いのちの水 20171月号 671

 


キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。

古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(Ⅱコリント517


 
内容・もくじ

リストボタン新しくなるために

リストボタンみ言葉が古びないように

リストボタン古くて新しいみ言葉

リストボタン罪の赦しと清め

リストボタン旧約聖書の続編から

リストボタン休憩室

リストボタンお知らせ

リストボタン集会案内

 


リストボタン新しくなるために

 

 私たちは誰でも新しい心、新たな力を与えられたいと願う。

 しかし、どうしたらそのようなことが可能になるのか、といぶかしがる場合が多い。

 年齢とともに確実に、かつての情熱も衰え、実行するための体力や精神力も衰えていく。

 しかし、実に単純な道が備えられている。

 それはキリストの内にあるーただそれだけである。(*

 

…だれでもキリストの内にあるなら、その人は新しく創造された者である。

          (Ⅱコリント5の17)

*)新共同訳はキリストに結びついてーと訳されているが、原文は、en christo 英語では、in Christ であるから、口語訳、新改訳のように、キリストの内にある と訳するのが外国語訳でも大多数を占めている。

 

 キリストの内にある、それはただ、キリストを信じて仰ぐだけでよい。キリストを心から求めるだけで、私たちはキリストの内に置いていただける。求めよ、そうすれば与えられる、ということはこのようなことについてもあてはまる。

 旧約聖書に現れるヨブという人物がたいへんな苦しみの中でいくら神に叫び、祈っても助けはないと感じた。そのため、自分は生まれてくるのでなかった、生まれた日はのろわれよーという苦しい呻きをあげるほどとなった。

 しかし、それでも彼は神の御手の内に置かれていたのであった。神の時至って、ヨブはそのことに気づかされる。

 この世に生きる限り、だれでも、その生涯に、日々の生活のなかに、だれもわかってもらえないのでないかと思われるような苦しみや悲しみ、悩みを経験することになる。

 それでも、「世界のあらゆる人々よ、私を仰ぎ望め、そうすれば救われる。」という啓示の言葉(イザヤ書45の22)にあるように、心を転じて神にキリストに向うだけで、私たちは神の愛のうちに置いていただける、そして、新しくされ、古びゆくことなく救われる。


 

リストボタンみ言葉が古びないように

 

 どんなものでも、使わずに放置していたり、ときどき使っても手入れしないなら古びていく。

 本や自転車や車、その他の機器類、また住んでいる家、田畑、人間関係、そして自分の心…。

 植物においても、水をやらなかったり、雨が降らないときが長く続くとき、勢いは弱まり、古びていき、最終的には枯れてしまう。

 私たちに与えられている神の言葉も同様である。

 日々、神の言葉に心を注ぎ、新たに神から受けるのでなかったら、み言葉は、古びていき、力が失せて、ほこりをかぶったというような状態となる。

 若き日に、神とキリストを信じて、生き生きとした信仰に生きていても、さまざまのこの世の不条理に心は疲れ、神は助けてくださらない、とか神の愛への疑問が生じたりすることがある。

 また仕事や用務があまりに忙しいとき、静まって祈る時間も失われていくこともある。

 そのような状態が続けば、神の言葉は、その人にとって古びて命を失っていくような状態となる。

 年末のころにスカイプによる集会に参加された遠隔地におられる方からのメールに、そのようなことが書かれてあった。

「日々に追われて集会に参加できず自分の中のみ言葉が古びていく焦燥感を抱えて年末を迎えていたので、今日の集会が与えられたこと本当に感謝しています。」

 キリストが言われた言葉ー「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。(マタイ1820

 という言葉を思いだす。イエスの名によって集まる、イエス様を信じて、主イエスを仰ぐ心で二人、三人と集まるとき、そこにイエス様はいてくださる。

 主イエスは、霊的存在であり、どこにでもおられる。そして聖霊として風のようにどこからともなく来てくださる。

 それでも、このように、とくに二人、三人が主を仰ぎつつ集まるときに、そのただなかにいてくださるという約束をされた。

 これは、キリストを信じる者たちの集まりは、キリストのからだであるーといわれていることから、複数の者たちが主によって集まるとき、キリストの霊的なからだをより実感できるようにしてくださっている現れだといえる。

 主の名によって集められるとき、それはキリストの体であるゆえに、キリストのいのちがその人たちにより多く流れはじめる。

 毎日曜日ごとの礼拝集会が二千年、いかなる迫害があろうとも、事故や災害、さらに大きな戦争などが起こって神などいないと思われるような状況にあってもなお、キリストの名を慕って集まるその集会は続いてきた。

 それは、この集まりにはキリストご自身がいて、守り、霊的にうるおし、不思議な力でそうした集まりを維持してこられたからであった。

 そして、迫害やその他の事情で一つの集まりが失われていっても、神はまた新たな集まりを起こされてきた。

 主の名による集まりが、欠くことのできない重要性を持つために、神ご自身が世界のさまざまのところでそうした集まりを起こし、維持されてきたのである。

 病気やその他の事情で、じっさいにそうした集会などで顔と顔を合わせて会うことができなくとも、電話やメール、手紙での交流によっても、二人が主の名によって集まることになるゆえに、小さな祝福が互いのうちに流れ始める。

 神の祝福が注がれるとき、そうした集まりは大きな集まりになることもある。しかし、たった二人、三人でも真実な心をもって主を仰いで集まるとき、小さきものを慈しまれる主は、そこにも宝石のような輝きを持つ命を注がれる。


 

リストボタン古くて新しいみ言葉

 ー互いに愛し合うこと

 

 多くの人は、新しいものに関心を持つ。時間的に新しいものーニュースと言われるものは初めてのような感覚を持たせるので、誰でもが惹きつけられる。どこかで火事が発生した、地震で家々が壊れ、山が崩れた、不注意による事故で突然の悲劇が生じた、どこそこのチームが勝った、優勝した、等々 それらの新しい出来事は、だれでも一時的に興味を持つ。

 しかし、それらの新しいことを見たり、聞いたりしても、一番大切なものー心が清められたり、敵対する者や弱い者、あるいは悪いことをするような人間に対してでも彼らが本当によくなるようにと願うような愛が深められたり、あるいは真実な心が強められるということはあるだろうか。

 もしそうした出来事がそのようなよきはたらきをするものなら、昔はテレビもラジオもなくもっと前は新聞さえなかったころには、そうしたニュースは全くといってよいほど伝わらなかったから、それに比べて現代は情報量において天と地ほどの大きな違いがあるから、とっくに現代の人間は、昔の人間よりはるかに真実で無差別的な愛があり、清い心となっていたはずであるが、現実はまったくそうではない。

 私たちを本当に良きものへと変えるものは、新しいものでないことがこうした事実を考えるとすぐにわかる。

 本当に変えるものは、こうした時間的に新しいものでなく、時間を超えたものー古くから続いてきたものである。

 そのような古いもののなかにこそ、本当に新しいものを見いだすことができる。このことは、中国の古代の賢人孔子の有名な言葉「温故知新」も古きものの重要性を告げている。

 「古きをたずねて新しきを知る」と読まれることが多いが、「温」という漢字は「あたたかい」という意味をもっているゆえに(*)、「古きを温(あたた)めて新しきを知る」とも読まれる。

 

*)語源辞典によれば、次のように説明されている。

「温という漢字の右側は、ふたをうつぶせて皿の中に物を入れたさまを描いた象形文字(音オン・ウン)。熱が発散せぬよう、中に熱気をこもらせること。温はそれを音符とし、水を加えた字で、水気が中にこもって、むっとあたたかいこと。」

 

 古いゆえに忘れ去られていて堅く冷たくなってしまったようなものを、大切に取り出し温める思いでそこにこめられた意味を見いだすということになる。

 私たちが聖書を読むとき、とくに日本では大多数の人が、単に昔の本であり、自分には関係がないと思っているような内容を、心を注いで温めることで、そこからいわば真理が孵化されて現れてくる。そしてさらに羽が生じて、自分以外の人たちにもその世代全体にも羽ばたいていくことさえある。

 人間にとって最も大切なこと、最も大いなるものーそれは弱き人、背信行為をするような重い罪を犯した人、また生きることから迷い出て死にそうになっている人…そうしたさまざまの人に及ぶような愛、神の愛である。

 そのような神の愛を与えられ、そこからまずその愛を同じ信仰を与えられている人同士で働かせ合うことーそこにその神の愛が育まれ、周囲の世界にも伝わっていく。

 そのことを、聖書は次のように現している。

 

……愛する者たちよ。わたしがあなたがたに書きおくるのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めである。

 その古い戒めとは、あなたがたがすでに聞いた御言である。

しかも、新しい戒めを、あなたがたに書きおくるのである。

 そして、それは、彼にとってもあなたがたにとっても、真理なのである。

 なぜなら、やみは過ぎ去り、まことの光がすでに輝いているからである。

         (Ⅰヨハネ278

 古い戒めー古くからの神の言葉と言い換えることができる。み言葉は、古くから存在し、かつ、現在も決してその輝きを失うことなく光り続けている。その光によって触れるものは常に新しさを実感する。

 このヨハネの手紙のもとになっているのが、つぎのヨハネによる福音書にある記述である。

 

…あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が知るようになる。」

        (ヨハネ福音書1335

 特別な儀式とか服装によってキリストの弟子であることが知られるのではない。あるいは、学問があるとか、生まれが良いとか、特別な技術があるとか、人の関心を惹く話し方、単にキリストの教えを口で繰り返すなどでもない。

 そのようなすべてに勝って決定的なしるしは、キリストの愛をもって互いに愛し合うということであるというのである。

 この言葉が言われた時代はー現代でも相当部分残っているがー身分(例えば、貴族と奴隷)や国家、民族、肌の色、貧富の差等々で大きく差別され、そうした人同士が兄弟のように愛し合うなどは考えられないことだった。

 しかし、キリストは言われる。そのようなあらゆるこの世における違いと関わりなく、神から来る愛によって互いに相手の祝福を祈り合い、具体的にできることを実行するーそうした愛こそは、キリストの弟子であるーキリスト者であるということを最もはっきりと表しているのだと言われている。

 そのような愛には周囲の人たちも敏感であって、その愛をもって互いに愛しあうなら、周囲の「すべての人」が、互いに愛し合っている者たちが、キリストの弟子であるのを知るようになると言う。

 キリスト者同士が、神からくる愛をもって愛し合う、互いに奉仕し合うことが、すべての人にキリストの弟子であることを証ししていくーそれほど神の愛の力は大きいということなのである。

 

互いに愛し合うこと

 互いに…し合うことーその重要性を新約聖書はしばしば告げている。主イエスが言われた。「あなた方の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」ーこの言葉は、同じことを強調するために言い換えたのであって、敵対する者への愛とはすなわちそのような人への祈りである。その悪意(悪の力、悪霊)が神の力によって追い出され、そのかわりに神からの良き心が与えられますようにとの祈りである。(*

 

 *)キリストの選ばれた12人の弟子たちにまず与えられたのは、悪の霊を追い出す力であった。(マルコ福音書315、マタイ101)それによって、神の力が注がれ、魂や体の悪いところが癒されるようにする力だった。

 

 このように、他者への愛とは祈りと不可欠に結びついている。その点で、一般的には愛しているとは好きだということと同じと思われているが、キリストが言われている愛とは本質的に異なるものだと知らされる。

 それゆえ、キリストが繰り返し言われた、互いに愛し合うということは、言い換えると、互いに祈り合う状態こそが、キリスト者に求められているのがわかる。

 そこから、他者が苦しんでいる状況とは、心身に重荷をかかえている状況であるゆえに、次のように言われている。

 

…互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。(ガラテヤ書62

 

 キリストの律法とは愛し合うことであり、当時はキリスト教が初めて伝わっていった時代であり、キリストを信じるだけでも迫害を受け、あるいは家庭での難しい問題が生じるなど、一般的な病気や悩み以外の重大な重荷がかかってくる状況にあった。それゆえ、少しでも軽くされるようにと互いに祈り合うことは、深い愛と不可欠に結びついていたのである。

 そして、人間にはどんな時代、いかなる人でも、人生の歩みのなかで必ず何らかの重荷がある状況は、形を変えて、いつの時代にも生じてきた。

 それゆえ、この「互いに重荷を担う」ということ、互いに祈りをもって担い合うことは、真理であり続けてきた。

 とくにキリスト者同士が互いに愛し合い、祈り合うのは、信徒はキリストの体であるということからもあるべき状態なのだとわかる。

 

…わたしたちは、キリストの体の一部なのである。

      (エペソ書425530

…体の一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれるなら、すべての部分が共に喜ぶ。

あなた方はキリストの体であり、また一人一人はその部分である。(Ⅰコリント122627

 

 そしてこのことと共通することであるが、愛とは相手に神からの良きものが与えられるように祈ることであり、そのことが仕えるということである。

 キリストは、「仕えられるために来たのでなく、仕えるために来た」と言われている。(マルコ1045、マタイ2028

  仕えるとは、奴隷のように何でも命令どおりにすることでなく、最もよきものを相手に提供しようとすることである。

 それゆえに、あらゆる人間を生み出したもとの関係である夫婦という基本的関係においても、あるべき姿は、互いに仕え合うということになる。

 

…キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合なさい。

妻たちよ、主に仕えるように夫に仕えなさい。

夫たちよ、キリストが信徒たちのためにご自分を捧げられたように(命を捨ててまで、愛したように)そのような愛をもって妻を愛しなさい。(エペソ書52125より)

 

 パウロは別のところでも、次のように一般的に、「互いに仕える」ということと愛が結びついていることを示している。

 

…兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。(ガラテヤ書513

 

 こうしたキリスト者の生活の一切にかかわる重要なことゆえに、ヨハネの手紙においては、繰り返し「互いに愛し合う」ことが記されている。

 

 …互いに愛し合うこと、これがあなた方が最初から聞いている教えだからです。(Ⅰヨハネ311

 …愛するものたち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛しあうべきです。互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまってくださる。(同411 (ほかに、Ⅰヨハネ3182347、Ⅱヨハネの5など)

 

 このように、驚くほど多く繰り返し言われている。

 そしてその出発点にあることが、キリストのうちに留まること、そしてキリストが私たちの内にとどまってくださることである。

 それゆえに、キリストは、その最後の夕食の席上で言われたこととして繰り返し、つぎのように言われた。

 

…私につながっていなさい。  そうすれば私もあなた方につながっている。 *

人が私につながっており、私もその人につながっているなら、あなた方は豊かに実を結ぶ。…私の愛にとどまっていなさい。

 

*)「つながっている」と訳された原語はその後で、「(私の愛に)とどまって」 と訳されている原語と同じで、メノーである。英語では、remain in あるいは、 abide in と訳される。

 

 イエスのうちにつながるーとどまるとは、イエスの愛のうちにとどまることであり、それゆえにそれによって私たちはイエスの愛を受けることができる。その愛をもって他者をも愛することができるようになるー実を結ぶというのである。

 


 

リストボタン罪の赦しと清め

             ―詩篇51

 

 聖書に含まれる詩集ーそれは詩篇と言われているが、それは人間にとってとくに重要なことを、神から示されて詩的な表現で書かれている。

 詩篇全体が深い祈りに満ちた詩である。

 キリストの最も苦しい最後のとき、十字架上での「エリ エリ レマ サバクタニ」との叫びがすでにそれより千年ほども昔の詩の作者ーダビデと伝えられてきたーの詩22篇にそのまま現れていたことは驚くべきことである。

 これは詩篇の詩がいかに深い内容をもっているかを暗示し、またはるか後に生じることの預言ともなっているのがわかる。

 

 3 神よ、わたしを憐れんでください

 御慈しみをもって。

深い御憐れみをもって

背きの罪をぬぐってください。

 4 わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。

 5 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。

 6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し 御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく あなたの裁きに誤りはありません。

 この詩は三千年ほど前のイスラエルの王、ダビデの詩である。そのようなはるかな古代の日本人が具体的にどのように考え、感じていたかは文字がなかったので一切分からない。

 詩篇は心の化石のようなもので、大昔の作者の心がそのまま現代の私たちにも感じ取れて、深い共感を覚える。

 ダビデは子どもの頃から信仰があり、どのような勇士たちも立ち向かうことさえできなかった大男に対して、ただの石投げをもって倒した勇敢な武人でもあり、王となってもその采配力は卓越していた。他方、竪琴を弾き、詩をも作る多彩な人であった。

 そのようなダビデが王となって周囲を平定したが、そのあとに大変な罪を犯した。しかし不思議なことにその罪が分からず、だいぶ後に預言者ナタンが来て、その罪をはっきり指摘して初めてダビデは目が覚めた。

 この詩はこうした重い罪を犯してしまった人間の心、神にその赦しを祈る切実な心情が吐露されている。

3節、原文では、まず、「憐れんでください」(ホンネーニ *))から始まる。

 

*)ヘブル語のホンネーニとは、ハーナン(憐れむ)という動詞の命令形であり、「私を憐れんでください」は、「私を」意味する接尾語が付くために、ホンネーニとなる。

 

 外国語訳ではそれがはっきりと表されている。(Have mercy upon me, O God,…)   詩の作者が犯した罪があまりにも重いものであるとき、ただその単純率直な祈り、叫びがまずあふれるように魂の深いところから出てくる。

 しかし、現代の私たちにとっては、「憐れむ」という言葉はあまりいいニュアンスをもっていないことが多い。憐れんでくださいーという言葉は、昔乞食が道端で多かったときに、通りがかりの人にお金や食物を願うときに言うような言葉として連想しがちである。

 このように、聖書の時代とその人にとっては、きわめて重要な言葉であっても、日本語に訳されたときには、その力を感じさせないということがある。 それは言葉の壁である。時代がはるかに異なり、まったく異なる民族、国での言葉はどうしても現代の日本人には、ぴんとこないというところがある。

 ダビデの犯した罪とは、とりかえしのつかない罪であり、それは本来なら死をもって償わねばならないほどのものであった。

 それゆえに、その罪の深さ、重さを思い知らされたときには、ただ、必死になって神に向かい、叫ぶほかはなかった。

 それがこの冒頭の叫びに表されている。

 聖書においては、神に向っての「憐れんでください!」という祈りや叫びは、この詩篇のように、重い罪を犯したために、生きるか死ぬかという重大なときの祈りとして、また新約聖書では、悪の霊に極度に苦しめられ、火の中、水の中に倒れる、また異邦の女性の娘が悪の霊にひどく苦しめられているときに、医者やほかのあらゆる方法ではどうにもならないため、キリストへの全面的な信頼をもって、「主よ、憐れんでください!」という叫んだことが記されている。(マタイ15221715

 さらに、生まれつきの全盲の人が、道端に出してもらって、通りがかりの人の足音や話し声が聞こえたら誰彼かまわずに、施しをもらうために立っていた盲人の叫びとしても記されている。

 イエスだけは神と同じ方だから、愛と全能の力を持っておられると信じて、周囲の人たちの妨げや、黙れという制止する声をも聞かずに、その積年にわたる祈りと願いを、「主よ、憐れんでください!」という一語にこめて叫んだのである。

 とくにマタイ福音書では、同様の記述が、二回重ねて記されている。(マタイ92731、同202934)これは、当時の生まれつきの全盲の人の苦しみや悲しみ、あるいは孤独がいかに深かったかをマタイは深く共感し、神がそのように、二重に記すように導いたと考えられる。

 こうした人間の最も深い闇からの救いを求める祈り、願いとして、「主よ、憐れんでください!」という言葉がある。この言葉は、ギリシャ語では、「キリエ エレイソン」というが、 こうした聖書の背景のゆえに、ミサ曲では、必ずこの言葉が含まれている。(*

 それは、ギリシャ語の、キューリエ エレエーソン が、短音となり、キリエ・エレイソンと言われるものである。

 

*)キリエ・エレイソンとは、kurie eleison 。キリエとは、キューリオス(主)の呼格。主は(主が)という場合は、キューリオス、「主」よというときには、キューリエとなり、さらに短い母音になったもの。

 エレイソンは、エレエオー(憐れむ)の命令形。

 

  こうした生と死をさまよっているような状況で発せられる叫び(祈り)であるから、このひと言の祈り「キリエ エレイソン」は、それを心にあたためつつ賛美するとき、この祈りだけで尽くされる。

 憐れむとは、上から見下すようなニュアンスでなく、深い愛から出るまなざしである。長年の苦しみや悲しみをすべてすくい取る愛であり、そこに新たな力を注ごうとするお心である。

 私たちはただ、神の一方的な憐れみによって救いを得たのであった。

 私たちが何か、大いなる災難や災害、苦しみに出合ったときにも、長い祈りはできない。しかし、この祈りだけは、できる。

「主よ、憐れみたまえ」  と。

 

 7 わたしは咎のうちに産み落とされ 母がわたしを身ごもったときも わたしは罪のうちにあったのです。(7節)

 

 この作者は、自分の罪というのは、あとからそのような状態になったのでなく、正しい道から絶えずはずれてしまう、ということは、生まれる前から自分の本性に深くしみついているものだとわかっていた。

 人間は、正しいあり方というものや、真実な愛というものは、直感的にだれでもわかるにもかかわらず、実行することができない。嘘つきや盗み、いじめをする人、理由なく暴力や振るったりするのは悪いと知っている。そのようなことをしたらいけないのを忘れていたーなどという者はいない。

 それほど、わかっていながら、守れないというところに、原罪といわれるほどに根深いものがある。

 

 8 見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。

それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。(*                (口語訳 8節)

 *)この節の訳は、外国語訳や日本語訳のほとんどすべてが、右の口語訳のような訳となっている。

・ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。(新改訳)

You desire truth in the inward being; therefore teach me wisdom in my secret heart (NRS)

・ここで、心の内と訳された原語トゥーホートは、この詩篇の箇所以外では、ヨブ記3836だけにしか用いられていない。そこでは、この箇所のように「心」の内に知恵を置く と訳されるが、別の訳は「雲」の内に知恵を置く とも訳されている。

 しかし、新共同訳だけが、「あなたは秘儀ではなくまことを望み 秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。」と訳している。ここで、前後の内容を見ても、いきなり「秘儀」とか「秘術」などという言葉が出るのはいかにも違和感がある。こうした訳語はこの箇所の訳を担当した人の個人的な解釈、考えが強くでていると思わせる。こうしたことは折々に見られるので、とくに詩篇のような一つ一つの言葉が重要な意味を持っている文書においては、一つだけの訳でなく、ほかの訳も参照することが重要になる。

 

 9 ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください わたしが清くなるように。わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように。

 

 ヒソプとは、清めのときに使う植物。雪のように白くーという願いは、この作者が自分の罪による汚れを深く実感していたゆえに、それを根底から清められたいという強い願いがあったのをうかがわせる言葉である。

 雪よりも白いーそれは現実にはない、ただ神の完全な清い本質だけが雪よりも白い、と言える。雪は白くともすぐに汚れるが、神の完全な清さはいかなることによっても汚されることがない。

 雪よりも白く、神のように完全な清いものとしてくださいーという願いである。

 聖書の世界には、どこまでも清くー神はそのような本質を持っていると啓示されている記述がある。

 主イエスがただ三人の弟子たちとともに高い山に登ったとき、イエスは太陽のように輝き、その衣は光のように白くなった。

 ここで、イエスこそは、かつて預言者ダニエルが啓示のなかで見たことー神は雪のごとく白かったとあるのを、キリストも神と同じ本質を持っているゆえにこのように、十字架刑で死する前にはっきりとイエスの本質が啓示されたのだった。

(マタイ172、ダニエル書79

 

 また、キリストの復活を知らせるために来た天使については次のように言われている。

…その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。

              (マタイ283

 ほかにも、キリストの十字架の血によって白くされた人たちなどが、白い服を着ていることがつぎのように繰り返し黙示録で現れる。

 

…勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。

              (黙示録35

 こうした清められることへの強い願いと、それが実現されることが聖書の重要な内容となっている。

 そしてその汚れない姿を常に人間に見せるために、神は罪に汚れないものを、世界の到る所に置かれた。それが自然の風物である。

 いつも目にする大空やその雲、青空の青い色、夜もまた完全な清さを象徴する星の輝きを全天にちりばめてくださった。地上では至るところに見られる草木の姿も、それらに咲く花々も、人間にはない清いもの、美しさをまとっている。

 山に行けば、そうしたそこで目に入るあらゆるものは、清いと実感する。山々のつらなり、そこに吹きわたる風、ときにたちこめる霧、そして谷川のせせらぎやその透明な水や真っ白いしぶき、高山にある雪、小鳥のさえずり、季節によって咲く高山植物や紅葉などの純粋な美…

 人間は罪に汚れている存在であるが、そこから神の国の清い世界へと導かれようとされる神は、到る所にそのような清い世界を繰り広げ、かつその清い姿を無限の神秘で包まれている。

 そのようにして清くー白くされることへと招いておられるが、それでも汚れからどうしても抜け出せない人間のために、キリストが来られ、そして十字架において死んでくださるほどに、神は人間を愛して、その汚れー罪からの救いを与えようとしてくださったのを思う。

 

 10 喜び祝う声を聞かせてください

 あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。(*

わたしの罪に御顔を向けず 咎をことごとくぬぐってください。

 

 「骨が喜び躍る」このような表現をそのまま受け取るなら何か異様な表現と感じられる。それは骨という言葉が、数千年も昔の、日本と遠く離れたユダヤの地方では現代とは大きく異なるニュアンスを持っていたからである。

 骨は体の内部にあって全身を支えるもの、それゆえ人間の奥深い本質を指して用いられることがある。骨が喜び躍るとは、心身が喜びにあふれる、という意味となる。

 創世記の最初に、アダムのためにエバが創造され、そのエバを見て、アダムが、「これこそ、私の骨の骨」といったことが記されているが、これもそのままの現代の骨という生理学上の意味として受け取ると不可解な表現としかわからない。これは、このエバこそ、私の内奥で一致する存在だ、ということなのである。

 罪のために、厳しい裁きを受けて、心身がたちゆかないほどになった。しかし、どうか神様、お前の罪は赦されたというみ言葉をください。そうすれば、私の喜びは回復するのですーという意味で言われている。

 

*)わかりやすく訳された英訳の一つをあげておく。

Oh, give me back my joy again; you have broken me-- now let me rejoice. (NLT)

 

 12 神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。

 

 この詩の作者の強い願い、それは自分の努力や他人の感化などでは到底かなえられないことー魂が根底から清くされることであった。

 それは、いかなる人間の力によってもできない。

 このような罪の本性は、どんなに科学技術が発達しようとも、教育や生活の豊かさがあってもどうにもならない。人生経験豊かであっても、またさまざまの外国旅行をして経験を積もうとも、それでも変えることはできない。

 むしろ、科学技術も教育もなされず、貧しい昔の人々がかえって純真な清い心を持っていたと言えるほどである。

 そのために、万物を創造し、かつ現在のそれを維持し、新たな創造を続けておられる神に、私の心のなかに、清い心を創造してくださいーという願いを訴えている。

 ここで「創造する」(create)という動詞は、単に「作る」(make)というのとは根本的に異なる。

 作るとは、すでに存在するものを用いて別のものを生み出すことである。人間の科学技術はすべて「作る」である。鉱石から鉄などの金属を取り出して、鉄製のさまざまの便利な器具を生み出すこと、これは鉱石も神が創造したものであり、それから鉄という金属を取り出すことも、人間の存在以前からこの宇宙に創造されていた 物理や科学的法則を用い、さらにそうした技術を生み出し、考える頭脳や手足が動くこと、人間の存在そのものーそうしたすべては人間が作ったものでなく、神が創造したものである。

 創造とは、無から生み出すことであり、ただ神のみがなす。それゆえこの創造するという動詞 バーラー(ヘブル語)は、聖書の巻頭にある、天地創造のところで用いられている。

 イザヤ書においては、つぎのように用いられている。

  見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。

以前にあったことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。

 代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。

わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして

その民を喜び楽しむものとして、創造する(イザヤ書651718)。

 

 この世界がいかに混乱や空しさ、悪に満ちていようとも、時いたれば、神はそれら一切の古きもの、悪の支配を根底から打ち破り、新しい天と地を創造される。

 人々は、以前にあったことー昔の罪ふかい人間のこと、悪に満ちたこの世界のことなどを思いだすことはなく、すべてのまなざしは神が創造されようとしている新しい天と地へと向けられる。

 そのように、この詩の作者は、自分の心に神の全能の力によって新しい清い心を創造してください、と祈る。そして神の力を堅く信じるゆえに、そのことを確信している。

 そして清い霊を創造するのは、神であり、新たな霊を与えられることであるのを知らされていた。

 それは、はるか後に現れたキリストのなさったことを預言するものでもあった。

 キリストは、復活してまもなく、使徒たちに聖霊を与えることを約束され、そして実際に信じるものに、聖霊を与えて、その魂の変革をされ、力を与えて新しい道へと導かれるようになった。

 

…ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなた方はまもなく、聖霊による洗礼を授けられる。(使徒言行録15

 

 このように当時の多くの宗教的指導者が重んじていた、捧げ物とかに関する儀式ではなく、神の霊の重要性を深く啓示されていたこの詩の作者は、同時に、本当の献げものは何であるかを深く示されていた。

 今から 数千年も昔から、真の神への献げもの、神の喜ばれるものは、目に見えるいろいろなものでなく、砕かれた心、ただ神のみに向う幼な子のような心であることを知らされていたのである。

 

17 主よ、わたしの唇を開いてください。

 この口はあなたの賛美を歌います。

18 もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす捧げ物が御旨にかなうのなら、私はそれを捧げます。

19 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。

打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。

 

 この詩篇51編は新約聖書のあり方と深い共通点を持っている。三千年たっても今の私たちに深く当てはまる。

 現代の私たちにおいても、様々な目に見えるもの、あるいは目に見える活動などを神に献げることはできなくても、みずからの罪を知り、神の前にひざまずく心、砕かれた心は誰でも献げることができる。

 そして、その罪を赦していただき、清めていただく。このためにキリストが来られたのである。

 この詩の作者は、死刑にも相当するような重い罪を犯したため、本当に自分の心の中には良いものがないことを思い知らされた。しかし神様は万能で愛のお方だから、何もない私の心にも清い心を創造してくださる、そして聖なる霊を与えてくださる。

 清い心を創造していただき、聖霊を与えられることーこれは私たちの日々の祈りでもある。神が私たちを見られるなら、どんな人間も清くない。パウロも自分のことを土の器と言った。でもどんな汚くても壊れやすくともだからといって絶望することはない。

 神は、私たちがただ心を神に向けて、真実に求めるとき、そこに清い心を創造してくださる。

 この古き詩は、そのまま現代の私たちの願いや祈りと重なって、私たちを励まし、生かすものとなっている。

 


旧約聖書の続編から(*

 

〇…全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、

回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。

 あなたは存在するものすべてを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われない。

憎んでおられるなら、造られなかったはずだ。

 あなたが望んでいないのに存続し、

あなたが呼び出されないのに存在するものが

果してあるだろうか。

命を愛される主よ、

すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる。

         (知恵の書112326

・ここには、深い神への信頼、その愛への確信がある。

 神の愛は万人に及んでいる、そして救おうとされている。人間だけでなく、この自然の世界もすべて神が愛されるゆえに創造されたのだと。

 

〇…(神の英知は)人間を慈しむ霊である。

神は人の思いを知り、

心を正しく見抜き、

人の言葉をすべて聞いておられる。

主の霊は全地に満ち、すべてをつかさどり

(人が語る)あらゆる言葉を知っておられる。(同1の6~7より)

 

・神は全能ゆえにすべてを聞いておられる。そしてつねにその適切な報いを与えておられる。私たちも神の英知のほんのひとしずくでも与えられるとき、神とその創造された自然に聞く耳が与えられることを期待できる。

 

〇主を愛することこそ、輝かしい英知。

 (シラ書ー集会の書ー1の10より)

〇主を敬い続けて、見捨てられた者があったか。

 主を呼び求めて、無視された者があったか。

主は慈しみ深く、憐れみ深い方。

 私たちの罪を赦し、

 苦難のときに助けてくださる。

         (同右 2の1011より)

〇いかに多くを語っても、決して語り尽くせない。

「主はすべてだ。」このひと言に尽きる。(シラ書4327

 

*)旧約聖書の続編とは、外典(アポクリファ)とも言われる。ヘブライ語で書かれた旧約の部分を「正典」とし、紀元前3世紀にエジプトでギリシア語に訳された『七十人訳聖書』Septuagintaのなかに追加されてある部分を「外典」いう。

 新共同訳では、続編という名称で続編付きの聖書として発行されている。 キリスト教の最初の使徒たちの用いていた聖書は、ヘブル語の旧約聖書でなく、ギリシャ語に訳された70人訳といわれる旧約聖書を用いていた。 しかし、ルターが聖書をドイツ語に訳したときに、ヘブル語の旧約聖書から訳したため、プロテスタントでは、続編のない旧約聖書が一般的となっている。 しかし、使徒たちが用いたものであり、二千数百年の歴史を越えて残されてきた書であり、ここに引用した箇所からもうかがえるように、聖書とほぼ同様な内容を持っている書が多い。

 プロテスタントの聖書では続編を含んでいなかったため、その内容をよく読むことなく、続編を退けている人が多いが、正典とされている現在の旧約聖書のエステル書や雅歌には、神という語や信仰あるいは信頼という言葉が一度も使われていないのであって、とくにエステル書が引用されることはほとんど見かけない。それらより、はるかに続編の「知恵の書」(「ソロモンの知恵」)、「シラ書(ベン・シラの書、あるいは集会書とも言われる。ベンとはヘブル語で子という意味であり、ベン・シラとは、シラという人の子 という意味)」などが、真理に満ちた内容であり、旧約聖書の箴言と共通の内容が多い。またマカベア書は、旧約聖書のダニエル書の理解には不可欠の書であり、旧約聖書から新約聖書の時代に起こった出来事を知るためにも必須の書である。

 


 

ことば

 

(399)痛みを感じるまで、愛しなさい。(マザー・テレサ)

  Love until it hurts.

 

 ・キリストは痛みを感じるほどにー死に至る苦しみと痛みを受けてまで、私たちを愛してくださったことを思う。

 本当の愛は、敵対してくる者のために祈って、なすべきことをなそうとするようにはたらくゆえ、痛みや重荷を感じることにつながる。

 

(400)

 たとえ聖書のすべてを外面的に知り、あらゆる哲学者のいったことを知るとしても、神の愛と恵みがなければ、そのすべてに何の益があろう。

(「キリストにならいて」1の3 トマス・ア・ケンピス著)

 

・新約聖書にも、「たとえ、あらゆる神秘と知識に通じていても、愛がなければ、無に等しい」(Ⅰコリント13の2) とある。

 

(401)心の深みから発せられた言葉でなければ、あらゆる言葉は無意味です。

           (マザー・テレサ)

 

If they do not come  up from the depth of our heart ,our words are meaningless

 


 

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〇金星と木星

 1月中旬ころには、夜明け前のまだ暗いとき(5時半ころ)、南の空に強い輝きの星が見えます。それはほとんどの星のようにきらきらと瞬くことなく、じっと見つめるように光っています。それが木星です。

 そのすぐ下に、木星よりだいぶ弱い光ですがそれでも、明るい星が見えます。それが、春の星座として知られている乙女座の一等星スピカです。

 スピカだけを見つけることは、星座に知識がない場合には、やや難しい場合がありますが、現在は、木星の特別に明るい星のすぐ下にありますので、だれでもすぐに分かります。

 金星や木星など惑星は、見える場所が動いていくために、一般の星座表にも掲載されていないこともあり、その名前は子供のときから広く知られているにもかかわらず、実際には見たことのない人が圧倒的に多い状態です。

 また金星はさすがに夕方に見えるときは宵の明星として特別に夕空に群を抜いて明るいので、知る人もいますが、木星となると大多数の人にとっては名前だけのものになっているようです。

 この星の澄んだ光は、強く見つめるように光っているために、古代からも注目され、この星の英語名である Jupiterジュピターは、ローマ神話での最高の地位にある神の名です。金星とちがって、地球の外側にあって遠くにあるため、長期にわたって夜通し見えることもあり、そのうえに金星を除いて圧倒的な明るさをもっていて、夜空の王者のごとくに見えるゆえに、このような名前が付けられたと考えられます。金星は木星より明るいけれども、地球軌道の内側にあるため、夜明け前や夕方にしか見えないのです。わかりやすく言えば、太陽に近いので、太陽の上がる夜明けとか日没にしか見えないわけです。

  木星の上方にも橙色の強い輝きの星が見えます。これが牛飼座の一等星アークトゥルスで、乙女座のスピカとならんで春の代表的な星です。

 12日の夕方暗くなってから、西の空には、三日月状の月のすぐそばに宵の明星の金星が並んで見えるという珍しいすがたが見えました。

 さらに、その翌日には、その月のすぐ右下部分に、火星が見えるという位置関係になり、これもとても珍しいことです。このように、続けて月と金星、翌日は月と火星がすぐそばに並んだということは、私の過去の記憶にはありません。

 火星はこの時期1等星程度の明るさがありましたが、すぐそばの月がはるかに明るいので、よく見ないと見つけられなかった人も多いかと思われたことです。

 ふだんから、いつの星空でも心してみるときには興味深く、さまざまのことを語りかけてきますが、とくに今回のような珍しい現象は、まだ星に関心のない方々にも新たな関心を抱くきっかけとなったりします。

 なお、1月中旬ころには、明け方には、土星も東の空に見えるようになっています。

 夜明け前に東の空を見ることは、都会でもまだ比較的静かと思われますので、木星を見たことのない人は、ぜひ晴れた日の早朝に東の空を見て、はるかな遠くから投げかけられているその透明な光に接してほしいと思います。

 それは目に見える神の言葉というべきものだからです。

 


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