祝 イースター(復活祭)  

あなた方のうち、誰一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、

今日という日のうちに、日々励まし合いなさい。(ヘブル書3の13



20144月 第 638号 内容・もくじ

リストボタン復活の春・日々新し

リストボタン二種類の悲しみ

リストボタン海の上を歩くイエス―この 世の闇と逆風を越えて

リストボタン福音書におけるイエスとの 出会い

リストボタン天に満ちる神の慈しみ  ―詩篇36篇

リストボタン歴史を知らないこと

リストボタン中高生聖書講座と帰途の 集会など

リストボタンことば

リストボタン休憩室

リストボタン20年の感謝  


リストボタン復活の春

 私たちが、あらゆる状況にあって、無意識にせよ求めていること―それは復活である。学びへの欲求も、その学びによって新たな自分へと変えられたい願いがある。

 聖書の全テーマは、再生、復活にある。キリストが来られ、十字架で死なれたのも、人間の罪が赦され、清めを与えられて新たに生まれること、復活のためである。

 最終的にこの宇宙、世界も新たに生まれ変わることが約束されている。それは、言い換えると、新しい天と地に復活することである。

 闇のなかに「光あれ!」とのみ言葉によって光が存在するようになったこと―これも闇で象徴される死の世界から光の世界への復活を指し示している。

 古い自分でいたくない、何か新たなものを身につけたい、こんな自分とは別の人間に生まれ変わりたい、病弱や障がいをもって生まれた人、そして重い病気に苦しみ続けている人は、こんな自分とは全く別の新たな人間になりたい―等々、たいていの人はそうした願いをもっている。

 それもみな、復活への願いのさまざまの現れにほかならない。

 旧約聖書の詩篇で最もよく知られた詩もまた、神によって復活させてもらった魂の体験を歌ったものである。 

 

…主はわが牧者、私には乏しいことがない。

私を緑の牧場に休ませ、

憩いの水際に伴い、

 

魂を生き返らせてくださる。           (詩篇23の2~3)

 

 私たちがキリストを信じるだけで、どんな悪人でも、また大罪を犯してしまったものでも、その死んだ状況から、よみがえらせてくださる。 

 

…あなた方は、以前は自分の罪のために死んでいたのである。

 

 憐れみ豊かな神は、私たちを深く愛してくださり、罪のために死んでいた私たちをキリストとともに生かし、キリスト・イエスによって共に復活させ、共に、天の王座につかせてくださったのである。(エフェソ書2の1~6より)

 

日々新しく 

 

 春になると、日々木々や野草、花壇の草花たちは日々新たに芽吹き、それが成長していく。

 しかし、私たち人間もまた日々新たにされていくことができる。そしてそれは季節にもよらず、年齢にもよらない。

 

…だから、私たちは失望しない。

たとえ私たちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていく。(Ⅱコリント4の16

 

 私たちの身体は、確実に日々衰えていき、古びていく。年とともに忘れっぽくなるし、目や耳、筋肉などみな次第に衰えていく。脳細胞は、成人になると毎日数万個から10万個ほども死んでいくと言われている。ほかの細胞も全体的に、老齢化とともに確実に衰えていく。

 それにもかかわらず、日々新しいものができていく、ということは驚くべきことである。

 それは神の力によると可能となる。神は無からでも有を生じさせるお方だからだ。

 内なる人―私たちのうちに住んでくださるキリストがそのように人の霊的部分に新たなものを生み出すからである。

 木々や路傍の野草たちも、その内に芽を出し、花を造る力を秘めている。私たちの内に、キリストが留まってくださるとき、私たちもそのように新たなよきものを生み出す力をもっていることになる。

 復活したキリストこそ、万物を創造した方、現在も支えておられる方(*)だからである。

 

*)御子(キリスト)によって世界を創造された。御子は神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物をご自分の力ある言葉によって支えておられる。(ヘブル書1の2~3より)

 


 リストボタン二種類の悲しみ 

 

 この世には、さまざまな悲しみが満ちている。苦しみと悲しみは深く結びついていて、災害などで家族を失うとか、 原発の事故で、仕事も失われ、家族の生活も破壊され、慣れ親しんだ故郷も失ったという人たちにおいてはやはり苦しみと悲しみによって、日々心がうずく思いにさいなまれている人たちも多い。交通事故など、大きな罪を犯してそのために誰かを非常な苦しみに陥れた、家族が反社会的な難しい問題を起こした、仕事ができなくなった…等々、さらにそうしたことは苦しみであると同時にだれに言ってもわかってもらえないような悲しみをも伴う。

 こうしたありとあらゆる悲しみや苦しみがあるが、それらは二つに分けられる。 

 

…神の御こころに添うた悲しみ(*)は、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をもたらす。

           (Ⅱコリント7の10

 この世の悲しみ、それは自分の悲しみは、〇〇という人の悪意のせいである、災害という天災のためだ、政府や行政、社会が悪いからだ、または自分の弱さや能力がないことが原因だ、ということだけを思っているときには、苦しみや悲しみはいつまで経っても続くだろう。

 他人の心、悪意や中傷、あるいは自分の能力なども、災害や政府などのことも、どんなにがんばっても変えることができないか、できてもわずかしかできないからである。

 そして、そうした外部のことへの不満、怒りは、終わることがない。何かがいくらか解決されたとしても、つぎつぎと新たな問題や欠けたところが現れてくるからである。

 そして、そうした外部のものが原因だとしても悲しみは癒えることがないゆえに、それは最終的に死に至る。じっさいに死ななくとも、生き生きした心、前進する心が枯れてしまう。

 社会的なもの、自分の罪に目を向けるだけでなく、それらより根本的に重要なことは、私たちの受けている悲しみや苦しみは、自分や他人の罪、天災等々がかかわっていることは確かだけれども、それらの背後には、神の大きなご意志がある、と受け取るとき、状況は大きく変わってくる。

 

 どうしてこんなことを自分に起こされたのか、分からない、しかし、人間を越えた大きな存在―神がおられることは確かなのだから、その神が深い意味をもってなされている、だからその神に祈り、すがっていくときには、必ずその悲しみや苦しみを乗り越える力を与えてくださると信じていく。そこに救いが必ず与えられる。

 

 ここで悔い改めという原語(**)は、方向転換という意味を持っている。  

 

*)原文の表現は、「神による悲しみ」 英訳には、godly grief  (NRS) これは、神から生じる、神による悲しみ、という意味を持つ。「神が私たちに経験させようとする悲しみの類」the kind of sorrow God wants us to experience (NLT)と説明的に訳した訳もある。

**)ギリシャ語で、メタノイア 。これは、 接頭語メタ μετα-と、ノイア νοια から成り、メタとは、「転じる、反対に」という意味、ノイア は、ヌース νουσ(理性)に由来する。このことから、メタノイアの元の意味は、「理性的転換、精神の方向転換」といった意味になる。英語では、change of mind。これは、単に個々の罪を思い起こして、それが悪かったという日本語の悔い改めという意味とは異なっている。 

 

 私たちが味わうさまざまな悲しみは、それがいかに深くとも神に向かって祈る心があるかぎり、神の御心に沿った悲しみとなる。悲しみは、そこからそのような悲しみをもたらした災害や、自分に大きな苦しみや悲しみを与えた人間、あるいは自分の弱さや至らなさという罪に目を注ぐだけであれば、その苦しみは消えることなく、心はだんだん枯れていく。それが、死に至るということである。

 しかし、いかに深い悲しみであってもあくまで、神に心を向け変えること―方向転換(「悔い改め」という原語の意味)をなし続けていくときには、そこに命が与えられる。

 たとえ、特定の人による悪意からくる悲しみや苦しみであっても、私たちが神へと心を理性的に方向転換し、神からのものとして受け取っていくとき、それは救い―この世的な力に対する勝利へとつながる。

 


リストボタン海の上を歩くイエス

 ―この世の闇と逆風を越えて

 

 主イエスが海の上を歩いたという記事(マルコ6の4552)は、初めて読んだときには、奇想天外なこと、あるはずのないことだ、なぜこんなことが書いてあるのだろう、と疑問に思う人が多数だと思われる。

 その直前に、イエスは、弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、向こう岸へと行かせた。そして近くにいた多くの群衆たちもみな解散させた。

 そのようにして一人きりになった上で、弟子たちや人々とも離れて、山に登って祈られた。真っ暗になった山、あえてそのように一人きりになったのはなぜであっただろう。

 それは、五千人のパンの奇跡を神に感謝し、またそのことが霊的なかたちであらゆるところで実現していくように、これからのキリスト者たちが直面する困難な迫害の時代において、神の言葉、神の祝福が五千人どころか無数の人たちの霊的な飢えを満たし、かつパンくずが12の籠いっぱいになるほどに、イエスの祝福が満ちあふれて、広く世界にひろがり、さらにつぎの世代へと続いていくようにとの祈りでもあっただろう。

 そうした単独での長時間にわたる祈り―夕方から明け方までだから12時間ほども、眠ることもせずに祈り続けていたことになる。

 そのような全身全霊をこめての祈りから力を受けたゆえに、イエスは本来なら沈んでしまうはずの湖をも歩いて渡ることができた。

 神の霊によって満たされているほど、この世の海にのみ込まれてしまわないのである。  

 

…ところが逆風が吹いていたために、弟子たちがこぎ悩んでいるのをごらんになって、夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らに近づき、そのそばを通り過ぎようとされた。

        (マルコ6の48 口語訳)

 

 弟子たちは、逆風によって、一晩漕ぎ悩んだ。そして対岸まで、10キロほどであるのに、一晩中湖上で難儀した。それをイエスは見て、夜が明けるころ、海(ガリラヤ湖)の上を歩いて弟子たちのところに行って、そばを通りすぎようとされた。

 この記述は一見不可解である。イエスが夜明けのころにわざわざ海の上を歩いて弟子たちの漕ぎ悩んでいるところにきたのは、助けに来るためであったはずである。それなのにすぐに助けないで、通りすぎようとしたというのである。

 このような主イエスの振る舞いは、イエスが後に処刑されて復活して、二人の弟子たちに現れ、ともに歩きながら旧約聖書を説明し、イエスについて記されている箇所をつぎつぎと説明していった。それで宿泊する場所に着いてもなおも、イエスは先に進まれるようだった。それで弟子たちは無理に引き止めて、家に入れ、そこでともに夕食をすることになった。そのとき主イエスがパンを裂いて、弟子たちに与えたとき、彼らは目が開けてイエスが復活したと悟った。

 ここでも、弟子たちのところを通りすぎようとしたが、弟子たちの切実な願いによって留まり、イエスであることを示されてその姿はどこへともなく消えてしまったという。

 この湖上のイエスの記事においても、イエスは弟子たちのそばを通りすぎようとされたことがとくに記されている。どうしてすぐに助けなかったのだろうか。

 イエスは困難の際に、自発的に求めることを望んでおられる。私たちが求めなかったら、助けは訪れない。求めよ、そうすれば与えられると言われたし、あなた方が私のうちに留まっているなら、私もあなた方のうちに留まっていよう。(ヨハネによる福音書154)と言われたのと共通したことがある。

 主は私たちの近くにおられる。しかし、私たちがその主を見つめようとしないなら、そのまま通りすぎてしまわれることが実に多い。

 主イエスが「求めよ、そうすれば与えられる」と言われたことは、この箇所で言われていることにもあてはまる。

 この湖上を歩くという特別な出来事は、最初に書いたように、何の説明もなければ、およそ信じがたいこと、何か古代の物語や、伝説のようなものでお話としては面白いかも知れないが、およそ現代の私たちの生活には関係がないと思われてしまうだろう。

 しかし、ここで湖と訳された原語は サラッサ であるが、この語は、本来は 「海」を意味する言葉である。湖というのは、リムネー という語がある。

 サラッサは、海を表すギリシャ語で、旧約聖書でもそのギリシャ語訳には 450回近く出てくる語であるが、それらの大多数は、海を表しており、とくに地中海を意味していることが多い。ホメロスなどの古代ギリシャ語の文献でも、サラッサは、地中海を意味するものとして使われている。

 新約聖書では、湖や池をあらわすギリシャ語でなく、本来海を表す語が用いられているが、ヘブル語でも、同様である。

 そのため、ガリラヤ湖のことを、キネレトの海と表し、また、死海のことを単に「海」と表現されている箇所もある。(*

 

*)…人々が来て、ヨシャパトに言った。「海のかなたのエドムから大軍が攻めて来て…(歴代誌下 202 口語訳) 

 

今日でも、塩分が濃くて有名な湖であるのに、「死海」と訳されているのも、もともとヘブル語で 海と訳され、ギリシャ語訳でもやはり海(サラッサ)と訳されていたからである。

 そして海は、聖書の世界においては、現代の海というイメージとは大きく異なっていた。先年の東北の大津波以前には、多くの人にとって海というイメージは、地上の雄大なもの、そしてのんびりとした巨大客船の旅、物資の運搬、また美しい入江のある海岸、砂浜、海水浴等々を連想するものであっただろう。

 

 そこには、海が、死と隣り合わせた危険なもの、すべてをのみ込む恐るべきものといった暗いイメージはなかった。時折、台風などが来て大波の光景は目にするが、そのようなときには、いっさいの交通も運休となって、直接にその海の恐ろしい力に接することはなかった。しかし、あの大津波によって海とは恐るべき破壊力やのみ込んでいく途方もない力を持っているということが知らされた。

 古代人には、そうした海の恐るべき本質というものが熟知されていた。確かに、いまのように天気予報もなく、帆船であり、大風や大波によって転覆あるいは遠く流されて最終的には助けもなく船は漂流し、沈んでしまう、全員が死ぬといった恐ろしさを体得していた。それは暴風に吹き荒れる海がいかに恐るべきものか、人間の力ではどうすることもできない、という巨大な力を持ったものとして認識されていた。

 そこから、聖書においては、海には得体の知れない怪物―サタン的な力が深く宿っているということが記されている。

…その日、主は、厳しく大きく、強い剣をもって…海にいる竜を殺される。(イザヤ書27の1より)  

 

 こうした海について、新約聖書においても、最後の書である黙示録においてつぎのように記されている。

…私は、一匹の獣が海の中から上ってくるのを見た。これには…神を汚すさまざまの名が記されていた。…竜(*)はこの獣に、自分の力と権威を与えた。(黙示録13の1~2より) 

 

*)ここではサタン、悪魔を表す。(黙示録129 

 

 このように、旧約聖書でも新約聖書でも、サタン、悪魔というものが海に棲んでいるということが暗示されている。新約聖書における「海」に関する記述はこうしたことが背後にある。

 そして、ガリラヤ湖や死海のような大きな湖も、海を表す語がヘブル語でも、ギリシャ語でも用いられている。

 それゆえ、死海は湖であるのに、死の海と訳されていること、これももともと「塩の海」あるいは単に「海」というように訳されていたことに由来する。死海と訳された一カ所(歴代誌下 20の2)も、原文では、単に ヤーム(海)という一般的な語が用いられている。

 人々はこの海という語のなかに、底知れない深さ、闇を持っているゆえに、そしてひとたび大風が吹くとあらゆるものがのみ込まれ、大きな船も沈み二度と帰って来ないことからも地中海のような海も、またガリラヤ湖のような湖も、「サラッサ」(海)という言葉で表していたのである。

 それゆえに、新約聖書のなかで不可解と思われている箇所、追い出された悪霊が、当時は汚れた動物とされていた豚のなかに入り込み、それらが、海(ガリラヤ湖)のなかに落ち込んでしまったという記事も、悪霊の本拠地である海のなかに戻されたのだという意味が含まれている。(マタイ8の2834

 

…悪霊どもはイエスに願って言った、「もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい」。

 そこで、イエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。(マタイ8の3132

 

 主イエスが、嵐の海(ガリラヤ湖)にあって、風や海を一声で静めたということも、自然の力、そして闇の力に対するイエスの力を示すものである。

 こうした海というものに関する当時の人たちの受け止め方を知った上で、はじめに記したこと―弟子たちは闇の海のなかで、逆風によって、漕ぎ悩んでいたという記述のなかにこめられた現代的意味が浮かびあがってくる。(マルコ6の46

 この記述は昼間でなく、まったく光なき夜であり、しかも得体の知れないサタンが宿ると思われていた海(この福音書の記事においてはガリラヤ湖)の上であった。しかも、逆風と戦っていた。

 ここで、漕ぎ悩むと訳されている部分の、「悩む」という日本語は、例えば、買い物でよく似たものがあるとどちらを買おうかと悩まされるとか、成績があがらない悩み、文集に書かねばならないがなかなか書けない悩み等々、生活上でよく直面する問題にも使うが、原語はそのようなものではない。

 この原語は、バサニゾー というが、これは 拷問する、激痛 (英語では、torment)といった意味をもっており、日常生活で出会う簡単な悩みなどとはまったく異なる。

 例えば、聖書ではつぎのように使われている。

 

…やがて彼も息を引き取ると、彼らは、4番目の兄弟をも同様に苦しめ、拷問にかけた。(旧約聖書続編Ⅱマカバイ記7の13  

 

 ここでは、苦しめる と訳され、拷問という言葉と並べられている。

 

…常軌を逸した度重なる拷問で、他人の内臓を痛めつけた男には、当然の罰であった。(同9の6)

 

 ここでは、拷問して内臓を「痛めつける」あるいは、英訳のように tormentあるいは、torture  拷問する と訳されている。

  また新約聖書の最後の書、黙示録にはつぎのように用いられている。  

 

…その与えた苦痛は、さそりが人を刺したときのような苦痛であった。 (黙示録 9の5)

…悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。(黙示録2010  

 

 このように、このバサニゾーという語は、死に至るほどの苦痛、さらには、悪魔が永遠に苦しめられる、というこれ以上はないような苦しみにも用いられている。

 これらの用例からみても推察できるように、弟子たちが、夜の海の上で、逆風に漕ぎ悩んだというのは、非常な苦しみ、死の恐怖にさいなまれたようなものだったと言おうとしているのである。じっさい、現在のような機械で動く巨大な客船やフェリーなどと異なり、当時の小さな船に暗夜、激しい風と波が吹き荒れるなら、ひとたまりなく沈み、死んでしまう状況であった。

 私たちがこの福音書の記述を読むとき、このような恐ろしい状況であることを思い浮かべて読んでいるだろうか。

 そのような人間の力ではどうすることもできない、闇の力、サタンの力に翻弄されている状況がここにある。

 そこに主イエスがそのような荒れ狂う海―サタンの力を象徴しているその海を踏んで弟子たちのところに来られたということなのである。

 そして、イエスは闇の力に苦しめられている弟子たちに、「しっかりせよ、恐れるな」と声をかけてくださる。

 マタイの福音書には、そのイエスのもとにペテロが行こうとしたが、強い風に気付いて恐くなり、たちまち沈み始めた。

 しかし、そのペテロにイエスは再び声をかけ、「信仰うすき者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。

 これはそのまま、現代の私たちへのメッセージである。イエスだけを見つめて歩んでいるときには、恐れは消えていく。この世に吹き荒れる悪しき風にも抗して歩むことができ、この世の悪の力にも引きずり込まれないで、その上を「海の上を」歩んでいくことができる。

 そして、イエスを舟に迎え入れると、風も波も静まった。

 福音書が書かれた時代は、すでにローマ帝国による迫害がはじまっていた。そのような状況はまさに逆風であり、文字通り捕らえられた者たちは拷問をうけ、火で焼かれたり、十字架刑、あるいは猛獣に食わせられる等々によって苦しめられ、命を失っていった。

 

 そのような厳しい状況を生き抜いた人たちが多数いたこと、それはまさにこの海の上の、夜中の苦しみであったし、それを励まし、その暗黒の時代と試練を越えていくことができたのは、まさに活けるキリストからの励ましと、イエスが彼らの集りの内に、さらに個々のキリスト者のうちに住んでいてくださっていたゆえであった。

「イエスが舟に乗り込まれると、風は静まった」(マルコ6の51

 ヨハネによる福音書では、このことが、繰り返し言われている。「私のうちに留まれ、そうすれば私もあなた方のうちに留まる。わが愛に居れ…」と。(ヨハネ福音書15の4~9)

 それによって、人々はこの世の荒々しい風が静められ、主の平安のうちにこの世という海を踏んで前進していくことができたのであったし、それは現代の私たちにおいてもそのまま日々のこととしてあてはまることなのである。

 


リストボタン福音書におけるイエスとの出会い  

 新約聖書の最初の書、マタイ福音書においてすでに神との出会いに関して重要なことが記されている。すなわち、へロデ王の時代に、東方の博士たちがイエスとの出会いを求めて遠くアラビア方面から来た。距離にすれば千キロをはるかに越えるだろう。そのような遠いところから、自分たちとは直接には何の関係もない遠い国に王が生れたから会いに行く、しかも高価な捧げ物をはるばる持っていく―このようなことはおよそ非現実的に思われ、クリスマスのときの子供向けのおとぎ話のようなものと思っている人たちも多いかも知れない。

 博士たちは、星が突然現れ、その星に導かれてはるかな遠い異国へ命の危険をも覚悟して出かけていった。イエスに出会うということがいかに重大なことかをこの博士たちは深く知っていたのである。彼らは生れたばかりのイエスに会ってどうしょうというのだろうか。何者になるか分からない乳児と会い、高価な捧げ物を持っていく。彼らは何を得たのか。 それは、イエスとの出会いという比類のない恵みを受けたということである。

 私たちにおいても、イエスと出会うために、星が導く。その星とは、私自身にとっては一冊の本であったが、また親、兄弟、あるいは先輩、友人、教師等々いろいろなものが導きの星となる場合もある。またキリスト者の集りの人たちの真実な祈りが、未信仰の人を導くということもある。

 イエスとの出会いはいかなる人に与えられるか。そのもう一つの真理がルカ福音書に記されている。

 それは、イエスの誕生が最初に知らされ、イエスとの出会いが初めて与えられることになったのは、当時の聖書(旧約聖書)の学者や、権力者、人々の指導者たち、あるいは経験豊かな人格者といった人たちでなく、社会的地位もなく、野外で生活する羊飼いたちだった。

 ここにも、イエスとの出会いは、この世の予想では考えられないような人たちに与えられるということが示されている。

 この二つの福音書におけるイエスとの出会いは、いずれもまったく思いがけないとき、突然にその出会いへと導かれて行ったということである。「風は思いのままに吹く、(神の)霊によって生まれる者も同様である。」(ヨハネによる福音書3の8)と言われているように、イエスとの出会いが与えられる人は、神のご意志のままに、人のあらゆる予想を越えている。

 そうして、イエスとの出会いが与えられるとき、それはたしかに人生で最高の恵みであり賜物となる。そして私たちは最も神が喜ばれる砕かれた謙遜な心を捧げ物とする。しかし、その出会いはまた大いなる苦難をも伴うことがある。

 家族であったゆえ、常時イエスと出会っていたマリアは、偉大な神の子の母となったゆえの栄誉、称賛を受けるのでなく、剣で胸を刺し貫かれるといわれた。それほどの苦しみ、悲しみをも受けねばならないということである。実際歴史上においても、イエスと深く出会い、いかなることもその出会いには代えがたいとはっきりと告白した者は、その代償として非常な迫害を受け、苦しめられたのちに命をも奪われることになった人たちも無数にいた。

 最もよきものとの出会いは、単に喜びや安らぎといったものだけで終わらない。最高のものは、こうした苦しみや悲しみを伴いつつ与えられる。

 それはイエスご自身が、最高のもの―神と同じ力、栄光を与えられていたが、そのために人々から捨てられ、侮辱され、木に釘で打ちつけられるという最も激しい痛みや苦しみをも同時に与えられたのであった。

 確かに最高のものであるゆえに、そのしるしとして冠が与えられる。しかし、それは、この世の栄誉の冠でなく、茨の冠であった。

 そして主イエスに続く弟子たちもまた、聖霊という最高の賜物が豊かに与えられたが、やはりペテロやパウロたちも、最終的には殉教したと伝えられている。

 人間のうち、とくに良き人々―愛や真実ある人との出会いによって、たいへんな苦しみが同時に与えられるということは通常は考えられない。そのような人は常に接する人に、神の愛や真実を示すだろうからである。

 しかし、神はその最高の人間を造ったお方であるが、その神との出会いは、そのようにいつも安楽につながることばかりということにはならず、耐えがたい苦しみ、苦難が伴う場合もある。

 ヨハネによる福音書におけるイエスとの出会いは、ほかの福音書とは異なる記述がなされている。

 聖霊が降るのを見たことで、洗礼者ヨハネはイエスと出会った。

 そのヨハネが、指し示すことによって次々と新たな人が、イエスと出会った。その後、自分の弟子アンデレ他一人をイエスに紹介し、そのアンデレは、さらに自分の兄弟のペテロをイエスのところへと連れて行き、ペテロはイエスの弟子となった。

また、イエスは、フィリポと出会ったが、そのフィリポは、友人のナタナエルに出会ってすぐにイエスとの出会いを知らせ、イエスへと導いた。このように、次々と周囲の人たちをイエスの出会いへと指し示している。

 これは、イエスとの出会いにおいて、いかに人間の仲立ちが大きいかを示す記述である。私も一冊の本によってイエスへと導かれ、主との出会いが与えられた。そして私も1年後には、高校教師となって生徒たちにイエスとの出会いを知らせ、そこから少数ではあるが、転じる先々の学校で、実際にイエスと出会う人たちが起こされてきた。

 イエスが地上で生活されているときには、弟子たちとの出会いは、一方的にイエスが呼び出されて出会いとなっていることが多い。ヤコブやヨハネたちは、舟の中で網の手入れをしているときに、主からの呼びかけによって出会いが与えられている。

 そしてこのことは、人や書物を通してイエスと出会う場合にもあてはまる。その人を通して、イエスから直接に招かれたゆえに、信じる者になったからである。

 このように、イエスとの出会いは、福音書には、地上で生きて歩まれたイエスとの出会いが記されている。

 しかし、イエスの時代以降の過去二千年にわたって、重要となったのは、十字架での死後、復活されたイエスとの出会いである。そしてそのかたちを変えた出会いが、復活のキリストと本質的に同一である聖霊との出会い、聖霊を与えられるということである。

 意外なことであるが、弟子たちは、墓から三日目によみがえったイエスに出会っても、ただちに力を得ることにはつながらなかった。

 ヨハネによる福音書に示されているように、復活したキリストが弟子たちに現れ、彼らはイエスに出会った。そのときイエスは、「わたしの平安をあなた方に与える。父なる神が私を遣わされたように、私もまた、あなた方を遣わす。」と言われ、今まではイエスに従ってきたが、今後は、そのイエスによってこの世に遣わされるという使命を告げられた。

 そして、その際に最も重要なことがここでも告げられている。

…聖霊を受けよ。だれの罪でもあなた方が赦せば、その罪は赦される。(ヨハネ202223より)

 

 すなわち、イエスに遣わされることと、聖霊を受けるということは不可分に結びついているのであって、その聖霊とは神ご自身、キリストそのものでもあるゆえに、聖霊が豊かに与えられるときには、罪すら赦すことができると言われている。弟子たちの内に宿った聖霊が赦しの力を与えるということなのである。

 その聖霊が与えられていないならば、キリストの復活や十字架のことを力強く宣べ伝えることはできない。弟子たちも前述の復活のイエスとの出会いがあったにもかかわらず、それはただちに福音のために遣わされていくことには結びつかず、かえって、もう止めたはずの漁師の仕事にと戻っていった様子が記されている。(ヨハネ21章)

 このように、復活したキリストに会ってすぐに、福音宣教を命がけで始めたと思われがちであるが、じっさいはそうではなかったのである。

 復活したイエスも、「上からの力に覆われるまで都に留まっていなさい」(ルカ2449)と言われた。

 真に復活のイエスと出会うということは、そのイエスの別の現れである聖霊を受けたとき、キリストが内に住んでくださることによってである。

 ヨハネによる福音書では、それゆえに、キリストが内に来て住む、再び私に出会うということを繰り返し強調している。              (ヨハネ141923

 復活したイエスとの出会いについては、自分の死後に、真理の霊―聖霊が与えられることを告げている。そして、「世はもう私を見なくなるが、あなた方は私を見る」と言われた。

               (ヨハネ1419

 聖霊を与えられることが、イエスとの出会いとして記されているのである。

 聖霊が与えられるとは、すなわち、復活のキリストが内に住むことを意味している。私たちのうちに、キリストが住んで下さるという大いなる恵みが与えられるなら、それは日常的にイエスと会っていることになる。イエスと会う、ということの最も深いあり方は、キリストが内に住んでくださることである。       (ヨハネ14章の20節、23節)

 人間同士の場合でも、だれかが自分の内に住んでいるなら、その人と常に会っていることになる。心の内に住んでいる場合には、いつも霊的に会っているからである。

 イエスとの出会いに関して重要なことがある。

  マグダラのマリアは、7つの悪霊にとりつかれていた女性であったが、イエスと出会ってその長い間にわたる悪の霊の支配から解放された。彼女は、イエスが十字架で処刑されたときも最後までその側でいた。そしてイエスの復活を最初に知らされた女性だった。彼女は、イエスが処刑されてから三日目、まだ暗いうちから、イエスが埋葬された墓に行った。

 そのとき、復活したイエスは、マリアに現れた。それが復活のイエスが人と会った最初でもあった。そのとき、復活のイエスと出会い、話しをしていたにもかかわらず、マリアは、それがイエスだとはまったく分らず、その公園の管理人だと思っていた。

 そしてイエスからの「マリア!」という短い呼びかけによって初めて、彼女の霊の目は開け、復活のイエスだとわかった。そして、「わが師よ!」と叫び、復活の主との真の出会いとなった。(ヨハネ201116

 このように、復活したイエスとの出会いには、直接にイエスから霊的なものを受ける、あるいは、個人的な呼びかけを受けることによって初めてキリストが復活したということがわかるようになったのが分る。

 そのために、主に求める。

「求めよ、そうすれば聖霊が与えられる。」(ルカ11の9~13)という主の約束は、この復活のイエスとの出会いが、真実な求めによって必ず与えられるということを意味しているのである。

 このように、イエスからの呼びかけを受ける、言い換えると、個人的に名を呼んでくださらないかぎり、私たちは目覚めない。イエスと出会えない。

 このことは、ルカ福音書において、やはり復活したイエスが、弟子たち二人とエマオという村へと歩んでいたときのことを思いださせる。どこからともなく近づいてきた復活のキリストは、弟子たちの話に加わった。弟子たちは、イエスからモーセとすべての預言書から始めて、聖書全体にわたって、ご自分について書かれていることを説明された。その話を聞きながら、弟子たちは心が燃えたという。それでもなお、弟子たちは、それが復活したイエスであるとはわからなかった。

 日暮れのときとなったが、さらにイエスは進んでいこうとされた。弟子たちは、無理にイエスを引き止めて、食事をともにした。そのとき、イエスがパンをとって、賛美の祈りをしてパンをちぎって弟子たちに渡した。そのとき、はじめて弟子たちはそれがイエスであることを悟った。

 イエスからのパンをいただいて初めて彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。現在の私たちにとって、それは霊のパンを受けるとき、言い換えると、聖霊を受けるときなのである。

 

 使徒パウロは、復活したイエスに出会ってからすべてが変わった。彼は、つぎに記されているように、キリスト教徒を迫害して、殺すことまでした。

 

…わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえした。(使徒22の4)

…また、ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もした。(同2220

 

 それほどまでに、キリストの真理に心を固く閉じていたパウロであったが、一瞬にしてそのかたくなな心を打ち砕いたのは、復活したイエスとの出会いだった。キリストの光であり、キリストからの直接の語りかけであった。

 パウロはその学問によっても、生い立ちや環境の恵まれた状況によっても、またそれまでの人生経験やいろいろな教師たちによってもキリストの真理に対して目は開かれなかった。

 一方的な復活のキリストからの恵みによりて、主とのはっきりとした出会いが与えられ、それによって変えられたのである。

 人間との出会い―それも重要である。悪しき人との出会いが人の生涯を暗転させるが、他方、よき人との出会いによって生涯が変ることもある。

 しかし、そうしたよき人との出会いはだれにでも与えられるのではない。また、苦しい病気で一人痛みを抱えてベッドに横たわっていなければならない人、キリスト者であるだけで、罪もないのに牢獄にいれられて孤独でかつ恐ろしい苦しみに耐えていかねばならなかった人、あるいは死を間近に感じる重病の人…そのような状況にあってもなお、イエスとの出会いは与えられ得るものだと約束されている。

 この世では苦難がある。しかし、恐れるな。私はこの世の力(悪の力)に勝利している。と主は言われた。そして、聖霊というかたちで、求める者のところにきてくださるということも約束された。

 イエスのとなりで十字架にかけられた重い犯罪人は、人生の最後に、イエスとの真実な出会いが与えられた。それは十字架での処刑のただなかであり、激痛に襲われているさなかであった。それでもなお、イエスとの出会いを妨げるものではなかった。

 そうして、イエスから 「あなたは今日パラダイスにいることになる」という祝福の約束を受けることになった。

 このことは、人間全体に対して言われたことであり、いかなるこの世の力も、真実に求める人には、必ずイエスとの出会いが与えられ、御国へと導かれていくということなのである。

 


リストボタン天に満ちている神の慈しみ―詩篇36

 この詩は、私たちの現在の生活においてもたえず心に浮んでくる悪しき人間の心の状態と、それと対照的な神の祝福された世界―天に満ちている神の慈しみと命の泉を知っている人による。

 現実の人間世界がいかなる状況であるのか、それにうち勝つには、この世界に満ちている神の真実と憐れみを深く知らされていることが必要であること、そしてそれは神の私たちへの憐れみゆえに、その道はいつも開かれていることを示している。

この詩の作者は、まず人間の内にはさまざまの声が語りかけることをはっきりと知っていた。人間は過去に聞いた声、語りかけ、あるいは悪口、非難の声なども思いだす。一人でじっとしているとき、しばしばそうした過去に語りかけられた声が聞こえる、あるいは思いだす。

 人によっては、そうしたかつて浴びせられた悪口や中傷によってそれから長く歳月が経ってもなお、そうした声が内に聞こえて悩まされるという場合もある。

 この作者においては、悪しき者の内面に語りかける声を聞いた。霊的に敏感な感性を与えられた人は、ふつうの人には聞こえない響きを聞き取る。

 詩篇19篇の作者は、この宇宙や世界に響きわたっている声を聞き取ったのがうかがえる。

 

天は神の栄光を物語り…

昼は昼に語り伝え

夜は夜に知識を送る。

話すことも、語ることもなく

声は聞こえなくとも

その響きは全地に

その言葉は世界の果てにまで及ぶ。(詩篇19より)

 

 このように、神の驚くべき語りかけがじっさいに聞こえてきた人の姿が及んでいる。そしてこのような詩だけでなく、預言者たち、また聖書に現れる人物たちは、一般の人たちには聞こえない神の言葉を聞き取った人たちである。

 詩篇36篇の作者は、そうした霊的に敏感な内なる耳を持っていた。それゆえに、悪しき者の心の内に語りかける声を感じ取ったのである。  

 

…神に逆らう者に罪が語りかけるのが  

わたしの心の奥に聞こえる。

彼の前に、神への恐れはない。…

彼の口が語ることは悪事、欺き。

決して目覚めようとも、善を行おうともしない。

床の上でも悪事を謀り  

常にその身を不正な道に置き 

悪を退けようとしない。(詩篇36の2~5)

 

 この詩は自分の心にではなく、悪しき人の心の中に語りかけたことが記されている。この詩をつくった人は人間の心の世界にとくに敏感な感性が与えられていた人である。

 「神に逆らう人」と訳されている原語(ヘブル語)は、ラーシャー で、このように訳しているのは新共同訳だけで、他の訳では「悪しき人」と訳している。聖書的に「悪い人」とは、真実なる神に逆らう人だということでこのように訳されている。英訳はほとんどが、the wicked と訳されている。

 人の心に、罪が語りかける、神の言葉と同様に、罪の言葉というべきものがあり、それはサタンに由来する。

 主イエスが、自分は近い内に十字架にかけられると予告したとき、ペテロはイエスを脇に引き寄せてそんなことがあってはいけないと叱ったことがあった。そのとき主は、ペテロに「サタンよ、退け!」と厳しく叱責された。 ペテロのうちに、サタンが語りかけてそのように言わせたのだと見抜かれたのだった。

 このように、人間的な考えや思いで言うことがサタンからの語りかけに従って語ることなら、私たちもいたるところで、こうしたサタンの語りかけに聞き従っていることになる。

 旧約聖書でも、とくにそのことが重大なことになった例として、ダビデの記事がある。

 ダビデは、罪が語りかけるその言葉を拒絶できなかった。そして重い罪を犯してしまい、多方面に闇の支配と思われることが生じてしまうことになった。

 現代の私たちには、過去のいかなる時代にもまして、いろいろな罪の語りかけが心になされるようになっている。現代のようにテレビやインターネットがあると、目で見えるものに気が取られてしまって、神からの語りかけ、普通の耳には聞こえない声に聞くという習慣が非常に少なくなってしまった。

 激しく画面が移り変わるようなものを見れば見るほど、静まることができなくなってしまう。それで神からの語りかけも聞こうとしないで、サタンの言うがままになってしまう。そして罪を憎んで離れようとする気持ちもなくなる。悪をなす。罪を聞いてそれに負けてしまう人の状態がここでは記されている。

 そのような人は夜になって寝ているときでも悪事を考えると言うことである。

 このような状態に対して、詩篇の別の箇所では、夜も神のことを思って祈り、感謝するということが言われている。

 

…床に就くときにも御名を唱え、あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごす。(詩篇63の7)

 このような状態こそ、私たちの目標である。

 しかし、この詩で言われている悪しき人の心の状態は、一日の終わりのときにでも、サタンが語りかけてしまう。人間が悪くなるとこんな風になってしまう。罪が語りかけて来るのを聞いて、抵抗しないでいるとだんだんこんな風になってしまう。

 すでに創世記において、罪からの働きかけを支配するのが人間のあるべき姿であることが記されている。

…罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。(創世記47

 

 6節からは、罪(悪)の声に聞くのでなく、神のみ声に聞くときには、まったく異なる状況となる。そのときには、神の愛、慈しみが天に満ちているというのが実感できるほど高められる。この詩をつくった人は特に霊的な感性の深い人であったので、他者の心に罪が語りかけているのが分かるだけでなく、、神の愛は天にも満ち、真実は大空に満ちていると記されている。

 

…主よ、あなたの慈しみは天にあなたの真実は大空に満ちている。(6節)

 

 これは世の中が平和な時代だからこのようなことが分かったのでなく、詩篇にみられるように、さまざまな敵の攻撃から助けてくださいという叫びがたくさんなされている状況にあった。戦いや病気や事故など、さまざまな苦しいことがあった。

 それにもかかわらず、目を上げて神の世界を見たら、神の慈しみが満ちているとはっきり分かると言うことである。これは現代のわたしたちにも与えられている大きな恵みである。地上は確かに汚れたことや、混乱がたくさんあるが、天を仰ぐときには神がおられるということが分かり、助けもそこにあるのがわかり、全く違った世界―霊的な国、神の国をわたしたちは与えられている。

 旧約聖書だから古くて現代とは関係がないということは決してなくて、この詩がつくられて(ダビデのものとすれば)三千年ほども経ったが、現代でもこれほどのことを実感できる人は少ないだろう。

 クリスチャンとはこのようなことを―その程度の多少はあっても―知ることができるようになった人なのである。使徒ヨハネも、この詩と共通したことを次のように述べている。

 

…わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

…わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。(ヨハネ福音書1の1416より)

 

 このように、ヨハネによる福音書という最も霊的な福音書の最初の部分で、キリストのうちには恵みと真理が満ちており、それはあふれるばかりの豊かさであって信じる者たちもそこから豊かな恵みを受けたことが強調されている。

 これは、詩篇36篇で、「主よ、あなたの慈しみは天に、あなたの真実は大空に満ちている」と言われていることに通じるものがある。信仰によって深く神の世界へと導かれたとき、この世の現実がいかに暗く、苦しみや悲しみに満ちたものであっても、なおそのただなかに、神の永遠の慈しみや真実が満ちている霊的な世界を示されるのである。

 創世記において、アブラハムの孫にあたるヤコブが兄から憎まれて遠くへと逃れていくとき、砂漠地帯のただなかで、天に通じる階段を啓示された。そしてそこに天使たちが上り下りしているのを見た。兄の殺意に恐れ、両親とも離れ、未知の遠くへの旅路の一人の不安というただなかに、天の世界が示されたのであった。ヤコブは、そこで、「主がこの場所におられるのに、私は知らなかった。何と畏れ多い場所だろう。ここは、神の家、天の門だ!」と言った。(創世記281617

 神が私たちの霊の目を開かれるとき、どのような状況にあってもこのように、神の世界がわかり、天への門がすぐかたわらにあることが知らされる。

 詩篇の作者は慈しみや真実は大空に満ちているといったが、ヨハネの福音書では、その大空とは、物理的な大空であるとともに、キリストを指し示しているのである。旧約聖書はいつもキリストを指し示している。慈しみや真実はキリストに満ちていると言い換えることができる。

 

… 恵みの御業(*) は神の山々のよう 

あなたの裁きは大いなる深淵。                  (7節)

主よ、あなたは人をも獣をも救われる。

神よ、慈しみはいかに貴いことか。(8

あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ

あなたの家に滴る恵みに潤い  あなたの甘美な流れに渇きを癒す。

命の泉はあなたにあり  

あなたの光に、わたしたちは光を見る。(7~10

 

*)「恵みの御業」と訳された原語は、ツェダーカー(セダーカー)であり、本来は「正義」を意味する。外国語訳―例えば英語訳聖書ではほとんどすべての訳が  righteousness (正義)と訳している。日本語訳でも、ほかの口語訳、新改訳、関根正雄訳なども「義」と訳されている。カトリックのバルバロ訳は「正義」、やはりカトリックの詩篇 現代語訳 では、「正しさ」、フランシスコ会訳だけは、「ゆたかな恵み」と訳している。

 

 7節はこの訳のままでは分かりにくい。「裁き」というのも日本語でいうものとは全く違う。他の訳では「あなたの義は高くそびえる山のようだ。」とある。全ての英語訳でも、正義 rightousness と訳されている。

 この新共同訳だけがどうして「恵みの御業」という訳にしたかというと、日本語の「正義、義」と訳すると、その訳語では、旧約聖書での義という意味を十分には汲み取れていないという判断からであろう。旧約聖書での「義、正義」とは、神はそこに恵みの御業を行おうとするような正しさということであって、単に冷たい正しさではないという意味をこめて、ほとんどどの外国語訳にも日本語訳にもみられない特異な訳になっている。

 「裁き」と訳されている原語は、ミシュパート であり、この語は、「正義、公正、公平」などいろいろに訳されている。この語の英訳は、多くが、justice で、この語もやはり正義、正しいことを意味する。

 このように、6節に現れる二つの言葉、「恵みの御業」と「裁き」と訳されているが、その原語は、二つともほぼ同じ意味を持っていて、神の「正しさ、正義」を表す語である。

 

 旧約聖書の詩篇は、ほぼ意味のよく似た言葉を並行して置く、ということがよくみられる。この箇所でも、それがある。すなわち、神の正義は、山々のように不動であり、永遠的である。地上にあるもののうちで、最も動かない、不動のものと見えるのは、山々であるからこのように表現されている。

 そして、さらに、あなたの裁き―神の正義は、深い海のごときものだ、といおうとしている。

 神の裁き、正義というのは非常に深い。というのは、悪い人が栄えているのに、どこに裁きがあるのかと思う。悪いことがあったらすぐに裁くというのは浅い人間的な裁きであって、神の正義、神のさばきはそのように簡単に分るものではない。

 悪が栄えるように見えて、時が来たらそれは必ず滅ぼされる。人間はいつ、どのようにかは分からない。そういう意味で非常に深いということである。神の裁きは私たちをはるかに超えている。しかし必ず裁きはある。神の正義やさばきのなさり方は、あまりに深いから特別に聖霊を豊かに受けた人でなければ分からない。通常の人の状態では、この世の大きな不平等や、突然に生じる事故や災害、あるいは病気等々の苦しみや悲しみを見ていると、とても神の正義や裁きどころか、神そのものなどいないのだ、と思い込むようになる。

 遠くに近くに連なる山々を見て、ああ、神の正義、そして裁きはあの山々のように泰然不動のものなのだ、と心に思う人はどれほどいるだろうか。

 そして、海の底知れない深みを知らされて、そこにも、神の正義、その正義のなさり方が、無限に深いのだと心に深く感じるという人はキリスト者でもごく少ないであろう。

 この詩の作者は、通常の人なら到底思わないようなこと―周囲の自然をも神の本質を深く汲み取っていたのがうかがえる。

 次に、「あなたは人をも獣をも救われる」(7節)とあるが、聖書において、「救い」というのは、本来罪からの救いであって、動物には罪というものが存在しないのであるから、本来の意味での救いということは当てはまらない。だからこの箇所は他の訳では「あなたは人や獣を栄えさせてくださる。」 (新改訳)と訳されている。このような表現は、聖書全体でもほかには見当たらないが、神は人間だけでなく、動物への配慮もあるということを言おうとしているのである。ヨブ記の最後の部分においても、いかに神が動物たちへのさまざまの配慮をし、無限の多様性を備えているかを記している。

 また主イエスも、小さな小鳥ですらも、神の許しがなかったら落ちたりはしない(*)と言われた。どんな小さなものでも神はきちんと目を配って配慮されているということをここで言っている。

 

*)…二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。(マタイ 1029

…神よ、慈しみはいかに貴いことか!(*

あなたの翼のかげに人の子らは身を寄せ

あなたの家の豊かな恵みにうるおい

あなたの喜びの流れを彼らに飲ませられる。(**)(9節)

 

*)「貴い」と訳された原語は、ヤーカールで、これは、「(無限の価値ゆえに)価が付けられない」(How priceless is your unfailing love! (NIV))、あるいは How precious is your faithful love. (NJB)のようにも訳されている。

**)「喜び」と訳された原語は、エデン であり、これは、「楽しみ」(新改訳や口語訳)、あるいは「甘美」(新共同訳)、英訳聖書では、 river of delights (喜びの川 NRSNIV)、あるいは、 delicious streams (NJB)のように訳されている。創世記の最初に現れるエデンの園や、イザヤ書のつぎのような箇所にも現れる。

… まことに主はシオンを慰め、 そのすべての廃墟を慰めて、 その荒野をエデンのようにし、 その砂漠を主の園のようにする。 そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。 (イザヤ51の3)

 すなわち、さまざまのこの世の悪、汚れ、混乱が究極的に一掃され、神の御手によって新しい世界が到来したときの状況を表す語として用いられている。

 

この詩の作者は、神の愛(慈しみ)の比類のない価値を深く知っていた。その愛の尊とさはどこにとくに感じていたか、という具体的な内容は、神の翼の陰に身を寄せるとあるが、親鳥のところに雛が行くようにということがこの作者に浮かんでいた。霊的に敏感になるほど、周囲の身近な出来事の一つ一つに神との関わりを思うことができる。

 神の愛が、天に満ちていると実感できる人の魂の状態がさらに9節に記されている。「楽しみ」とか「甘美」という訳語よりも、「喜び」という語がより適切と思われる。じっさい、英語訳では 「喜びの流れ」streams of delight で、楽しいといった感情よりも、魂を満たす喜びを感じさせる。

 神の家には、豊かな恵みがあり、神からくる喜びの流れから汲み取って飲むことができるという。

 現代の私たちにとっては、神の家―神殿とは、特定の建物ではなく、神とキリストを信じる一人一人の心が神(キリスト)が住む神殿であると言われているから、私たちのうちに住んでくださっているキリストからあふれ出る水を飲むことを指し示している。私たちが一つの小さな泉となるからである。

 

…あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのか。(Ⅰコリント3の16

 

 この世は清いものを飲むところがなく、むしろ悪いものを飲まされる。他人に関しての陰口などを聞かせられたら、ここに書かれた喜びの水とは本質的に異なる悪い水を飲んでいるようなものだ。

 「命の泉(10節)が、神の内にある」と言われている。このことが分かってそこからたえずその命の水を汲み取っていく―それが人間の目標でもある。

 現代の多くの人たちの生きる源泉はどこにあるのだろうか。何を生きる力の源にしているだろうか。自然に備わった生きる力というのは、食べ物からくる肉体の力で生きている。人間の場合も心の世界が浅いほど、生まれつきの動物の力で生きている。その動物的な力が何かで壊れたりすると、途端にがっくりと来てしまう。あるいは、自分の能力が壊れたりなくなったら、消えてしまう。

 また生きる源泉を人に置く場合もある。しかしそれらは一時的なものであって壊れる。この世のさまざまな光、例えば学問や技術、能力などを光とすることはよくみられる。人間でも特別な能力―例えばノーベル賞とか、各種スポーツでの優勝とか、オリンピックでのメダルを受けた人たちを光のようにあがめることは常にみられる。しかし、そうした光は一時的で、すぐ消えていく。この詩では、そうしたこの世の目立つものに光を見ようとすることの致命的な欠点をはるか昔から見抜いていたのである。

 そして、人間は光を、そうしたものにではなく、神に見ることこそ、正しいことだと知っていた。そしてそのことは、この詩が造られてから数千年を経た現在においても真理であり続けている。神は光だからである。

 このように6~10節というのは、人間の到達できる最終的なあり方を、はるか昔の人が啓示を受けて体得し、また彼自身の信仰の歩みの過程で分かったことが書かれている。

 こうした祝福の世界を知らない場合には、人は他のところから飲まざるを得ない。それはさまざまの娯楽や快楽にかかわることであり、飲食など本能的な快楽に求めることが多い。そうしたものによって、日毎に押し寄せるさまざまの問題や悩み、苦しみを忘れようとし、できることなら新たな力を得ようとする。

 しかし、それらのものも一時的には元気づけられるように思われる場合もあるけれども、魂は満たされない。そしてしばしば不正な快楽を求めた場合には、自分やかかわった人たちの生涯を破壊することにもなりかねない。じっさい、いかに多くの人たちが、汲み取るべきものをまちがったために、一生を破滅させてきたことだろう。

 まちがったものを汲み取ることで満足を得ようとするのは、個々の人間だけでなく、国家、民族においても同様であり、他国を侵略して領土や資源、あるいは人間まで奪い取ろうとして、何十万、ときには数百万をはるかに越えるような大規模な犠牲者を出すような戦争になったりする。これもその出発点は、一部の軍部や政治家、企業などを支配している者たちの支配欲、物欲、名声欲といったもので、彼らが自分を満たそうとするからである。

 人間のあるべき姿、何によって魂の満足を得るべきなのか、それはすでにこのダビデの詩と伝えられる数千年も昔の詩によってはっきりと示されている。

 命の泉―私たちを本当に満足させ、魂を満たすものは神にあり、私たちがすべての真実を見抜くための光もまた神にある。

 こうしたことは、この詩が造られてはるか後のヨハネによる福音書によって、キリストこそこの命の泉であり、命の光であることがはっきりと告げられた。

 

…イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じるものは、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。 (ヨハネ73738

 

 キリストが永遠の泉であり、そこから飲むとわたしたちもひとつの小さい泉になる。その水とは聖霊である。私たちがキリストを信じることができるようになったのは、誰かからこの命の水が流れて飲んだから信じるようになったと言える。

 命の水を飲んだ人から、主イエスが言われているようにそこから他者へと流れ出ていき、それをまた、誰かが飲んでキリストのものとなり…ということがずっと今日まで続いてきたのである。

 

…あなたを知る人の上に  

慈しみが常にありますように。…

神に逆らう者の手が  

わたしを追い立てることを許さないでください。

悪事を働く者は必ず倒れる。

彼らは打ち倒され  

再び立ち上がることはない。(1113節より)

 

 この詩の最後の部分の前半は、神の愛―慈しみが広く神を信じる人たちにとどまりますようにとの祈りとなっている。これは、御国が来ますようにという主の祈りに含まれる内容でもある。

12節には主の祈りでも言われているように、悪の力に打ち倒されないように―誘惑に負けないようにしてくださいとある。そして、悪を行うものは必ず倒れるという確信でこの詩を終えている。

 私たちも、悪を行なっていたら必ず倒されるし、また悪そのものはいかに一時的にはびころうとも、必ず最終的には、神が滅ぼされるということを信じて歩みたいし、そのような確信が多くの人に与えられるようにと願っている。

 


リストボタン歴史を知らないこと

 現代の、とくに若い日本人は、余りにも過去の歴史、とくに近代の歴史、明治以降から、太平洋戦争にかけてのことを知らない。

 近代以前においても、例えば、豊臣秀吉が、朝鮮半島に16万人にも及ぶ大軍を送り込み、朝鮮の人たち数十万人あるいはそれ以上が犠牲となった戦争のことなど、そこでどのような悲惨なことが行なわれたのか、ほとんど知らないのではないか。

 私の高校時代では、理科系大学受験であっても、英語、数学、理科、社会、国語などみな200点満点であったため、日本史なども詳しく学んだが、それでも、この秀吉の朝鮮への侵略のことについてはごくわずかであったし、朝鮮の人たちがいかに大きな苦しみを受けたかなどということはほとんど学んでいない。名称も、文禄・慶長の役であり、大規模な戦争であった、ということが分かりにくい名称となっている。

 かつて、私の家に、韓国からの高校生が二人来たことがあったが、そのときは、政治的なことは話してはいけないと、言われていたということである。

 しかし、その高校生が私にまず問うてきたことは、豊臣秀吉の朝鮮への侵略戦争をどう思っているか、ということであった。

 彼らは、不十分な英語であったが、その真剣なまなざしと語り方が印象的で、今もはっきりと思いだす。

 そして私が感じたのは、日本の若者たちのあの戦争に関する意識とは大きく異なっているということであった。日本人の高校生が、あの秀吉の文禄、慶長の役ということで、朝鮮半島の人たちに対してどのような痛みを感じてきただろうか。

 かつての私の高校時代の学習の際も、秀吉の中国まで支配しようといった大それた野望とか、大名のうち、石田三成や片桐且元などもその戦争に加わったなどということ、何の得るところもなく結局秀吉の死によって引き上げた無謀な戦いだったといったことぐらいしか記憶に残っていない。

 肝心の相手の国の人たちがどのような苦しみを被ったのかといった点にはまるで教育の場でも言及されなかったのであり、それが後の意識にもつながっていく。踏まれた者は痛みを忘れることはないが、踏んだ者は痛みを感じないからすぐに忘れていくということである。

 その後、朝鮮を日本の植民地にして、学校の生徒たちにも、神社参拝を強制し、言葉まで、日本語を強制したこと、そこに、朝鮮の人たちにどのような悲しみや怒り、反発が生じたか、そうしたこともほとんど考えないで歴史を学んだつもりになってきたのでないだろうか。 そしてそれが、太平洋戦争が終わって70年近く経っても最も近い隣国であるのに、親しい関係が生まれないという背後の原因にもなっている。

 中国との関係も、やはり15年もの長期にわたっておびただしい人々の命を奪い、国土を荒廃させたあの日中戦争のことも、現代の若い世代はその実態をほとんど学んでいないのである。

 大学入試にもそうした近代のこと、ことに太平洋戦争前後のことは、あまり出題されないこともあって、ごくわずかしか学ばない、また、歴史教育が古代から始めるから、時間切れになって授業でも近代のことは簡単にしか教えない、ということも関係している。

 韓国や中国との関係を本当によいものにするためには、こうした近代の歴史をこそ、深く学ばねばならないと思う。

 


リストボタン中高生聖書講座とその帰途での集会や訪問

 3月26日~28日(金)の午前まで、神奈川県川崎市青少年の家にて、中高生聖書講座があり、そこで詩篇のいくつかについて語る機会を与えられた。この講座はもう30年ほども前から、最初からずっとかかわってこられた森山浩二兄、近年になって加わられた田中健三兄たちが主となって続けられてきたという。

 三日間で三回、各1時間で、三つの詩篇について語り、あと一つは、中高生や参加者(運営スタッフを除く)だけで疑問や感想など出し合うための詩篇、合わせて4つの詩篇を選んだ。

 それらは、詩篇19篇、22篇、103篇、32篇。

 19篇は、神の言葉が宇宙的、世界的にたえず響いていること―パウロもこの詩をそのような意味で引用している―それとともに神の言葉によって人間の根本問題が導かれ、そこに喜びも、幸いも豊かに結びついていること、そしてそうした無限の価値ある神の言葉と私たちを隔てているのが、罪であり、その罪の赦し、清めということが、み言葉を受けて力をいただくためには不可欠となる。それはそのまま新約聖書の世界、キリストの十字架を指し示している。

 また22篇は、キリストが十字架上で最後に叫んだ言葉として広く知られている。ここには、キリストのあの大いなる苦しみのときに自然に発せられた「わが神、わが神、どうして私を捨てたのか!」という言葉は、詩篇22の冒頭の言葉と一致している。ということは、この詩篇22篇は、最も重く、苦しい極限の状況になって初めて本当にわかるといえるほどの内容を持っていること、そして後半では、そこから救いだされ、神の言葉を全世界に、そして永遠に伝えていく心が起こされている。これは、キリスト復活のあと使徒たちに聖霊が注がれ、そこから全世界に伝えられていくことをも暗示、預言している詩であること。

 詩篇103篇は、人間の究極的な目標は、神への賛美であり、それがこの詩篇の内容になっている。

 さらに、32篇は、人間の根本問題である罪とその赦しが中心に置かれた詩であり、これはそのまま新約聖書の中心につながっている。それゆえに、古来からアウグスチヌスやルターのような世界史に大きな影響を残した人にとっても、この詩は最も重要な詩の一つとなってきた。

 今回は、中高生や大学生、さらに一部は社会人まで、部分参加の人も合わせて17名ほどだったが、若い方々がこうした聖書の内容を集中的に学び、語り合うような機会は貴重なものと思われた。

 北海道からきょうだいの方が、はるばる去年から参加されているとのこと、こうしたキリストに関する集りにおいては、大人の集会にあっても、遠くからでも時間や費用の犠牲をはらっても参加しようという思いを起こされることがしばしば見られる。思いがけないところに神が、種を蒔かれてそのような心を起こさせるのであり、信仰を持つということについても、予想もしなかった人が、意外なところで、キリスト者になったりする。神のわざは、風の吹くように思いのままに現れるのを感じる。

 また、会社の仕事で時間がとれず、一日の終わりのプログラムの最後の部分だけ、夜に参加され、わずか1時間ほどの時間しか参加できなくて、また1時間以上かけて帰っていった方もおられ、そうした特別な熱心も主が覚えてくださることと思われた。

 どれだけの目に見えることをしたのかでなく、主への愛がいかほどであったかを主は見ておられる。

 いろいろな方々がこの会を運営スタッフとして祈りをもって支えてこられ、続けられてきた。 こうした聖書を中心とした一泊以上の集会は、大人の集会も含め、いろいろ私も知っているが、いずれも担当する一部の世話人の方々の主にある特別な熱心、祈りによって続けられている。

 

 そしてたとえ少数であっても、こうした多くの方々の祈りと具体的な支えによってここで学んだ方々は、何らかのかたちで、以後の人生やその仕事に、こうした聖書の内容、その信仰が必ず生きて働いてくるであろうと思われた。

 

 中高生聖書講座が終わって、八王子市での集会があり、そこでみ言葉を語らせていただいた。初めての方も何人か参加されており、また私としては数十年ぶりの方も来られていて、私自身も恵まれた。

 

 この集会がなされた場所は、八王子駅前の繁華街のただなかの高層ビルでの一室であるにもかかわらず、20人ほどの定員の小部屋があり、そこにピアノまで備わっている部屋だった。いろいろな集会・教会からの方々が、ちょうどその定員だけの数が集められて感謝であった。

 

 そして大分以前に東京青山学院大学礼拝堂での無教会全国集会で、徳島聖書キリスト集会の方々のデュエットや、東京の手話サークルの人たちとの合同の手話讃美の伴奏をしていただいた佐々木洋子姉が参加し、ピアノでの讃美歌伴奏もしてくださり、さまざまの一般的な店が入っているビルの防音設備がなされている一室で、大きな声でピアノ伴奏とともに讃美を歌うことができたのは、主からの賜物、恵みのひとときであった。

 

 その後、静岡県清水駅前のマンションの一室である、西澤正文さん宅が集会場となっている清水聖書集会においても、み言葉を語らせていただいた。集会場としてとくに購入されたこの部屋は、駅からすぐ近くで便利なところにあり、会場からは富士山も見え、大きな声で歌を歌っても隣室にも迷惑がかからないとのことであった。この日は、「いのちの水」誌を読まれていてインターネットだけで知っていた初めての方も参加、またこの日徳島に転居する予定になっていたHさん母子や、ふだんは見えない方、また静岡の石川昌治さん宅での集会の方々も合わせて17名ほどが集り、恵みのうちに行なわれた。

 

 翌日の日曜日は、短時間であったが浜松聖書集会の礼拝に初めて参加する機会が与えられ、ともにみ言葉を聞き、久しぶりの方々とも何人か出会うときが与えられた。午後は、愛知県豊橋市で少数の方々が続けておられる豊橋聖書集会に参加し、そこでも聖書の言葉を語らせていただいた。そして、豊橋駅から集会場へと案内してくださったのは、以前から、「いのちの水」誌の前身であった「はこ舟」誌の時代から読まれているという 岩田堯兄であった。

 

 何十年も前から、静岡のある方が「はこ舟」を多く購入されて、それらを知人の方々に送付され、さらに近年は、その方の娘さんにあたる山梨の加茂昌子姉が、お母様のご意志を受け継いで「いのちの水」誌をいろいろな方々に送付を続けてくださっている。岩田さんもそうした一人であった。印刷物と、私自身が直接には知らない方が、ずっと以前から未知の方との橋渡しをしてくださっていたのを知らされた。

 

 こうして小さな冊子が長い年月にわたって人と人を結びつけてきたのは、そのなかに主がいてくださり、主がそのように用いてくださったのだと感じたことである。

 

 それぞれの立場にある者が、小さきことであっても、主のため、人のために自分でできることを続けているとき、それを主が用いてくださる。

 

 その後、三重県にわたり、以前からスカイプでの集会に部分的に参加されている方が、ある難しい問題をもっておられるとのことで、一度以前から直接にお会いしたいと思っていたので、今回初めてお会いして、数時間の交流の時間が与えられて感謝であった。

 

 その方は、以前から、教会にも行ってみたことがあるが、以前から内村鑑三の信仰のあり方を知っていて、徳島聖書キリスト集会のホームページを読まれ、そこから私に連絡をくださった。

 

 さらにその翌日、兵庫県在住で、新しい「祈りの友」の会員となっておられる方で、結核のストレプトマイシンの副作用のため、聴覚を失って音声がまったく聞こえなくなっている方を尋ねた。私はいろいろな聴覚障がい者―生まれつきのろうあ者から、中途失聴の方、また聴覚以外の障がいと他のハンディを持っている重複障がいの方々等々と、ろう教育やろう者のキリスト者の教会の方々との関わりから、多様な聴覚障がい者に接してきたので、その方と話すのも筆談と口形をはっきりさせて話すことを合わせて用いることで、手話を解しない方であっても、かなりの時間の会話も可能であった。

 

 しかし、一般的には、聴覚障がい者とは会話やかかわった経験のない方が大多数なので、聞こえないといわれるとほとんどの人は、もうそれで会話しようという気持ちを失ってしまう。実際、その方もそのような経験を語られた。所属教会の礼拝に参加しても、筆談奉仕をしてもらえず、説教の内容はわからないし、讃美歌なども手話讃美はなく、音声だけなのでまったく聞こえないから礼拝に参加しても満たされない。また足もわるくて杖をついて歩くのがやっとの状態でもあり、ラジオやテレビの内容もわからず、さらに電話もできず、介助の方々との会話も筆談もしてもらえないことも多いようで、多くの人たちがいても全くの孤独の状態におられることがわかった。

 

 私どもの徳島聖書キリスト集会では、私が聴覚障がい者の教育に携わったこと、聴力検査や、補聴器の調整を聴覚障がい者に対して、教育の場で担当したこともあり、筆談、聴覚補助のためのループ設営、手話、対面で口形をはっきりさせて語ること、集会での講話の要約を渡すこと等々、聴覚障がい者のための補助はなされているが、一般の教会や集会ではなかなかそのようなことがなされない。私自身、そのような教育にかかわることがなかったら、どうしたら聴覚障がい者に適切に対応できるのか、とても十分には分からなかっただろう。

 

 しかし、その方はそうした困難な状況だからこそ、主イエスに頼り信仰を維持してこられているのがわかった。

 

 いかに聴覚や視覚に障がいがあろうとも、主イエスだけは求める人には、あらゆる障がいを越えて近づいてきてくださる。たとえ、体の耳が聞こえずとも、主のみ声は聞き取ることができ、汝の罪赦されたりとの語りかけ、そして勇気を出せ、私は世に勝利しているとの励まし、さらには、悲しむ者は幸いだ、その人は(主によって)慰められるというようなみ言葉を、そして、重荷を負う者は、私のもとに来れ、私がその重荷を軽くし、休みを与えよう。主の平安を与える、等々と約束してくださっている。

 

 そうしたみ言葉を、個々の人の魂に直接に静かな細き声で語りかけてくださる。

 

 そのことを思い、日々主によって支えられますようにと願ったことであった。

 


リストボタンことば

(360)人が与えることを学ぶのは、他の多くのよきことと同様、訓練による。

 

 その時には、人生最大の喜びの一つとなる。(ヒルティ 眠られぬ夜のために上7月21日)

 

・何か小さきものであってもだれでも何かは他者に与えるものを持っている。そして、そのようなものがないと思われる時―病床にあるような時でも、「祈り」を他者のためにすることができる。仕事中でも歩く時でも聖書を読むとき、歩くときでも。

 


リストボタン編集だより

来信から

〇…今年の冬は1月から3月まで大雪になりました。畑は、猪に荒らされ、猿にやられ、鹿まで出てきます。野生の食い物がないのでしょうか。田畑を荒らしています。それでも懸命に努力しています。

 

 しかし、何より、大自然の背後におられる真の神に祈り求め、聖書に示された神を信じて歩ませていただいています。 これからこの地方は農作物の栽培が忙しくなります。

 

 人間のむさぼりが自然を破壊していって、野生のものを苦しめているのではと思います。しかし、春が来て、野山に生命が呼び覚まされます。椿の花が咲き、花が、鳥が歌います。自然の厳しさと生命のたくましさを感じます。(九州のAさん)

 

〇3月号の「いのちの水」誌、読んでいて ことに、心身ともに傷だらけで逃れていくダビデと運命を共にする、昨日来たばかりの外国人の寄留者や、ルツのような人のことが書かれている聖書というもののことを新たに深く思わされます。

 

 また、どうしてもイエスを見たかったザアカイのことも、それを見つめるイエスのまなざしも、真実や忠実、清さ、永遠にもつながるものがあると思え、ひとすじのもので結ばれている神さまのおこころの一部をみるように思います。

 

 ほかにもいろいろ、旧約聖書の意味の深さと力、そしてその重要さも思わされ感謝です。                   (四国の方)

 

〇…身体が弱るとこんなにも心まで弱くなるものなのでしょうか。だんだんと痛みもひどくなり、いよいよ動くことがたいへんになりました。日常動作ができなくて、介助していただくことのつらさ…何と祈ったらよいのでしょうか。…皆様からたくさん祈っていただいていることが支えです。

 

 どうかしもべのために、これからもお祈りをお願いします。…              (九州の方)

 

・私たちは若くともまた日頃健康なときに、時として病気になったり、高熱が続いてしまって眠りも十分できなくなると、心も定まらず、祈りも十分にできなくなる、他者のことも祈れなくなる、神様のこともぼんやりとしか浮んでこなくなる、痛みや苦しみに耐えるのが精一杯という状況になることがあります。

 

 それゆえに、高齢となって病気も進行し、また室内での生活も動きが十分できなくなるという状態となると、本当に苦しみや不便さ、またいつも他者に世話にならないといけないという心の重荷もあり、人生の最大の試練のときとなる方も多くおられます。

 

 それゆえにこそ、「祈りの友」の歌にあるように、「祈られ、祈る 祈りの友」ということが、そのような困難なときにその重要性が感じられます。もう祈ることができないほどの苦しい状況にあるときは、それでも祈ることができると思われる祈りは、苦難の極みにあったハンセン病の人たちや生まれつきの全盲の人たちが必死で叫んだ言葉―「主よ憐れみたまえ!」でした。(ルカ1713、マタイ9の27

 

 祈ることさえできないような苦しみのとき、そのときには、この祈りを心に叫びつつ、祈られていることのなかに身を置いて、主に身をゆだねて生きることへと導かれたいと願います。

 

〇…キリスト者となったというのは、水の洗礼をうけたことでなく、教理を理解したことでもなく、ある聖者(キリスト)を、「友」として持つようになったということである。―という内村鑑三の「一日一生」の言葉を足元の灯りとして、信仰の道を歩んでいきたいと思っています。         (中部地方 Kさん)

 

〇…毎回、「いのちの水」誌によって、聖言に立ち返らせていただき感謝です。詩篇の賛美が我がうちより、ほとばしるようになりたいと祈っているものです。(関東地方 Sさん)

 

・詩篇は、はるか 数千年も昔から、無数の人たちの魂を神に向う熱き心を生み出し、また祈りを支え、そして深い共感をもって受けいれられてきたものです。詩篇こそは、あらゆる礼拝の門でもあり、祈りの海のようなものです。

 

 それによって私たちも内なるものが熱くされ、燃える心へと導かれますよう、さらに、主イエスが言われたように、いのちの水があふれ出るようにまで導かれたいと願います。

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・私は、日々、多くのなすべきことがあり、なかなかこなしきれない状態です。以前のように、深夜過ぎてもなすべきことをこなすということが難しくなってきました。そのために、いろいろな方々から送られてくるお手紙、メール、協力費などをいただいても、返信もできないことがしばしばありますことをおゆるしください。

 


リストボタン休憩室

 

 最近の夜空 火星と木星ほか

 

 春らしくなった最近ですが、夜の星空も春の星座と、いくつかの惑星の輝きが心を惹きます。

 

 日本海側に住む方々は、冬中は雪雲がいつもあり、星を見るということもほとんどできないかと思いますが、ようやく雲も晴れることが多くなってきたと思います。

 

 夜9時ころには、南西の空高くに、木星が強く澄んだ輝きを見せていますので、だれでもただちに分かります。冬の間もずっとその心惹く輝きを見せてくれていましたが、寒い冬の空を戸外に出て味わうということは多くの人にとってあまり経験していないことと思います。しかし、そうした冷たい大気を貫いて輝くことがいっそう見る者にこの世ならぬ輝きを感じさせてくれます。

 

 東の空には、赤い強い輝きが見えていますので、これもすぐに分かります。これは火星です。木星や火星という名前は子供のときからだれでも学校で学びますが、実際の夜空で見ている人は、驚くほど少ない―学校の教員でも―というのを知らされてきました。まだ見たことのない人は、ちょうど東西の空に、はっきりと見えますのでぜひ見てほしいと思います。そして、天来の光を受け止めてほしいです。

 

 なお、火星のすぐ下方に見える白く輝く星は、春の代表的星座の一つ、乙女座の一等星スピカです。そして、東の空の高いところに橙色の強い輝きの星が、牛飼座の一等星アークトウルスです。

 

 そしてこの時刻には、南の空高くに、しし座の一等星レグルスもよく見えます。

 

 北の空には、大きな杓の形をした北斗七星が見られ、これは多くの人たちも見たことがあると思います。

 

 いずれにせよ、夜空の星は、地上で見られるものとしては最も純粋な輝きであり、それゆえに聖書でもその最後の部分で、とくに明けの明星はキリストを象徴するものとして記されているほどです。(黙示録2216

 

 そしてダンテも暗く、恐ろしい地獄の長い歩みを終えて、清めの世界に向うときの描写を星を見上げるということで終えています。

 

 …我を導く者と私は、明るい世界に帰るため、少しの休みも望まず、登り続けた。遂に、天の荷なう美しきもの(星)を見ることができた。そしてそこから私たちは、再び仰ぎ見ようと外に出た。かの星々を。(ダンテ・神曲 地獄篇の最後の部分

 


リストボタン20年の感謝

 私が、教員を退職して、神の言葉を伝えるための生活に入ってからこの4月で20年になります。

 

 この長い歳月、退職の前後から、徳島聖書キリスト集会や県外の関わりある方々から、多くの真実なお祈りをささげていただき、さらに、県内外からの祈りの込められた献金やご協力をもいただき、本当に感謝です。またそれによっていかに、福音が伝えられてほしいと願う方々が多いかも知らされました。   私が大学時代、私が属していた学部のほとんどの者が、自然科学の何らかの研究者になる方向をめざしていたなかで、それまで全く関心もなく、なりたいとも思ったこともない高校教師となる方向へと転換する決心―高校教育において福音を伝えること―をするに至らしめたのは、キリストの福音の絶大な力、二千年を経ても変ることなき永遠の真理でした。

 

 それにもかかわらず、その教員の生活を続けていくことが困難になってきたのは、だんだんと日曜日以外の家庭集会の数が増え、集会に加わる人や訪問すべき人、病気や障がいをもった方々への個人的訪問によってみ言葉を伝えるという働きが増えていったためです。

 

 そして教員を続けていくなかで、勤務が終わってからの時間―夕方から夜といった時間では訪問もできない人たちが多いこと、教員と福音伝道という二つの仕事を持って生活するということが、時間的にも体力的にも、次第に困難になってきたからでした。それと、学校の少数の生徒たちだけでなく、県内の大人のより広い年齢層の方々や、地域的にも県内外の必要なところへとみ言葉を伝える働きを…というように導かれていったのです。

 

 数年の熟慮と祈りによって、教員を退職することを決断し、20年という歳月が過ぎて行きました。この間、さまざまの試練もあり、また私自身の至らなさ―罪ゆえに、つまずかせてしまった方々もいろいろあったかと思います。そうした足りないところはすべて主によって赦していただき、主によって回復させられますようにと祈るばかりです。

 

 福音を伝えるということは、福音の真理を壊そうとする闇の力との戦いです。その戦いに、みずからの弱さ、罪によって倒れそうになったこともあります。しかし、それでもなお、多くの方々の祈りと具体的な支援の数々により、主の一方的な恵みと憐れみによって何とか今日まで歩んでこれたのだと感じています。

 

 今後とも、主のお許しあれば、祈りを深め、その祈りのなかから福音を伝えることが続けられたらと願っています。今後とも、この日本にキリストの福音が伝えられるよう、祈りをともに合わせてくだされば幸いです。