いのちの水 2016.2.17発行 第660


まことに、あなたは弱い者の砦、苦難に遭う者の砦。…死を永久に滅ぼしてくださる。神はすべての涙を抜くってくださる。(イザヤ2548より


リストボタン闇の中に光を 

 この世界は、至るところに闇がある。一人一人の心のなかに、また家庭のなかに、そしてその人間の集りである民族、また国家の中に。

 そしてその闇は人間一人一人の存在の深いところに根ざすゆえに、いかに教育や福祉、あるいは科学技術が発達しても消すことができない。

 現在の世界を恐れさせているテロも、科学技術の発達の産物であるインターネットが存在していたためにあのように勢力を増やすことにつながったし、北朝鮮が核兵器をもって世界に恐怖を与えてそれによって自国の益を得ようとしていること―それも核兵器という科学技術の産物のゆえである。

 核分裂によっておびただしいエネルギーが放出されるということは、もともとは、目に見えない放射線の存在を、一部の科学者が強い関心をもって追求していくところに発端があった。 キュリー夫妻もそうした一人である。その研究が人間にとって恐ろしい核爆弾を生み出したり、核分裂による放射性廃棄物が10万年も管理が必要なほどに、人間の制御できない魔物となる等々は、キュリー夫妻を含め、そうした探求にあたっていた天才的科学者たちも最初はまったく予見することができなかった。

 彼ら夫妻は、放射能が人体に危険を与えるということも最初はもちろん知らなかったゆえに、二人とも放射能のゆえに体が次第に冒されていったのである。

 そのように、現在の世界に深い闇をもたらしている核兵器、核分裂を用いた原子力発電等々―それらがもたらされたのは、人間がその前途を予見できないという弱さ、またそれをいくらでも悪用してしまうという罪深さのゆえなのである。

 このように、この世界の闇というのは、どこまでそれが深いのか、どこから新たな闇の世界が開いていくのか、いかなる天才も学者も予見できないゆえに、教育や文化の発達、科学技術の発達などもそれをどうすることもできない。

 しかし、その闇の深さを明確に知ったうえで、その闇に勝利する道をはるか数千年も昔から示してきたのが聖書である。

 聖書の力が永遠であり、世界のベストセラーであり続けているのは、ここに理由がある。

 聖書はその最初から、そうした闇と混沌―空虚と荒廃のただなかに、神の全能の力によって「光あれ!」とのひと言によって光が生じ、闇に勝利する道が開かれているということが示されている。

 それは、旧約聖書にも随所にその神の光の勝利が示され、とくに詩篇や預言書においては、深い闇の存在のただなかに、それらに勝利する光が与えられていることを示している。

 旧約聖書の終りに近い預言書にも、つぎのように記されている。              

…そのとき、昼もなければ、夜もない。

夕べに なっても光がある。

           (ゼカリヤ書14の7)

 すなわちいっさいの闇がベールをはぐようにぬぐい去られ、光に満ちた世界が預言されている。

 これは、黙示録の次の記述を思い起こさせる。

…もはや、夜はなく、ともしびの光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らす          (黙示録22の5より)

 そして旧約聖書の最後の書のその終りの部分には、闇をもたらす悪そのものが滅ぼされることが記されたあとに次のように記されている。

「わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る」      (マラキ書3の19〜20)

 すなわち、旧約聖書はその冒頭に闇にうちかつ光が宣言され、その最後にも大いなる太陽というべき神の義の光が臨むと記されているのである。

 そうした延長上に、キリストが来られた。

 それゆえに、キリストが福音を宣べ伝えるとき、聖書はつぎのように記しているのである。

…暗闇に住む民は大きな光を見、

死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。(マタイ4の16)

 そしてその言葉の通り、キリストが光であって、闇に勝利している御方であることは、ヨハネ福音書の冒頭に記されている。

…光は闇のなかで輝いている。闇は光にうち勝たなかった―と。(ヨハネ福音書1の5)

 主イエスご自身が光であるからこそ、次のように言われた。

 

…私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。

            (ヨハネ8の12)

 キリストの光を見なかったら、聖書の世界がなかったら、私たちは、知れば知るほど、この世界の闇とその深みばかりが見えてきて、宮沢賢治の表現で言えば「目がしんしんと痛む」ことになるだろう。

 キリストはその心の痛みを根底からいやすため、いのちの光を私たちにもたらすために来られたのであり、私たちがただ信じるだけでその闇のかなたに永遠の光を見るという賜物を与えてくださったのである。


リストボタン神我らとともにいます (その2)詩篇、預言書から

 

 神が私たちと共にいてくださる、このことは、聖書全体にわたって記されていることであり、前回は、とくに創世記や出エジプト記の内容について記した。

 ここでは、詩篇と預言書の一部について神が共にいてくださることがどのように記されているか、その一端を学ぶ。

 詩篇は旧約聖書のハート(心臓)だと言われる。これは、聖書全体のなかで最も人間の心の嘆きや苦しみ、また願い、祈り、感謝と賛美といったことが克明に記されているからである。

 詩篇の詩を心して読むときには、数千年の歳月と地域を超えて、作者たちの心、息づかいに触れるような思いがする。

 主イエスが、十字架上での激痛のなかで、その最期のときに叫んだ言葉、

―わが神、わが神、どうして私を捨てたのか!

 は、詩篇の言葉そのものであった。(詩篇22篇1節)

 それは、人間の究極的な模範である主イエスが、味わった最も深い苦しみがすでに詩篇において体験されていたことを示すものであり、同時にその詩篇ははるかのちに生じることの預言ともなっているのであり、神の言葉そのものだった。

 詩篇の最初に置かれた第一篇は、詩篇全体のエッセンスが要約されている。その核心は、次にある。

 

…主の教え(神の言葉)を喜び、

昼も夜もみ言葉に心を向けている者は

流れのほとりに植えられた木のようだ。

時が来れば、実を結び、

 葉もしおれることがない。(詩篇1の2〜3より)

 

 このように、神の言葉がつねに心にあり、黙想し、み言葉とともにある人―そのような状態が可能であることが示されている。それが人間が与えられる最上の祝福となるといわれている。

 これは、神が共にいてくださるということの別の表現である。

 み言葉が共にあるとはすなわち神が共におられるということである。神の言葉とは神のご意志、そのお心の直接の表現だからである。

 詩篇の作者は、神がおられることを確信したうえで、現在の困難、苦しみや絶望的状況にあっても、なお全身の力を込めて神に祈り、その助けと救いを待ち望むという内容が多く含まれている。

 しかし、その確信すら揺るがせるような恐ろしい苦しみが襲ってくることがあるのも記されている。たしかに、長いキリスト教の歴史の中で、残酷な拷問、刑罰が課せられ、また日本の江戸時代でも、キリスト教を信じた人の家族までも捕らえられ、苦しめられたあげくに処刑される、ということさえ多く見られた。

 キリシタンをかくまったというだけで、大罪とされ、その近隣の隣組の者たちまで捕らえられて処刑されるということさえあった。

 こうした時代状況に置かれ、自分自身も耐えがたい苦しみに痛めつけられるとき、つぎのような絶望的な叫びがなされている。

 

…わが神、わが神、なぜ私を捨てたのか。

なぜ、私から遠く離れ、救って下さらず

苦しみの叫びを聞いてくださらないのか!(詩篇22の2より)

 

 神は正義の神、憐れみの神であることは確信している。しかしそれにもかかわらずどうしてこのような恐ろしい苦しみに遭わせるのか、なぜ必死に祈り、叫んでも全く何の変化もないのか―この世の最も孤独で苦しみと絶望的状態に置かれたこの詩の内容は、数千年の昔にそのような特別な人がいた、ということだけではなく、とくに世界の各地でなされた、迫害においては、このような苦しみを無数の人たちが経験してきたのだった。

 そして主イエスも、その十字架での極限の苦しみのとき、この詩の作者の叫びと同じ叫びをあげられたのだった。

      (マタイ福音書27の46)

 しかし、このような絶望的闇に置かれたにもかかわらず、詩篇22篇の作者は、そこから救いだされた経験をも語っている。

 

…私は兄弟たちに御名を語り伝え

集会の中であなたを賛美します。

主をおそれる人々よ、主を賛美せよ…

主は苦しむ人の苦しみを決して捨ておかれない。

御顔を隠さず、助けを求める叫びを聞いてくださる。

それゆえ、私は大いなる集会であなたに賛美をささげる。…

地の果てまで

すべての人が主を認め

あなたに立ち返り、国々の民がひれ伏しますように。…(詩篇22の23〜28より)

 

 これは、いかに苦しい状況であり、神の助けもなく捨てられたとしか思えないような絶望の状況であっても、神は共におられたのだということを示すものである。

 神がともにおられたからこそ、この詩の最後の部分で、そこからの驚くべき救い、解放が歌われ、その大いなる体験を彼の属する共同体―集会の人たちみなに証しをするようにと導かれた。

 そしてこの詩篇の作者と同じ絶望的叫びをあげられた主イエスもまた、神が本当に捨てたのではなく、殺されて三日目には、復活され、神の右にあげられ、神と同じ存在となり、聖霊となって地上にふたたび来られたのである。

 そして肉体をもっていたイエスという名の人間をはるかに超えて、聖なる霊となられたゆえに、鍵を閉めた部屋にも入ることもされ、世界のあらゆる国々へ、また病床で一人苦しむ人のところにも、さらにアメリカの黒人のような大きな社会的な苦しみや差別を受けている人たちのところにも聖霊となったゆえに、入っていかれるようになった。

 詩篇の最後の部分には次のような歌がある。

 

…ハレルヤ!

新しい歌を主に向かって歌え。

主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。

           (詩篇149の1)

 

…力強い御業のゆえに神を賛美せよ。

大きな御力のゆえに神を賛美せよ。…

  息あるものはこぞって主を賛美せよ(同150の2、6より)

 

 この世界に不満や憤り、あるいは無感動ということでなく、いかにこの世に闇や絶望的状況があろうとも、なおこのように神の全能とそれゆえにその慈しみや真実の永遠性を信じ、さらにその神の大いなるわざを実感し、このように神を賛美することができるということ―これは、神がこうした詩の作者の魂とともにおられたことを示すものである。

 神がこの詩の作者とともにいないならば、このような体験は決してなされないし、この世の見える至るところにある事件や災害、病気、貧困や戦争等々によって到底神を賛美する心など生まれないからである。

 このような詩篇作者の確信―神は共にいてくださる―と同様な確信は預言者たちにも与えられていた。

 

…高く、あがめられて、永遠にいまし、

その名を聖と唱えられる方がこう言われる。

わたしは、高く、聖なる所に住み、

打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、

へりくだる霊の人に命を得させ、

打ち砕かれた心の人に命を得させる。(イザヤ書57の15)

 

 旧約聖書の神は、義の神、裁きの神だ、と言われたりするが、旧約聖書には、そのような単純に割り切ることのできない神の多様な本質がさまざまの箇所に記されている。

 この箇所では、人がただ心砕かれて、自分の弱さ、罪深さを知り、神こそがすべてをなされるのだと、素朴に信じるだけで、神は私たちと共にいてくださる―。

 宇宙万物を創造した途方もない御方、人間とは無限に遠くまた大きい御方が、小さく汚れた私たちとともにいて下さる―何と驚くべきことであろう。

 このようなことは、単に熟考し、学問的に探求しても、また、科学技術が進展したからとて分ることではない。直接に神から示されること―神の霊を注がれることによって預言者たちは、こうした永遠の真理を知らされたのである。

 

 これとほぼ同様なことは、詩篇にも見られる。

 

…主は、従う人に目を注ぎ

助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。…

 主は助けを求める人の叫びを聞き

苦難から常に彼らを助け出される。

 主は打ち砕かれた心に近くいまし

悔いる霊を救ってくださる。

主に従う人には災いが重なるが

主はそのすべてから救い出し

彼を守ってくださる。

    (詩篇34の16〜21より) 

 

 このように、詩篇や預言書においては、いまから2500年から3000年ほども昔において、すでに神は人間の魂のすぐそばでいて守り、助けて下さることを知っていた。旧約聖書の時代においては、このようなことは、一部の人に啓示されただけであったが、キリストの時代になってからは、このように神が私たちとともにいて下さる―ということが、だれでも、万人に与えられるという新しい時代となった。

 しかも、それはお金や権力、経験、知的な優秀性等々、いっさいとは無関係に与えられるのである。

 この世の闇の力は、人間に迫ってきて打ち倒そうとする。しかし、「闇は光に勝つことがなかった」(ヨハネ福音書1の5)と言われ、主イエスも、最後の夕食のときの締めくくりとして、次のように言われたことも、詩篇作者の与えられていた確信をさらに完全なものとして告げられたのである。

 

…あなた方は世では苦難がある。

しかし、勇気を出しなさい。

私はすでに世に勝利している。           (ヨハネ16の33)

 この主イエスの言葉は、いかにこの世が暗く、それゆえに私たちも苦しむことがあろうとも、神と同じ本質を持っておられる御方(イエス)が、私たちと共にいてくださるゆえに、その勝利をも私たちに与えられるというのである。

 (1月10日の横浜市での冬季聖書集会で語らせていただいた内容)


リストボタン「その日」すべてが変えられる

    ―聖書からのメッセージ

 

 聖書―特に旧約聖書の預言者は一貫して「その日」があるのを告げている。

 しかし、私たち日本人の大多数は、そのような意味での「その日」というのは考えたこともないであろう。私自身、聖書の世界を知り、キリスト教信仰を与えられるまでは、時間は人間と関わりなく自然に流れていく―といったごく常識的な認識しかなかった。

 時間は連続的にはるかな古代から現在、そして悠久の未来へと流れていくのであって、その日、その時、といった特別な日はないと考えるのがふつうである。

 時折、核戦争が起こって世界が破滅的な事態になる―そうしたときをその日、世の終わりの日と言われたりすることがある。このように「その日」がもちだされるときでも、それは不気味な暗いイメージが伴うことがしばしばである。

 聖書においては、「その日」とはどのような日なのか。聖書のはじめの部分―創世記、出エジプト記、申命記等々においては、そのような日のことは記されていない。イスラエルの民族が、そしてその国がいかに神に導かれ、またその罪のために神から裁かれていくか、といった歴史の歩みのなかにおける神の御計画が記されている。

 そして、150篇に及ぶ詩篇もその大多数が、現在の自分や民族の直面している苦しみ、悲しみとそこに与えられる神の慰め、力、導き、そしてそのことをたたえる心を記したものである。

 そこには、未来のある時点において決定的なことが生じるという「その日」のことは記されていない。

 聖書全体において、「その日」が特別に強調されて、繰り返し神の言葉として語られているのが、預言書である。この日のことは、「主の日」あるいは、「終わりの日」とも言われている。

 過去から現在をかえりみて、大いなる神の生きた導きを見つめつつ、その現在がいかに本来のあり方からはずれているかを深く神から知らされ、そのままでは滅びてしまうということを繰り返し強調している、そしてあらゆる腐敗や混乱にもかかわらず、未来のある時に、「その日」があり、そうしたあらゆるこの世の矛盾や不正、悪、悲しみ、苦しみ等々が一掃されるということが、確信をもって語られている。

 そしてその精神は、新約聖書にも深くその根底を流れている。

 ここでは、旧約聖書において「その日」(主の日、終わりの日)がどのように記されているかを学びたい。

 

…その日には、人間の高ぶる目は低くされ、傲慢な者は卑しめられ、主はただひとり、高く上げられる。

…万軍の主の日が臨む、すべて誇る者と傲慢な者に、すべて高ぶる者に。

…その日には、誇る者は卑しめられ、傲慢な者は低くされ、主はただひとり、高く上げられる。

   (イザヤ書2の11、12、17)

 このように、イザヤ書ではそのはじめの部分に、繰り返し「その日」とは、高ぶるもの、傲慢なものが裁かれ低くされ、神のみが高くされる―といわれている。

 人間のさまざまの苦しみや問題、民族や国家の争いはすべて、人間の傲慢や高ぶりにその根本原因がある、神のみを高くしないからだとされている。

 神―正義や清さ、また慈しみ、そして全能のお方を第一とするときには、人間同士の争い、奪い合いなどは生じない。また、病気や災害のような人間の直接に関わらないと思われるできごとにおいても、神のみを高くし、その神の力と慰めを真剣に求めるときには、たとえ病気そのものがいやされずとも、その病の苦しみをも耐えて、乗り越えていく力が与えられる。

 死が近づいても、もし人間の力だけがすべてだ、という高ぶった思いを持っているときには、そのような思いは根底からくだかれてしまう。死に対してはあらゆる人間の努力や科学技術等々もどうすることもできないからである。

 ある程度長生きできるようになること、それは日本の状況を見ればわかるように、医学や薬学、栄養学、あるいは運動その他の知見によってある程度は可能となるであろう。しかし、それも永遠の命からみれば、一瞬にすぎない。

 すべては滅びていく。 そのようなすべてが無力と思われる状況にあっても、神のみを高いもの、力あるものとするときには、その神の力によって私たちは死の力から解放される。

 このように、神のみを高きものとすること、あらゆる人間の傲慢が打ち砕かれるとき―それが「その日」だと言われる。

 さらに、その日には、人々も、国々も、神の山―神の言葉があり、神がおられるところに大きな流れのように、集められてくるという。

 真実や慈しみの神のもとに、そうした存在を知らなかった人たちも国々も向っていくという。

 それとともに、「その日」は、神のもとにさまざまの国や民族が集められてくるためには、それを妨げている闇の力が滅ぼされることも記されている。

 

…その日は近い。主の日は近い。それは、諸国民の裁きの時である。

       (エゼキエル書30の3)

…見よ、その日が来る、炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる。…彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。         (マラキ書3の19より)

 ここでも、その滅びに至るのは、高慢や悪を行なう者と言われている。聖書で言われている高ぶり、高慢、傲慢といったことは、単に人の性格や言動が高ぶっているといった個人的なことにとどまるのではない。

 全能で宇宙万物を創造した唯一の神がおられるにもかかわらず、その神を認めず、あたかも自分の力、人間の力―権力や武力などが最上であるかのように考えて、悪に対しても裁きもなく、弱者を痛めつけてもやはり何も裁かれない―そのように考えることである。

 こうして悪の力が滅ぼされるのが「その日」の重要な側面であるとともに、それと対比的に記されているのが、神の愛が最終的に表されるということである。

 このことは、「その日」に関する次のような言葉ではっきりとわかる。

 

…その日には、耳の聞こえない者が、書物に書かれている言葉をすら聞き取り、盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。

         (イザヤ書29の18)

 それは、最も苦しい状況に置かれていた耳が聞こえない人、物言えない人、さらに盲人の耐えがたい苦しみもいやされ、見えるようにされる―という。かつてはろうあ者は、耳が聞こえないゆえに、言葉がわからず、それゆえに考えることができない。考えるとは言葉を用いてなされることだからである。明日、雨が降るようだから、家で仕事しよう といった簡単な内容も 、明日、雨、降る、仕事―等々の言葉がわからなかったらそのような単純なことも考えることさえできない。

 じっさい、私が30年ほど昔に聴覚障がい者の教育にたずさわっていたときに経験したことだが、ある特別な事情にあったひとりの児童A君が小学2年になっても、曜日の概念がわからない。そればかりか、日常のほとんどの言葉がわからない状態だった。そのクラスのほかの児童は言葉がだいぶ修得されていた。 A君だけが特別のそだちや家庭状況のこともあり、遅れてしまっていた。曜日、それは見せて示すことができないし、曜日の意味を言葉で説明しようとしてもその説明しようとするときの言葉そのものが分からないので、音声の聞こえないろうあ者にとってはとても難しいことだった―それをわからせるのに2カ月ほど、さまざまの試みをしてやっとわかるようになったことがあった。その後は彼はめざましく言葉の世界、知識をも修得していくことができるようになった。

 そのことからもわかるが、長い人類の歴史において、ろうあ者は言葉も思考もできない、語りかけても反応できないために、人間のすがたをした動物のようにみなされ、実に悲惨な生活を強いられてきたのだった。彼らはその苦しみや悲しみを表現したくとも、その表現する言葉を知らないのだった。

 アリストテレスのような万学の祖といわれた、哲学、物理、生物、経済、倫理等々できわめて多様な能力を持っていた天才すら、ろうあ者には教育の道がないとみなしたと言われるほど困難とされていたのである。

 また、現在では、ろう者は、幼少のときから特別な教育を受けて、そこにはたいへんなエネルギーが注がれ、残っている聴覚を少しでも用い、言葉を発することができるように訓練され、また手話も用いて、教育がなされ、その可能性が引き出されるようになり、発声も不十分ながらできるようになり、補聴器と口の動きや手話を助けとして、一般の人たちともコミュニケーションがとれるようになり、それゆえに職業もいろいろと与えられるようになった。

 また盲人も点字や録音、再生の機器の発達によって、数千年という長い間、手紙を一般の人たちと交換するということは不可能であったのが、近年になってコンピュータ、インターネットの発達により、それが可能となった。健常者には手紙のやりとりは昔から当たり前のことであったが、盲人にとっては、点字など読み書きできる人はなきに等しいほどの少数であったから、一般の人たちと自由に手紙をやりとりすることはできなかった。それゆえ、数十年前から初めてコンピュータやインターネットでそれができるようになったことは、盲人の長い歴史において革命的なことであった。

 そして盲学校教育によって適切な能力が引き出され、鍼、灸、マッサージなどの分野への仕事ができるようになり、さらに近年ではそうした盲人特有の仕事以外にいろいろな仕事へもつくことができるようになった。

 このようなことは、長い人類の歴史ではごく最近のことであって、盲人は文字通り暗黒と差別、不自由、仕事もできない―まったく無能のようにみなされてきた長い歴史があった。

 しかし、イザヤ書において今から2700年ほども昔から、すでにそうした暗黒にある人たちに対しても、「その日」にはその暗黒から解放されるのだということが確信を持って預言されていることに驚かされる。

 さらに、その日は、人間社会を恐怖と悲しみ、苦しみに陥れる戦争もなくなる。それは、旧約聖書のミカ書やイザヤ書などにおいて、今から2700年ほども昔に言われていた。これは、憲法9条の精神へと流れこんでいるのであって、このように武力を用いないということ―それ以外にいくらでも平和に貢献する道は開かれているのであって、そのことに目が開かれるようにという神のメッセージがある。

 すでに述べたように、「その日」には、盲人が闇から解放され、見えるようになり、ろう者が聞き、語ることができるようになる―これは、確かに盲人に新たな教育がなされ、いろいろな情報が与えられてさまざまのことが見えるようになったということで、部分的にまた霊的にはイザヤ書で預言されていたことが実現している。また、ろう者についてもろう教育の発達によって補聴器や口の読取、発声の訓練などたゆまぬ努力が注がれて、彼らは相当部分読み書きも発声もできるようになっていった。さらに手話を用いるならば、健常者と同じように自由に語り、意味をくみ取ることができるようになった。このように、はるか数千年昔に預言書で言われていたことは、部分的ではあっても、確かに成就していきつつある。

 盲学校やろう学校などの教育は、盲人が闇から解放され、また言葉の世界に触れることができることを目指していた。

 同様に、武力を用いた戦争という最大の悪の凝集したできごとも、預言書の預言のような状態をめざそうとするのは当然の正しい努力である。

 憲法9条の非戦のメッセージはこうした流れに沿ったものなのである。

 

 …その日が来れば、と主は言われる。わたしはお前の中から軍馬を絶ち、戦車を滅ぼす。               (ミカ書5の9)

…主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。

彼らは剣を打ち直して鋤とし、

槍を打ち直して鎌とする。

国は国に向かって剣を上げず、

もはや戦うことを学ばない。               (イザヤ書2の4)

 武力を用いない―人間はこの方向へと導かれるのだという明確なメッセージがここにある。これは神のご意志なのである。

 沖縄の基地問題、アメリカの軍事計画のもとに日本が従っているということであるが、これも、武力を用いての解決のための基地である。

 戦争を放棄し、武力を持たない―そこから得られる莫大な費用や犠牲を、武力を用いずになされるさまざまの営みに全力を傾けるとき、沖縄の基地などは当然不要となる。

 「その日」―それがどんな状態であるか、旧約聖書全体のうちでも最もうるわしい表現の一つといえるのは次のようである。

 

…荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ、

砂漠よ、喜び、花を咲かせよ、

野ばらの花を一面に咲かせよ。

…そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。

口の利けなかった人が喜び歌う。

荒れ野に水が湧きいで、

荒れ地に川が流れる。

        (イザヤ書35章より)

 「その日」―それは大いなるさばきの日である。裁きとは悪そのものが滅ぼされる日である。この世界から―個々のひとの心から悪が除かれるとき、そこに流れ込むのは、神の霊であり、神からのいのちの水である。

 それゆえに、このように、いかなる荒れ地、荒涼とした地であってもなお、そこに神に源を発するいのちの水が流れ、美しき花が咲きほこるようになる。

 そしてさらに、「その日」とは主の日、主が大いなる力を発揮して、悪の力を火で焼くように跡形もなく滅ぼす日でもある。

 

…見よ、その日が来る、炉のように燃える日が。

高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる。

…彼らを燃やし、根も枝も残さない。(マラキ書3の19より)

 

 人間が本当の平安や幸い、心清められるためには、悪の力が砕かれ、追い出されねばならない。その日とは、こうした人間を悩まし、罪に引き込み、破滅させる悪の力が徹底的に滅ぼされるということを言っている。そのように悪の力が滅ぼされてはじめてひとの心に、罪の力も失せ、本当の幸いが訪れる。

 裁きとか滅ぼされる―などという表現には、違和感があるとかそんな言葉は読みたくない―と感じるひともいるが、悪が存在するからこそ、人間は苦しみ、罪を犯すのである。

 そのような悪が滅ぼされることは、人間の永遠的な幸いと不可分に結びついている。

 だからこそ、旧約聖書の最後に置かれた預言書の最後の部分には、そのような悪の滅びのときに、神をただ信じるだけで、その人たちには、「義の太陽」が昇ってくる―と約束されている。

 そしてさらに「その日」というのがはっきりと私たちの魂に見えてくる。

 その義の太陽がこの世界に昇るときこそ、旧約聖書が待ち望んでいた、メシア(救い主)が現れる「その日」なのである。

 このようにして、旧約聖書から新約聖書へのつながりのなかで、「その日」に現れるお方こそ、キリストなのであった。

 言い換えれば、「その日」とはキリストが現れるときであり、これは世界の歴史においてまさに決定的なできごとだった。

 そして、一人一人の魂においても、キリストが現れたときこそ、「その日」であり、そのひとの生涯にとって最大のできごととなる日なのである。

 そして確かに、キリストより700年ほども昔にイザヤという預言者によってあらかじめ言われていたように、じっさいに盲人がイエスの力によって見えるようになり、聞こえない者も聞こえるようになり、言葉も語れるようになった。そして現在も同様で、盲人も霊的な目が開かれて健常者と同じように―ときには健常者以上に霊的な真理が見えるようになる方々も生まれてきた。

 今もなお、キリストがあるひとの魂に住むようになった「その日」は、そのような意味で私たちの人生にとって最大の重要なできごととなっている。

 そして世界全体で最後の「その日」がある。それこそ、キリストの再臨といわれていることである。

 その日にはいっさいの悪や悲しみ、苦しみは除き去られる。永遠の命に生きる人たちばかりになって、悪そのものは火で焼き尽くされる。その結果、キリストと神を信じる人たちは、いっさいの悪から解放され、悲しみや苦しみも跡形もなく消え去り、涙がぬぐい去られる―。

 このように、私たちの歴史は、聖書に記されている「その日」に向って進んでいる。いかなることが生じようとも、その歴史の流れは変ることがない。なぜなら、神は全能であり、全知であるゆえに、いっさいの悪を最終的に滅ぼす力を持っておられ、万物を新しい天と地となすことができるお方だからである。


リストボタン詩篇44篇

    ―苦難のなかからの祈り

 

 詩篇には個人の悩みや苦しみをうたったものもあるが、この詩は社会的、政治的な苦難に直面した中で作られた詩である。大きな国家的な戦争によって、強力な敵によって徹底的に追いつめられ、痛めつけられた大きな傷跡の中からこのような詩が書かれた。この詩を書いた人はその困難な状況の中から、神による救いを全身の力を込めて求め続けている。

 

…神よ、我らはこの耳で聞いています。

先祖が我らに語り伝えたことを 

先祖の時代、いにしえの日に

 あなたが成し遂げられた御業を。(2節)

 

 この詩の作者は、歴史において神がなされたことを伝承で知らされていた。非常な苦難に直面したとき、過去からの神の導きを絶えず思い出し、神に立ち返ろうとすることは、旧約聖書にはよく見られる。

 それはとくにエジプトから奴隷状態から解放されたこと、荒れ野を40年にわたって導かれ、目的地までに至るさまざまの困難から救い、目的地のカナンに導かれたことを意味している。

 

 我らの先祖を植え付けるために  

御手をもって国々の領土を取り上げ  

その枝が伸びるために  

国々の民を苦しめたのはあなたでした。(3節)

 

 この節で記されていること―、神がすでに住んでいたほかの民を苦しめ、カナンの地に住まわせたという。

 このことは、現代の私たちからみると大きな疑問となる。なぜ、すでに住んでいた人たちを追い出したり、滅ぼしたりされたのかと。

 こうした疑問に思われる表現、できごとは旧約聖書にはしばしば見られる。ただし、それは、今から三千年以上も昔のことであって、現代の考え方、感じ方をそのままあてはめることができない。

 唯一の神がこの世界におられる、そしてその神が全能であって万物を創造された。その神への信仰を与えられた民―それは、当時の世界では無に等しいような小さな群であった。その民を守るのは、何のためであったか。それはその小さき群を守り、唯一への神の信仰を育てるためであった。

 一般の戦争は、支配者の権力欲や、相手の領土や財産を奪うためであるが、旧約聖書に記されている神の民の戦いを導かれたのは、神への信仰をこの世界に植えつけるためだった。

 それがなぜ、ほかの民を退け、ときには滅ぼすという方法になったのかは、分からない。

 なぜもっと多くの民に、世界の各地の民に別々にそのような信仰を持つ人々を起こさなかったのか、アブラハムのような人たちを、なぜ世界のさまざまの民族のなかに起こさなかったのか、なぜイスラエルの人たちだけに最初与えたのか…等々、あるいはエジプトに数百年も奴隷となって苦しむような生活をなぜ与えたのか、そうしたこととは別の道で神の民を増やす方法をなぜとらなかったのか―等々と同じように、私たちには分からないことである。

 ただ、人間を無限に超えた神の英知がそのようにされたのだというほかはない。

 そのように、なぜ? ということで分からないことはいくらでもある。なぜ○○さんが、特別な事故にあったのか、なぜ○○さんが生まれつき目が見えないというたいへんな重荷を負わねばならないのか、なぜ一切を奪われるようなハンセン病が世界に存在するのか―なぜ悪というのが存在するのか―等々 はてしなく分からないことはある。

 ただ、私たちには分からないが、はっきりしているのは、唯一の神という信仰を植えつけ、そこから広げていくために、旧約聖書に記されているような道筋を取ることを神がなされたのだと、信じるほかはない。

 そして、神の民だからといって特別に保護されたという側面だけではない。エジプトをモーセによって導き出されたのちも、砂漠地帯を生きるか死ぬかという厳しい状況のなかで、長い年月を過ごし、目的地のカナンへと到達した。

 その後も、周囲の敵対する国々からの攻撃を繰り返し受け、そのたびに神の助けを受け、滅びから免れた。けれどもその導かれた神への真実を失い、神への背信行為、不信実な行為を繰り返したために、そのようなことでは裁きを受けると預言者によって繰り返し警告された。

 それにもかかわらず背きをやめなかったゆえに、ついに北からアッシリアという大国が侵略し、ついに滅ぼされた。そして残ったユダの国も同様に背信行為を重ねたためにこれも滅ぼされ、多くの民は遠くバビロンへと捕囚となった。そこで半世紀―その後ふしぎな導きにより、ペルシャという大国の王によって捕囚の民はユダヤの国へと帰ることが許された。

 このように、神は周辺の国や民族を滅ぼして神の民をカナンに導いたが、神の民が真理に背き続けたとき、彼らもまた厳しく裁かれ、多くの人たちが周囲の大国の攻撃によって死に、国も滅ぼされた。

 このことを見てもわかるように、神がイスラエルの民を守り、導いてカナンにはいることを許されたのは、人間にはよくある権力欲、物欲や差別、あるいは好悪の感情などではまったくなくて、ただ、真実と正義の神の存在を知らせるためなのであった。

 そして、その神の民の長い歴史の流れの延長上に、キリストをこの世界に送り、そのキリストはそうした不可解な問題を根本的に解決するお方であり、復活ののちに聖霊となったあと、その聖霊を豊かに受けるほど、そうした謎のようなことも啓示によって解きあかされると約束された。それは言葉による表現を越えて霊的に了解させてくださるということでもある。言葉には限界があるからである。

 

…聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。

        (ヨハネ14の26より)

 そして、神の民たるイスラエルの人たちが、カナンの地で戦って勝利したがそのことも、この詩篇の4節(下段に引用)にあるように、自分たちの武力、策略などが秀でていたからではなかったことをはっきりと知っていた。

 一般的には、何らかの戦いに勝利したときには、その戦いを指揮した将軍、王、あるいは武将などをほめたたえる。古代のアレクサンダー大王、アウグストゥス等々、また、フランス・スペイン連合艦隊を海戦で打ち破ってイギリス本土上陸から守ったネルソン提督、日本では、日清、日露戦争で海軍を指揮して勝利に導いた東郷平八郎等々、東郷は、死後は神にまで祭り上げられて、東郷神社(東京、福岡)というものまである。

 しかし、聖書の世界では、そうした人間崇拝は一貫して厳しく退けられている。

 

… 先祖が自分の剣によって領土を取ったのでも  

自分の腕の力によって勝利を得たのでもなく  

あなたの右の御手、あなたの御腕  

あなたの御顔の光によるものでした。(4節)

 このような万事を神の御手による、神の光によるものだとして受け取ることは、この記述がされてから数千年を経た現在においてもますます重要なこととなっている。

 人間世界のさまざまの問題は、なにかを成し遂げたときに、自分の力、さらに自分が獲得した金や権力によるとすることとつながっているからである。

 権力にしても、真実な神が与えてくださったと本当に思っているときには、その権力を人々を良きに導くために用いるであろうし、金や財産にしても神からのもの、神から預けられたものだと考えている人は、それらをやはり他者のため、神の国のために使おうとするであろう。

 良きものを得たのは、自分の力によるのでなく、神の力による―これこそ、聖書全体に一貫している啓示である。

 ここから、使徒パウロの言うように、常に感謝せよ、ということが実際に少しずつでも可能となっていく道が開けている。

 そのことがこの詩篇の作者にも言われている。

 

 …わたしが依り頼むのは自分の弓ではなく、

自分の剣によって勝利を得ようともしていません。

我らを敵に勝たせ  

我らを憎む者を恥に落とすのは、あなたです。

我らは絶えることなく神を賛美し  

とこしえに、御名に感謝をささげます。(7〜9節より)

 

 この作者が頼るのは武力でなかった。弓、剣、これは今で言う武力や軍事力であって、それらにより頼まず、最終的な勝利は軍事力によるものではなく、神による。

 このことは聖書でくりかえし言われている。平和憲法のその原点をたどると旧約聖書に由来するのがわかる。ここにあげたような表現は、イザヤ書、ミカ書などの預言書にも見られる。

 こうした武力によらず、正義の神の力に頼る姿勢―それを完全にしたのがこの詩の書かれた時代からはるか後に現れたキリストである。人間も正しい道を求めなければ、最終的には滅ぼされていくという見方が常にある。

 それにもかかわらず、つぎの節に見られるように、この作者の置かれている状況は、決して安全なもの、幸いと思える状況ではなかった。

 神に真剣に頼り、神に祈り、そして神がすべてをなしてくださる―と信じて歩んでいるにもかかわらず、現実の状況は、その神から見捨てられたという実感だった。

 

 …しかし、あなたは我らを見放されました。

我らを辱めに遭わせ、もはや共に戦いに出られず

我らが敵から敗走するままになさったので 

我らを憎む者は略奪をほしいままにしたのです。

あなたは我らを食い尽くされる羊として  

国々の中に散らされました。…(10〜12節より)

 

 ここには、その苦難の状況が書かれている。

 「我ら」とあるが、これは数千年前のイスラエルの民族で、国々の中に散らされたとある。日本人はこのような経験がない。日本人が、中国やアジアの国に大量に散らされたという経験は歴史上一度もない。

 これは日本は島国で、世界文明の中心的な国々から遙かに離れていたため、存在さえも知られていなかったし、日本海や太平洋が、広大な堀として存在し、それが近隣の国が攻撃してくるのに対して大きな砦となっていたからである。

 それゆえ、1200年代にモンゴル帝国(蒙古)が攻めてきたり、70年余り前の太平洋戦争の末期に沖縄が攻められたといったことだけであり、モンゴルが攻撃してきたときは、ちょうど台風の季節であったために、その大風に船が多く沈没、漂流などして、モンゴル軍は大敗した。

 日本において外国の軍による地上戦と言っても遙かに遠い島の沖縄戦だけであって、敵が攻めてきても日本から追い出されたということがなかった。

 しかし、イスラエルの国においては、古代から、エジプト、アッシリア、新バビロニア帝国、アレクサンダー大王の支配した広大な国、そしてローマ帝国等々によって、支配され戦争をしても大敗して滅ぼされたり、捕囚になって遠い異国まで連行されていくこともあった。

 

… 我らを国々の嘲りの歌とし  

多くの民が頭を振って侮るにまかせられました。

 これらのことがすべてふりかかっても  

なお、我らは決してあなたを忘れることなく  

 我らの心はあなたを裏切らず  

あなたの道をそれて歩もうとはしませんでした。

 あなたはそれでも我らを打ちのめし  

我らはあなたゆえに、絶えることなく  

殺される者となり、殺されていく羊と見なされています。(15〜23節より)

 

主よ、奮い立ってください。

なぜ眠っておられるのか。

我らを突き放しておくことなく  

目覚めてください。

なぜ、御顔を隠しておられるのですか。

我らが貧しく、虐げられていることを  

忘れてしまわれたのですか。

我らの魂は塵に伏し

腹は地についたまま。

立ち上がって、我らをお助けください。

我らを贖い、あなたの慈しみを表してください。(24〜27節)

 

 このようにこの詩の作者は苦難の中でも神様に立ち返ろうとしている。苦しいときに大事なことは、人間を見るのでなく、神を仰ぐことだというのがこの詩でもはっきりと表されている。

 人の言動などにとらわれるとますます苦しくなる。自分が苦しい目に遭ってるときに、あの人のせいでこんなに苦しいのだ、○○さんがこんなことをした…などと思えば思うほど心は騒ぎ、平安を失い、苦しくなる。

 現在は耐えがたいほどの苦しみがあるが、過去に確かに存在した神の救いの業に立ち返ろうとしている。

 聖書では、神はすべてを支配しているがゆえに、完全な王として記されている。悪も国々も社会も宇宙も全部を支配なさっている究極的な王であるからである。このような本質を持つ王なる神に立ち返るのである。

 愛する者の死や離別、親しい人から裏切られる、あるいは長い戦争や災害など悲惨な事態が続いていくとき、あるいは病気の苦しみや悲しみにうちひしがれるとき、いくら神を信じて助けを求め続けても、何ら変化が起こらない―そういう経験は、だれにでも起こることである。

 そのようなとき、正義と愛の神などというものは存在しないのではないか―という疑問が膨れ上がってくる。聖書にもヨブ記という書がそのテーマで記されているほどである。

 もしそのような神が存在するとしても現実には、眠っている、あるいは死んでいるのも同然と思いたくなるようになる。神様が我々に対して眠っていたり、突き放していたりしていると感じる。それゆえに、「どうか目覚めてください」ということを様々な表現で言っている。

…我らの魂は塵に伏し…(26節)は心も体も完全に打ちのめされて粉々にされ立ち上がることができないということをこんな表現で言っている。

 聖書で言う塵(*)は、砂や土の小さな粒のことを言う。

 

(*)塵と訳された原語は、アーファール。日本語の「塵」という言葉は、塵取り、塵芥などのように、ゴミという意味を持っているので、「人は土の塵から造られた(創世記2の6)」とか、「人は死んだら塵に帰る」などという聖句に接して、なにか違和感を持つ人も多いと思われる。この言葉は、「土」とも訳される。(「土」の穴に入って イザヤ2の19など)これは、雨のごく少ない地方であるために、地面は乾燥し、土や小さい砂のような粉塵があるので、そういうものをアーファールという言葉が表している。

 

 この詩の終わりに言われているのは、「我らを贖い、神の慈しみを表してください」ということである。贖うというのは敵の力に包まれているところから買い戻してくださいということである。最後には神の愛に頼り続けて叫び続けている。神様の愛を信じ続けていなければ、こんなに叫ぶことはできない。神の愛にどんなことがあってもかけていく。人間の場合、どんなに良い人がいても、その人自身に問題を抱えていることがしばしばある。その人も病気になり、死んでしまう。しかし神は死ぬことはなく、眠ることはない。

 この詩の作者が置かれている状況は、艱難、苦しみ、迫害、飢え、これらすべてがおそってきて一日中死にさらされているようであった。

 しかし、どんなものからも、イエスキリストによって示された神の愛からは引き離すことができないとパウロは強く実感していた。(ローマ書八・35〜38)

 まさにこの詩もパウロのような実感を持って、神を信じ続けている。キリスト教の歴史上、無数の迫害が起こってきたが、それでも聖書が続いてきたのは、神様の愛が確かにあるからである。

 そしてそのような迫害の時代には、キリスト教信仰を持っているだけで、殺されてしまうということも多くあった。しかし、たとえ殺されてもその彼らの内にあった神の愛は消えない。それはイエス・キリストを見れば分かるように、殺されていっそう神の愛がキリストをもとにして世界に広がったのである。

 神は、若くして死に至るようなことも起こされる。しかしそれにも何らかの深い意味があって、他の人に神を信じるしっかりした信仰が広がるようにするためとも考えられる。

 この詩は、社会的、かつ政治的なさまざまの困難、迫害によっても、あくまで神を信じ、神に向って祈り続けていく魂の姿がよく表されている。

 



リストボタンイエスこそは、神の子  パウロが伝えた福音(その1)            使徒言行録から

 

 使徒パウロは、キリスト教の最も重要な福音の伝道者である。彼が受けた福音に関する啓示が新約聖書の福音書を除いた部分の多数をしめていることからも、そのことがうかがえる。

 そのパウロが、回心して最初に語った福音は何だったか。

 それは、「このイエスこそ、神の子である」ということだった。(使徒言行録9の20)

 パウロは、キリスト教徒を迫害して、国外にまで追跡し、捕らえていくという状態だった。しかし、そのようなパウロを根底から方向転換させたのが、復活したイエスの語りかけであり、光そのものでもあるキリストだった。

 そして三日間は、目も見えず、たべることも飲むこともしなかったという。

 しかし、その後、驚くべきことに、目からうろこのようなものが落ちて、前と同じように見えるようになった。

 真理―キリストそのものの真理、その本質がまったく見えていなかったという意味で、盲目であったが、それが復活のキリストの光と言葉によって見えるようになった。

 これは霊的に見えるようになったことも象徴的に表している。

 そうした人間に、根本的真理を体験を通して、新たに啓示されたのが、すでにあげたこと、「イエスこそ、神の子である」ということであった。

 それゆえ、いかにこのことが重要であるかがうかがえる。パウロを根底から変革したのは、神の子であったイエスとの出会いであった。

 このように、「神の子」という、とくに何でもないような言葉が、当時のユダヤ人にとっては、いかに重要な内容を持っていたか、現代の人が何となく人間はだれでも生まれつき神の子だ、などと思うのとは本質的に異なる意味であったのがわかる。

 神の子―それは神と同じ本質を持っているということであり、神と同じ意味を持っている。

 それゆえ、イエスこそは、人間のかたちをしてるにもかかわらず、神である―ということである。パウロはその復活したイエスから生きた声を聞き、さらにその神に等しいイエスだからこそ、神の光を与えることができたのである。

 パウロの回心は、学問や経験、あるいは人間的な知識、生まれつき等々とはまったくことなるところから生じた。

  彼が受けた福音の真理は、ローマやガラテヤ地方の信徒に宛てた手紙のなかに明確に記されている。

 しかし、それらよりさらにさかのぼって彼がキリスト教徒を迫害し、国外にまでその追跡、逮捕のために出向いていた状況のなかで、突然復活したキリストの光とその呼びかけを直接に聞いたことによって、彼はその生涯が180度転換することになった。

 そして、回心して数日後、はやくも福音を宣べ伝え始めた。その内容は、つぎの短いひと言で記されている。

「この人(イエス)こそ、神の子である」

          (使徒言行録9の29)

 この記述で明らかなように、神の子という言葉は、通常の日本人がこの言葉で連想するような内容とはまったく異なる意味である。

  神の子という言葉は一部の新興宗教(*)以外には、あまり日本人は使わないと思われる。

 

*)「生長の家」という宗教では、「人間は本来 神の子 であって、罪などない」というのが基本的な内容となっている。

 

 人間は神様が造ったのだから神の子なのだ、罪などない、というのは何となく分かりやすいということもあって、そのような理解をしている人たちもいる。

 しかし、聖書においては、神の子というのは、旧約聖書や新約聖書のなかで、特別に大きなはたらきをしたモーセ、ダビデ、エレミヤ等々の信仰の指導者や王、あるいは預言者であっても、神の子だとは決して言われていない。

 神の子とは、神と本質が同じである、という意味で使われている。それゆえ、パウロが回心した直後から宣べ伝え始めたことも、イエスは罪人として処刑された。しかし、じつは神と同じ本質を与えられていたお方―神と同じ永遠に生きているお方である。だからこそ、復活し、その復活したキリストがキリスト教徒を迫害している途上のパウロに語りかけたのである。

 イエスが復活したことを、じっさいに体験し、出逢ったこと、神のみが持っている強い霊的な光を復活したイエスも持っていて、パウロに注がれた光もその神なるキリストが注いだものであった。

 イエスは、神と同じ存在だからこそ、殺されたはずなのに、復活し、パウロに語りかける存在となり、神の光をパウロに与えることができたのであった。

 神の子という表現は、神と同じ本質を持っている―神であるということはきわめて重要なことであるゆえに、マルコ福音書やヨハネによる福音書ではその冒頭にそのことを記している。

 

…神の子イエス・キリストの福音の初め。(マルコ1の1)

 

 これは、イエス・キリストとは何者であるか、をひと言で神の子だとしているのであって、それは人間ではない、神と同じ力、その愛、見抜く力等々を持っている存在だということを冒頭に記したのである。

 それは、マルコがこれから書き進めていくイエスという存在は、人間ではない、神と同じ存在なのだ、そのことを前提として読め―と語りかけているのである。

 同様に、ヨハネによる福音書でもその冒頭に、イエスとして生まれる前から永遠の昔から神とともに存在し、神であり、万物を創造したことが記されている。

 さらに、ヘブル書においてもやはりその冒頭に、御子(神の子キリスト)は、万物の創造者であり、神の本質の完全な現れである(ヘブル書1の2〜3より)と記されている。

 こうした記述から見ても、ただちにわかるのは、イエス・キリストが神と同じ存在であるということを信じて受け取ることがいかに重要であるかということである。

 このことを信じないで、イエスを一般の人間、偉大な人間なのだ、とみなす考え方は、聖書に基づくキリスト教ではない。それは永遠の真理たる聖書からはずれたキリスト教に似て非なる宗教だと言わざるを得ない。

 さらに、パウロ晩年の手紙として伝えられてきた新約聖書の中の書、コロサイの信徒への手紙にも次のように記されている。

 

…天にあるものも地にあるものも、

見えるものも見えないものも、

王座も主権も、支配も権威も、

万物は御子において造られたからです。

つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。

御子はすべてのものよりも先におられ、

すべてのものは御子によって支えられています。(コロサイの信徒への手紙1の16〜17)

 

 ここでも、御子(キリスト)は、人間ではないのははっきりとしている。万物の創造者でもあり、万物よりも先に存在し、万物は御子キリストによって今も支えられているという。

 このような存在が人間であることはあり得ないのはすぐにわかる。

 以上のように、新約聖書の重要な書簡において、繰り返しイエス・キリストは、人間ではない、神に等しいお方であることが言われているほど、このことは重要な真理なのである。

 福音書においても、イエスのことを神の子(神と同じ本質を持つ存在)として、信仰を告白した例も記されている。

 

…イエスが、自分のことを何者と思うかと、弟子たちに問われたとき、シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。(マタイ16の16)

 

 そしてイエスは、ペテロがこのように答えることができたのは、人間の知恵や思索でなく、神からの直接の啓示なのだと言われたのであった。

 

…あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。(マタイ16の17)

 

 イエスを神の子と告白できるのは、人間の知識や学問、経験などではない。直接に神が啓示することによってだと主イエスは言われた。

 ここでも、イエスが「神の子」ということは、学問や人間的な考えではまったく分からないのであって、神が私たちの魂にかかっている覆いをとりさってくださり、そこに啓示を注いでくださって初めてわかることなのだと。

 現代でも、キリスト者だと自称している人たちの中にも、キリストは人間だ、神と等しいなどというのは、弟子たちが造り上げたことだ、などという人たちもいる。こうした主張をするのは、新約聖書の根本と相いれないことになる。

 使徒パウロが、次のように復活をきわめて重視したのも、彼自身が復活したキリストに実際に出会い、直接に語りかけを受け、キリストご自身でもある天の光を受けたからである。

 

…キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄である。

 さらに私たちは神の偽りの証人とさえ見なされる。

 

 使徒言行録において、パウロが回心した直後に宣べ伝えたことが、「イエスこそは、神の子である」ということは、イエスは人間の姿をして殺されたが、復活して神と同じ御方となっている。そしてその神なるキリストによって自分もまた、死せる存在から、新たな命を与えられて復活したのだと、明確に自覚していたのを示している。

 神と同じ力を持つゆえに、万人の罪をすら許すこともできるし、未来に再び来たりて 一切の悪を滅ぼしてくださる新しい天と地を創造されることができるのである。

 新約聖書において、十字架で処刑されるのを見つめていた、一人のローマ軍の百人隊長が、そのような無惨に殺されていくイエスをみて、神などどこにいるのか、イエスという男はただの弱い人間だったなどと思わず、「本当に、この人は神の子だった。」と何かに打たれたように言った。(マルコ15の39)

  イエスの生涯や教えについてはほとんど知らなかったと思われるこのローマの兵隊長は、神からの啓示を受けてキリストの本質を知らされたのだった。

 そして、これが、ローマ帝国全域にわたってキリスト教が広がっていくことの予告ともなった。

 使徒パウロが、キリスト教徒迫害しているさなかで、キリストの光と語りかけを受けて回心し、「イエスこそは神の子だ」と宣教しはじめたのも同じように神の啓示を受けたからであった。

 人間でありながら、神である―この驚くべき存在であるキリストは、過去二千年の間、聖霊となって全世界において、さまざまのわざを示し続けてきた。

 唯一の神、愛の神などまったく思ったこともない私―そして無数の過去のキリスト者たちも、また聖霊がそのように働いて信じるように導かれたのである。

 これからも、砕かれた心をもって信じる人たちを、キリストは神の子としての力をもって永遠の御国まで導いてくださると信じることができる。


 

リストボタンお知らせ

 

 すでに1月号にキリスト教(無教会)全国集会の案内を同封しましたが、再度案内をしておきます。

 今年で30回を迎えるこの無教会の全国集会は、徳島市での開催です。

5月14日(土)10時〜

15日(日)午後4時。

 場所は、徳島市の徳島駅から800メートルほどのところにある、サンシャイン 徳島ホテルです。14日(土)の宿泊(翌朝の朝食込)は、直接にこのホテルに申込むことになっています。

  内容の詳細、申込書、プログラムなど全国集会に関する問い合わせは奥付の吉村孝雄まで。

 

〇1月発行の「野の花」文集、希望の方から追加申込があります。まだ残部がありますので、申込あればお送りできます。

 

〇「今日のみ言葉」や集会だよりが同封されていないと連絡下さった方々もありました。前月はどうしても時間とれず、作成できませんでした。

 


リストボタン編集だより

 

〇5月の全国集会―み言葉中心としつつ、聖霊による交流がなされる集会となりますようにと願っています。

 集まる人の多少にかかわらず、そこにみ言葉と聖霊が注がれるときには、何か新たな力あるもの、永続的なものがそこから生まれます。

 とくに最近の世界及び、日本の政治的、社会的状況には危惧されるものが多くあります。エフェソ書に次のように記されています。

 「私たちの戦いは、血肉に対するものでなく、悪の霊に対する戦いである。」    

 そのためにも、その戦いにうち勝つための霊的な武具―み言葉と聖霊を豊かに受けさせてくださいと祈ります。

 全国集会の締切りは、4月14日となっていますので、参加希望の方はお早めに申込ください。

 (なお、健康やその他の事情でそれまでに申込が難しい方については、締切り以後も可能な範囲で対応させていただきます。)

 

 来信から

〇横浜市での冬季聖書集会(1月9〜11日)に参加して本当によかったと思いました。聖書のなかで神様がどのように言っているか、どのように働いてくださっているか、ということを学びました。神様を仰いでいる方々との集いはすばらしいなあ、と思いました。(関東の方)

 

〇京都での近畿地区 無教会キリスト教集会で、朝食のとき、向かいの方が、「祈られている子は大丈夫よ」と言ってくださった言葉が耳に残っています。昔実家に帰ると、両親が、子どもや孫のことを祈っていてくれるのに気がつきました。そのとき初めて、自分が祈られていることを知りました。祈り、祈られることは、幸せなことだと思いました。その一端に加えてもらえる喜びをありがとうございます。」

                 (関東の方)

・「祈りの友」に新たに加わられた方からの来信です。3年前に、主に導かれて新たな「祈りの友」を始めることになってから、現在まで120名余りの方々が、加わっておられます。

 この「祈りの友」から新たな交わりが生まれ、祈りがより深められている方々もおられます。「祈りの友」という集りに加わらなくとも、祈る対象はいくらでもあり、自分の家族、親族、所属する集会の人たち、その家族、知人、仕事での同僚、近所の人たち、またニュースなどで苦難にあっている方々―等々いくらでも祈る対象は与えられています。

 私たちにキリストの愛が与えられているほど、その対象は広がっていくと思われます。

 それでも、なお、礼拝とおなじで、一人でも礼拝できますが、集りという中に主が特におられる―ということは主イエスご自身が言われています。

…私の名によって二人、三人が集まるところに私はいる。          (マタイ18の20)

 また、聖霊という最も重要なものが与えられたのは、しばしば信じる人たちが心を一つにして集っているときでした。

 それはペンテコステのときに、使徒やその仲間の人たちが、主イエスの命じられたように、祈って約束のものを待ち続けていたとき、時至って、豊かに聖霊が注がれたこともそうです。

 あるいは、ペテロがイエスの復活を証しているとき、そこに集っていた人たちに聖霊が注がれたことも記されています。(使徒言行録1046

 そしてキリストを信じる人たちの集りは、キリストのからだであるとも言われています。

 このように、キリスト教信仰においては、集りの重要性がしばしば記されています。

 「祈りの友」もそうした祈り合うための集りです。実際に集まることは難しくとも、祈りを合わせる目に見えない集りでもあります。

 そうした集りにも主がともにいて祝福してくださいますことを今までにも実感してきました。

 

〇お詫びと感謝

 最近は、いろいろな事情のために、時間が取れず、多くの方々からの来信、メール、協力費などの送付に関しても、返信やお礼もなかなかできず、前月には「集会だより」や「今日のみ言葉」などの作成もできなくて申し訳なく思っています。そうした中でも祈りに覚えて支えてくださることを感謝です。(吉村)

 

〇訂正

 前月号での無教会の全国集会に関する記述のなかで次を訂正します。

18頁上段右5行目… 永井信子(東京「いずみの森聖書集会」責任者→代表者

18頁3段目 右より3行目

清水勝(高槻聖愛キリスト集会代表者)

 大阪聖書研究会は退会され、それまで行なっておられた家庭集会を右のように新たな名称の集会とし、それに専念されるとのことです。