの植物が枯れたようになり、葉もないにもかかわらず、アーモンドは目覚めているかのように、美しい白い花を咲かせる。それは神が、その御業をなしとげようとして見つめている姿を表しているというのである。

 預言者エレミヤの時代は、大きな曲がり角であって、国が滅びるかどうかという分岐点にあった。そのときに、エレミヤが神から呼び出され、人々が、正しいこと真実なことからそれていき、神ではないものを神としてあがめ、精神的に死んだような冬の時代に、神の言葉によって強く警告する使命が与えられた。

 神ご自身が、つねに目覚めてこの世の人々を見つめている存在であり、エレミヤもその神のご意志をゆだねられたのである。

  このように、神ご自身がその創造物たる自然を通して、神のお心、そのご意志を表そうとしておられるのがわかる。

 私たちも自然を通して、神のご意志を少しでも日々くみ取り、またそこからその力をも与えられたいと思う。 

 


リストボタン汚れなき美しさ

冬の澄みきった大気、寒さ厳しい夜や朝には、星々や朝の青い空はひときわ澄みきっている。またその寒気のただなかで咲くウメの花も、そこから伝わってくるのは、やはり清い美しさである。わが家のウメの木はもう何十年も、わが家のある山の斜面で咲き続けている。その間、黙して、その神の御手のわざ、ご意志を表し続けてきた。

 こうした自然の清さや美は到底人間にはまねのできないことだ。いかに科学技術が発達して、LEDなど用いてさまざまの光輝く照明や装飾を造っても、それらは清い美というのとは遠く離れている。

 人間が造ったものは、みなその背後に人間的な意図がある。競争心や人の目を引きつけようとする人間的な意図、金儲け、あるいは自分、あるいは集りや会社などが造ったということを誇示する心…等々があり、それらは到底純粋とは言い難い。

 私たちの目にする大空や澄みきった夜空に輝く星の光、また野草や樹木の花などには、そうしたあらゆる人間的なものは皆無であり、あるのはただ、はるかな昔からの神の聖なるご意志のみ。

 「聖」とは、ヘブル語では、分かたれたという意味をもっている。(*

 その点で、中国語の「聖」という文字が持っている意味とは基本的に異なっている。

 *)ヘブル語で聖とする、聖である、聖なるという意味の元になっている、 qdsh で表される語は、separation withdrawal という意味を持っていることが示されており、聖とする という意味の動詞、カーダシュ は、「分けられた」 be set apart の訳語があてられ、名詞形の コーデシュ には、「分けられている、離れていること」apartness が訳語としてあげられている。(「A Hebrew and English Lexicon of the Old Testmentby BROWN,DRIVER,BRIGGS 871-873p 

 それゆえ、神が聖であるというのは、いかなるこの世の変動や状態にもかかわらずそれらとは全く分かたれた清く永遠的な本性であるのを意味している。

 安息日を「聖」とする、ということは、その日を完全にするということでなく、ほかの日と分けられた日、神に捧げる日とするということである。

 それに対して漢字の「聖」は、耳と呈から成り、耳がまっすぐに通ることというのが原意で、そこから、わかりがよい、さといなどの意となる。(漢字源による)

 たしかに、自然の風物は、人間の関与するあらゆるものとはまったく異なる違ったものと実感する。それは神によって人間的なものから分けられ、離れたものとして存在している。

 路傍に咲く小さな花も、だれも顧みないような花であっても、それをよく見つめるとその精密さ、純粋な美を持っているし、高山の花も、太古の昔からまったく人間とは離れてその清い美を表し続けてきた。

 それらはまさに神ご自身がそのように、いかに人間が汚れたことを重ね、あるいは国家社会が混乱に陥っても、それらにまったく染まらない清い美や力を持ち続けていることを指し示すものとなっている。

 「創造されたもので、キリストによらずに造られたものは何一つなかった。」とヨハネ福音書の冒頭で言われている。

 言い換えると、すべてのものは、キリストによって創造されたということである。ヘブル書のはじめにも、やはり「神は、御子(キリスト)によって世界を創造された」と記されている。

 キリストは愛であるゆえ、この世界自体、私たちの目に見える自然もまた、キリストの愛によって創造されたということであり、このような自然観はほかの文書では到底見いだすことはできない。

 自然とは何か、という最も深い啓示がこうした言葉にある。

 


リストボタン汝自身を知れ

 

 レンブラントは、たくさんの人物画を描いた。とりわけ自画像を繰り返し描いた。それらは絵画表現の研究といった観点からも描かれたが、彼の長い画家としての生涯で一貫して描き続けた。彼の自画像の多さは、絵画の全歴史においても類のないほどであり、60もの絵画があり、さらに20を越えるエッチング(銅板画の一種)、そして10ほどの素描作品もあるという。

 このことについて、ある美術研究家は、次のように書いている。

…レンブラントは、人間の内的な生活、生の問題を深く洞察するためには、自分自身を知らねばならないと感じていたと思われる。 (ローゼンベルク)

Rembrandt seems to have felt he had to know himself if he wished to penetrate the problem of man`s inner life.

REMBRANDTLIFE AND WORKS by Jakob Rosenberg   37p)       PHAIDON Publishers 

 

 このような驚くべき自画像の多さ―それはたしかに、彼が、人間そのものを見つめるためには、まず自分自身の本質を見つめようとした姿勢の現れでもあった。

 私たちは何かを見つめている。見つめるまでもいかず、表面的に見ていることが大部分であろう。

  自分の外側の出来事や、他人のことはよく調べても、自分そのものの本質についてはごくわずかしか知らない。

 現在、人間は外なる事物に関する知識はおびただしい量を持つようになった。自然に関する科学的知識、それをもとにした技術に関わる知識、また、人間の歴史や社会、政治や地理的なことに関することの膨大な情報があり、いくらでもそれらについて知ることはできる。

 しかし、自分自身が何者であるのか深く知る人は、非常に少ないと考えられる。とくに、正しいあり方からいかにはずれているか、真実な愛や清い心といった状態からいかに遠いかという最も大切なことに関しては、知らない状態のままであることが実に多い。

 聖書の世界―それは神と人間の世界がともに深く記されている。人間がいかに正しいあり方から遠くはずれているか、聖書では繰り返し言われている。

 

…人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。

     (エレミヤ書 179

 

 周囲の人間の中にそのように腐敗している人がいる、と感じる人は多いだろう。

 しかし、自分の心がそのような絶望的なまでに病んだ人間だということを感じているという人はどれほどいるだろうか。

 そのような実感があるときには、そこからの救いを切実に求めるようになる。それは努力とか学問、経験、人間との交際、旅行等々、あるいは豊かな生活があってもどうすることもできない。

 イエスに従っていた12弟子たちも―とくにイエスのそばで従っていたペテロですら、イエスが自分は十字架につけられることを予告したとき、ペテロはそんなことがあってはならないとイエスを脇に引き寄せて叱責までした。それをイエスは、サタンよ退け、神のことを思わず、人のことを思っていると厳しく叱られた。また、イエスとの最後の夕食のあと、ペテロはたとえ殺されることになっても、あなたのことを知らないなどとは言わない―どこまでも忠実に従う、といった。

 にもかかわらず、イエスがとらわれたときには、弟子たちはみな逃げていった。ペテロたちも自分がどんなに弱いか、みじめな存在であるかわかっていなかったのが明らかになった。

 このように、私たちは一番身近なものである、私たち自身の心の中がそもそも分かっていないのである。自分で自分が分からないし、制御できない弱さがある。

 それゆえに、ペテロのように自分が強いものであるかのように間違った判断をする。自分のことすら、間違うのが人間の常なのだから、他人や他人の集合体であるこの世のことについても間違うのは当然ということになる。

 ソクラテスなど、古代ギリシャの英知を愛した人たちは、「汝自身を知れ」ということの重要性を深く知っていた。自分がいかにわずかしか知らないか、ということを深く知るということは、英知に至る出発点となる。無知な自分だからこそ、英知を愛し、求めるのである。

 この点は、キリスト教とも似通った点がある。キリスト教、聖書の世界においても、自分がいかに正しく歩めないか、神の前にまったく欠けた存在と、汚れた者であるかを知ること―罪を知ること―そこから、神による清め、あがないを受けることを真剣に求めるようになる。

 自分を深く知っているとは、神の前に何らよきものがないことを思い知らされた状態であり、それは主イエスの言葉で言えば、「心貧しき者」である。自分の胸を打って罪人の私を赦してくださいと祈り願う心である。(ルカ1813

 そこから私たちの本当の生活がはじまるがゆえに、主イエスは、その心貧しき者を祝福された。そして神の国という最も大いなるものはそのような人たちのものだと教えられた。

 貧しき心で求めるときには、聖霊が与えられ、その聖霊がすべてを教える。自分がいかなる人間であるかということも含めて。

  そして神が答えてくださり、聖霊を注いでくださることによって、私たちはいっそう自分の足りないことを知らされるが、そこから、神がどんなお方であるか、キリストがいかに私たちにとって不可欠なお方であるかをも知らされる。

 そして、キリストは死の力にうち勝ったお方であり、私たちがどんなに罪深く沈んでいてもそこから引き上げてくださるお方であることも知らされる。さらに、神の歴史を貫く大いなる御計画を知らされていく。

 汝自身を知れ、ということはキリスト教的に受け取るときには、たしかにこうしたすべての出発点にある。ギリシャの哲人たちが、この言葉を重視したのは、まだキリストを知らないときであったが、それは彼らが知らず知らずのうちに、私たちの無知なる本性、また無力な本質を知り、それをいやしてくださるキリストを指し示すものともなっていたのである。

 ペテロは、イエスが捕らえられたとき逃げ去ったが、イエスが引かれて行った大祭司の家まで遠くからついていった。そしてそこで出会った女中などから、お前もイエスとともにいた、と言われた。そのとき彼は強い調子で三度も否定した。そのとき、遠くにいたイエスは、振り向いてペテロを見つめられた。(ルカ2261

 

 それは、自分自身を知れ―いかに自分自身が弱いか、罪深いかを知りなさい!という叱責であり、またそれとともに、そのような無力なペテロを愛をもって立ち返らせようとする神の無限の愛を知りなさい!という無言の呼びかけでもあった。

 そしてこのイエスのまなざしは、現在も同じような意味をもって私たちに向けられているのである。

 


リストボタンダビデの一家を襲った闇と光

 

 このような清い人間、真実な心の者を欺いて陥れるということは、すでにダビデがウリヤに対して行なったことであった。ウリヤは、ダビデがまさか自分を欺こうとしていることは思いもよらず、戦場から帰って妻のバテセバと休養せよと、王ダビデが言ったにもかかわらず、戦線で部下の兵士が命がけで戦っているときに、妻とともにやすむことはできないとあえて、王宮の入口で王の家来たちと共に眠った。ダビデがさらに、次の日の夜も酒を飲ませて、家に帰って休めと命じてもなお、ウリヤは家に帰ろうとせず、家来たちとともに眠った。

 ウリヤという人物は、このように、家来に対しても、見えないところでも真実を尽くす稀な人間であった。

 しかし、ダビデはそのような得難い人間を策略を用いて、部下に命じて意図的に殺害へと仕向けた。

 ウリヤと同様、タマルには全く何の落ち度もなかった。彼女は、兄が誘惑しようとしてきた時であっても、兄をはっきりと諌めた。そんなことをするのは愚かなことだと言い、自分も愚か者となる。ダビデ王に話せば、結婚することも許されるだろうと、アムノンの罪深い行動が許されないことを告げ、そのような悪しきことを思い止まるように説得しようとした。

 このような切実な訴えにもかかわらず、アムノンは、タマルを辱めた。

 そして、タマルを放逐した。そのことにタマルは、自分を力で辱めたこと以上に、自分と結婚しようともせず、追い出すことは悪しきことだと言って哀願したが、それも聞かずに追い出した。そのため タマルは、深い絶望に身をおくしかなかった。

 このような残酷なことをしたアムノン、しかしその罪は、彼の父、ダビデと本質的に似通った罪であった。ダビデも女性への欲望のゆえに、なんの非もないウリヤを最も激しい戦線の場に行かせて死ぬように仕向けた。ウリヤは、部下を愛し、真実を尽くして人から見えないところでも、正しいあり方を実行する人間であった。

 ダビデの罪と似たような形で、自らの子供であるアムノンが重い罪の行為をしてしまい、その苦しみをダビデは深く思い知らされることになった。自分が行なった罪は、それと同質のことがしばしば自分にかえってくる。

 逆に、良きことをすれば、良きことが自分に戻ってくる。

 主イエスも、人を赦せ、そうすれば赦される。赦さなかったら、神からも赦しを受けない。

 与えよ、そうすれば与えられると言った。(ルカ6の37

 現代の私たちにもそれは真理である。他者を陥れたりすれば、自分も陥れられる。他人の中傷をすれば、その人も、どこかで中傷されていく。これは驚くべき必然のことである。こうしたことを少しでも体験するとき、この世界は実に不可解で、悪が支配しているようにみえながら、その背後では、驚くべき御手が支配しておられることに気付かされるのである。

 そうしたダビデの家庭における混乱は、さらに続き、タマルの実兄であったアブサロムは、アムノンを激しく憎むようになった。そして計略をもって、アムノンを殺害してしまった。その後、逃亡生活を送っていた。ダビデは、アムノンが死んだために、アブサロムのしたことに苦しめられつつ、彼を離れたところでそのままにしてあった。

 アブサロムは、その後エルサレムに帰って来たが、ダビデは会おうとはしなかった。そのことに腹を立てたアブサロムは、ダビデの兵の指導者ヨアブの大麦畑に火を放って燃やしてしまうという暴挙に出た。

 さらに、アブサロムは父親であるダビデ王の地位をもねらい、人々の心を偽りの言葉で引き寄せ、突然クーデターを起こして自分が王になったと宣言し、エルサレムのダビデ王のところに攻め入ろうとしてきた。

 それを知ったダビデ王は、戦ったりせずまず逃げようと言った。戦うこともできないほど、事態が切迫していたこと、アブサロムの整えられた軍勢に立ち向かう準備もまったくできていなかったこと、そしてわが子に対して戦いをするという事態をさけたいと思ったからであろう。

 このようにして、王宮でともにいた家来や外国から来ていた人たちとともにエルサレムを逃れて行く。

…その地の人々が、声をあげて泣く中を通っていった。(サムエル記下1523)とあり、ダビデ自身も同様だった。

… ダビデは頭を覆い、はだしでオリーブ山の坂道を泣きながら上って行った。同行した兵士たちも皆、それぞれ頭を覆い、泣きながら上って行った。(同30節)

 そのような混乱と前途に希望は何もない状況であり、深い悲しみの中、さらに途中で追跡されて殺されるかもしれないといった絶望的状況が記されているが、そこで予期しない助けの現れたことが闇に輝く光のように記されている。

 それは、外国から一時的に来たイタイという人だった。

…王はガト人イタイに言った。「なぜあなたまでが、我々と行動を共にするのか。戻ってあの王のもとにとどまりなさい。あなたは外国人だ。 しかもこの国では亡命者の身分だ。

 昨日来たばかりのあなたを、今日我々と共に放浪者にすることはできない。私は行けるところへ行くだけだ。兄弟たちと共に戻りなさい。主があなたに慈しみとまことを示されるように。」

 イタイは王に答えて言った。「主は生きておられ、わが主君、王も生きておられる。生きるも死ぬも、主君、王のおいでになるところが僕のいるべきところです。

      (サムエル記下5の1921

 
神が生きており、目の前にいるダビデ王も生きているということが確実なほどに、私の決断は確実なのだと言おうとした。神と王の前で、彼が王に従っていく決意を誓ったということである。

 何故に、この外国人は、絶望的状況で逃げていこうとするダビデ王にこれほどまでの忠実な気持ちを持つことができたのだろうか。落ちぶれていく人間には、蔑みや無視を与えるのが普通であろう。それは、重大な罪を犯したが、神にその罪を悔い改め、立ち返ったダビデに対して、神が与えた助けであった。だれも予想しない人物―昨日来たばかりのしかも外国人の心に神がこのような心を与えたのである。

 このサムエル記における出来事と似たことが、旧約聖書の別の箇所でも記されている。それは、ルツ記である。聖書のなかで、異邦人の女性の名前が書物のタイトルとなっている唯一の書である。

 あるユダヤ人の家族が飢饉のゆえに、外国へと逃れそこで生活をしていたが、その家族の支えとなっていた父親が死に、その後、二人の息子たちも相次いで亡くなってしまった。残されたのは母親のナオミと息子たちの二人の外国人の妻、ルツとオルパたちであった。

 ナオミにおいては、自分にとっての支えがすべて失われたのだった。

 ルツは、イスラエルの人とは異なる民族の女性であった。

…ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。私は、あなたの行かれる所に行き、

お泊まりになる所に泊まります。

あなたの民は私の民

あなたの神は私の神。

 あなたの亡くなる所で私も死に、

そこに葬られたいのです。

死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうか私を幾重にも罰してください。」(ルツ記1の1617

 ナオミは、夫も息子二人も次々と死んで、絶望的状態であった。息子の妻たちも、外国人であり、イスラエルに連れて帰ると、偶像崇拝の民ゆえに汚れているとして差別を受け、精神的にも生活が成り立たないことを真剣に案じた。

 彼女たちを待ち受けていたのは、このような何も期待できない状況、予想されるのは苦難と希望なき貧しい生活、そして人々に白眼視されつつ年終えていくという不安や絶望的な前途であった。

 しかし、神は無から有を生み出すお方であるゆえに、希望の光のまったく見えない闇のようななかに、驚くべき道を備え、助けを起こされた。

 それは、創世記巻頭の、闇と混沌、空虚そのものの中で、神がそのみ言葉によって光あれ!と言われたとき、じっさいに光が生まれた記事を思い起こす。このことは、様々の状況にあって成り立つ永遠の真理を表した記述であった。

 弱いところにこそ、神の力は現れると後のパウロは書いた。あるいは何も誇るところのなく、ただ神のみを見つめようとする心貧しき者にこそ、神の国は与えられる。すなわち予想もしなかった恵みをもたらしてくださる。

 生涯のうちで最も苦しく、かつ悲しみに満ちたこのとき、ダビデは予想しなかった助けを与えられ、ダビデの祖先にあたるナオミや彼女に従った異邦人の女ルツたちもそのような恵みを受けることができた。

 そしてそれから三千年もの時間を経て、現代に生きる私たちもまた、これと同じことを主によって期待し、信じることが与えられている。

苦難の中からの祈り

       ― 詩篇35

 旧約聖書の詩篇は、何も苦しみがなく、時間にゆとりがあって、ゆったりした気持ちで、花鳥風月を愛で、あるいは、想いを寄せる人のことが心にあって、詩を作るというような状況とは、全く違う。

 詩篇は、生きるか死ぬかという追い詰められた状況や、必死で救いを求めるというような内容、あるいは、人間を越えた存在に全身全霊をあげて叫び祈り続ける―そしてそこからの助けがじっさいに与えられたという経験、証言がそこにある。

 そのような真実な祈り、叫びであるからこそ、そこに神もまた、真実な応答をしてくださるし、そのことが詩篇となって表されている。

 詩篇35篇の作者もまた、そうした追いつめられた状況にいた人だとわかる。

…主よ、私と争う者と争い  私と戦う者と戦ってください。

大盾と盾を取り  立ち上がって私を助けてください。

私に追い迫る者の前に  槍を構えて立ちふさがってください。

どうか、私の魂に言ってください  「お前を救おう」と。(*)        (1~3節)

 

 大盾とか槍とかが出てくるので、このような内容は一見して現代の私たちとは関係ないものと思いやすい。そして字句だけをさっと読み流して終わるということになりがちである。

 神の守りと、神が悪しき者たちと戦ってくださることを、人間の世界の武器をたとえにあげて願っている。

この詩篇の作者は敵の激しい圧迫を受けているということが、1~3節を見て分かる。 そのような追いつめられた状況の中で神の御言葉をひたすら待ち続けているということが3節の終わりからうかがえる。

 神に向かって必死に、戦ってください、助けてくださいという叫びがなされているが、これは、何も悪いことをしていない者に、ひどい辱めをしたり、命まで奪おうとするような人が迫ってきているという、ぎりぎりのところだということが分かる。

 このように非常に悪意のあるもの―闇の力が自分に迫ってくるので、どうかそれを追い払ってくださいということをいろいろな表現で言っている。この詩人は神にしっかり結びついているが、そのような人を滅ぼそうとする闇の力が迫っており、それとの戦いを神の力によってうち勝とうとしている魂の姿がある。

 そのような時、彼が求めたのは神のひと言であった。(3節)

「お前を救おう」と神からの直接の御言葉があれば、私たちは非常に強められる。これは人間同士でもそうで、ある種の力を持っている人が直接そばに来て、非常に弱っているときに共にいて祈ってくれたら、力を与えられることが多い。

 あるいは、この箇所の原文のヘブル語では、「私はお前の救い」となっているので、この詩の作者は、神からの、私こそは、お前の救いなのだ、という確言を聞き取りたいという切なる願いを持っていたのがうかがえる。

*)なお、この原文は、「私の魂に言ってください。『私はあなたの救い』と。」となっていて、「救い」は名詞である。 それゆえほとんどの外国語訳もそのように訳している。

 Say to my soul, "I am your salvation."                      (NRS)

 これは、徴税人として周囲のユダヤ人から差別され、汚れているとされて交際もされず、孤独な生活をしていたザアカイという人物が、何としてもイエスを見たいと木の上にまで登ってイエスを見つめていた。

 そのザアカイに、イエスは、言われた。

「今日、救いがこの家に来た。私は失われた者を救うために来たのだ」

(ルカ福音書19の9~10より)

 ザアカイがこのときに、まさにイエスから、「私こそはあなたの救いだ」という言葉を聞き取ったのであった。そしてただそのひと言で、ザアカイはそれまでの人間とはまったく異なる人間に生まれ変わった。

 神からのこうした確言を聞き取ること―そこに私たちの力の根源がある。それによって私たちは打ち倒された状態から立ち上がることができるようになる。

 旧約聖書では神と人間の間に、祭司やさまざまな儀式があったわけだが、詩篇ではそのようなものとは関わりなく、直接に神と人との深い関係が随所に記されている。

 このような理由からも、詩篇は旧約聖書の中で特別である。他のものでは、神に必死に叫んだという人はごく一部で、例えば預言者エレミヤの神への必死の叫びや祈りは記されているが、他の民衆は神にどのように叫んだのか、個々の人の苦しみや叫びは出てこない。

 このように個人の叫びや嘆き、信頼などがはっきりでているということで、私たちにもより深くつながりを実感させてくれる。

悪しき者への裁きを願う心

 次の箇所のような言葉は、現代の私たちには、とても違和感を与えるものである。

 このような表現、言葉があるゆえに、詩篇全体がなじめない、とかあまり読まないという人もいるようである。そして、注解書なども、こうした箇所には、ほとんど説明もなく、さっと通り過ぎているのも多い。

 しかし、このような表現があるからといって、詩全体をごく表面的にしか読まないということになるのは、多大な損失と言えよう。

 

…私の命を奪おうとする者は  恥に落とされ、嘲りを受けるように。

私に災いを謀る者は  辱めを受けて退くように。

風に飛ぶもみ殻となった彼らが  主の使いに追い払われるように。

道を暗闇に閉ざされ、足を滑らせる彼らに  主の使いが追い迫るように。

彼らは無実な私を滅ぼそうと網を張り  私の魂を滅ぼそうと落とし穴を掘った。

どうか、思わぬ時に破滅が臨み

彼らが自ら張った網に掛かり

破滅に落ちるように。

                   (4~8節)

 これは、詩の作者に敵対して、滅ぼそうとしている悪しき者に対して、神からの裁きがくだされるように、との祈りである。

 自分が何も悪いことをしていないのに、一方的に悪を浴びせてくる者に対して、その悪がふりかからないように、滅びないようにしてください、そのためには、悪を行なう者たちを滅ぼしてください! という強い願いがここにはある。

 自分を滅ぼそうとまで考えている悪しき人に対して、その危害から逃れるためには、このように祈るしかなかったのである。現在でもこのような人と直面したとき、どうかあの悪しき人間に裁きを下し、滅ぼしてください、と願う人はいくらでもいるだろう。というより、私たちに執拗に悪意のある言動や脅迫を続けるような人に対して、はやくあの人を追い払ってくださいと願うのは大抵の人の感情だと思われる。

 国家間の戦争は、こうした気持ちが国民全体の支配的な考えとなり、それが双方に及んで、互いに相手を殺し合うことが最大の目的になってしまう。

 しかし、このような祈り、願いによってはこの世界の根本問題は解決できない。悪しき者が滅ぼされるように、という願いは、それをそのまま厳密に適用すれば、誰もが、滅ぼされることになってしまうからである。人間同士ではいずれかが悪いことをした、ということはよくある。しかし、神の御前では、その他のことも含め、その人間が生きてきた日々にどれほどの悪しき思いや間違った言動をしてきたか測り知れない。

 この詩篇がつくられた時代には、ほとんど知られていなかった真理が、一部の預言者には啓示されていった。

  それは、そのような悪を行なう人間が、心を入れ換えて別人になる道である。

 このことは、旧約聖書のイザヤ書において、悪人を滅ぼすのでなく、その悪人の罪を身代わりに担って歩む一人の姿として記されている。そうすることが悪人のうちに宿る悪そのものを滅ぼすことになるからだった。

…彼は、軽蔑され、人々に見捨てられ

多くの痛みを負い、悲しみの人であった。

私たちは思っていた、

神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。      (イザヤ53の3~4)

 ここで言われている「彼」は、軽蔑され見捨てられていても、相手の人たちに怒らず、復讐せず、だまってその苦しみを一人担って耐えて生きた。自分を理由なく苦しめる人がいても、その人を滅ぼしてくださいと願うことでなく、自らがその人たちの弱さや悪を担って死に至るまで生きる―そんな途方もない生き方があることを示している。

 ここに、人間の究極的なあり方が示されている。

 キリストは、このイザヤ書で預言されているまさにその人であった。それゆえに、キリストは、自分を虐げて殺そうとしてきた人たちにさえ、彼らのために祈ったのであった。

 それは、主イエスの教え―あなたの敵を愛せよ、迫害するもののために祈れ という言葉そのものであった。

 敵対する者に、その悪しき人が滅びることを願うのでなく、悪しき人のうちに宿る悪の力、悪しき霊を追い出し、その人を清い人間としてくださいと祈る心がイエスによって初めてはっきりと示された。そしてこのようなことは、イエスとしっかり結びついているのでなければあり得ない。

 旧約聖書の敵対する人が滅びるように―との祈りは、主イエスによって、敵対する人のうちに宿る悪が滅び、そのかわりに良き霊―聖霊とみ言葉が入ってきて宿るようにとの内容に根本的に変えられた。

 旧約聖書の詩篇のこうした箇所を読むとき、私たちはこのように読み替えていく必要がある。

 新約聖書の精神は、この点において旧約聖書とはっきりと区別される。

主の恵みのとき

… 私の魂は主によって喜び躍り  御救いを喜び楽しむ。

私の骨はことごとく叫ぶ。

「主よ、あなたに並ぶものはない。

貧しい人を強い者から 

貧しく乏しい人を搾取する者から 

助け出してくださる。」

        (9~10節)

 

 9,10節は、それまでの内容が大きく変わる。その直前までの内容は、命を奪われるかもしれないというほどの切実な状況なのに、この2つの節では全く違うこと―救われた魂の深い喜びが記されている。

「骨が叫ぶ」というのは現代の私たちには、何か違和感のある表現と感じる人が多いだろう。こんな表現はだれも使わないし、一般的な印刷物でもまったく見かけないからである。

 これは、旧約聖書の詩篇に見られる古代の独特な表現で、骨というのは自分の一番内なる部分を意味しているゆえに、次のように、英語訳にはそのことをわかりやすく訳しているのもある。

「心の底から、一番深いところから神を賛美する。」

 

 I will praise  him from the bottom of my heart.

 

 さらに、そこから私の全存在といった意味にも訳される。

「私の全存在が叫ぶ。」

My whole being will exclaim.            (NIV

 この詩人の信じる神は、特に弱い人、苦しめられている人を救ってくださるという点で他に並ぶものがないということを、自分の精神もからだ全体も含めて証しているということである。

 このことと、この直前まで記されてきた悪人に追いつめられた作者の祈りや叫びのことと、どのような関係があるのだろうか。一見したところでは、まったく関係のないことが挿入されているように見える。

 説明がないから分かりにくいが、この 9,10節は、今この詩人が直面している悪人が目の前に迫ってきている以前に、経験したことなのである。かつての神の導きの恵みの力を実感してきたということから、そこに立って、神への信仰と信頼を取り戻し、その信仰に堅く立とうとしているのである。

 私たちも窮地に陥ったときに、かつて弱ったときに神が助けてくれたということを思い出すことが力になる。それによって、闇の力の中に光を見いだし、悪の力に対抗していくことができる。

現実の苦しみ

… 不法の証人が数多く立ち、私を追及するが 

私の知らないことばかり。

 彼らは私の善意に悪意をもってこたえる。

私の魂を滅ぼそうとして、子供を奪った。

 

 彼らが病にかかっていたとき

私は断食し、魂を苦しめ 

胸の内に祈りを繰り返し

彼らの友、彼らの兄弟となったのに、

私が倒れたときには、私に向かって押し寄せ 

私の知らないことについて私を打ち

神を無視する者が私を囲んで嘲笑う。(1115節より)


 11節から再び現状に帰っている。現在、敵対しているひとたちが、かつて病気のときには、断食をしてまで祈りを注ぎ、その兄弟のようになり、心を注いだのに、そういう彼らが、私を滅ぼそうとしている。恩をあだで返すということは、どこでもあることだが、この世の厳しい現実、悪の力が善意をものみ込もうとする状況に、この作者はじっさいに直面したのであった。

 自分がやってもいないことについて追求される、善意に悪意をもってする、人々のために祈り、病のときには真実な祈りを注いできた。それにもかかわらず、この詩の作者に彼らは向って攻撃し、神を無視する者たちが、あざ笑い敵意をむき出しにする。

 このような状況は、この詩の作者はじめ多くの人たちに生じたことであるが、主イエスにおいてもっとも深い意味をもって成就したのであった。

 この詩によって、作者は人間世界における非常に悲しむべき経験、人間というものの存在の謎のような不可解さ、そこに宿る悪の深さを思い知らされたのが分かる。このような現代の私たちにも深く魂に傷を残すような経験を、数千年も昔にありありと記しているのであり、それゆえに、詩篇は時間と空間を越えて伝わってきたのである。

 この詩人に敵対する人たちは、16節にあるように、神を無視する者であるゆえ、この詩人がしっかり神に結びついていようとするほど、それを踏みつけようとするのであった。

感謝と讃美の時を待ち望む

…主よ、いつまで見ておられるのか。

彼らの謀る破滅から 

私の魂を取り返してください。

私を救ってください。

会衆の中であなたに感謝をささげ

民の中であなたを賛美できますように。

 

敵が不当に喜ぶことがありませんように。

彼らは平和を語ることなく

この地の穏やかな人々を欺こうとしています。(1720節)

 
 
このように非常に苦しい状態に追い詰められて、叫んでも叫んでも「お前を救おう」という声が聞こえてこない。それゆえに、17節にあるように「いつまで見ておられるのですか」と言う叫びがおのずから発せられている。この詩の作者には、悪の力に取り巻かれた中で、自分の力で相手を攻撃したりするのでなく、神の力を待ち望むという姿勢が一貫してある。

 そして、救われたときには何を望んでいるか―それは、多くの人々のただなかでの神への讃美と感謝であった。それは神がじっさいに働いてくださったという証しである。

…主よ、あなたは御覧になっています。

沈黙なさらないでください。

私の主よ、遠く離れないでください。

わが神、わが主よ、目を覚まし 

起き上がり、私のために裁きに臨み 

私に代わって争ってください。

 私が正しいとされることを望む人々が 

喜び歌い、喜び祝い 

絶えることなく唱えますように 

「主をあがめよ  御自分の僕の平和を望む方を」と。

 私の舌があなたの正しさを歌い 

絶えることなくあなたを賛美しますように。(2228節)

 22
節には、現実の苦しみと神からの応答が何も与えられないという状況にあってもなお、神はそのような困難に打ちひしがれている自分を見てくださっているという確信がある。かつての困難のときにはそこから救いだしてくださった。その記憶が生きているゆえに、そして神の本質は変ることなき愛と真実であるゆえ、この作者はその神の愛に信頼し続けようとする。

 この詩の最後の部分に、あるように神に信じていこうという人たちが、共に喜び歌って、主をあがめようというのがこの作者の最終的な目標である。

 9~10節は27節以降と響きあっている。かつて神は主によって喜び歌い、全身で感謝できるようにしてくださっていた。だからこそ、この困難の中を越えて、またかつてのようにしてくださいということである。このように私たちが非常に苦しい状態に陥ったときに、初めてこの詩、ここで歌われている心の世界が私たちに身近なものになって迫ってくる。命が奪われるというような厳しい困難や迫害でなくとも、現実に私たちが持っているさまざまの苦難、重荷のなかから、神に祈り、この作者のように、神からの応答を待ち望み、そして最終的に神への讃美と感謝ができる生活となるように、と祈り願うものである。

 


リストボタン二つのまなざし

福音書のなかに、徴税人(取税人)ザアカイという人の話がある。それは、彼がイエスを見たいと願って群衆にさえぎられて見えなかったから、近くの木に登って見ようとした。イエスはそれに気付いて、ザアカイに声をかけ、彼の家に泊まることにし、彼は喜び、財産を半分でも貧しい人に分かつと言い、イエスは今日この家に救いが来た、と言われたという話である。

 これは、こどもにも分かりやすいということから、日曜学校などの子供向けの話には必ず見られる。先日も、ある集会で、アメリカからの若い女性が、やはりこのザアカイのことは日曜の集会で知っていたと言われた。

 そのために、この内容を子供向けのように受け取って、現代の私たち大人にどんな意味を持っているのかを考えない傾向がある。しかし、聖書の内容は、単に子供向けに書いてあるようなものはなく、人間全体にあてはまることが記されている。

 ザアカイは、イエスを見たいと切実に思った。それは単なる好奇心ではなかった。当時の徴税人というのは、現在のそれにあたる税務署の役人とはまったく異なる。当時の徴税は、ローマ帝国が直接に徴収していたのでなく、支配していた領地の人間にその仕事をさせていた。彼らは、その税金を集める仕方に関しては、自由にやれたので、できるだけ税金取り立てる際に、相当の利を取って、自分のふところに入れる人たちが多かった。それだけでも、憎まれるのだが、さらにユダヤ人社会では、徴税人は、異邦人との関わりが大きいために、ユダヤ人でありながら、異邦人同様汚れた者、偶像崇拝者として嫌われ、遊女と同列にさえ置かれた。

 こうした当時の状況を知らなければ、この福音書にある記述からのメッセージは分からない。ザアカイは差別され、見下され、孤独であった。なぜ、取税人などになったのか。ユダヤ人からは嫌われ、汚れた異邦人と同様に扱われるのはよくわかっていたはずだ。 それは貧しさであっただろう。どうしてもお金が必要だ、そのときには、現代でもさまざまの悪しき手段や、魂を汚すような仕事につく人が多くいるのと同様である。

 そのようにして取税人となった。そして経済的には豊かになり、金持ちとなった。しかし、そうした当時の状況から考えると、心はいっそう孤独に、またさびしさが心を噛むようになったであろう。

 そのとき、ザアカイは、イエスが来ると聞いた。イエスとは何者か、人づてに聞いてきわめて特別な人だと知っていたかもしれない。あるいは、尋常でないひとだかりや人間を引きつけるその様子を見て、これは自分が知っている人間とはまったく異なるお方だと直感したのであろう。ハンセン病や盲人、ろうあ者、寝たきりの者といった見捨てられた状況にある人を救いだし、あるいは死んだものすらよみがえらせる―そのようなことを聞いた可能性もある。

 少なくとも、ザアカイは、今まで彼の人生で会ったいかなる人とも違う、神のごとき人なのだと直感した。周囲の人たちもイエスの不思議な力に引き寄せられ、深い敬意や畏れをもって語る人も多かったろう。それゆえに多くの人がいつもイエスに従い、イエスを取り巻いていたのであった。

 イエスを見たい!  その心の奥にはそのような特別なお方、愛をもったお方のまなざしを受けたいという願いが魂の奥深くにあった。だが、そのような多くの人たちが取り巻いているなかで、自分を見つめてくれるとは到底期待できなかった。

 イエスが近づいてきたが、多くの人たちが取り巻き、しかも背が低くて見ることができない。一目見たい、会いたいという切実な願いは、周囲のユダヤ人が彼を取税人と知っていたゆえに、そのうえに背が低かったゆえに見下され、あるいは悪意によって中へ入れてもらえなかったのだ。

 それでザアカイは、近くのイチジクグワの木に登った。大の大人が、子供のように木登りをしてまで、イエスを見たかった。そのようにイエスは孤独な者の心を引きつける。

 ほかの人間がみな自分を見下す。自分を見ることは見るが軽蔑と嫌悪、憎しみのまなざしを受けるだけだった。

 しかし、イエスは違っていた。イエスは人込みのために、ザアカイも見えなかったはずだ。ザアカイがイエスを見ることができなかったのだから。

 たくさんの人たちが周囲を取り巻いて口々に騒ぎ、イエスに語りかけ願い事をいう者もいたかも知れない。

 それでも、イエスはザアカイを見つめていた。ザアカイの孤独な心から見つめるまなざしをイエスは早くも正確に受け止めておられたのであった。

 そして、この事は現代の私たちにおいてもあてはまる。私たちの最大の問題は、魂の孤独であり、見つめ合う存在を持っていないということである。一時的に見つめ合う男女、友人はある。しかしたいていの場合、そのうちに、それぞれが別のものを見つめるようになり、離れていく。

 人間のまなざしはいかに簡単に変化することだろう。信愛のまなざしは、ふとしたことで、嫌悪や憎しみのまなざしになってしまう。それは身近なもの―以前からの旧友や、家族であってもそのようなことが起こりうる。

 イエスの12弟子の中にすら、イエスの愛のまなざしに反して、憎しみと軽蔑―カネで売り渡すということはひどい侮辱である―そのような悪のまなざしをもってイエスを見る者すら現れた。イエスの弟子のなかにいたということは、また私たちの交わりの中にもそのようなものが現れるという可能性を指し示している。

 イエスを取り巻く多くの群衆たちは、やはりイエスを見つめていた。しかし、それは、イエスが不思議なこと、驚くべきことをする人だということで好奇心、単なる群集心理のゆえに集まったという人たちが多かったであろう。彼らはその中に入り込もうとしてきたザアカイを背の低い人間が徴税人であることを知っていたのは、イエスがザアカイの家に行こうとしたとき、「罪深い男のところに行って、宿をとった」といって非難したことからもうかがえる。

         (ルカ19の7)

 イエスはザアカイの孤独や悩みを、まだ会っていない先から見抜いていた。ヨハネによる福音書では、会ったこともないサマリアの女が、過去に5人の夫を持っていたということもすぐに見抜いたことが記されており、必要なことは、神の霊によって直接に知らされていたのがわかる。

       (ヨハネ4の18

 イエスは、木に登っていったザアカイを遠くから目ざとく見いだし、声をかけた。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ195

 このたったひと言で、ザアカイはイエスを深く理解した。周囲の人たちが、イエスを自分のような罪人を招いたということで非難のまなざしで見ているのを気にすることもせず、ただちにイエスに言った。

「私は財産の半分を貧しい人に施します。またもし誰かから何かだまし取っていたらそれを4倍にして返します。」

 ここに、イエスの言葉の力、その愛の力がある。人間の心を変えるのは、多弁でもなければ博識でもない。神の霊と一つになっている主イエスのひと言あれば変えられる。イエスの愛がザアカイの暗い心に光として輝いたのであった。

 このことは、かつてキリスト教徒を迫害して殺すことさえしたパウロが、その迫害のさなかに、復活したキリストからの光と、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」というひと言の声を聞いただけで、それまでのあらゆる学問や経験、教育がなし得なかった霊的な目が開かれ、新しい人へと変えられた。

 このように神の 御声を聞き取るということの重要性は、すでに旧約聖書の最初のほうからはっきりと記されている。それは、後のユダヤ教、キリスト教にも絶大な影響を与えることになったアブラハムに関してである。

 人生のある時点で、アブラハムは神からの直接の語りかけを聞いた。

…「生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行け。

私はあなたを祝福し、大いなる国民とする。

…地上の氏族はすべてあなたによって祝福される」(創世記121~3より)

 このひと言が決定的であった。これによってアブラハムは、神の圧倒的な力をじっさいに感じとり、その力によってそれまでのすべてを捨てて旅立つ決意をすることができた。

 ザアカイに関する記述においても、こうした古くからの神の言葉の力が示されている。そして、そのことこそ、現代の私たちにとっても日々なによりも重要なことである。

 イエスは、ザアカイにひと言も、財産を貧しい人に与えよとか、あなたは不正な取り立てをしてきたからそれを返せとも言われなかった。ただ、ザアカイの魂を見つめ、神の愛をもって語りかけただけだった。ただそれだけで、ザアカイには十分だったのだ。だれも親愛をもって語りかけてくれない、まわりの人がみな蔑みの目で見る、そうした耐えがたい状況であったところに、主イエスの愛のまなざしが注がれた。それは彼の孤独な魂の奥まで届いたのだった。

「 知識は人を誇らせ、(神の)愛は造り上げる」               (Ⅰコリント8の1

 キリストの愛は、一瞬にしてそれまで何をもってしても造られなかった大切なもの―魂の喜びをザアカイの中に造り出したのである。そしてそのような神に由来する喜びこそは、他者に自然にあふれ出ていくゆえ、彼は、長年たくわえた財産を半分をも貧しい人たちに与えようという気持ちが起こされた。

 与えよ、そうすれば与えられるという。しかし、与えるためには、その真に良きものをまず自分がもらっていなければならない。ザアカイは、イエスからの愛をもらったゆえに、ただちに与える心が生まれたのであった。

 このように、このザアカイの記事は、子ども向けのことでなく、どのような人にとっても重要なことがザアカイという一人の人間に関することを用いて語りかけられているのである。

 そして、このような人―失われた人を捜して救うために来た、と言われた。孤独や悲しみ、あるいは人から理解されない苦しみに打ち倒されそうになっている人―そのようなだれも相手にしてくれない者を見いだし、救いだすためだという。

 大人であっても老人になっても、人間はそうした状態にいつ入り込むか分からない。突然の事故、災害、病気、人間関係の崩壊…等々によって私たちはそのような失われた状態になる。そこからザアカイのように、真剣に求めていくことが問われている。

 求めよ、さらば与えられん―というイエスの言葉が深い意味をもって響いてくる。

 


リストボタンオリンピックの背後にあるもの

 
冬季のオリンピックが終わり、多くの人々はそこで繰り広げられたさまざまの競技に引き寄せられた。そしてまだはるか先になる東京でのオリンピックのことが、しばしば話題になり、ニュースにも登場する。

 しかし、数千億~数兆円という巨額の費用を使ってオリンピックを主催し、どれだけメダルを獲得するかなどという、それ自体意味のないことに非常な力を入れるのはどこの国も同様である。

 
今回のロシアのソチで開催されたオリンピックにおいては、500億ドル(5兆円)という歴史上で最も巨額の費用が投入された。これほどの額になると、私たちの生活感覚からあまりにもかけ離れているのでその大きさがぴんとこない人が多いのではないだろうか。

 それは言い換えれば、毎年50億円を使って一千年も使い続けることができるほどの膨大な金額である。

 しかし、ロシアの大統領は、テレビではわずか70億ドル程度といったそうだが、それは、じっさいに要した費用の七分の一程度にしかならない。予算よりはるかに多くのカネを使っていくのがオリンピックなどのような巨大行事である。

 ニューズウィーク誌(*)によれば、しかもこの巨額のカネは、相当部分をプーチン大統領の友人の大企業経営者が得たという。

 *)ニューズウィーク誌は、主に政治や社会情勢などを扱うアメリカの週刊誌。1933年創刊。世界で、2500万人の読者がいる。アメリカでは、「タイム」に次いで、二番目に発行部数が多いニュース雑誌。(ウィキペディアによる)

 その内のある友人は、今回のソチ五輪では70億ドル(7000億円)以上の契約を受注し、さらに、別のプーチンの友人が共同経営する大手建設会社は五輪会場まで約50キロの道路建設を87億ドル(8700億円)で受注しているが、4年前のバンクーバー五輪の総費用が約90億ドルであったというから、いかにほんの一部の大企業が莫大な収益を得ているかがうかがえる。

 これは一例で、ほんの一握りの大企業経営者などが、ふだんなら到底考えられないような利益を短期間で得ている。

 こうした数々の腐敗で汚れたソチオリンピックなので、ニューズウィーク誌は、「ソチ五輪、腐敗度では文句なしの金メダル」と題している。

 そして、ロシアでは、金メダルを獲得した者には、1200万円余、銀は約800万円、銅は500万円余を授与するという。巨額のカネでメダルを引き寄せようという、ここにも汚れた意図がある。スケートでわずか一回だけ回転をミス、あるいは転倒したとか、競争でわずか1秒遅くて、4位になったとしたら、もう500万~一千万円が消えるということになる。

 一般の農家の人たちが1千万を働いて得ようとすれば、どれほどのたいへんな労働が必要となるだろう。

  また、テレビ映像では、ソチの会場付近の山岳地区も山肌が露出していたが、映像ではスキー会場や、長距離のコースなどにも雪は十分にあったようにみえた。しかし、実態はどうか。

 今回の会場に用意したおびただしい量の雪には、これまた驚くべき巨額が投入された。 しかしこれは、数百台もの人口降雪機を使い、塩とドライアイスで「作られた冬」でしかなかった。ロシアの大会組織委員会は、雪不足にならないためにと、なんと約7億5000万円を投じて雪もためていたという。

    (毎日新聞2月26日)

 わずか2週間余りの期間のために、しかも溶けたらただの水になって消えてしまう雪作りのためにこのような大金も投入した。

 こうした数々のカネ、人間の欲望で汚れた実態を知って、あのオリンピックを素直に喜べるであろうか。感動させるような場面、華やかな競技の様子の背後にある実態を私たちはもっと知らねばならない。 しかも、金メダルとかメダルを獲得するためとして、多額の選手養成の費用も税金から投入される。

 しかし、現在の世界では、スケートやスキーなど見たこともない、といったおびただしい人々がいる。熱帯、亜熱帯などではそれらの氷や雪のスポーツなどはまったく生活と何の関係もなく、無縁のものである。

 
夏のオリンピックにしても、メダルをたくさん獲得するのは、当然アメリカを筆頭として、イギリス、ドイツ、フランス、ロシアなどの欧米や中国等々の豊かな国あるいは国費を大量に注ぐ人口大国等々である。

  近代オリンピックが1896年にはじまって、120年近くになるが、アメリカはその間、2700個近くのメダルを獲得し、フランス、ドイツ、イギリスなど豊かな国が、800個前後のメダルを獲得している。(日本、中国はそれぞれ400~500個台)

 しかし、世界の70を越える国々は、その間に一度もメダルを獲得したことがない。 また、その期間でメダル獲得の合計が一桁に留まる国々は、60か国を越える。こうした統計をみれば一目瞭然であるが、それはオリンピックそのものがいろいろな意味で多額のカネと国家と権力の結びついたものであるから当然である。

 世界には、飢えている人々は、10億人もいるという。(日本国際飢餓対策機構のサイトによる)

 その人々は、毎日の食物さえまともに与えられない、医療もきわめて不十分な貧しい人たちである。そのような人たちをもし、目の前に置くなら―日本人全体の8倍にも達するゆえに、彼らを並べたらその飢えている人たちは、果てし無く続く行列となるだろう―そうした状況を前にして、オリンピックの競技を喜んで見ておれるだろうか。

 金メダルを幾つとったとかいうことがいかに空しいことか、はっきりするだろう。

 また、平和の祭典と称されるオリンピックの直後に、ロシアの大統領が、議会の支持も得たとして、ウクライナに武力で圧力をかけて支配をにおわせるという旧時代のような方針を示した。それは、以前のハンガリー動乱(1956年)、あるいはチェコスロヴァキアに起こった、自由を求める改革が、ソ連の軍事介入で崩壊させられたこと(1968年)などを思い起こさせるものがある。

 このようなことは、オリンピックが本来は平和の祭典などでなく、開催国の権力や、国家間の競争、さらに多額のカネの動きといったもので動いているからである。

 オリンピックとなれば、一般の人たちもお祭騒ぎのような気持ちとなって、このような多額の費用を湯水のように使うことを厳しく見つめることからそらされていく。

 もしこのような莫大なカネをほかの有用な施設―一般の人々のための公園や病院、福祉施設、貧困層のための福祉やそのための人員、教育文化施設、青少年が費用もかけずにできるような小規模スポーツ施設などに投入すれば、どれほど多くの有益なことができるか測り知れない。それだけでなく、貧しい国々のための医療や福祉、農業の援助、水の確保などに費やせばどれほど平和に貢献するだろうか。

 こうした大規模スポーツ行事には、オリンピック以外でも、例えばサッカーのワールドカップ(世界選手権大会)には、ブラジルは、試合会場の12競技場の新築・改築にかかる費用を約1000億円を民間投資で調達すると発表していたにもかかわらず、実際にはこれまでに3600億円を費やし、その9割近くを税金で賄ったという。 これでは、庶民には彼らの出した税金は吸い上げられるばかりで、巨大利得を得たのは、大手建設会社や不動産業者である。

 また、ブラジルには公的医療保険制度がないため、高額な民間医療保険に加入できない庶民は無料の公立病院を受診する。しかし衛生状態は悪く施設も老朽化が目立つ。診察は数時間待ちが当たり前で、検査や手術は数カ月待ちになることもあるという。競技場の改築費用があれば200床規模の病院18施設を新築できるという。

 教育現場でも公立校は教員不足で小学校から朝、昼、夜間の2~3部制で運営される。教員の給与は安く…と、至るところで問題は山積し、人々のために使うなら多くの改善がなされるはずであるが、サッカーの世界大会のためにそれらは無視されていく。

 そして、サッカーのそうした大会のおりには、負けたチームのサポーターたちが乱闘起こしたり、およそ平和とはかけはなれた光景を表すこともしばしばである。このような乱闘騒ぎは、すでに100年も前から、各地で発生し、大規模なものでは、今から30年近く前に、ベルギーで生じたものは、軍隊や警官隊が二千人近くも動員され死者も40名ほどにもなったことがある。自分が勝ちたいという欲望が異常なまでに肥大していったのであった。

 日本でも、まだずっと先のオリンピックのために、巨額が投入されようとしている。そんなことより、原発災害の解決のため、東北の津波被害や原発被災者のための復興、生活の安定、自然エネルギーの活用、農林業の新たな形態に向っての施策、あるいは、病院の看護師などをふやし、病棟も個室を主体とするなど、医療や老人、障がい者などのための福祉施設や教育の小規模人数化による手厚い教育、環境保護…等々いくらでも経費を投入すべき問題がある。

 私たちはこのような権力や多額のカネ、国家の競争といったことによって、獲得される金メダルや、その演技にだけ目を向けて、それらが成り立つ背後にどれだけの悪しきこと、間違ったことが行なわれているのかを知らねばならないはずである。

 原発がこの世界に冠たる地震、津波、火山の大国で50基以上も林立してしまったこと、その過程にも、夢のエネルギーなどといって表面的なことにまどわされて、正しい原発の知識、その危険性、そして核廃棄物の処理のはてしない困難など背後にある問題から目をそらしてしまったことがあった。

 このようなオリンピックなど巨大スポーツ行事の悪徳の事実を知ってもなお、そのような砂上の楼閣のような喜びや面白さを受けようとするだろうか。

 そのようなものが一切なくとも、しかもそれよりはるかに深い喜びが得られることを、聖書は明確に告げている。たった一人の人であってもその人が、みずからの心の罪深さを知り、神に悔い改めるなら、天で大きな喜びがある。

 

…このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない(と思い込んでいる)九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

…言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」   (ルカ福音書15の7、10

 
そして、この天に大きい喜びがあるというのは、神が最も喜ばれるということである。それゆえに、この言葉の前後に、

…家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言う。

 と記されていて、しかもこの「一緒に喜ぶ」ことは、7節、9節に繰り返し語られている。こうした人間の魂の最も深いところでのよき出来事は、ほかの心ある人たちにとっても大きな喜びとなり、それは共有できる本質をもっている。

 この世の良きこと―それはたいてい共有できない。例えばオリンピックで金メダルとったといっても、同じようにオリンピックに出たのに、20位になったといえば、だれも注目しないし、帰国しても圧倒的な人気の金メダリストの蔭に隠れて居づらい気持ちになるだろう。

 また、貧しくてオリンピックなど参加すらできない、あるいはメダルなどとったこともない70ほどの国などにとっては、どこかの国が金メダルとったといって騒いでいるのを見ても何の嬉しいこともない。それは共有できないのである。

 しかし、苦しみや悲しみ、孤独などで絶望的になっていた魂が、神の愛を知らされて、新しくされ、それまでと異なる命を与えられていきるようになったら、それはそのことがいかに重要であるかを知っている人には、それこそが最大の喜びである。そしてそのことによってまた新たな力添えを与えられる。

 さらに、こうした喜びは、オリンピックのようなものとことなり、まったく費用も、権力も競争もない。寝たきりであっても、重い罪を犯したゆえにすべての人から見下されているような絶望的状況であっても、悔い改めによって神の愛と力を知らされることができる。言い換えれば、本質的に万人に与えられ得るものなのである。

 使徒パウロも、ひどい圧迫、迫害のただなかでありながら与えられていた喜びについて語っている。

 …悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのように何も持っていないように見えるが、多くの人を豊かにし、無一物のようでありながら、(本当に必要な)すべてのものを持っている。

            (Ⅱコリント6の10

 こうした喜びは、聖霊の実として与えられる。そしてこれは、真剣に求める者には誰にでも与えられるゆえに、主イエスは、「求めよ、そうすれば与えられる」と万人に約束されたのであった。(ルカ1113

  主イエスが家畜小屋で生まれたとき、天使は、「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と羊飼いたちに語った。

 キリストの誕生という歴史的に、最大の出来事が起こったことは、素朴な羊飼いたちに知らされた。それは、権力も、カネもなく、地位も何もない羊飼い―そうした人間にも豊かに与えられるという象徴的できごとであった。

 相手に、地位や名誉、あるいは富や評判などで勝つのを目的としたり喜びとするのでなく、主にあって目に見えない悪そのものにうち勝つことこそ、最も深い喜びとなる。

 その喜びを与えられたとき、一番になるとかこの世でほめられることとかは自然に小さなものとなっていく。

 真実な力、よき力と、いっさいの栄光は神にある。

 


リストボタンアンパンマンと聖書

「大雪の日、リアル アンパンマンになった山崎製パン」という珍しいタイトルの新聞記事が目についた。

 2月のかつてない大雪で、高速道路が長距離にわたって深刻な渋滞となり、近くに商店もなく、食事もできない状態が続いたとき、山崎製パンの配送車の運転者が、長時間にわたって立ち往生している自動車運転手たちに無料でパンを提供したということが、東京新聞などで報道された。

 14日から関東・甲信、東北地方を襲った大雪。各地で交通網が寸断された。そんな中、中央自動車道談合坂サービスエリア(SA)で山崎製パンのトラック運転手が、足止めを余儀なくされた多くのドライバーらに無料でパンを配布したことが、インターネット上で大きな話題となった。

       (日本経済新聞 2月25日)

 
さらに、ほかの食品運送業のトラックの運転手はそのようなことをしなかった、できなかったのは、山崎製パンが、一般の運送業者でなく自社トラックまたは、自社の製品のみを配送する仕組みとなっていた独特の物流システムの故だったとのことである。それも、パンを店まで届けるまで仕事としていたからだという。

 そして社長がキリスト者であったこともこのようなことにつながったのだといわれている。

 東京での無教会のキリスト教全国集会は、料金面だけでなく、経営者がキリスト者であることもあって、千葉県の山崎製パン会館で開催されていると聞いたことがある。

 自分自身を飢えているものに食べさせる―自分の最も大切にしているものを苦しむ者に分かち与える、いう考え方は、キリスト教の愛そのものである。主イエスご自身が、命を人間に捧げて、罪からの救いを与え、ただ市信じるだけで、死んだ状態から、永遠の命が与えられる道を開いてくださった。

 アンパンマンの話やその絵、アニメなどは日本全国で知られているが、残念なことに、そのアンパンマンの内容に影響を与えたとみられる聖書に向う日本人は、今も昔もごく少ない。

 宮沢賢治は、その著作の「銀河鉄道の夜」において、これと似た考え方を表している。

 それは、夏の南の夜空に見えるさそり座の一等星アンタレスの赤い輝きと関連して書かれている。

…「さそりって、虫だろう。」

「ええ、さそりは虫よ。だけどいい虫だわ。」

「さそり、いい虫じゃないよ。尾にこんなかぎがあってそれでさされると死ぬって先生が云ったよ。」

「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さんこう云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきのさそりがいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。

 するとある日いたちに見つかって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命にげたけどとうとういたちに押おさえられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりはおぼれはじめたのよ。そのときさそりはこう云ってお祈いのりしたというの、

 ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。

 どうしてわたしはわたしのからだをだまって、いたちにくれてやらなかったろう。

 そしたらいたちも一日生きのびたろうに。

 どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸いのために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。

 そしたらいつかさそりはじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰おっしゃったわ。ほんとうにあの火それだわ。」 (「銀河鉄道の夜」九 ジョバンニの切符)

 こうした考え方、感じ方の最も深いあり方は、キリストにおいて表されている。

 主イエスは、自分こそが、本当の食べ物だと言われた。

…私が命のパンである。私のもとに来る者は、決して飢えることがなく、私のもとに来る者は、決して渇くことがない。

…私は天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるなら、その人は永遠に生きる。(ヨハネによる福音書6の3551

 
イエスは、みずから十字架にかかって人々の罪を担って死なれた。そして復活されて霊的存在となって今もおられる。それゆえに人々は、キリストを食べる―すなわち日々キリストから霊的な命を受ける―ことができるようになった。

 宮沢賢治の前掲の銀河鉄道の夜に出てくる、さそり座のアンタレスが赤く燃えている、―今もさそりはじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしている―というが、これも、キリストが今も十字架でみずからを死に至らせたゆえに、いまも星のように光っているということを連想させる。

 キリストがそのように暗夜に光っている星のごとき存在であるのは、ヨハネによる福音書にすでにその冒頭に記されている。

 …言(キリスト)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。(ヨハネ1の5

 霊的な星であるキリストを内に留まっていただくときには、キリスト者もまた小さき光ではあるが、この世にあって輝くことができるのが示されている。


あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。

      (ピリピ書2の15

 人間は、日々の生活のなかで、その多くの罪ゆえに多くの人を傷つけ、また傷つけられつつ、生きている。

 私たちが生きているのは、他者をいわば食べて生きているようなところもある。

 海外への進出もどこかの国の産物や労働力をたべてうるおっているという側面もある。

 フィリピンはかつて大抵の家の庭にはバナナ畑があったという。しかし、その後、主として日本人向けの大量のバナナ生産の農場ができ、そうした個々の人たちのバナナ園はほとんどなくなってしまったというのを聞いたことがある。

 さらに、マレーシアやインドネシアなど熱帯のラワン材も日本などが乱獲していったため、ほとんどなくなってしまったということもある。

 戦争となるとじっさいに相手国の人たちを多数殺害したり、その国の産業を破壊、あるいは奪っていくこともある。それもまた、その国の人たちをいわば食べて戦勝国がうるおっていくということでもある。

 このように、この世では、互いに食い合うという悲しむべき現実で成り立っていることが多くみられる。

 そうしたいっさいと異なること、私たちが本当に生きるために、キリストご自身が死んでくださった、そのキリストを霊的に受ける、食べるということである。

 それこそ一切の解決の道であり、だれをも苦しませず、みんなが満たされていく唯一の道なのである。

 


リストボタン来信から

 

・…今まで読んでもわからなかった、汚れた霊のたとえ、初めて理解できました。律法では、人を外から規制することはできても、内に不満がたまり、いずれ爆発することを経験から思いだしました。

 それから、美しい空は、どんな絵画にもまさります。

       (関東のHさん)

・…読んでみて、ひと言の感想は、皆様の神様への率直な献げものであふれています。

一人一人が信仰に生きることはすばらしい事です。「野の花」文集は、「空の星」のようです。       (関東のNさん)

・どんな闇であっても、そこに神が時いたって 「光あれ!」と言われれば、どのようなところにも光は存在しはじめる。―そのことを忘れずに生きていきたいと思います。

 み言葉は光。本当にそう思います。

 「初めにおられた神のみ言葉」の録音と楽譜をありがとうございました。

とてもすばらしい歌ですね。

家で、母ともども聞かせていただきました。

母もとても良い歌だと喜んでいました。(九州のKさん)

・「いのちの水」誌 1月号を見てびっくりしたり、喜んだりしながら繰り返し、繰り返し読んでいます。…と申しますのは、私が過去において体験したことで、今なお、納得しかねている疑問について筋道たてて尋ねたいと心の中で願っていましたが、その「答え」のように、1月号に全部と申してよいほど、詳しく掲載されていたからです。…(北海道のSさん)


・…「いのちの水」誌は、初めて〇〇さんに紹介していただいてからすでに3年くらいになるでしょうか。毎月深く心にしみてきて読ませていただくのを楽しみにしております。

「今日のみ言葉」にある高山植物の写真も何かしら見ほれてしまうものがあり、毎月心待ちにしています。あるがままで、そこに置かれ、神様をほめたたえている…そんな姿が、まっすぐに伝わってくるからでしょうか。      (関東のSさん。)

・…「今日のみ言葉」にある野の花の写真、それを見たとき、「あっ! 父の好きだったリンドウだ。」としみじみ眺めました。父は詩吟と歌が大好きで、大きい体で、大きい声で気持ちよさそうに歌っていました。「月よりの使者…思い出の…りんどう抱いて来るという…」とうよく歌っていた姿を思いだしました。鉢植えや切り花のリンドウしか見たことがなかったので、野原でこんなふうに咲いているのだと、父を思いながら、見入りました。…(中部地方の方)

・…日々の聖書の学びや祈りも惰性に流れがちな者ですが、「祈りの友」の皆さんの祈りに支えられ、また聖霊のうめきにも支えられていることを心に刻み、より真剣に、具体的に祈りを重ね、深めていきたいと思います。

 秘密保護法、集団的自衛権容認、靖国神社への参拝、沖縄のこと、原発再稼働…この世の動きを見ると闇はいよいよ深まっています。

 その根源は私たちの心が真の神を離れ、神ならぬものを神としてあがめ、追い求めているところにあると思われます。

 まず私たち自身が、罪を深く自覚し、神様のみもとに立ち返り、それと同時にその福音と神様の御心を一人でも多くの人にお伝えしていくほかに希望もてすいことを思います。小さいながら、聖霊の導きと支えを祈り求めつつ、証し、祈りを深めていきたいと思います。(中部地方のIさん)

・…今は、この日本に、ただ、福音が伝わるよう、人数の問題でなく、一人でも悔い改めて信じるとき、神様のみられる目は喜びのまなざしとなってくるだろうと思います。福音の大切さを感じ、少人数、一人でもに対して話しかけていくべきだと思っています。(九州のHさん)

 


リストボタンことば

 

(356)神を感じるのは、心であって理性ではない。信仰とはそのようなものである。理性にではなく、心に感じられる神。

 

 我々が真理を知るのは、ただ理性によってのみでなく、また心によってである。(パンセ (*)第4篇 278282

*)パンセ とは、フランス語の名詞 pensee(パンセ) のことで、動詞は penser で発音は、名詞と同じ。この動詞は、英語の think に相当する語で、「考える、思う」というごく普通に用いられる言葉。  パスカルの著作名となっている 名詞の pensee(パンセ)は、思考、考え、思想 といった意味。

 
パスカルは、数学者、物理学者で、幼少から天才ぶりを発揮した。物理ではパスカルの原理としてその名前を残している。

 ここにあげた言葉は、心に感じる神、ということを強調している。

 ヨハネ福音書で、ぶどうの木のたとえを用いて、キリストが私たちの内に留まることが繰り返し強調されている。(ヨハネ15章の1~10

 パウロも、内には、古い自分が死んで、キリストが生きていると言っている。キリストが私たちの心の内に住んでいるなら、当然心の最も深いところで実感していることである。

 主にあって喜び、感謝し、励まされるということは、単に理性的に考えることによってでなく、すべてその魂にて実感されることである。そして心を敏感にし、目覚めていなければ信仰の心も閉じていく。

(原文)C'est le Coeur qui sent Dieu et non la raison.Voila ce que la foi. Dieu sensible au coeur, non a la raison.

Nous connaissons la verite,non seulment pal la raison ,mais encore par le coeur.


(357)我意―自分を押し通そうとする意志は、万事を思うままになしたときでも、決して満足しないであろう。しかし、人はひとたびその我意を捨てたなら、その時から満足する。

 我意がなければ、不満もない。我意があるかぎり、満足することはない。(「パンセ」472

・この言葉を思うと、「自分を捨て、私に従ってきなさい」という主イエスの言葉が浮んでくる。しかし、3年間も自分の職業や家族たち、そして安楽な生活なども捨ててイエスに従ったはずの弟子たちは、その自我を捨てることがきわめて困難だということを思い知らされていく。

 イエスが王となったとき、自分をイエスの右、左に置いてほしいとか、殺されてもイエスに従うなどといっていたのも我意にすぎなかったのを知らされる。そうした我意が打ち砕かれたのは、その我意の強さと自分自身の弱さを深く知らされ、その上にに、聖霊を与えられてはじめて自我を捨てることが可能となった。自我に代わる究極的なものが、聖霊が住んでくださることである。

(358)悪に関しては、主義として公然とこれを憎め。そしてそれを表明するいかなる機会をも逃すな。(ヒルティ 幸福論第三部107頁)

・悪人を憎むのでなく、彼の内に宿る悪そのものを憎むべしと言われている。

 それによって私たちは、いっそう主が私たちの近くに来てくださるのを信じることができる。悪を憎むゆえに、悪と正反対の究極的な善である神の霊を来らせたまえと祈る心へと導かれる。

(359)子のいわく、仁遠からんや。

 我れ、仁を欲すれば、ここに仁至る。

 (口語訳)先生(孔子)が言われた。仁は遠いものだろうか。

 

 私たちが、仁を求めると、仁はすぐやってくる。

(孔子 「論語」巻第四 述而第七29 岩波文庫版101頁)

・仁は愛を意味する。この孔子の体験からくる言葉であるが、聖書の言葉と比べることができる。

 主イエスは求めよ、そうすれば与えられると、言われた。その与えられるものは、ルカ福音書では、聖霊とある。そして聖霊の実として愛がある。

 他のもの―この世の成功や名声、結婚、健康、友人、お金等々は求めても与えられないことが多いし、与えられても何かの事故その他で突然失われる。どんなに健康を求めても重い病気になってしまうこともある。

 その点で、神の愛は、求めればすぐそこにある。私たちの罪の赦しを受けることは神の愛によるが、それは難しい修業も不要であり、ただ十字架を仰ぐだけで、赦し―神の愛が私たちに与えられる。

 


リストボタンお知らせ

〇3月26(水)~28(金)に、吉村孝雄は、川崎市青少年の家での中高生聖書講座で、詩篇のお話しをする予定です。
問い合わせは、田中健三氏まで。

 その後、次の、次の二カ所でもみ言葉を語らせて頂く予定です。

〇八王子での集会

・日時…3月28日(金)午後2時より。

・場所…学園都市センター(東急スクエア11階 サウンドルーム) 八王子駅北口から歩いて約2分。会費(会場費)は、 三百円。問い合わせは、次まで。

〇静岡市での集会

・日時…3月29日(土)午前10時~12時。

・場所…清水駅前の マークス・ザ・タワー 19

1905号室(西澤宅)

問い合わせ

〇イースター特別集会

 今年の復活祭(イースター)は、4月20日(日)です。開会は、いつもより早く、10時からですので、遅れないようにしてください。会費 500円(昼食代)。申込先

貝出久美子 

1
、「キリストの神性について」の聖書講話。 MP3CD 1枚 価格200円(送料込)

2
、「キリスト教とは何か」B5で、12  著者 吉村孝雄

 これは、初めての人にキリスト教とはなにか―罪、あがない、復活、再臨、神の愛等々について説明したものです。1部20円。送料は何部でも100円。

3
、「杣友豊市文集」徳島聖書キリスト集会の以前の代表者。大工の伝道者として異色の存在だった杣友さんの文集。二千円。
 
1999年発行。