「いのちの水」2019年2月号 第696号 

主をたたえよ。日々、私たちを担い、救われる神を。

                                (詩篇6820


目次

ウメのイラスト

光と闇

赦しー創世記、列王記

赦しについてー詩篇より

・おしらせ

  森 祐理コンサート


 

リストボタン光と闇

 

 最近、しばしば 新聞やテレビなどで報道されているのは、父親が小学生の娘に暴力、暴言を繰り返し、ついに死に至らしめたということである。

 どうして親が子供にそのようなひどい仕打ちをなしうるのか、動物でも自分の子供を命がけで守ろうとするのにーと思われる。

 しかし、こうした人間に宿る悪魔的な行動は、何も今に始まったことではない。70数年前の太平洋戦争において、とくに中国との戦争において、日本軍が中国の人たちにどのようなひどいことをしたか、それは、そうした関係の書物を読まなければ分からないが、そのような歴史の長い流れのなかでごく最近にあたる重要なことでも、長い学校教育でもほとんど学ぶことがないために、知らない人が大部分になっている。わずか15年ほどの間に、少なくとも一千万人〜千五百万人もの中国の人々を死に至らしめたと言われている。

 さらに、大怪我をして生涯が苦しみとなり、家族が殺されたり、犯されたりしてやはり深い魂の傷と悲しみのなかに突き落とされた人たちは、膨大な数にのぼるであろう。

 さらにさかのぼって、豊臣秀吉の朝鮮侵略においても、当時の世界で最も大規模な戦争の一つというほどのものであったというが、そこで、村が焼かれ、おびただしい人たちが殺され、多数の人たちが耳や鼻をそがれて、それが日本に戦勝の証しとして塩漬けにして持ち帰られ、いまも京都の東山に耳塚(鼻塚というべきだがこのような名前になっている)として残っている。

 こうした人間の残虐性は、徳川時代のキリスト教迫害の実体に触れるときも、生々しく与えられわれている。人間を生きたまま竹の鋸で斬るとか、土中に埋めて首から上だけだして人々の目にさらし、死に至らしめる、若い妊婦を川の中に設置した水牢に入れて、苦しめつつ死なせる、大分の火山から吹き出る熱湯に何度も入れては出して死に至らしめる…等々。

 また、ヒトラーやスターリンの大量殺害が知られているが、そうした特異なこと以外でも、人間の歴史ではさまざまの戦争が絶えず生じてきて、そこではそのような目を覆いたくなるようなことが常に行なわれてきた。

 こうした人間に宿る闇ーそれは聖書でも最初から、闇と混沌の世界の存在が記され、最初の家族であるアダムとエバの子供カインが、何の罪もない弟アベルに襲いかかって殺すということが書かれていて、人間のうちに宿る悪魔性が取り上げられている。

 しかし、聖書の特質は、そうした闇の世界の深さを指摘しつつ、その闇のただなかに光が存在するということを一貫して強調していることである。

 聖書巻頭から、闇のただなかに、神からの風(霊)が吹き続け、神の「光あれ!」とのひと言で光が存在するようになったことーそれが全巻を貫くものとなっている。

 その神の言葉がまさに、神の力そのものを示していて、いかなる闇と空虚や荒涼とした世界であろうとも、そのただなかに神は光を存在させることができる。

 神は全能であり、愛と真実であるから。

 そしてこれは旧約聖書の全体を流れていて、それは詩篇という旧約聖書の詩集や、イザヤ書などの預言書にも随所で記されている。

 その流れが今から二千年前に最も大いなる御方がこの世に遣わされて、それ以降全世界にその光が知られるようになった。

 それがキリストである。

 キリストこそ、この世界の永遠の光であり、闇は光にうち勝つことができなかったと記されている。(ヨハネ福音書1の5)

 そしてこれは無数の人々によってその真理が証しされてきた。どんなに闇が私たちの心の中に、また世界にたちこめてきても、なお、その闇の奥には一点の光が輝いているのを実感できるようにしてくださった。

 そのような光は見えないーという人たちは多い。しかし、神の御手が触れるとき私たちはそのような世界へと導きいれていただくことができる。私自身、そのような光の世界をまったく知らなかったが、あるとき一冊のキリスト者の書いた本によって知らされ、たしかにそれから50年を越えてその光は消えることがない。

 この世のさまざまの悲劇や苦しみに直面している人たちは数知れない。いま楽しい、幸福だと思っていてもこの世においては突然にして大いなる闇、苦しみに陥ることはいくらでもある。老年になって孤独や苦しい病という闇へと徐々に引き込まれていくことも実に多い。 

 そうした中で、私たちは死という闇へと確実に進んでいる。その闇でさえも、神の光を受けるときには、輝かしい復活という新たな世界の入口なのだと知らされる。

 そしてこうした闇に輝く光を知るには、ただ、そのような光に満ちた神を信じ、求めること、求めよ、そうすれば与えられる、という神の言葉を信じることである。

 こうした心の世界、霊的な世界においては、いくら学問をしても経験をしても、信じなければ何も進まない。

 神とキリストへの信仰によって神は私たちを罪深きものであるにもかかわらず、罪なきものとみなしてくださる。受け止めてくださる。そこからたしかに、闇に輝くいのちの光を受ける世界へと導かれていく。

 私たちの身の回りの自然、それは光に満ちている。青い空、雲、この頃に咲いているスイセンや梅…等々のどこに悪や汚れがあるだろうか。神の直接の被造物である自然は、私たちに、神が見えず、光が見えなくとも、私が創造したこの自然を見よ、と呼びかけてくださっているのである。

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リストボタン旧約聖書における罪の赦し (その1)

 

 旧約聖書の神は、裁きの神だ、と思われている。しかし、赦しについては、すでにアダムとエバの記述からも見ることができる。

 楽園からの追放が有名であり、神の言葉に背いた罪とその罰のみが浮んでくるのが普通であろう。

 しかし、すでにここにも赦しの萌芽がある。神は彼らを楽園から追い出したが、滅ぼすことはしなかった。ここに神の忍耐があり、まったく赦さなかったのなら、滅ぼしてしまうのであるが、そうはなされなかったところに一種の赦しを感じる。 愛による忍耐は、赦しをその内に含む。

 そしてこの楽園からの追放は、単なる昔話でなく、現在の私たちにおいても日々なされている。私たちが自分中心の考えや一時的感情にかられて行動するとき、必ず主の平安を失う。そこに主の平安という楽園からの追放がある。 しかし、それで裁かれてしまうのでなく、神の愛による忍耐によって私たちが立ち返ることを待ってくださっている。

 カインに対しても、すぐに滅ぼされるべきほどの重い罪を犯したにもかかわらず、驚くべきことに、カインを殺すものには、裁きを与えることが記されている。

 

… カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれない。

今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺してしまうだろう。」

 主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受ける。」

 主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。(創世記4の1315

 

 カインは、兄弟を殺したという重い罪ゆえに、神からの裁きを受けた。しかし、その裁きは、ただちに厳罰が下されたというのでなく、「さすらいの地」に住んだと言われているように、平安を失い魂のさすらいという裁きを受けたことが暗示されている。

 しかし、それにもかかわらず、カインは神からの守りがあったことが記されている。

 この記述には、厳しい裁きの神というより、カインを殺そうとする者から守るために、カインに特別なしるしを付けたという。

 ここには、カインの重い罪をゆるし、再生を見守ろうとしている愛の神の姿が示されている。

 これは、単なる数千年前の神話や物語などでなく、現代の私たちにも深くかかわることである。

 私たちもまた、さまざまの罪、他者の生涯にわたって傷つけるような、またその生涯に影を落とすような罪を犯してきたのではないだろうか。

 もし、過去のあのときに、その言動が適切で、愛に満ちたものであったら、相手の魂にずっとよいものを残せたのではないか…といった過去の不適切な、罪深さを思わされる。

 そうしたさまざまの間違ったことー罪をも神はすぐに断罪されるのでなく、あえてその罪深い私たちを見守り、しるしを付けて見守ってくださっているということを指し示している。

  このように、創世記の最初には、人間の罪とそれをも見守り、裁きを与えつつも赦しの心を持って、回心を待っておられる神の姿が記されている。

 この記述は、イエスが、捕らわれたとき、三度も強くイエスとともにあったことを否定したペテロに対して、イエスが遠くからじっと見守っていたことを思い起こさせる。

 

…主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、自分の裏切りを予見していた主の言葉を思い出した。

 そして外に出て、激しく泣いた。(ルカ226162より)

 

 ほかの弟子たちもみな、同じように逃げてしまった。

 しかし、復活した主イエスが、そのような弟子たちの弱さからくる背信行為を強く責めたということは記されていない。

 重い罪を犯した弟子をじっと見つめ、そして約束のものを待っていることを命じられた。そして祈り続けて待ち望む弟子たちに叱責の言葉や処罰でなく、聖なる霊を与えられたのだった。

 

 創世記の最後の部分には、ヨセフを憎んで殺そうとした兄弟たちを赦すヨセフの涙と愛が記されている。

 ヨセフは、祝福の子として生まれながら、兄弟たちから殺されようとする苦難を受けつつも、神の不思議な導きによってその闇を生きて、最終的には、異邦人の国エジプトを支配するものとさえなった。

 そしてさまざまのいきさつから、父親と兄弟たちが、エジプトのヨセフのもとに、食糧を求めてやってきたが、ヨセフは彼らが、かつて自分を殺そうとした兄弟だと見抜いた。そして彼らに真実な心があるかどうかを試したあと、自分がヨセフであることを知らせた。兄弟たちは、恐れ、自分たちの重い罪を思い起こし、罪の赦しを必死で願い求めた。

 ヨセフは、それを聞いて涙を流したと記されている。(創世記5017

 このように、自分を殺そうとした兄弟たちの罪をすべて赦し、彼らの悔い改めの心を知って深い喜びを感じたことが、彼の流した涙によって表されている。

 このように、単なる昔話とか神話のたぐいでなく、新約聖書のキリストの心に通じる罪の赦しの心、憎しみに対して赦しの愛をもってするというキリストの心をすでにヨセフが与えられていたこと、それが読む者へのメッセージとなって創世記が終わっている。

 こうした罪という闇に対して、ヨセフの赦しの愛は、光であった。

 兄弟たちの憎しみの心、そして年若い弟ヨセフへの悪事を長く悔い改めようとしなかった心の闇のなかに光が射し込んだのである。

 そしてこの真理の根本は、すでに創世記の最初にも暗示されている。それは、闇と空虚、荒廃のただなかに、光あれ! との言葉によって光が存在するようになったことである。

闇とは罪の世界である。その闇のなかに赦しという光が与えられることが示されているのである。

 神が用いた人でありながら、その絶大な能力ゆえに王の地位にまでのぼった後、忠実な部下を死に追いやり、その妻を奪うという驚くべき大罪を犯したダビデー彼は、それにもかかわらずはじめはその大罪に気づかなかった。それは当時の王のような権力者は、だれでも気に入った女性を自分の妻とすることができたからでもあっただろう。

 1年ほども経って、預言者ナタンがやってきて、その重い罪を知らされた。

 そしてその重大さを深く示され、神に祈った。それゆえに、神はダビデを赦された。

 しかし、ダビデは神からとくに選ばれた人間だった。 それゆえに、厳しい裁きがくだされることになった。

 それは、息子が妹に関して同じように重い罪を犯し、さらに父親であるダビデに向かって反乱を犯し、ダビデを殺そうとまでするようになった。それによってダビデは自分の罪ゆえにこのような悲劇が生じたのだと悟り、その苦しみのなかから悲痛な叫びをあげつつ歩むことになった。

 それでもその苦難の歩みのなかにあっても、神からの赦しを実感していた。

 

 このようなことは、キリスト以降の時代において、もっとも大いなるはたらきをした使徒パウロにおいても生じた。キリスト者を迫害し、国外まで追跡して捕らえ、エルサレムに送るなどしていたが、キリスト者を殺すことさえしたと記されている。そのような闇の状態であったパウロの心のなかに、キリストの光が射し込んだ。

 光あれ!との御言葉が彼において成就したのである。 それによってその大いなる罪は赦され、さらに、聖霊の力が注がれて異邦人伝道へと導かれ、世界の人々にキリストの光が伝わるための大いなる歩みが彼によって開始されたのである。

 

 つぎに列王記上によって罪の赦しの重要性を見てみたい。これは、ソロモン王が神殿を完成したときの祈りとして記されている。

 そこには、神に赦しを請う願いが繰り返しあらわれる。

 

…あなたはお住いである天にいまして耳を傾け、罪を赦し、こたえてください。

あなたは人の心をご存じですから、どの人にもその人の歩んできたすべての道にしたがって報いてください。まことにあなただけがすべての人の心をご存じです。(列王記上8の39

 

 あなたの民があなたに対して犯した罪、あなたに対する反逆の罪のすべてを赦し、彼らを捕らえた者たちの前で、彼らに憐れみを施し、その人々が彼らを憐れむようにしてください。(同50

 

 現在の日本において、例えばこのときの神殿のようなきわめて重要で長期にわたる工事と莫大な経費を要した建造物を建てたときに、どうするだろうか。

 罪の赦しのことに触れるなど考えられないことである。

 落成式をして祝い飲食をすることが普通だろう。

 聖書においては、神殿が完成したとき、ソロモン王の長い祈りが記されている。

 そしてその祈りの中心は、罪の赦しであった。これは驚くべきことである。彼らの意識の中心には、人間の罪とそれに対する神の赦しこそが、根本的に重要だという考えがあった。

 神殿は神と人との橋渡しする施設である。そしてその根本には、何か困難なことが生じたときには、罪を知り、立ち返って神からの赦しを受けることが根本的に重要だという認識が示されている。

 もう何十年か前に読んだ次の詩は、ふとしたときに思いだされる。

何か問題が生じたとき、苦しいとき、また人間関係の問題のときー。

祈りという草の上に座れば そのことが気付かされるからだった。

 

草に すわる  (八木重吉)

 

わたしの  

まちがひだった

わたしの まちがひだった

こうして 草にすわれば それがわかる

 

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リストボタン赦しについて

    ー旧約聖書における赦し(その2)詩篇より

 

 罪の赦し、それは聖書全体を貫いて流れている重要なことである。

人間は、どうしても真実や無差別的な愛、また変わらない正義といったことを守ることができない。どうしてもその言動に不信実、自分をまず守ろうとする自分中心の考え、不正なこともついつい黙認するという弱さ、罪を持っている。

 その罪があるかぎり、私たちの心にはどうしても暗雲がどこかただよっている。本当の魂の深い平安や清さというものが得られない。

 こうした罪を犯さないようにするということはどうしてもできない。というのは、愛というのは神の愛という完全なあり方を前にするとき、いかなる愛の人といえども、その愛なるものはきわめて限定的である。

 自分は人を愛していると感じていても、少し離れて見ると、それは単に、自己愛の変形でしかないのに気付かされることが実に多い。

 そうした罪深い人間の現実を直視するとき、罪の赦しは、決定的に重要なこととわかる。

 それゆえに、創世記からずっと旧約聖書の多くの個所で罪の赦しの重要性が記されている。

 ここでは、詩篇においてどのように記されているかをその一部であっても学びとりたい。

 以下は詩篇103篇より部分的に引用し、とくに罪の赦しに関してこの詩の意味するところを記したものである。

 この詩は、罪の赦しを与える神の愛に関して、その慈しみの深さ、高さに関して類のないうるわしい表現を与えている。(*

 

*)ドイツの詩篇注解として重厚な内容で知られるATD では次のように記している。「この詩は、聖書に基づく信仰の樹に咲いた最も純粋な花の一つである」Der Psalm ist eine der reinsten Bluten am Baume des biblischen Glaubens.

 ATD  Artur Weiser)(This Psalm is one of the finest blossoms on the tree of biblical faith.

 

… わが魂よ、主をたたえよ。

わたしの内にあるものすべては

聖なる御名をたたえよ。

 わが魂よ、主をたたえよ。

主の御計らいを何ひとつ忘れるな。

 主は、あなたの罪をすべて赦し、 病をすべて癒し

 命を墓から贖い出してくださる。

慈しみと憐れみの冠を授け

 長らえる限り良いものに満ち足らせ

鷲のような若さを新たにしてくださる。

    (詩篇103の1〜5より)

 

・この詩の作者は、主がいかにすばらしい御方であるかを深く体験し、また啓示によりて知らされていた。

 それゆえに、まず自分の魂に向かって、主をたたえよ、内なる全てー考える力、感じる力、想像力、愛の心、大いなるものを敬う心、清いものを愛する心…等々のすべてをもって神を賛美せよとうながしている。

 これは、現代の私たちが、新聞やテレビ、インターネットなどのニュースを見て、その不正や混乱、悪行などの数々に対して批判や攻撃、失望、憂いを抱いてしまうのとは、大きく異なっている。

 この世の出来事は、そうした悪や闇の力による出来事が実に多く、そこにはこの世に対しての嫌悪感、絶望感が魂に広がっていくもので満ちている。

 そうした中にあって、いまから数千年も昔にー農作物の不作による飢饉や戦争、病気や怪我等々が絶えず身辺で生じていたにもかかわらず、このように、万物の創造者である神をたたえ、喜ぶことができたとは、驚くべきことである。

 この世に満ちている闇の世界からの風とはまったくことなる風を受けていたのがありありと感じられる。

 それこそ、天からの風である。

 不満や悲劇、混乱のただなかにあってどうして神を心から賛美できるのか。

その理由として第一に記されているのが、「罪の赦し」である。

 罪の赦しを受けることが、神の愛を知ることに直接につながっている。

 ここにも、人間の愛とは根本的に異なる点がある。

 罪を赦す力のある神は、死の力からも救いだす力を持っておられ、じっさいに私たちを絶望的な状況、死にいたると思われる深い闇からも救いだしてくださる。

 それは、私自身、深く経験したことだった。

 

 主は憐れみ深く、恵みに富み

忍耐強く、慈しみは大きい。

 永久に責めることはなく

とこしえに怒り続けられることはない。

 主はわたしたちを 罪に応じてあしらわれることなく

過ちに従って報いられることもない。

 天が地を超えて高いように

慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。

 東が西から遠い程

わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。(同8〜12

 

 ここには、弱き者、悪の力によって苦しめられている者への神の深い愛を実感したものの心の世界が刻印されている。

 罪の赦しを魂の深いところで与えられた者のみが、こうした表現が与えられたのであろう。そしてそれは神がこの作者の魂を開かれたのである。

 旧約聖書の神は裁きの神だ、というようなことがしばしば言われる。

 しかし、それは旧約聖書に記されている神の深い愛や真実に触れていないゆえである。

 この詩にみられるように、神は人間と異なって、罪に応じて私たちを処罰するというのでなく、赦しを与えられる神である。罪の赦しを与え、そこで神の愛を深く体得させ、そこからおのずから神に従うようにと導くのである。

 これは、使徒ペテロのことを思い起こさせる。三年もイエスに従い、その大いなる奇跡や深い教えなどすべて側で見聞きしてきたにもかかわらず、イエスが捕らわれていくときには、三度も強くイエスなど知らないと否認した。

 そのような罪深い者であったが、イエスはペテロを強く責めて苦しめるのでなく、愛のまなざしをもって見つめ、そのゆえにテロは声をあげて泣いた。

 イエスの愛は、天地のへだたりのごとく、はるかに人間の愛や正義などを越えて大きい。

 昔は丸い地球の上にいるなどとまったくわからなかった時代であり、東と西とは無限に遠く離れていると思われていた。

 そのように、罪を無限に遠く退けるー言い換えると、罪などまったくなかったかのように、みなし、完全に赦してくださるということなのである。

 これは、裁きの神というイメージとは全くことなる。

 すでに、出エジプト記において、次のように言われていることと関連している。

 

…主、主、憐れみ深く恵みに富む神、

忍耐強く、慈しみとまことに満ち

幾千代にも及ぶ慈しみを守り、

罪と背きと過ちを赦す。(出エジプト記34の6〜7より)

 

 私たちは、土埃のように空しく、ふきとばされるようなものであり、夏期に入って南からの熱風が吹き渡れば、たちまち枯れてしまう草のようにはかない。

 そのようにはかない存在であるにもかかわらず、神は私たちを無視したり、裁きによって滅ぼしてしまうことなく、神を信じて歩む者への慈しみは永遠に続く。

 人間の愛なるものは、ちょっとした言動によってもたちまち憎しみや無視に変じたり、相手から気持ちが変って別の人に心を移したり、裏切りとなったり…。

 それに比べて神の愛はかぎりなく深く、清く、高く、しかも永遠である。

 それゆえに、私たちはどこにあっても、神への愛と賛美を忘れないのがふさわしい。

 この世界の混乱と不安や悲劇のただなかにあってもなお、このような言葉が記されていることーそれは神がこうした真理を啓示したからである。

 神の言葉は、すべてを越えて、信じる者に、悪との戦いに勝利を与える。

 そのゆえに、神への賛美は、信仰を与えられた人の究極的なあり方となる。

 

…父がその子を憐れむように

主を畏れる人を憐れんでくださる。

わたしたちが塵にすぎないことを

御心に留めておられる。

 人の生涯は草のよう。

野の花のように咲く。

 風がその上に吹けば、消えうせ

生えていた所を知る者もなくなる。

 主の慈しみは 世々とこしえに

主を畏れる人の上にあり、その義は子らの子らに

 主に造られたものはすべて、主をたたえよ

主の統治されるところの、どこにあっても。

わが魂よ、主をたたえよ

 

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 リストボタン お知らせ

 

〇森 祐理コンサート

前月号でも紹介しましたが、福音歌手、森 祐理(ゆり)さんのコンサートが次のように開催されます。以前の徳島市民クリスマスでも、賛美がなされた方です。

 森 祐理さんは、2010年の3月に、障がい者の作業所「いのちのさと」(*)にて、賛美をされ、その翌日には、徳島聖書キリスト集会の主日礼拝にも参加されたことがあります。

 そうした関わりから、私どもの徳島集会員の一部の方々との交流が続いてなされていましたが、その方々が今回主となってこのコンサートを主催することになりました。

 

*)「いのちのさと」は、徳島聖書キリスト集会員の石川正晴氏が責任者で、「身体・知的・精神のいずれの障がいの人でも、やる気のある人なら障害の重さや能力に関係なく、利用者と職員が仕事を通じて学び、楽しみながら共に成長していくことを希望としております。」(「いのちのさとのホームページから」)

 

〇森 祐理コンサート

・日時…3月23日(土)

開演14時(開場1330分)

・会場…ホテルサンシャイン徳島アネックス

 徳島市南出来島町219)徳島駅から高徳線路沿に歩いて約7百m。従歩10数分。

・入場料…無料。

・定員…二百名。超えた場合は、会場のスペースが可能なら立ったままで聞いていただくか、それも超えた場合には聞くことができませんので、お早めにお越しください。

 

森 祐理 プロフィール (森 祐理ホームページから)

 京都市立芸術大学音楽学部声楽専修卒。NHK京都放送局を経て、 NHK教育TV

「ゆかいなコンサート」歌のお姉さんを務める。 現在は福音歌手として世界中を飛び回り、心に響く美しい歌声で、世代を超えて多くの方々へ希望のメッセージを届けている。 2002年大阪矯正管区長賞、2007年法務大臣顕彰。  阪神大震災で弟を失う体験を通し、以来国内外の被災地にて心の救援物資を運ぶ働きを継続。神戸市追悼式典にて独唱(2010年より6年連続)。 東日本大震災被災地での支援コンサートは、130回を数える。

ラジオ関西(558KHz:毎週木曜夜930分〜)「モリユリのこころのメロディ」パーソナリティ。 日本国際飢餓対策機構親善大使。茨木ロータリークラブ名誉会員。 CD22枚、

著書「希望の歌と旅をして」等4冊、トラクト、DVD7枚等好評発売中。

公式HP  http://www.moriyuri.com

 

 なお、コンサートの前に、徳島聖書キリスト集会代表の吉村孝雄による聖書からの短いメッセージと集会員による手語讃美があります。

・手話通訳あり

・無料駐車場あり。

・主催…徳島聖書キリスト集会問い合わせ

  090-3784-1277(中川)

 

〇イースター特別集会

 今年のイースターは4月21日(日)です。イースターの礼拝は、復活節、復活祭とも言われ、キリスト教が世界に伝えられていく出発点となったキリストの復活を記念する礼拝です。

 キリストの復活は、死にうち勝つ復活の力が存在することを世界に示して、その後もそのことを信じ、求める人々にその力を与え続けていることを感謝し、賛美する礼拝です。

・時間…午前10時〜午後2時

・内容…こどもとともに、いのちのさと作業所の方々の賛美、聖書からのメッセージ、讃美タイム(オカリナ演奏、デュエット、コーラス、手話讃美など)、感話、昼食と交流など。

ふだん参加できない方々も、このイースター特別集会に参加できますようにと願っています。