いのちの水  2018 6月号 第688

私はあなたのために門を開いておいた。

だれもこれを閉めることはできない。(黙示録38より)

目次 

・天の光を受ける

・岩の上に立つ

・神への賛美、感謝

・ベートーベンの第九・演奏百年「喜びの歌」と  聖書

・報告

・お知らせ  アメイジング・ グレイスCD(北田康広)

・徳島聖書キリスト集会案内

リストボタン天の光を受けること

 

 最も大切なことは、お金でもなければ、地位や人からほめられたり、優勝とか表彰などされることでもない。しばしば健康第一と言われるほど、私たちすべてにとって重要とみなされ、またじっさい私たちも苦しい病気になればなるほど、健康のありがたさを日々思い知らされる健康でさえも、最も大切なものとはいえない。

 人間にとって最も大切なこと、それは天の光を受けることである。

 いかにお金があっても、それだけでは天よりの祝福はない。それは、経済的に豊かだからといって心が清いとか真実や弱い者への愛が深くなるなどということはないことからみても容易にわかる。

 また健康であっても、それがそのままよいことにつながらない。多くの悪事は、からだが健康な人がやっていることが実に多い。政治や官僚の腐敗、嘘を公然と言うなどというのも、概して健康な政治家、役人たちであって病気で動けない人たちではない。

 オリンピックがあるというと、金メダルを〇〇個などということが繰り返し言われる。しかし、金メダルをいくつとっても、心の清さ、不正やウソのない真実、正義への尊重、あるいは無差別な愛、敵のためにも祈る愛の心など、人間にとって最も重要なものは、競技者にとっても見る人においても生まれるものではない。

 かえって 周囲の人々や国が与える名誉や大金などによって、そうしたものが失われることが多い。

 メダルをとること、またスポーツでの優勝などは、スポンサーの宣伝効果にはなる。しかし、そこからも魂の真実や本当の愛は生まれない。

 あるいは、多くの知識を持つ、学問を身につけるなども、そこからただちに愛や真実は生まれるということもないし、 心砕かれてみずからの罪を知るということにもつながらない。かえって、そうした知識や学問、技術を持っていることを誇るというたかぶりの心が生まれることがしばしばである。

 こうしたこの世が与える数々のものに対して、天の光を受けるーそれは最も重要なことであるゆえに、聖書の二千ページを越える本の冒頭に、その光が与えられることが記されている。

 いかに闇が深くとも、全能の神が、光あれ!と言われるなら、いかなるところでも光が存在を始めるようになる。

 神は光である。神の言葉もそれゆえに光である。その神の言葉をしっかりと保つ人もまた光ー星のようなものだと言われている。

 

…あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。(フィリピ書215

 

 使徒パウロも、キリスト者を徹底的に迫害して、殺すことさえした。しかし、そのような悪人であった者も、天からの光を受けることによって、二千年のキリスト教史上最も重要なはたらきをする福音の使徒に変えられた。

 それは、パウロが神から示されて書いた書簡が多数新約聖書のなかに含まれ、以後の世界の歴史に比類のない影響を及ぼしたのを見てもわかる。

 天からの光、それはいかなる人をも変革する。

 私たちの日々も、小さくあろうとも天の光を受けるとき、変えられていく。

 歴史上の人物のような大いなる変化でなくとも、日々の生活のなか、身の回りの雲や大空などの自然のたたずまい、草木の折々の変化、そうしたものからも 天の光は、放たれている。さまざまの先人の残した書物にもまたその光の一部が込められていて、光を放っている。

 そうしたもののうち最も豊かに天の光を放ち続けてきたのが、聖書である。

 聖書とは神の言葉である。神の言葉もまた、天の光なのである。

私もその聖書のごく一部をわかりやすく説明した一冊の本によって、天の光を受けた。そして生涯の方向が変えられた。

 主の祈りに、「御国を来たらせたまえ」 とある。それは、天の光よ、来てくださいという祈りでもある。

 


リストボタン岩の上に立つ

 

 岩の上に立つ、あるいは岩を土台としている、あるいは、神こそ我らの岩…というように、聖書には、しばしば岩が現れる。

 私たちは、何の上に立っているのだろうか。

 揺れ動く他人の考えや評判に立っているということが実に多い。伝統の上に立つーこれも一種の昔からの人間の習慣や考えの上に立つことである。

 戦前は、天皇が現人神であるという考えの上に、無理やり立たされていた。それを強制的に信じさせられ、人々は、天皇のいる皇居に向って礼拝(最敬礼)させられたほどであった。

 現在の日本の首相は、権力の上に立っている。そして首相や財務省の高い地位にある官僚たちは、いかに確実と思われる証拠が現れてもなお、自分たちの誤りを認めようとしない。偽りの土台の上に立ち続けようとしている。

 権力やカネの力というのは結びついていて、それらの上に立つときには、真理や愛といったものを踏みつけていく。

 いまから数千年も昔に記された聖書の詩篇において、そうした権力の上に立つものが傲慢になって、宇宙の創造者たる神をもないがしろにしていること、 そして、そのような空しい土台に立つものは必ずさばきをうけていくことが記されている。

 現代のわかりやすい表現でいえば次のようになる。

 

…なにゆえ、地上の支配者たちは一致して

神に逆らい、神がつかわした真理の人に逆らうのか。

彼らは、「自分たちを縛ろうとする枷や縄を切って捨てよう」と言う。

 しかし、神はそうした者たちの傲慢を一蹴される。

そして、神の本質を与えた神の子を地上に送り、

そのような権力や悪の上に立つものたちを滅ぼされる。

                (詩篇2より)

 

 偽りの上に立つーそれは一時的には世の人をごまかせても、この世界の背後におられ、宇宙を創造し、かついまも御支配されている神の目をごまかすことは決してできない。

 権力やカネ、人間の能力や人間的な愛、あるいは人間の忍耐、努力等々の上に立つとき、それはいかに簡単に、また突如として崩れ去ることであろう。

 それは歴史をみれば、あるいは身近なさまざまの出来事を冷静にみれば、ただちにわかることである。

 そのような崩れ去る土台でなく、いかなることが生じようとも、崩壊しない土台ー宇宙の創造主なる神の上に立つことが聖書ではすでに数千年も昔から繰り返し記されている。

 

…主はわが岩、砦、逃れ場、大岩、

避けどころ、わが盾、救いの角、砦の塔。

 

主のほかに神はない。神のほかに彼らの岩はない。

         (詩篇18の3、32より)

 

 その神という永遠の土台をさらに万人にわかりやすく、受けいれることができるようにと、神はキリストを地上に送られた。

 神の愛、その忍耐、また驚くべき奇跡、過去や未来をも洞察する霊的力…等々に満ちた御方であり、神と同じ本質である御方である。

 キリストは、神であり、神とともにあり、万物は神により、キリストによって成った、とヨハネ福音書の冒頭に記されている。

 それゆえに、私たちの永遠の土台とは、神であり、またキリストであるということができる。キリストによって、その言葉や行動によって、神の愛はどのようなものであるかをはっきりと全世界の人たちに示すことになったのである。

 使徒パウロも次のように述べている。

 

…イエス・キリストというすでに据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできない。

           (Tコリント311

 

 もし、人がキリストとはどのような御方であるかーそれは研究、学問などによっても決して本当の深いところは分からない。それは、キリストの最大の使徒となったパウロも、キリストと出会う前は、旧約聖書に関する学問を特別に学んできた指導者であったが、まったくキリストの本質を理解することができずに、迫害していた言葉からみてもわかる。

 また、マスコミなどに登場する人気者や、学者あるいは周囲にいる知的な理解の優れた人たちを見てもわかる。キリストがわかるとは、キリストの私たちへの愛がわかるということである。その愛をほかの何よりも深く魂の根源において実感することであり、現実にその愛によって目に見える世界が動くことを実体験することである。

 足元が音を立てて崩れ落ちていくーそのような体験をして恐ろしくなった経験を持っている人も相当いるであろう。

 私自身、かつてまだキリストを知らないとき、苦しく暗い日々が続き、そこからの逃れることはできないのでないか、と思い、まただれにもそうした苦しみや悲しみを訴える相手もなかったとき、私の足元が崩れ落ちて蟻地獄のなかに落ち込んでいくーそんな気持ちになったの思いだす。

 揺れ動くこの世界ーいったいなにが今後の変ることなき土台となるのか、それはますます切実な問題となっていくであろう。

 そして、いかなることが今後この世界に生じようとも、暗夜に輝くともしびのように、キリストは変わらずに存在しつづける。岩であり続けていく。

 過去数千年においてそうであったように。

 


リストボタン神への賛美、感謝と祝福を受けること

          ー 詩篇第67

 

2 神がわたしたちを憐れみ、祝福し

御顔の輝きを わたしたちに向けてくださいますように

3 あなたの道をこの地が知り 御救いをすべての民が知るために。

4 神よ、すべての民が あなたに感謝をささげますように。

5 諸国の民が喜び祝い、喜び歌いますように

あなたがすべての民を正しく裁き

この地において諸国の民を導かれることを。

6 神よ、すべての民が あなたに感謝をささげますように。

すべての民が、こぞって あなたに感謝をささげますように。

8 神がわたしたちを祝福してくださいますように。

地の果てに至るまで すべてのものが神を畏れ敬いますように。

 

 詩といえば、普通は個人の感動を書くことが一般的だが、この詩にはわたしという言葉が一切なく、わたしたち、全ての民、諸国の民、そして地の果てとあるように、最初からその視野は広く世界に向けられている。

 新聞やテレビやラジオのニュースやその関連番組などは概してその内容は狭く、目先のことばかりであふれていて、起こったときだけ大々的に取り上げるが、少し時間が経てばもう忘れ去られる。そこでは、永遠の真理、美、真実といったことはほとんど取り上げられない。

 しかし、聖書は、宇宙的な事柄から、個人的なことまで、その視野の広さ、その永遠性、あるいは深さ、普遍性等々には限りがない。

 

2 神がわたしたちを憐れみ、祝福し

御顔の輝きを わたしたちに向けてくださいますように。

 

 この詩では、「私たちを憐れんでください、祝福してください」という切実な願い、祈りから始まっている。

 神の憐れみや祝福を受けないなら、あるいは御顔の輝きを私たちの方に向けてくださらなければ、私たちは本当によいことは何もできない。

 このことは新約聖書においても全く同じで、自然のままの人間は魂の方向が自分中心なので、そこから神に方向転換をすることで初めて物事が成り立っていく。聖書に記されている神とは、真実や愛そのものであるからである。

 そのために、神が私たちを憐れんでくださる。これが出発点になっている。

 「御顔の輝きを私たちに向けてください!」現代ではこのような表現で祈る人は多くはないようである。キリスト以降の時代に生きる私たちにとって、御顔の輝きとは、神の光、キリストの命の光である。「私に従う者は、命の光を持つ」(ヨハネ812

 それゆえに、み顔の輝きを向けてください!という祈りは、神の光を与えてください!ということであり、さらに、それは、復活のキリスト、あるいは聖なる霊を来らせてくださいーという祈りになる。

 聖霊とは、聖なる風である。その神からの風が私たちの方に吹いてきてください、ということでもある。

  使徒言行録で弟子たちが祈り願って待っていたときに、聖なる風(聖霊)が信徒に向かって激しく吹いてきて、それによって弟子たちの霊的生活は一新され、キリストの福音が伝えられていく出発点となった。

 それによって神様の道、命に至る道を人々が知るようになった。

 このように、私たちのあらゆる問題の解決のための出発点はまず神様に憐れんでいただき、聖霊を与えられ、神の光を注がれることである。

 一般的には、旧約聖書というと、ユダヤ教の経典なのだから、ユダヤ人のものだ、として顧みない人が多い。

 しかし、そのユダヤ人が書いた詩篇の今回取り上げた第67篇を見ても、自分たちだけの幸いを願う姿勢はまったくみられない。全ての民が知るとある。現在では、世界の至るところで、ありとあらゆる民が唯一の神を礼拝している。詩篇は神様の大きなご計画が成就するという預言にもなっている。

 

3 あなたの道をこの地が知り 

御救いをすべての民が知るために。

 

 この詩の作者の願いは、神が私たちの罪を赦し、いのちを与えてくださるという救いの道が、世界のすべての人たちが知るように、ということであった。

 人間には生きる道がある。いかなる人間以外の動物も、そうした生きる道というのはまったくわからない。飼い主に忠実であるという性質は犬がそのような道を知って選んでいるのではない。それは創造主から与えられた本性なのである。

 この世界には、はるか数千年の昔から、明確な二つの道がある。それは、命に至る道か、滅びに至る道かのいずれかである。(マタイ7の13〜14)

 

4 神よ、すべての民が

あなたに感謝をささげますように。

5 諸国の民が喜び祝い、喜び歌いますように

あなたがすべての民を公平に裁き

この地において諸国の民を導かれることを。

6 神よ、すべての民が  あなたに感謝をささげますように。

すべての民が、こぞって  あなたに感謝をささげますように。

 

  4節の「感謝をささげる」は、多くは、「賛美する、ほめたたえる」と訳される言葉(*)である。神様が自分にしてくださったことは、すばらしい と賛美する気持は、自然とその神への感謝につながる。

 また、周囲の広大な自然のさまざまの事物ー毎日の大空や雲、樹木、花々、あるいは鳥類や昆虫などの無限に変化のとんだ姿、色合い、その声…等々、それらをみて、それらを創造された神の無限の力、その限りない美や清い本質に私たちは心動かされ、ほめたたえる気持が涌いてくる。そしてそれらを心開いてうけとるときには、おのずからその神への感謝となる。 

 

40種ほどもある英訳聖書の大多数が次のように praise 「賛美する、ほめたたえる」と訳している。

O God, let all the people praise thee. (KJV)

O God, may all the peoples praise you (NIV)

 

 日本語訳でも、口語訳、新改訳、カトリックのバルバロ訳、フランシスコ会訳などもすべて、「賛美する」あるいは「ほめたたえる」と訳している。

 

 6節は4節をおり返している。讃美歌でも折り返し部分をよく使っているのは、詩篇に起源がある。

 

*)この原語(ヘブル語)は、ヤーダー であり、この語が最初に現れるのは、創世記2935で、ヤコブの息子の一人の名前に用いられている個所である。ヤコブの妻のレイアウトが、子供を産んだとき、「主をほめたたえよう」といったことから、イェフーダー(日本語ではユダ)と名付けた、と記されている。 イェとは、ヤハウェ(主)の省略形であり、フーダーは、ヤーダー(ほめたたえる、賛美する)の変化した形。

 

 私たちも、地上のどのような人々も、宇宙の創造主である愛の神に感謝をささげ、その神のなされることを賛美するようになれたらーという願いを持つ。これは今までもこれからも永続する願いである。

 全ての民というのは、世界のあらゆる民族ということであり、さらに喜んでいる人も悪い人も、健康な人もあらゆる人がその状況で感謝することができるということをも含んでいる。

 新約聖書では「すべてのときに喜び、すべてのときに祈り、すべてのときに感謝しなさい。」 (テサロニケ五・16) と言われている。

 このようなことはできるはずがないと思いながらも、こんな世界があるのかと心引かれる箇所である。どんな状況でも感謝ができるということは不可能なことではない。私たちにとって不可能なことであれば最初から書かれてはいない。

 ある条件があればこのようなことに近づくことができる。その条件とは神からの憐れみや祝福が与えられて、神の御顔の輝き、愛のまなざしを感じることができたら、確かに感謝をささげたり、賛美ができるようになっていく。

 コーラスという言葉は、現在では、多くの人たちが高音や低音にわかれてハーモニーを響かせつつ歌うことに用いられている。この語源は踊るということから来ている。このように踊りと歌は一つであった。

 マイム・マイムという歌は、運動会などでのフォークダンスの歌として広く知られている。マイムとは、ヘブル語で水のことであり、開拓民に決定的に重要なのは水であった。あちこちに井戸を苦労して掘ったがなかなかよい水源を見つけることができない。しかし、彼らが、ようやく良き井戸を見いだし、乾燥地帯に水がわき出るという現象に接して、喜びのあまり手を取り合って歌いながら踊った。

 それを、イザヤ書(*)からの引用の御言葉をもって歌い踊ったのがこのマイム・マイム という賛美だった。

 

*)あなた方は喜びのうちに、救いの井戸から水を汲む。(イザヤ書123

 

 彼らは、ただ手を繋ぐだけでなく心も繋いだ。賛美は神と人、そして主にあって人と人とを繋げる。このように感謝の賛美をささげることで、一層神と人、人と人とを結びつくことができる。

 

8 神がわたしたちを祝福してくださいますように。

地の果てに至るまで 

すべてのものが神を畏れ敬いますように。

 

 この詩の最後の部分において、神からの祝福を祈り願っている。そして全世界がその祝福を受けて、愛と真実の神をおそれ敬うようになりますように、という言葉で終わっている。

 そしてこれは数千年を経た現代の私たちにとっても日毎の願いである。

 詩篇とはこのように、いかに時代が変わり、周囲の状況が著しく変革してもなお、変ることのない、深い真理をたたえている。それゆえに、いまもなお、世界の誰にとっても本来根本的な願いとして生きている。

 祝福を受けるとは、悪いとみなされるようなことが生じても、それが良いことに変えられていくことである。また、予想もしない永続的なよきことが与えられることである。結婚して健康な赤ちゃんが生まれることはめでたいこと、喜ばしいことであるとはだれでも思う。

 だが、障がいを持つ子供が生まれたら、一般的には、祝福されているとは言わないであろう。

 しかし、真の祝福とは、そのような障がいがある子供が生まれても、そこからだれも予想しなかった良きことが生じていくということである。

 アブラハムは、ごく普通の家畜を飼って生きる人であった。しかし、その彼に神の祝福が注がれた。それによって、彼はどこにでもいる羊飼いから、歴史に重大な影響を残す特別な存在となった。

 現代の私たちにおいて、どのような状況に置かれた者であっても常に必要とされているのは、神への賛美、感謝を捧げることであり、また神からの祝福を受けることである。


リストボタンベートーベンの第九演奏百年 「喜びの歌」

 

 今年の6月1日には、ベートーベンの「交響曲第9番」がアジアで初めて演奏されてから100年になる。第1次世界大戦中、鳴門市にあった板東俘虜(ふりょ、捕虜と同意)収容所で、その捕虜のドイツ兵が演奏したという意外な事実が、そのことをテーマとした映画「バルトの楽園」(松平 健主演)によって近年いっそう知られるようになった。

 収容所では1917〜20年、中国で日本軍の捕虜となったドイツ兵約1000人が生活したが、そこでは、石を組み立てての橋づくりなどの活動以外に楽器を手作りして音楽を演奏するなど、捕虜としては通常考えられないような活動がなされていた。

 それは、当時の収容所長の松江豊寿は旧会津出身で、捕虜となったドイツ兵への深い配慮があり、彼らの音楽への深い共感をも持っていた稀な人物であったようである。

 陸軍から「捕虜を自由に扱いすぎる」などと非難されながらも「祖国のために戦い抜いた者」としてドイツ兵を尊重したと言われている。

 劇団やオーケストラなどの芸術活動も認められ、1918年6月1日に行われたベートーベン交響曲第9番の全楽章演奏はアジア初とされる。あの長大な第九の全楽章が捕虜たちによって徳島の片田舎で演奏されたとは、信じがたいようなことである。

ドイツ兵が祖国の母に宛てた手紙の一部が残されているが、その中で第9演奏会について「大成功でした。なんとも言えない安らぎ、なぐさめが流れ出て来るのです。私は元気です」と記されている。

 そのような重厚で1時間を越える長大な曲を練習することは、相当な時間とエネルギー、楽器の制作等々にも費用もかかったことと思われ、そのようなことに、捕虜生活の時間とエネルギーを注ぐことができたのは、ひとえにその所長のこうした音楽への関心と配慮があったからだと思われる。

 この「歓喜の歌」と通常訳されているタイトルからでは、人間的な喜びのように受け取られていることが多いが、ここに記すように、これは、天来の喜びをさし示している音楽なのであり、すでに聖書が数千年前から記して無数の人たちがその魂に体験してきたことであり、ベートーベンはそれを音楽のかたちで表現したものなのである。

 この第九が演奏された地の近くに、ドイツ館が建設されて、この収容所の有り様などもうかがえるような展示もある。

 なお、そのドイツ館に隣接して賀川豊彦記念館があるが、賀川は徳島県出身で、私(吉村)の高校のずっと以前の先輩にあたる。賀川は、キリスト教伝道者であったが、さまざまの社会活動、労働運動、生協や病院を起こし、また多数の著作を生み出したことで知られている。

 彼の最後の目的は、故郷徳島への伝道のために行くことであった。彼は病気で医者から止められたがあえて徳島に赴く途中、高松でその病気で倒れ、その後召された。

 以下の文は、いまから18年ほど前に、「はこ舟」誌に掲載したものを主体として一部修正、追加などしたものである。第九演奏百年を記念して再度掲載することにした。

 

 毎年、年末になるとベートーベンの第九交響曲「合唱」が繰り返し演奏されているし、とくにこの曲の最後の部分が各地で大規模な合唱がなされている。

 これは「歓喜の歌」と訳されることが多いが、原詩のドイツ語では、Freude であり、ごく普通の「喜び」をあらわす言葉である。

 この合唱は、「喜び」を歌っているものであるが、それは具体的にどんな内容なのか、また聖書には、そうした深い「喜び」の世界があって、それが指し示されていることも一般の人には知られていないことが多い。

 この彼の最後の交響曲には「喜びを歌う」という、ドイツの詩人シラーの詩の一部が組み込まれている。ベートーベンは日本でも最も多くの人が愛好する音楽家のひとりであろうが、その多数の音楽のなかでも、とりわけこの第九番交響曲は広く知られてきた。音楽の専門家もこの交響曲には高い評価を与えている。この音楽に対する評価の言葉はいくらでもあると思うが、ここではその中からあげておく。

 

@「…(第九交響曲の)第三楽章は、変奏曲形式を主体にしているが、比類ない天国的な感情を示し、彼が晩年に到達した祈りの世界を完全に表現している。

 さて第四楽章であるが、この楽章は、シラーの詩による声楽が導入されているところに最大の特徴がある。中心の主題は、かの有名な、「喜びの歌」の旋律である。

 声楽部は、四人の独唱者と大合唱とによって作られ、まことに、その表現は、全人類的感情にみちみちている。

 前人未踏の大交響曲であるし、また、彼以後においても、この曲に比較する音楽を見いだすことが出来ない、といっても過言ではないであろう。」(諸井三郎)(*

 

*)諸井三郎著「ベートーベン」216頁(旺文社文庫)諸井は、作曲家、音楽評論家。元東京都交響楽団楽団長。東京帝国大学文学部美学科、ベルリン国立高等音楽院作曲科卒業。)

 

A「この交響曲は、喜びの情が、博愛の徳を生むことを讃美し、そのなかに神を敬う心を鼓吹したもので、ベートーベンは若いときから深くこの詩を愛し、再三この作曲を試みたのであるが、ついに最後の交響曲の最後の楽章によってその宿望を果たしたのである。

…天国の平和を夢見るような第三楽章は、現世の苦悩と戦ってこれを克服する意思を表し、最後の「喜びの歌」は、神を敬うことと、博愛によって生きることを喜ぼうとした作曲家の思想を告白したものと見られるからである。…」(「西洋音楽史」中巻 371頁 音楽之友社 乙骨三郎著) 

 ベートーベンの音楽が世界の人々に愛されてきたその理由はいろいろあると思われるが、私自身も学生時代からとくに心ひかれてきたのは、そこに彼の音楽に ほかの作曲家にない力を感じるからである。

 弱っている者、うずくまっている者をも奮い立たせるような、不思議な力をベートーベンの音楽は持っている。とくに、晩年の作品には、私たちを打ち倒そうとするようなこの世の力に抗して、立ち上がらせる力が強く感じられる。

 ベートーベンがその喜びを歌うために用いたシラーの詩はベートーベン の心にとくに一致したようである。それは、この詩を用いようと考えたのは、ベートーベンが二十三歳のときであったことからもうかがえる。その時すでに、この作者であったシラーの夫人にそのようなことを触れているという。ベートーベンの有名な伝記を書いた、ロマン・ロランの伝記の中から一部を引用しよう。 

…ベートーベンが「喜び」を歌おうと考えたのは、こんな悲しみの淵の底からである。それは彼の全生涯の計画であった。

 まだ、ボンにいた一七九三年(ベートーベンが二十三歳のとき)からすでにそれを考えていた。生涯を通じて彼は「喜び」を歌おうと望んでいた。そしてそれを自分の大きい作品の一つを飾る冠にしようと望んだ。生涯を通じて、彼は、その「喜びの歌」の正確な形式とその歌に正しい場所を与える作品とを見いだそうとして考えあぐねた。…(「ベートーベンの生涯」ロマン・ロラン全集第十四巻 41頁 みすず書房刊) 

 その意図が、第九交響曲のなかに実現したのは、それから、実に三十年も後の、五十四歳のときであり、それは彼の死の三年前であった。ベートーベンの心のなかに、このシラーの詩がそれほど深く結びついていたのがわかる。

 そしてその交響曲が生み出されるまでの長い間には、さまざまの苦しみが彼を襲った。

 二十六歳ころから耳の異常を知った。音楽家としては、耳が聞こえなくなるということは、致命的な問題だと思われるために、次第に聞こえなくなる耳のことでベートーベンは、非常に苦しんだ。

 ベートーベンはほとんど鬱病になり、自殺まで企てて、遺書も書いたほどであった。そして重い病気にかかって死にそうになり、たえず死の問題を考えずにはいられなくなっていた。

 また、弟が死んでその子供を引き取り、こまやかな愛情を注いだが、その甥は、面倒な問題をいろいろと起こした上に、ピストル自殺まで企ててしまい、ベートーベンは非常な苦しみを覚えるようになっていた。

 こうしたさまざまのわずらわしい苦しみのただ中にいたにも関わらず、彼はかえって耳が聞こえなくなっていくとともに、交響曲やピアノ・ソナタの傑作を生みだしていったのである。

 そして、彼は数々の苦しみや悲嘆、絶望などを経験しながらも、若き日に知ったシラーの「喜びを歌う」という詩にはずっと心が結びつけられていた。

 本来は、喜びへの力強い讃美、そのようなものがとても持てないような状況に置かれてもなお、大いなる喜びを歌おうという心が留まり続けたのであった。

 

 ここでは、「第九の合唱」について、若干のコメントを付けて、この有名な曲を少しでもより深く受け取れればと願っている。

 交響曲第九番の第四楽章にある、「喜びに寄せて」という詩の中から、その一部を引用して簡単な説明を加えておきたい。

 なお、原文に触れてそのニュアンスを知りたいという人のために、原文は終わりにおいてある。

 第九の歓喜の歌の最初に、次の言葉が歌われる。

 

「おお友よ、これらの調べではなく、

もっと喜びをもって、楽しくともに歌おう。」

 

 この合唱の最初の部分は、シラーの詩でなく、ベートーベン自身が作詞したものである。この部分は、最初の草稿では、「われわれは、シラーの不朽の詩である『喜び』を歌おうではないか」となっていたけれども、後から現在のように変更されたと、身近に生活していたベートーベンの伝記著作家のシントラーが述べている。

 従来の音楽は、直接的に「喜び」を歌っていることが少ない、もっと喜びそのものを讃美しようではないかとの呼びかけである。喜びには、地上的な楽しみとは全く別の天から来る喜びがある。それを歌おうではないか、とベートーベンが冒頭に自らの言葉を書き込んだと言われている。

 この世の喜びーそれは乳児のころから至るところにみられる。乳児はミルクを与えれば喜び、子供にもお菓子や友だち同士のちょっとした遊びに喜び、飲食にも喜ぶーという具合である。

 ベートーベンがこの「喜こびに寄す」という歌で表現したかったのは、そうしたこの世の喜びではなく、歌詞にある「星空の彼方」におられる神からくる永遠の喜びである。

 

つぎに続くのが、シラーの詩からの引用である。

 

喜びよ、美しき神の光なる喜びよ、(*

楽園からのたまものよ

我らは感激に満ちて

天国のあなたの聖殿にすすもう

神の力であなたは、

世のひきはなされたものを、ふたたび結び、

あなたのやさしい翼のとどまるところ、

人びとは、すべて兄弟となる。

……

幾百万の人びとよ、たがいに抱きあおう!

全世界にこの口づけを与えよう!

兄弟たちよ、星空のかなたには、

愛する父が、かならずおられる。

 

幾百万の人びとよ、地にひざまづくか

世界よ、創造の神をみとめるか

星空のかなたに、神をもとめよ!

星のかなたに、神はかならずおられる!

 

*)原文は、Gtterfunken。 神は複数形であるが、締めくくりと最後の節に現れる「創造の神」、「星のかなたに、神は必ずおられる!」という箇所の神は、Gott 単数形であるゆえ、この箇所も、単数の神を意味していると考えられる。

 Funke とは、火、閃光、あるいはきらめく光、ひらめき といった意味なので、Gtterfunken とは神からの閃光、光、霊といった意味になる。

 

 シラーの詩の中にあるこうした言葉に、ベートーベンはとくに惹かれていたのがうかがえる。それゆえに、シラーのもとの詩はもっと長く二倍以上の長さのある詩であるが、とくに、右に引用した内容を中心にベートーベンが用いている。

 ここにベートーベンが見つめていたものが何であるかの一端をうかがうことができる。この世には暗い、絶望的な事態が数多く生じる。どこに神がいるのかと思わせることも多い。それゆえ一時の逃避的な音楽や、軽薄な内容の乏しい音楽も多くなっている。そうしたことは昔も同様であったろう。そこでベートーベンはそのような表面的な音楽でなく、ことなる雰囲気と力の音楽、すなわち喜びそのものを正面に出した音楽を強調している。

 この壮大な力に満ちた合唱は、この世界に小さな、利己的な楽しみや影のようなはかない喜びしかなく、またそれどころか不安や恐れの影がいつも背後にあるような世界にあって、いわば神が、ベートーベンを用いてそうした背後に、力強い喜びの世界があることを、知らそうとされたように感じられる。

 神のつばさ(御手)が臨むとき、人々の差別的な考えは消えて、そこには神を共通の父としているゆえにみんな兄弟姉妹なのだ、という考え方が生じる。私たちが必要なのはそのような人間の努力とか力を越えた神のつばさであり、神の御手なのである。

 本来人間同士は兄弟姉妹なのだ、だから全世界に兄弟姉妹のしるしであり、愛情の表現であるキスをおくろう。私たちを敵対するもの同士でなく、兄弟姉妹であるというのは、愛する父なる神がおられるからである。神がいますからこそ、その神によって新しく生まれた子どもたちなのであり、しぜんに兄弟姉妹だということになってくる。

 星空の彼方には、必ず神がおられる、ここに著しい強調がおかれていて、それが締めくくりの内容となっている。星空の彼方といった無限に遠いところに神がいる、ということでなく、それは詩的な表現であり、本来神は、どこにでもおられるのである。キリストが、私はあなた方のただなかにいると確言され、また他の箇所でも、キリストは私たちの心に生きておられるということも言われている。

 「神は星空の彼方にいます」という言葉の意味は、神は、人間世界の汚れた状況とは全く隔絶されたところにおられるということなのである。地上の人間やその社会は、周囲の汚れたもの、罪深いものに染まっていったり、何らかの影響を受けてしまう。自然界ですら、人間の科学技術によって破壊され、汚染さていく。

 しかし、神はそうしたいかなる人間の営みによっても汚されたりしない、それは、言い換えると「聖なる神」ということである。いかに、人間社会が混乱と汚れ、また不正に満ちていても、そして地上のものはみんなそうした汚れにがしみこんでいるように見えても、神はそうした一切の地上的なものとは、別個にその聖なる本質を保っておられる。しかも、私たちの生活のあるいは社会のただなかに、いかなる地上的な汚れに染むことなく厳として存在しておられる。それを詩的に表現した言葉が、「神は星空のかなたにいます」ということなのである。

 キリストも、「神の国はあなた方のただなかにある」といわれた。それは、人々の心のなかにも、また人々の生きているこの社会のただなかにおられるということである。

 

 ベートーベンが数々の言いしれぬ苦しみや悲しみと憂いのただなかでもこのような力強い喜びの歌を生み出すことができたということは、その背後に聖書の影響をふかく感じさせられる。

 

 「喜べ、いかなる状況のもとでも、主によって喜べ」といわれた使徒パウロの心が現在においても、聖書が読まれている世界の至る所でところで繰り返し新たに経験されているが、ベートーベンのこの第九交響曲に組み入れられた「喜びの歌」も、やはりこの聖書の言葉の影響を感じさせられる。

 

あなたがたは、主によっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。(ピリピ書四・4)(****

 

最後に、兄弟たちよ。いつも喜びなさい。…

互に励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和に過ごしなさい。

そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいて下さるであろう。(Uコリント 十三・11

 

 ベートーベンが、シラーの「喜びの歌」を自分の音楽にの死の三年ほどまえにようやく完成したこの大交響曲は、新約聖書にある、使徒パウロのこの言葉、「喜べ、主によって喜べ!」という言葉の音楽的表現の一つだといえよう。

 この世界にはそのような大いなる喜びなどあり得ないように見える。しかし、この世界の根底を見抜いていた使徒パウロ、そして彼に啓示を与えられた主イエスは、私たちに、この世の背後に実際に存在する大いなる喜びの世界を指し示しているのである。

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(一)

Freunde, nicht diese Tne,

Sondern lasst uns angenehmere

anstimmen, und freudenvollere.

 

(二)

Freude, schoner Gtterfunken,

Tchter aus Elysium,

Wir betreten feuertrunken,

Himmlische dein Heiligtum!

 

(三)

Deine Zauber binden wieder,

Was die Mode streng geteilt;

Alle Menschen werden Bruder,

Wo dein sanfter Fluger weilt.

 

(四)

Seid umschulungen Millionen!

Diesen Kuss, der ganzen Welt!

Brder! ber' Sternenzelt

Muss ein lieber Vater wohnen.

 

(五)

Ihr strzt nieder, Millionen?

Ahnest du den Schopfer, Welt?

Such ihn uber' Sternenzelt!

ber  Sternen muss er whonen!

 

*)諸井三郎著「ベートーベン」216頁(旺文社文庫)諸井は、作曲家、音楽評論家。元東京都交響楽団楽団長。東京帝国大学文学部美学科、ベルリン国立高等音楽院作曲科卒業。

**)「西洋音楽史」中巻 371頁 音楽之友社 乙骨三郎著  

***)「ベートーベンの生涯」ロマン・ロラン全集第十四巻 41頁 みすず書房刊

****)「喜べ、主によって喜べ!」の英訳、ドイツ語訳を参考にあげる。

Rejoice in the Lord always. I will say it again: Rejoice!

Freuet euch im Herrn allezeit; und abermal sage ich: Freuet euch!

 


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〇第44回 キリスト教(無教会)四国集会。今回の集会は、ほぼ1年前に召された、高知聖書集会の代表であった片岡 篤信氏の記念を兼ねて高知で開催された。

 520日(日)午前10時〜16時。主題は、「永遠の命」。はじめに、召された篤信氏の夫人典子姉からのご夫君にかかわるお話し(証し)があり、聖書講話は、原 忠徳(ただよし、高知)、吉村孝雄(徳島)。参加者は、地元の高知、徳島、神戸、大阪、京都などから24名。少人数であったが、初めての参加者やこの会がなければ出会いも与えられなかった方々との貴重な交流の機会ともなり、今回の集会を感謝。

 なお、この集会で初めてお会いした高知出身で現在神戸市在住の方が、その後の神戸市元町での阪神エクレシアでの集会(6月10日)にも初めて参加され、ここにも主の導きを感じたことであった。 


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〇北田康広の讃美歌集CD(その2)「アメイジング・グレイス」の紹介。

 北田康広さんは、徳島盲学校卒業。武蔵野音楽大学、東京パプテスト神学校卒。 (なお、演奏会でピアノ伴奏を担当している陽子夫人も武蔵野音楽大学卒。)

 北田康広さんは、私(吉村孝雄)が、若き日に三年ほど盲学校高等部の理科教師をしていた時の担任クラスの生徒だった。その後、短期間であってが徳島聖書キリスト集会に参加。また、わが家で、ベートーヴェンのピアノソナタ第23番「熱情」の一部をピアノで弾いてもらったことがあるが、そのとき、それまで談笑していた表情が別人のように引き締まり、あの力強い「熱情」ソナタが演奏されたのを何十年経っても思いだす。

 私など、ずっと以前、讃美歌を少しでも弾けるようにと、バイエルと、初級練習曲の一部などをやったが、いちいち楽譜を見ながら練習しても、黒鍵を多く含む曲は難しく、四つのパートがある讃美歌は、たった一曲であってもなかなか十分に弾けなかったのを思いだす。

 まったく楽譜を見ながら弾くということができない盲人にとって、完全暗譜で演奏せねばならず、その苦労は我々晴眼者には想像つかないものがあると感じたのだった。

 なお、北田夫妻は、以前に東京での無教会のキリスト教全国集会に、ピアノと賛美で特別出演したことがある。

以下は、北田康広のホームページから一部を引用させていただいた。

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 『アメイジング・グレイス』

収録曲目

1. 驚くばかりの(新聖歌233番)

2. 大波のように(讃美歌第二編171番)3. 十字架より叫び聞こゆ(新聖歌120番)4. 幸い薄く見ゆる日に(新聖歌330番)5. おもえばむかしイエス君(讃美歌467番)6. いつかは知らねど(新聖歌465番)7. 救い主イエスと(新聖歌340番)8. 罪咎を赦され(新聖歌266番)9. 主から受けし 作詩:水野源三 作曲:武義和 10. 羊かい 作詩:水野源三 作曲:竹田由彦

11. 空に光る星よ  作詩:水野源三 作曲:竹田由彦 12. 悲しみよ 作詩:水野源三 作曲:竹田由彦  13. キリストにお会いしてから  作詩:水野源三  作曲:大堂二郎 14. 三色スミレ 作詩:水野源三 作曲:竹田由彦 15. GOD BLESS YOU (新聖歌198番)16. 行けども行けども (讃美歌21437番)17. 如何に汚れたる(新聖歌376番) 18. 日暮れてやみはせまり (新聖歌336番) 19. 聖霊来れり(新聖歌416番)20. Amazing Grace (アメイジング・グレイス)

 

エンジニア,マスタリングエンジニア:長田貴道

フォトグラファー:尾崎繁春

アレンジャー:眞鍋昭大(2,8,17,18,20)

井上詩織(1,3,4-7,9-16,19)

 

※アレンジャーの眞鍋昭大さんは、讃美歌集「人生の海の嵐に」のアレンジを担当してくださった方です。洗足学園音楽大学の音楽・音響デザインコースを優秀な成績で卒業した後、映画放送音楽の世界に飛び込んで、大活躍を続けておられます。

日本音楽教育文化振興会主催の<サウンドクリエイター大賞2013>ではグランプリを受賞されています。現在、フジテレビで木曜日夜10時から放送されている「華麗なる復讐 / モンテ・クリスト伯」の音楽を担当しておられます。

井上詩織さんも同じく洗足学園音楽大学の音楽・音響デザインコースを卒業された方です。

 

定価:3,000円(税込) 2018618日発売

発売元:マインズアイ 販売元:ヴィヴィドサウンド

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なお、「いのちの水」誌の読者で、左記の徳島聖書キリスト集会宛てに申込される方は、特別価格で提供できます。申込は、本紙奥付の吉村まで、電話、メール、ハガキ、FAXなどで。

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このCDへの推薦文

〇この「アメイジング・グレイス」のCDは、まさに驚くべき恵みにはじまり、さらに豊かな恵みに上り詰めていく、すばらしい選曲で構成されたこの讃美歌集…。

 とくに9番目からの6曲は水野源三の詩が歌われ、北田さんの水野源三への深い共感が感じられます。

 これほどまでに歌詞に心打たれ、メロディーに魅了され、まっすぐな歌声にやさしく包まれる聖歌・讃美歌のアルバムがあったでしょうか。私は聞き終わったとき、イエス様を主人公とした壮大なオペラを鑑賞したような充実感と喜びに満たされました。(阿佐光也  日本盲人キリスト教伝道協議会副議長、日本キリスト教団新泉教会牧師)

 

〇楽しくうたっていますね、北田さん! 神を、主イエスを賛美し、感謝するあなたの歌声は、円熟し、朗々と響きます。愛する妻を失い、孤独に89歳の老いの日々を生きる私の心にも、沁み入る慰めの歌声をありがとう!主イエスの恵みを歌い上げるあなたの声に涙しました。(加藤常昭  元東京神学大学教授、1997年まで鎌倉雪ノ下教会牧師)

私はあなたの前に門を開いておいた。

だれもこれを閉めることはできない。(黙示録3の8より) 


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