「いのちの水」誌 2021年11月号    第729号 

主は私の魂を生き返らせ

御名のために私を正しい道に導かれる。   詩編233

目次

・秋の美しさ

゛見えること、見えないこと

・恵みと真実

・「集会だより」(9月分)

ことば

報告

お知らせ

・徳島聖書キリスト集会案内




 

 リストボタン秋の美しさ

 

 秋は美しい。私はしばしば一年のうちで最も心ひかれる季節だと感じる。それは、一つには枯れていくときの美しさ。

 木々や野草たちのなかには、その葉が枯れていくときに、かくも美しい色調と雰囲気を漂わせるのかと驚かされるようなものがある。

 また、空気も清澄となり、夜空の星たちの輝きもいっそう澄んできて、夜空を見つめる一人一人への語りかけがよりはっきりとしてくる。

 さらには、山には、多くの野草たちがつぎつぎと花を咲かせる。ヤマシロギクや、シラヤマギク、リュウノウギク、ノコンギクなど白や青紫のキクの仲間も秋に多く見られる。

 オミナエシやリンドウは野生のものには最近は、近くの山野ではなかなか見つからない。

 しかし、数年前に、九州から中国地方へと各地の集会に御言葉を語るための移動の途中で、山口県の秋吉台高原を歩いたときに、多くのリンドウに出会い、あらためてその色、姿形のよさが心に深く残った。

 また、かつて歩いた山において見つけたその場所とか状況が浮かんでくる。その仲間のアサマリンドウとかツルリンドウなどにはときどき出会うことがある。

 もう現在では、集会への参加の途中など以外では山々を自由に歩くことは、時間的に取れなくなったが、それでも秋の山は多くのことを語りかけてくれるし、かつて出会ったいろいろの野草の花たちを見つけると、私には何十年来の心の友と出会ったような気持ちになる。

 厳しい冬の到来を暗示しつつ、実には赤や黄色などの色がついてくる。その実は実際に小鳥や森の動物たちの冬の食糧として自然によってそなえられたものだが、私たちにとっても、冬の厳しい時のために、美しい紅葉や実りによって私たちの魂への準備をしてくれているかのようである。

 


 

リストボタン見えること、見えないこと

 

 この世のたいていの問題は、「見えるか、見えないか」の問題に帰着する。 私たちが悩むのも、いま抱えている問題が将来どのように展開していくか分からない(見えない)こと、また現在の問題もそれがどのような意味を持っているのか、どう対処したらよいのか見抜くことができないこと、また過去のこともそれがどんな意味を持っているのかはっきりと分からないからである。

 このように、問題はすべて私たちには過去、現在、未来を通じて事柄の本質が「見えない」ということから生じてくる。

 自分や家族の病気、家庭の問題、仕事の問題、あるいは将来老年になったときどうなるのかといった問題さらにはすべてのひとにおとずれる死ということのさきにあるものが見えない…など、だれでも抱えている問題がある。

 それが困難な問題であればあるほど、解決の見通しもたたず、どこにも逃れる道が見えなくなることがある。そのような時には、前途が真っ暗で、過去も暗く、どうすることもできないあまり、自ら命を断とうとする気持ちにさえなる人もいる。

 また、そうした問題とは別にとくに私たちは自分の罪が見えない、他人の罪もまた正しくは見えない。単に欠点はわかる。しかし、神の前にどんな罪を犯しているのかは分からない、見えないということがある。

 昔からいまにいたるまで、さまざまの犯罪が起きているが、それらも、そのような行為がどんなに悪いことかが見えない、そのようなことをすれば、相手の人だけでなく、自分も自分の家族もどれほど苦しまねばならないかが見えないからである。

 それは根本的には、神が見えないことである。

 そして神を見るためには、心清められることが必要だと記されている。

 「心の清い者は幸いである。なぜなら、その人たちは神を見る」と主イエスは言われた。

 心の清め、それは心の汚れである罪を清められることであり、そのためにこそ、キリストは十字架にかかって死んでくださった。

 私たちの心の清め、それはただ、キリストの十字架によって私たちの罪、汚れを清めてくださったのだと信じることからはじまる。

 

 

水の中、火の中をも共にいる主

 

 いまからはるか数千年以上も昔に、神の民イスラエルの人々に語りかけられたメッセージは、現代の私たちにそのまま語られている。

 

あなたを創造された主は

あなたを造られた主は

今、こう言われる。

恐れるな、私はあなたを贖ったのだから。

あなたは私のもの。

私はあなたの名を呼ぶ。

水の中を通るときも、私はあなたと共にいる。

川の中を通っても、あなたは押し流されない。

火の中を歩いても、焼かれず

炎はあなたに燃えつかない。(イザヤ書43の1〜2より)

 

 ここで、とくに神の民に対して、創造した、作ったのだと二種の言葉で強調して語りかけている。

「創造する」と訳される原語(ヘブル語)バーラーは、旧約聖書全体で54回ほど用いられているが、そのうちイザヤ書には17回と、突出して多く用いられている。

 

*)次に多いのは創世記8回、詩編の6回…、出エジプト、民数記、申命記、エレミヤ、Tサムエルなど一回、ダニエル書以降の預言者あわせて2回。Uサムエルから歴代誌下まで使われていない。

 

 これは、私たちは、偶然に生れたのでなく、単に人間の思いで生れたのでなく、その背後に、宇宙、全地を創造した神が私たちをも創造したのだ、ということに立ち帰ることの重要性を示している。

 そのような万物を創造した神、それゆえに全能の神が守ってくださると約束してくださっているゆえに、その約束は確かなものと信じることができる。 それなのに、多くの人々は、なぜ人間の言葉ー死んだら終わりだということを絶対の真理のように信じるのであろうか。

 このイザヤ書が書かれた時代においては、神の民とはイスラエルの民であったが、現在においては、ここでの呼び掛けはそのまま神を信じ、キリストを救い主と信じる人たちすべてに対して言われている。

 キリスト者が信じる神とは、無限に広がる宇宙からこの地上の全世界、目に見えない細菌などの微生物を含めいっさいを創造された神であり、しかも完全な愛と真実をもっておられる存在である。

 そのような神が私たちを創造された、作られたのであるゆえに、「恐れるな!」との力を込めた呼び掛けがなされている。

 あがなう、これは代価を支払って救いだしたということであり、旧約聖書の時代にはそれはエジプトの国がその代価となった。イスラエルの民を厳しく迫害し、民族絶滅の危機へと追い詰めていたエジプトが、厳しい裁きを受けたことを意味している。

 しかし、現在では、そのような特定の国や人間は到底、万人のもっている罪からのあがないにはならないゆえに、特別に神と同じ本質を与えられてこの地上に来られたキリストが十字架にかかってあがないとなった。身代わりに私たちの罪を担って死なれたが、そのことも、同じイザヤ書に預言とし詳細に記されている。(イザヤ53章)

 イザヤ書に記されたことは、古代の特定の神の民イスラエルに言われていることであるが、キリストが言われたように、旧約聖書はキリストを指し示しているのであり(*)、キリストの時代以降は、神を信じる一人一人への呼び掛けとなっている。

3

*)・「(旧約)聖書)は私(キリスト)について証しをするものだ。」(ヨハネ福音書539

・(復活したキリストは)「モーセとすべての預言者から始めて、聖書(旧約)全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」(ルカ2427

 

 神は、それゆえ、現在においても私たち一人一人の名を覚え、呼んでくださっている。

 水の中、川の流れの中を通るときでも、押し流されない。

 この世には、長い歴史にあっても、さまざまの大きな流れがあって、人々を呑み込んできた。戦争、飢餓、貧困、病気…そうした国や民族を呑み込むような苦難、そしてそれらがそれほど厳しくない平和にみえる状況にあっても、現代の日本も世界の国々においても同様であるが、表面的にはそのような困難にはないようにみえる国々、人々であっても、ひとたび心の内部に入ってみれば、あらゆる時代の国々、また人々は、つねに、この世の闇の力に翻弄され、その力が人間を支配し、人間関係の破壊があり、憎しみやねたみ、いじめ、悪意、また病の苦しみ、老年の絶望…等々によって苦しめられている。

 新型コロナウイルスによる死者は日本では、二年近い感染の期間で、現在まで1万八千人ほどである。しかし、自殺者は去年一年だけで2万人を越えている。

 コロナで死んだ人は注目されるが、みずから命を断った人たちはほとんどニュースにもならないし、自殺未遂を含むとはるかにその数は多いし、また不審死として自殺に含まれない人たちをも含むと、現実の自殺の人たちははるかに多いと言われている。

 こうした人たちの心の中にはどれほど激しい戦いや苦しみ、悲しみがあっただろうか。ほとんどわからない。

 そうした内なる戦いから逃れることができずに、みずからの命を断つにいたった人たち、もしそのような人が、真剣に祈り、叫ぶ相手をもっていたなら、死に至ることはなかっただろうと思われる。

 その相手とは、よき人によって救われることもあるけれど、死にいたった人はついに人間の励ましや慰めではその苦しみや悲しみを越えていくことができなかったのであろう。

 どのような状態にあっても、なお、人間を超えた存在、全能でかつ完全な愛と真実の神様を知るときには、その神に叫び、祈ることができる。

 そうすれば、私たちはこのイザヤ書で二五〇〇年ほども昔に語られた言葉に示されているように、いかなるこの世の荒波が来ようとも、多くの人たちが普通なら呑み込まれてしまうような苦難や、人間関係の悪化、また病気の苦しみ、老齢化のさまざまの孤独にかかわる悲しみ…等々、それらが押し寄せてきてもなお、私たちを強くはげまし、力を与えてくださる神様に守られて歩むことができる。

 「火の中を歩いても、炎は燃えつかない」(2節)現実には、戦争などで砲火に人も家も焼かれてしまうようなことは数多くあった。しかし、体が燃えようとも、その魂にまで燃えつくことはない。

 主イエスも「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな!」(マタイ福音書1028)と言われた。現実の戦火は体を殺してしまう。しかし、その人の魂を殺すことはできない。

 キリストは、そして神は死せる者をも復活させることのできる全能の御方である。

 しかも、その神の力は、死んだ後にようやく発揮されるのでなく、生きているときから、神とキリストの愛を、そしてその全能の力を信じるだけで、私たちは神の永遠の命に行かされるのであって、死なない存在になるとイエスは言われた。

 その苦しみや悲しみを深く知ったうえでそのように、信じる人を顧みてくださる。

…イエスは言われた。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。

生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。

このことを信じるか。」(ヨハネ福音書112526

 

 イエスは、「このことを信じるか」と言われた。いかなるこの世の苦難や絶望にも、そして最終的には死の力に対しても勝利するという道は、ただ、イエスの言われたことを信じる、 ということから与えられる。

 何もー学問や知識、またお金や修行、何らかの団体や組織に入るとかいうことさえ必要でなく、このような復活の命を与えられるためには、ただいかなる人も信じるか信じないかという一点にある。

 信仰とは大いなる賜物であるとともに、他方では決断でもある。

 日常生活のなかでたえずさまざまの困難のなかで、また、真理から遠い社会的、政治的問題に直面していく中で、「神などいない、この世の力ーカネや権力、悪の力が勝つのだ」という思いに負けてしまうことなく、イエスが言われたことを信じ続けていくかどうかの決断がかかわっている。

 


 

リストボタン恵みと真実の源としてのキリスト 

 

…律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた。(ヨハネ福音書1の17)

 

 ヨハネ福音書の最初から1章の18節までは、キリスト教信仰において、とくに重要なこと、さまざまの啓示が凝縮して記されている。ここに記されたような内容は、信仰生活を何十年経験したからといって、すべて体得するなどということは決してない。いくらでも奥が深く、かつ広く高い。

今日の箇所も、イエスの一言の中に深い意味が凝縮されている箇所である。

 この「恵み」と「真理」ということは、これは、この少し前の14節にある。

「言は、肉となって、私たちの間に宿った。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた」(ヨハネ1の14

これは初めて読む人にとっては、何のことか分からないであろう。「言は肉となって」というが、肉と言えば 食物の肉を連想するのが大多数であろうから。

これは、永遠の昔から存在して神と等しい存在であったキリスト(このキリストのことをロゴスというギリシャ語で表している)が、肉体を持って、すなわち人間の姿をとってこの世に来られた。

ここで、そのキリストは、神の「独り子」という特別な言い方がなされている。神の子と言うと、聖書ではキリストだけを指す。(*

 

*)旧約聖書には、「神の子」という表現は見られないが、「神の子ら」と訳される複数形の個所は、次のようないくつかの箇所で用いられている。

・…神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て…(創世記62

・…そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い、神の子らは皆、喜びの声をあげた。(ヨブ記 387

 

 新約聖書においても、「神の子となる力(資格、権威)を与えられた。」(ヨハネ1の12)とあるが、原文は、テクナ セウー tekna theou  であり(神の子供たち)であり、「神の子」 ではない。

 この点では、新改訳が次のように「子ども」と訳して、神の子とは違うことを示している。日本語には、複数形がないので、この訳では、神の子 とは違うと示せても、複数かどうかはわからない。

…神の子どもとされる特権をお与えになった。 (新改訳)

 英訳では、神の子 と単数に訳しているのは皆無であり、次のように、「神の子どもたち」を意味する次のいずれかに訳して、キリストのみが、神の子 であり、キリスト信徒は 神の子 でなく、神の子どもたち なのだ、ということを明確化している。

 

the sons of God, (KJV)

he gave the right to become children of God. ( NLT)

 

 日本語では べつに大した違いはないようにみえるが、聖書において、神の子とは神と同質、同じ本質をもっている御方という特別な意味があり、神の子どもたち  というのは、神を信じるようになった人たちのことを意味するということを はっきりと区別する必要があるからである。

 

 ヨハネ福音書の最後にも、全体の締めくくりとして、次のように記されている。

 

…これらのことが書かれたのは、あなた方がイエスを神の子メシアであることを信じるためであり、信じて (永遠の)イエスの名によって命を得るためである。

        (ヨハネ2031)。

 

  これは、イエスが神の子、すなわち神と同じ本質であるということを信じることで、永遠の命が与えられるというほどに、決定的には重要なことであり、 たんに神から生れた 神のこどもたち というのとは 、全く意味が異なるのがこうした記述からも明確である。(*

 

*)ある新興宗教では、「人間みな神の子」と教えているし、一般的にも、神が創造したのだから、なんとなく、人間は神の子なのだと、思っている人たちもいる。しかし、たんに神が創造したから神の子 というのなら、犬やネコなどの動物や植物もみな、神の子ということになってしまう。

  聖書においては、人間は、自然のままでは、「神の子ども」 と言われていない。

 それは、人は父なる神にたえず背いているからであって、そこから自分がいかに愛と真実の状態からかけ離れているかを知り(そのことが罪を知るという意味)、神に立ち帰って初めて神の子どもとなる。宇宙を創造し、かついまも世界を愛と真実によって支配し、それゆえにその神に立ち帰る者に赦しを与える神を信じるようになって初めて 神の子ども となる。

 

 このように、聖書においては、神と同じ本質を持った者に「神の子」という表現を用いるので、旧約聖書の重要人物であるモーセでもダビデでもエレミヤなどの旧約聖書の代表的人物でも、彼らが「神の子」だという表現はつかわれてない。

 ヨハネ福音書の1章12節に、「イエスの名を信じる人には、神の子となる資格(力、権威 と訳される)を与える」とあるが、この場合の原語は、神の子供 という複数形。原語が違う。

 ここではそれを強調して「独り子」というふうに特に書いてある。そしてそのキリストの栄光は「恵みと真理(真実)」に満ちていた と記されている。

 

 そして17節、それがもう一度繰り返されている。

…律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエスキリストを通して初めて現れた。

この繰り返しは、そのことの重要性のゆえである。

この2つのとくに重要な言葉はどのように用いられて、聖書ではどんな意味なのであろうか。

「恵み」は普通の意味では、いろんな良い事を含む。例えば、辞書には、@ めぐむこと。なさけをかけること。A あわれんで金品をやること。ほどこし などと説明されている。

 讃美歌85番にある「主の恵みは 浜の真砂…」というときには、日々与えられている数知れない恵みを含んでいる。

 すなわち、手足が動く、みえる、聞こえる、住む家がある、食物がある、家族や周囲の人々に支えられ交流が与えられている、さらにそうしたことを可能とするように脳のはたらきも保たれている、神経伝達も正常に働いている。

 11つのもの、家にある、全てのものも恵み。もし重い病気になったら、家にあるものはほとんどすべて使えなくなる。健康が保たれているからこそ、家にあるすべてのもの、私たちの家にもいろんなものがある。それが使える。これも恵み。

 それを作ってくれた人たちも恵み。お米、ご飯も食べることができる。農業の人は私の親族にも専業農家の人がいるが、忙しい時期には、朝から夜までずっと働いている。そういう人たちの作った産物がお米、ご飯また、野菜などであるが、そういう農業や漁業関係の方々のはたらきで私たちの食卓がなりたっている。

 そして、そのような農業や漁業、林業などの仕事は、太陽の光がなければ成り立たない。日光のエネルギーにより、光合成でそれらの植物に関する資源は作られているからである。

 魚も、太陽のエネルギーによって 植物プランクトンが増殖し、動物プランクトンが食べ、さらにそれらを小さい魚が食べ…というように大きなつながりがある。

 そのもとは、緑色プランクトンの光合成にある。それゆえ、魚類も恵みであり、それらのもとになる太陽も大いなる恵みである。

 そしてそれらすべては全能の神の創造物であるゆえ、すべてが神からの恵みということになる。

 このようなことは、説明すれば信仰とかかわりなく子どもでもわかることである。

 しかし、聖書においてはそのような一般的な意味も含みつつも、ただ人間だけがわかる大いなる恵みを中心に据えている。それが、人間の根本問題である正しい道を歩めないということ、罪の赦しであり、そこから与えられる聖霊である。それこそが、恵みの中心的な意味をもっている。

 言い換えると、人間にとって一番奥の深い問題について、恵みという言葉が特に使われている。

その恵みがあって初めて、さきほど歌った賛美(*)にあったように、その恵みによって、この世が晴れてくる。晴れてきて、いろんなことが恵みだとわかってくる。

 

*)御恵のひかりに まことはかがやき 

くもきり消えはて 世は晴れわたれり

よろずのものみな み手よりいずれど 

こよなきみめぐみ 聖徒にゆたけし

 

神のめぐみなければ、気付かなかったこと、身近なさまざまのことに対して、ああ、これも受けている。これも感謝―というようにさまざまのことが、感謝の対象として開けてくる。

神の恵みを受けていないなら、逆になる。これもない、これもない、あの人はあるのに、私は無い、足りない、足りない。不満がいっぱいになる。それこそ数えられないほど。さきほどの讃美歌の言葉を借りるなら、浜の砂のように多くの不満が出てくる。ほかの人を見て、あの人のようにりっぱな家がない。子供がない。いろんなこと。そういうふうに神様の恵みを受けなかったら不満が次から次へと出てくるが、聖書で言うこの恵みを受けると、次々と恵みが増えていく。この世がひらけてくる。

 さきほどあげた讃美歌、

「めぐみのひかりに 真実はかがやき」とある。いろんなものが輝き始める。神様は、このすべての万物に真実を込めている。

 人間はもちろんのこと、周囲の大空や樹木、花々…等々、

神様が真実を込めて創り出している。

 人間は、せっかく神に似たものとして創造されたにもかかわらず、さまざまのサタンの力にひっぱられて悪に堕ちていくことも多いが、その人たちも神様はじっと見つめている。だから私たちは悪の力に引っ張られていると思われる人に対しても、だからこそ祈らなければならない。

 そういう祈りによっては、自分もまた、より一層豊かにされるということになる。

この「くもきりが消えて、この世は晴れる。」このような恵みは,ほかのいかなる手段でも変ることはできない。

 なぜかといえば、人間みんなこのどんなに頭の良い人も家柄がよい、それは関係なしに、また黒人であろうが、白人であろうが、犯罪人であろうが、良い人、みんな関係なくあるのは、自分中心の心。これは罪と言っている。

 罪と言うと、何らかの犯罪を思い出すような言葉なので聖書のいう罪とはかけ離れてしまうことが多い。罪という原語(ギリシャ語)は、ハマルタノーという。

これはギリシャ語は、古代ギリシャの大詩人、ホメロスにも用いられている。私も実際調べたが、そこでは、(矢が)「的を外れる」という意味で用いられている。 それゆえに、罪をおかす(ハマルタノー)、罪(ハマルティア)という言葉の意味は、聖書においては、「神という正しい真実の的を外れた思いや考え」ということになり、あらゆる不純な思い、相手を憎んだり、無関心さえも、神様の愛からはずれているので、罪となる。

 実際にだれかが憎いとか、自分が偉いのだとか、だれかのの物を欲しいとかとの思いがちらりと心に浮かぶなら、そのような思いも罪だということになる。

 悪い人がいたら憎んでも何にもならない。だれかを憎むなら、その憎しみは自分も害を受ける。相手も害を受ける。誰かを憎んでも何の役にも立たない。それよりもその悪い人の心が清くされるようにと祈るなら、自分も清められる。相手にもいつか必要なときに神様が届けてくれると信じる。あるいは、その祈りの心は、そのほか別の人にも届けられる。その人に時が来るまで別の人に届ける。

 それゆえに、祈って無駄だという事は決してない。神様は真実な方であって、愛の方であるゆえ、真実な祈りを無駄に捨てたりはしない。

 恵みとは、英語では、grace、そこから、gracefulという言葉もある。

 このgraceという言葉は、名前にもよくある。あの「大草原の小さな家」のテレビドラマにもグレースという女性が現れる。

 このgrace という言葉は、神様の愛や恵みは本来受けるのにふさわしくない。そうした恵みや愛を受けるのにふさわしくないのに、くださる、と説明されている。

Gods unmerited favor,love or help.

 これは12世紀頃から。さらに 古代フランス語においてはgrace pardon, divine grace(赦し、神の聖なる恵み)という意味で使われていた。(英語の語源辞典による)

 このように、graceという言葉ももともとは、罪の赦しという。本来自分など受けるに値しない者に与えられる神様の善きことを意味していたのがうかがえる。

 キリスト教信仰において、罪の赦しということは福音ーよきおとずれーの根本となっており、それゆえにそのために十字架で死なれたイエスを記念するために、十字架がキリスト教のシンボルとなってきた。

それゆえに、罪などない、自分は今まで正しく生きて来たと思っている間はキリストの福音はわからない。  キリスト教、その教えの表面はわかる。隣人を愛す、弱い人を顧みよ。嘘を言わない…等々キリスト教でなくとも分かる。近くにいる人を大事にしなさいということなら、宗教も持たない人も分かる。友だちをいじめてはいけないーそれはだれでもわかる。

 そのように教えは表面的に分かっても、本当のキリスト信仰の中心は、そうした表面のことがいくらわかったように思っても、キリストの真理は分からない。

「恵み」は、新約聖書のギリシャ語では、charis カリス。これを恵みと日本語では訳する。これは新約聖書の使用例を見ると、圧倒的にパウロに多く使われている。(*

 

*)パウロの手紙には、カリス(恵み)というギリシャ語は全体で80回ほども使われていて、それぞれの手紙の冒頭部分の最後にも、ほとんどいつも「神とキリストからの恵みと平安を祈る」という祈りの言葉が見られる。罪の赦しと、そこから与えられる主の平安が、キリストの最大の弟子としてのパウロの心に常に祈りとしてあったのがうかがえる。

 

 なぜかというと、罪の赦しということが根本的に大事なことだからである。それが聖書における「恵み」の中心にある。根底にある。

だからパウロは信じるだけで罪赦される。十字架にイエス様が私たちの罪の重荷を背負って死んでくださったーそれはローマ書の中心にある。(3章2126節) 私はその聖書の言葉とその短い説明を知って、あるひらめきのようなものが私の魂に入ったのを感じた。それからずっと、今まで変わることはない。

 当時の私の周囲には誰もキリスト信徒はいなかったし、宗教そのものについて語るような人も全く周囲にいなかった。まわりにいたのは、アメリカのベトナム戦争に反対、安保条約に反対といった日本の前途を案じての言動を情熱的に語る友人たちだった。

しかし、そうした議論の根本は無神論だった。そのように、キリスト教的な人は一人もいなかったし、家族、親族、また小中高校、大学を通じてキリスト教のことを語る人は一人も出会わなかった中で、私はただ一冊の本で、この中心にある罪の赦しという事を読んで、神様の聖なる霊でひらめきを与えてくださった。その時から、私はキリストを信じる者になった。

 以後、何が起こってもそのことへの信仰は変わったことがなかった。そういうことで、私の場合は、思いがけないときに突然にしてその信仰が与えられた。これ本当に聖霊の働きとしか言いようがない。

 キリスト教の恵みとは、この罪の赦しにあるということを信仰の出発点において知らされたのだった。

  しかし、「恵み」という言葉の意味は、ふつうはお金や品物を貧しい人にあげる。恵んであげる。気の毒に思う。これは国語大辞典にもそのように説明されている。

 この恵みということの語源、日本語、これは「めぐし」(愛する)という古い言葉。愛というのは中国語からきているが、恵むということは愛するという言葉からきているのがわかる。それから上に立つ人は人々に与える。古くからそういうふうにあったということ。何か物を与える恵んであげる。お恵み頂戴する。何か物をあげるということに重点があったのがうかがえる。

 このように「恵み」と言ってもなんとなく私たち日本人は、お金か物をもらうことだから特別な意味がないように感じてしまう傾向がある。

 けれども、すでに述べたように、英語においては、 恵み grace という言葉のもとの意味は、本来受けるに値しないような善き行為や愛を受けるということ。それからgracefulということばになると、外見での優美さ、美しさ、外側の美しさという意味も付け加えられるようになり、心惹くような美しさという感じが付け加わってきた。

 そういうことで元の意味を知るということは、しばしば重要なことになる。

 次に「まこと」と訳される言葉、これもさっきの「めぐみ」(恵み)とおなじ昔からの日本語。この「まこと」に関しては、真実、あるいは、誠 をあてたりする。この「まこと」ということは、人間の性質に関して真実だ、という意味で、嘘がない、そういう意味で使うことが多い。

 真理というと、大学を連想する人たちもある。それは真理の探究を目指すところと以前はよく言われた。

 しかし、最近はそうした歴史的な状況から大きな変化が生じている。真理の探求ではなく、実学。すぐに儲けになる。企業とかかわる。そういうふうに実業実益ということを非常に重んじられるようになってきた。学生のときからそういうふうに企業を立ち上げたりとか。

 聖書において重視される アレーセイアという言葉は両方の意味を持ってるといえる。この世界の永遠に変わらない真理をも含むとともに、そして心の真実、という意味がとくに重視されている。日本語での「まこと」。そういう意味を持った言葉だということはこの詩編の例を見ても分かる。

 キリストは「まこと」に満ちていた、と記されているが、実際に具体的にどんなのかわかりにくい。

 人間について考えてみれば、人間は決して徹底した真実ではありえない。例えば 約束しても、私も何月までにこれを書いておくりますとかいっても、体の具合が悪くなったり、突然家族の状態。どうしても時間が取れなかったら、できなくなる。手紙には返事を書くのが当たり前とか言われても、たくさん重なってくるととても書けない。実際のところ、誰でも病気になって苦しくなったらその返事もできなくなる。

 また、だれかのために祈るとき、その人が非常に苦しんでいる。ずっと祈りたいがほかの差し迫った仕事もあるし、予定の場所にも行かねばならない、となると祈れない状況になる。その間に、いつのまにか忘れている。ということもある。そのように、人間はどうしても徹底して真実ということはできない。

 このように人間は到底徹底した真実などは持てない存在である。

 しかし、神とキリストだけは徹底した真実の御方であり、真理でもある。科学的真理もまた神様が創造された。神にはこういった真理も満ちている。

 真実、真理を意味するギリシャ語はアレーセイアであるが、これは、旧約聖書のギリシャ語訳(70人訳)においては、詩編(ギリシャ語訳)に特別に多く使われていて、59回。他は2番目がイザヤ書13回。エレミヤ書5回。あとほんのわずか。そのぐらい詩編にはギリシャ語のアレーセイアという言葉が使われていることからもこの言葉の重要性がわかる。

 その用例の一部を次に引用する。

 

・「見よ、あなたは真実を心のうちに求められる。」         (詩編51の6)

・「御手のわざは真実。公正。」(111の7)

・「どうか、あなたの光と真実を送り、私を導いてください。」(43の3)

・「主よ、わたしはあなたのさばきが正しく、あなたが真実をもって、わたしを苦しめられたことを知っている。」(119の75)

 

私たちが苦しむのも、神様の真実によってなのだ、このような驚くような表現もある。それは神様は、本当の愛で真実な御方だからである。

 それは人間の母親の愛とは違う。母親の愛はどうにかして、苦しみがないようにないようにかばおうとする愛。

 神様の愛はしばしば徹底して苦しませる。ハンセン病になった人の内には、足の切断、手は萎えて、しかも全盲、そのうえ、家族からも一般の世界からも隔絶される、という恐ろしい苦しみになった人もいる。

 江戸時代、ローマ帝国の時代の迫害。知れば知るほど、神の愛といっても、頭で考えても分からない。

 だからこそ信じる。たとえ私たちがどんなに考えてもわからなくても、私たちには、それでもなお、そうしたできごとの背後には、神様の愛があると信じるという道を選ぶことができる。

 そうすれば、その信仰によって、神が聖霊を与えて必要な全てのことを、霊的に教えてくださる。それは次のように、主の約束であり、たぶんそうであろうといった推測ではない。

…聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。        (ヨハネ1426より)

 さきほどあげた、詩編119の75「あなたが真実をもって私を苦しめられたことを知っている。」

 ここで「真実」訳されている原語(ヘブライ語)ではエムーナー である。

 これは、私のメールアドレスにemuna として用いているが、この言葉は、アーメン(真実を込めての意味で、 と祈りに用いる)と語源は共通。

 この「恵み」ということが、罪の赦し ということにその中心があるということがわかると、身近ないろんなことも、神のさまざまのよき本質で満ちていることに少しずつ気付いてくる。

 しかも、自分自身の病気や障がい、また事故や災害、また人間関係での苦しみな味わってきたほど この罪の赦しを与えられるときには、このことがいっそうよくわかるように導いてくださる。

 ふつうに元気いっぱいの人間。いろんなことに恵まれて健康。また、家庭家族も、恵まれた人は、なかなかわからない、ということが多い。

 だから神様は苦しいことを与える。さきほど、引用した詩編の言葉「神はその真実をもって私を苦しめた」という意外な言葉も心に入ってくるようになる。

 神は、それまであたりまえとしていたようないろいろのことを奪うことがしばしばで、それによって初めて信仰を持つ人にも目がひらけて世界が新しくなる。

 そのような神の本質としての「恵みと真理(真実)」のことは旧約聖書で、すでにはっきりと書かれている。「憐れみと恵みあり、慈しみと真実の豊かになる神。慈しみを永遠までも与え、罪を赦す御方。」(出エジプト記の34章6〜7節)

 この個所で、冒頭に「主、主」と2回繰り返して強調している。神とは、神とはこういう御方なのだ! と強い調子で語りかけようとする神の愛が感じられるところである。このようにまず神様というのは、憐れみ、愛、慈しみだと。

そして罪を赦すということを第一に書いてある。食物や水が豊かにあるということが第一だと思われるはずだが、罪を赦すということの重要性があらわれている。

 それははるか古い時代からであり、恵みの根本は罪という私たちみんなが日々犯しているその罪の赦しにある。

 罪など犯していないと思う人もいるかもしれないけれども、愛や祈りが足りないという面からみると、だれもがそのような愛のない状態ー罪を持っているということになる。

 この世において、何らかの罪を犯して人々から見下されるようになっても、重い病気で耐えがたい苦しみのとき、また死が確実という状況になったり、さらに無実の罪で独房に入れられたような最悪の状況となっても、なお心から信頼できるのは、人間ではない。人間自体が弱くもろい存在だからである。

  いかなることが生じようとも、どこまでも信頼し続け、信じ続けることのできる対象は、聖書で記されているような愛と永遠の真実をもった神のみ。

 そしてその神が、キリストを二千年前に地上につかわし、だれでもが神の愛と真実が直感的にわかるようにその地上で生きた姿を表してくださったのがキリストであった。

 そして、私たちもただ、そのキリストを信じて、永遠の愛と真実を心から求めることによってその一端をも分かち与えてくださることを信じることができる。

1024日主日礼拝で語った内容を加筆、修正したもの)


 

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リストボタン 集会だより(9月分)

 

 〇九月五日(日)主日礼拝 

  「聖霊の神性」ヨハネ十四・1520

 参加者60名(会場9、スカイプ51名)

 聖霊は学問でわかることではない。イエスの奇跡をみても弟子たちはわからなかった。しかし、イエスを裏切った罪を悔い改め、みんなで祈っているときに聖霊が与えられた。祈りの中で聖霊は与えられる。証を聞いて聖霊が働くとき、目が開かれることがある。聖霊が与えられると文字が読めなくても信じることができる。信じるもの同士が祈りあう、そのときにも与えられる。キリスト者が集まるのは聖霊を受けるために集まるのである。

 

 聖霊について以下のように記されている。「父は別の弁護者を遣わして」とある。この「弁護者」と訳された原語はいろいろの意味をもっているので、助け手、助け主、慰め主、励ます者等々と訳されるが、原語(ギリシャ語)では「パラクレートス」である。その意味はパラ(そばで)カレオー(叫ぶ)であり、ともにいて、この人は罪を赦されているのだと言ってくださる。そこから弁護者とも訳されている。さらに、そばにいてはげまし、慰めの言葉をかけてくださる、ということから、慰め主とか励ます者といった言葉で訳されることもある。

 新改訳、口語訳聖書では「助け主」と訳されている。聖霊はこのようにいろいろと訳されている。

「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」とある。

聖霊は永遠にともにいてくださる。生きたキリストがともにいてくださる。そしてキリストは内にいてくださる。

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」(ヨハネ十五・4)

つながっている、とは内にいてくださる、とどまる、ということである。

 そしてまた、聖霊がわからないことを教えてくださる。突然の苦しみ、悲しみ、神を信じていてもなぜ、そのようなことが起こるのか。それもすべて聖霊によって教えられる。 

「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ十四・26

 どのような苦しい状態になっても、罪を知りその赦しを知らされるとき、それでも神は愛であると知らされる。そしてどのような状態であっても感謝ができる道が示されている。それは、聖霊が働くと謎のような現実の中でその意味が知らされる。

聖霊がすべてを教えられる。苦しみの意味が知らされるのもこの世の現実の矛盾の中からその意味を教えるのが聖霊である。

 聖書の意味、人間関係、すべて聖霊が教えてくれるから、祈って待っていたら教えてくださる。

「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハネ十六・13

聖霊の働きはすべて神の愛から来ている。そしてそれは求めたら与えられる。風のように水のように人のところに届けられる

 

〇九月六日(月)小羊集会「み言葉のために働く」ルカ一・1〜4 

「最初から目撃して御言葉のために働いた人々が」とある。ヨハネもルカも、福音書の初めに神の言葉の重要性を記している。み言葉のために働く、み言葉に仕える、それは神の言葉が神、キリストと同じように人格化されている。 

 イエスは「わたしの内ににとどまれ」と言われた。イエスの言葉の内にとどまれ、と言われたのである。神の言葉がキリストと同じであることが示されている。

「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」(ヨハネ十五・3)

 神のことばを聞くだけで清められるのである。大空や花も神の言葉によって造られたので、見ていると心が清められる

「言葉のために働く」「言葉に仕える」と示されている。

み言葉がはいると、徐々に自分のためではなく、キリストのために生きようとするようになる。

 ルカがあえて「み言葉のために働く」と記したのはそれが重要だったからである。

 ペンテコステで聖霊が注がれたのも、弟子たちがみ言葉のため、キリストのために働くためであった。

 キリストがわたしたちの罪のために十字架で死んで三日目に復活した。それは、イザヤ書で預言されていたことである。このみ言葉のために働くのである。

神を知らされたら、神に仕え、神のために働くようにと、自ずから心が変えられていく。

 花はみことばに命じられて花開いている。人間もそのために造られているが、サタンが入り込んで自分の利益のために生きてしまう弱さがある。

 聖書は作った話ではなく、事実だけが書かれている。そのことが繰り返し強調されているのである。

 

九月十日(金)天宝堂集会 (はり治療院の綱野宅)

 「自然の中に表される神の力」 詩編十八・816 

 非常な苦しみ、死ぬかと思うような苦しみの中から必死に神を呼ぶとき、神は聞いてくださる。

「高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ大水の中から引き上げてくださる。」とある。その大いなる力のことが書かれている。 

 主の怒りは燃え上がるとある。それは悪に対して、燃え上がるのである。悪は滅ぼされないように見える。しかし、神によって啓示された時、神の大きな力が働き、悪が滅ぼされることがわかる。地震、火山、嵐、そこに悪を滅ぼす力が示されているとこの作者は啓示された。

 神の言葉の箱の両側にケルブがいる。神殿の中にある贖罪の場所、そこを見つめているのが翼を持ったケルブである。ケルブは天使のようなもので、聖なる風にのって自由に動かれる。神の力はどこにいても働いてくださる。

 そして、神は周りに闇や雨雲、霧を置かれている。それは無限の神の深淵さを指す。この世の人には神がわからないで覆われている。しかし、啓示があり信じるものには神がおられると信じることができる。

 天空を貫く稲妻、雷鳴、雹、雷の壮大な現象。その力が、悪に対する神の力であると啓示された。

自然界にみなぎっている力は悪を滅ぼす力を象徴しているのである。

 無限に深い闇である海の底はサタンがいるとされていた。そのような海の底でも、神は見られている。

神の力はどこにあっても叫ぶものを救い出してくださるのである。この詩は自然の偉大な力が、悪を滅ぼし苦しみの中から叫ぶものを救って下さる力であることを示している。

 詩編148編ではその大いなる神の力を賛美せよと記されている。

「天の天よ、天の上にある水よ、主を賛美せよ。

地において主を賛美せよ。

海に住む竜よ、深淵よ 

火よ、雹よ、雪よ、霧よ

御言葉を成し遂げる嵐よ

山々よ、すべての丘よ実を結ぶ木よ、

杉の林よ」 自然の力すべてが、救いの御手の力強さを示し、かつ主を賛美するように呼びかけられ、じっさい、私たちが聞く耳をもっていれば、それらも主を賛美してしているのである。

 

〇九月十二日(日)主日礼拝 

「光の勝利と証し」ヨハネ一・5〜8

参加者61名(会場11、スカイプ50名)

 闇は光を「理解しなかった。」この原語の意味は、「カタランバノー」でこの原語は、旧約聖書のギリシャ語訳や新約聖書において、「つかむ」「奪い取る、つかみ取る」「襲いかかる」「得る」という意味で用いられている。つかみ取る、ということから、理解する、の意味にとると、闇は光を理解できなかったとやくされるが、ヨハネ福音書の終わりのほうで、イエスの最後の夕食のときの言葉として、私は「世に勝利している」と言われたことからも、闇の力に対する勝利が言われていると受けとることができる。

 闇は光に追いついて捕らえ、滅ぼそうとする。わたしたちにも闇の力が迫っている。神の愛などないと告げるサタンの誘惑に負けるとき、そこにはあらゆる善きことはない。しかし、神を信じるとき、闇の力に対しての勝利が与えられる

闇がどんなに覆いつくしていても、光は、闇に勝利しているのである。

 イエスは闇の力によって殺された。しかし、復活し、闇に勝利された。

「しかし、勇気を持ちなさい。あなたはすでに勝利している」とイエスは言われた。絶えず、罪を知り、仰ぎ望め、そうすれば救われる、ということを単純に信じる。わたしたちも光が灯され続けているから、信仰も続いている。

「光について証をする」とはどういうことか。あらゆる病の中で、最も恐れられたハンセン病はあらゆるつながりを遮断される。そのような人たちにカトリックの人たちが400年前に治療場所を作った。また、ハンセン病の苦しみの中から光を見出した人がいる。それも闇の力に勝利した光の力である。

 洗礼のヨハネがその光の証をした。わたしたちも、小さいながらも証人として立てられているのである。

 

〇九月十九日(日)主日礼拝 参加者60名(会場10、スカイプ50名)

「光と証し」ヨハネ一・6から9

 ヨハネは神を証しするために来た。わたしたちも神を証しするために生かされている。

人が生まれるのは神によって神を証しするために生まれたのである。

 わたしたちは神の似姿に造られた。そしてすべての人が違うように造られた。無限の広さ、無限の深さ、無限の高さの一部を証するように造られた。

 神様は千差万別に人を造られる。そしてさまざまな障害があっても、病気があっても、困難にあっても、それがなければできない証をすることができる。感謝する心があれば、証となるのである。

 神は一人一人を大切な存在として証するために造られた。

 この世には闇の力が働き、闇の力の証をするように人間を落とし込む。神から託された力を証できず、闇に引っ張られてしまうようになってしまう。

パウロはすべてのことに感謝せよと言われた。それが、証になるからである。いま、与えられていることを、感謝することが、証なのである。

 ヨハネは証をするためにきた。そしてそれは、すべての人に言われている。すべてのことが無限の意味に満ちている。すべての人が日常的に、神の創造物による証しーいかに神の力が壮大で、力あり、かつ美に満ちているか…等々が与えられているのである。

 神様を知らなければ、感謝ではなく、不満が生まれる。しかし神を知らされて赦しを与えられるときすべてが感謝となる。

 この箇所で、このように繰り返し、「証」と記されているのは、わたしたちが神が真実であり清い方であると証しするために生まれたからであり、それが神によって用いられるのである。

 

〇九月二十六日(日)主日礼拝    「まことの光」

 ヨハネ一・9 

参加者53名(会場10名、スカイプ43名)

 光はすべての生命に必要である。

 目が見えない。それは、福祉のない時代、移動できない、働けない、というだけではなく、何らかの「祟りである」と言われ、見下され差別されることが続いてきた。

 盲人の福祉に大きな影響を与えた岩橋武夫(一八九八年〜一九五四年)もそのような苦しみを受けていた。

 若いときに失明し、絶望し死を選ぼうとした。そのとき母が「生きていてくれ」と必死に叫び、どうか生きていてくれと、懇願した。その真実な母の愛に踏みとどまり、生きることを選んだ。しかし治療方法はないと医師に言われた。そのため、目が見えないということを覚悟して生きようとした。盲学校に行き、盲人の世界を知り、それが転機となった。点字を必死で学び英語の聖書を読み始めた。そのとき、以下の箇所が彼に命を与えた。

 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(ヨハネ九・3)

特別な苦しみに出会う。何のために起こったのか。それは、その悲劇、苦しみをとおして神の栄光が表されるためである。まわりの人々は、盲目になったのは、先祖の祟りであると見下して、差別する。しかし、神の言葉はそこに革命を与える。何のために目が見えなくなったか。それがやっとわかり、永続的な力が与えられた。

「イエスは言われた。『わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。』」(ヨハネ九・39

 見える、わかっている、と思う人が、実は見えていない。律法学者やパリサイ派の人はわかっている、と思うところから傲慢になっていた。

 命の光とは何か。苦しみに出会っても、そこに意味があるのだと、受け取る。命の光がそうさせる。

福祉のための法律ができたのは、この岩橋武夫の尽力によるところが大きかった。そしてそれは、一言のみ言葉によって、立たされたからであった。

 神の言葉を受けたら闇の中で輝く。この世には光はない。イエスは「あなた方は世の光である」と言われた。

 ハンセン病が重度になると、目が見えなくなり、家族からも断絶され、手も動かなくなり下肢も切断となることもある。そのようにありとあらゆる闇と苦しみが襲いかかる中にでも、キリストの命の光を受けるとき、輝くことができる。そのことをそのような方々は証しつつ、生き抜いてこられたのだった。

 

 


リストボタンことば

 

〇たえず新たにされるよき力は、ある大きな目的のためにするはたらきから生れる。

 そして、その場合にのみ、人々からも適切な助けが与えられる。(ヒルティ「幸福論第一部」)

・ キリスト者にとって、ある大きな目的とは、神の国である。 それ以上に大いなる目的はない。

 神の国とはあらゆるよきことの満ちた状態であり、愛と真実の神の御支配そのものであり、それがなされるようにとの祈りやそれに伴う何らかのことーいかに小さなことであっても、そのことを目指すことこそが、大きな目的を持つことになる。

 キリスト教信仰とは、無学な人、罪犯した人、また病気や障がい、年齢、民族や生れつきなどいっさいにかかわらず、ただ愛の神、全能の神とキリストを信じるだけで、この大きな目的を与えられるということはとても感謝なことである。

 

〇苦しむことがなければ、我々の善はすべて、すぐに散ってしまう花にすぎない。

苦難あってはじめてそれは熟して実となり、外観が実質となる。(同上)

 

  苦しむことなければ、祈りは深くならない。祈りなければ、主は近づいてくださらない。そして私たちに、本当の力、この世の流れに流されていかない力を与えてくださるのは神であり、その神が実をもたらしてくださる。

 私はぶどうの木、私につながっている者は豊かに実を結ぶ、と主が言われたとおりである。

 

「野の花」への以前の投稿から

 

@日溜まりは愛なりどこも暖か

 これは、神様の愛を受けるほどに、どこにあっても日溜まりだという よき実感が伝わってくる。

とくにこれは、からだの動かない、あるいは動かすのが不自由な方々には、とくにあてはまる。

玉木愛子さんという ハンセン病の重症の方ー全盲となり、足も切断、、手もなえて動かない…という 最重度の症状となって、皮膚の神経はみなだめになって、ただ、耳の穴だけは 温かみを感じるとのことで、 日があたる自室のまど近くにいざりよって、そこで 耳に光を受けてやっと冬にもとどく太陽のあたたかさを感じるといったことを書いてあったのを思いだした。

 そのような方にも 神様の愛が 注がれたゆえに、 玉木さんはそのような 闇にあってもなお、神様の愛というひだまりにとどまり続けることができたのを、彼女の文から窺い知ることができたのだった。

 

A花びらの中に祈りの旋律あり

 

 ・私たちが、心の目を開いて周囲の自然を見るとき、さまざまのものが、祈りの旋律となって響いてくる。

 済んだ青空に浮かぶ雲、それは刻々と形や色合いが変化していき、ふくらんだり、小さくなって消えたり、またこまかいすじ状の雲あり、むくむくと起き上がるような雲あり…そうした雲の姿もまた、神の愛がこめられていて、それゆえに、そこには主の我々に向けた祈りがあり、響きとなり、旋律となって私たちの心に届いてくる。

(@Aとも東京・宮武佳枝作)

 


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リストボタン報告 

11月7日(日)の13時〜14時まで、眉山のキリスト教霊園にて、去る二月に召された船井康弘兄の納骨式が行なわれました。

 従来は、県下の多くの教会の方々百名ほどもが集まる合同記念礼拝が行なわれてきたのですが、去年、今年もコロナの感染の恐れがあり、中止となっていました。 けれども、ようやく感染も下火となってきたので、ご両家の方々が参加することができて感謝でした。

 まだ、コロナの警戒を緩めることはできない状況ですが、船井兄のご親族は、遠く茨城県や高知、神奈川県から4名が参加されました。

 また、この日には、2019年5月に召された垣塚千代子姉のご遺族9名も、大阪府高槻市から、垣塚姉の記念にと参加されました。

 なお、船井兄の奥様の万亀子姉は、2015年2月に召されましたが、船井姉と垣塚姉は、徳島聖書キリスト集会の最も初期からの集会のメンバーとして多くのはたらきをしてくださいました。

 その日は、秋空のさわやかな青空の広がるなか、樹木に囲まれた霊園にて、集会からは7名が、眉山の霊園まで集まり、ともに記念礼拝を持つことができて感謝でした。


 

リストボタンお知らせ

〇杣友博子姉が召されました。 118日の午前11時に自宅で召されたとの連絡を、御長男から受けました。

杣友姉(*)は、香川県出身で、私の前の集会代表の杣友豊市さんの三男の方と結婚され、集会の奏楽も担当され、長い年月にわたって徳島聖書キリスト集会において多くの集会員の方々にとってよき友であり、また相談相手となってくださったのでした。

*)杣友博子さん(旧姓 大西)は、ハンセン病の患者のために若きときから40年を越えて働かれたキリスト者の女医、林富美子(旧姓大西)の親族であり、子どものときからの関わりをうかがったことがある。なお、富美子の夫は、やはりハンセン病患者のために生涯を捧げた林文雄で、新教出版社から四百頁を越える詳しい伝記が出版されていて、富美子のこと、結婚に関することは、その中に30頁ほどを費やしてかなり詳しく記されている。この伝記によってハンセン病の方々のためにさまざまの困難の中、いかに林夫妻が、献身的に尽くしたかに、私は心動かされた。

当時の主日礼拝、夕拝、土曜日集会などは、杣友宅をとくに改修して広くした会場で行なわれていたので、礼拝終了後もいろいろな方々との交流をなされ、女性の信徒の方々は、いろいろなことを博子さんにも話して聞いてもらって慰めやはげましを受けていたようでした。

いろいろとご自分の考えとかを主張することはほとんどなく、他人のやっていることを批判もされず、ただ集会の方々の言われることをじっと聞いておられ、ときどき感じたこと、思っていることなどを控えめにはなされるという姿勢で、そのためにいろいろの方々の心にしずかに博子姉の信仰の心がしみ込んでいったように思われます。

2000年の7月に、家庭の事情から、京都の息子さんご夫妻との同居をされることになり、徳島を離れることになりました。

コロナのために、葬儀は、簡素化して家族4人と大阪、京都などからの数人の教友の方々が会場に集まり、1111日(木)の午後行なわれました。 私はオンラインで、聖書からのメッセージを簡潔に語らせていただきました。

ご遺族の方々に、さらなる主の守りと導きを祈ります。 


 

リストボタン徳島聖書キリスト集会案内