「いのちの水」 2021年12月号  第730号 

暗闇に住む民は大きな光を見、

死の陰に住む者に光が射し込んだ。

                                    (マタイ福音書4の16

 目次

クリスマスの意義

聖書における恵みと感謝

・福音歌手、胡美芳の歩み

・お知らせ  クリスマス集会

元旦礼拝 暗闇に住む民は大きな光を見、

死の陰に住む者に光が射し込んだ。


リストボタンクリスマスの意義

 

 クリスマス(Christmas)は、その文字の表すように、Christ キリストのmass  ミサ、言い換えると、キリストへの礼拝を捧げるときである。

 イエスが、二千年前に生れたことを単に思いだすとか、祝うということではない。

 いまもキリストは、霊的存在として生きて働いておられ、この世のさまざまの闇に住む民への大きな光となり、その闇のきわまるところー死を前にしたような人に対してもその魂に光を射し込ませることができる御方である。

 そのことを、覚えてあらためて私たち自身にそのような命の光を受け取り、そのような光が、日本でも世界でも至るところにある闇にある人々に注がれるようにと祈り願うときでもある。

 私たちの一人一人の心の内に、新たにキリストが生れてくださるようにと、祈り願うときである。

 使徒パウロは、現在のトルコにある地方に住むキリスト者ーとはいえ、まだ確固たる信仰に至っていない人々に向って語りかけている。

 

…キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいる。          (ガラテヤ書4の19

 古き自分が死んで、自分の内にはキリストが生きていると語った使徒パウロの心は、キリストの心がそのまま反映されているゆえに、キリストの御心もまた、私たちの内に、キリストが形作られるようにと願っておられるのがわかる。

  それは、言い換えると、私たちの心にキリストが新たに生れるということである。

 聖書に記されていることは、単に二千年前とか、イスラエルの国で起こったというだけのことでなく、現代の私たちにおいても、その本質的なことが、霊的な意味をもって起こる。

 イエスは聖霊によってマリアに宿ったと記されている。 そんなことは信じられないという人々が多い。

 しかし、現代の私たちにおいても、聖霊の力によっていろいろな良きことが、私たちの心の内に、新たに生れるのである。

 私自身も、たった一冊の本のわずか一頁にも満たない箇所を読んで、キリスト教信仰へと導かれ、魂の内にまったく新しいものが生れることになったのも、まさしくだれの力でもなく、聖霊という目には見えない力によっていると実感する。

 聖霊によって、新たなものが私たちの内にも生れるという永遠の真理が、イエスが聖霊によって母マリアの胎内に宿ったということから、暗示されているのである。

 そして、御使いは、そのみごもった子供の名前をイエスと名付けよ、と命じた。それはイエスという名前の意味は、主は救い、という意味で、キリストは罪からの救いを与えるために来られたからだった。(マタイ1の21

 私たちの日常は罪で満ちている。

 じっさいに盗んだり人を傷つけたりするという表面的なことだけを、一般では罪というが、聖書においては、心のなかでの思いもすべて含めて、私たちが完全な真実や愛、正義というあるべき姿からはずれていることを罪というのであって、そこから見ると、あらゆる人は、不信実であり、自分中心という罪、他者のための愛、少しでもだれかが善くなるようにとの祈りを著しく欠いている存在でしかない。

 そのような私たち、しかもわずか100年ほどで必ず死に至るし、ちょっとした事故や病気などで死に至る弱い存在でしかない。

 しかし、そこに与えられたのが、イエスであり、その御方によって もう一つの名(本質)が記されている。

 それは、ヘブル語では、インマヌエルーすなわち、「神は我らとともにいてくださる」ということである。

 イエスが生れたこと、そしてそこから現代の私たちにとってもやはりそのままあてはまることは、復活して神と同質となったキリストがいつまでも共にいてくださること、それは肉体の死を越えて共にいてくださることをも意味している。

 すなわち、死んでも天の国(神の国)において、キリストは、その完全な愛と真実、清さをもって私たちとともに永遠にいてくださるということである。

 イエスの誕生に際して、新約聖書の冒頭に記されているこの誕生にかかわる記述は、罪からの救い、聖霊によって新たに生れる、永遠にともにいてくださる主ーといったきわめて重要なことを含んでいる。

 それらは一つ一つ、弱く罪深い人類全体に向けられたよき知らせであり、それゆえに、福音(*)といわれている。

 その良き知らせは、現在も日々伝えられている。身近な植物の姿、大空や雲の動き、また夜の星々の輝き…等々、私たちが霊の耳をすませているときには、それらの自然の数々もまた、神の国からの良き知らせを語り続けている。

*)福音とは、原語のギリシャ語でユウアンゲリオン、ユウは、良い、アンゲリオンは知らせるという意味を持っている。その中国語訳で「福音」と訳された。日本語訳聖書にもその中国語の訳語がそのまま用いられている)

 


 

リストボタン聖書における恵みと感謝ーその中心にあるもの―

 「新約における恵み」について考えたいと思います。

 一般的な用法としては、恵みというと、干ばつのときに雨がふるのも恵み、また親からの愛や配慮も恵みだし、英語や数学の能力がすぐれているならそれも恵み、健康も恵み…等々、日常生活のあらゆることも恵みといえます。

 しかし、聖書が恵みといっているのは、そうした日常的なことも部分的に含むが、恵みという言葉の中心は、そのようなこととは全く別にあります。

 それは、人間の究極的な幸い、言い換えると救いについての言葉なのです。滅びから救いか、は人間にとって決定的に重要なことです。

 滅びとは、なくなること、死ぬことと国語大辞典には説明されているとおり、例えば、ローマ帝国が滅んだとか、江戸幕府が滅んだとは、なくなったことです。

 私たちが滅ぶとは、死んでその存在が消滅すること、なくなってしまうことです。

 聖書における救いとは、死んでもなくならない、言い換えると永遠の命を与えられることです。

 さらに、つきつめていくとき、私たちは、その罪のゆえに、死んでいた、とも記されています。(エフェソ書2の1、5)

 本当によいこと、真実なこと、愛に富むことができなくて、心の奥には、そうすれば自分がほめられるとか評価されるといった自分中心の心があるからで、それは 死んでいたような状態だからです。

 滅ぶことはない状態、それは救いであり、永遠の命を与えられている状態です。

 そのために、ヨハネによる福音書の最後の部分には、次ぎのようなことが書かれています。

 

… これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」とあります。(ヨハネ福音書203031

 

 無限大の愛なる神が、神の子イエスを十字架につけ、計り知れない私たちの罪を赦してくださったという、大いなる恵みを、幼な子のように信じる者は救われるー言い換えれば、滅びないもの、永遠の命を与えられるのです。

  私たちが救われるのは、すでに引用したヨハネ福音書の最後の箇所だけでなく、聖書に繰り返し記されているとおり、キリストの十字架は私たちの罪の赦しのためであると信じて、罪の赦しを受けることが救いであり、そこからさらに、救われた者がさらに求めることによって、聖霊が与えられ、永遠の命(神の命)が与えられ、滅びるものにならずに、いつまでも存在するー永遠の命が与えられるのがわかります。

 イエスの前に表れたバプテスマのヨハネも「私は水で洗礼を授ける」が、神の示しによって「イエスは、聖霊によって洗礼を授ける人である」と証ししました。

 さらに、使徒言行録の1章の初めには復活したイエスが40日間弟子たちの間に現れ、「…父の約束されたものを待ちなさい。

あなた方はまもなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」とただ一言命じたとあります。「聖霊」を授けることが言われていて、聖書的根拠ははっきりしています。

 十字架のキリストによって罪赦されたと信じるだけで、罪は除かれて清くされ、神との霊的な交わりが与えられ、さらに祈りのうちに待ち望むことによって聖霊を与えられる。

 ペテロやヨハネたちは漁師であって、学問も何もなかった人たちでした。しかし、救いを与えられた。それはただイエスを神の子と信じる信仰によるものであった―これは明らかなことです。学問や経験を積んだらわかるのではなく、幼な子のように、キリストは、私たちの罪のために死んでくださったと信じて救われるのです。信じた後、さらに「求めよ、そうすれば与えられる」との御言葉により、聖霊が与えられる。

 

恵み という言葉について

「恵み」、恵まれる、など関連する言葉は、旧約聖書では、200回余り見られ、その原語は、多くのヘブル語が用いられています。内訳は「恵み」が172回、「恵む」が3回、「恵まれ」が27回、「恵もう」が8回です。

 また、それに対する原語(ヘブル語)は、祝福するという意味で多く用いられる、バーラクとその関連語が約30回ほど、ほかに、ゲムール2回、ヘセド(慈しみと訳される)16回、ハーナン(あわれむ)というヘブル語の関連語は、50回ほど。このように多くのヘブル語が、「恵み、恵む」などと訳されています。

 サムエルの母ハンナの名前もこのハーナン(憐れむ)に由来する言葉で、この語に、ヤハウェの省略形である イォ が付加してれから、イォハーナン→ヨハネという人名となっています。これは、「ヤハウェは憐れみ」という意味であり、英語では ジョン John またはジェイン、 フランス語でジャン、ドイツ語で ヨハン、ヨハンナ等々 多くの人名として用いられ、世界でヨハネという名前とともに、人々の無意識のなかで、ヤハウェは憐れみである、という言葉が使われていることになります。

 また、時間の数え方も西暦が世界的に通用しますが、これもキリストの誕生をもとにしていて、ここにも、神の力の不思議なはたらきがあります。

 ともあれ、このように沢山のヘブル語が、みな「恵み」と訳されているのです。

 これに対して新約聖書は、圧倒的に一つの単語なんです。「カリス charis」という語です。この言葉に焦点が当てられているのが分かります。この「恵み」という言葉は、パウロ書簡以外の福音書や使徒言行録、ペテロの手紙等、全部合わせて55回位ですが、パウロ書簡だけで約100回ほども使われています。圧倒的に多いわけです。これを見てもわかりますが、新約の中心には福音書や使徒言行録がありそれぞれ啓示を受けて書かれたので、罪からの救い、十字架、復活、聖霊…等々幅広く、かつ深く記されています。

 その内、とくに永遠の命(神の命)に光をあてたのがヨハネ福音書であり、とくに救いは何によるかということに力点が置かれた啓示を豊かに受けて書いたのがパウロだったのです。

 

…人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっているが、ただキリスト・イエスによるあがないの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる。(ローマ3の24

…私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、いまの恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光を受ける希望を喜んでいる。           (ローマ5の1〜2)

 

 また、エフェソ1章7節に「私たちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」とあります。

 これらの箇所は、新約聖書における「恵み」とは何かが、明確に記されています。

 それは、神の御子が十字架によって死んでくださったことによって私たちの罪を贖ってくださった、それを信じるだけで赦されるということです。ここに恵みの中心があります。

  旧約聖書の場合には、キリストによる罪の赦しという確実な恵みがまだ与えられていなかったゆえに、多くのヘブル語が恵みを意味する語として使われているのです。そしてその恵みは、単にさまざまの良きことを意味していることが、例えば次のような箇所をみてもわかります。

 

…ヤベヅはイスラエルの神に叫んで言った、「どうか、あなたが豊かにわたしを恵み、わたしの国境を広げ、あなたの手がわたしとともにあって、わたしを災から免れさせ、苦しみをうけさせられないように」

 

 新約聖書においては、キリストの言行録ともいうべき福音書や、使徒たちの宣教をしるした使徒言行録以外には、圧倒的にパウロ書簡が多いのも、彼の受けた啓示の重要性を示しています。

 そしてそれらは、キリストの十字架による罪の赦しこそが、恵みの中心として記されています。

 それゆえに、パウロ書簡の冒頭部分には、ほとんどの場合、「父なる神と主イエスからの恵みと平和があるように。」という祈りが記されています。

 この恵みとは、罪の赦しという根本的に重要なことを意味していて、そこからさまざまの良きことーとくに主にある平和(平安)を祈り願っているパウロの姿が浮かび上がってきます。

 キリストも、最後の夕食のときに、弟子たちに残していくものは、主にある平和、平安であることを、次のように明確に語っています。

 

…これらのことを話したのは、あなた方が私によって平和を得るためである。              (ヨハネ1633

…私は平安をあなた方に残し、私の平和を与える。これを、世が与えるように与えるのではない。(ヨハネ1427

 

 使徒パウロが、その書簡の最初の部分に、ほとんど常に、「神とキリストからの恵みと平和(平安)があるように。」との祈りを記しているのも、こうした重要性からであって、決して単なる挨拶ではないのがわかります。

 

 旧約聖書のとくに出エジプト記や申命記などの律法を多く記したところでは、「こうしなさい、ああしなさい」と言います。「人を殺してはならない、父母を敬え、…あなたの神、主を愛し、その掟と戒めを守りなさい」等々、語るべきことを、モーセにはっきり啓示されました。

 現代においては、例えば、戦争してはいけない、たった一人でも殺してはいけない。これは律法ではありますが、福音ではありません。

 律法によっては人は救われません。人はたえず神の真実や愛に背くことを心に思ったり、その言動にでてしまいます。また、ときには一生取り返しのつかない罪を犯してしまう者です。悔い改めても「罪」は残るのです。

「罪の赦し」がなければ、人は真に生きることはできません。「キリストが十字架での処刑という特別な苦しみを受けて死なれた、それは、私たちの罪のあがないのため、罪の赦しのためであった」

 この事を幼な子のように信じるだけで、永遠の命が与えられる。「信じれば救われる」。人は勉強、研究、あるいは経験をいくら重ねても罪の赦しは与えられない。

 私自身、過去をふりかえってみて、個人的に 罪だったとわかることが多くあります。私は、1945年の敗戦後数カ月して、中国の奉天で生まれました。

 敗戦になり、すぐに帰国することもできず、1年近く中国での苦しい生活の後、両親は、生れたばかりの私と二歳年上の姉を伴って命からがら帰国しました。

 敗戦時の中国で、乳飲み子をかかえての逃避行がいかにたいへんな生活であったか、その苦しみを深く理解しないまま、母は50歳で病死。今から思えば、私を産んだためにどれほどか苦労したかを思い、母になすべきことを本当にしていなかったことを思い知らされてきたわけです。

 父に対しても十分なことができなかったのを思います。父は晩年に聖公会の牧師から洗礼を受けてキリスト者になりましたが、その父に対してもなすべきことがもっともっといろいろあったと思われます。

 同じように仕事の同僚や家族に対しても、自分の罪をいくらでも思い出されます。 日々罪の赦しを受けなければ、人は真に生きていけません。

 私は、大学4年の5月の終わりごろに大学の北通りにある古書店のひとつで、一冊の本を立ち読みしたことから、突然キリスト者となりました。矢内原忠雄の小著のロマ書の3章に関する罪の赦しに関する記述のある頁の一言、一文によって救われました。

  それは本当に見えざる御手が私に働いてくださった、あるいは聖霊が働いたとしか言いようのない経験だったのです。

 そして、私は、神様から受けた恵み、ー罪の赦しと、そこから無限の深みと広がりのある聖なる霊をわずかではあっても、与えられました。それによってキリストを単なる偉人でなく、神と同質であり、永遠の昔から存在していて、神とともに万物創造された御方であることを信じるように導かれたのです。

 讃美歌217の「あまつましみず」とは、その聖霊を歌った賛美です。そしてその3節に、「…注げ命のましみず…」とあるように、私もまた、福音をどうにかして他に伝えたいーそういう神様への感謝の気持ちが湧いて来ました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」とあります(ヨハネによる福音書16章33節)。

 私たちはイエスさまの「恵み」をその満ち溢れている中からいただくのです。イエスさまの生き様は目に見える形で示されています。それで誰でも知ることができ、信じることができます。それで「この人を見よ」と言っているのです。

 私たちは信仰によってこの神の栄光を豊かに与えられると約束されています。これも、十字架による罪の赦しとともに、大いなる「恵み」です。そしてこの恵みには「復活」のことも入っているのです。災害や事故、事件、老衰や病気…どのような理由で死んでも、永遠の命を持つものとして復活させていただける。

 人間の体は、死んで土に埋葬されるとバクテリアによって分解され、気体となって大気中に飛び去っていき、また地中に溶け込むものものあり、骨はかなりの期間、残っていても、徐々に大気中の二酸化炭素が雨水にとけた弱酸の炭酸によって溶け、土に溶け込んでいきます。しかし、それと人間の霊とは関係はないのです。 火葬の場合の遺骨も、高温で長時間燃やせば灰になります。大事なのは遺骨ではありません。主なる神は、いかなるものも滅ぼせない、永遠になくならないものを与える、ただで与えると言われているのです。

 火葬の場合は、骨や体内にも含まれているミネラル物質以外は、すみやかにさまざまの気体となって大気中に飛び去っていきます。骨は、日本では若干の部分が骨として残る程度に、加熱を止めているけれど、外国では全部灰になるまで加熱する国もあります。

このような物質的な死後のものにこだわることは、意味のないことです。みな大気中や地中にと、自然の法則に従って拡散していくだけのことなのです。

 罪の赦しという大いなる恵みを受け、さらに復活の命、永遠の命を受けるということは、そうした目に見える肉体の死の残りのものにはこだわらなくなっていきます。

 罪が贖われ復活の命を与えられると「患難をも喜ぶ」(ローマ5の3)(*)、とパウロは言っています。人間の誇りなど空しいものですが、イエス・キリストの福音はどんな時でも希望を与えてくれる―この事をロマ書ではくり返し語っています。

 

*)原語のカウカオマイ は、日本語では「誇る、喜ぶ」 などと訳される。例えばすでに引用したロマ書5の3は、 日本語訳や英訳では、誇る でなく、喜ぶ と訳されているのもいろいろあります。日本語で誇る というと聖書には見られないような、自慢する、というニュアンスになります。

 しかし、この原語の意味するところは、このような重要な箇所においては、強い積極的な喜びを表していると受けとるのが適切と言えます。それゆえに、口語訳、新改訳、またいろいろな英訳などもそのように喜ぶと訳しているところです。 日本語で「誇る」 という語は 自慢する、得意になる というニュアンスを持っていて、とても主にある恵みを受けた心の姿を適切に表しているとは言えないのです。

 

・患難さえ喜ぶ(口語訳、新改訳)英訳でもrejoice「喜ぶ」と訳しているものも多い。

we also rejoice in our sufferings, (NIV)

Let us exult in our hardships, (Rom 5:3 NJB)  (NJB)

We can rejoice when we run into problems and trials (NLT)

 

 それからもう一つ。同じローマ書3章24節に「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」とあります。ただ神の恵みによる贖いという事。労苦もお金も何も要らない、この罪の赦しをただ信じるだけで赦される。

 私は、さきにも述べたように、まさこの前後の箇所をほんのわずかな文で書いてあったことを立ち読みして、救われたのです。闇と混沌の心の中に、突然、神様が、聖霊の風に乗って来てくださった。

 そして「光あれ!」と言われた。この恵みの根本である十字架の贖い―十字架上から呼びかけて下さる「光あれ」の一言をいただいた。

 そこから私は、それ以前に私に与えられていた山を代表とする自然のさまざまの姿、またプラトン哲学の世界をあらためて見直していくとき、そこには以前とはまた別の世界が開けてきたのです。

 風が木々に吹きつけることで奏でられる音楽、谷川や海の水の奏でる音、星々の輝きや、大空の青い広がりや雲の一つ一つ、そしてまた木々の葉一枚一枚、石ころの一つ一つの中にも、神の愛が込められているということに気付かされていったのです。

 私の大学時代に学んだ生化学もまた、生物体のなかに行なわれている驚くべき化学反応、仕組みの一部を知らせてくれましたが、それらもまた、神の全能と計り知れない御計画の一端を感じらるためにも大きな意味があったのを知らされ、それらはみなキリストを信じることへの準備でもあったことを知らされたのです。

 老年になると、若き日には考えたことのなかったような苦しい事態に直面する人たちは非常に多いと思われます。

 自分や家族が難しい病、あるいは死に至る病となったときには、健康なときには思いもよらなかった苦しみや悲しみ、重荷が降りかかってくるからです。

 しかし、そのような重く暗い状況になったとしても、神は聖書の巻頭に記されているように、闇のなかに光あれ!と言われて、いかなる闇にも光をあたえてくださることを信じて歩むことが与えられています。

 耐えられないような状況にあっても、なおそこで神は、耐えられない試練にはあわせられない、必ず逃れの道をそなえてくださる、と信じることも与えられています。

 生きているうちにそうした逃れの道が与えられることも多いのですが、最終的には、死ということ、そこから通じている復活、そして永遠の命がその究極的な逃れの道と言えます。

 こうした老年における逃れの道を信じることができるーそれもその出発点は、キリストの十字架によって私たちの罪が赦されたと信じる恵みにあったのです。

 

 …神は真実な方です。

 あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださる。(Tコリント 1013

 


 

リストボタン福音歌手 胡美芳の歩み

 

 福音歌手(*)とは、キリストの福音を伝えるための活動として讃美歌、聖歌やそれに類する内容の歌を歌っている歌手。 現在では、小坂忠、岩淵まこと、女性では、森祐理、本田路津子、久米小百合、…等々の人たちが福音歌手として知られているし、全盲の新垣勉や北田康広もそうした分類に含まれる。

 そのうち、森祐理や北田康広の方々は、いずれも複数回、徳島での公演をされ、私どもの徳島聖書キリスト集会の礼拝にも参加して、ともに賛美していただいたことがある。

 

*)英語では、ゴスペルシンガーというが、ゴスペルとは、福音という意味。(なお、単にゴスペルが好きで歌っている人たちの中には、キリスト教の信徒ではなく、福音とは無関係に歌っている人たちも多い。)

 Gospel とは 古代英語では、godspelであり、 god(ゴード と長音) は、good の古い形 + spel story, message を意味する。それゆえ、ゴスペルとは、キリストにかかわる良きメッセージ、良き音ずれ という意味で、中国語では「福音」と訳され、その言葉は、そのまま日本でも定着した)

 

 ここでは、そうした福音歌手とは相当異なる歩みをした中国人の福音歌手 胡美芳についての紹介である。

 胡美芳は、徳島市で行なわれてきた、市民クリスマスという多くの教会合同の行事で第一回の講師として参加し、さらにその後も二回参加したことがあり、その三回目のときには、私が手話合唱団の指揮をしていたときであったので、間近にその話しや賛美を聞いたたともあり、記憶に残っている。

 胡美芳の特異性、それは太平洋戦争の動乱期、日本と中国との関係が険悪となり、日本が満州事変を起こしていらい15年に及ぶ日中戦争、そして太平洋戦争という日本の歴史上で最大の戦争を引き起こした時期にあって、中国と日本の両国を、日本の敵国となったためにいちじるしく困難になった生活をしつつ、後に歌謡曲の歌手として活動し、その後、48歳でキリスト者となってから、福音歌手として活動をはじめた人である。

  12月ーそれは太平洋戦争、第二次世界大戦のことを思い起こす月である。その戦争のために、中国や東南アジア、そして日本などに広大な地域において、おびただしい人たちが犠牲となった。死者、あるいは障がい者や病気となって生涯苦しみ続けた人たちは、数千万人に及ぶであろうし、またその後の家族の生活にも重大な重荷がふりかかってきた人たちがいる。

 ここでは、中国人としてじっさいにその困難な時期にあって体験したことが記されていて、中国と日本の双方にいて生きた人でなければ書けないことが記されている。あの悲惨な大戦争に起こっていたことのほんの一端であるけれども、私たちは戦争がどのようなことを生み出すか、を知って、そこからどんなことがあっても戦争にならないようにしなければならないという気持ちを強めることができる。

 そして、そのような闇の力が横行する状況にあっても、神はその選んだ人をキリスト者となし、福音を宣べ伝えさせ、神のわざを証しさせることの実例として受けとることができる。

 

 1922年、胡美芳の中国人の両親が、中国での生活の貧しさ、困難さから脱却するために、日本に誰も知り合いもなくやってきて、和歌山で住むようになり、胡美芳は、その地で1926年に生れた。

 彼女の幼少期から成人するにかけて、日本の中国との関係が悪化し、満州事変から日中戦争、そして太平洋戦争と日中関係は悪化の一途をたどっていった。

 胡美芳は、そのころに生れ、困難な中を生きることになった。5歳のときに、1931年の満州事変といわれる戦争がはじまり、中国人は敵国人となったゆえ、幼少時から周囲の子供によって石を投げられるなど、いじめをうけることになった。

 父親は、和歌山で、理髪店をいとなみそれが成功して生活は軌道にのっていたが、その父が中国人の交流のための集会などをやっていたために、憲兵に捕らわれて拷問されたり、その後さらにはその集会所が破壊されるなど、生活の困難となる状況となり、中国人ということで差別やいじめも受けた。

 そのような中で、進学も困難と思われていたが、よき教師にも出会い、入試を受けることができた。 中国人は入学は困難と思われたが、校長がよい人で、とくに敵国人であったが入学許可された。それが和歌山の修徳高等女学校(現在の開智高校)。しかし、日増しに中国人への敵意は激しくなり、家族は、祖国中国に帰ることになる。

 しかし、中国の上海に帰ったが、日中戦争は激しくなり、中国人を差別、侮蔑することが顕著となった。凍りつくような寒い朝、路上に子供が餓死して転がっているのをよく見るようになった。それは日本軍に家を破壊され、親は殺され、孤児となり、食べ物も何もなくなって路上にさまよい、行くところなく、寒さで凍死したのだった。そして野良犬に食われている。

 またあるときは、夜中に日本兵に起こされ、スパイの捜索が行なわれた。もし逃げてきたものをかくまったりすると、全員死刑だと言われた。また、ある日は、家の近くの広場で日本兵によって見せしめの処刑がなされた。それは12歳ほどの少年二人、貧しさのあまり、日本軍の駐屯地から電線を盗み出して見つかり、捕らえられた。

 二人は自分で穴を掘らされ、そこで両手を後ろ手に縛られてその穴の前で日本刀で首を切られてその穴に投げ込まれた。あるいは人力車のような乗り物に日本兵が乗って、おりても賃金払わないで、その人力車を蹴り倒し、路上で、ひざまずいて両手をあわせて賃金を払ってくれと哀願する車夫をそのまま放置…。

 またあるときは、上海の共同租界地域の中の日本租界(日本人街)において、銀行で中国人の男が数人、膝で中腰のまま座らされ、その前で、守衛のような男が棒をもって立って座らされている男たちを監視していた。そして日本人の客がまわりを取り囲んで、女もその子供たちもあざ笑っている。

 中国人の男たちはきちんとして身なりをした真面目でよい人たちだ。なんでも、それは並んでいたのに、その銀行にお金の引き出しなどで来て列に並んで待っていたところ、日本人の女が列に割り込んできたので、注意したところ、その女が「何よ、支那人のくせに! 」と行ってわめいたらしい。 そして、「いやねぇ、支那人のくせに」とか「本当、生意気なんだから。思いっきり、こらしめてやるといいのよ」等々、中国人の男を罵倒していた。

 そのひどい状況にみかねて、別の中国人の男たちが、座らされてののしられている中国人たちをかばったので、いっそうの騒ぎとなっていた。 

 胡美芳は、大の男をみんなの前で恥ずかしめ、笑い物にする日本人たちの心が赦せなかった。…しかし、何も言うことができず、じっと唇をかみしめるしかなかった。…。

 その後、1943年になって、当時有名だった 李香蘭(日本人だが、当時は、中国人とみなされていた。本名は山口淑子)の上海での公演があった。

 指揮者は、服部良一という現代でもよく知られている音学家。そのとき、すでに知り合っていた音楽製作にかかわる Sさんが、その服部良一に話して、李香蘭の公演の前座にでることになった。 そこで、胡美芳は、李香蘭にあとで呼ばれて覚えられることになった。

 さらにその後、日劇舞踊団を率いて、東宝映画会社の会長であった渋沢栄一が上海にきて公演。そして、さきに李香蘭との関わりを作ってくれた Sさんは、さらに、その渋沢栄一にも 胡美芳を紹介した。

 そして 渋沢が東京に帰ったときに、胡美芳も上京するので、東京の日劇の舞台で 歌を歌うことをさせてやって欲しいと、Sさんが頼んだところ、渋沢栄一は、機会があったら日本に来なさいと 招いてくれた。

 これが、後の胡美芳の歩む道に大きな変化が生じることになった。

 渋沢栄一は、いまNHKの大河ドラマ「青天を衝け」で放映中の有名な人物で、みずほ銀行、東京商工会議所、理化学研究所、一橋大学、拓殖大学…などの教育機関、東洋紡、 帝国ホテル、等々、設立に関わったのは500社に及ぶという。

 そのような渋沢栄一との関わりが与えられて、その後、中国から東京に来て、渋沢に会い、じっさいに、日本敗戦の色合いのますます濃くなりつつある、1944年の正月公演に、日劇に出演する当時全国的に知られていたエノケン一座の公演の中で歌を歌うという特別な機会が与えられた。…

 こうして、胡美芳にとっては、到底実現しないと思っていたことが現実となり、数日の日本滞在を終えるとふたたび、両親のいる上海に帰った。…

 その後、北京に出て、音楽学校に進んだ。そうした間も戦争はいよいよ日本の敗色の色濃くなり、敗戦となった。…

 その後さまざまの混乱の渦中にあったとき、一人の元日本兵と知り合って結婚することになってその男とともに、日本に行くことになった。しかし、敗戦後の大混乱のなか、中国人が日本に行くことはできない。そこで日本人と偽って、引揚者のなかに紛れ込んで日本に行く計画をしたが、中国人とわかってしまったら、死ぬ覚悟で薬を秘かに持って船に乗るときの検問所に入ったのだった、…

 その後も、いろいろの危ないこともあったが、ようやく1948年4月末に 佐世保に船は着いた。その後も、敗戦直後であり、一般の日本人も生きていくことが困難な状況にあったゆえに、中国からの引揚者たちは一層困窮の度がひどく、胡美芳とその夫は、飢えや心労で仕事もなく、死線をさまようような日々がつづいた。興行一座にやとってもらったが、荷車にのせて道具を女たちがあとから押していく、男たちが交代で引く、…しかしそのような時代であり、その一座も客は入らず、給料もほとんど出ず、食物も大根の葉っぱが少々うかんでいるだけの白湯ゆたいなみそ汁ばかり。宿にも泊まれず…。そんな飢えた一座が町や田舎、さらには山をこえてぞろぞろと行く。ついに病気となり、…。そこで夫は、炭鉱に入ることになった。…しかし、なれない仕事を懸命にやっていたが、落盤事故があり、夫は入院…。

 生活のぎりぎりの状況は続き、そんな中でも、妊娠したが、病院に運ぶこともできず、近所の奥さんが手でひっぱりだす…激しい痛みで大声で叫び声あげた、そうして出てきた赤ちゃんは仮死状態となっていた…という状況だったが、何とか巻きついていたへその緒をとって赤ちゃんは、生き延びた。…そんな状況で 夫婦中も険悪となり…。

 大人が生きるのもたいへんなのに、赤ちゃん二人生れてもう死にたいと思った。 

 その後、赤ちゃんを背負って、上の子供を伴ってたべれる野草、セリを捜しに野原に出たがいっこうに見つからない。 とぼとぼ帰る途中に畑にトマトがなっていた。あまりの飢えと子供のためにと、そのトマトを人がいないのをみまわしたうえで、もぎ取って一口たべさせ、自分もたべた。

 そのとき、「誰だ、泥棒!!」という大きな声。   当時は、トマトひとつ、キュウリひとつも貴重なものでなかなか買うこともできなかった。配給でもそれらは手に入らない状況だった。

 胡美芳は必死になって 見逃してくれ、もう二度としていからと哀願した。その哀れさに、畑の主は、 「ま、ええわ、そのトマトかじってしまったから。しかし今度見つけたらただではおかない、交番に突き出すからな」といって赦してくれた。 

 うまれて始めて浴びた 「泥棒!」との言葉に、私の心は突き刺された。私は胸をかきむしり、のたうち回りたい衝動が襲った。体をふるわせながら、そのかじったトマトを握りつぶした。…

 そこから何とかしてお金をかせがなければ、二度とこんなみじめな思いをするもんか!  という必死の思いがわき起こった。

 そして、二人の幼児を夫に残し、風呂敷堤ひとつもって東京行きの汽車にのった。…

 東京についてその足で、渋沢栄一宅を捜した。以前に、上海で出会って、日劇(*)のエノケンの公演に出してもらったことがあったからである。そこで、再開した 渋沢は 胡美芳の窮状を知って、なんとか東宝の会社の幹部に 世に出られるようにとはからってくれた。また、胡美芳の結婚の仲人までしてもらったとある。(しかし、この結婚は相手に不義があり、長くは続かなかった。)

   *)日劇とは、1933年完成の日本劇場のことで日本の興行界の代表的な施設のひとつであり、紅白歌合戦も何度かここで開催。

 

 渋沢栄一は、すでに述べたように、現在放映中の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公として広く知られるようになり、さらに2024年から、1万円札にも使われることになっているゆえに、国民全体になじみのある人物となろうが、その渋沢の家を胡美芳は、1952年の元日に挨拶に行き、正月料理をいただいたという。その日の渋沢の日記には、「胡美芳君来る、皆でにぎやかの晩飯を食べる。天涯孤独のまま、他国(日本)で心細い部屋借りなどしている彼女は、私の家の家庭的な雰囲気をよろこんでいるらしくみえた」とのくだりがあるという。

 そして、服部良一(*)の日劇での上演に、ディック・ミネ、コロムビア・ローズ、森繁久弥、霧島昇、淡谷のり子らといった有名な歌手たちと共演、さらに島倉千代子が初めてデビューしたころに、胡美芳の前座として島倉が出演…等々、戦後の混乱した時代に、一座の人たちと各地を回って興行に加わったりした。

 そのようないろいろな人たちに助けられ歌手としての道が開け、有名な藤山一郎(**)にもつながりが与えられ、後になって胡美芳が書いた自伝の序文もその藤山一郎が書いている。

 

*)作曲家、作詞家(19071993年)古賀政男らとともに日本作曲家協会や日本レコード大賞の創設にも尽力した。日本の多様な音楽の発展に寄与したとのことで、紫綬褒章、勲三等瑞宝章なども受章。

 

**)藤山一郎(19111993)東京音楽学校(後の東京芸大)を首席で卒業。 東京音楽学校で培った正統な声楽技術・歌唱法・音楽理論と、ハイバリトンの音声を武器にテナーの国民的歌手・流行歌手として活躍。『丘を越えて』『青い山脈』『長崎の鐘』など広く歌われてきた。

 なお、「長崎の鐘」は、キリスト者で医者であり、かつ被爆者であった永井隆の著作名で、それをもとにしてこの「長崎の鐘」という歌が生れた。作詩サトウ・ハチロウ、作曲は古関裕而という広く知られた人たちによる歌で、それを歌った藤山一郎は、当時の歌手として日本の代表的な人物であり、1951年の第一回紅白歌合戦の最後にこの曲を歌った。その後も3回も紅白で歌われる有名な曲となった。永井は、原爆の爆心から700メートルの長崎医大の診察室で被爆し、重症であったが、救護活動につとめた。被爆して1年後には倒れ、病床に伏す生活となり、1951年に死去。

 

 その過程で、キャバレー出演のため、別府に行ったときに泊まったある旅館で、朝、目覚めたときにテーブルの上に置かれていたのが聖書だった。そしてその表紙裏に、旅館経営者の奥さんが書いてあったのが、「信じて動じず、愛して止まず   胡美芳さんへ」という一言だったという。それ以前に、生活の困窮ゆえにあちこち移る間に、複数の男性と離婚、結婚を繰り返し、借金やだまし取られる等々、この世の闇のなかにまきこまれるようなことが多々あった。

 しかし、そうした歩みのなかで、聖書に出会うことになる。しかし、すぐにキリスト者とはならなかった。自分をだまして多額の金を奪い取った男に対しての復讐を考えていたが、その旅館夫妻の特別な好意で何日も宿泊させてもらっているうちに、その旅館の奥さんが、「あなたのために、トイレのなかでも祈っていたら、そしたら御言葉が与えられた」という。

それは、次ぎの言葉だった。

 

…神はあなた方を顧みてくださるのであるから、

自分の思い煩いをいっさい神にゆだねよ。(Tペテロ5の7)

 

 そして、奥さんが言った。「胡さん、神さまが思い煩いをいっさい任せよと言われているのだから、神さまにお任せして…」と言った。

 その奥さんの祈りのなかで示された御言葉の力により、胡美芳は、魂の方向転換をすることができた。

…私の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。そして泣いた。泣きながら私は祈った。

 ー神さま、わかりました。すべてが私の欲から出た罪でした。神さまにすべてをお任せします。

 私がわるいのですから。…」

 欲の恐ろしさをいやというほど、経験した私は、神さまの存在をしっかり信じるようになった。それによってすべての価値観が変わった。私は福音歌手として、人生の向きを一八〇度転換することになった。

 キャバレーで歌うと、若い新入社員くらいのサラリーは一晩で稼いでいたが、新年とともに新しく出直そうと、25年間歌ってきた仕事場をやめた。

 そして讃美歌を歌い、経験を語る(証し)福音歌手へと、第二の人生を歩みだした。 欧米では、福音歌手に対する評価が高く、職業としても立派に成り立つが、日本では、まだまだ讃美歌歌手への理解が低い。

 当然生活が苦しくなる。しかし、なぜかさわやかな喜びに心が満たされる。

 ライトバンに乗って、教会や老人ホーム、身体障がい者施設、刑務所、ハンセン病療養所へと、乙女のように心をはずませて、走り回っている。

 彼女自身述べているように、「ずいぶん回り道をしながら、その旅館経営者夫妻の熱心な祈りに導かれて、7年目にやっと受洗したのだった」。それは、 1974年、48歳のときだった。

 その後、子供たちも成人し、胡 美芳が長く思っていたことーを親子全部の前で告白した。

「じつは長い間、お母さんは、嘘を言ってきたの。お前たちのお父さんと別れたのは、お父さんに裏切られたからだと言ってきたけれど、私のほうが裏切ったの。赦してね…」子供たちは黙って聞いていた。自分が弱いばかりに、愚かなことをしてきてお前たちを悲しませてしまった、と頭を下げた。

 胡美芳は、福音歌手となってから、流行歌を歌うのがつらくなってきたと子供たちにもらしたことがあった。そのことで、子供たちが言った。

…『夜来香』の歌は下手になったけれど、讃美歌を歌うとさすがだと思う、おふくろにはぴったりだよ。でも、『夜来香』は、いわば、泥沼の中の花だ、クリスチャンになるまで、おふくろは泥沼の中で生きてきた。神さまにであって始めて、泥沼の中からポッカリと蓮の花が咲くように、夜の花から朝の光へと今、新しい花が咲いた。それが今のおふくろなんだ。讃美歌が神さまから与えられたものなら、おふくろの、『夜来香』も、神さまから与えられたものだったんだ。」子供たちがそのように自分の過去の歌にも深い意味があったと言ってくれたので、胡美芳は泣いて喜び、また息子や嫁も泣いた。

 胡美芳の弟が、戦前に和歌山での生活から上海に帰って生活していたが、1984年に、45年ぶりに日本に戻ってきた。弟とともに胡 美芳が、かつて生活していた和歌山の家があったところに 行ってみると、古くなって無人となり傾いていたがそのまま存在していた。その付近を見て、弟は、言った。「姉さん、日本はやはり、ぼくたちの祖国なんですね。この道で遊び、あのかどを曲がって小学校へ通ったのだ。日本がぼくたちを育ててくれたんだ。中国が生みの親なら、日本は育ての親です。姉さん、生みの親にも、育ての親にも感謝、ぼくたちは二つの祖国を愛しているんですよね」感極まっていう弟の言葉に私(胡 美芳)は、大きくうなずいた。…

 私たちは戦争にまきこまれ、振り回されてきた。日本から中国、そして日本へと、後ろ髪引かれる思いで海を越えねばならなかった。

 しかし、いま、私は心の底からこう言い切ることができる。偉大なる中国を祖国を持ち、このすばらしい日本を祖国として持てた私は幸せだ、と…。

 この二つの祖国の中での悩んだこと、苦しんだこと、当座はよろこばしいことと思えなかった数々のことも、ふりかえれば、すべてが私のために益となってくれた。

 いまは、イエス・キリストにめぐり合えて、もはや何も悔やむこともない。嘆くこともない。、それよりも、明日に向って、新しい歌をうたっていきたい。

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 ここに長文を引用、紹介したのは、胡美芳の自伝「海路遥かに」(静山社 1985年発行)である。この本は、365頁にもなる本で、こんなに詳しい自伝を書いている歌手というのは他にはいないように思われる。

 なお、途中で注(*)で紹介した藤山一郎は、この本の序文を書いているが、その終わりのところで次のように書いてしめくくっている。

「先年、私は彼女とともに、アメリカのカリフォルニア州やハワイで伝道集会を中心とした音楽の旅をした。彼女の声ののびはすばらしい。そして人々の心に、あたたかい何かを植えつけるものを持っている。

 それが何であったのかが、この本でわかったような気がするのである。」

 以上、太平洋戦争が始まったことを思い起こすこの12月にあって、その泥沼の中にも光が注がれ、キリストを信じ、その証しを賛美する一人の福音歌手の歩みの一部を、胡 美芳の自伝から抜き書きした。

 戦争の闇と、そこにも光を注ぐことをされる神の愛をあらためて知ってほしいと思ったからである。

 そして、敵対する国同士であっても、そこにキリストの力が働くときには、そこに橋渡しをする人も生れることもこの自伝から知らされる。

…実にキリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、敵意という隔ての壁を取り壊し…(エペソ書 2の14

 抑止という名目で、国々が、軍事力を増強していくことは、敵意をさらに増大させ、危険性を生み出すことになるのは明らかである。人間関係でも、敵意や憎しみを増大させて何のよいことが生じようか。

 まず、みずからの罪の大きさを知り、神とキリストへと魂の方向転換をし、私たちの罪をも担って十字架で死んでくださったキリストを信じて罪ゆるされ、さらに死をも越えて復活させる力を約束するキリストの福音こそは、いつの時代にあっても、人間関係の本当の基礎であり、人間の集合体である社会、国家においても、根本的な平和の基となる。

 

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