地の果てまで、すべての人が主を認め、御もとに立ち返り、
国々の民が御前にひれ伏しますように。
(詩篇2228

・2014年7月 第 641号 内容・もくじ

リストボタン愛と時間 リストボタン神を仰ぎ見る―方向転換の 重要性 リストボタン病と罪の苦しみの中から― 詩篇38
リストボタン主の平和と社会的平和 リストボタンことば ダンテ、八木重吉 リストボタン休憩室
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リストマーク愛と時間

 

 主イエスは、最も大切なことは、神を愛すること、それとともに隣人を愛することだと言われた。

 神を愛する―聖書でいう神とは、究極的な真理、正義、真実さ、また美しさ、そして力…等々すべての良きものをもっておられる方であり、しかも今も生きてはたらいておられるお方である。

 その神に―たとえわずかであっても―霊の目を注ぎ続けること。目覚めても歩いているときも、車を運転しているときも…もちろん電車などに乗っているときもである。

 愛とは時間をどれだけかけているかでわかる。

 人を愛しているかどうか、それもその人にどれだけ時間をかけているか、離れている人に対しては、何かできることを時間をかけてしているか、あるいは祈りのときに覚えているか―。

 他者のために祈る、ということも、ひと言祈っただけであとは全く思いだすこともない、ということなら、わずか数秒で足りる。1日のうちの数秒間の時間だけの愛だということになる。

 自分の子どもが深刻な病気や事故に遭遇したとか、あるいは何か重い罪を犯したとかいうときには、日夜そのことは念頭から離れないだろう。そしてその状況が改善されるようにと寝ても覚めても心を注ぎ続ける。真実な愛があればそのように多くの時間を注ぎ、心を向け続ける。

 しかし、同じような大変なことであっても、それが知人や近所の人、あるいは新聞などで知った他人のことなら、少しの間気の毒なことだと思ってもそれ以後はほとんど忘れてしまう。時間もエネルギーも費やすことはない。それはその人たちに対しては、愛がないからである。

 つねに神に心を注ぐことは言い換えると、祈りである。そしてそれは神への愛である。使徒パウロは、このことについて、繰り返し述べている。それは、具体的なこと―病気や苦しいことなどの問題の解決を願う祈りもあるが、そのようなことがあってもなくても続けるべき祈りをパウロは述べている。

 

…絶えず祈れ

        (テサロニケ 5の17)

…絶えず祈りと願いをし、どんな時でも霊(聖霊)によって祈り…       (エペソ 6の18)

 このような祈りは、何かをしていても絶えず心のある部分を神に注ぎつつすることである。祈りは、呼吸のように―という言葉があるが、それはこうした祈りを指している。

 そしてこうした神へのまなざしを持ちつつ、他者のことにも心を注ぐ―それが人を愛するということになる。

 このような祈り、それはまた聖なる霊の助けがなければできないことである。こうした世界へと神は私たちを招いておられるのである。


 リストマーク神を仰ぎ見る
   ―方向転換の重要性

 キリスト者となって、それ以前と比べて根本的ともいえる大きな変化は、神へと魂の方向を転じることを知らされたことである。

 人間や目に見えるものばかりを見ること、そして現状についていろいろと考えて批判したりすることを最もよい態度のように何となく考えていたところがあった。

 しかし、最もよいことは、そのようなことでなく、神への方向転換ということであった。そして時代や政治社会的状況によらず、永遠の真理たる神に聞くことこそ最もあるべき姿勢なのである。

 そのことは、人間にとって決定的な転機である。

 それがなかったら、知識や技術、また音楽やスポーツ、政治や会社の経営等々といったいろいろな面で多くを身につけ他者を指導することができてもなお、最も大切なものを欠いているといえよう。

 聖書はその全体が、神を仰ぎ見る、ということについて書いてあると言える。

 その巻頭にある言葉、闇と混沌、空虚や荒廃のただなかに、神からの風(神の霊)が吹き、光あれとの神の言葉によって光が存在したということも、この世のただなかに、神を仰ぐときには、神からの力ある風、清い風―聖なる霊が注がれているのが分るようになり、また闇のただなかにあっても神のご意志による光が存在しているのを実感できるのを指し示している。

 もし、神を仰ぎ見ることをしないなら、この世はいつまでたっても闇と混沌、空虚や荒廃が続くことしか見えない。

 聖書ははじめから終りまで、この聖書の最初の記述がさまざまの表現で記されているということができる。

 この世では、良心的な学者、指導者、政治家であっても、せいぜい、この世をしっかりと見つめ、真理に基づいて考え、行動することを説くだけである。しかし、この世というのは、鋭く見つめれば見つめるほど、表面的な平和や日々の生活の内にあっても、さまざまの混乱や不和、欲望のぶつかり合い、自分中心の考えや行動、金や権力への欲望などなどが渦巻いているのが分かってくる。

 それらをいかに鋭く見つめたからといって、それによって力は与えられないし、魂の平安はない。むしろこの世の実態を知れば知るほど、その底知れない闇に力を失ってしまうことが多いだろう。 

 それは、病気などで近いうちに死ぬことが確実になっているような場合や、自分や家族の深刻な問題が生じて生きていたくないような苦しい状況にある人に、この世の社会や政治状況のこまかな分析や現状を知らせてもまったく力や平安、希望を与えることはできないことを考えても分る。極限状況に追い詰められた人ほど、この世の真の存在からの語りかけやその光を見ることなしには、平安も希望もない。

 主を仰ぎ見る―そのことは、そうしたぎりぎりの困難や苦しみにおいていっそうその真の重要性が浮かびあがってくる。

 ここでは、この重要なことにおいて、聖書ではどのように記されているか、聖書全体がこのテーマで満ちているのであるが、そのいくつかを見てみたい。

 私がこのことについて最初に強い印象を受けたのは、今から 39年前(1975年)、徳島県小松島市にて無教会のキリスト教四国集会(*)が行なわれたとき、高知県の聖書講話の担当者(北添清美(せいみ)氏―男性)が、「大祭司なるイエスを思い見よ!」(ヘブル3の1)と力強く語られたことである。 

*)その前年に高知の無教会集会の記念集会ということで、高知の集会の人が、愛媛、香川、徳島から2,3人を招いて特別集会をした。それは一回きりのつもりだったが、それがよかったので、今後は、四国四県が持ち回りで担当することになり、無教会のキリスト教四国集会が始められた。そして最初に徳島が担当となった。 

 その時用いていた口語訳聖書で、「思い見る」と訳された原語は、カタノエオー katanoew *)である。 

*)これは、カタ kata(接頭語)と、ノエオーという言葉から成っている。kata は、いろいろな意味を持つが、ここでは、「強調」のニュアンスを持つ。後者は、ヌース という言葉に由来する。ヌースとは、「理性、知性、熟慮、英知、洞察」などと訳される言葉で、ギリシャ哲学では、重要な言葉である。なお、英語訳では、mind と訳されているのが多い。この英語は、日本語では、精神とか意志、考え、理性といった意味を持つ。心という意味で使われることもあるが、本来理性的な心の働きである。 

 新共同訳では、「イエスのことを考えなさい」と訳されているが、日本語の「考える」という意味とも部分的に一致しているが、より広い意味がある。

 この言葉は、(理性的に、考えつつ)「見る」「見抜く、見破る」という意味も持っている。(傍線部分) 

・イエスはそのたくらみを見抜いて彼らに言われた。

          (ルカ20の23)

・その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようだ。               (ヤコブ1の23)

 私たちが主イエスを仰ぎ見るとき、それは理性的な目で見つめるのである。それは、万物の創造者であり、あがない主であり、また支えておられるお方として見る。今も聖霊として私たちの一人一人の内に、また集りの内に生きて働いておられる。

 そのイエスを仰ぎ見る、理性的に見つめるとは、弱者を顧みてくださるお方として、完全な愛のお方として、世の中がいかに不条理なことがあろうとも、私たちのわからないところで愛をもって導いてくださっているお方であると信じつつ見ることである。

 主イエスは、最も深い英知をもってすべてを見つめておられた方であった。その洞察は、時間を越えていたし、空間をも越えていたゆえに、未来のユダヤの滅びをもありありと洞察できた。またサマリヤの一人の女性の過去に犯してきた罪をも、洞察することができた。

 空の鳥や野の花に対しても、その背後の神の守りの御手を見ることができたのであった。

 私たちが最も洞察を深めることができるのは、私たちの心にキリストに住んでいただくとき―言い換えると、キリストの本質である神の愛を受けるときである。そしてその愛はすべてに勝つ。(* 

 *Amor omnia vincit.(アモル オムニィア ウィンキィト―これはラテン語で、「愛はすべてに勝利する」) この言葉は、ローマの大詩人ウェルギリウスの(BC.70-19)『牧歌』という作品にあり、これがもとの作品の意味を越えて、キリスト教において用いられるときには、「神の愛は、すべてにうち勝つ」という意味となり、ヒルティは墓碑銘にこの言葉を刻んでいる。 

 キリストは神と等しき存在であり、その本質は愛であるゆえ、「キリストはすべてにうち勝つ」ということもできる。そしてこのことを、主イエスは、最後の夕食のときの長い教えの終りに次のように言われたのである。「私は世に勝利している」(ヨハネ16の33) 

 「大祭司たるイエスを思い見よ」と訳されている言葉は、よく考えつつ、見るという意味を持っている。

 そのことは、主イエスが、空の鳥を見よ、といわれた箇所を、ルカとマタイの福音書の言葉を比較するとわかる。 

・烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず…         (ルカ12の24)

・空の鳥をよく見なさい。                (マタイ6の26)

 ルカ福音書では、カタノエオーが用いられ、鳥のことを「よく考えてみよ」と訳され、他方マタイ福音書では、「じっと見入る、凝視する」という意味の動詞、エムブレポーを用いている。

 双方ともに、表面的に見たり、感情的に見たりしないで、理性的に見る、という意味になる。 

  このカタノエオーという語は、次のように「よく見る」とも訳されている。

・モーセが、燃える灌木に接し、それをよく見ようとして近寄ったとき (使徒7の31)

 このようにみてくると、ヘブル書で「イエスのことを思い見よ!」という口語訳のほうが、これら二つの意味を重ねて表そうとしているのがわかる。主イエスを、理性的に冷静な心の目で見つめよ!という意味になる。

 しかし、人間を見るときには、そのように冷静に見ないで、先入観や感情的に見てしまうことが実に多い。

 私たちは、人間を見る。人間の外見や経歴、業績、あるいは生まれ、その考え方、さらにどんな家に住んでいるか、どのような車に乗っているか等々。

 しかし聖書は神を仰ぎ見ることを一貫して述べている書である。神がおられるのであるから、当然そうなる。神は万物の創造者、また愛と真実なお方であり、今もはたらいておられるお方であるから、最終的には、御心に沿った望みをかなえてくださる。 人間は本質的に美しい者、力あるもの、真実なものを求める。だれが、嘘つきを好んで友人にするであろうか。汚れた空気、排煙やほこりなどの汚れた部屋で住みたいと思う人はいない。それは、清いもの、健やかにするものを求めているからである。また、憎まれ、差別されることを好むものはいない。だれもが愛されること、大切にされることを求めているからである。

 それにもかかわらず、人間は、そのわかっている道を歩むことができない。神を仰ぎ、キリストを仰ぐことができない。

 漢字(本来は中国語)では、信仰という言葉そのものが、信じて仰ぐ、ということで私たちは信仰という言葉を思いだすたびに、信じて仰ぐことへと促されていることになる。
 

 私たちは神を仰ぐのを常に目標とする。しかし、神が見えなくなることがある。苦難の連続とかどうしても難しい問題が解決できずに絶望的になっていくときは、神を仰ぐこともできない。

 そのようなときでも、自然を見つめることでふたたびその背後の創造者である神を仰ぐことへと導かれることがある。

 神を信じない人でも、自然の崇高さや美、力、またその清い姿に心惹かれ、自然を見つめようとする人は多い。その人たちは本人が知らない内に、その自然の創造者たる神を見つめようとしているのである。神の力に引き寄せられているのである。

 次の有名な詩においても、まず詩の作者は、「神を仰ぐ」と言わないで、「山々を仰ぐ」と言っている。山々の揺るがない存在、その清い高さ、山の持つ崇高な雰囲気に触発されて、その山々を創造した神を仰ぐことへと導かれる。

 山々でなくとも、澄んだ青空、真っ白い雲、夜の星、夕空や早朝の美しい空など、また草木の姿、花々の美しさ等々、私たちの心を引き寄せ、そこから創造者を仰ぎ見ることへと導かれる。 

…目をあげて山々を仰ぐ。

わが助けはどこから来るか。

天地を造られた主から来る。

主はあなたを守る方、あなたを覆う陰。あなたの右にいます方。

何者もあなたを撃つことなきように、守ってくださる。

主は、すべての災いを退け、

あなたを見守り

その魂を守ってくださる。

           (詩篇121より)

 このように、自然は、私たちが神に心を向ける助けとなってくれる。身近な野草や草花、また樹木のたたずまい、日々の変化や季節によって全くことなる姿を現す自然そのものが、私たちを神への方向転換をうながしているものである。

 ことに夜空の星は、心静めて見つめる人にとっては最も深い意味での神への方向転換へと導く存在となってきた。

 金星の強い輝きが、夜明けに見えるときには、明けの明星といわれるが、それが、ふたたび現れるキリストへと心を強く向けるものであったのは、聖書の最後の黙示録に記されていることからも分る。

 神への方向転換は、聖書のさまざまの箇所で記されているが、預言書はとくにそのことがはっきりと示されている。それは預言者とは、民全体に対して、この世のもの、人間や偶像にとらわれている状態から神への方向転換を命がけで語る使命を与えられていたからである。

 ここでは、次のイザヤ書の言葉をあげる。 

…地の果てのすべての人々よ、

私を仰ぎのぞめ(*)、

そうすれば救われる。

              (イザヤ書4522

 *)「仰ぎのぞむ」この原語(ヘブル語)は、 パーナー 。このギリシャ語訳は、エピストレフォー である。

いずれも、「(方向を)転換する、turn 」という意味がもとにある。

 それゆえ、このパーナーは、次のように用いられている。

…アロンがイスラエル人の全会衆に告げたとき、彼らは荒野のほうに振り向いた。見よ。主の栄光が雲の中に現れた。 (出エジプト記16の10 新改訳)

…荒馬のひづめの音、 戦車の響き、車輪の騒音のため、 父たちは気力を失って、子らを顧みない。 (エレミヤ書 473)

 …parents do not turn back for children, so feeble are their hands, (NRS) 

 このように、このパーナーという言葉は、振り返る、方向を転じるという意味でもちいられている。

 また、このヘブル語のギリシャ語訳では、エピストレフォーという言葉が使われているが、このエピストレフォーは、次のように用いられている。

・もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来る。 (マタイ10の13)

・そこで、『出て来た自分の家に帰ろう』と言って、戻ると 家はあいていて、 (マタイ12の44) 

 このイザヤ書におけるメッセージは、単に日常生活でほかのものに気を取られつつ、時々神を仰ぐということでなく、私たちの存在そのものが、神の方向に向き直ることを意味している。「あなた方は、この世のものばかりを見ている。 そうでなく、私の方に、方向転換せよ」ということである。

 人間の言葉はたえず変る。人間の評価、批判等々も同様である。

 しかし、神の言葉は変わらない。それゆえに、人や人の言葉でなく、神、神の言葉へと方向転換せよ、ということなのである。

 このことは、現在の私たちにもつねにあてはまる。キリスト者であっても、有名な人物かつて影響力を持っていた人(*)に方向転換することはあっても、それらの人々の働きを支えた神とキリストのことがおろそかになっていると思われることがしばしばである。 

*)例えば、無教会では、内村鑑三や矢内原忠雄等々、○○先生と言われる人物がキリスト以上に頻繁に言及されることがある。そのような人たちの生きざまや教えにも、もちろん私たちはいろいろと学ぶところがある。しかし、それらの人物に絶えず心を向けるのでは、「人間への方向転換」にとどまってしまう。私たちが本当に永続的な力や真理に立つ独自の判断を与えられたいと願うならば、それらの人たちに力を与えその大きな働きをなさしめた神とキリストにこそ、私たちは方向転換すべきであり、それが聖書が力を込めて私たちに語りかけていることなのである。

 そして、そのような人物の名前をしばしば出したところで、一般の日本人にとっては何者か知らないという人が大多数を占めているのであって、聞いたこともない名前の人を出したところで何らよきものを伝えることにはならない。

 キリスト者としては、そのような過去の人物が何を語ったかより以上に、聖書はどう言っているのかを読み取り、生けるキリスト、あるいは聖霊が何を私たちに語りかけているのかを聞き取ることこそが重要である。「聖霊があなた方にすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14の26)といわれている通りである。 

 神を見つめるときに、人間の差など実に小さいものとなる。年長か年下か、それとも学歴の有無、健康と病気、障がい者と健常者、地位があるかないか、ノーベル賞学者とか無学な者、金メダリストとスポーツができない人、きれいな人そうでない人等々の区別はすべて消えていく。

 無限大の力や美、清い本質などを見つめるときには、人間の持っているものはどこまでも小さくなる。人間の差が大きく見えるのは、神を見つめていないからである。 

 パスカルは数学者らしい表現を用いてのべている。

…有限は無限の前では消え失せ、純粋な無となる。

 私たちの精神も、神の前では同様であり、私たちの正義もまた、同様である。

             (パンセ 233)

 このことを知っているときには、決して人間賛美や、人間崇拝には陥らない。人間の持つ愛や正義は、神の無限の愛や正義の深さ、高さを知れば知るほど無に等しいものとなる。

 これは、意見とか解釈といった問題でなく、無限大の存在の前には、有限はいかに大きいと思われているものもみなパスカルの言うように限りなく小さく、無になるからである。

 偉大な人間と言われている人でも、彼等が大いなる働きができたのは、その人の内に住んでおられる神と、キリストの力によるのであって、 彼等を見れば見るほど、彼等を動かした内なる神―キリストが浮かびあがってくる。

 ヘブル書の著者が、神にうながされ、上よりの啓示を受けて、「大祭司なるキリストを仰ぎ見よ!」と言ったのは、こうしたことを知っていたからである。

 主を仰ぎ見る、ということは、旧約聖書から一貫して随所に記されている。聖書全体がそのことを告げ続けている書だからである。

 これに対して、ほかの書は、文学などは人間を描いているし、人間のさまざまの罪を次々と表して読む人の興味関心を引こうとする。実用的な本は、やはり人間の生活を便利にするとか健康、あるいは生活上役だつ知識を提供するにとどまり、そうした生活を根底で支える神の存在やその愛などを知らせようとすることはまったくない。

 学問的な書であっても、例えば科学書のように、何らかの法則を示し、そこから導き出される人間の考察や判断の知的な体系であるにとどまって、その背後にある神の存在を指摘することはない。 それどころか、そうした学問の限界を知らずに、科学的に考えると神などいないといった浅薄な考えすら多く見られる。 

 神を仰ぎ望むというのは聖書全体を貫く内容であるゆえ、ほとんどどこを開いても、私たちに神への方向転換を語りかけている。

 それは、詩篇において最も強く表されている。 

…主を仰ぎ見る人は、輝く。              (詩篇34の6)

 この言葉は、「主を仰ぎ見よ。そして輝け。」のように命令形にも訳される。

 これは、神を仰ぎ見る人は、そこに命の泉があり、慈しみが満ちているのを実感する。この世の不信実のただなかにおいて、天に神の慈しみが満ち、大空には、神の真実が満ちているのを、神によって知らされるということである。 

…主よ。あなたの慈しみは天にあり、 あなたの真実は大空に満ちている。 (詩篇36の6) 

 ここで言われている天も大空も人間をまったく超えたところ、清められた場所のことであり、それは現代の私たちにおいては、神のおられるところにほかならない。

 神のおられるところには、いつの時代においても、慈しみは満ち、また真実も満ちている。

 そのことを示されるのが、神を仰ぎ見ること―神への方向転換によってなのである。

 全身を激痛と苦しみが襲っているとき、その死に瀕した状況のなかで主を仰ぎ見た人がいた。

それは、十字架でイエスのとなりにおいて共に釘付けにされていた重罪人である。そして、「あなたが御国へいかれるとき、私を思いだしてください」と、その苦しみのなかからイエスに願った。するとイエスは、「あなたは今日、パラダイスにいるのだ」と言われた。

 その後の使徒たちの時代において、ステパノも同様であった。石を群衆から投げつけられ、死に瀕しているとき彼は主を仰ぎ見た。それによって神とキリストがありありと見えた。そのキリストを見る恵みを与えられて、周囲の人々への祈りを捧げて息を引き取っていった。

 主を仰ぎ見るということ、それは、日常の自然の風物に触れてゆったりした気持ちでもできることであり、また礼拝のときに共同体としてそこにいます主を見つめることもいつもなされていることである。そして一人での祈りのときにも、歩いているときにも、孤独や病気の苦しみのときにも主を仰ぎ見ることはできる。

 1日の大部分をこの世のこと、移り行くものに心を向けていて、1週間に一度あるいは、時折に、神を思いだす―これも小さな方向転換である。

 しかし、そのような誰にでもできるささやかな方向転換から、一日のすべてを神に魂を向けたまま―神をいつも目の前に置いた状態で生きていくところまで導かれる人もいる。

 さらに、命がけですべてを捨てることにつながった方向転換をして召されていった人たちもいる。

 聖書に記されている、キリストやステパノ、そしてそれ以後の数々の殉教者たちは、主のためにすべてを捨て、私たちには到底想像のできない苦しみのただ中において、全身全霊をもって魂を神へと方向転換をなし、主を仰ぎみて、この世を去っていった。

 十字架上でイエスと共に処刑された重罪人も死の直前にイエスへと魂の方向転換をなすことができた。

 そうしたことは、主を仰ぎ見るということがいかに深く幅の広い世界であるかということを示している。

 新約聖書で重要な言葉である「悔い改め」、これは、日本語としては、「過去のあやまちを反省して、心を入れかえる。」(大辞林)のように説明されている。

 これは、あくまで、過去の特定の過ちを思い、それを反省して自分で自分の心を入れ換えようとすることである。

 しかし、キリストが言われた「悔い改め」とは、そのような個々の罪とか過去の具体的な過ちを思って反省するといったことではない。

 「立ち返る」とも言われるが、それもまた、それに相当する旧約聖書の言葉でとくに重要なのは、シューブ で、これも 方向を転じる(turn)ということである。

 主イエスは福音伝道の最初のとき、方向転換の深い世界を指し示されたゆえに次のように語られたのであった。ここで言われている「悔い改める」という原語は、メタノエオーであり、これは やはり、理性的方向転換を意味している。 

…悔い改めよ。(*)天の国は近づいた。(マタイ4の17)  

 *)原語は、メタノエオー。メタは、ここでは、変更、変化、反対といった意味を持つ接頭語。ノエオーは 初めに述べた「思い見る」カタ−ノエオーに含まれていたように、理性という語に由来。

 この主イエスの言葉は、魂全体の方向転換を意味しているのであって、日本語のように、何かの過ちを反省して心を入れ換えるというのではない。

 信仰を与えられるということは、魂の方向転換そのものであり、それまで見つめたこともない神、あるいはキリスト、十字架といったものへ、魂が方向転換することなのである。

 そしてそのとき、神が生きて御支配をなさっていることに目覚め、それは愛の導きであり、正義の御支配であることをも知らされる。

 罪の力を除き、清めるような正義の御支配であることを知らされる。


リストマーク病と罪の苦しみの中から
      
―詩篇38篇
 

 旧約聖書の詩篇は、さまざまの状況のなかで作られた詩が収録されている。それは、神の永遠の支配―正義の支配や、天地に響く音や太陽への賛美、さらに神の言葉からくる祝福、あるいは、神による救い―罪の赦しがなされたときの深い平安、すべての被造物が神を賛美することを啓示によって知らされた内容等々。

 この詩篇38篇は、恐ろしい病気と心の問題―罪による苦しみのために、耐えがたい状況に陥っていたのがうかがえる。

 そしてこの病気とは、この記述からハンセン病だと推定されている。 

 …主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください。

 あなたの矢はわたしを射抜き  御手はわたしを押さえつけている。

 わたしの肉にはまともなところもない。

 あなたが激しく憤られたからだ。骨にも安らぎがない。

        (詩篇38の2〜4より)

 自分が受けている耐えがたい苦しみを、旧約聖書の人たちは神の怒りとして受けとっていた。そしてその神の怒りが生じた理由として、詩の作者は自らの罪だとして感じていた。

 

…わたしが過ちを犯したからだ。

わたしの罪悪は頭を越えるほどになり

耐え難い重荷となっている。

負わされた傷は膿んで悪臭を放つ

わたしが愚かな行いをしたからだ。(4〜6節)

 

 この詩はすべて一人称で書かれてあり、「私」の個人的な苦しみの詩である。最初から最後まで主に対して叫んでいる。困難の中でも、神などいないとは思わず、一貫して神に救いを求め続けている。

 この詩を書いた人の苦しみの根源は何かというと、4,5節にあるように、自分の犯した罪であり、また4、6、11、12節に記されているように、重い病気(ハンセン病)によるものもある。

 このように「罪」と「病気」の両方があり、また最後のほうには具体的に敵対する人がいるとも書かれている。この世の中には「罪の苦しみ」「病気による苦しみ」「人間関係における苦しみ」があるが、この作者はこれらすべてによって苦しみ、うめいている状況が記されている。

 犯した罪が耐え難い重荷になる。極端な例を言うと、飲酒運転をして事故を起こし、刑務所に入ることになり、勤めていた会社も辞めさせられる。また相手がいれば、相手の家族を破壊することになり、自分の家庭も家族がばらばらになってしまい、取り返しがつかなくなる。

 この詩の冒頭に、「主よ、怒って私を責めないでください」と書かれている。これは、神の道に反したことをこの詩の作者は犯してしまい、自分がいま経験している数々の苦しみは、その罰としてくだされたのだと実感している。そしてそれを神の怒りとして感じているのである。

 具体的に、この作者がどのような罪を犯したかは書かれていないが、「私は過ちを犯した、私の罪は耐えがたい重荷となっている。愚かな行いをした」(4〜6節)とある。

 人間は愚かだから、こんなことしないと思っていても、時と場合によっては、つい言ってはいけないことを言ってしまったり、してはいけないことをしたりする。

 

… わたしは身を屈め、深くうなだれ

一日中、嘆きつつ歩く。

 腰はただれに覆われている。

わたしの肉にはまともなところもない。

 もう立てないほど打ち砕かれ

心は呻き、うなり声をあげるだけ。

 わたしの主よ、わたしの願いはすべて御前にあり

嘆きもあなたには隠されていない。

 心は動転し、力はわたしを見捨て

目の光もまた、去った。

 疫病にかかったわたしを

愛する者も友も避けて立ち

わたしに近い者も、遠く離れて立つ。         (7〜12節)

 

 ここには、詩篇全体でもほかにあまり見られないほどに病気の苦しみがまざまざと描写されている。

罰として病気が自分を襲ったとこの詩の作者は受け取っている。立てないほどに苦しい極限状況におかれていても、神はその状況をも知ってくださっている。自分が罰せられていることもこの詩人は分かっている。

 しかし、自分の願いや祈りは神の前にあり、すべて知ってくださっているという気持ちがこの人を支えていた。

 かつての友までも自分を見捨てた。病気にかかったり、社会的に失敗した人間だとされるような状態になれば、確かにかつての友も避けるようになるということはある。また命を狙うものさえもいた。内にも外にも追い詰められていた。しかしなお、神を待ち望み、全身の力を込めて神に訴え、祈り続けることをやめない。

 この詩のメインテーマは、苦しいことがいろいろな形で襲い掛かってくる。しかし、そのような耐えがたい状況であっても、それでもなお神を待ち望むのか、祈り続けるのかということである。この詩は今から2500年〜3000年前も昔のものであろうが、現代の私たちにもこのような姿勢をもち続けているのかどうかが問われている。
 

…わたしの命をねらう者は罠を仕掛ける。

わたしに災いを望む者は、 欺こう、破滅させよう、と決めて

一日中それを口にしている。

 わたしは、口に抗議する力もない者となった。

 主よ、わたしはなお、あなたを待ち望む。

わが主、わが神、

 御自身でわたしに答えてください。

 わたしは今や、倒れそうになっている。

 苦痛を与えるものが常にわたしの前にあり

 わたしは自分の罪悪を言い表そうとして

犯した過ちのゆえに苦しんでいる。

 わたしの敵は強大になり  わたしを憎む者らは偽りを重ね

 善意に悪意をもってこたえる。

 わたしは彼らの幸いを願うのに  彼らは敵対する。

 主よ、わたしを見捨てないでください。

 わたしの神よ、遠く離れないでください。

 わたしの救い、わたしの主よ  すぐにわたしを助けてください。     1323節より) 

 病気と罪ゆえの苦しみにさらにこの作者を苦しめているのは、敵対する人が自分を攻撃してきているためである。

善意をもってしても、悪意で返してくる。 

 私たちが将来どんなことが起ころうとも、この詩は私たちから遠くなるのではなく、より近く感じるようになるであろう。激しい苦しみにあったことのない人は、この詩はあまり実感がわかないだろうが、苦しい経験をすればするほど、この詩の心の世界と神との関係がますます近く感じることができる―そのような詩である。


リストマーク主の平和と社会的平和 

 今日、憲法9条の平和憲法が変えられようとする状況にあって、一般的にはほとんど知られていない「主の平和」とは何か、それと平和憲法などというときの社会的平和との違いとその関わりを考えてみたい。

 旧約聖書の時代では、神ご自身がイスラエルの民に、武器をとる戦いを命じたということがしばしば見られた。そしてそうした記事によって、キリスト教は戦争をしてきたという主張は、一般の人たちからしばしば言われてきた。キリスト者であっても、そうした旧約聖書の一部(とくにヨシュア記や士師記、サムエル記の一部など)に見られる記述のゆえに、旧約聖書を古いものだとしてその深い内容から学ぼうとしない人も多い。

 しかし、旧約聖書においても、社会的平和への強い願いは多く記されている。

 

…わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。

戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。

彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。

         (ゼカリヤ書 9の10)

 ゼカリヤとは、今から2500年ほども昔の預言者である。そのようなはるかな昔においてすでに、武力は断たれ、最終的にメシアの愛と正義による支配は世界に及ぶという壮大な預言がなされている。(ここで、「わたし」 とは「神」あるいは「メシア」、「彼」とは、メシアを指す) 

…わたしの戒めに耳を傾けるなら、あなたの平和は川(*)のように、恵みは海の波のようになる。(イザヤ48の18) 

*)数ある日本語訳のうち、新共同訳だけが「大河」と訳しているが、原語は、ナーハールであり、一般の川、小川(river stream)を意味する。それゆえ口語訳、新改訳、カトリック教会のバルバロ訳、フランシスコ会聖書研究所訳などすべて「川」と訳し、関根正雄訳だけ「流れ」と訳している。英訳はほとんどが river だが、 gentle river と訳しているのもある。(NLT 

 この言葉は、一見意外なたとえである。一般の日本語では、平和が川のように などと言われることはまずない。ここで平和と訳された原語は、シャーロームであり、これは本来は、満たす、完成するという意味をもっている。(* 

*)ソロモンは神殿を完成した。(列王記上9の25)ここでは、完成するという原語は、シャーラム、これはシャーロームの動詞形である。 

 それゆえ、日本語では大部分の箇所が「平和」もしくは「平安」と訳されているが、ときには、繁栄とか幸いとか訳されることもある。

 それが、川のように流れてくる、尽きることなく与えられるということである。神による平和とは、確かにこのように、神の国から流れて人々の心に注がれ、そこから周囲にも流れだしていくものである。

 このようなあふれ流れるような平和を預言しているほど、預言者は豊かな平和の世界を啓示されていたのがわかる。

 そしてこの深い平和は、当然、平和を与える神に聞き従うところに与えられるゆえに、つぎのように言われている。 

…神に逆らう者に平和はない、と主は言われる。

           (イザヤ48の22)

 旧約聖書にはほかにも多くの箇所で、大いなる平和、世界に及ぶ平和というのがさまざまの表現でなされている。そして新約聖書における平和はこうした預言の延長上にあり、キリストこそがその究極的な実現をされるお方であることを示している。

 主イエスご自身の言葉として、ヨハネによる福音書で記されているのが、この世の平和でなく、「主の平和」である。

 主の平和―それは私自身も、聖書の内容、キリストの言葉を深く知るようになるまで考えたこともなかった。学校教育でも新聞やテレビ、雑誌等々でもまったく語られないことである。

 他方、ひとたび聖書―新約聖書を開くときには、平和という言葉は、多くもちいられている。(* 

*)「平和」も「平安」も、もとになっているギリシャ語は、エイレーネー であり、この原語は、新約聖書では92回使われていて、そのほとんどが、このいずれかの訳語に訳されている。これらの訳語の選びわけは、翻訳担当者たちの聖書解釈や、日本語に関する感覚、受け止め方による。

 新共同訳では、すべて「平和」と訳した。新改訳では、「平安」という訳語では40回、「平和」という訳語で41回、口語訳では、平安→36回、平和→40回用いられている。 

 これらの平和、平安という言葉は、今日平和憲法という言葉に見られるように、国家や民族間での戦争がない状態―という意味で用いられていると考えられるのはごく少ない。人間同士の争いのないという意味では次のように用いられている。

…すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。(ヘブル書12の14)

…できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。(ローマ12の18) 

 しかし、こうした人間同士の平和ということが望ましいことであるのは、何もキリストが言われなくとも、聖書で教えなくとも、ほかの宗教でも、また無宗教の人でも子どもでも誰でもが分ることである。そのような常識的なことに聖書は重点を置いているのではない。

 聖書で強調されている平和は、こうした人間のちょっとした考えや思いで実現できることとは大きくことなるものなのである。

 それは、次の聖書の言葉に見られるように、聖霊によって与えられるものなのである。 

…神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。

           (ローマ14の17)

…これに対して、霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和…  (ガラテヤ書5の22) 

 このように、キリスト教信仰によって与えられる平和、平安とは、憲法や法律、あるいは政治家の動向によっては与えられないものであるから、隣国の状況や、自国の経済や生活習慣、人々の考え方の変化、科学技術の進展など、さまざまの社会的状況などによって与えられるものでないし、逆にそれらがいかように変化しても、なお与えられるものなのである。

 それゆえに、福音なのである。福音とは中国語の訳語で、原語では、「よき知らせ」というのが原意であり(*)、キリストの十字架の死によって罪赦され、さらに復活したキリストは聖霊としても現れて、私たちのうちにとどまり、平安(平和)を生み出してくださるようになった。 

*)ユーアンゲリオン(euaggelion)で、eu ユー  は 「良い」、アンゲリオンは、アンゲロー(知らせる)に由来する。英語でのgospel は、もとは、good spell で、後者のspellは現在では綴りという意味で使っているが、もとは、物語、メッセージ、といった意味があった。それゆえ、gospel という言葉も よき知らせ というのが本来の意味であったと考えられる。 

 パウロの書簡にはその書き出しには、ほとんどいつも、神とキリストからの「恵みと平和があるように」との祈りがある。

 これは、決して単なる挨拶ではない。ここに、パウロが伝えようとした福音のエッセンスが込められている。恵みとはいろいろな神からの良きものを含むが、その根源にあるのがキリストの十字架での死による罪のあがない、赦しが与えられたことである。そして平和とは、それによって私たちに与えられる魂の平安のことであり、復活のキリストと同じである聖霊が私たちに与えられる祝福を意味している。

 このようなキリストによる平和を、ヨハネによる福音書ではとくに強く指し示している。キリストが地上での最後の夕食のときに弟子たちに語ったとして伝えられた内容には、この主の平和(平安)は、中心的内容を持っている。

…父は、別の助け主(*)を遣わし、永遠にあなた方とともにいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。

…助け主、すなわち父が私の名によって遣わされる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。

 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。

 心を騒がせるな。おびえるな。

『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。(ヨハネによる福音書26〜28より) 

*)原語は、パラクレートス paraklhtospara は、「そば」、クレートス klhtos は、呼ぶ (カレオー kalew)に由来し、クレートス となると受動的な意味を持つようになるので(例えば、キリストの原語である クリーストスは、クリーオー 油注ぐの受動的意味となり、「油注がれた者」の意になる)、原意は、そばに呼ばれた者。 そこから、弁護や励まし、慰めのために呼ばれた者、あるいは、そばで励まし、慰める者といった意味ともなり、そこから「助け主」とも訳される。さらに、罪なきようにと弁護する働きを持つので、弁護者(新共同訳)とも訳される。 

 ここで、与えられる平和とは、主イエスご自身の平和であり、人間が会議や努力で獲得できる争いのない状態としての平和ではない。そしてこの言葉の前後に、慰め、励ます存在である聖霊が与えられることが記されている。

 聖霊が注がれるということは、そのまま主の平和(平安)が与えられることである。

 主イエスは、聖霊が永遠に弟子たちとともにいるようになると予告し、さらに私の平和を与える、また私はふたたびあなた方のところに帰ってくる―とさまざまの表現を用いて語られているが、それらはみな同様の意味を持っている。

 聖霊を与えられることは、主の平和を与えられることであり、それは復活のキリストが共にいるようにしてくださることなのである。

 社会的平和は、日本には戦後70年ほども続いている。どこの国とも戦争を始めたこともなく、武力で他国の人たちを殺害したこともない。しかし、そこに住む日本人の心の内には、主の平和―神が持っているといえるような清い平和、あるいは、いかなることにも揺るがないような平和(平安)はどれほどあるだろうか。

 子どもの世界からいじめや差別はずっと続いており、暴力を振るったりして教師の手に負えない生徒たちも多くいる。数年前の統計では、小中高校での、校内暴力件数は、6万件前後あり、いじめも7万件ほどもある。(2012年9月文科省初等中等教育局発表)また、性に関する考え方があるべき姿から遠く離れつつあり、そこから快楽のために妊娠し、人工妊娠中絶という一種の殺人を行なうような人たちも年間数十万人もいる。

 その他のさまざまの不正な事件、暴力その他の問題は、戦争をしなくとも、存在し続けてきた。

 それは社会的平和がいくら続いても、人間の心の中に宿る罪深い本性は変えられないからである。

 それゆえに、聖書では、旧約聖書の時代から一貫して人間の魂の根本を変えるためには、魂の神への方向転換がなされ、そこから神の祝福の力が注がれることによって、そうしたこの世の罪の力にうち勝つことが言われてきた。

 新約聖書になってそのことはさらに明確になった。

 私たちの内に、キリストが住んでくださらなければ、よき実を結ぶことができない。

(ヨハネによる福音書15の4〜5)

 主の平和を豊かに与えられた魂は、他者を憎むこともしなくなる。主イエスが敵を愛し、そのために祈れといわれたが、主の平和を聖霊によって与えられた者はこのような精神的境地へと導かれる。

 しかし、社会的平和―戦争をいくらしていない状態であっても、だからといってこうした清い心、敵対する者のためにも祈る心は生まれない。それは私たち自身の心を顧みても、また一般社会をみてもすぐにわかることである。

 それゆえに、主イエスも使徒たちも、社会的平和を強調せず、主の平和を命がけで伝えたのであった。

 そして、主の平和がどんな状況においても切実に求めるときには与えられるという約束があるが、社会的平和はいかに求めても与えられるとはかぎらないということも事実である。

 それは、ちょうど、体の健康がどんなに求めても病気になることもあるが、魂の平和は真実に求めるときには必ず与えられるのと同様である。

 私たちも、主イエスがまず神の国と神の義を求めよと言われたように、まず、主の平和を求め、与えられることを願う。それが与えられるなら自然と社会的平和への関心も生じるのであって、その逆ではないからである。

 そして社会的平和がある社会であっても、魂の平安は与えられるとは限らないが、主の平和を深く与えられた魂は、主イエスや最初の殉教者ステファノののように、敵対する者たちのただなかにあっても、敵を憎むことも力で報復することもせず、彼等のために祈ることが示されている。

 そうした祈りこそが、この世界における真の平和の基となる。 

 

まちがった方向転換 

 今月号で、聖書においては、神への方向転換がいかに重要なことであるかを、聖書の箇所を用いて説明した。

 日本においては、戦後の憲法に関する問題で最大の重要な方向転換がなされることになった。

 わが国は、長い間、戦争には加わらないとしてきた憲法9条の精神を受けて、日本は他国の戦争に直接加わることがなく、日本の武力で他の国の人を殺すといったことが一度もなかった。

 その憲法9条を確認しておきたい。

 

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 

 このような高い理想を示した憲法は、国を守るためとしてなされてきた軍備拡張がいかに悲惨な結果を招くか、中国だけでも1千万以上の人々を殺害し、また負傷したり障がい者となってしまったり、家族離散してしまった人たちをいえば数限りない被害を与え、かつわが国も三百万人ほども犠牲者を出し、原爆を二カ所に投下され、また東京大空襲や各地の空襲、沖縄戦の悲劇等々―日本とその周辺の国々に取り返しのつかない状況をもたらした。それゆえにこのような驚くべき内容の憲法がつくられた。

 このような精神からすれば、自衛隊の現在の状況は、明らかに、この憲法―「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」―に反しているのは明らかである。

 しかし、1950年の朝鮮戦争のときに警察予備隊がつくられ、そこから現在までその装備は肥大化を続け、さらにその位置づけも拡張され続けてきた。

 自国を守るためなら、武力による攻撃も認められるという解釈も、憲法13条などを用いて正当化してきた。(* 

*)憲法9条に反して、武力による自衛ということを正当化したのは、次の憲法13条を重要な根拠としている。
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

 しかし、憲法9条の一切の武力による解決を放棄するという方針は、もし武力による解決の道を認めるなら、戦争に加わることになり、それは国民が個人として尊重されず、ごく一部の人間の命令によって戦争に行かされ、そこで生命を失うことにつながり、生命、自由に関する国民の権利が尊重されなくなることを洞察した上で決められたものである。

 自衛のための戦争ということは、それを認めると限りなくそれが拡大され、太平洋戦争のようにおびただしい人たちが殺傷されることにつながった。このことは、歴史をたどれば明らかである。

 日本の自衛隊は、専守防衛ということを基本としてきた。これは、相手から攻撃を受けてはじめて自国を守るために攻撃する、しかし相手国の基地は攻撃しない、ということである。

 しかし、このことですらも、本来の平和憲法の精神―一切の戦争を放棄する、武力の行使も放棄する―という内容に反するものであった。

 それをいろいろ解釈をつけて、自衛戦争は許されているとし、さらに、海外での自衛隊の活動は、本来の自国の自衛ということと直接に関係していないにもかかわらず、2001年の9月11日の同時多発テロ事件が生じ、アメリカ軍がアフガニスタンを攻撃することとなり、その艦船の燃料補給という活動を始めた。それも二年間という期間を限定したものであったが、以後もイラク戦争発生などを理由として延長された。

 これらも、自衛隊が、次第に海外へ派遣されていく道をつくるためであったが、今回の集団的自衛権の閣議決定によって、同盟国への武力攻撃を自国への攻撃とみなして反撃するという、従来とは決定的に異なる方向転換となった。

 これは憲法9条を骨抜きにしてしまうことである。

 自民党に政権をゆだねるなら、このような方向へと大きく舵を切るということは、従来の自民党の憲法改訂の方針からしてもはっきりと分かっていたことである。しかし、多くの国民はそうした未来を洞察することをせず、目先の変化を好んだために、自民党に圧倒的多数が投票するということをしてしまった。

   今回の閣議決定にさきだって、集団安全保障ということを自民党が突然もちだしたことがあった。これは、国連決議によって、侵略行為のあった国に、武力攻撃をして制裁するというものであり、このようなことは、当然、国際紛争を解決する手段として武力の行使を永久に放棄するという憲法9条の精神と全く相いれない。

 このような不可解な提案をしてきたのも、公明党の反対を押し切るための手段だったと言われている。この集団安全保障をもちだすと公明党が反対する、そして少し議論したあとで、それは公明党の主張どおりに取り下げる、そのかわり、集団的自衛権のほうは少しの修正だけで公明党が受け入れるように仕向ける、そして閣議決定に持ち込む―そういう計画でなされた可能性が高いという。

 このような駆け引きを、国家の重大な方針転換をするときに用いるのには驚かされる。

 国民を守るためと称するが、他国の戦争に加担することは、自国の国民をも危険にさらすことになり、そのような方向転換をするとなれば、さらに強大な武力を装備していくことになる。

 そしてそれはまた周囲の国々、とくに中国のさらなる軍備増強へと拍車をかけることにもつながる。そしてそれを口実としてまた日本も軍備拡張する…といった悪循環が生じる。

 また、軍事費の支出―それは、非生産的なものに膨大な費用を費やすことである。軍事に巨額の費用を使っても、古くなればそれを廃棄し、また新たにさらなる費用を増額して購入していく。しかし、そのような多額の費用によって何も生み出さない。

 そうしたことを、本当の平和や医療、教育、あるいは農林業、漁業の研究や発展等々、本当に新たなものを生み出すものへと、国内、国外に費用を用いていくほうがどれだけ生産的であろうか。

 災害救助隊がよい働きをしているではないかというが、そのような災害救助のための独立した組織を自衛隊とは全く別に創設するほうが、はるかに費用はかからず、効果的である。災害救助にはイージス艦などはもちろん全く不要である。イージス艦は、千数百億円と巨額であり、さらに年間の維持費が40億円もかかるという。そして一機 140億円もするような戦闘機も災害救助には不要である。

 こんな高額なものを用いて、何も積極的なよきものを生産することがないのが軍事費である。

  こうした費用を、日本や世界の平和や文化、教育等々のために使っていくこと、そしてあくまで平和憲法を守るという方針を高く掲げることそのことが、世界の平和に貢献することであり、それこそは、本当の「積極的平和主義」なのである。


 リストマークことば 

(364)より高きへと導くもの

…天使は火焔の外なる岸の上に立ち、「ああ、幸いだ、心の清き者は!」

と歌った。そのさわやかさ、心地よさは、我ら人間の声をはるかに越えていた。

そして私たちが近づくと言った。

「聖き魂よ、この火に噛まれないうちは、先に行くことはできない。この中に入れ。かなたより響きわたる歌声に耳を傾けよ。」

…私が火の内に入ると、その熱さは非常なものだった…

かなたから聞こえてくる歌声が、常に私たちを導いた。    その声にのみ心をとめて行くと、いつしか私たちは、登りの始まる地点へと出た。…   (ダンテ「神曲・煉獄篇第27歌より」)

 

・神曲の煉獄篇の終りに近い部分で、この登りを終えて、地上楽園という命の水の流れ、花々の咲くうるわしい場所に到達する。だが、そこに至るまでに、炎の中を通り抜けていくという厳しい試練が待っていた。耐えがたいような熱さだった。

 彼がその中に入る前には、ダンテを導いてきたウェルギリウスが、ただ信ぜよ、かなたの賛美の声に聞き入れ、恐れを捨てて、火の中に入れ、と励ました。ダンテはそれによってヴェルギリウスに続いて火の中に入った。そのダンテを導いたのは、理性でも経験的知識でもまた、勇気でもなかった。

 それは、意外にもかなたから響く賛美の歌なのであった。

 私たちもこの世にて出逢うさまざまの困難に直面して、その苦しみを通って御国へと導かれるために、私たちも愛の神を信じ続け、御国から響いてくる清いハーモニーあるいは、歌声のようなものを聞き続けていくことが必要とされる。そして、これは個人においてと同様に、日曜日ごとの礼拝や、その他の集会においても言えることである。そこで歌われる賛美、それは私たちを全体として御国へと導く大切な役割をもっている。 

(365)つぎの世

 ほんとうに つぎの世があるのなら

あらゆるものを 捨てましょう

ほんとうに この世きりであるのなら

ああ どうしょう

わたしは 生きがいがわからない  (八木重吉「花と空と祈り」)

 

・死によってすべてが消えていくのなら、何故に正義や愛を追求する必要があるだろう。それならよいことも悪いこともみな死によって消えてしまうのである。そのような考え方でどうして生き生きとしたものを感じつつ生きていけるだろうか。

 聖書に記されてた神の言葉は、こうした空しい考えを根源から打ち砕くものである。復活、そして新しい天と地―がそれである。


リストマーク休憩室 

7月中旬ころでは、早朝4時ころには、東北東に明けの明星(金星)が輝いています。明けの明星は、このように早朝まだ暗い時から、目を見張るような強い輝きをもって現れるので、古代から特別な注目を受けてきました。

 新約聖書においても、最後の書である黙示録のその終章に、明けの明星がキリストを指し示すものとして出てきます。

 迫害のもとにあったキリスト者たちは、闇に特別な光をもって輝くこの星を見つめて、キリストがふたたび来られて、すべての悪を滅ぼしてくださるように、そして地上のあらゆる悲しみや苦しみに終りを告げることを切実に待ち望んでいたのがうかがえます。それは、次のように、聖書の最後におかれた書において、イエスの言葉として記されていることからわかります。

「私は輝く明けの明星である」

                黙示録2216


 リストマーク編集だより 

来信より

○イザヤ書CDの全巻をありがとうございました。さっそく1章、2章を聞く事ができました。イザヤ書のスケールの大きさに驚かされます。2700ほども前に語られたこれらの言葉が、現在の「私」に「現在の日本」に何を語りかけているか、心の中で思いつつ学びたいと思います。(中部地方の方) 

・主日礼拝や各地の家庭集会などで私(吉村)が話した聖書講話は、不十分な点が多いのですが、それでもヨハネによる福音書CDの完成以来、多くの方々から申込あり、次の来信にあるように、個人としても用いられ、また各地の集会でも用いられていること、感謝です。 

○…神から与えられるあらゆる手段を用いて伝道に用いさせていただこうと思います。「いのちの水」誌を4部これからはお願いします。

 永遠に続くいのちの水の流れを感じます。(関東地方の方) 

○「いのちの水」誌によく天体のことを書いてくださり、共感を覚えています。5月26日に、月と明けの明星(金星)が横に並ぶことがわかり、早起きして撮影しました。(関東の方、その写真も送ってくださいました。)


リストマークお知らせ 

「以下の各地の集会の問い合わせは、奥付の吉村まで。」

○8月10日(日)は、偶数月の第2日曜日なので、阪神エクレシア、高槻聖書キリスト集会において、み言葉について語らせていただくことになっています。

 ただし、この二つの集会の時間が、午前と午後がいつもと違っていますので、ご注意ください。
 

・高槻聖書キリスト集会

午前10時〜12時   ・場所 高槻市塚原5ー8ー5 「奥付の吉村まで。」                   

・阪神エクレシア

午後2時〜4時 ・場所…神戸市元町駅から歩いて5分の兵庫県私学会館にて。問い合わせ 「奥付の吉村まで。」

 

○中高生聖書講座 8月7〜8日(金)に、浜松市で行なわれるこの集会で、3月に続いて、私(吉村)は、詩篇について語らせていただくことになりました。お世話くださっている田中健三さんからの「参加心得」が送られてきましたので紹介しておきます。

・期間 8月7日(木)昼〜9日(土)昼 ・場所 デンマーク牧場 こひつじ診療所 静岡県袋井市山崎5902-185 ・集合 8月7日(木)13;00 JR東海道線 愛野(あいの)駅 改札口

持ち物 聖書、讃美歌、筆記用具、この参加心得、着替え、寝間着、洗面用具、タオル、

会費 14000円

内容・聖書のお話 詩編23篇、51篇    吉村孝雄先生

・講演「創られた世界のしくみを探る科学とその意味を探る信仰」

小久保正先生

・お話 デンマーク牧場での営み 松田正幸先生

・牧場体験、料理、懇談会、リクリエーション、自己紹介、感想文など。・連絡先 埼玉県所沢市向陽町2182-19 田中健三「奥付の吉村まで。」

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○第13回 近畿地区無教会キリスト教集会 

・日時…8月30日(土)13時〜31日(日)13時30分。

・テーマ…「神を神として生きる」

・場所…関西セミナハウス   京都市左京区一乗寺竹ノ内町23

・交通 ☆京都駅からは、地下鉄烏丸線 北山駅下車2番出口、タクシー10分(千円以内)  ☆ 市バスD系統 約50分 「修学院道」下車徒歩15

・会費…全日参加 1万円 一泊3 31日の昼食代金含む。部分参加も可能。

・問い合わせ、申込…宮田 咲子  「奥付の吉村まで。」

・申込締切…7月20日

・講演(土)… 福井達雨

・聖書講話(日)…吉村孝雄

 なお、今年から会場が、変わりましたのでご注意ください。

 

○8月の高松集会…いつもは第1日曜日の午後ですが、私が県外に出て不在なので、8月は24日(日)の午後3時からに変更です。

問い合わせは、松浦大亮。「奥付の吉村まで。」
 

北海道瀬棚での瀬棚聖書集会、そしてその後の各地で去年と同様に私がみ言葉を語らせていただく予定の集会です。

 ○北海道瀬棚での集会(瀬棚とは、北海道西南部の日本海側にある地方の名)

・日時…7月17日(木)午後8時〜20日 12時

・場所…北海道久遠郡せたな町瀬棚区共和  農村青少年研修会館 

・問い合わせ…野中信成 「奥付の吉村まで。」


○札幌交流集会

・日時…21日(月、休日)午前10時〜14時

・場所…北海道札幌市 北二条クラブ

・問い合わせ…大塚寿雄、正子 「奥付の吉村まで。」


○苫小牧集会

・日時…23日(水)

・場所…苫小牧市民会館 会議室 207号室

・問い合わせ…大澤恵美子 「奥付の吉村まで。」


○青森市での集会

・日時…24日(木)午後1時〜3時頃

・場所…青森市 岩谷宅

○山形県鶴岡市での集会

・日時…26日(土)午前10時〜13時

・場所…佐藤周治宅 問い合わせ 「奥付の吉村まで。」


○山形市

・日時…26日(土)午後6時30分〜8時30分

・場所…大手門パルズ

・問い合わせ…白崎良二 「奥付の吉村まで。」

○仙台市

・日時…27日(日)午後2時30分〜4時30分

・場所…仙台市民会館 特別会議室・問い合わせ…田嶋 誠 「奥付の吉村まで。」


○福島県本宮(もとみや)市

・日時…28日(月) 午後6時〜8時

・場所…湯浅鉄郎宅  「奥付の吉村まで。」


○さいたま市での集会

・日時…29日(火)14時〜16時頃

・会場…関根義夫宅

・問い合わせ先…関根義夫 「奥付の吉村まで。」


○千葉県大網白里市 での集会

・日時…30日午後1時〜3時

・場所…足立哲郎宅

・問い合わせ…深山政治 「奥付の吉村まで。」


○千葉県市原市

・日時…30日午後6時〜8時

・場所、問い合わせ…土屋 聡宅 「奥付の吉村まで。」


○八王子での集会

・日時…31日(木)13時〜15  ・会場…八王子学園都市センター(八王子スクエアビル11階)八王子東急スクエア。参加希望の方は、一週間前迄に問い合わせて下さい。会費は300円。・問い合わせ…永井信子「奥付の吉村まで。」


○山梨県北杜市での集会

・日時…8月1日(金)午前10時〜12時。

・場所…山口清三宅 「奥付の吉村まで。」

・問い合わせ…加茂悦爾 「奥付の吉村まで。」


○長野県伊那市での集会

・日時…8月1日(金)午後3時〜5時

・場所…有賀進宅 「奥付の吉村まで。」


○長野県下伊那郡での集会

・日時…8月2日(土)午前10時〜12時

・場所、問い合わせ…松下道子宅 「奥付の吉村まで。」


○岐阜県恵那市


・日時 8月3日(日)午前10時30分〜12時


・場所、問い合わせ…石原 潔宅。「奥付の吉村まで。」

 

○イザヤ書聖書講話CD(MP3型式)全3巻、価格は、2000円(送料込)

約67時間35分、全137講話)

・県内外からの申込が続いています。もし、一部に読取のできないようなCDがあれば、お手数ですが吉村までご一報ください。無料でお取り替えします。

 なお、MP3型式のCDを聞くためには、普通のCDプレーヤでは聞けないので、MP3対応の機器が必要です。パソコンでも聞けますが、持ち運びが不便で起動に時間かかります。最も操作性がよく場所も取らないのは、2年足らず前に発売されたソニーの、CDラジオです。インターネットから購入しますと、価格も5000円前後です。(電器店では、それよりやや価格は高いようです。)県内外から、いままでにも多くの方々が購入され、また直接購入できない方々は、私のところに申し込みされますと、私のほうからお送りできます。

 ○インターネット(スカイプ)を用いた集会

 以前には、遠く離れた人と、ともにリアルタイムで礼拝集会を持つということは考えられないことでした。

 しかし、現在ではパソコンとインターネットの普及によって、この二つをもっている人は誰でも希望すれば加わることができるようになっています。

 私たちの徳島聖書キリスト集会では、もう4年前の5月から始めています。

 最近もそのスカイプ集会によって、それがきっかけで私たちの集会に参加するようになった方もいます。(県内の方です)

 また、「いのちの水」誌などの印刷物や賛美のCD、インターネットの徳島聖書キリスト集会のホームページ、あるいは聖書講話CDなど、じっさいの出会いがなくとも、それらを主が用いてくださって信仰へと歩まれる方もいます。関心ある方は、吉村孝雄まで問い合わせください。  


リストマーク徳島聖書キリスト集会案内 

・場所は、徳島市南田宮一丁目一の47  徳島市バス東田宮下車徒歩四分。

(一)主日礼拝 毎日曜午前1030分〜(二)夕拝 第一、第3火曜。夜7時30分から。    毎月第四火曜日の夕拝は移動夕拝。(場所は、徳島市国府町いのちのさと作業所、吉野川市鴨島町の中川宅、板野郡藍住町の奥住宅、徳島市城南町の熊井宅を毎月移動)です。

☆その他、第四土曜日の午後二時からの手話と植物、聖書の会、第二水曜日午後一時からの集会が集会場にて。また家庭集会は、板野郡北島町の戸川宅(第2、第4の月曜日午後一時よりと第二水曜日夜七時三十分より)

・海陽集会、海部郡海陽町の讃美堂・数度宅 第二火曜日午前十時より)、

・いのちのさと集会…徳島市国府町(毎月第一木曜日午後七時三十分より「いのちのさと」作業所)、・藍住集会…第二月曜日の午前十時より板野郡藍住町の美容サロン・ルカ(笠原宅)、徳島市応神町の天宝堂での集会(綱野宅)…毎月第2金曜日午後8時〜。徳島市南島田町の鈴木ハリ治療院での集会…毎月第一月曜午後3時〜などで行われています。

 また祈祷会が月二回あり、毎月一度、徳島大学病院8階個室での集まりもあります。問い合わせは 吉村孝雄→