いのちの水 2020年  9月号  715

私たちはこのような宝(福音)を土の器におさめている。

                                          (Uコリント4の7)

目次

神による慰めと励まし

・キリストの満ちあふれる

     豊かさの中から

・お知らせ    「祈りの友 合同集会」

 

リストボタン神による慰めと励まし

  聖書にはさまざまの表現があるが、短い個所に、慰め(励まし)という言葉が繰り返し繰り返し現れる個所は次のところのみである。

 

…慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。

 神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あら ゆる苦難の中にある人々を慰めることができる。

 キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからである。

 わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになる。

また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができる。

 あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るがない。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからである。(第二コリント書1の3〜7)

 

 ここには「慰め」ということばが8回も繰り返されている。これは原語(ギリシャ語)では、慰めるという動詞と、その名詞形の二つの形で用いられている。

 名詞は、「パラクレーシス」であり、動詞形は、パラカレオーである。これは、 パラ「そば」、クレーシスは、カレオー(呼ぶ)に由来する言葉であり、「そばで言う、励ます、慰める」という意味。

 慰めるとは、だれかが苦しみや重荷に耐えきれず一人涙を流しているようなとき、その悲しみや苦しみに共感し、愛をもって関わること、語りかけることといえようが、それに終わらず、その苦しみを越えて前進していくための励ましをもあたえることをも意味する。日本語の聖書でも、「慰める」を「励ます」と訳しているものもある。

 パウロがこの短い個所に、動詞と名詞を8回も使って語りかけている、そこにギリシアの都市コリントの信徒たちへの切々たる思い、主にある愛が深く感じられる。

 キリスト者とは、このように、自分一人だけで苦しみを担うのでなく、互いに側にいて語りかけ、励まし、慰め合うのが本来のあり方なのだと知らされる。

 神、キリストにある豊かな、あふれ出ている慰め、励ましが私たちに与えられ、その励ましの力が他者にも伝わっていき、相手の人を慰め、励ますことにつながっていく。

 また、キリストの苦しみはキリストだけにて終わるのでなく、その苦しみがあふれて私たちの苦しみとなり、キリストの苦しみをいっそう深く共感できるにされる。

 パウロたちの苦しみは、コリントの町にいるキリスト者たちが共有しているし、またキリストによる慰めや励ましもまた共有しているのを知っているという。

 キリストを信じる人たちは、キリストのからだであると記されている。一つの部分が痛みを感じるとき、ほかのからだの部分も痛みを感じるように、喜びもまた、共有されるのが本当のあり方であると別のところで記されている。

 キリスト教の前進、キリストの死とそれにつづく復活ののち、おどろくほどの短期間で、キリストの福音が広大なローマ帝国の各地に広がっていったのは、こうした聖霊による互いの愛の励ましや慰め、苦しみや悲しみを担いあう共同体であったからだとわかる。

 目にみえるものは、共有できない。例えば、妻や夫、こどもといったかけがえのない人間を他者と共有するなどできないし、一つしかない大切な時計や記念物、家を共有することも難しい。お金が1万円しかないとき、それをほかの人と共有できない。一人がそのお金を使ってしまえばなくなってしまうからである。

 しかし、本当に大切なもの、目に見えない大切な愛や真実といったものは、共有できるし、共有によっていっそう広がっていく。キリストからの愛は、それを他者とともに使えば使うほどなくなってしまうのでなく、いっそう増えていくという驚くべき特質がある。

 ここで引用した、コリントの信徒への手紙Uの最後には、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、そして聖霊による交流があなた方すべてにあるように」という祈りが記されている。

 この祈りは、永遠の存在である神と同じ本質を与えられた御方が人間の形をとって地上に来られた、それが主イエスであり、神の本質を注がれた方キリストであり、そのキリストが十字架にかかって私たちの罪のために死んでくださった。それこそ、最大の恵みである。 そして、そのことも神の愛による。そしてこの人間と神という縦の関係あってはじめて、人間同士の横の交流に聖霊がはたらく。聖霊による交わりとはそのことであり、キリストの愛ゆえに、互いに励まし合い、祈りあう共同体となる。

 

 「終わりに、兄弟たち、喜びなさい。

 互いに励まし合いなさい。思いを一つにせよ。平和を保て。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださる。」(Uコリント十三・11)(*

 

 このように、Uコリント書の最初に「励まし、慰め」をあらわす言葉が繰り返し記され、その手紙の最後の部分にも、この互いに励まし合うということが記されている。

 

 *)この個所を、英訳の代表的なものの一つをあげておく。

We wish you joy; try to grow perfect;

encourage one another;

have a common mind and live in peace, and the God of love and peace will be with you (NJB)

(私たちはあなた方に喜びがあるようにと願う。まったきものへと成長するようにつとめよ。互いに励まし合え。共通した思いを持ち、平和のうちに生きよ。そうすれば、愛と平和の神があなた方とともにいてくださる。)


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  恵みのうえにさらに恵みを

 

 この世界において、満ちあふれる豊かさ、といったものがあるだろうか。人間は、欠乏に満ちている。人から認められず、見下される状況となれば不満となり、感情が落ちつかない。逆に多数の人から認められても、たいていはそれが持続しないから、持続させるために力を注ぐ。

 また、衣食住に恵まれ、経済的に余裕があっても、その欠乏感は止むことがなく、さらなる豊かさ、ぜいたくを求める傾向がある。

 これらはみな、人間が物質的なものや、地位、名誉がいかに与えられてもその魂の深いところでは、満たされることがないのを示している。

 人間がこのような本質をもっているために、そうした人間がほかの人間と交流しても、満たされないという思いは消えることがない。

 そしていつの時代にも日毎の食物さえまともに与えられない飢餓状態の人たちは、多く存在したであろうが、2018年には、そうした飢餓状態の人は、8億2千万人にも及ぶという。(ユニセフのサイトより)

 世界人口は77億人だから、10人に一人以上が飢餓状態ということになる。

  この世はどこまでいっても、目に見える食物におても、目に見えない心の世界においても、そのような欠けた状況にあふれている。

 そのような中で、「満ちあふれる豊かさ」を持っているものなど、考えられないーというのが一般的な感情であろう。

 しかし、聖書には、キリストだけがそのような豊かさを持っている存在であることが明確に記されている。

 

…私たちは、みなこの方(キリスト)の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みをうけた。       (ヨハネ福音書1の16

 

 この世界で、本当に満ちあふれる豊かさをもった存在とは、ただ一人キリストだけである。その豊かさは、万人を呑み込んでいく死をも滅ぼし、私たちすべてが持っているさまざまの魂の汚れ、罪を赦してくださるという無限の霊的豊かさにあふれた存在である。

 さらには、そのキリストは、いかに見捨てられた人間にも、近づいて力をあたえてくださる完全な愛を注ぐ御方である。

 このように、キリストは、人間という存在の根本にかかわる無尽蔵の豊かさを持っておられる。

 それゆえに、そのキリストから、さまざまの愛の行動や祈り、敵のためにも愛するその豊かな愛によって武力をつかわずに、ローマ帝国の全域にキリストの力を広げていった。

 また、虐げられた人たち、ハンセン病のような、重度になると恐るべき闇をもたらす病の人にも、その他のさまざまの病気や障がい、貧しさ、罪ゆえの苦しみ、事故、災害などありとあらゆる苦しみや悲しみの人たちがキリストのもとにいって、その重荷や悲しさ、苦しさを訴え、そしてその魂の重荷を軽くされ、あらたな力を受けて歩みはじめた。

 このような人たちは、世界中に無数に生じていった。

 病院、看護師、施設、等々もまたそうしたキリストの豊かさのあふれ出た一つであったし、さまざまの学問もキリストを信じる人たちによって大いに前進していった。

 いまから、900年ほども昔、世界で最も古い時代に設立された、パリ大学、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学など、現代において世界の代表的な大学も、その出発点において、聖書のまなび、研究を中心としていた。ソルボンヌ大学とは、パリ大学の通称で、この名称は、聖書を学ぶ学生(神学生)たちの寮をソルボン司祭が設立したことにさかのぼる。

 オックスフォード大学は、各種の世界大学ランキングで1位の大学に選ばれ、政治家では28人のイギリス首相、ノーベル賞学者は55人、さらに、各国の元首は30人以上がこの大学を卒業しているなど、大きな影響力を維持している。

 オックスフォード大学の紋章は、聖書の言葉からつくられている。

Dominus illuminatio mea(ドミヌス イルーミナティオー メア、これはラテン語で「主は我が光」の意で、聖書・詩編27の1にある言葉)

 また、アメリカで最初に設立され、やはり世界の代表的大学の一つであるハーバード大学だが、その大学名も、ピューリタン(清教徒)であったハーバード牧師の名に由来する。この大学の出発点においては、清教徒の指導者、牧師を養成することを目的としていたため、その教育の目的とされていたのは、「神とその子キリストを知る」(ヨハネ福音書17の3)だった。

 現代でも大学内に、教会があり、聖書を学び研究する神学部門(神学校)もある。

 

 日本においても、北海道大学の前身の札幌農学校で、クラーク博士が聖書を生徒に持たせて、教育の中心に据えた。

 クラークは、アメリカの化学、動物学、植物学者であり、大学長もつとめた人物であったが、日本政府の要請に応じて、9ヶ月という短い期間であったが、札幌農学校にて情熱を傾けて各種教科、そして聖書を教え、内村鑑三や新渡戸稲造その他の多くの人材も、クラーく博士のキリスト教信仰から生み出されたのだった。

 そして、東京女子大学、津田塾大学、女子学院などの女子高等教育もまた、アメリカの婦人宣教師や、女性キリスト者たちが関わって生み出された。当時は、女性が大学教育をうけることはできなかったが、そうした扉を開くことになったのであった。

(なお、女子学院は現在では中高一貫教育となっているが、1920年に大学教育にあたる高等科は東京女子大学に統合された。)

 

 さらに、美術や音楽、建築様式など芸術的方面においても、世界にその影響を及ぼしていった。ミケランジェロ、ラファエロ、レンブラントなどの作品を知らぬものはないほどの、大きな影響をあたえてきた。

 音楽も、全世界のどこかでいつも響きわたっているほどのバッハ、ベートーベン、モーツァルト、ハイドン、ヘンデルブラームス…等々もその中心にキリスト教の賛美があり、これらの音楽によって全世界のさまざまの人たちのハートに届き、そうした音楽を愛好する人たちに、絶え間なく力や平安、あるいは心の安らぎや励ましを受けてきた。

 キリストの満ちあふれる豊かさ、それはこのように長い歴史のなかで、じつにさまざまの方面に計り知れない影響をおよぼしてきた。

 こうした歴史的な影響力は、もとはキリストを信じる一人一人が、キリストの大いなる豊かさからあふれる賜物を与えられたゆえであった。

 キリストの満ちあふれる豊かさを与えられているならば、他者からいかに罵倒されようとも、また迫害されようとも、そうした表面的なことを乗り越えていく力が与えられるる。

 最初の殉教者となったステファノは、真理を語ったがゆえに、激しく迫害され石を打たれて殺害されたが、息をひきとる前には、天が開けて復活のキリストと神の栄光の姿を見ることが赦され、その神の国から流れ出る愛をうけて、自分を激しく憎んで襲いかかる人たちへの祈りとなった。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒言行録7の60)

 これは、キリストの限りない豊かさがどのようなことに通じるのかを指し示すものである。

 

 そのようなキリストの豊かさから、恵みの上にさらに恵みをうけたと記されている。

  恵みの上にさらに恵みを…という個所の「〜の上に」 という原文には、 anti (アンティ、アンチ)というよく知られた言葉がつかわれている。

 アンチとは、通常は、「反対」という意味があるので、アンチ・キリスト といえば、反キリストということになる。ここでは、次の英訳のように、単に次々に恵みが与えられた、という意味にとどまらず、一つの賜物は、またそれに対して別の賜物にと置き換わりつつ、というニュアンスをもっていると考えられる。

 

Indeed, from his fullness we have, all of us, received -- one gift replacing another,

(New Jerusalem Bible

 

 じっさい、静かにふりかえってみるとき、私は聖書に記されている神とキリストを救い主として信じることが与えられたときから、この闇に包まれた世界に、消えることなき光が輝いていること、どこにも真実などないように見えて、永遠の真実があり、不純な愛ばかりのように見えて、完全に清く、しかも永遠の愛が存在することを信じることにつながった。

 そして、いろいろと自分自身の至らなかったこと、気付かなかった罪など多くあるなかで、それでも、神はただキリストの十字架の死によって私の罪は赦されたと信じるだけで、そうしたさまざまの恵みの世界へと導かれたのを感じる。

 まず十字架による赦しが与えられ、ついでその十字架の信仰にプラスして復活の信仰が与えられた。これは、十字架だけの信仰に置き換わった新たな恵みとなったのである。

 私たちが罪を犯しても、そのことを心から悔い改めてキリストに向うとき、キリストは、赦してくださる。そしてさらにキリストの愛の深さを知らされる。

…罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれた。(ローマ信徒への手紙5の20

 さらには、最終的に悪の力が滅ぼされ、霊的な新しい天地となるーキリストの再臨という通常の考え方ではとうてい納得できないようなことをも信じることが与えられ、そうした意味ではさらに新たな幅広い信仰へと置き換えられたといえる。 

 このようなことは、私たちの生活においてもいろいろと経験されることである。

 神への信仰というのは、出発点では、自分の罪赦された心の安らぎだと感じていたのが、そのような狭いものでなく、ほかの人たちの救いと救われた人たちの祈りが深くかかわっていること、またそうした信仰が与えられたのも、大いなる神の御計画によるものだと、わかっていくとき、最初にうけた恵みが新たな恵みへと置き換わっていく。

 じっさい、私たちが救われたのは、「天地創造の前に私たちを愛して、汚れなきものとしようとしてキリストによって選んだのだ」という驚くべきことが記されている。(エフェソ書1の4)

 これは、この書の著者ーパウロと伝えられてきたーが、彼自身、そうした自分の救いが偶発的に生じたのでなく、天地創造の前からという表現にあるほどに、時間や空間を超えた霊的なできごと、神の永遠の計画によるのだという深い信仰へと置き換わっていったのがうかがえる。

 周囲の自然ー路傍の野草や樹木、大空や、風、雲等々に対しても、信仰を与えられる前は、ほとんど関心がなかったが、神様が愛と真実をもってそれらを創造したということをより深く信じることによって、それらのことも、活ける神の心の波動の一部がこもっていると感じるようになる。

 それも、以前の自然に対して無関心な信仰から、それらをも神の愛の御手のわざと信じてより敏感に周囲のできごとに目を覚ましていくという新たな信仰の賜物へと置き換えられたということになる。

 パウロは別のところで、こう記している。

 

…たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、

わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていく。(Uコリント4の16より)

 

 内なる人ーそれはキリストが私たちの内に住んでくださるとき、そのキリストゆえに私たちの内面が新たにされていく。それによって、以前は恵みと感じなかったことが新たに恵みと感じるようになり、いろいろな身近なことー例えば、食事だけでなく、住む場所がある、衣服がある、清潔な水がある…、そして指や足が動く、見える、聞こえる、起き上がれる、風の音や身近な木の葉や草花にさえ神様の愛や真実、美しさを感じるというような新たな感性を与えられていくなら、それはまた以前の恵みの状態に置き換わった新たにされた恵みということになる。

 


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祈りの友 合同集会について

 

 8月号にもお知らせしましたが、9月22日(火)に、「祈りの友 合同集会」が行なわれます。近年は、徳島市の徳島聖書キリスト集会にて開催しており、京阪神と岡山からの参加者、県内の「祈りの友」会員や、会員でなくとも参加希望の方々が集っての開催でした。

 今年は、新型コロナウイルスのために、インターネットのスカイプを用いる集会とすることになっています。

 内容は、次のとおりです。

 

日時 9月22日(火)休日 午前11時〜午後4時(途中昼食休憩  4050分ほど)

 

1、開会礼拝 11:1012:00

開会メッセージ 吉村孝雄     (徳島)

2、聖書からの祈りに関するメッセージ(15分)

@深山政治(千葉)A清水勝(大阪)B犬養光博(長崎)

 

3、自己紹介・近況報告 12:4513:30

 

4、祈りに関する証  13:3015:00 (一人約10分以内)

 @野中正孝(北海道)野中幸枝(北海道)、A西川徳雄(山梨)B峰原順子(茨木)

C伊藤玉枝(神奈川)D大田淳(島根)E貝出久美子(徳島)F冨永尚(愛媛)

G古川静(鹿児島)

 

4、午後三時の祈り 15:0015:40

5、閉会集会 15:4016:00  ----------

参加について

会員でなくとも、参加できます。

〇申し込み先…貝出久美子

〇申込期限  916日(なお、それ以後になっても、貝出、または吉村に連絡くだされば参加可能になると思われますが、名簿作成のためにも、またスカイプを使うのが初めての方には通話テストの必要がありますので、なるべくこの期日までに申し込みしてくだされば好都合です。

吉村 孝雄の電話、E-mailは左にある奥付にあります。

 

〇参加費用…無料

なお、11時から午後4時までと長時間にわたりますので、健康上その他の理由で、部分参加、途中退席も可能です。

 開会してから途中からの参加も可能ですが、その場合には、携帯電話で、必ず接続担当の貝出久美子、または数度勝茂まで連絡ください。集会が始まっている場合、その途中から直接にスカイプで上記の貝出、数度さんを呼び出しても応答できないからです。数度勝茂さんの電話は090-3788-8664です。

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 それと別に、「祈りの友」会に入会希望の方は、吉村孝雄までメール、または電話で申込ください。「祈りの友」に関する説明、会報、申込書などを郵送、またはメールで送付します。

 

 「祈りの友」は、神とキリストを信じ、この世のさまざまの状況にあって、重荷を負っている私たちが、互いに祈られ、祈りあい、御国のために祈り合う集まりです。

 現在の「祈りの友」は、病気や健康などに関わりなく祈られ、祈ることはすべてのキリスト者にとって不可欠のことなので、どなたでも参加できるようになっています。

 なお、この「祈りの友」の最初の出発点は、1932年、岡山の内田正規がはじめた結核療養者たちの相互に祈り合う会でした。結核でない人も、加祷者として加わっていた方々もあり、無教会でも伝道者として知られる次のような方々が「祈の友」会に加わっていました。藤澤武義、金沢常雄、塚本虎二、矢内原忠雄、政池 仁、伊藤裕之。

 

 祈りこそは、いかなることがあっても継続でき、しかも誰もができることであり、主が、「主の祈り」でもみられるように特に望んでおられることです。一人でも二人、三人でもできますが、また「祈りの友」会のように地域を越えて覚え合って祈ることもまた、新たな祝福が与えられることを経験してきました。この機会に初めての方も参加してみられてはどうでしょうか。

 現在の「祈りの友」会では、年に2回ほど、会員の自由投稿を掲載した会報「祈りの風」、そして会員が互いに祈り合うために、「祈りの課題集」が発行されています。

〇主日礼拝は9月から徳島聖書キリスト集会場で行なっています。スカイプでの参加も自由です。

 その他、毎月第一、第三、第四火曜日の夕拝が午後7時半から、
第一月曜日午後1時からの小羊集会、
第二、第四月曜日午後一時から 北島集会、
第二火曜日午前10時からの海陽集会、
第二金曜日の午後8時からの天宝堂集会などがあり、いずれもスカイプで参加できます。
参加申込は左記の吉村孝雄まで。