「いのちの水」20161月号  659 


あなた方は、神の生きた言葉によって新たに生まれた。人は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変らない。(Tペテロ1章より)



・2016年1月 第 659号 内容・もくじ

リストボタン本当の新しさ リストボタン学ぶこと、神の霊を受ける こと リストボタン神我らとともに(その1)
リストボタン闇と混乱の中の光 ―キリストと聖書 リストボタン神こそわが望み―詩篇43篇 リストボタン2016年の無教会全国集会(徳島)について


本当の新しさとそれを生み出す力

 

 神の言葉は常に新しいものを生み出す力を持っている。それは神の言葉こそは、無限のエネルギーを持っているからであって、大空の雲の様子などが一日として同じものはなく、絶えず新たな形や色合い、動きを持っている。

 また、植物たちもまたそれぞれが絶えず新たな形、色合いをもっている。

 それに対して闇、あるいは悪の力は古びさせる力である。死は、それを越える力を知らないなら、闇と得体の知れぬ世界である。

 しかし、神は闇を一瞬にして打ち破る光をこの世界に送り出す力をもっておられる。そこに光が存在するようになるとき、その光が常に新たなものの根源となる。

 光とは、インスピレーションである。それまでぼんやりと闇に包まれていたものが、光を受けると新たなことがはっきりと分るようになる。しかも聖書にいわれている神は限りなく清くまた正しさと真実に満ちた神であるから、そのような神からのインスピレーションというのもまた清いものや真実なものへのインスピレーションでもある。

 これに対して、楽しいもの、嬉しいもの、スリルや快楽を与えるもの、好奇心を満たすもの―などなどはたくさんある。しかし、それらは心を清くするだろうか。より人間を真実や愛に敏感にさせる力があるだろうか。

 神の言葉は、清くて質的に新しいものにする力を持っている。この世のものも、新しいもの(時間的に)は次々と造っていく。新しい店、行楽地、催し、新しい建物、音楽、制度、首相、政党…等々。

 しかし、それらは、また次々と古びていく。新しいスターが現れても、しばらくすると別の新たな能力ある人が現れてかつての人気者は古びて消えていく。

 いつまでも新しさを保つもの―それが信・望・愛である。全能の神を信じていくものは、絶望的状況にあっても新たなものを与えられると約束されている。

 また神の信実を知るときには、その神が新たな清いもの力あるものを知らせてくださる。

 愛の神への信仰あれば、どんな老齢化していくときでも、希望が持てる。たとえ苦しい状況にあっても希望が持てるということは、新しい状況の変化があると信じることである。不滅の希望を持つ人は、つねに新たなものを心に受けている。

 神の愛は、万物を新しくする。

 

…愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。

 しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。(Tヨハネ2の78

 

 真実な光の射してくるところ、そこには古いものが新しいものとして浮かびあがってくる。

私たちも老齢になると古びてくる。しかし、私たちの魂の内に、「真実な光が輝いている」という状態が与えられるとき、私たちは、老年になっても日々新しくされていく。

 

…キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(Uコリント5の17)

 

 「新しく創造されたもの」とは原文では、kaine ktisis カイネー クティシス。「新しい創造」という簡潔な表現である。私たちは日ごとの罪ゆえに古びていく存在であっても、なお、神の光を受けるとき、「新しい創造」となる。

 どんな人でも、キリストと結ばれる―キリストの内に置かれる―ことこそ、根本的に新しくされる道である。

 毎年の正月―新年は単に時間の流れのなかでの一区切りにすぎない。

 しかし、魂がキリストを結びついたときの新しさには、その奥にどのような新しさが潜んでいるのか、いかに深いのか見当もつかない。

 このどこまでも深みのある霊的新しさは、衣服を着るというたとえでも記されている。

 

…神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。(エペソ4の24)

 

 次の言葉は、当時のユダヤ人たちが、神の恵みを受けるのは、割礼をすることが条件としていたことを根本的に打ち破った言葉であり、使徒パウロは聖霊となったキリストからこの真理を直接に与えられたのであった。

 

…割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。(ガラテヤ 6の15)

 

 聖書の最後の書である黙示録の終わりに近い部分でも、この新しくする力は、万物に及び、この世界の終わりには、神の全能の力によってそのことがなされると言われている。

 

…すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。(黙示録21の5)

 

 この世界にいかに闇が強かろうとも、聖書の巻頭で光がみ言葉によって創造されたと同様、神の言葉によって万物は新しくされるのである。

 私たちは、幼な子らしいまっすぐに見るまなざしをもって、こうしたみ言葉を見つめ、それを語られた神を仰ぎ続けることの重要性を思う。

 万物を新しくされるときが来る、そのことを信じるならば、いかなる闇にもうち勝つ力が与えられるのがうかがえる。

 私たちはつぎの使徒の言葉とともに、必ず神の全能が新しい天と地を創造されることを信じ、それゆえにその新たな天地をまち望むものとしてください、と祈るものである。

 

…わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。(Uペテロ 3の13)


 学ぶこと、神の霊を受けること

 

 学ぶことは、まねぶ に由来する。それに中国語の「学」という漢字をあてた。算数を学ぶ、文字、漢字を学ぶ、機械の動かし方を学ぶ―たしかにそれらは、すでにできる人―先生や指導者がやっていることをまねることである。

 より高度のさまざまの考え方を学ぶときにもそれは言える。 天才的作家、思想家、詩人、また政治家であり、自然研究者でもあったゲーテ(17491832年)は次のように述べている。

 

…独創性ということがよくいわれるが、それは何を意味しているのだろう! われわれが、生まれ落ちるとまもなく、世界はわれわれに影響をあたえはじめ、死ぬまでそれがつづくのだ。

 いつだってそうだ。一体われわれ自身のものとよぶことができるようなものが、エネルギーと力と意欲のほかにあるだろうか! 私が偉大な先輩や同時代人に恩恵を蒙(こうむ)っているものの名をひとつひとつあげれば、後に残るものはいくらもあるまい。(「エッカーマンとの対話」岩波文庫より)

 

 このように、世界の文学者として代表的なひとりにあげられ、膨大な著作を残したゲーテは、その著作において独創的な内容や彼自身の生き方で広く影響を与えてきたが、そのような人物が、真の独創というのはなく、みなさまざまの過去の先輩や同時代の人たちからの影響―それらを学んで取り入れたものだと述べている。

 こうした人間の独創性を真の独創と比べるなら影のごとしということになる。独創と見えてもそのもとを追求していくと、他者のさまざまの影響からできている―ということだからである。

 真の独創―それは神にある。周囲の身近な自然―木の葉の一つ一つ、その花の姿、色、仕組み、その内部の細胞の仕組みやそこで働く膨大な化学物質やその複雑な反応―それらはみな人間の存在しないときからあったのであり、その独自の成り立ちや姿はすべて人間でなく、人間を超えた存在―神による。毎日の大空の姿、雲の姿やその色合い等々、そこには無限の変化がある。それらすべては限りない独創の源から生み出されている。

 聖書においては、それゆえにこうした学び―人間に由来するもの―以上のものが最初から示されている。

 それが、啓示である。アブラハムは書物や学者に学んで数千年の祝福の基となったのではない。神の啓示を受けてそれにしたがったからである。

 モーセも多くの教育をエジプトの王子として育ったときに受けたであろう。しかし、それらによっては真理はえられず、悪に勝利する力をも与えられなかった。

 彼が、この世界に満ちる真理と悪の力に勝利する力が与えられたのは、学ぶことによってでなく、啓示により、直接の神の言葉を受け、神の力を受けることによってであった。そしてその神の言葉に従うことからくるさまざまの苦難によって多くのことを学んでいったのである。

 また、世の中の数々の不正や汚れをするどく指摘して、命がけで神の言葉を伝えた預言者たち―彼らもその真理の言葉や迫害にも耐えて語り続ける力を与えられたのは、どこかの学者や専門家に学んだゆえでなく、直接に神からの啓示―神の言葉を受けたからであった。

 例えば、アモスという預言者はただの羊飼いであった。何も本来政治や社会のことについて発言するような人物でなかったが、神が臨んだときには深い洞察力を与えられ、当時の人間や社会の根本問題を見抜き、そこに神の言葉を語る人となった。

 キリストが選んだ12弟子たちも同様だった。イエスが最も用いられた3人の弟子―ペテロ、ヨハネ、ヤコブたちはみな漁師だった。学問とはまったく縁のない人であった。文字も読めなかっただろうと推測されている。彼らが仕事中―網をつくろっていたときにイエスによって呼び出され、そのことばにしたがってイエスの弟子となったのである。

 学問があった弟子―それは12弟子ではなく、キリストの真理、キリスト者たちを迫害して殺すことまでしたパウロである。彼はユダヤ人であったが、ローマ市民権を持ち、ガマリエルという特別なユダヤ人教師について学ぶという経済的にも豊かなエリートであった。

 しかし、その学問をもってしても、キリストの真理はまったく分からなくて 激しい迫害をキリスト者に加えていて国外まで追跡して捕らえていくというほどであった。

 ここにも、学問、学ぶということと、啓示を受けるということが大きくことなっているのが示されている。

 パウロが回心したのは学んだからでなかった。キリスト教徒を迫害しているさなかに、突然臨んだ復活したキリストの語りかけであった。神の言葉が直接に示されたこと、そして天からの光が射してきたことによってである。これは啓示である。啓 とは 開く という意味であり、啓示とは、開いて示すということである。ギリシャ語のアポカリュプシスや英語のrevelation などもその原意はやはり 開いて示すということである。

 人間はいくら他人の言ったことをまねて―学んでも、この世界の究極的な真理はえられない。それはひとえに直接的に神からの啓示による。天が開ける―という言葉があるが、神の国の霊的世界が開かれなかったら分からないのである。

 他方、この啓示ということを与えるために、神は人間を用いられる。私自身もひとりのキリスト教の著作家の一冊の本のごく一部を古書店で立ち読みしてキリスト者となった。それまでまったく関心もなかったキリストの真理が突然私の心の深いところにはいってきたのである。これはまさに啓示だった。

 だれでもキリストの福音を受け取れた、信じて受け入れることができたということは、啓示を受けたからである。だからこそ、どんな貧しい人、奴隷でも無学文盲の人たちでも古代からキリスト者となる人たちは絶えなかった。むしろそうした人たちが圧倒的に多いのが古代から比較的近年の日本でも見られたことである。

 イエスの時代においても、律法―神の言葉を学び他人に教えることを業としている人たち、律法学者たちがかえってイエスの真理をまったく理解せず、それどころかイエスを憎み、迫害して死に至らしめた。それに対して学ぶことなど全くできなかった生まれつきの盲人やハンセン病の苦しみにさいなまれていたような人たち、あるいは異邦の女性などがイエスが神の子であり、神の力を与えられていることを単純に、かつ深く信じてイエスによって救われたことが記されている。ここにもそうした弱い、無学な人たちに与えられた啓示の重要性が示されている。

 こうした聖書の記述は、人間のわざである学問の限界と啓示の違いを明らかに示しているものである。

 そしてそのような啓示を与えるものこそ、神であり、キリストであり、そして聖霊と言われている。つぎのキリストの言葉はそのことを示している。

 

…父が私の名によってつかわされる聖霊が、あなた方にすべてのことを教え、私がはなしたことをことごとく思い起こさせる。(ヨハネによる福音書14の16より)

…真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。(同16の13より)

 

 学問や書物でいろいろと研究するなどはごく一部の人しかできない。しかし、神の啓示を受けることはどんな人でも可能だと約束されている。

 そしてその聖霊を受けてはじめて本当の学びができるようになる。新しい視点、洞察力が与えられるからである。苦難にあっても順境にあっても、また先人からも現代の人からも、さらに雲や大空、星や小さな野草、樹木、風のそよぎ、海や川のすがたとその流れ、また音楽や文学、社会の問題等々―からも。

 そのような重要な意味をもつ聖霊の注ぎに関して、すでにキリストよりも400年ほども昔に書かれた預言書では次のように預言されている。

 

…その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。

その日、わたしは、奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。(ヨエル書3章1〜2より)

 

 ここに明確に記されているのは、聖なる霊が注がれるのは、奴隷でも老人や若者でも、年齢、身分などに関係なく与えられる時が来るという預言である。

 そしてこれがこの預言から400年ほども後になって、キリストの復活ののち、使徒たちが祈って待ち望んでいたときにこの預言が成就して、多数の人たちに聖霊が注がれた。

 そしてそれが今日まで続いているキリスト教が世界に広がっていく出発点となったのである。

 そのような聖霊こそが、いかなる状況の人にも啓示を与え、天―霊的世界が開かれるもとになる。しかもその万人にとって重要な聖霊は、健康も学問や地位や社会的状況もいっさい関係なく、ただ真実な心もて神を信じ、求めるだけでよいというのがキリストのメッセージなのである。(ルカ福音書11の9〜13) 


神、我らとともに

(その1)―創世記、出エジプト記などから

 

 聖書は神が私たちと共にいてくださる―この真理を最初から終わりまで述べ続けている書である。

 闇と混沌のなかから光あれ! と言われる神、それは愛ゆえである。私たちが苦しみ、希望を失い、現実の途方もない壁に道を失い、あるいは信頼していた人から裏切られ、肉親の離反、またみずからの罪ゆえの困難な事態、さらには自然災害や突然襲ってきた事件などにまきこまれての苦しみや悲しみ―それはみな闇と混沌、空しさ、荒廃である。

 そこに光を与えようとしてくださるのは愛ゆえである。そしてどんな苦難のときにもともにいてくださるということを暗示している。私たちの苦しみが重く、かつ長く続くとき、友も去っていくことが多い。慰めようのない苦しみがわかるほどそうなる。しかし、神の光はそのような暗い状況にあっても差し込むことができる。それは神が愛ゆえに、その苦しみにある魂とともにいてくださろうとするからである。

 神の愛はこのように、聖書の最初からはっきりと示されている。

 

 伝道とは,何とかしてこの世に神の光を知らせよう、その光の方向を指し示そうとすることである。

それは神の与えようとしている希望、喜び、また平安を伝えようとすることである。

 それは社会運動とは異なる。社会的、政治的運動は、怒りや攻撃心、非難などと結びつきやすい。例えば、憲法9条を守ろうという主張や働きかけは重要なことである。それはキリスト者にとっても憲法9条の精神は聖書で言われている真理と通じるものがあるからである。

 しかし、苦しみや絶望で、いま死にたいというほどに悩み、闇に包まれている人にとっては、空しく響くばかりである。それは、戦争は人を殺すことだから憲法9条を守ろう、という主張は、人を殺さないようにしよう、ということにつながっているがそれはすでにモーセの十戒にもあり、またごく一般的な戒めである。 そうした戒め(律法)によっては人は救われないというのもまた、聖書の基本にある。

 

 アブラハムやヨセフ―神は彼らとともにいたからこそ、あらゆるなじみある故郷のものを捨てて、1500キロもあろうかと思われる遠いところへと出発した。それは、神の愛が迫り、導いたからであった。

 愛こそは、ともにいてくださる根源にあるものだ。

 創世記の後半に、ヤコブの子供のひとり、ヨセフのことが詳しく記されている。

 

… 主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。

主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、

ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。(創世記39章より)

 

 ヨセフは、兄弟たちの妬みをうけて殺されるところであったが、かろうじてエジプトに売られて行った。そしてそこで不思議なことで、エジプトの宮廷の役人の家に住むことになった。そこで彼はすぐれた能力を発揮し、信頼もされて、財産をまかされるほどになった。

 しかし、その家の主人の妻から悪意ある誘惑を受けてそれを拒んだことで、憎しみを受けて、ヨセフはその妻を誘惑したと讒言をし、ヨセフはそのために監獄に入れられることになった。

 しかし、そのような事態となったなかで、監獄のなかでヨセフはすぐれた能力を発揮したゆえに、看守長からも認められ、監獄の囚人をみなヨセフの手にゆだね、重んじられることになった。それも「主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。」(創世記39の21〜23)

 ヨセフが兄弟たちの悪しき計略によってエジプトに売られることになり、さらに悪い女の偽りの証言によって監獄に入れられるという苦難も、神が共におられたなかで生じた。

 このように、神が共におられるということは、やさしい母親が共にいる、ということとは大きく異なるものがあるのがわかる。愛のある母親なら決して自分の子供を死の危険に遭わせたり、遠い異国に売り渡したり、悪魔のような人間の手に陥らせたり、監獄に入れたりすることはあり得ない。

 主イエスは、伝道の最初にも、聖霊が注がれ、天が開けて神が直接に「これは私の愛する子、心に適う者」と言われたように、神がもっとも共におられた存在であったが、生まれるときにも、その地の王から憎しみを受けて殺される寸前となり、遠くエジプトまで両親が逃げて行ったこと、後に30歳のころ、はじめた伝道の最初から憎しみを受け、ユダヤ人の宗教的、政治的指導者たちから迫害され、十字架に付けられて処刑されるということになった。

 このように、聖書のなかの数々の歴史、そしてそれ以降の歴史においても、神が共におられるということは、何も苦難がなく、それらから守られるといった人間的な安全は約束されていない。

 しかし他方では、神がともにおられることは、そうした数々の苦難がふりかかってきても、不思議な助けや道が開かれて、その苦難がさらに良きことにつながっていくということが強調されている。

 旧約聖書における神は、このように数千年前から、人と共におられることが記されている。その神とはどのような存在なのであろうか。

 すでに、神は旧約聖書の時代から愛の神ゆえに、闇に光を与え、神の言葉にしたがっていく人には大いなる祝福を与えることを記した。

 しかし、他方では、旧約聖書の中にみられる一部の記述から、神は正義の神、裁きの神であって、新約聖書で言われている愛の神とはちがう、といったこともしばしば言われてきた。昨年、福祉関係で長くよい仕事をしてこられて、キリスト教関係では以前から知られている方の話を聞く機会があったが、その時もそのようなことが言われていた。

 このような受け止め方のために、旧約聖書は新約聖書とはちがうのだ、という見方がかなり広くみられる。しかし、旧約聖書を細かく読んでいくときに、そのような見方は表面的で、旧約聖書の核心をついていないといわざるをえない。

 

 神がいかなるお方であるのか、旧約聖書において最も明確な記述の一つと言えるのは、次のものである。これはモーセに与えられた神の言葉として次のように記されている。

 

…主は彼の前を通り過ぎて宣言された。

「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、

 幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。

しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。(出エジプト記34の6〜7)

 

 ここで記されている神の本質は、新約聖書においてもそのままあてはまる。神が裁きの神でなく、愛と憐れみの神であり、罪の赦しを与える神であること。私たち人間の繰り返し行なわれる罪に対しての赦しを与える神である。罪の赦しこそ、愛の最も深い本質であり、幾千代にも及ぶ慈しみ(*)―言い換えると永遠の愛を持っておられるの神だと言われている。

 

*)「いつくしみ」とは文字のなかった日本の古代からあった言葉。それと中国語の「慈」という言葉の意味が共通している部分があるということで 「慈しみ」 として漢字入りで表現してきた。「あい(愛)」という言葉は、もともとの日本語ではなく、中国語であり、現在も中国語として生きて用いられている言葉である。 しかし、私たちは子供のときからの国語教育において、もとからあった日本語と、中国語から取り入れた文字、言葉を受け入れて日本語として使ってきた言葉とを区別しないで教わってきたために、本来中国語である言葉も昔からの日本語のように思っていることが多い。

 

 新約聖書のキリストが地上に来られたのは、罪の赦しのため、十字架にかかられた。このキリストの来られた目的である罪の赦しということは、このように、キリストよりはるか昔、千数百年も昔から神の本質として記されている。

  また、罰すべきものを罰して、父の罪を子、孫にも問う―これも現代しばしば見られる。父親が重い罪を犯して長く刑務所に入れられたりすると、その家族までたいへんな苦しみやさげすみを受けることがあり経済的困難も生じ、進学、就職も希望のところにいけず、世の中で差別を受けて苦しい生活をせねばならない―こうしたことを指している。

 これも罪の重さを思い知らせ、それがいかに多大の苦しみや悲しみを周囲にもたらしていくかを、深く知らせるための神の愛の厳しい表現でもある。その愛する者に、ヨセフのことですでに述べたように、死ぬかと思われる苦しみや迫害をも与えるのが神の愛でもあるゆえに、こうした厳しさも伴うと考えられる。

 神は慈しみ―愛の神であるからこそ、人と共にいてくださる。また、忍耐の神であるからこそ、さまざまの間違い、罪があってもなお、愛を注ぎ続け、導いてくださる。そして赦しの神であるので、そうした多くの罪をあたかもなかったかのように扱ってくださる。

 こうしたさまざまの愛のわざ―それはまさに神が共にいてくださるゆえである。 


闇と混乱の中の光―キリストと聖書

 

 この世界は、闇と混乱の世界である。現在はテレビやインターネットの普及で世界中のできごとが瞬時にして伝わってくるので、そうした闇と混乱の度合いがよく分る。

 しかし、この状況は、決していまにはじまったことではない。

 そのことは、聖書という人間の深淵を記している書であるゆえに、冒頭からそのことに触れている。

 それは、闇と混沌が最初の状況であったということである。

 そしてそれに続く内容は、その闇を具体的に記したものとなっている。

 最初に創造された人間―アダムとエバは二人とも、見てよく、食べてよく、一帯をうるおすすべてが備えられたところにいた。

 それにもかかわらず、そのような大いなる恵みを与えた神の言葉に従わず、闇の力に従ってしまった。

 そこから、そのうるわしい地―エデンの園から追放されてしまう。

 そしてさらにその追放は、神の言葉からの背反であり、それが子どもであるアベルとカインとの関わりにも深い闇となっていった。

 それは、自分の神への捧げ物が受け入れられず、アベルの捧げ物が受け入れられたという単純なことから激しい憎しみを抱くようになり、突然アベルを殺害するという驚くべき事態となった。

 ここに、現代まであらゆる歴史においていかなる国や民族にもかかわらずに生じてきた闇と混沌の根本的原因が記されている。

 そしてそれは現代もまさに日々生じていることである。神の言葉に聞こうとせず、人間の言葉、自分中心であろうとする人間の考え、思い―そこから出てくる人間の言葉に動かされ、信じてしまうということである。

 光あれ!―この言葉は、そのまま 命あれ! につながる。

 主イエスは、まさにこの両者を実現する神の言葉を持っていたし、ご自身がその神の言葉そのものでもあった。

 当時―否比較的近年に至るまで、ハンセン病の人たちは文字通り真っ暗闇の生活を送っていた。家族からは断たれ、社会からも見捨てられ、また体も全身にその病魔は襲い、ある者は失明し、また手足や顔面もひどく変形、あるいは醜い外貌となり、手足はさらに切断に至る人さえいた。そのような絶望的な闇のなかにも、キリストの光と命は及んだ。

 そのような人に主イエスは、光あれ!、命あれ! と言われたのである。そしてそのみ声に聞いて従ったものはたしかに、他のいかなる手段によっても与えられなかった新たな力を与えられた。それはまさに光と命だった。

 この世の闇―それは日々のニュースにおいても繰り返し知らされている。さまざまの犯罪、国家や民族同士の武力による攻撃、戦争、そして自然災害、政治や企業の腐敗―等々。

 またそうした闇をもとにした小説やドラマのたぐいも毎日出されている。

 大多数の文学というものも、人間世界の闇―罪を記したものと言えよう。

 宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」という作品は、広く知られていて子ども向けの語り方、童話のような表現で表されているために、子どもの物語だと思ってしまうほどである。

 しかし、この物語は、決して単に子ども向けの童話ではない。この物語には独特の哀調がある。この世界の闇と混沌への深い悲しみがある。自分の命さえ差し出そうとするような愛への高い憧憬が感じさせている一方で、その記述の少し後で、この銀河鉄道の夜の旅の最後に現れるのは、深い闇の世界であった。

 

 「…ジョバンニはそっちを見て、まるでぎくっとしてしまいました。

天の川の一とこに大きなまっくろな穴が、どほんとあいているのです。

その底がどれほど深いか、その奥に何があるか、いくら目をこすってのぞいてもなんにも見えず、ただ目がしんしんと痛むのでした。」

 

 なぜ、著者はこのような情景を描き出したのか。銀河鉄道の旅が終わろうとするそのとき、単にまっ暗な穴であるならば、不気味であり恐れや不安が生じるのが自然であるが、ここでは、そうではなく、その暗い穴がどれほど深いか、その奥に何があるのか全く見えない―分からない。そしてただ目がしんしんと痛む、という表現となっている。

 目が痛む―それは心が痛むということを暗示している。

 これは、この世の闇の世界を象徴的に示している。この世の闇は、どれほど深いか、それがなぜ存在するのか、なぜこの世界に到る所で考えられないような悲劇が次々としょうじていくのか、その悪の力の奥には何があるのか、何がそのような闇を存在させているのか―それらはいっさい私たちにはわからない。

 その闇によって生じる世界の悲しみや苦しみを思うとき、ただしんしんと目が痛む―静かにしみ込むように心が痛む ―。

 その大きな悲しみや痛みを何がいやすのか、それはわからない。それゆえに、何が本当のさいわいなのか―との問いかけに対して、

…カムパネラは、「僕、わからない」とぼんやり言いました。…

 とある。

 科学技術もまた、この世界の奥深いところに存在する闇と混沌を解決することなどはできない。いくら月にロケットを飛ばして降り立ったといっても、たったひとりの絶望に苦しむ人の心の闇を照らすことはできない。

 日本で最初のノーベル賞受賞者であった湯川秀樹が晩年に書いた「人間にとって科学とはなにか」という本の最後の部分に、科学技術が発達していったそのあかつきには何があるのか、ということについて次のように言っている。

 

……月が照って、松には風が吹いている。いい景色や。人間はそこにはいないかも知れない。それは何もののしわざなのか。どう考えたらいいのか。考えれば考えるほど分からなくなる。 わからんけれどふだんに問うていかなければならない。その結果は、骨だけが残ることになりはしないか。私はそれが科学だと断定するわけではない。もっと明るい科学の未来像が考えられないというわけでない。ただ、科学とはそんなものかも知れないという、いやな連想を消しきれないのです。 (「人間にとって科学とは何か」一六五頁〜一六七頁 中央公論社 一九六七年)

 

 この本が出版された年は、私が大学4年であった。そして科学と人類の将来という問題に強い関心を引き起こすことにもなった。科学技術は人間にとって大いなる災いを生むのではないか―という疑問が私の内にもわき起こってきたのであった。

 そしてそれはさらに言えば、科学技術が害悪を生み出すというより、それを使う人間の罪―真理に背く考え―が科学技術を用いて害悪を生み出すのであり、また人間の能力の限界―弱さが科学技術の進展がどのようなことを生み出すか予想できないというといったほうがより正確だと言える。それとともに人間が先を洞察できないという弱さもそこにある。

 このように、当代随一の科学者であっても、この世界に深く存在する闇と混沌をどうすることもできないのがわかる。

 

 現在の世界では、イスラム国(IS)のテロが大きな問題となっている。しかし、ある政治目的のため、暴力によって他者を殺害するといったことは、昔から行なわれてきた無数の戦争によってなされてきた。戦争こそは最大のテロである。戦前の日本も中国を中心としてアジア諸国へと侵略し、わずか15年ほどで2千万人とも言われる人たちを殺害したという。

 それ以前にも、日清戦争、日露戦争と次々と戦争があって多くの人たちが互いに殺し、殺されることになった。もっと昔では、戦国時代というのがあって100年ほども戦乱が続いた。ヨーロッパにおいても第一次世界大戦で数千万人が犠牲となった。…このように軍人だけでなく一般の人たちも巻き込む戦争は、最大のテロだと言える。(*

 

*)テロの定義はいろいろ言われているが、政治目的のために暴力をもって殺害し、施設などを破壊することというのが一般的。戦争をテロから除外する説明もあるが、暴力で殺傷することに変わりはない。イスラム国が敵国とみなす国に対しての破壊行為、殺傷行為は一種の戦争であると言える。

 

 イスラム国がテロによって目的を達成しようとする、それはさまざまの理由が考えられるが、重要な理由としてあげられるのが、イスラム教のコーランのなかに、迫害するものは殺せ、といった内容があるということである。

 

「神(アッラー)の道のために、おまえたちに敵する者と戦え。

…お前たちの出会ったところで、彼らを殺せ。

お前たちが追放されたところから敵を追放せよ。迫害は殺害より悪い。(コーラン第二章190191)」

 

 このような敵との戦いをジハード(聖戦)といっている。

 こうした考え方のもとにあるものは、何もイスラム国にかぎらず、敵への憎しみ、復讐といったことはどこの国でもみられたし、さらに個人的な人間関係でもいくらでもみられる。主イエスも、福音書のなかで、

…「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。

 

 と言われている。

 いつの時代でもこのようなことが一般的である。そして現在でもこのことは大多数の人にとっては変わらない。

 そうした人間の根本的な傾向のただなかに主イエスが言われたのであった。

 

…しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。(マタイ5の44)

 

 現代において大きく浮かびあがってきた問題はテロの問題である。そしてそのテロとは、この主イエスの言われた敵を愛し、迫害するもののために祈れということと真っ向から対立する考えである。そしてまたそのようなテロに対する側もまた、武力攻撃ということによって相手への憎しみを増幅させている。

 そしてこのような憎しみの表現である武力攻撃によってテロを起こさせる力は弱まっていくだろうか。決してそうではなかった。

 かつてアメリカの同時多発テロで、3000人ほどが死亡した。しかし、その直後からアメリカを主体としたアフガン戦争が生じ、それが後にはイラク戦争を生み出し、それらは現在に至っても続いている。

 そしてそれらの戦争による犠牲者は、10万人近くに達すると推定されている。傷ついた人たち、精神的に病むようになった人たち等々の数はさらに何倍にも達するであろう。

 もし、同時多発テロの後、憎しみによるアフガン戦争を始めるかわりに、それから現在に至るまでに費やされた莫大な経費や労力を、世界の平和や貧困、福祉、医療、教育、荒れ地の開拓、自然の保護育成等々に費やしたならば、こうしたおびただしい犠牲者もなく、その後今日に至るまで続いているテロということにもならなかったであろう。

 これは、キリストが言われた、敵対するものを憎み攻撃するのでなく、その人たちのために祈る心があれば、武力攻撃でなく、そうした人間にとってなにか良きことに資金や労力を使うときの祝福をもたらすための活動へと進んだことだろう。

 このように、闇と混乱のこの世界に対して、キリストは数千年を経ても古びることのないメッセージを与えてきた。それは真理の光である。 そして命の光である。

 このキリストのことを記してある書物が聖書であって、それは新約聖書だけでなく、旧約聖書の本質はそのキリストを指し示すものである。

 それは主イエスご自身がつぎのように語っておられる。

 

…あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書(旧約聖書)を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。(ヨハネによる福音書5の39)

 

 このように、旧約聖書がキリストを指し示すものであり、新約聖書は言うまでもなく、キリストのことを書き記した書物である。それゆえに、聖書全体がキリストを指し示すということができる。

 そして、キリストは光そのもの、しかも命の光である。いかにこの世が困難な事態となろうとも、闇夜に光る星のごとくに、いかなるこの世の力であってもその光そのものを消すことはできない。

 神の光、キリストの光そしてキリストの存在そのものが、あらゆる闇に勝利するのである。

 その勝利は、聖書の巻頭に永遠の宣言として記されている。光あれ!という神の言葉によって現実に光が生じたことがそれである。

 この世界がいかに闇と混沌であろうとも、私たちがその神の言葉をしっかりと持ち続けているかぎり、昨日も今日もそして永遠に、私たちは光を見続けることが与えられている。

 たとえ私たちの弱さ、罪ゆえにその神の言葉を手放したり、見失ったり、また疑いが生じたりしても、そこから神に立ち返ることによって私たちはそのみ言葉、光あれ! の言葉のとおり、再び光を得ることができる。


神こそわが望み

              ―詩篇43編

 聖書の詩篇は約三千年前に書かれたものが主体となっており、その多くの部分の作者はダビデとされている。彼は、武人であり、王でありながら竪琴を弾き、多数の詩も作ることができ、軍人としても政治家としても多方面にわたって賜物が与えられていた人である。

 ダビデは王になろうと思ってなったわけでなく、もとは羊飼いの少年にすぎなかった。彼は、当時の敵対していた国との戦いで、めざましい働きをしたので、人々から支持された。

 しかし、そのことで王にねたまれ絶えず追いかけられ、殺される寸前にまでいったことが何度かあった。このような苦しみと、後に王となったときに大きな罪を犯してそれが原因で深刻な苦しみを味わうことになった。

 詩篇の中には、これらの経験がもとになったと考えられる詩が多く含まれている。

 ダビデの詩とすれば、3000年ほども昔からこの詩が読まれてきたと言える。

 日本の最初の文書でもせいぜい1300年ほど前の日本書紀、古事記であるから、それと比べると詩篇ははるかに昔から読まれてきたとても古い詩集である。

 聖書は詩、歴史、また神の教えが集められたものである。詩でありながら神からの真理が豊かに含まれているので聖書に収められてある。普通一般の人は、聖書は教えが書いてあると何か堅苦しいものだと思いがちだが、人間の祈りや叫び、感謝や喜びがありのままに書かれている。

 

…神よ、あなたの裁きを望みます。…

あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者

よこしまな者から救ってください。(1節)

 あなたはわたしの神、わたしの砦。

なぜ、わたしを見放されたのか。

なぜ、わたしは敵に虐げられ、

嘆きつつ行き来するのか。(2節)

 

 裁きを待ち望む。現代の私たちでも誰でもこの気持ちがあるはずである。神の真実を否定したり、嘘をついたり、人を中傷したりする人はたくさんいる。私たちもうっかりしてるとそのようなところに入り込んでしまう。周りに意図的に悪意をもってする人がいたら、自分もそのような悪に対して感情的になって怒りや憎しみを抱くことになりかねない。

 こうしたさまざまの悪意、中傷は、私たちの置かれた状況、社会的地位などに関係なくこの世では絶えず、私たちを攻撃してくる。

 それに対して、神が裁いてください、そうした悪意を滅ぼしてください、という切実な願いがこの詩篇の中心にある。こうした悪に直面するとき、相手の人間への憎しみを持っても何も解決せず、憎しみを持てば憎しみを持った人が一番害を受ける。

 重要なことは、人間の一時的な感情ではなく、神が本当の意味で正しい裁きをしてくださいということである。正しい裁きだから、こう言ってる自分自身にも良くないところがあれば、それを指摘されるだろうという気持ちである。

 このように、この詩の作者の願い、祈りは、非常に苦しいところに置かれている状況にあって、そこに神が来てくださって、正しい裁きをしてくださいということである。

 聖書に記されている唯一の神とそのはたらきは、表面的に見るだけでは、わからない。いくらでも、真実や愛に反したことが行なわれているし、裁きも何もないように見えることが多いからである。

 これは信じることが重要である。信じるのは難しいという人もいるが、靖国問題も200数十万の死者の霊が神々だ―崇拝の対象とされているが、そのなかには、戦争でたくさんの何の罪もない他国のひとたちを殺害したひとたちもどれほどいるかわからないほどである。戦争とはそうした大量殺人にほからならないからである。

 そのような人たちが死後は、神々となって礼拝の対象になる―そのようなことも、理屈で考えると到底礼拝できないのではないか。それは戦争で死んだ人たちが神―英霊と言われる礼拝の対象なのだと信じているということなのである。世界的にも200万を越える神々を祀っていると称する宗教団体は聞いたことがない。 狐や蛇、大きな山が神になると信じる人もいる。

 同じ信じるということなら、そうした人間や動物、あるいは自然物体を神々として信じるより、天地宇宙を創造し、今もその神は得体も知れないのではなく、私たちの愛を遙かに超えて愛と真実を持っている。その神を信じるのが、ずっと望ましいと言える。

 「裁きを待ち望む」―これは、意図的に悪をたくらむ人が裁かれ、そのような悪が除かれるようにと待ち望むことである。この暗い世に、神様、どうか来てください、と願うことである。主よ来たりませという聖書の最後の言葉も同様である。

 

 次の2節の意味をわかりやすく表現すれば次のようになる。

 

…あなたこそ私の神、わが力。それなのに、どうして私をこのような苦しみに遭わせて助けてくれないのか。なぜ、私は敵対する者、悪しき人に苦しめられ、

悲しみつつ、生きていかねばならないのか。

 

 これは信仰を持っていてもこのような気持ちになることはあり、これは現代でも同じことが言える。その中で神が来てくださることを待ち望む。待ち望む姿勢がこの43編を貫いている。神がいなければ、人間を待ち望むことになる。しかし人間が来ても人間の悪意に悩まされていることを誰も解決することはできない。人間は最終的には人間の暗い部分を取り出すことができないからである。

 しかし神が悪のはたらくところに来てくださったら、その悪しき人の内に働く悪の霊(心)が追い出される。悪の力で苦しめられ、悲しみを持った心に来てくださったら、そこで励ましを受ける。

 

 

… あなたの光とまことを遣わし、わたしを導いてください。(*

聖なる山、あなたのいますところに

わたしを伴ってくれるでしょう。(3節)

神の祭壇にわたしは近づき

わたしの神を喜び祝い

琴を奏でて感謝の歌をうたいます。神よ、わたしの神よ。(4)

なぜうなだれるのか、わたしの魂よ

なぜ呻くのか。

神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう

「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。(5)

 

*)新共同訳では、「あなたの光とまことを使わしてください。彼らは私を導き…」とあるが、神の光やまこと(真実)を 彼ら というような表現は、聖書のほかにもみられないし、日本語として不適切だと言えよう。この新共同訳の訳は、英訳などで、「Let them lead me 」などと訳されるのでその訳に影響されたのではないかと思われる。

 

 この世の中は偽りで満ちているが、神は真実なお方であるので、偽りに満ちたこの世の中に、あなたの真実の光、真実そのものを遣わしてくださいということである。

 神の光とまこと(真実)こそが、私たち導いてくださる。この世の中のどろどろした様々の暗いところから導きだして、神のところへ連れて行ってくださる。

 昔は実際に祭壇があったが、今は心の中に、目で見えないところにおられるので、個人的な祈りによっても、また、礼拝の集まりによって、目に見えない神の祭壇に近づく。目に見えない祭壇なので、目に見えるものを捧げる必要はなく、目に見えない感謝の心を捧げる。

 この詩の作者は、苦しいさなかであるのに、4節にあるように部分的に希望を体験させていただけた。光とまことを遣わせてくださったら、神を喜び祝うことができた。またこの人は以前にも経験しており、今は窮地に陥っているが、神のところに導かれれば4節にあるようなことができるのを知っていた。それゆえに、待ち望もうとしている。

 

 「御顔こそわが救い」というのは、あたかも神と顔と顔を合わせて見るように、近い関係になってくださることが救いだという意味。キリスト教では単に信じているだけではなくて、顔と顔を合わせるように間近に感じるという意味がこもっている。実感をする神である。

 人間同士でも、距離が離れていて、互いに見えなくても、愛が深ければ深いほど、離れたところにいる相手を実感することができるであろう。

 この詩の作者は、神との近い関係、神の顔を見ると言えるほどの状態へと引き上げられたことがあったが、その後、苦しい状況に追い詰められ、かつての平安を失ってしまった。そこで、光とまことの神を待ち望んでいる。

 大きな苦しみや悲しみに遭遇したとき―信頼していた人から裏切られ、見下される、あるいは苦しい病気に陥ったとき、心の中が暗くなってしまい、どっちを向いて生きていけばいいのか分からなくなる。そして全く光を失うと生きていけなくなる。

 しかし、ここに光があると確信できるとき、人間は生きていける。神はそのような真実な光を送ってくださることを、この作者ははっきりと知っていた。

 現代の私たちは、「御顔こそ、わが救い」などとは言わない、またそのように思わない人が多いと言えよう。

 この表現は、詩篇42篇の6節と11節にも見える。なぜこのように、「御顔」が繰り返し現れるのか。

 それは、この詩の作者が神の顔を見ると実感するほどに神と近い関係を実感していたからである。

 ただ神の御顔を仰ぐ、というだけで、平安と力が与えられた経験を与えられていたゆえであろう。

 主イエスも、「何と祝福されていることか、心の清い者は。彼らは神を見るからだ。」と言われた。この詩の作者は、神への真剣なまなざしゆえに心清められ、神の御顔に接する―神を見るということが私たちの究極的な平安であり、力の源であることを知っていたということができる。

 

 1,3,5節とも、言葉を換えて表現されているが、内容は同じことが言われている。

「正しい裁きよ、光と真実よ、来てください」ということである。聖書の最後にある「主よ、来てください!」という切実な祈りの言葉と本質的には同じことを、この詩の作者は祈り願っている。

 自分の魂に呼びかけるように、祈っているうちにだんだんと力が与えられ、自分を励まし待ち望もうというところへと導かれていった。

 

…なぜうなだれるのか、わたしの魂よ

なぜ呻くのか。

神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう

「御顔こそ、わたしの救い」と。(5節)

 

 私たちの心はさまざまの問題に直面して弱り、ときには打ちのめされ、苦しむ。

そのような状況のただ中で、この作者は、みずからの内面に語りかけ、励まそうとする。神こそわが希望! ということである。

 現代の私たちにとっては、「キリストこそ、わが望み! 」と言い換えることができる。

 使徒パウロの有名な言葉―信仰、希望、愛こそは永遠に続く。そのなかで最も大いなるものは愛である。(Tコリント13の13)

  この詩篇43篇の作者は、神を信じ、その神こそはいっさいの悪を最終的に除き、光と真実を与えてくださると確信していた。そこに希望も永遠に続く。いかに弱き状態に落ち込もうとも、神を待ち望む、神への希望はどこまでも続けようとする強い意志が感じられる。

 神の恵みを待ち望むとともに、私たちのほうもさまざまの苦難、災いがあってもなお、神こそ、わが希望という信仰と信頼をもち続けることをこの詩は私たちに語りかけている。 


2016年のキリスト教(無教会)全国集会について

 

 今年の5月14日(土)〜15日(日)の二日間、徳島市で無教会全国集会が開催されます。

 今回の全国集会のテーマは、「神の言葉―希望に生きる」です。神の言葉こそ、私たちの永遠の希望、決して壊れることのない力です。

 聖書にも、「…草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。(イザヤ書40の8)

 とあります。

 人間のさまざまの意見や考え、主張が毎日無数にインターネットやテレビ、雑誌、新聞等々であふれていますが、それらはみなたちまちにして消えていくもの、変質していくものです。

 そうした中で、現在日本や世界に生じているさまざまの困難な問題に対して私たちがどこまでも、永遠的な真実や愛を基盤として歩むことはいっそう重要となっています。

 私たちキリスト者の信じる神は全能の神であり、あることができるが、あることはできない、といったものではありません。

 神の力そのものを持っている神の言葉もまた、万物を創造する力があるということは、聖書の冒頭から記されていますし、ヨハネ福音書やヘブル書においてもその冒頭に記されています。

 今回の全国集会では、現在の時代状況を鑑みて、その押し寄せる闇の力に対しての最大の防波堤となりうる神の言葉に生きることを主題としています。

 聖書講話や、み言葉に生きてきた証しをなるべく多くの方々に語っていただき、参加者が神の言葉の力とさらに聖霊を注がれる集会となることを願い、祈っています。

 今回は会場の都合もあって分科会が持てないために、全体会場で二日間のプログラムのほとんどをすることになっています。

 そして、キリスト中心の集会であるので、キリストが、無学な人、通りがかりの人、ハンセン病など病気の苦しみにさいなまれている人、盲人やろうあ者などの障がいを持った方々に神の愛を注がれてわかりやすい言葉で、神の権威と力をもって福音―よき知らせを語られたように、今回の集会でも、そうした弱さに苦しむ方々が参加されてもわかるような内容であることを願っています。

 そのために、聖書からのメッセージや証し、感話などとともに重視しているのが、賛美です。賛美を歌うことは祈りであり、メロディーやハーモニーなどに乗せて祈りを神に差し出すことでもあります。

 そして言葉では受け入れられないような場合でも、賛美となると心に入っていくということもあります。

 今回は、音楽のタラントの与えられた方を招くとともに、地元徳島の集会員―複数の全盲の方も含めての賛美も土、日の両日あり、聴覚障がい者が参加することもあって手話讃美もなされます。

 さまざまのこの世の問題についての議論や意見は、日毎のテレビや新聞、雑誌、印刷物、インターネットにはあふれています。必要ならそれらをいくらでも参照することもできますが、日頃遠隔地に住んでいて互いに会うこともできない信徒たちが集まることによる霊的な交流は、今回のような集会でなければ与えられないことです。

 毎週の主日礼拝などでももちろん霊的恵みやみ言葉は与えられていますし、自分だけの祈りや学びでも与えられるでしょう。

 しかし、こうした全国集会のような多方面からの方々の集りは、地元準備する者たちだけでなく、それら各地からの参加者の方々の祈りが開催に至るまでと当日も波が押し寄せるように合わせられてなされるものです。

 祈りは聞かれる―それゆえに、そこに予期していなかった上よりの恵みをも与えられることは、過去のこうした集会で繰り返し経験してきたことです。

 学者や弁舌のたくみな方々でなくとも、素朴な一人の短いひと言が、主に用いられることによって大いなる力を発揮することもしばしばですし、音楽専門の方々の賛美やコーラスとは無縁の素朴な賛美が人の心に深く残ることもあります―その歌詞とメロディーなどが主の霊を運ぶからです。

 キリストの使徒たちによる最初の福音伝道は、ただ、イエスは復活した という短い証言―神の力のこもった証言でした。きわめて単純なこの証言が神の祝福されたものとなり、たちまち至るところに福音は広がっていったのです。

 5月の全国集会が、主の祝福を受けて、主に導かれ、参加者が、永遠の神の言葉とその力を受け、聖霊を注がれる集会となり、神とキリストがたたえられる集会となりますようにと願っています。(吉村孝雄) 

 

キリスト教(無教会)全国集会 

第30回 キリスト教(無教会)全国集会プログラム(*

 

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希望者による交流会

 

これは、13日(金)、または15日(日)も宿泊される方々を対象とする自由参加プログラムです。時間はいずれも午後7時〜9時

@13日(金)場所:ホテルサンシャイン7階「パティオ」

A15日(日)  徳島聖書キリスト集会場にて。

 

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申込先、会費など詳しいことは、最後の頁に掲載してあります。

  土曜日14日の一泊(翌朝の朝食付き)の申込は、ホテルに全国集会枠がとってありますが、先着順です。枠を超えると、近くのホテルに各自が申込をしていただくことになります。

 会場の宿泊と15日(日)の朝食の申込は、直接に会場のホテルサンシャインに申し込みしてください。その際、必ず、キリスト教の全国集会に参加する旨を担当の方に告げるようにしてください。

問い合わせは、吉村孝雄まで。

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*)「キリスト教(無教会)全国集会」の名称について

 無教会とは内村鑑三にはじまる、キリスト中心、聖書中心の信仰のあり方、精神を意味すると同時に、その集りをも意味しています。

 キリスト者の集りを新約聖書の原語であるギリシャ語では、エクレーシアといいます。これは、(呼び出された者たち、集会)を意味していて、キリスト教で使われるようになってからは、この世から神によって呼び出された者の集り、キリスト者の集会を意味する言葉となりました。これが中国に聖書が訳されるときに、中国語で 「教会」と訳され、それをそのまま日本で踏襲しているものです。

 しかし、本来この原語からもわかりますが、教えをする会、あるいは会堂 という意味でなく、キリストを信じる人たちの集りを意味しています。そのため、無教会では 教会という中国語の訳語を使わず、集会という言葉を使っています。

 無教会は 十字架のあがないの福音をもとに、復活、再臨の信仰を柱として、主イエスが言われた「霊と真実をもって礼拝する」(ヨハネ福音書4の23)ことを目標としています。

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 なお、関東地域―東京や千葉県などで開催されてきた全国集会は、無教会全国集会という名称でしたが、無教会といっても、一般の方々には、何のことかわからない方々が多数をしめている現状がありますし、教会の方でも、無教会とは教会を無くするという意味なのか―などと問う人もなかにはあります。

一般の方々にも、この全国集会のことを知らせるには、少なくともキリスト教だということを明確にしておく必要がありますし、キリストの名前を出すことが重要です。そのために、今回の全国集会は、今年が徳島は四国集会の担当県でもあり、それを兼ねている集会でもありますので、従来の四国集会でも用いている名称の書き方を踏襲することにしました。


2016年 キリスト教(無教会)全国集会申込書   申込日:              

 氏名(ふりがなも)

                    住所:   


 所属集会(教会) 


電話番号:                                          ( 参加者名簿に掲載可 ・ 不可 )

メールアドレス:                                                   ( 可 ・ 不可 )

携帯電話:                                                         ( 可 ・ 不可 )

携帯アドレス:                                                     ( 可 ・ 不可 )

  @宿泊について (ホテルサンシャイン徳島)

5月14日(土)の「宿泊」及び15日(日)の「朝食」は、各自で直接ホテルへのお申し込みと支払となります。会場のホテルサンシャインまたは併設アネックス(併設されている別館)にご予約の際は、キリスト教の全国集会に参加の旨を必ずホテルにお伝えください。 

会場ホテル以外にご宿泊の方は15日朝食のご用意ができませんので、恐れ入りますが各自でお願いいたします。

*以下( )内に〇か × をご記入ください。

         )ホテルサンシャインかアネックスに宿泊予約した。→(       )尚且つサンシャインに朝食予約した。  


          )徳島聖書キリスト集会場に泊まりたい。*先着順。3泊4日以内一律2500円(レンタルふとん代金)。15日朝食は各自でご用意ください。


         )会場以外の宿泊施設等に泊まる。 15日朝食は各自でご用意ください。   

         )宿泊はしない。  

*************************************

A( )内に〇か × をご記入ください。 

5月13日(金曜日)

前日交流会参加 (     )  

徳島聖書キリスト集会場での宿泊希望          


5月14日(土曜日)

昼食申込(   

夕食申込     

祈りの友集会参加 (      )*当日参加も可

若者の会参加希望 (    )*同。概ね50歳以下

徳島聖書キリスト集会場での宿泊希望 (      )  


5月15日(日)

早朝祈祷参加 (            ) 

昼食申込 (      

徳島聖書キリスト集会場での交流会参加 (       )

同集会場での宿泊希望 (      )    


B14日・15日の料金表(宿泊及び朝食費は別途各ホテルにお支払ください。

以下の会費は、ホテルに支払うのとは別に必要なもの(食費、会場費、運営費、印刷物印刷、郵送費用等々)です。 

昼食2回・夕食・全日参加 8,600

食事なし1日間参加 1,000   

食事なし2日間参加 2,000

昼食1回・夕食・1日間参加 5,800

昼食1回・夕食・2日間参加 6,800

昼食1回・1日間参加 2,800

昼食1回・2日間参加 3,800

昼食2回・2日間参加 5,600

夕食1回・1日間参加 4,000

夕食1回・2日間参加 5,000

*************************************

◎申込は、上記の申込書を印刷して、郵送でお送りください。 


〇申込締切   414


なお、「いのちの水」誌の読者、あるいは全国集会の案内を送付した各地の無教会の集会関係の方々は、それに同封されていた申込先―林 晴美気付  吉村 孝雄宛に送付してください。上記の吉村宛ては、それらの送付を受けていない方々のみです。

会費の 振込先:


若しくは吉村孝雄本人へ(手渡し、簡易書留など)。


★変更などの連絡先

上記吉村 孝雄まで

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申込締切は、414日ですが、何らかの都合でそれに間に合わない場合は、一応4月末まで受け付けますが、その場合には、全国集会のプログラムには参加はできますが、宿泊や食事に関しては、対応できない場合がありますので御了承ください。