「いのちの水」 2018年1月号 683 

 私たちは落胆しない。たとえ外なる人は衰えていくとしても、
私たちの内なる人は、日々新しくされていく。
(Ⅱコリント4の16

目次

・万物を新しくする

・地の果てから主を呼ぶ ー詩篇61

・天国のたとえーからしだね   とパン種

福音の種まきのたとえ

・傷ついた葦を折らず

・わが母、兄弟とは

・中国のキリスト教の状況

・休憩室

 編集だより  お知らせ
 徳島聖書キリスト集会案内 

リストボタン万物を新しくする

 

 この地上世界は次第に環境も、身近な自然も壊され、人間に有害な物質ー放射能を持った物質も含めーが増大していく。

 核兵器や原発という科学技術の粋を集めた産物こそが、ひとたび用いられたり、大事故を起こすと、人類にとって最も悲劇的な状況を生み出すという矛盾、そしてさまざまの電子機器、人工知能などが増大し、核兵器などもいちじるしく高性能となり、人間が追い詰められていくのではないか…等々、不安や未知の領域にも暗い影を落としてきつつある。

 こうした暗雲を根本的にぬぐい去るものは存在するのか、といった原理的な問題については科学技術や学問は答えることができない。

 これは、人間の魂に宿る良きことへの願いにもかかわらず、他方では自分中心の動物に共通する本性があるが、そうした根源的な本性を変えることはできるのか、等々についても同様で、まったく学問では解決はできない。

 それゆえに、聖書の詩篇が書かれた三千年ほども昔と、科学技術やさまざまの文化、教育、医療、等々が著しく進展した現代であっても、まったく悲しみや苦しみ、人間の悪事なとは消え去ることがない。そればかりか、つい100 年ほど前までは、考えられなかった、一発で数千万の人をも殺傷するような恐るべき核兵器さえ生み出してしまった。

 そのような古今東西の根源的問題に関して、聖書は一貫してその問題の究極的な解決のを提示している。

 それは、いかなる闇であろうとも、またいかに荒涼たる世界、空虚な状況にあっても、神のひと言で、光を生じさせることのできる神のはかりしれない力による。

 その神のみが、現代のあらゆる科学も技術、あるいは学問も解決できない問題の解決の鍵をもっている。

 そして、聖書の最後の黙示録に、つぎの言葉がある。

 

…私はまた、新しい天と地を見た。…

そのとき、私は玉座から語り

かける大きな声を聞いた。

「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人とともに住み、

人は神の民となる。

神は人とともにいて、その神となり、彼らの目の涙をこと

ごとくぬぐい取ってくださる。

もはや、死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」(黙示録21 章より)

 

 このように、現代の世界が徐々に荒廃して、最終的には滅んでしまうのでなく、全能の神ご自身が新しい天と地を創造されるのである。

 黙示録が書かれた時代は、迫害のとき。家族が引き離され、

十字架刑で殺され、あるいは拷問を受けて、現代では想像もつかないような困難な状況に置かれた人たちがたくさんいた。

 そうした苦難にあるキリスト者たちに、この啓示が示されたのである。時代の暗黒を見るのでなく、新しい天と地ー神がともに住んでくださる状態を見よ!と言われている。

 ここで繰り返し異なる言葉で強調されていることがある。

 

 …目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。

もはや悲しみも嘆きも労苦もない。(黙示録21章より)

 

  この世には、深い悲しみがある。主イエスもそのことを深く知っておられたゆえに、山上の教えでも、心貧しき人(みずからの限界、弱さ、罪を思い知られされた人)の幸いについで、「ああ幸いだ、悲しむ人たちは。なぜならその人たちは(神によって)励まされるからである。」(マタイ534)と言われたのだった。

 人知れず流す涙、自分の重い病気、死の近い人たちの悲しみ、孤独や捨てられた悲しみ、あるいは、愛する人を失った涙、自分の罪ゆえの悲しみ…等々、なにゆえこの世には、このように至るところで悲しみがあるのかー。それを神はすべて知っておられる。

 

 ドイツの讃美歌作者の第一人者とも言われるパウル・ゲルハルト(*)の讃美歌にも次のように引用されている。

 

…あなたは数えられる。キリストを信じる者がいくたび泣き、

いかに苦しみ悩むかを。

いかに静かに流した涙をも、あなたは集め、貯えられる。

 

*)パウル・ゲルハルト16071676年。ドイツの牧師、讃美歌作者。ドイツの最も偉大な讃美歌作者といわれ、日本語の讃美歌でも、「血潮したたる」(讃美歌一三六)、まぶねのかたえに(同一〇七)などによって広く知られている。

 

**Du zahlst, wie oft ein Christ ewein

und was sein Kummer sei

kein Zahr-und Tranlein ist so klein

Du hebst und legst es bei.

EVANGELISCHES KIRCHEN GESANGBUCH 230P


 この原詩においてKummerは重荷、悲しみ、苦しみを表し、Zahrも、涙、Tranleinは小さき涙を意味していて、泣く、涙という語が繰り返し用いられている。神はどのような小さき涙も顧みてくださるという意味が込められている。

 

ペテロの涙

 ペテロは三度も強くイエスとともにいたことを否定して逃げた後、心刺される思いになってイエスが捕らえられた場所の近くへと戻ってきた。

 そのとき、遠くからのイエスの深いまなざしー自分にずっと向けられていたーに気付いた。

 ひと言も叱責もされなかったが、ペテロは激しく泣いた。

 それは、自分の弱さ、自分が決してしようとは思わなかったことをしてしまったことの深い悲しみだった。

 使徒パウロが言ったように、善をしようという意志はあるが、それとまったく違ったことをしてしまう。この死のからだをどうしたらいいのか!という深い悲しみだった。

 だれにも顔向けできないこの自分の正体、けれどもそのような者をも深い愛をもって見つめてくださっているお方がいる。それに気付いたときに、初めて主の愛の限りない深さを知らされたのだった。

 ペテロの涙ーそれは自分のどうすることもできない弱さ、罪、背信の罪への悲しみゆえの涙であり、それとともに、それにもかかわらず、それを深く愛をもって見つめ、赦し、導こうとしてくださる限りない愛ゆえの涙であった。

 山上の教えにおいて、心の深いところ(霊)において何もよきものがないという自覚ー心の貧しさへの祝福が第一におかれ、それとともに、悲しむ者への幸いが言われているのも、このペテロの涙が象徴的に示している。

 ペテロも自分がどうすることもできない弱さ、罪を知らされたーそれはまさに心貧しき者とされた。そして深い悲しみに包まれた。

 自分はどこにも顔向けできない者なのだーと。

 しかし、そのような心貧しくされ、深い悲しみに沈むときに、そこから主を仰ぎ、主のまなざしに触れるとき、そこに大いなる祝福が与えられる。

ペテロもそこから、聖霊という最大の賜物が与えられる祝福へと導かれたのだった。

さきに引用したパウル・ゲルハルトの讃美歌は、詩篇のつぎの詩をもとにしたもので

ある。

…あなたはわたしのさすらいを数えられた。

わたしの涙をあなたの皮袋に

たくわえてください。

これは皆あなたの書にしるされています。(詩篇568

 

You counted up all my sorrows.

You have collected all my

tears in your bottle.

You have

recorded each one in yourbook.

 

 私たちの人知れず流す涙は誰もしらない。しかし、神は知っていてくださる。しかもそもれを一粒一粒数えてくださる。

そしてその涙を神のもっておられる器にたくわえるほどに、大切にされる。さらにそうしたことは、神の記録にとどめられるー。

 何と、神は、深い愛ー繊細なお心を深い悲しみに沈むものに対して注がれることだろう。

 万物が新しくされる、言い換えると、新しい天と地の深い特質とは、あらゆる悲しみがぬぐわれるということなのである。

 それは世の終わりのときに実現する。しかし、その部分的であっても本質はすでに私たちが生きているときから体験することが与えられている。

 


 

リストボタン地の果てから主を呼ぶ

            ー詩篇第61

 

2 神よ、わたしの叫びを聞き

わたしの祈りに耳を傾けてください。

3 心が挫けるとき地の果てからあなたを呼びます。

高くそびえる岩山の上にわたしを導いてください。

 

4 あなたは常にわたしの避けどころ

敵に対する力強い塔となってくださる。

5 あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り

あなたの翼を避けどころとして隠れます。

 

6 神よ、あなたは必ずわたしの誓いを聞き取り

御名をおそれる人に継ぐべきものを与えられる。

 

7 王の日々になお日々を加えその年月を代々に永らえさせてください。

 王が神の前にあってとこしえの王座につき

慈しみとまことに守られますように。

 

8 わたしは永遠にあなたの御名をほめ歌い

日ごとに私の誓いを果たします。

 

----------------

 この詩は、大きな苦しみ、あるいは悲しみゆえに、神に祈り、叫ばざるを得ない状況に置かれている。

 私たちの直面する苦難が大きいほど、人間や社会への怒りや嘆きをもってしては、究極的な解決はできないのがわかる。

 それはただ、万物を創造し、全能でかつ愛の神でなければ

解決できないことを知らされる。それゆえに、この詩にあるように、神に向って叫ぶのである。

 3節にある地の果てという言葉から作者の状況が分かる。

実際文字通り、ユダヤの人々は後に、ユダヤから遠く1500キロも離れた地の果てのようなバビロンへと連れて行かれた。それ以前にもアッシリアによって滅ぼされたときもさまざまな遠いところへと散らされた。

 このように地理的な意味で地の果てから神に叫び、祈ったということが実際にあった。

 この表現は、他方ではもう誰も助けに来てくれない、あるいは仲間、自分が頼りにする者、また神からも遠く離れてしまったという気持ちを地の果てという言葉で表していると受けとることができる。

 「地の果て」と言えるような苦しみや孤独、悲しみ、誰一人分かってはくれないほどの絶望的状況にまで放り出されたことがうかがえる。

 そのような状況に置かれたときには、絶望しかない。ヨブ記にでてくるヨブも、突然息子たちを財産を失い、健康も著しく損なわれ、妻からも神をのろって死んだらいい、とまで言われ、地の果てというような状態に置かれたことが記されている。

 また、キリストも、その最期のとき、十字架上での苦しみの極限にいたり、「エリ、エリラマサバクタニ」(わが神、わが神、あなたはどうして私を捨てたのか)と叫ばれたが、それはまさに、地の果てに追いやられた人間の叫びであった。

 この詩がつくられた数千年前から、今日に至るまで、世界中でこうした地の果てというほどの苦しみ、迫害に遭遇している人は、数知れない。

 そして、もしそうした人々が、この詩の作者のように、神に

向って祈り、叫ぶということを知らなかったときには、その魂には、深い傷と闇が刻まれるか、絶望の果てに命を断つか、もしくはその心が石のように無感動な状態となっていくであろう。

 しかし、この詩の作者は、いかに困難な状況であり、人間的にはもう助かる道はないーと思われるほどであっても、なお神の真実に対する信頼を続け、そこから必ずその地の果てから神に引き寄せられ、高みにと導いてくださることを知っていた。それは、啓示のゆえであったろう。

 

 3節に高くそびえる岩山とある。動くことのない不動の岩山、これは神の永遠性とその高さを指し示す。

 そのようなところへどうか導いてくださいーと願っている。

 光なき、苦しみとうめきの状況、かつて私は、信仰を与えられる前には、そうした気持ちを実感したことを思いだす。

 蟻地獄のような、どんなに這い上がろうとしても周囲から砂が滑り落ちてくる。そして埋まっていく。

 そのような状況に置かれ、日夜苦しんだ経験をしたときには、そこから光のある、高いところ、二度とそのような恐ろしい深みに落ち込むことなきよう、高いところへと引き上げてくださいーというのが真剣な願いとなる。

 じっさい、神はそのような状況に置かれていた無数の人々を、そこから引き上げ、霊的な高みへと引き上げて下さったのである。

 次の賛美には、そうした多くの人たちの願いが歌われている。

 

…恵みの高き嶺(ね)

日々わが、目め当あてに祈りつ歌いつ

われは上りゆかん光と清きと

平和にみちたる恵みの高き嶺

われに踏ましめよ(新聖歌339

 

 この詩の作者にとって神は常に避けどころであり、力強い砦になってくださったという。

 しかし、現代の私たちは、「神が塔になってくださった」とは、なじみにくい表現である。

 この塔とは、砦の塔であり、敵の攻撃をはやくから察知し、その攻撃を防ぎ、さらに敵の進入を防ぐためにある。

 同様に、神は私たちへのサタンの攻撃を私たちに知らせ、悪の力に私たちが屈しないようにしてくださる。

 また「あなたの幕屋に宿る」といった表現は、現代の日本の大部分の人にとっては不可解なものであろう。幕屋とは大型の四角いテントであり、そこに神の言葉をおさめた箱が置かれていた。言い換えるとそれは移動式の神殿なのであった。

 それゆえ、幕屋に宿るということを、現代の表現でいえば、神のおられるところに住む、ということである。神とともに住む、それは私たちの最終的な願いであり、そこにいっさいの問題は解決する。

神は全能であり、すべてを御計画のままになされている御方であるからである。

 幕屋とは大きくて四角いのものである。また神の箱もここに入れていた。だから幕屋に神の言葉を入れ、神もそこに来られるということだったから、このように使われている。

 次に翼というのは鳥類は愛情に満ちた仕草で雛を養うので、神の目に見えない翼の中に私はかくれるというように、この詩人の神に対する信頼に満ちた気持ちが溢れている。

 6節、9節の「誓いを聞き取り」というのは、神が聞いてくださったら、このように献げますということを言っている。

 

…王の日々になお日々を加え

その年月を代々に永らえさせてください。

 王が神の前にあってとこしえの王座につき

慈しみとまことに守られますように。(7~8節)

 

 ここで突然王という言葉が出てきている。これまでは一人称で個人の苦しみを言っていた。これはを見ると、

敵対するある力があり、その敵を神が守って退けてくださるが、神が力を与えた王もまた、重要な存在だった。

 敵が迫って来ないためにも王を支えてくださいということで、自分が圧迫されている中で、実際に存在する王も守ってくださいということである。

 王の軍事力が強くなるようにではなく、慈しみと真実に守られているようにと祈っている。

 たいていどこの王(支配者)もその支配が永続するようにと願っているであろう。「君が代」の歌も同様である。

「君が代は、千代に八千代に さざれ石の 厳となりて苔のむすまで」

 これは、「天皇の治世(統治、支配)が、千年~八千年(永遠)に続きますように、小さく砕かれた石が岩となって苔が生えてくるまで」という意味でとくに戦前は歌われてきた。

 しかし、この詩篇に歌われているのは、王の治世の永遠を祈るが、それは、神の御前においてである。単に特定の王の人間的支配の永続ではない。

 神とは、正義と真実、そして愛の完全な御方である。その神の御前での王の統治とは、やはり真実、正義、そして愛にふさわしいものでなければならない。

 人間はすぐにそうしたことからはずれて、権力欲に呑み込まれそうになる。

だからこそ、この詩では、神の慈しみと真実という最も重要な神の本質によって守られる必要があるとしているのである。

 そうした守りがなければ、人間の支配はたちまち、王中心の権力欲に従ったものとなってしまうであろう。

そしてこの詩で言われている王の延長上にある、完全な王というのがキリストであり、完全な慈しみと真実をもって、全世界のあらゆる王の上にあって支配されている。

は現実の王のことを言いながらも、実際に王が永遠に王座にあることはないゆえに、こうした記述は、真の永遠の王であるキリストを指し示していると受けとることができる。

 

 地の果のようなどんな苦しいところでも、神の慈しみに信頼して、神の翼を避けどころとして祈り続けるならば、このように与えてくださる。そしてキリストをますますとはっきりと分かるようになって、永遠に御名をほめ歌う存在になる。これは私たちの最終目標である。どんなことがあっても神にほめ歌うということは、感謝ができるということである。パウロが言ったように常に感謝をする、喜ぶということは詩篇の作者によって部分的に実現されていた。

 旧約聖書に出て来る神は「裁きの神」だとしばしば言われる。

 しかし、聖書をそうした先入観なしにきちんと読むとき、神は、愛と真実の神であることがはっきりとわかる。

 詩篇を学ぶとき、神を信じる人が神の愛によって大きな転換を与えられたということが随所に書かれている。

 この詩は、大いなる困難、苦難に直面しつつ、そこから神への真剣な祈り、叫びによって、神との霊的な結びつきを与えられ、苦しみから救いだされ、神の御名を永遠にほめ歌うことができるという状態に、非常に大きく変えられるということを示している。

 そしてこれは、現代に生きる私たちもそのように変えられるのだと語りかけている。

 

 


 

リストボタン天国のたとえ

ーからし種とパン種

 

 ここではからし種とパン種の二つを用いて天の国のことが語られている。

 いずれも共通しているのは、はじめは小さいが、後に大きなものに増える、ということである。

 こうしたところからも、福音書において、日本語で天国とか天の国と訳されているのは、その日本語のイメージからする死後の世界とは異なるのはわかる。

 それは、ほかの福音書では、神の国とかかれているように、そして国という原語は、バシレイアであり、これはバシリュウス(王)という言葉から派生したものであるゆえ、バシレイアとは王の支配、支配権という意味であるが、ここでも、そのことが内容となっている。

 死後の極楽のような世界で種まきにたとえるようなことがあるのでなく、現在のこの世を神がいかに御支配されているか、いかに導こうとされているのかを意味している。

 神の御支配の仕方は、はじめはごく小さい。しかし、それがひとたび蒔かれると、大きなものに成長していく。

 このことは、旧約聖書から現代の数千年にわたる世界の歴史のなかで証明されてきた。

 最初は、アブラハムに蒔かれた個人的な小さな信仰の種であったが、それがエジプトで迫害されつつも数百年のちに、民族というほどに拡大していった。

 そして、そこから神の力を受けたモーセによって出エジプトがなされ、数々の苦難、荒野の40年を経て、カナンの地へと導かれた。

 そこで、周囲の国々との戦いに神の力で勝利しつつ、拡大していき、大きな王国となった。

 その後の分裂や神への背信によってその国は滅ぼされたが、

神は小さき種を残され、後にキリストが誕生した。

キリストは、大工の息子としてうまれたときから、当時のヘロデ大王によって命がねらわれるような状態で、エジプトまで逃れ、ヘロデの死後、故郷にかえってきた。そのような小さき種であったが、30歳になって福音を伝え始め、12人の弟子たちを選んだ。

それも漁師が4人もいて、社会的、政治的にはまったく小さな種という集まりであった。

 その後のキリストの宣教、そして12弟子の裏切りなどを経て、聖霊がそこに注がれ、彼らは大いなる力が注がれ、宣教を始めた。さらにキリスト教徒を迫害していたパウロも種が与えられて回心し、そこからローマ帝国の広大な領域に種まかれ、成長していくことになった。

 こうした過程は、まさにからし種のような小さきものから、大木へと成長していくことであった。

 このように、長い苦難の歴史を通じて神はその御計画を実現していく。そのような広い視野からこのたとえは言われている。

 このたとえのすぐ前に言われている、毒麦のたとえも同様で、はるかな古代からイエスの時代、そして世の終わりまでを視野におさめた上でその長い時代の流れを通じて、神がいかにこの世界を導かれるか、言い換えるといかに神がこの世界を御支配されているかを示すものであった。

 そして、そのような大きく広い世界において成り立つことゆえに、個人のうちにおいても成り立っていく。

 毒麦のたとえも、私たち一人一人のなかにも、思いがけない毒麦が蒔かれていて、それが芽を出す。しかし、それはキリストを仰ぐときにその毒の力は失われる。

 世の終わりにおいて毒麦は集められ、焼かれる(その悪の力は根源的に失われる)ように、キリストは世の終わりの時代に現れたといわれるが、そのキリストを信じ、キリストを仰ぐことによって毒麦は焼かれ、いのちの水があふれ出るように変えられる。

 そして、ひとたび、一人の人に福音の種が蒔かれると、それは最初はその人の魂の奥に蒔かれたきわめて小さいもの、個人的なものである。

 しかし、それは次第に芽を出して、その人の全体ー思考や行動に及び、それまでなかったいろいろなことが理解し、また働きかけるように成長していく。

 福音は、確かに長い歴史の流れのなかで、人間のありかた、音楽や美術など芸術、思想、医療、福祉、等々、あらゆる方面に影響を及ぼし、パン種が小麦粉をふくらせていくように、豊かにふくらませ、成長させていった。

 音楽一つとっても、ユダヤの人たちの賛美していた詩篇が、世界に讃美歌という流れをもたらし、そこからバッハの神への憧憬の音楽、神からの流れいる天来の水を表す音楽が生まれ、さらにモーツァルトやベートーベン、ハイドン、ブラームス等々、いまも全世界に流れている音楽へと成長していった。

 医療、福祉の領域ももともとは、修道院付属の治療施設であったのが、世界に重要不可欠のものとして増えひろがっていった。

 そのように、神の言葉は、はじまりはいかに小さくとも、神の御心にかなうときには、限りなく大きなものへと広がっていく力を持っている。

 神は万物を創造し、さらに支え、いまも生み出している御方だからである。

 私たちもそのような大いなる神とキリストのうちに置かれ、

キリストが私たちのうちに住んでくださるようになって、その大いなる力の一端を与えられたいと願うものである。(主日礼拝講話の要約2017.12.31


リストボタン福音の種まき

 

 福音の種を蒔く人が種まきに行った。蒔かれたときの、さまざまな状態をさしている。

芽が出なかったり、枯れたりもする。このように、福音の種が、蒔かれるときには、さまざまな反対勢力が働くことを指している。

 旧約聖書の初めから、福音、つまり幸いな知らせ、良き知

らせが書かれている。神が闇と混乱の中に「光あれ」と言われた。そのときに光があった。これこそ良き知らせであり、その光こそがキリストであった。

 また、旧約聖書には「わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。」とただ、神を仰ぎ見るだけで救われることも示されている。このことも、驚くべき良き知らせである。

 そして、新約聖書の時代となり、キリストの十字架のあがないを信じる、それだけで罪赦される道が開かれた。愛がない、祈りがない、正しい道を歩めない、その弱い者の罪の赦し、十字架を仰いで信じるだけで赦していただける。そして、死に勝利する。それと共に、この世の悪の力は最終的には滅ぼされる。また、わたしたちが死んだときにはキリストと同じ永遠の体に変えられる。

この良き知らせが与えられている。

 その、福音の種が蒔かれるときにそれを枯らそうとする力が働く。主イエスも福音を語り始めたとき、すぐに、突き落とそうとまでされた。つねに、福音の種を滅ぼそうとする力が働くのである。

 悪の力は確かに働く。しかし、どのように悪の力が働いても、どのような地に種がおちたとしても、芽を出させ、実らせる力が神にはある。

 イエスは毒麦のたとえで、たとえ毒麦がまかれても、最後までおいておけと言われた。

 

…天の国は次のようにたとえられる。

「ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』

 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。

『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」(マタイ十三・24 30

 

 イエスは、意外にも毒麦を滅ぼせとは言われなかった。十字架で一緒に殺された犯罪者の一人も最後にイエスを信じた。また、パウロもキリスト者を迫害し、殺すことまでしていたが主イエスによって変えられた。人間には、毒麦と思っても、どのように変わるかわからない。

 例えば、この一九〇〇年から二〇〇〇年までの一〇〇年間でアフリカのキリスト者は世界のキリスト者の人口の 1・9%から19・5%と約10 倍になったと推測されている。

(「世界キリスト教百科辞典ー教文館」による。なお、これはオックスフォード大学出版局から出版されたものの日本語版)

 もっともキリスト者が増えたのはアフリカと中国である。

ヨーロッパではキリスト者は減ってきているが、しかし発達途上国では、増えてきている。このように福音の種が、あるところで、減ってきても、あるところで、増えてきて、確実に広がってきたのである。

 この箇所の内容は、個々の人間をみて、あの人は、石地に落ちた種で、〇〇さんは、茨のなかに蒔かれた種のようだなどと、他者の信仰を批判したり裁くようなことが目的ではない。

 この世界においていかに神が、神の言葉を蒔いて、いかに世界を導いておられるか、その壮大な御計画を示すことが目的なのである。

 種の成長はまた、木の枝の成長ともいえる。そして、ぶどうの木のたとえで主イエスはいわれた。

「わたしはまことのぶどうの木、わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父(神)が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。

  私につながっていなさい。

 私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」             (ヨハネ15の1~4)

 私につながっていなさい(とどまりなさい)、と主イエスは言われた。まず、主の内にとどまることを求めなさいということである。求めたら聖霊が与えられる。求めたら、主イエスにつながることができる。生まれつきに石地もなければ茨の地もない。

 どんなに、だめな地だと思う場合でも、こうした御言葉を信じて求め続けるべきである。

 主イエスはあきらめないで、どこまでも祈り求めよ、といわれた。主イエスに求めることによって、良きものが与えられ、良き木になり、よき地になっていくのである。

 福音は、いろいろなかたちで蒔かれていく。種も風が運び、鳥が運び、水が運ぶ。そして、不思議なところから芽が出てくる。福音の種も、信じそうではないところから福音を信じて、救いを与えられ、さらに福音宣教の道にはいる者も生まれることがある。

 だから、私たちは絶えず、伝えようとするべきなのである。そして、祈り続けるべきである。とつぜん、心に種が蒔かれることがある。死が近くなってから、信じる人もいる。私たちがキリストを信じることができたのも、誰かが種を蒔いてくれたからである。だから、私たちも、そこから種を蒔き始めるべきである。

 ルターの宗教改革から今年は五百年である。ルターは、聖書に基づいて自らが真理と思うことを、ただ紙に書いて、はり付けただけであった。それが世界を舞台とした大いなる種まきになるとはそのとき考えられなかった。ルターが神に選ばれ、書かれた文書が神に用いられたのである。

 誰でもできる種まきがある。それは祈りの種まきである。この人に福音が伝わりますようにと祈る。神が必要なとき、その祈りの小さな種をも用いて下さるであろう。

 今の世界では絶えず、新聞やテレビ、あるいはゲーム、ネット等々で、到る所で悪の種がまかれている。そういう時代であるからこそ、よき種を蒔いていく必要がある。インターネットも神のため、良きことにもちいるべきである。

 わたしたちのまわりの自然も、花、星、風、雨、いろいろなものを通して、たえず、福音の種を蒔いてくれている。

 わたしたちも、どのような状態であっても、たとえ、寝たきりであったとしても、祈りによって種まきができる。それこそが、神の壮大な真理の御計画にそうことになるのである。

(十一月二十六日(日)主日礼拝マタイ十三・9)参加者大人47

(内スカイプ17 )子供。なおこの文は、前月の集会だよりに掲載できなかったものです。)

 

 


 

リストボタン傷ついた葦を折ることなくーマタイ十二の1521

 

 安息日の問題で、パリサイ派の人たちは、イエスを憎みどのようにして殺そうかと考えていた。憎んで非難するだけではなく殺意さえ生じた。

それほど、彼らにとって安息日を厳守することは大事なことであった。

 それは、モーセが受けた神の律法を否定することと受けとった。それゆえに、イエスを殺そうとまで考えたのである。

 イエスはそれを知って、意見も述べず立ち去った。そして、そこに病で苦しむ群衆が集まってきた。イエスは彼らを癒された。

 今も、イエスは病を癒される。実際に癒される場合もあり、また、病は治らなくてもそこに希望を見いだしイエスによって新しく生きる希望と力が与えられる。

 そうした意味において、今日でも、イエスこそは、最大の医者だということができる。

 癒された人たち、また、好奇心でついてくる人たちに対して、イエスは他者に言いふらさないように言った。単なる好奇心、物珍しさから噂の種にされることを退けたからである。

 そして、イザヤ書四十二章に記されている預言が書かれている。

「見よ、私の僕、私が支える者を。

私が選び、喜び迎える者を。

彼の上にわたしの霊は置かれ彼は国々に正しい道を示す。

彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。

傷ついた葦を折ることなく

暗くなってゆく灯心を消すことなく

暗くなることも、傷つき果てることもない。

島々は彼の教えを待ち望む。」(イザヤ四十二・1~4より)

 

 このメシアの予言の最初に「見よ」とある。これは、ここにあげたイザヤ書42 章の直前にある41 章の末尾の内容と関連している。

「見よ、シオンに初めから告げられていたことは、ここに実現した。

エルサレムに良い知らせを伝える者を遣わそうとして、見回しても、ひとりもいない。

 彼らの中に、助言を与えうる者はない。彼らに問いかけても、ひと言も返さない。

見よ、彼らはすべて無に等しく、業もむなしい。彼らの鋳た像はすべて、風のようにうつろだ。」

        (イザヤ四十一・2729

 こうした空しさのただなかに、真のメシアが現れることが啓示によって示されたのであった。

  神が選んだ僕は、どんな存在であるのか。神が歴史の中で特別に預言者としておかれた人は神の霊が与えられた人である。

 たしかに、神の霊がキリストに与えられ、そして、キリストの復活の後は、聖霊がすべての人に注がれる道が開かれたのである。

 その救い主は、正義を導き確立する。そして、そのような人であるのに「彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。」とある。

 キリストは、大声で叫ぶことなく、傷ついた葦を折らない。消えそうな灯心を消さない。人は誰でも傷つきやすい。

 体も傷つきやすいが、心もちょっとした言葉でも傷つく弱さがある。

 今は活気に満ちて弱さを感じていなくても、老年になり病を得るとき、また死が近くなるとき誰もが、傷つくものとなる。

 そのときイエスだけは、その弱い者を守ってくださるのである。また、悲しみや苦しみから心の光を失うような事がある。それでも、イエスはその灯火を消えないように守ってくださる。そこに新たな命の光を与えてくださる。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ十一・28

  傷ついた者、灯火が消えそうな者に休みを与えて新たな命を与えてくださる。

 このことを語った後で、イエスは山を下りられて、ハンセン病の人を癒された。

 当時から比較的近年に至るまで、おそらく最も「傷ついた葦」といえる存在であったこの病気の人たちに対して、彼らの心身を折ることなく、新しい命を与えたのである。

 希望の光がないところー絶望のただなかに、命の光を与えたのである。

「異邦人は、彼に望みをかける」とある。

 この世の希望ははかなく空しいが、最終的に現れる神の僕は、全世界の人に希望を与えていく。このイエスの預言が今も、これからも成就している。

 わたしたちは傷ついた葦であるけれども、イエスによって助け、支え、修復し、新しい命を与えられる。わたしたちは、弱くたえず風に揺れ動く葦のような者であるけれど、イエスがともにいてくださる葦なのである。

(十月八日主日礼拝の要約。参加者大人45 名(内スカイプ13 名)・子供4名)

 


 

 

リストボタンわたしの母とは、兄弟とは誰か

    ーマタイ十二・4650

 本当の意味で、わたしの兄弟、姉妹、母とはだれなのか、

ということがテーマである。

一般的には、兄弟、姉妹、母とは、血のつながりのある人たち、あるいは家族として最も近い関係の人たちを言う。

それならば、霊的に深いつながりのあるのは、誰なのか、ということである。

 それは、神のみこころを行なう人が兄弟であり母であると主イエスは言われた。「神のみこころ」とは、原語のギリシャ語では、「神の御意志」という意味である。つまり、神の御意志を行う人が、兄弟、姉妹という主イエスと一番近い関係なのである。

 では、神の御意志は何なのか。聖書は全体が神の御意志が記されている。闇と混沌の中に光をあらしめるのが神の御意志である。そして、人間の意志で進むと、それが滅びにつながるということが聖書には書かれている。

  聖書はどんなに時代がかわっても、また、迫害の時代があり、いったいどこに神がいるのか、といわれる時代があっても、なお読み継がれる。それは、神の御意志が書かれているからである。この世の書物や新聞などは、世界や社会のことを知る上で重要である。

 しかし、生きていく力や、また愛や心の清さは与えられない。

 神の御意志がわからなければ、人間の複雑な言葉が入り混じるだけである。そして正しく見極めるのは難しい。また、自己中心的な支配者たちや一般の人々の意志によって戦争も行なわれた。

 しかし、どのような時代の状態であっても、そこに光をもたらすのが神の御意志なのである。神の御意志は永遠に変わらない。千年経っても聖書の価値はかわらないのは、愛と真実、そして正義を備えた神の御意志が変わらないからである。

 神の御意志を行なう、ということは、なかなかできないと感じる。しかし、立派なことをすることだけが神の御意志を行なうことではない。青い空も神の御意志の現れである。その広大な広がり、深さと美しさ、それも目に見える形で神の無限を示している。

 太陽の膨大なエネルギーも神の力の現れである。聖書にはキリストこそ太陽であるとも記されている。

 それゆえ、神のご意志にしたがって創造された自然を見つめてその背後の神の全能を思うこと、自然のなかに込められている、美しさや力、また多様性を味わい、賛美することも神のご意志にかなったことを行なうことになる。

 

…私を仰ぎのぞめ、そうすれば救われるーと神は言われる。           (イザヤ書45 22

 神を、そして、キリストを仰ぎ望むことが神の私たちに対するご意志なのであるから、その御言葉に従って神を仰ぎ望むことは、神のご意志を行なうことになる。

 そのように、自然に接してそれを神のみわざとして賛美することも、神のみこころを行なうことなのであり、ごく身近なことをも含んでいるのである。

 また、その神のご意志を生活のなかで行なっていく力も、求めるならば与えられると約束されている。「求めよ」と言われて、じっさいに神の国を、また聖霊を求めることが、神の御意志にかなうことだからである。

 心が汚れていると思えば、祈る。弱さを感じたら祈る。祈り求めることが神の御意志に沿ったことであり、神のご意志を行なうことになる。

 主イエスは十字架でわたしたちの罪をあがなうために死なれた。主イエスの十字架と復活を信じること、感謝して信じること、それもまた神の御意志をおこなうことである。

 信仰と希望と愛ーこれらは永遠だと言われる。

「信仰」とは、神の全能や、復活、あるいは十字架による罪の赦し、神の導き、守り等々を信じることであるが、その原語のピスティスは、「真実」という意味がもとにあるゆえに、神に対して、信実な姿勢をも意味している。さらには、神ご自身の完全な真実をも意味している。

 そして、信仰によって希望を持つ。神は全能で愛であるからかならず、善くしてくださると信じる希望である。神の愛は変わることはない。その愛を与えようとするのが神の御意志である。だからわたしたちは神の愛を信じることが神の御意志にかなったことであり、これは日々私たちの心において小さい形であっても実行できるようにしてくださっている。信仰・希望・愛を与えられ、それをかたく心にもっていようとすること、それは日々私たちができる神のご意志にかなったことなのである。

(十一月十九日主日礼拝マタイ十二・46 50 参加者大人50 名(内スカイプ17 名)子供4名)

 

 


 

リストボタン中国のキリスト教の状況について

 

〇朝日新聞の記事より

神の教えを党より重視ー激増する信者

 9月中旬。浙江雀杭州市近郊の住宅の一室に、聖書を持った約30 人の住民がひしめいていた。壁には住民が描いた十字架とキリストの絵。台湾の宣教師が「マルコによる福音書」の真意を読み解いた。

「警察が気づいた。外国人はまずい。裏口から逃げて」責任者の男性が記者に耳打ちした。巡回する警察車両に見張り役が気づいたのだ。

 すぐ解散し、警官が踏み込んだ時はもぬけの殼。「特別な客がいたのでは」と尋ねられた住人は、しらを切り通した。

 政府非公認の地下教会。病人を見舞って祈り、貧しい人には集めたお金を渡す。活動に魅力を感じた信者が80 年代末から激増、地区住民約三千の三割に達した。

 責任者は「共産党は口先だけで何もしない。不公正な社会に希望は見いだせない」。

 1949年の建国時に400万人だったキリスト教徒は今、政府公認団体では、2100万人、地下教会を含めれば1億人以上とみられ、7500万人の共産党員をしのぐ。

 中国は屈指のキリスト救国である。

 知識人から貧困層まで浸透。 信者の増加は党への不信感のバロメーターでもある。党より神の教えを重視することに当局は神経をとがらす。

 米キリスト教団体「対華援助協会」によると、2008年の拘束者は764人に上った。

 杭州市の50 代の男性は08 年、党籍を捨てて洗礼を受けた。

 両親は建国前からの党員で、男性も80 年代に入党、政府機関に勤めていたが、幹部らは権力を使って利益を得ることばかり考えていた。

 党への期待は失望に変わった。

 キリスト教と民主化の関係を論じた文章を読んで関心を持ち、教会に通い始めた。「人類を家族とみて助け合う思想に魅力を感じた」。

 中国では建国当初から信仰の自由は認められていたが、厳しい統制と政治弾圧に巻き込まれてきた。今も聖書の一部を教えることが許されないなど制約がある。党の方針に忠実な官製団体に不信を抱く民衆は地下教会に潜る。

 6月に摘発を受けた四川省成都の地下教会「秋雨之福教会」代表の正治さん(36 )は語る。「文化大革命で伝統文化が破壊され、精神的空白ができてた。改革開放で貧富の差が広がり、89 年の天安門事件では民主化の芽が摘まれた。民衆の希望を奪い続けてきた党自身が、布教に絶妙な環境を作ったのです。」

 

 

〇毎日新聞の記事より

…さらに驚くべきはキリスト教信者の急増だ。

 牧師が集会で「経済至上主義」を糾弾し、「人と人とのつながりこそ」と訴える。このプロテスタント教会も共産党公認である。

 2011年10月13日、広東省仏山市で2歳女児がひき逃げされた。行き交う車にさらにひかれて死んだ。この間、18人が無視して通り過ぎた。防犯カメラがとらえた映像は世界に衝撃を与えたが、何より中国社会を揺さぶった。

「助けても親から賠償請求されかねぬ」「病院に運べば治療費をとられてしまう」―。

 そんな社会はダメだという牧師の叫びは激しい共感を呼び、信者が爆発的に増えている。

 改革・開放政策が始まった1970年代末に数百万人だった中国のキリスト教信者は、現在、公認・非公認、新教・旧教を含めて推計1億3000万人。共産党員の8260万人をはるかにしのぐという。

 このNHKの番組の取材班は番組制作に1年をかけた。思いがけない映像は、日本の視聴者に驚きと共感をもって迎えられた。…

(毎日新聞2013年10 28 日「風知草」山田孝男)

 

(これは、以前にも紹介した記述ですが、日本人は、中国のキリスト教の動向についてほとんど知らされていないため、この二つの全国紙の記事を掲載しました。)

 

 


リストボタン休憩室

〇1月の星空

 1月中旬には、夜明け前の時過ぎ、まだ暗い東の空に、木星の強い輝きが見られ、そのすぐ近くには、木星よりは弱い光ですが、火星の赤い輝きが見えています。

木星は、1年前の今頃(1月中旬)は、深夜に東から上がってくるのが見えていました。

 2年前の1月では、午後11時ころとなり、さらに3年前の1月では、午後10時ころから見えていたものです。

 木星は、夜半の明星とも言われる澄んだ輝きをたたえた星ですので、見たことのない方は、ぜひ、見ていただきたいとおもいます。

(なお、金星のことを、12 月号に書きましたが、あの文は、11 月はじめに書いていたものだったので、その頃には金星が見えていたのものでしたが、「いのちの水」誌が届く12月中旬にはもう見えなくなっており、代わりに木星が見えるようになって

いました。)

 


リストボタン編集だより

 

〇今月号には、前月に集会だよりに掲載することができなかった主日礼拝などの集会での講話の要約をも掲載しました。

来信より

〇「いのちの水」誌を読んで心が清められ、罪深さ、信仰のなさを教えられ、さまざまの慰め、励ましを読んで与えられていて心から感謝しています。

 膵臓から肝臓へと病が次々と進んでいます。しかし、毎日これでも行かされていることに感謝と喜びをもって過ごしています。(関西の方)


 

リストボタンお知らせ

 

〇「野の花」文集ができました。余分に必要な方、ご希望の方は、奥付の吉村まで申込ください。

一冊三〇〇円送料込です。

 

〇冬季聖書集会の録音

1月6日~8日まで、横浜市郊外の森の家で開催された、冬季聖書集会(キリスト教独立伝道会主催)の録音CD(MP3)をご希望の方は、三〇〇円送料込でお送りできます。ただし、日程の全録音ではなく、聖書講話が主体で、感話や賛美の一部なども含まれる予定です。

----------


リストボタン徳島聖書キリスト集会案内

 ---------------------------------