いのちの水 2015年8月 第654号


リストボタン・神の言葉 リストボタン・愛は多くの罪を覆う リストボタン・主を待ち望む  詩篇40
リストボタン・法的安定性と神の言葉 リストボタン・北海道や各地の集会(その1) リストボタン・瀬棚聖書集会、札幌交流集会に参加して
リストボタン 島崎英一郎、那須佳子 リストボタン・編集だより

リストボタン神の言葉

 

…主の言葉は、完全で魂を生き返らせ、

真実で、清らかで目に光を与え、いつまでも続く。

金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、

蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。

(詩篇19の8〜 11より)

 

 この世界には、新聞、テレビ、ラジオ、インターネット、雑誌…等々、人間の言葉があふれている。

それらは一時的に面白く、また惹きつけるものもあるが、しばしば難解であったり、あるいは次第にその味わいはなくなり、また、苦い味のしてくる言葉も多い。

 それどころか、毒のこもった言葉さえあって、それに惑わされ、また命を失う場合すらある。

それに対して、はるか数千年に歌われたこの詩には、なんと違った言葉の世界が言われていることであろう。

人間の言葉と根本的に異なる言葉―神の言葉こそは、現代の複雑で以前とは比較にならない人間の言葉が満ちている状況にあって、繰り返し私たちが求めていくべきものと言える。

 そして、切実に求めるものには、無学であっても、罪深いものであっても、また死の近づく場合や、苦しい悩みに圧迫されているときでも、必ずここに歌われているようなよきものを与えて下さると信じることができる。

たとえ、文字の読めないような人たちであっても―古代から比較的最近まで世界にはそうした人は多かった― 生きておられる神が直接に語りかけてくださることを体験してきた人たちも数知れない。

 聖書として書かれたみ言葉、またキリストに従って歩んで人たちの著作に、またその話しに触れて与えられるみ言葉、そして生きた神から直接に与えられるみ言葉―いずれであっても、それらは神からの言葉だと実感できるとき、どんな地上の宝にまして力を与え、魂に平安を与えるものとなるか、その一端がこの詩に表されている。

 そしてこれは現代においてもそのままあてはまる言葉となっている。


 リストボタン愛は多くの罪を覆う

 

 この聖書の言葉(Tペテロ4の8)は、いろいろな意味を私たちに思い起こさせる。人間の愛は、罪を覆うということも一時的、あるいは限られた人など部分的にはあるだろう。

 しかし、それはしばしば新たな罪を生じさせる。特定の人間だけに注がれるゆえであるし、相手からのその愛のお返しがないままだと、枯れてしまうからである。

しかし、神の愛は、さまざまの罪があたかもなかったかのように、覆ってくれる。わる

いものが芽生え育たないようにしてよきものが芽生え、育っていくようにしてくれるのが

神の愛である。

自分自身を振り返っても、また周囲を見ても、真実や正義、神の無差別的な愛に反するこ

とはいくらでもある。この世界は個々の人間やその集りである社会も、「あなた方は自分の罪で死んでいた」(エペソ書2の1など)と言われているほどであるし、最大の使徒とされるパウロも、そうした罪ゆえに、自分は何というみじめな人間なのか、この死のからだを誰が救ってくれるのか―と深い嘆きを述べている。

そのような中で、神(キリスト)の愛は、そうしたあらゆる罪をも赦し、覆ってくださる。ないもののようにみなしてくださる。

この世界も毎日のニュースなどでは至るところに悪があって混乱と闇が満ちていると見える。しかし、他方では神の愛を豊かに受けるほどに、別の世界―そうしたいっさいの罪が覆われた世界、そこで見えてくる神の愛と真実が満ちているのが見えてくると記されている。

…主よ、あなたの慈しみは天に、あなたの真実は大空に満ちている。(詩篇36の6)

すでに旧約聖書の時代から、そうした新たな世界を啓示された人がこのような驚くべき言葉を記している。

私たちもこの世の混乱と罪のただなかで、力を失わずに歩んで行くためには、こうした神の愛の力、すべての闇を覆い、良きものを芽生えさせ、成長させていく力を信じて歩ませていただきたいと思う。


 リストボタン主を待ち望む―詩篇40編

 

 聖書は、「神の言葉」だと言われる。人間の意見、考察、思想、伝説、神話などが、人間の言葉であるのに対して、神の言葉は永遠性を持ち、かつあらゆる民族、年齢、育った環境などにもよらない。

とすれば、詩というのは人間の感情を表すので、当然人間の言葉であるのに、神の言葉として聖書に収められているのはなぜなのか。特に人間の非常に苦しい叫び、祈り、願いというものが、どうして神言葉と言えるのだろうか。

私が初めて旧約聖書の詩篇を45年以上前に読み始めたときにこの問題が頭に浮んでき

たのだった。

 一見、まったく人間の言葉でありながら、その背後には神のご意志があり、神が導かれ

ているということが明確に示されているゆえにそれらは、神の言葉とされている。

 神がその御心にかなった人を選び、その苦しみや悲しみ、叫びのある歩みを通して、その詩の作者のじっさいに生きた歩みを通して神のご意志を現したのが、詩篇だと言える。

 大空の雲や青空、あるいは夜の星々、太陽や月といったものから、土から生じた植物など、あらゆる自然は、神の言葉で創造されたと記されている。それゆえに、神の御意思の反映である。

 聖書の詩において、自然に向うのは、単に趣味や気晴らしにとどまるのでなく、神の言葉をそこから聞き取り、学び取り、感じ取るためである。

歴史の背後にも個々の人間の憎しあったり、戦ったりしているが、その背後で神の御意思が働いて、敵対するものやさまざまなものを起こして、全体の流れとして、神の御意志が働いている。

 それゆえに、歴史もまた神の言葉と言える。それゆえに旧約聖書には多くの歴史書が聖書として含まれている。

神の言葉とは、書かれた神の言葉としての聖書と、神の創造された自然、神がご意志のままに導かれている歴史、この3つが神のご意志の現れであり、それゆえに神の言葉ということができる。

 この詩の冒頭には、「主にのみ、私は望みをおいていた」とある。

この原文は、「カーワー」というヘブライ語を二度用いて、強調している。英語訳でもI waited and waited. 「私は主を待ち望んだ、さらに待ち望んだ」ということになる。

 切実に待ちつづけたというとき、「待ちに待った」という表現があるが、この詩の表現も、それとにていて、「望み、望んだ」というような意味になる。

 このように、この巻頭の一節に接するだけで、作者の神への強い祈り、情熱といったものが感じ取られる。

 日本の短歌や俳句は英語に訳すとまったく違うものになる感じがする。

同様に、ヘブライ語の原文の強い感情をこめた表現も、とくに詩になるとかなり変わってしまう。

 力強い原文の表現を、日本の口語訳に直すと、原文の力、迫力がかなり失われてしまうことがよくある。また訳語の問題もあって、書かれている内容も現代離れしているように見えるので、本当の詩篇の真価が十分に分からないままで、読み流されていることが多いと思われる。私自身もかつてはそうであった。

 しかし、それでもなお、詩篇は数千年前に信仰に生きた人の魂の記録として大きな影響をもち続け、現代でも詩篇はさまざまに歌われている。

この詩の作者が、神を切実に待ち望み続けていた。時がきて、神は体を傾けて聞いてくださったという実体験がここに記されている。

 

…主にのみ、わたしは望みをおいていた。

主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。(詩篇40の2)

原文では「耳」という言葉はなくて、「私のほうに(体を)

傾けて」。(*

 

*)英訳でも he turned to me and

heard my cry(NIV)

He inclined to me and heard mycry (NRS) などと訳されている。

 

 日本語訳にも、「主は私のほうに身を傾け」(新改訳)。自分が苦しくみんなから見捨

てられているときに、はるか遠く、無限のかなたにおられると思っていた神様がその体を私に傾けて、苦しみを聞いてくださった―というのである。

 このような体験こそ、実に幸いなことである。詩篇は讃美歌集であり、神とともに生きた証しの集大成でもある。この詩篇の作者のように神をありありと感じ取った経験は、現代の私たちにとっても大きな目標である。この作者に、神が迫ってくるのが見えるような思いがする。

 わずか数行の言葉によってでも作者が神に関していかに深い体験、実感を持っていたことが分かる。

  旧約聖書の詩篇は、まさに精神の化石である。数千年も変ることなく存在しつづけ、はるか古代の人間の心がすぐ近くに生きて感じられる。

そしてその発掘のためには、ただ神を幼な子のように信じ、仰ぐだけでよいのである。だが、日本人は、ここに永遠に輝く世界遺産たる神の言葉、それに動かされている人間の魂の世界があるのに、それを知ろうとせず、発掘しようとせずに放置したままという状態なのである。なんと残念なことだろう。

 このような経験をしたら、ずっと神様に信頼を置くだろう。愛の神様だから、一度聞いてくれたらあとは知らん顔するということはありえない。

 そうすれば、自然に賛美が出てくる。「神への賛美を授けてくださった」(4節)と受身で書かれている。聖書的世界というのは、能動態でなく、受身である。キリストの使徒パウロも、その書簡の冒頭で述べているののは、自分が神から「呼び出され、選び出され、遣わされ、イエス・キリストの奴隷(主に言われたとおり忠実に従う存在の意)」等々であり、どれも受身の表現である。

 自分の人間的感情で歌うのでない。人に評価してもらうために賛美するのでない。ただ、神のみを見上げていれば、神が大いなる経験を与えられ、賛美の心、感謝の心も与えてくださる。

 本質的にキリスト教の賛美歌は、主が近づいてくださっている、愛を注いでくださっているという実感から、たたえずに折られないという気持ちが出てきたものである。

 5節に「ラハブを信ずる者にくみせず」とあるが、初めて読む人には意味不明である。

 他の訳では「高ぶるものに頼らず」、英語訳も同様でよりわかりやすい訳語が用いられている。

 神様のなさることを静かに振り返ってみると、つぎにあるように多くの不思議な業をわたしたちにしてくださっていることが分かる。

 

…我が神、主よあなたは多くの驚くべきわざを成し遂げておられる。(6節)

 

 予定以外の悪いことが起こったとしても、後になって振り返ってみたらよかったということもある。

 神が自分に数知れないよき計らいをしてくださったから、黙ってはおれない。罪を赦してくださった、死んだような希望なきものに新たな希望、壊れることなき希望を与えてくださった…等々、それを言わずにはいられない、これがキリストの福音を伝えようとする心である。

 神を信じて50年、教員から退いて御ことばを伝えるはたらきになってからも、職場においても、家庭においても集会にあってもさまざまな問題が生じてきた。

 その間、同じ一冊の聖書について語ってきたのに、もう神様のことを語るのは、同じような内容だからやめようと思ったことはない。それは自分の意思ではなく、神様が心を燃やしてくださってきたからだと感じる。

 

…あなたはいけにえも穀物の捧げ物も望まず、

焼き尽くす供え物も求めず

ただ、私の耳を開いてくださった。

 

 旧約聖書の時代には当然のこととして行なわれていたいろいろの捧げ物、それを神は望まず、求めず―とは当時としては驚くべき言葉であった。

そういうことを求めないで、ただ耳を開いてくださった。

「耳を開く」と訳された原語は、「耳を掘る」という意外な表現であらわされている。

 硬く閉ざされた耳を、神様が掘ってくださって、聞こえるようにしてくださった、というのである。

しかし、この詩の作者のこうした体験は何も特異なことでなく、神様を仰ぎ見さえすれば、私たちもこれに似た経験をさせてくださるのを信じることができるし、じっさいに数千年にわたってそうであった。

現代の私たちもやはりこの詩に記されてているのと同様に、神が私たちの叫び、祈り聞いてくださること、神が私たちの耳を「掘って」み言葉が聞こえるようにしてくださる恵みを信じて求めていきたいと願う。


リストボタン法的安定性と神の言葉

 

このところ日本の前途に大きな影響を与える安保法制の議論のなかで、法的安定性ということが繰り返しいわれている。

それは首相補佐官(*)という重要な職務にある人間が、今回の安保法制に関連して、「法的安定性は関係ない」と、かねてよりそのような考えを持っていたことがうかがえるような主張の仕方で言っているのをじっさいに聞いて、今回これほど問題になっている安保法制の問題で中心的な役割をしている人間がこのようにいとも簡単に法的安定性を否定して、国を守ることが重要だ、などと言っているのを聞いて驚かされた。

 

*)礒崎補佐官は、安倍首相に最

も近い人物ともいわれ、特定秘密保

護法案の作成にあたってもその責任

者といえる重要な役割を果たしていた。

 

 首相自身が、憲法9条の解釈を歴代の首相たちが受け継いできたにもかかわらず、簡単にそれを根本から変えてしまった。そしてそれを閣僚たちも認めた。

 憲法という国家の根本方針をいとも簡単に変えてしまおうとする精神は、ほかのいろいろの法律も簡単に変えてしまうことにつながる。

それは権力者が、法を無視して解釈を変え、さらには都合のよい憲法の条項やそれに関連した法律をつくることになる。

 大事なことは国を守ることだ―などと言う主張によって、憲法さえ勝手に解釈をまったく異なるものに変えてしまうことを国民の多くの考えをも無視してやってしまう、そのようなことになると、権力者が、国を守るということを口実に、アメリカや他国がはじめた戦争にかかわることも簡単に決めてしまうようになるであろう。現在の首相やその周囲にいる重要な地位の人たちは、このような考え方をもって自分の都合のよいように憲法を変え、日本の状態をごく一部の権力者の考えに沿って変えていこうというのがうかがえる。首相と考え方が合っているということで、NHKの経営委員にも選ばれていた作家が、沖縄の二つの新聞がつぶれたらよいとか、本当につぶれてほしいと思っているのは、朝日、毎日、東京新聞の三つだ、などと公然と主張したが、ここにあるのも、異なる意見を封殺してしまい、一部の権力者の都合のよいように国家を変えていこうとする考えがある。

 法の根底に流れている真理への感覚を持たないときには、このように、人間の自己中心的な考えがはびこる。法的安定性という点で、三千年を越えて、保たれてきた驚くべき安定性をもった法がある。

 それは、神が人類に与えた法であり、精神世界の憲法というべきものであり、それが聖書である。とくに今から三千数百年も昔のモーセを通して人類に与えられた十箇条の法は十戒と言われ、現在に至るまで、その真理性は変ることなく続いて、いまも究極的な法として存在している。

 この世界で根源的な存在―それは天地創造し、かつ慈しみと真実、正義に満ちた存在を第一に重要とすること、それゆえにそのような存在たる神を第一とする。それが、十戒の根源に置かれている。また、それ以外のもの―今日ではカネの力(経済力)や権力、武力等々を、右に述べたような根源的な存在(神)に代えて崇拝することがあってはならない、というのが次に置かれ、「いかなる像を造ってはならない。それらを崇拝してはならない」という表現となっている。

 そして、第7日を安息日として神に捧げて守り、礼拝の日とすること、これもその精神はながく持続し、現在世界的に、週に一度は仕事を休むのは、その起源はこの神の言葉にある。

 日本ではキリスト者はわずか1%程度と、世界的に見ても驚くほど少数である。イスラム教が多数を占める国々ですら、キリスト者の比率はもっと多い。

 それでも、週に一度は仕事を休むということに関しては、当然のこととして、広く行き渡っている。もともと、週に一度は休むという制度は、日本にはもちろんなかったが、このように広く深く当然のことのように浸透していることも、この週に一度休むという十戒の真理が―その本来の理念、神への礼拝のために聖別するというあり方が無視されているとはいえ、その形は広く行き渡っている結果となっている。

 父母を敬うべきこと、殺してはならない、姦淫してはならない、盗みをしてはならない、隣人に偽証してはならない、隣人のものを欲してはならない―これらの真理性は疑うことはできない。

 法とは真理である―これは、ヒンズー教、仏教の方面で使われるダールマ(dharma)もその意味を持っている。ダールマとは、法であり、真理を意味する言葉である。

 旧約聖書においては、すでに述べたように、十戒はまさに神が与えた真理であり、法である。モーセが受けた神からの言葉は、トーラーと言われ、律法と訳されているが、それは法律という語を逆に書いた表現で、英語では、一般の法lawと区別するために、Law と大文字で頭文字を書いて表される。

 聖書を中国語に訳するときにも、法律と訳したのでは、一般的な法律を連想させるところから、文字を逆さにして律法と訳した、それがその後にできた日本語訳の聖書に取り入れられて律法と訳されてきた。

 だが、一般的な日本語では「律法」という言葉は使われない。中国語訳の訳語をそのまま使っているにすぎない言葉だからからである。 モーセが受けたものも、要するに「法」なのであるが、神が与えた永遠の法なのである。

 このような言葉を見てうかがえるのは、イスラエルの人たちだけでなく、古代インドの人においても、こうした法―真理の根源的重要性が知られていたということである。

 そして、のちに現れたキリストが、その旧約聖書に示された法―真理を土台としつつ、それをさらに完全な内容として人類に与えた内容が、新約聖書となった。

 そして、かつては複雑で膨大な内容の法(律法)は、わずか数行で記されるほどのものに凝縮されたのである。…イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている。(マタイ福音書22の38〜40)

 この法(真理)は、永遠の存在たる神の言葉であるゆえに、永遠に変わらない。変えることもできない。それはいかなる民族、また時代状況、そして年齢や性別、職業、健康か病弱、あるいは体に障がいを持つかどうかなど、いっさいによらずに真理であり続ける。

 このような神の法の真実性と永遠性は、いまから数千年昔の詩にも表されている。…あなたの戒めはすべて真実。あなたの定めを見て私は悟る。それがはるか昔からのものでありあなたによって永遠に建てられたのだ、と。(詩篇119の151〜152より)

 私たちは、今日の状況において、根本的法である憲法の著しい軽視が見られる状況にあって、永遠に安定している法たる神の言葉を深く受け取り、その上で現在の状況を見極め、それに流されたり、呑み込まれたりすることのないようにしたいと思う。 


リストボタン北海道や各地での集会

(その1)

今年も7月14日夜の舞鶴市での家庭集会からはじまって、16日夜から19日(日)の昼までの瀬棚聖書集会のために、北海道に行く機会が与えられた。

 そしてその翌日20日(月)の札幌交流集会、次いで岩尾別在住の教友訪問、そして苫小牧での集会と北海道の各地での集会が与えられて感謝だった。舞鶴市とはいえ市内でなく、山道を分け入るようなところで、そのようなところに、霜尾さんたち愛農高校出身の人たちが核となって今日まで、キリスト教信仰によって、ともに農業によって共同体のように歩んでおられるのを実感し、キリストの導きを思った。

 北海道の瀬棚地方とは、奥尻島の対岸の日本海側にある地域で、ここでは山形のキリスト教独立学園卒業の方々が中心となって、夏期の三泊四日の聖書集会が続けられてきた。今年で42回を迎え、この長い歳月を、夏の農業―酪農家が多いが、米作農家もある―の忙しいときにあたって、また集会場から、片道20キロほども離れたところにある方もあり、多数の乳牛たちの世話や搾乳、また牧草の刈り取り等々の仕事をしながら、この夏の集会に参加するのは、なかなかたいへんなことである。

 それは、ほかの地域の数日をかけてなされる聖書講習会けでは、参加者は仕事を休んで、あるいは夏休みがとれるので、その集会の間は静まって集会参加に集中できるが、瀬棚の集会の場合は、そのような集会とは大きく異なっていて、仕事をしながら、各自各家庭の状況によって参加しておられる。

 こうした困難がありながら、42年目となる歴史を重ねてきたのは、たしかに神が特別にここにいわば印を付けて、守り導いてこられたからだと感じる。そのことは、瀬棚以外のところから嫁いでこられた何人かの女性の方々はなれない酪農の仕事などとともにそれぞれの家庭、また個人的な重荷もあり、ときとして困難な状況に置かれることがありつつも、私は年に一度の参加ではあるが、たしかにそうした方々においては、主により、またすでに信仰を与えられた方々の導きや祈り、助け合いによって、信仰の前進、成長がじっさいに感じられてきたことだった。

 一人一人の信仰は弱く、また罪ゆえに私たちは他者につまづきや重荷を与えたりすることがつきまとう。しかしそれでもなお、主はそうした弱き私たちを用いて、さまざまの状況にありつつも、全体として導かれていく。

 それは瀬棚の方々にとどまらず、過去二千年の間、世界においてそのような主の導きがなされて、今日までキリストの福音が脈々と伝えられてきたことを思う。

 瀬棚集会を終えて、翌日は札幌での交流集会にて多くの方々と共にみ言葉を受け、祈りと賛美、そして主にある交流が与えられた。この札幌交流集会のはじまりは、2004年の夏に、瀬棚聖書集会のあとで、徳島からこの瀬棚集会に参加した視覚障がい者の方々と、札幌聖書集会の中途失明の大塚寿雄さんとの交流のときが与えられて、そこで、大塚さんご夫妻が、札幌聖書集会のほかの方々にも呼びかけられてはじまったものだった。

 そうした視覚障がい者同志の小さな出会いの機会を―と願ってはじまったのが、今日まで、12回にわたって続けられ、札幌聖書集会以外の旭川や、釧路、苫小牧、そして近年は札幌独立キリスト教会の方々、聖公会に属する方なども加わっての集会となっている。

 その後、苫小牧には私が札幌の帰途に立ち寄るようになって、この交流集会には加わらないようになったが、あらたに苫小牧での集会が与えられるようになった。

 私たちキリスト者は、つねに神とキリストとの関係を第一としつつも、ヨハネ福音書で繰り返し言われているように、信徒同志が互いに主にある愛をもって愛し合う、祈り合う、霊的な関わりを持ちつづけていくことによっても、神との関わりを強められ、フレッシュにされるという事実がある。

 神を愛し、人を愛する―ということはじっさいにこうした関わりのなかにもその重要性を感じさせられる。そして、こうした信徒同志のつながりから新たな交流が生まれ、それまであまりキリスト教に関心なかった方へと広がっていくこともある。

 札幌での交流集会のあと、この交流会には初めて参加できなかった、札幌聖書集会の代表者であった牧野茂さんが自宅療養されているとのことで、ご自宅を訪問することができた。ほかの道外からの参加者も含めて大塚正子さんや牧野貞子さんたちともに病床での牧野さんとともに短い交流と賛美、祈りのときが与えられた。その後、私が徳島に帰ってきたその日、8月3日に牧野さんが召されたとの連絡があった。地上の最後のときの主にある交流が与えられて、主の導きに感謝したことだった。その後、岩尾別市に住んでおられる教友を訪問、交流と賛美、祈りをともに与えられたことも感謝だった。

 苫小牧での集会には、長くその地で集会を導かれてきた船澤澄子さんが、会場の苫小牧の市民会館に車いすであったが、車で運んで介助される方も与えられ、参加されていた。

 去年は体調も好ましくなく、施設に尋ねて、ベッドでお話ししたことだったが、今年は去年よりも力が与えられてほかの方々とともに参加できていたのは感謝だった。

 高齢となり、心身が衰えてもなお、信仰の心は神が維持してくださり、祈りとみ言葉、そして賛美をともに与えられることはキリスト者に与えられる特別な恵みだと感じた。高齢となり、耳が聞こえなくなって、聖書講話も十分に聞けず、参加者の感話なども聞き取れない状態になる方々もおられる。

 適切な補聴器、または集音器が与えられてそうした方々も、聞こえがよくなり、またそれ以上に、補聴器などなしに語りかけられる神ご自身の静かな細いみ声が、とどきますようにと願ったことであった。(以下は次号)


 リストボタン北海道の瀬棚聖書集会、札幌交流集会に参加して   愛媛県島崎英一郎

 

 昨年に引き続き二回目の瀬棚での聖書集会、それに加えて新たに札幌交流集会にも参加する恵みが与えられました。台風の影響で飛行機が欠航になる恐れもあり参加を半分あきらめていましたが、神様はちゃんと道を整えてくださるお方なのだと後から振り返って大いなる恵みに感謝しています。

 二年続けて酪農家のK家宅にファームステイさせていただきました。深いところで人とも牛とも?会話がはずみ有意義な三泊でした。私の生まれた1970年には全国に30万戸あった酪農家も現在では2万戸を切っています(そのうち3分の1が北海道)。

 この間、私たちは「豊かさ」「便利さ」などと引き換えに何を失ってきたのでしょうか。酪農家は経済動物を相手のお仕事ですから大変忙しく、プログラムの全日程に参加することは困難です。有り余る時間の中で、お祈りをし、聖書を読んでいるわけではないのです。盗むようにして辛うじて得られた時間を聖別された時と場所に捧げているのです。このようにして魂に刻み込まれた神の言葉は決して消え失せることがないだろうと実感させられました。

 吉村さんの聖書講話において、労苦を共にしている共同体が本当の共同体であるというお話がありましたが、ここ瀬棚には本当の共同体があるように思われます。私たちはそれぞれの職場において、家庭において、集会においてどれほど労苦を共にしているでしょうか。このことは痛烈に自分にも突き付けられ、反省の材料となりました。

 瀬棚にある様々な集まりの中でもこの聖書集会だけは特別だと感じている方もおられ、また、一年の始まりだと感じている方もおられます。この聖書集会は単なる通過点ではなく、まさに出発点であり、私自身もここから送り出されていることが分かりました。二回目の瀬棚でしたが、教えて頂くことばかりで、そこに行ってこそ得られる神様の恵みがあるのだと思いました。

 瀬棚瀬棚聖書集会の翌日に札幌市で開かれた、札幌交流集会は北海道内外から27名の参加者でした。遠くは小樽・旭川・釧路からも来られていました。札幌聖書集会を中心として、クラーク博士や内村鑑三と縁の深い札幌独立キリスト教会の方々も5名ほど参加あり、聖書講話や感話、賛美、祈り、そして主にある交わりに昼食をはさんで4時間半も持つことができたことに感謝でした。皆さんも、霊的北海道をむさぼり食べに出かけてみませんか? 


リストボタン北海道の瀬棚聖書集会・札幌交流集会に参加して  大阪府高槻市 那須佳子

 

 以前から一度参加したいと願っていた、北海道の瀬棚聖書集会、札幌交流集会に参加してきた。「百聞は一見にしかず」…五日間を通して、実際に参加することは、ただ聞いたり思い描いたりするのとでは全く違うということを実感させられた。

 瀬棚では夜8時の開会式。一般の集会では考えられない時間だ。瀬棚の方々の多くは主に酪農業、ほかにも米作農業、有機栽培の野菜、養鶏などを営んでおられ、夕方からもどうしても飼育にかかわる作業があり、生き物相手の仕事だけに人間の都合で手を抜くことができない。

 今年は現地の方々や子供さん(幼児なども含め)、北海道外からの参加者も合わせてほぼ40名ほどの参加となった。10数年にわたって一年に一回この時期に聖書のみ言葉を伝えに行っておられる吉村さんとの再会をみなさん喜ばれていた。

 早朝からの仕事があり、昼間もその貴重な時間をぬって年に一度共に集まり、み言葉を集中して学んだり、共に賛美したりされるこの期間は瀬棚の方々にとっても信仰を確かめる大切なひとときとなっていること、また、私たちの霊肉における営みのあらゆることが神様の恩恵、導きであることを示されていることを思った。

 北海道以外から来ていた私たちのことも歓迎してくださった。どこに住んでいてもどんな仕事をしていても、生活環境がいかに違っていてもただ主にあること一つでこのように集まって喜び合えることの恵みを感じることができた。

 開会式では 自己紹介の前に、参加者の農家の女性の方々によるカレーライス、生野菜たっぷりのサラダをいただいた。長旅の疲れとやや緊張していたこともあり、その食事がとてもありがたく美味しかった!(この自己紹介の時はお顔と名前がまだはっきりとしなかったが、4日目にはすっかり覚え、とても心も近くなったことを感じた。)

 私は野中正孝さん、明子さん夫妻のお宅で三泊フア−ムステイをさせていただいた。気さくで穏やかなご夫妻の温かいおもてなしを受け、気を使わず一人になる時間もさりげなく与えていただいた。ハウスで育てておられる新鮮な野菜中心の手作り料理や搾りたての牛乳の美味しかったこと!(やや不謹慎だが正直なところ、開会式のカレーとサラダ、また明子さんのお料理…これらの食の糧もとても恵みだったことにはちがいない!)息子さんご一家と交わった夕食のひとときも忘れられない思い出だ。御家族から深い信仰の証しもお聞かせいただいた。

 『主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。』詩23の1〜2

野中さん宅の二階からの眺めはまさにこの詩編の一節を彷彿とさせてくれる、青草の緑豊かな大地だった。何の文明も入り込むことは許さないかのような、青い海と牧草地と、ただただ静かで清浄な大気の流れ。その中に牛たちが野中さんの呼ぶ声に一頭一頭ゆっくりと牧草地に歩いて行く。人間と一緒でいろいろな個性の牛がいて、すぐに付いていくもの、ちょっと外れてなかなか付いていかないものがいて思わず微笑んでしまった。何だかその光景に、ヨハネ福音書の「イエスは良い羊飼い」のみ言葉を思わされた。

 『…わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ,一つの群れになる。』ヨハネ10の16

 時にはこの世の煩いに負けそうになりながらも、この牛たちのようにずっとイエス様の後を歩み続けていきたいと祈らずにはおられなかった。夜には天然のプラネタリュウムー満天の星。本当にこの大自然の中にいると神様が天地創造され、すべてのものを支配されていることをしみじみと思うことができた。

 合間の時間に瀬棚の山や海、各農家の方々の牧場や田を案内してくださったが、これらの美しい風景もこの厳しい土地に入植し、多くの困難を乗り越え、今の営みを築き、継承されてきた方々のご苦労があったからこそで、その背後に神様がいつも共にいて導いて来られたことを思った。

 吉村さんのメッセージの中で「主イエス様の生涯は初めから闇の中、ご自身が苦難の道を初めから通られた。その苦しみを甘んじて受けられた。しかし人々の間を通り抜けて立ち去られたように、この闇と混沌の中に絶えず光を注がれる。主の慈しみは決して絶えることはなく、主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。」とあったが、この真実を心から祈り、信じていけるものでありたい。

 最後の夜、集まった方々の主にある赤裸々な信仰感話を聴きながら、こうしたお一人おひとりの悩み、苦しみにどうか主からの力づけ、癒やしがありますように、主を求める者には恵みが欠けることがないということを互いに信じ祈り合っていけますように…。と心から思わされた。

 

 札幌交流集会からも多くの恵みをいただいた。特にみ言葉のメッセージから強く示唆を与えられた。

 『…そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ 汚れた者がその道を通ることはない。主ご自身がその民に先立って歩まれ、愚か者がそこに迷い入ることはない。』イザヤ35の8

 世の中にいかに分裂と混乱の嵐があろうとも、神様の大いなる道がいつも一筋の大河が流れる如く敷かれているという。私たちが罪に苦しむ時や言いようのない不安や困難の中にある時でも、イエス様がいつも先に立って歩いてくださっている。祈ることによってそのことを聖霊が感じさせてくださる。何という力強い真理、恵みだろうか。

 お話しの中で引用された、「死の谷を過ぎて」の収容所での日本軍兵士のお話にも強く心に残るものがあった。絶望的な壮絶な状況の中で…そんな中にも聖霊の風が吹いてきて讃美を歌う人たちが生まれてきた。この収容所の中でまさに勝利の讃美歌が聞こえてきた。

 このお話から、アンクルトムが死の間際に到達したキリストの光の道、主の栄光に至る道を重ねて思い出した。

 『時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。』エフェソ書1−10

 また、お話しの中にあった、ハンセン病の玉木愛子 さんの句、

「信ずれば 天地のもの あたたかし」 「祈る日々 祈られる日々 露うれし」

 これらの歌から、今回の瀬棚、札幌での大きな恵みが集約された気がした。

 温かく迎えてくださった大塚さんご夫妻や集会の兄弟姉妹の方々との別れも名残惜しく、北海道での数日を今尚、懐かしく思い返している。

 今回の北海道行きに関して、お世話になったたくさんの兄弟姉妹のみなさん、本当にありがとうございました。瀬棚聖書集会や札幌の交流集会への参加を決心させてくれた主イエス様に心から感謝です。これからはみなさんのお顔を浮かべながら祈ることができます。            2015年 8月1日 


リストボタン編集だより8月号

 

御言葉を有難うございます。

現実の問題と、神様が示す方向を明確に教えて下さり有難うございました。

 

戦力、防衛力のためにお金をたくさん使っている、この国の未来は、ないということがよくわかりました。

一方、聖書には変わらない真実が示されており、そこに希望を見出すことができます。

 

目の前に迫る不安や目に見える不安(イスラム国などの勢力など)に、対して、考えて対処している結果

なのかなと思いました。

目に見えない変わらない真実、神の言葉を一番に置き、歩んでいきたく、改めて思わされました。

 

王の勝利は兵の数によらず勇士を救うのも力の強さではない。

馬は勝利をもたらすものとはならず兵の数によって救われるものでもない。

見よ、主は御目を注がれる。

主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。(詩編33:16-18) 

 

来信より

・「今日のみ言葉」7月号に書かれていたこと、自分のことも振り返り、来た道を思います。魂のさすらいのときも、いまから思うと、主の御手が共にあったと思えてきます。そのころは、行き着くところがあるなど、全くわかりませんでしたが…。