いのちの水  675号(毎月1回発行)2017517日発行

 


悪をもって悪に報いてはならない。かえって祝福を祈れ。祝福を受け継ぐためにあなた方は(この世から)呼び出されたのである。(Ⅰペテロ39


 

苦難の時の助けー聖書

種まきとその祝福

開かれるということ

救いの神への祈り詩篇54

憲法問題と聖書

編集だより

お知らせ

44 回北海道瀬棚聖書集会案内

 

リストボタン苦難のときの助けとしての聖書

 

 私たちの陥るさまざまの試練ーそれは人によって大きくことなる。

 深い苦しみや悲しみのときには、誰にも話す気にならず、また、話してもわかってはもらえないという気持が先立つ。

 それは、数千年の昔も今も変わらない。

 聖書は神の言葉の集大成である。人間の言葉は時間の流れとともに消えていくが、神は永遠の存在であり、天地万物の創造者であるゆえに、そのお心から出た神の言葉は消えることがない。

 そのような神は、愛の神であり、私たちの深い心の苦しみまで見通してくださる。

 そのことを如実に語っているのが、旧約聖書の詩集である詩篇である。

 人間の限界を深く知る詩篇の作者は、それゆえに、神に向って叫び、祈る。神の愛と真実を信じ、そして最終的には必ず救ってくださることを信じて祈る心の世界がありありと示されている。

 これは人間の作った詩であるにもかかわらず、神の言葉として聖書に収められている。

 それは、背後にこの作者の魂を導く神の深い愛と御心があり、この詩を通して神の本質が示されているからである。

 主よ、私に耳を傾け、答えてください!

憐れんでください。

絶えることなく、あなたを呼び続ける私を。

苦難の時、私が叫び求めれば

あなたは必ず答えてくださる。

あなたの慈しみは、私を越えて大きく

深い死の世界から私の魂を救いだしてくださる。

主よ、あなたは情け深い神隣れみに満ち、忍耐強く

慈しみと真実に満ちておられる。

私にみ顔を向け、隣れんでください。

御力をあなたの僕に分けあたえ、救ってください。

主よ、あなたは必ず私を助け力づけてくださる。(詩篇87 より)

 

 この数千年も昔の詩の作者の心ーそれを今も持っていなさい、と語りかける神がこの詩の背後におられる。

 

 

リストボタン種まきとその祝福

 

 種まきのたとえがある。種とは福音であり、聖書の言葉であり、それらを生み出されたキリストである。

 死にうち勝つ復活、十字架による罪の赦し、神の全能、そのみ言葉の力、弱きを顧みる神の愛、悪の力が最終的には滅ぼされる…等々、聖書には、良き知らせ(福音)が満ちている。

 そのことを、証ししていくということが、その福音を知らされた者の生涯の仕事となる。

種まきは、誰でも可能である。

私たちの毎日が種まきとなる。

 部屋で動けない寝たきりの人でも、祈りによって霊的な種まきをなすことが与えられている。

 キリストは夜通し祈ることによって霊的にも種まきをされていた。

 私たちのその祈りを聞いてくださる神が、その祈りに答えて私たちの予想しないところに種を蒔いてくださる。

 私もまた、そのような先人の祈りによって書かれた一冊の本から、古書店での立ち読みでこの福音が、私の心に種蒔かれた。

 じっさいの生活によって、また語ることによって、あるいはキリスト教の印刷物によって、そして祈りによって種まきは、神様が助けてくださる。

 種は思いがけないところに落ちる。私たちにはどこに落ちたか分からないことが多い。

 しかし、じっさいの植物の種が思いがけないところに落ちて、芽を出し、花を咲かせあるいは実を付けているのを、山を登ったところにあるわが家では、随所でみてきた。

 それはそのまま霊的世界での種まきと発芽、成長を象徴するものである。

 私たちが本当の神様を知らされ、福音の力を知らされたのは、誰かが種を撒き続け、神がそれを用いてこられたからである。そしてそれは二千年、種まきは続けられ、発芽し、成長してきた。

 そして最大の種まきは、神であり、キリストご自身によって日々なされている。

 青い空、数しれぬ草木たち、花々、雲、そして渓流や風の奏でる樹木たちの音楽…等々、すべては壮大な自然、宇宙を用いての神の種まきである。

 こうした自然の姿によって、無数の人たちの心に、天国の種が蒔かれてきた。

 神を信じないという人に対しても、神は愛をもってそうした自然の美や力、清いものを撒き続け、人間もそれを受け取って、よきものを心に芽生えさせ、それぞれに成長させている。

 これからもそうした種まきとそれに伴う祝福は世の終わりまで続いていく。(表紙の種まきの絵は、大分県の秋

月兄から送られたもの)

 

 

 

リストボタン開かれるということ

 

 私たちは、だれでも開かれることを望んでいる。

分からない現象があったら、それがどうしてそのようになるのか、その理由が開かれるのを求める。

 広大な空のひろがりを染める青、海の青―どうしてあのような色なのか、春になれば野山には緑に包まれるーなぜ、紫や赤、青、茶色などでなく、緑なのか。

 太陽の莫大なエネルギー―それによって、私たちの生活は支えられている。どうしてあのようなエネルギーを出し続けることができるのか。星などはなぜ、何千年も同じ位置であるのか…等々。

 そうした自然現象だけでなく、人間世界においても、ある人は、健康で家庭も恵まれ、経済的にも豊かであるが、ある人は、突然の事故で生涯が苦しみとなったり、また生まれながらの病気、そして家族も障がいあったり、また親からも見捨てられたり、あるいは家族が犯罪に巻き込まれたり、逆に犯罪を犯したために、家族はそこで生活できなくなり、たいへんな苦しみを味わわねばならなくなる…そして日本や世界に眼を転じても、到る所で不可解なこと、どうしてなのか…と思われることが生じている。

  それらに直面するたびに、私たちはその理由を知りたいと思う。

 しかし、それらはみな、固く閉じられた扉があってその向こうの世界は、たいていの場合私たちには開かれない。

 はじめに述べた自然に関することは、近年は急速にさまざまの計測機器も発達し、扉が開かれていったことが多い。

 しかし、そうしたさまざまの現象を起こしている背後にある科学的法則それ自体がなぜ存在しているのか、なぜ、この宇宙の物体を支配しているのが、単純な数式で表されるような法則であるが、なぜそのような法則が存在するのか、例えば、なぜ万有引力は、なぜ物体の距離の3乗に反比例しないで距離の2乗に反比例し、質量に比例するのか。そうした問題については科学は答えることができない。

 私という人間がなぜこのような性格なのか、あるいはなぜ生まれてきたのか、ー科学的にはそれは単なる偶然という説明でしかない。

 このように、おびただしい知識が氾濫し無数の研究がなされていてもなお、存在の根本原因については、科学も論理も答えることはできない。

 死のかなたに存在するものは何なのか。それもまた科学や学問では答えることができない。科学で説明するなら、死によって土に埋葬されたときには、おびただしい細菌や

 

地中生物によってまもなく骨だけになり、その骨も雨に含まれる炭酸によって最終的には、大地に溶けて土に帰る。

あるいは、死体を火葬したときは、鉄、カルシウム、カリウム、マグネシウム等々の金属成分が灰となって残る以外は、さまざまの気体となって空気中に飛散していく。このような眼で見えるもの、わかり易く言えば、数を数えること、計測できるもので説明するほかはない。

 それゆえ、数えることのできない事柄ー例えば、死後の魂とか天国、地獄等々のようなことは科学やほかの学問も本来答えることはできない。

 愛や心の清いこと、心の平安、拷問すらも受けようとするような信仰の力、正義そのもの、美そのもの、そうしたものに心動かされることなどなども、科学や学問では説明できない。愛や清い心等々は数えることのできない対象だからである。

 この世界はつきつめていくと、このように鉄の扉で閉じられているようなものである。

この地球や太陽なども科学的に説明するなら、最終的には宇宙に飛散していくものでしかない。

 それは、究極的なことは何もわからない、闇と混沌、空しさの世界である。

 それゆえに、優れて科学的な考え方を持った人物ーしかも文学や思想、平和の問題等々にも幅広い関心と素養、知識を持っていた湯川秀樹(*)のような人物も、晩年の書物の最後のところで、「何か科学の本質と人間の限界を暗示しているようにも思われる。」と述べて、上田秋成(**)の「雨月物語」の一部を引用したあと、次のように記している。

 

…月が照って、松には風が吹いている。いい景色や。人間はもうそこにいないかも知れない。

 それは何もののしわざか、どう考えたらいいのか。…考えれば考えるほど分からなくなってくる。(「人間にとって科学とは何か」中央公論社166頁)

 

 

*19071981年。理論物理学者。京都大学などの教授をつとめ、1949年日本人で最初のノーベル賞(物理学)受賞。アインシュタインなどとともに、平和のため、核兵器廃絶の活動にも関わり、多くの著作がある。

物理学者であるが、「本の中の世界」(岩波書店)という著作もあり、短歌も作っていた。

 

**)江戸時代の作家。歌人。1734 1809年。怪異小説「雨月物語」で知られる。

 

 聖書で示されている神を信じるのでなければ、いかに天才的な学者であっても、多くの知識や活動の幅が広くても、「考えれば考えるほど分からなくなる」のがこの世である。

 その神とは、単に宇宙を法則を造り出した全能というだけでない。その全能は、人間にかかわる愛や真実、その正義といった面でも全能なのである。それゆえに、人間一人一人の心の最も奥深いところまで見抜く存在である。

 さらに病気や体の障がい、あるいは罪を犯してその裁きを受けて見捨てられている人、正しく生きることのできないさまざまの弱い人を顧みて、救いを与えてくださるお方である。

 このような神がおられるということ、それは人間には閉じられたものだった。それゆえ、全世界でそのようなことは知られていなかった。

 わずかに、ごく一部の人たちが、語りかける神からの声を聞き取ったことが聖書に記されている。

 それを啓示という。新約聖書の原語では、アポカリュプシス(*)というが、「覆いを取り除く」という意味を持つ。

 真理が覆われていたが、それは、世界の歴史においても聖書の真理によって取り除かれてきた。私も、学校教育や自分のさまざまの学びなどによってはまったく除かれなかった覆いが、聖書によってはじめてベールを取り除かれたというのをはっきりと感じてきた。

 

 (*)アポ~分離を表す接頭語。カリュプトー …覆う。 アポカリュプトー →覆いを取り除く。

英語では、revelationという。これも、revealrevealで、ベール、覆いを取り除く)

 

 たった一輪の野草の花、雲のさまざまの形や色ーそうした日常的なもののなかにも、ひとたびベールがはずされるとき、いろいろなものが示されてくる。

 聖書の冒頭に記されているように、神はその闇と混沌、空しさのただなかに、光を与え、この世にあってベールに閉ざされていた真理を開く道を指し示してくださったのである。

 新約聖書では、「奥義」という言葉で表されているが、キリストに関するさまざまのことも、またこの世界にはベールで閉ざされていたが、時至って、キリストが現れ、聖霊となって私たちに臨み、神を信じて心から求める者に、少しずつそのベールが除かれ、神様の絶大な御計画、そのお心の一部が示されてきたのであった。

 

…その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たち(キリスト者)に明らかにされたのである。(コロサイ書126

 

 日々、不可解な出来事に直面する現代、謎のようなこの世界にあって、神により、聖霊によって、少しずつそのベールを解き放っていただけること、そして最終的には、死ののちの天の国にての復活のとき、いっさいのことについて扉が開かれることが約束されている。

 

 

リストボタン救いの神への祈りー詩篇54篇

 

 私たちはそれぞれさまざまのことによって苦しみ、悲しみ、あるいは立ち上がれないような打撃を受けることがある。

 人間関係の難しさや自分自身の罪のため、他人からのひどい仕打ちや災害などによって、みずから命を絶ってしまうほどの苦しみが襲うこともある。

 そのように生きるか死ぬか、という状況にあって、そこから救いを与えられた一人の魂の刻んだ歩みが短く記されているのがこの詩である。

 

3 神よ、御名によってわたしを救い

あなたの力によって、わたしの潔白を明らかにしてください。

4  神よ、わたしの祈りを聞き

この口にのぼる願いに耳を傾けてください。

5 異邦の者がわたしに逆らって立ち

悪しき者がわたしの命をねらっています。

彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。

6 見よ、神はわたしを助けてくださる。

主はわたしの魂を支えてくださる。

7 わたしを陥れようとする者に災いを報い

あなたのまことに従って彼らを滅ぼしてください。

8  主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ

恵み深いあなたの御名に感謝します。

9 主はあらゆる苦難から私を救ってくださり、

わたしの目は、敵(の滅び)を見たからです。

 

 

 サウルがダビデを殺そうとして、荒れ野を付け狙っていたときに、ジフ人が来てサウルがダビデの居場所を告げ口したという背景の元で作られた歌である。殺されそうだというぐらい大変な状況の中で書かれたものである。実際に長いキリスト教の歴史では、信仰を持っているだけで殺されるということはいくらでもあった。

 戦前でも天皇よりキリストが偉いなどと言えば、それだけで職業はたちまち絶たれた。

このように真理を理解しない人達によって、ひどい目に遭わされるということは、いつの時代にも全世界にずっとあった。

 今の私たちは、こういうことがないのでこのような詩を見ても共感しにくいということがあるが、人間が極限状態に置かれたときに、ますますその光を増してくる。聖書はそんな本である。

 

 3節後半は、新共同訳では、「力強い御業(*)によって 私を裁いて(**)ください」

とある。

 この訳ではわかりにくい。力強い御業とあるが、原文では「力」を意味する言葉。

 詩篇では並行法でよく似た言葉をたたみかけることによって、内容を浮かび上がらせたり、あるいは強調する。3節も「御名」を「力」をに変えただけである。神の御名によって救ってください、という表現と、神の力によって私を正しさを明らかにし救ってください。というのとは同様な意味。

 日本語では「救う」と「裁く」というのは全然違う。私を裁いてくださいーこの表現では、わかりにくい。裁きを受けるというのは、たいてい何か悪いことをして裁判となり、刑罰が決められてしまうことを意味し、救いとは逆のニュアンスになる。

 しかし、ここでは「私の正しさを立証して救ってください」

 という意味なので、裁きを受けて刑罰を受けるとはまったく異なる意味になる。

 誰でも追い詰められた状況に置かれたら、御名によって救ってくださいと言わざるを得なくなる。

 私は不当な非難を受けて殺されそうになっているが、神は正しく私を知ってくださっている。それゆえに救ってくださるーとの確信が述べられている。

 

*)力強い御業…原文は、力。英語訳では、power might

**)裁いて…英語ではvindicate

 

 4節祈りを聞いてください!次は切実な祈りになっている。

私の祈りを聴き、私の願いに耳を傾けてください!

 ここもほぼ同じ言葉が並行して用いられ、祈りの切実さが私たちに響いてくる。

 私たちの追い詰められた気持ちは神様だけが分かってくださる。どんなに人間が信仰を持っても、苦しい状況に置かれた当事者の気持ちはその一部しか感じ取れない。

 聖霊が豊かに与えられたら、相手の苦しみをも深く実感できるということはあるが、なかなか深くは与えられない。

この詩を書いた人も誰か人間に訴えるのではなく、神様に訴えている。だから神様を知らない人にとっては、このような切実な気持ちを持って行く場所がない。

 およそ、切実な祈りは、それを聞いてくださる神を知らない場合には、どこに持っていくのだろう。聞いてくださる神、私たちの心の叫びに耳を傾けてくださる神がおられると信じているからこそ、このように祈ることができる。

 死ぬかと思うばかりの苦難のおり、悲しみや絶望のときに、いかなる人もその苦しむ人の心の深みを見ることはできない。

 ただ神のみがそれを完全に見て、そこにいやしの光を注ぐことができる。それを知った者は、どのように応答がないように見えてもなお、祈り続ける。

 5節からは作者の置かれた状況が書かれている。命を狙われるような危険な状況で書かれた。前に神様を置くというのは、キリスト者であっても、たえず心を引き締めていないと難しいことである。

 自分の前に何を置いているか、何を見つめているか。普通は人間ばかりを見て、その人を利用して、地位や金、名声などを得ようとしたり、あるいは自分の前に自分の名声を置くこともある。子どもの時は目の前には母親がいて、だんだん大きくなると、友達、いじめる人、というように、人間がいつでも目の前にある。

 この詩の作者(ダビデと伝えられている)に対して悪事を働く人も、神を目の前に置かないで、敵対する人物や自分の考えを置いている。

 わたしたちは、神を信じるようになってから初めて、神を目の前に置くということがどういうことであるかを知らされた。しかし油断していたら、いつの間にか自分の考えや感情、また別の人間を目の前に置いてしまう。

 当時のユダヤ人は、異邦人は割礼をしていないゆえに、汚れているとみなして、交際もしていなかった。ペテロも同様だったが、神から直接に啓示を受けて、そのような考えはまちがいであることが示された。

 しかし、後になって、割礼の必要性を強硬に主張するユダヤ教からキリスト者となった人たちに影響されて、割礼をしていない異邦人と共に食事をしなくなった。そのために、パウロは面と向って叱責した。(ガラテヤ書)

 あれだけ聖霊を受けて、復活のイエスを目の前に置いたはずの人が、いつのまにかユダヤ人からキリスト者になった指導者たちの主張を目の前に置いてしまった。

 私たちを取り巻く世界、とくに日本においては、宇宙万物を創造された神、正義と愛の神を前に置くというのは考えられたことがない。そのような神がおられるということさえ、私たちの幼少時代から大学教育を通じても、ミッションスクールなど以外には、教えられることがない。

 私も大学四年になって初めてそのような神がおられるということを一冊の本で知らされたのだった。

 真実で正義と愛に満ちた神などいないーと本気で考えるなら、どこに永遠の正義や決して変ることのない愛などあるだろうか。私たちの隠れたところも、心のなかもすべてを見通している神がおられると信じるからこそ、その神に裁かれることなく喜ばれるために、少しでも正しいこと、愛にかなったことをーと願うようになる。

このような神は存在しないー言い換えると変ることなき正義も愛も、そして真実も存在しないのなら、不正なことをしてもそれはみな消えてしまう。良きことも悪しきこともみな一時的なものだからである。そのような考え方が、さまざまな悪の元になっている。

 死んだら終わりーどんな悪を犯しても、またよいことをしても、死んだらすべて消えてしまう。そのようなことが真理なら、この世に正しく生きるなどということは空しくなる。

 使徒パウロも、復活がないのなら、ー復活させる神などいないなら、好きなだけ飲み食いして動物的な快楽を追って生きよう、という考えになってしまうーと書いている。

 

「私を陥れようとする者に災いを報い、

あなたのまことに従って彼らを滅ぼしてください。」(7節)

 

 悪人が自分を追跡して殺されそうになっているという危機的な状況にあるので、ここに言われたようなことは3000年も前では自然な気持ちである。

自分は本当に神様に従っていて、自分を殺そうとするサウル王の憎しみに対しても、憎しみで返したことはない。

 それにもかかわらず、自分を殺そうとしているような者は、神様、どうか滅ぼしてください!という気持である。

 現代においても戦争とは、そこにいる人は誰であろうと、みんな死んだら良いということが今でもたくさん起こっている。旧約聖書は本来の人間の感情が出ている。

 キリストの時代になり、そのような敵対する人に対しても祈れと言われるようになった。

その人そのものを滅ぼしても、別の人に同じ悪そのものが入り込むのであって、一時的な安心にすぎない。

 本当の安心は、そのような悪を意図的に考える人たちを支配している悪の霊が追い出され、真実を愛する人になることによって得られる。

 旧約聖書は新約聖書を指し示し、新約の中心であり根源であるキリストを指し示している。

 悪人を裁き滅ぼしてくださいーという祈りや願いは、キリストによって悪人に宿る悪の霊そのものを滅ぼし、その悪人の魂に聖霊のやどるようになりますようにとの祈りである。

   からは危機的な状況から救い出され、すべての苦難から救われたという事実が書かれてあり、それゆえに、神に心からの感謝を捧げる。(*

 

*)新共同訳は、「主は苦難から救いだしてくださいます」と現在形で訳しているが、原文は、完了形なので、外国語訳ではほとんど次のように過去形で訳されている。ほかの日本語訳(口語訳、新改訳、関根訳など)も同様で、…苦難から救いだしてくださった。

と過去形で訳されている。

 

 

 For he has delivered me from all my troubles

and my eyes have looked in triumph on my foes. 

 

 また、最後の言葉「わたしの目は、敵(の滅び)を見たからです」とあるが、原文は、単に「私は敵を見た」となっている。右の英訳も、この詩の全体の流れをくみ取り、「私の目は、敵に対する勝利を見た」ーと補って訳している。(*

 

*)新共同訳はこの最後の言葉は「私の目が敵を支配しますように」となっているが、原文には「支配」という言葉はなく、詩の並行した行がほぼ同じ意味をもって記されていることから考えても、この訳はわかりにくい訳となっている。じっさい、このように訳しているのは、数十種類ある英訳だけとってもまた日本語訳でもほかには見られない。

 

 私たちも非常に困難なことがあって、必死に叫んでも、神様は助けてくださらない、自分を正しく評価なさらず、悪い者と同じにされてるようだという気持ちになっても、それでもなおこのように祈りと叫びを続けていくならば、この詩の作者と同じように歩むことができる。

 このようにこの詩は非常にはっきりしたテーマで、敵がまわりに押し寄せてくるときにでも、単純な救いへの叫びと祈りによって、そこから救われていく。

 迫り来る悪の力、それに呑み込まれそうになりつつも、必死で祈る。神の助けを信じて祈る。どこにも持っていきようのない、苦しみや恐れをもすべて神に祈りのなかで注ぎだす。

 そこから、神はそのような闇の力に対する勝利を与えられる。

 

 

リストボタン憲法問題と聖書

 

 まず結論から、現在の憲法は変えるべきではない。

 憲法に定められた内容がとても十分に守られているとは言えない状況にありながら、どうして、憲法を、とくに9条の平和主義を変えようとするのだろうか。

 9条の精神を本当に生かそう、守ろうとするなら、軍備を縮し、日本及び海外へも出向く災害救助隊というものを創設し、それを日本の災害だけでなく、海外のさまざまの災害の救助、再建のために費用を使うほうがはるかに生産的である。それこそが積極的平和にかかわることである。

 軍を世界各地に派遣することを積極的平和主義などというが、それはしばしば危険を増幅し、軍備の競争を生み出してきた。

 戦闘機一機が百億円前後もするという驚くべき高価なものである。このような費用をかけて何を生み出すだろうか。

そして何年かすれば時代遅れとなってまた新たなものを購入するというのである。

 また、外国への援助と称して巨額を、一般の庶民の生活にはあまりかかわりのない道路や橋などの建設のために発展途上国につぎ込むが、このような援助は、そのような工事にたずさわる一部の日本の会社の利益となってもどってくる。

 そのような援助より、貧困にあえぐ人たちの教育や医療、水の設備等々、一般の人々の心に寄り添った事業に費やすなら、どれほどそうした国々の人たちの生活を助けることにつながるだろうか。

また、憲法第14 条には、「法の下の平等」として次のように記されている。

 

…すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

 

 しかし、ここでも、朝鮮半島出身の人たちや、部落差別、男女差別、生まれつきによってさまざまの差別が存在している。

 また、第十九条はどうだろうか。

 

…思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

 

 これも、「君が代」が戦前にどのような目的と意味をもって歌われたのか、また、それは天皇の支配を賛美する歌であるとして、思想、良心からこれに反対し、歌わない。このような姿勢を明らかにするだけで、教員も処罰されるようになった。このような状況は、思想、良心の自由を侵している状況ではないか。

 現在の「君が代」の歌詞には、残念なことに、天皇の治世が永遠につづきますように、といった短い歌詞で、平和や自由、国際友好といった内容がまったく含まれていない。

 本来は、太平洋戦争終結後に、憲法そのものが天皇主権から国民主権となったのであり、さまざまのものが一新されたゆえに、新たな国民全体が歌える歌、とくに平和憲法に沿った平和や自由、正義などを基調とする歌を新たに作るべきであったのである。

 

第二十三条学問の自由は、これを保障する。

 

 研究者として、原発の絶対安全といった主張に反対し、原発の危険性について発言するような研究者は圧迫され、原子力関係の仕事から追われることになった。そうした主張をする研究者を受け入れた京都大学も、そのような人たちは定年退職まで助手で据え置かれ、教授とは大きな格差の給料しか受け取れなく、あるいは定年間近になってやっと講師となった人たちがいる。

 現在も、軍事研究に加担することで、研究予算を豊かに与えるというやり方や、産学共同研究ということで、企業の利益、政府のめざす方向性にかなった研究者に多額の研究費を注ぐといったかたちで、徐々に学問の自由が犯されつつある。

 そのような現状に対して、日本学術会議大西会長は、去年5月に、「大学などの研究者が、自衛の目的にかなう基礎的な研究開発することは許容されるべきだ」と、軍事研究を容認する考えを示した。会長ともあろう人間が、戦後70年堅持してきた日本学術会議の方針を転換しようとしているのかと、驚かされたのだった。

 しかし、今年3月に新たな声明が出された。

 

軍事的安全保障研究に関する声明

  日本学術会議が1949年に創設され、1950年に「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」旨の声明を、また1967年には同じ文言を含む「軍事目的のための科学研究を行わない声明」を発した背景には、科学者コミュニティの戦争協力への反省と、再び同様の事態が生じることへの懸念があった。

 近年、再び学術と軍事が接近しつつある中、われわれは、大学等の研究機関における軍事的安全保障研究、すなわち、軍事的な手段による国家の安全保障にかかわる研究が、学問の自由及び学術の健全な発展と緊張関係にあることをここに確認し、上記2つの声明を継承する。(毎日新聞3月24日)

 

 この声明にあるように、今後とも、戦争目的の科学研究は絶対にこれを行なわない、軍事目的の科学研究は行なわないという方針を明らかにしたことは、内外の状況に押し流されずに、太平洋戦争のおびただしい悲劇を体験してきた日本の科学者のあるべき姿を堅持した。

 

第二十五条すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

 これについても、貧困のゆえに、進学できない若い人たちも多く存在するし、一部の人たちが豊かで贅沢な生活を享受している反面、貧しさゆえに、さまざまの苦しみを味わっている人たちも多くいる。大量の娯楽番組、スポーツ中継等々があるなかで、こうした社会の問題には視聴率が上がらないこともあって、わずかの時間しかとられていないので、表面的な豊かさばかりが、目についてしまう。労働時間が異常に長く、健康で文化的な生活が到底できない方々も多くおられるし、保育所の不足、人口の少ない地域での医療の貧困等々、現実は大きくことなっている。

 

 また、憲法に記されているのとは逆のことまで堂々と行なわれているのが次の項目である。

第九十九条天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 

 国会議員や大臣たちは、憲法を尊重する義務を負う、と明確に記されているにもかかわらず、率先してそれを変えてしまおうとしているのが現状である。

 このように、憲法を変えるより、現在の憲法が守れていない、生かされていないことはたくさんある。それをも知らずに時代が変わったから憲法を変えるべきだなどという表面的な考えを持つ人たちがとくに若者たちの間に増えている。

 それはマンガやゲーム、テレビのバラエティ番組といった深く時代を考えることから遠ざけて、一時的な快楽を追いかける媒体に浸されているということがかかわっている。

 現在の憲法を変えようという議論においては、広く知られているように、憲法9条の平和主義が、憲法を変える主張の中心にある。

 そして憲法を守るべき、という主張の中心もまた憲法9条にある。

 太平洋戦争のとき、日本が起こした戦争によって、中国だけでも二千万とも言われるおびただしい犠牲者を出したという。しかし、苦しみや悲しみにさいなまれるのは、死に至った人たちだけでは決してない。

 戦争によって重い障がい者となって、家族も含め、周囲の目を気にしながら、暗い谷間を死ぬまで歩かねばならない人たち、また家族の柱を失ってたいへんな困難のうちに生きていった人たち、満州孤児、また中国や東南アジアの戦場となった国々の人たちが、家族を殺され、農地を奪われ、女性の人権を踏みにじられ…そのような苦しみ、悲しみを、どれほどの日本人が感じてきただろうか。

 人間の苦しみや悲しみは、民族や国を越えて共通したものである。日本人が三百万人ほども戦死した。ソ連参戦によって、酷寒の満州にて、捕虜となってシベリアでの厳しい生活を余儀なくされたり、わが子を手放し、また逃げ延びる途中で言語を絶する寒さや飢えゆえの苦しみを味わってきた人たちも多い。

 戦争はそのような恐ろしい苦難を膨大な人たちに強いるものである。

 そのような戦時中から戦後の長い期間にわたって、数知れない人たちに苦しみや悲しみを与えてきたからこそ、そのようなことを二度と繰り返さないという精神が、日本の憲法、とくに憲法9条に象徴的に表現されている。

 悪人が来たら警察が武力で守るのと同じで、軍隊が悪い国と闘うのは当然のことだ、などという議論がある。しかし、警察が犯罪者を取り締まるのは、その罪人やかかわった人たちだけである。

 しかし、国家間の戦争をひとたび始めるなら、そのようなごくわずかの人たちなどとは比較にならない膨大な人たちを殺傷し、その家族親族たちも含めるとおびただしい人たちが苦しみや悲しみに打ちのめされてしまう。

 

 しかも、当事国二国にとどまらず、集団的自衛権を発動して、多数の国々が介入して、何千万という人たちが死にいたり、障がい者や行方不明などの人たちを合わせるなら、無数の人たちが苦しまねばならないのである。警察が悪人を取り締まることと同じだ、などということは到底成り立たないのはすぐにわかる。

 抑止力というが、日本が明治以来、清国、ロシア、そしてアメリカやイギリス等々と戦争を始めたのは、軍事力が抑止力となったであろうか。当事者の双方が軍事力を増強させ、その果てに戦争を引き起こしたのである。

 現在も、抑止力と称して、核兵器をもちだしたり、強力な陸海空軍の力を誇ろうとする。

 しかし、それぞれの国がそのような核兵器や軍隊を増強していったらどうなるのか。

 ますます世界は全体として危険極まりない状況へと進んでいくのは明らかである。

 核兵器を使うのは人間であり、人間はじつに誤りやすく、感情的、また自分の評価を高めようとする狭い根性から逃れられないゆえ、そのような肥大した核兵器や軍事力を使おうとする可能性は高まる。

 ひとたび核兵器が使われ、ミサイルが原発や大都市に炸裂するならば、歴史上でかつてない状況が訪れるであろう。

それがいかなる事態になるのか、だれも想像できない。

 福島原発の事故も、圧倒的多数の学者、政治家、文化人たちは予想してなかったのである。

 それを想像することがあまりにも恐ろしいゆえに、逃げていたというほかはないし、政治の動向に逆らったら出世できない、研究に必要な予算も減額になる…等々。

 軍事力を持ったら安全だ、などということは決して言えないのは歴史をみてもわかる。

 

 戦後70 年という長い歳月、日本は武力によって他国の人たちを殺したり、傷つけたりすることはなかった。それ自体、世界の中でもたぐいまれな出来事である。

 日本が憲法9条をしっかりと持って、軍事力以外の分野で、世界の弱い国々の医療や教育、電気等々を助けるなら、それこそ世界の平和に最も深い貢献をすることになる。

 憲法を変えるという主張の人たちは、天皇を中心とする日本の伝統を大切にする憲法という。

 しかし、天皇を中心として、太平洋戦争を始めて、わずか半年後に、ミッドウェー海戦で大いなる打撃を受けていたにもかかわらず、それを継続していく意図を示したのも天皇であり、東京大空襲があってもなお、戦争を終結させようとしなかったゆえに、広島や長崎に原爆が落とされる悲劇も生じた。

 このように、天皇を中心とした戦前の政治が、大きな悲劇をもたらしたことを考えるならば、天皇を中心とした政治というのが、本当にあるべき姿なのかということが問題となる。

 そして、江戸時代のように、天皇を飾りのようにして実権は徳川幕府が握っていたが、厳しい身分差別をしたり、居住移転や結婚などの自由もなく、信教の自由もなく、何も悪いことをしていなくとも、ただキリスト教を信じるというだけで、厳しい拷問を受け、殺されていった多数の人たちがいる。

 外国をみても、王制を取っているからといって必ずしも内乱や分裂が生じないのでもなく、共和制だからといって平和が続いているのでもない。

 日本の伝統を守るというが、それなら、和服は日本の伝統であり、畳や障子など、あるいは、女性差別や障がい者差別も長く行なわれてきた。

 日本において女子の高等教育を根付かせ、成長させ、今日のように男女の別なく、高校、大学などの教育を受けることができるようになるために、大きな働きをしたのは、欧米のキリスト教伝道にかかわって人たちであった。

 日本の伝統というが、日本人が用いている漢字、ひらがな、カタカナなどは、みな中国の漢字がもとにある。もともと日本には文字がなかった。仏教が伝わってきて、それを学ぶようになっていったが、その経典の読み方を付けるために、漢字の一部を取ったものを用いた。それがカタカナである。

 さらに、そのゴツゴツしたカタカナでなく、漢字をくずして女性的ななめらかな書体にしたのがひらがなである。

 このように、現在の日本の漢字やカタカナ、ひらがななどは中国の漢字が源流にある。

 日本の伝統というが、その文化を表現するために絶対的に不可欠な文字は、もともと日本のものではなかったのである。日本の伝統である日本の文学、和歌、短歌、俳句などを表現し、広く一般に知らせるためには、中国の文化であり、伝統である漢字を使うことなくしては表現できない。

 天皇家は日本の伝統の代表的な存在のように言われる。しかし、天皇や皇室の人たちが、海外に行くとき、日本での職務、行事に参加するとき、振り袖や和服姿をしているであろうか。

 仏教そのものにしても、本来インドの宗教であり、中国や朝鮮半島をとおって日本に伝来してきたものである。日本の固有のものではない。

 建物にしても、日本の伝統は、茅葺き屋根である。どこにそのような茅葺き屋根で住居をたくさん建築しているところがあるだろうか。

 圧倒的多数は、コンクリート建て、あるいは西洋式の建物ばかりである。

 イス,机を使うのが、大多数の日本人の生活様式であり、義務教育や高等教育もイスなしに畳で正座してやっているような大学などあるだろうか。

 年号にしても、平成とか昭和といった元号は、死後の諡(おくり名)で時間を数えるものであり、人間というごく弱いもの、いつ死ぬか分からない、一人の人間をもとに時間を決めるなどということは、世界のどこにも行なわれていない。

 しかもこの元号制度もまた、本来中国由来のものなのであって、日本固有のものでもない。

 中国の漢の国がやっていたことー国や人民だけを支配するのでなく、時間をも支配しようとして始めたことがもとにある。

 そして、日本の元号(明治や昭和、平成など)は、中国の古典から選んだ言葉をもって元号の名称としてきたことからみても、それは広く知られていることである。

 日本の伝統には、よいことも不都合なこともいろいろある。

和歌、俳句などは日本語それ自体の特質をよくあらわしているゆえに、それはまさに日本のよき伝統といえるし、伝統工芸、絵画なども独自の美と技術をあらわしている。

 しかし、すでに述べたようにさまざまの日本の風習、伝統のようなもののなかには、変えねばならないものも多くあったからこそ、現在までに変えられてきた。

 こうしたことから考えるとき、私たちが本当に重んじるのは、特定民族の伝統よりも、どの民族にも共通した真理、普遍的な真理そのものでなければならない。そのうえで、それぞれの民族がつちかってきた伝統、文化を生かしていくべきなのである。

 人を殺してはならないーそれは普遍的真理である。一人の人を無意味に殺したり、大怪我をさせたりするのは真理に背く、あるいはあらゆる民族の伝統にそんなことをよいこととするなどあり得ない。

 しかし、戦争となると一人二人でなく何十万、何百万という大量の人たちを無意味に殺したり、大怪我をさせたり、家庭を破壊したり、町並みや村々を焼いたりー途方もない悪事が堂々と行なわれる。

 このようなことは、真理に背くことは本来明らかなことである。

 だから、戦争はいけない、そのような金やエネルギーは、貧困や医療、教育、災害救助等々に用いるべきだーというのは普遍的な真理である。

 それゆえに、こうした考えは、左翼とか右翼などという分類を超えたものであって、人間世界に根本的に流れているのである。

 驚くべきことに、聖書にはすでに数千年前から、武器弾薬などを用いることが間違ったことであり、人間がめざすべきはそのようなことでなく、田畑を耕し、平和な生産に向うべきことが言われている。

次にあげるのは、今から2700年ほども昔の預言書が神から受けた啓示である。

 

…主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。

彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。

国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。(イザヤ書24

 

 人間の会議とか交渉でなく、神ご自身が介入し、武力を用いず、平和で人間の命を支える農業に力を注ぐーこれは究極的な世界は、神の力によって平和がもたらされるということである。

 それは、世の終わりのとき、主の日、とかその日、という表現でしばしば現れる。

 人間が死してもなお、神のもとに霊のからだとなって復活するように、この世界、宇宙もまた霊的な復活を遂げるということが預言されている。

それがどんなふうにしてくるのか、死者の復活がどんなふうになされるのか、科学や言葉を超えた領域であるために、説明できない。

 ただ言えることは、聖なる霊が豊かに注がれるときに、こうした復活や新しい世界への確信が生まれるということである。

 このイザヤ書にほとんど同様な表現は、ほぼ同時代の預言者であるミカの受けた預言書にも見られる。(ミカ書413

 それだけでなく、聖書に収められている古代詩集である詩篇にも見られる。

 

…王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。

 馬は勝利をもたらすものとはならず、

兵の数によって救われるものでもない。(詩篇33 16 17

 

 ここでも、勝利は、武力や兵力によらない。馬は勝利をもたらさない。古代にあっては、世界のたいていの国々で、鉄砲の類が作られるまでは、馬は最も重要な武力、武器であった。

 旧約聖書に記されているように、エジプトから脱出したイスラエル民族を殲滅せんとして追いかけてきたのも馬を用いた戦車であったし、1200年代からわずか60 年あまりで、東アジアから中央アジアを経てヨーロッパに至る広大な帝国となったモンゴルを支えたのは、優秀な騎馬隊、馬を用いた戦力であったのもそうしたことを示すものである。

 このような無敵の軍をも造り出すほどに重要な騎馬戦力も、

真の勝利や人々の救いにはならない。この箇所に続くつぎの言葉が示すように、神に信頼し、神の力を待ち望む者にこそ、神の力が現れて悪の力をくじき、滅ぼして勝利を与えられるということなのである。

 

 

見よ、主は御目を注がれる

主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。

彼らの魂を死から救い

飢えから救い、命を得させてくださる。

我らの魂は主を待つ。

主は我らの助け、我らの盾。

(詩篇33 18 20

 

 こうした旧約聖書の預言、啓示を受けて、キリストは武力の無意味を次のような簡潔な言葉で示された。

 

 

…そこで、イエスは言われた。

「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ26 52

 

 武力に頼るものは、武力によって滅びていく。これは人類の歴史を見ると明らかである。

身近な日本の歴史においても、平家や源氏、織田信長、秀吉等々みな同様である。戦前の日本も武力によってー戦争の勝利によって領土を拡張していったが、またアメリカなどの武力によって無条件降伏となった。

 これは国家、民族だけにあてはまることでない。個人的な領域にあっても、相手を地位や権力、金の力、あるいはスポーツや芸術等々の分野で相手にうち勝とうとして、一時的には目的を果たしたようであっても、最終的には別の人間や組織のそうしたもので打ち倒されていく。

 結局、目にみえるものによる勝利とは空しいもので、みな消えていくものでしかない。

 消えていくことのない永遠的な勝利はあるのか。それこそ、キリストが言われたことである。

 

…これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平安を得るためである。

あなたがたにはこの世で苦難がある。

しかし、勇気を出しなさい。

わたしは既に世に勝っている。

(ヨハネ16 33

 

 世に勝つ、この世のあらゆる力ー軍事や悪事、あるいは災害、憎しみ等々、それら一切の力に勝利しているのが、あの十字架で無惨にも釘うたれて息絶えたキリストだというのである。

 じっさい、キリストの力は、以後のローマ帝国の激しい迫害や、伝染病、幾多の戦争、大戦、ロシアや中国、日本等々の激しい迫害にもかかわらず、それらの闇の力に勝利して、世界に定着してきた。

 そのような不滅の力ー神に由来するがゆえに永遠の力を知らされつつ歩むようにと語りかけられているのがキリスト者のあるべき姿だということになる。

 このように、武力による戦いは必ず滅びに至る。それなら私たちは闘わないのか、武力は持ってはいけないのか、それに対して次のように記されている。

 

 …わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、悪の諸霊を相手にするものである。

 それゆえ、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 (その武具、武力とは通常のものとは全く異なる。)

信仰を盾として取りなさい。それによって、

悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。

 霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

 どのような時にも、霊(聖霊)に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。(エペソ書61218より)

 

 キリスト者の武装、それはいかなる人にも害悪を与えたり、

誤爆として多数の人々を殺したり手足を失わせて生涯苦しみと悲しみに追い詰めるようなものではない。

 キリスト者の武器は、いっさい金や権力と関係がない。

 それこそ、信仰でありーそれは悪の攻撃を防ぐ楯であり、また、履物としては福音を伝えようとする準備であり、キリストの福音を伝えようとすることも真理そのものに結ばれてなすことゆえに、キリスト者の武器となる。

 最も鋭い武器ー剣といえるもの、それが神の言葉なのである。

 このように、一般のマスコミやテレビ等々では決して語られない、こうした武装については、聖書は驚くべき真理を語っている。

 私たちも、人間世界の移り行く発言や間違った行動ばかりに目を向けるのでなく、いかなる武力や時代の流れにも変質しない神とキリスト、そしてその言葉に頼り、信頼していく道が前途に続いている。

 

 

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〇憲法を変えようとする動き

については、マスコミや雑誌、インターネットなどでいくら

でもそれぞれの立場から書かれていますが、憲法、とくに憲法9条の重要性についてやはり多くの人が、それぞれの立場から声をあげる必要があるので、今月号に書きました。

 

 

来信から

 

・今月の主題「主を仰ぎ望め、そうすれば救われる」。本当に素晴らしい言葉ですね。

  内村先生のご最後の日々、「キリスト教とはどの様な宗教ですか?」との問いにご病床の先生は「イエス・キリストを仰ぎ見る宗教です」とお答えになったという有名な逸話があります。

  この表現が内村全集に266 回書かれていることははじめて知りました。

 今月号のテーマのこのみ言葉と偉大な宣教師リビングストンとスパージョンの話は生涯忘れ得ぬ内容です。説教が苦手だったというリンビングストンと恐らくとてっもなく素晴らしい説教だっただろうスパージョンは好対照です。(九州の方)

 

・内村鑑三の「ロマ書の研究」第2巻目の2章のところを読んでいます。

全部で点字で5巻になります。点宇毎日と同じサイズですが、1 230 頁ほどあります。とても大きくて重いです。

読みっぱなしでノートに書き留めることもできずにいます。そんないい加減な読み方ですが、夫が若き頃「内を見ないで外を見よ」という内村鑑三の言葉により救われたと聞いていました。

それが、まさに今回「主を仰ぎ望め、そうすれば救われる」という名古屋での講演で、先生が説き明かしてくださっていたことだったとわかりました。

私自身もこの度の「ロマ書研究」 から義について明快に教えられ、罪についてもていねいに書かれていました。

義は自らの努力、哲学書や様々な勉強をして自らが獲得できるものではなく、神から与えられるものであることが明快にれていました。また、救いと復活についても何度も言葉を重ねて書いてあったと思うのですが今、私の中では、明快にはまだ理解できていませんが、救い主なるイエス・ キリスト様

の復活があることで罪深い私が赦され、救われる。信徒として教会に集うだけで安心していてはいけない…等々が現在のところ心に残っています。(関西の全盲の方)

 

( * ) 眼の見える人でも、内村鑑三の「ロマ書の研究」は、相当のボリュームなので、全部読んだ人は少ないのではないかと思われるなか、中途失明の方が全巻千ページを越える点宇書を読むのは相当の労力と思われます。

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〇毎年北海道の瀬棚地域で開催されている瀬棚聖書集会について、次の頁に開催案内を付けてあります。

今年で44年目を迎え、その長い年月をも継続されてきたのは、瀬棚地域のキリスト者の方々の、この集会に関する主にある祈りと願いがあり、それを主が祝福して支え、導かれてきたからだと感じています。

酪農家で、3泊をしながらの聖書の学びと交流、感話等々があり、一般の聖書講習会とか修養会とは、かなり内容も異なり、それだけに、他所では経験できないこともあります。

私自身も、この瀬棚の聖書集会によって、福音のひろがりとその力をこの10数年間で教えられました。

 

リストボタン徳島聖書キリスト集会案内

 

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