いのちの水 20212月号   720

主よ、あなたは私の隠れ家…

主に信頼する者は、

慈しみに囲まれる。(旧約聖書・詩編32より)


その響きは全地に

目が開かれるということ

幼な子のような心

・神の栄光

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リストボタンその響きは全地にー世界に向う御言葉の力と美

 

天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。

昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。

話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても

その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。(詩編19篇より)

 

 ある朝、入院中の病院の窓からの夜明けの風景、それは思わずはっとするほどの美しいものだった。

 東空一面に広がる深い茜色、徐々に色合いが微妙に変化しつつ上部へと広がっていくそのグラデーション、そして南の空には下弦の月が清い光で地上を見つめていた。

 そして、見つめているうちに、それらの色合いは少しずつ変わりゆき、新たな雲が彩り豊かにて現れ、またそれらの雲はその姿も、色合いも刻々と変化しつつ、また新たに別の雲がさらに異なる紅色の衣をまとって現れてきた。

 そうした壮大な大空のキャンバスの中を、遠い点のような鳥の群れが思い思いの方向へと飛んで行く。

 また、少し大きくみえる群れは二羽、そして5羽、また一羽で目指す目的地へと飛び翔るのもある。

 静かなる色合いの変化と雲の動き、刻々とかわりゆく色合いをかもしだしつつ、小鳥たちの自由な天使のごとき有り様、大空を翔る動的な姿ーそれらが相俟ってまさに神のわざが天空に静かに繰り広げられていた。

 それから三〇分あまり後、金色に輝く太陽が昇ってきた。この病院は、海から五~六百メートルほどであり、海を望むことができる。周囲の雲たちを美しく染めつつ…。

 そして南空には、薄い白色となった半月が静かにかかり、大空にかかるそれぞれ形や色の異なる薄色の雲たち、それら一つ一つが、神のわざであり、また神の愛と真実の語りかけを地上におくり続けている。

 神のお心は無限の愛であり、かぎりなく清い。

 そこから出る霊の言葉が、そうした大空の茜色や薄く青色に変わりつつある朝空全体、そしてさまざまの形や色の雲によって私たちに送られている。

 それは神は愛であり、かつ全能であるゆえに、そうした形においてもメッセージを送ることが可能となっている。

 その神の言葉の無限の多様性、それはそのままその愛の無限の変化ある霊的言葉を感じさせる。

 いまから数千年も昔、神から啓示を受けた詩の作者は、こうした自然に込められた神の言葉を深く啓示されたのだった。

 私たちは、何も学問や経験もなく、お金や社会的評価など何もなくても、こうした日々の自然を通しての神の言葉を見、聞き入ることができる。

 それもまた、万人に及ぶ神の愛ゆえである。

 


 

リストボタン目が開かれること

 

放蕩息子も、自分中心の考えがいかに滅びにいたるかを、その罪深さと、それをもすべて見抜いた上で、息子の悔い改めを待ち望み続けていた父親の愛に目が開けた。

 

「御言葉が開かれると、

光が射し出て 

無知なものにも理解をあたえる」(詩編119130

 

 普段はそんなことは考えることもしない。

 聖書の中に「目が開かれる」という言葉がさまざまに現れる。

 復活したキリストが二人の弟子が歩いている時、どこからとなく復活したキリストが現れて共に歩む、そして語りかける。(ルカ24章)

 その弟子とは意外なことに3年間も付き従った12弟子ではなかった。

 その二人の弟子はイエスが復活したと聞いても全く力づけられずそんなことはありえないと初めから確信していたようで、暗い気持ちで歩んでいたのだった。

 イエスは、なぜ、ほかには全く現れない弟子たちのところにどこからともなく現れて語りかけたのであろうか。

 そのイエスの語りかけは何だっただろうか。

「私は復活したイエスだ」と直接的に語ることをしなかった。それはなぜか。

 霊の目が開かれ、復活のキリストが本当に分るのは、しばしばさまざまのことを体験した後だということを暗示している。

  ここにも、イエスは誰も予想しないようなところに現れるという本質を表している。

 私自身も、大学近くのたくさんの古書店の一つで立ち読みした。その一冊の古びた本の1ページに聖霊が働いて、私の生涯の方向を変えた。

 聖霊は、そのように一冊の古い本を立ち読みしたことにも働いた。

 

 キリスト教徒の迫害者としてその強力な指導者であったユダヤ人パウロに対して、そのパウロが撲滅しようとしているキリスト教の最大の伝道者になるとは、いかなる人も夢にも思わなかっただろう。

 そのようにあらゆる人間の普通の予想を超えて復活したイエスは働かれるのである。

 そして現在もそれと同じように神様は私たちが予想を超えた働きをなさる。

 それは、イエスが、「聖霊から生まれるものは風のごとく、どこから来てどこへ行くのか誰も知らない」と言われたこととつながっている。(ヨハネ3の8)

 聖霊によって生まれた人が、それまでの生き方と全く異なる生き方となったのを見て、世の人は、あの人は、なぜキリストを信じるようになったのか、そしてひとたびキリストを信じるのになった人はどこに向かって進んでいるのか本人もまた周囲の人もわからない。

 それはその人をキリストを信じるように変えた聖霊そのものが、人間が予想するような道とは異なる歩みへと導いていくからである。

 復活のキリストがその二人の弟子に語りかけたのが自分が復活したと直接語ることではなくて、古くから伝えられてきた神の言葉すなわち現在の私たちから言えばその旧約聖書がいかにキリストを指し示しているかという聖書に基づいて解き明かしたのだった。

 イエスは長く伝えられてきた聖書を重んじた。

 そのことはイエスの伝道の最初にサタンの試みを受けた時にもご自分の考えや意見によってサタンに反対するのではなくて聖書を引用した。

 「聖書にこのように書いてある」と言って一つ一つのサタンからの誘惑、試みに関して既に書かれた聖書を引用してサタンに対抗されたのだった。(マタイ四章)

 そしてその聖書ー神の言葉に内在する神の力によってサタンは退けられた。

  イエスは、モーセと全ての預言者から始めて聖書全体にわたってご自身について書かれていることを説明された。

 同様のことは、次のようにも記されている。

 

…あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。

 ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。             (ヨハネ5の39

 旧約聖書の全体は、単なる昔のイスラエル人の歴史ではなく、はるか後に現れるキリストのことについての証しなのである。

 聖書は、単に一人一人の心の励ましや平安について書いているだけの書ではなく、常にこうして、長い人類の歴史全体を展望したうえで、神の大いなる御計画を指し示すという壮大な視野を持っている。

 こうした個所からわかることは、イエスの苦難そしてまた復活その栄光に関することはすでに旧約聖書において記されて預言されているということなのである。

 

  しかしこのようにていねいにしかも長い時間をかけて、復活したキリストが直接に彼らに説明されてもなお、弟子たちはそれが復活したキリストであるとはわからなかった。

  なぜこのようにされても尚判らなかったのか、不思議なことである。

 しかしこれが人間の現実である。

 ペテロたちにしても、イエスが地上に生きておられるとき3年間も、直接に教えられ、その奇跡を目の当たりにし、大いなる神の子であることを親しく見聞きしていた。

 にもかかわらず、なお「誰が一番偉いのか」、とかイエスが自分に迫る迫害、十字架の死と復活のことを告げてもなお、全くわからなかったのと共通している。

 けれどもこのエマオ途上での二人の弟子たちはこの語りかけた方が不思議な力を持って彼らの魂に働きかけたのを実感していた。

 村に近づいたときイエスは二人の弟子と共に家に入ろうとせず、彼らと離れてなおも先に歩んで行かれようとしていた。

 ここにもどうしてなのだろうか、という疑問が生じる。弟子たちは、共に歩み、聖書の言葉を解きあかしてくださった御方が、復活したイエスだということに気付かないにもかかわらず、イエスはその弟子たちをそのままにして、先へ行こうとしていたのである。

 このエマオ途上におけるイエスにおいてはこのように一つ一つが様々な不思議な内容を秘めている。

 弟子たちは彼らに強い霊的印象を与えたこの見知らぬ人がもっと重大なことを語ってくれることを直感で感じ取り、さらに先に進もうとするイエスを強く引き止めたのだった。

 もう日が暮れかかっているからどうか共にいてください、私たちの家に留まり、泊まってくださいと言って無理に引き止めたのだった。

 そのような二人の弟子の切実な求めに応じて、イエスは彼の家に入られた。 そしてそこでもなお私こそはイエスだ復活したイエスだ、とは言われなかった。

 食事の時になって、人々にとってごく普通の食物であったパンを取ってそれを祝福をしてそのパンをわざわざ裂いて二人の弟子に渡されたのだった。

 普通ならば、イエスはお客さんだからその二人の弟子がイエスに対してパンを裂いて食べやすいように手渡したはずである。(パンといっても現在のような食パンでなく、お好み焼きのような平たい形のものであった。)

 お客さんの方が彼らの家である主人たちにパンをわざわざ裂いて食べやすいにして渡すなど、普通は考えられないことだ。

  ところがここで驚くべきことが生じた。

 イエスがパンを裂いてその二人の弟子に渡した時、二人の目が開かれ、初めてそれが復活したイエスだと分かったのである。

 そして突然その姿は見えなくなった。

 イエスは最後まで、自分が復活したイエスだとは、言葉では告げることなく、強く引き止められ、パンを食べる簡素な夕食のとき、パンを裂いて与えただけだった。

 そのごく普通のような行動によって弟子たちは、初めて、その方が復活したイエスだと悟ったのだった。

  名も知れない二人の弟子に現れた目的はこのような形で復活したイエスの存在を直接的に示すことだったのだった。

 その時初めて彼らは途中でイエスが語りかけて聖書を開いた時(*)自分たちの「心が燃えていた」ということをありありと思い出したのだった。

 

*32節 日本語訳 では、「聖書を説明した」とあるが、原文は、ディアノイゴー dianoigo であり、アノイゴー anoigo(開く open)の強調形であり、原語に則した訳は「聖書を開いた」であり、次にあげるように英訳聖書の多くがそのように訳している。

これは31節の「二人の目が開け」の開くと同じ原語である。

NRS24:32

 They said to each other, "Were not our hearts burning within us while he was talking to us on the road,

while he was opening the scriptures to us?" 32節)

 

NIV 24:32 They asked each other, "Were not our hearts burning within us while he talked with us on the road and opened the Scriptures to us?"

 

 私たちの霊の目が開かれるためには目で見える様々な経験をしてもなお開けない。十二弟子たちも3年間も共にいて様々な教えを聞き、奇跡を数々見てもなお、なお本当の意味で目が開けなかった。

 復活したキリスト(聖霊)からの直接的な魂への働きかけなければ私たちの霊の目は閉じられたままなのである。

 いろいろな外国旅行に行っても様々な美しい風景を見てもまた人間の愛を受けてもそれでも私たちの魂の目は開かれない。

 それほどに、この魂の目が開かれるということは霊的なそして神秘的な事柄なのである。

 二人の弟子たちは、イエスが語りかけつつ共に歩んでいるとき、心が燃えたという。

 私たちの魂を燃やすもの、それは神からの、復活したキリストからの直接の語りかけである。

そして私たちの心の目が開けるのは直接イエスからの霊のパンを頂く時であり、直接の神からの働きかけであり、御手が伸べられる時なのである。

 霊のパンあるいは、主イエスからの直接の光を与えられ、その魂に光が差し込む時に私たちの目は開かれる。

 聖書の言葉もそのままでは本当の意味はわからない。単に学問をしても、人生経験を深めても、語学や数学などの能力に秀でていてもわからない。

 そうして経験や学び、能力の如何にかかわらず、私たち一人一人に神の御手が降り、また様々な経験に神の光が差し込むその光によって初めて私たちの目が開かれる。

 それがなければ、学問も様々な経験も人を自慢や高ぶりの心を増大させ、かえって霊的な目を閉ざしてしまうことになる。

 それがイエスの当時の聖書学者、律法学者たちでもあり、現在にてもまたそれは同様である。

 あの学識があり、家柄も生まれつきのローマ市民権をもつというほどであり、受けた教育もよく、頭の良いパウロが全くイエスの真理に目が開かれずにイエスを最大の悪と決めつけ、イエスを信じる者たちを国外まで行って捕らえ、また殺す(使徒22の4)ことさえしたのだった。

 パウロの目が開かれたのは、学問でも、またあらゆる生まれながらの能力ではなく、直接イエスからの光、イエスからの語りかけによって初めて霊の目が開かれたのだった。

  神の言葉はそのままでは閉じられている。エマオ途上のイエスは、聖書の言葉を開き、それによって弟子たちの心を燃やし、さらに彼らの霊の目を開いてイエスの復活を啓示したのだった。それは、言い換えれば 聖霊によって開かれたのである。主イエスが言われたように、聖霊こそは全てを教えるから。

 そして、学問、知識、経験、生まれつきの頭の良さと言ったことに全く関わりなく主の御心のままに与えられるものである。

 私たちの霊の目が開かれていくときには、身近なできごと、自然の姿にもつぎつぎと新たな発見が伴う。

 神は愛であり、神は全能であり真実であるということもその最たることである。

 夕方に美しく茜色に染まった西の空に沈む金色に輝く太陽その周りに漂う赤く村だ雲の流れの一つ一つ…、

 またその夕空に一羽の鳶が、悠然と舞っていたがその時の舞う姿…。

 そうした自然の無限の多様性をもった姿の一つ一つが、大いなる神の愛であり、真実の現れなのだと気付かされる。

 自然のさまざまの姿は、たえず一種の神の言葉を語り続けているが、ふだんは私たちキリスト者であっても、どれほどその深い味わい、深い意味に目覚めているであろうかと思われる。

  そうした現象の一つ一つが実は深い無限の意味を持って、私たちの眼前に存在していくのである。

 けれどもそれもほとんどは私たちは目が開かれないまま見過ごしてしまっている。

 創世記の巻頭の有名な言葉ー闇と大いなる空虚、混沌の中に、神が「光あれ!」と言われたら光が存在するようになった。

 そのことに対しても、はるかの昔に神話のようにこういうことがあったんだという風にただそれだけだと思い込むことが実に多いのではないだろうか。

 私もかつてはそうだった。

 しかし今日の夕方も 遠くの西の山なみに沈んでいく金色の太陽の見事な輝きの色合いと、刻々と変化していくその周辺の大空や浮かぶ雲の色彩美を見つめつつ、神は「光あれ、光あれ!」と繰り返し御言葉をもって命じておられるのを実感した。

 あのような様々な色合いの光あり、そして白い雲に白く輝く薄い茜色に輝く雲も、それらもまた、「光あれ!」との御言葉によってそのように光のさまを変貌しつつ時は流れていく。

 その西空に飛び翔る鳥、その鳥の姿にも、神様の光が射して、それが私の目に入ってきたのであった。その姿色合い雰囲気にも絶えず光を宿しているのである。

 そのことに深く気づかされたことだった。

 私は今回、適切な医療を受けなかったら死に至る病であったと知らされた。

 けれども、そこから医者、看護師の方々、そして多くの集会の関係者の方々の真実な祈りによって、そうした方々の背後におられる神様の御手の働きで救い出されたことを思い、感謝でいっぱいの気持ちとなった。

 今も病院の入院病棟でいるが、その中でも神様はその病院の窓から見える風景を通して、御言葉の大いなる業を示してくださった。

 「光あれ、光あれ!」と、神は雄大な自然に語りかけ、その自然が私たちに語りかけているのを実感した。

 私たちの霊の目は開かれねばならない。自然のままの私たちには、万物のもつ深い意味は閉じられているからである。閉じられていて、闇に包まれ、砂漠のようにうるおいなく、荒涼とした閉じられた世界である。

 しかし、そこに神様は絶えず私たちの目を開こうとされている。その心の目を開く力を人間にも与えられている。

 いろいろな悲しみ苦しみにおいてもそれらによって神様は私たちの目を開き、そしてその深い苦しみや悲しみの中に神様の愛を感じとることができるようにと導かれている。

 私達の存在の根源であるその深い魂の奥に私たちがどうしても神様がイエスに従っていけないその本性、すなわち罪があることを、霊の目が開いて初めてわかるようにしてくださった。

 目が開かれなければ罪があることもわからない。

 目が開かれなければその罪を赦して下さる愛の存在もまた分からない。

 そのような魂の奥底にある心の問題、魂の問題に深く関わって下さる愛の神様がおられることもまたわからない。

 そしてまた私たちがどこに向かって進んでるのか全ての人が到達する、死ということ、その彼方には何があるのか。死とは何なのかそのことは、霊の目が開かなければわからない。

 全体からすれば極めて少数の方々が肉体の目が見えないというとっても苦しい状況に 置かれている。そのような方々にも、神とキリストを信じる時には霊の目が開かれる。

  そうして、そのような生まれつき目の見えない方の存在も、そのことによって、世の人に対し、霊の目が開かれることの証しのために、特別な重荷を担ってくださっていることを思う。

 目が見えないということは日常生活の細かなこと、ちょっとした小物が床に落ちたとか、台所仕事をするにしても、ちょっとした調味料、醤油とか何かをだれかがどこかに置き忘れるだけで一つ一つの瓶を全部手探りで探さなければならないし、何かを床に落としても床に這うようにして探さなければ見つからない。

 こうしたことは、目が見える人には思いもよらないことである。

 外に出ても自分だけでは自由に歩くことができない。小さな二つや三つの異物が道に置かれてあるだけで、つまづいたり危険なことにもなる。

 そうした著しい不自由、不便、困難が日々存在する状況である。

 その多大な苦しみに加えて、美しい花々や星空や大空も見えないという著しい不平等と見える状況に置かれている。

 そのような方々の重荷によって、私たちが本来受けねばならない苦しみを身代わりになって受けてくださっていることをも感じる。

 私たちも静まって考えると、肉体の目はいくら見えても誰しもみな、霊の目が見えないようになっている。

 霊の目は見えるようになるためには、健康な人も見える人も病気の人も盲人の方々もどんな能力の人もみんな同じ所に立たされている。  神様がその愛によって御手を伸ばしてくださらなければ、私たちはみな霊的には目が閉じられたままだったんだということを思い知らされている。

 

…主はわが牧者、

私には乏しいことがない。主は私を緑の牧場に伏させ、憩いのみぎわに伴ってくださる。

 たとえ死の影の谷を歩むとも、我れ災いを恐れず…

                (詩編23より)

これはまさにこの霊の目が開かれた人の言葉である。

 愛の神様、導きの神様がはっきりと見え、そしてまたこの荒涼たる世界のただなかに生きた水が溢れるところに導いてくださる。…

 どんなことがあろうとも、その飼い主なるキリストが助け導いてくださるということは、霊の目で見えるようになった人の証なのだということを知らされる。

 私は、今回初めて、そのまま放置されていたら、死に至るような苦しみと入院生活によって、死ということがいつ間近に迫ってくるか分からないということを深く知らされた。 そうして救いだされた命も11日を霊の向きを神へと変えつつ歩まねば、すぐまちがった方向に進んでしまう。

 霊の目が開かれないと、神様の愛も、そしてまた人々の祈りの力も深くはわからない。

 目が開かれていくにつれて人々の祈りをまた霊の目で感じ、また霊の目で見えるように導かれていくのであろう。

 彼方から次々と打ち寄せてくる波のように。

 開かれるということ、これは「啓示」ということと同じである。

 「啓示」の原語は、アポカリュプシス apokalupsis であり、これは、apo(~から、離す) kalupto(覆う)から成り、これは、「覆いを取り除く」という意味であり、私たちの霊の目が閉じられているのを開かれて、示されたことという意味。

 これは英語の 啓示

re-velation も同様の意味。 re 離す、velationは、vale(ベール)に由来し、ベールを除くという意味で、霊の目にかかっている覆いを取って示されたこと、という意味となっている。

  これも「開かれる」ということであり、預言者は、神によって特別に霊の目が、耳が開かれた人たち、言い換えると神からの啓示を受けた人々を意味している。

 

…ああ、幸いだ!心の清い人々。

 なぜならその人たちは神を見るからである。

Blessed are the pure in heart, for they will see God.                  (Mat 5:8)

 このことも、神によって御心により聖霊によって心清められたときには、心の目が開かれる、それゆえに、神の本質たる愛や真実が霊の目で見えるようになるという約束である。

 知識や学問も何らかの扉を開く。

 しかし神の愛の世界は開けない。

 それを開くのが、聖霊であり、生きたキリスト、またその御言葉である。。

 聖書の巻頭の部分にある、

 「光あれ!」との御言葉、 これは 神の光によって目が開けよ!とのことである。私たちの霊の目に光あれ!

 そうすれば、さまざまのことが見えてくる。

 野の花にも、野の鳥にも、神の愛が見えてくる。

 主イエスも言われた。 野の花を見よ! そらの小鳥を見よ! と。(マタイ6の2630

 聖霊は光でもある。イエスは、私は命の光 と言われた。聖霊とは復活したキリストであり、神の光である。

 それゆえに、聖霊はすべてのことを教える、と言われた。

 閉じられている霊の目が開かれるゆえに、それまで無視していたさまざまのことに対して新たなことが見えてくる。

 すでに述べたように、小鳥の飛ぶありさま、枝にてさえずり、また餌をついばむ姿にも、神が慈しんでおられる愛がそこにある。

  雲の動きにも、神様が、私たちの心に言葉にならない愛の言葉をなげかけているのが感じられる。

 目が開かれることによって見えるようになる最大のことは、神様の愛が霊の目でみえるようになり、実感できるようになるということである。

 そして、根本的に重要なことー目が開かれることによって、私たちの罪がみえるようになる。

 それとともに、さまざまの人のうちなる罪もみえるようになり、人間崇拝の観念がなくなっていく。偉大といわれる人間もみな、ひとたびその内側に入るならば、さまざまの罪を持っているのが見えてくるからである。

 他方、悪いことをする人間のうちにも神は、何かよいものを種蒔いておられるのを実感する。

 このことは、かつて激しい暴力のはびこっていた夜間高校に勤務していた経験から強い印象を残してくれた人たちー暴力でなぐりかかってきたような生徒ーといっても成人していたーにも、意外なよき点が見いだされて驚いたのを思いだす。

 聖書の最初に、光あれ!との神の言葉があり、また聖書の最後には、啓示録(黙示録)があり、神によって啓かれた書があるのも、目が開かれることの重要性を聖書全体が指し示しているのである。

 


 

リストボタン幼な子のような心

 

   二〇二一年一月三一日       主日礼拝講話(ルカ1816

 

 私の緊急入院、手術のことで多くの方々からのお祈り、また心をかけてくださいましたこと、本当に感謝です。

 2週間近くになりますがなかなか食事ができない状態なので、今も横になった状態でお話をさせていただいております。

 今日は「幼子のような心」という箇所です。乳飲み子までも連れて来たと、弟子たちは叱った、そのような乳飲み子を連れてきて何になるかということも言われましたが、イエス様は自分の元に連れて来なさいと、そしてそのことに対して言われたと、この幼子のような、子供のような心にならなければ天の国に入ることはできないと。

 この子供と訳されている言葉はしばしばそのように幼子と訳されます。この場合でも「幼な子」ですね。口語訳をご覧になっていただいたら分かりますが、このところは「幼な子のように」という訳になっています。

 「子供のような心」というところですね。このところ1517節です。人々が乳飲み子を連れてきたとき、

「幼な子(*)たちを私のもとに来させよ。神の国はこのような者の国である。真実を言う。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければそこにはいることは決してできない」と強い表現で言われているところです。

*)幼な子 パイディオン paidion とは、モーセが赤子のとき葦の舟に入れたが、そのような乳児にもつかわれ、少年にも使われる。

 

 この新共同訳のように、「子供のように神の国を」と訳しているここだけ切り取られますと、日本語で、「子供」と言ったら高校生も18歳も子供は子供だということです。高校3年生にもなったらそんなに素直に神の国を受け入れたりしないので、とくに初めて読む人にとっては何か意味がはっきりしないということになります。

「幼な子のように神の国を受けいれる」と訳すると「子供のように神の国を受け入れる」とするのと、ここだけ、例えば短い聖句などで切り取られると全く違った印象になるわけですね。ちょっとした訳語でメッセージが違ってきます。子供と訳するとちょっと曖昧な感じになるので、今日のタイトルも「幼な子のような心」です。

 イエス様は乳飲み子もこのように招き寄せて祝福された。なぜこのように言われたのかと。弟子たちはどうしてそれを止めたりしたのかと。

 それは、イエス様のように非常にレベル高い教えは到底こんな乳飲み子、また幼児たちにはわかるはずがないと、大人への話だという感じだったと思いますが、そして泣いたりすれば邪魔になると。

 けれどもそれは本当に狭い考え方で、イエス様に近づけるということはどんな人でもそのよい霊的な力を受ける、たとえ分からなくてもイエス様に近づけるということだけで、イエス様の本質は愛や真実なものであるので、清いものであるから近づけるだけでよきものがそこに伝わってくる。

 それから更に積極的にイエス様がそのような幼子を祝福される、よき霊の力を注ぐということができるわけです。

 弟子たちはそういう単なる言葉による説教や教えという風に受け取ったから、難しい言葉で分かるはずがないということだったと思います。

 しかし、イエス様は聖霊そのものでもありますので、この自然の世界のあらゆる美しさ、清さ、永遠的なものを全てイエス様がお持ちで、たとえ神様を言葉で否定する人でも、例えば青い空を爽やかに感じる、それはイエス様そのものがそういう本質だからです。宗教がちがっても、また無神論者でも、野草や園芸の花はとても好きな人はたくさんおられます。

 その花の完全な美しさを持っているのがイエス様なので、イエス様の美がそういう人にも働いて、美しいと感じ、愛好する心を生み出しているということになります。そういうことで弟子たちはまだ十分に分かってなかったためにそうなったと思います。私たちはこのイエス様の本質はいかなる人にも通用していくものだということを思います。

「幼な子のような心」というのはどういうことなのかということが次のことになります。具体的にどういうイメージをしたのか。私たちはそんな乳飲み子とか、1、2歳の幼な児のような心になれないじゃないかという気持ちがすぐに起こるかもしれませんが、イエス様が言われたのは幼な子の特質、お母さんに抱かれて幼子はまっすぐ母親を見る。

 その眼差しですね。信頼、全く疑わない。そのようなまっすぐに見つめるというその眼差しこそが幼な子らしさの本質だということです。

 信頼するよきものをまっすぐ見つめる。ところが成長するに従ってそんなよきものをまっすぐに見つめるといった眼差しは無くなって人間の視線をも常に恐れる。あるいは人間に受け入れるために自分を良く見せようとしてしまう、そういう風なことがいたるところで起こり、更にはそうした人間の賛辞、誉め言葉、認められるためにはよき収入とか立派な家とか車とか学歴とかお金とか、そういったものがあるとよく認められるだろうということから、よき財産、外見的なもの、立派なものを求めるようになってしまいます。

 しかし、高価なものをいくら持っても心の中の清さは全く変わることなくむしろ減退していきます。

 幼子の心といって、イエス様は、大人に通じる本質的なこと、在るべき姿というのは、私たちにとっては神様という最もよきものをまっすぐ見つめる心、それをこのように言われたということです。

 そして、そのことが当然聖書の最初から根本的に重要なこととして一貫してずっと流れているわけです。

 アブラハムが初めて言われたとき、故郷をおいて遠い遠い砂漠地帯をはるばる超えてカナンの地に行きなさい。千五百キロほどもあるような遠い所です。

 そんなところに今住んでいるところが飢饉でも戦乱でもないのに、神が言われた遠い所へと旅立っていくということ、それはよほど強い神へのまなざしを持っていなければありえないことです。

 中央アメリカの方々の一部が大変な距離をアメリカまで歩いて祖国で生きられなくなったからといって、しかもアメリカで留められるかもしれないのに命がけで貧しい家族を置いて娘が一人出発してアメリカに何としてでも入ってお金を稼いで母親に送りたいと、我々には考えられないような悲壮な思いを持って出発するとか、そういう方々さえいるところです。

 私たちはまっすぐ神様を仰ぐということですが、アブラハムは郷里からそのように迫害され生活できなかったのでもなく、神様からの呼びかけを聴いてまっすぐ神様を見つめそして神様の声だけを頼りにして、また、知らない土地へと旅立った。

 他方、幼な子らしい、まっすぐに神を見つめる心というのは、乳児のような何も難しいことは知らない状態の心ではなく、この世の険しさ、困難を知り抜いたうえで、高い志、極めて困難なことにも向かっていくという力強いものを内蔵しています。

 神の国に入るという最大のこと、パウロも神の国に入るには様々な苦難を経るのだと言われたこともあり、実際そのようなことは殉教の時代の使徒に、私たちの想像・経験の比較にならない凄まじい苦しみを通して、彼らはそれでもなお、まっすぐ神様をいわば凝視して、生きていったということが無数にあるわけです。

 そして、私たちはこの聖書の言葉の分かりやすい馴染みやすい言葉の背後に非常な高い、また強固なもの、強靭なものがあるということを知らされます。

 いまから三千年ほどの昔のダビデにしても様々な詩編を通して、非常に追い詰められた中から必死で「主よ、憐れんでください」と叫んだ。

 それは新約聖書の中で、生まれつき目の見えない方々が必死で、主を見つめて、「主よ、憐れんでください」(キリエ・エレイソン)と叫んだ心と同様です。

 主よ、憐れみたまえーこれは、旧約聖書における詩編においては、ヘブル語で、ホンネーニ エローヒーム(*)となります。

 

*)ホンネーニとは、ハーナン(憐れむ)という言葉の命令形に「私を」を意味する語が付いた変化形です。エローヒーム:神。

 

 それが新約では、キリエ エレイソン という言葉で、ミサ曲にも、かなり長い時間をとって演奏されている。

 まっすぐ神様を見て、苦難のときでも、神様に祈ることもできない考えることもできない本当に痛み苦しみが激しかったら頭が働かないし細かいことも一切分からなくなる。

 でも必死に神様に向かって助けてください憐れんでくださいと叫ぶことはできる。

 そういう意味で主を幼子のようにまっすぐに見るということは大変な状況にあってもなお私たちに残った最後のものだと言えます。

そういう激しい叫びを残しつつ、殉教していった方々もたくさんあります。

 そして、私たちにそのような大事なことを目で見える形で教えてくれている、それが身近な植物の姿です。特に樹木のうち、杉のまっすぐに育つ姿についておもいだすことがあります。

 私が大学を卒業して間もなく聖書講習会が京都の北白川集会主催で、比叡山で行われたことがあります。その時に散歩の時に京都の北山は北山杉というまっすぐな杉で有名なんですが、その時にドイツ文学の助教授であられた塩谷助教授が、その比叡山講習会の休憩時間に山頂部をみんなと私どもも一緒に散歩した時、その後で、「私は今日あるinspiration を与えられた。このまっすぐな杉たちを見て神様がこのようにまっすぐあれ、まっすぐあれと、こういう風に呼びかけているメッセージを聴き取った。」と言われたのです。

 その先生は、どこか幼な子らしさがあったんですね。それが今も残ってます。その先生が長時間講義なされたことは、あまり頭に残っていないけれど、その短い言葉は不思議とずっと残っています。

 聖書に関する話は、長かったり、よく調べたり、誰某学者はこう言った、どうのこうの、たくさん並べても何も残らないこともしばしばありますが、神様の聖霊が働くとほんのちょっとした一言が、本人も意識してなかったことが、だれかの心に刻まれてよき働きのきっかけとなる、ということがあります。

 私たちは神様を信じて語る、あるいは本を紹介するということの重要性も感じます。小さな本、わずかの言葉であっても、神様の働き、聖霊の働きがあると、深く心に残すことが起きるし、時には生涯を変えることにも働くからです。

 そのように樹木というものはまっすぐ天を仰いで育つ。それから野菜などもですね、山にある私の家の周りの小さな石ころがたくさんある、柔らかい土はほとんどない土壌ですが、それでももう何十年と野菜を作ってきましたが、種を蒔いてもいろいろな形の石ころの下に種があって芽が出ないこともしばしば。 しかし、それを種からの新芽が一所懸命に、かぶさった石を何とか迂回してしばらくすると芽が出て、茎が伸びてまっすぐ日の光の方を向いて新芽が出てくるわけです。

 そういうことの中に植物は小さな植物も大木も、とにかく光の方、上の方を、まっすぐと向いていると、そういう風に私たちに向かって神様は自然の世界を通しても暗示している。

 そよ吹く風も、讃美歌90番にありました神を語り、谷川の音も神に向かって奏でている音楽だ、青い空も美しい芸術ですよね、白い雲も。

 それを皆、神様の無限の力、清さ、美しさを見よというふうに、神様をまっすぐに見るようにという神様の語りかけとかんじます。

 この世の様々なことはどんなにしても決してあの純粋な青さ、まっ白な雲のように、純粋清さでは在り得ないわけです。

 このように、絶えず神様はさまざまの自然やできごとに関して、目に見えるものを通してまっすぐ上を見なさいと、語りかけています。

 私たちも、幼な子のように 神様の愛と真実を信じて、苦しい時でも苦しかったらその時はただ叫ぶだけしかできないけどそれでも神様を見つめて叫ぶ。

 ヨブが苦しんで苦しんで、どうしようもなく追い詰められて、「私は、なぜ生まれたのか、死んでいたらよかった」などと絶望的な叫びをあげた。

 そのような時でも神様に向かって叫んだわけです。その神への眼差しはずっと続いていたんですね。

 イエス様も十字架で「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」(*)と叫びました。

 

*)エルは神、 エリィとなると わが神、ラマは英語のwhy、なぜ。 サバクタ:捨てる、ニは私を。

 

 イエスは、「わが神、わが神、なぜわたしを捨てたのか」と、ものすごい痛み苦しみ、その絶望的な中でも、やはり神に向かって神を見つめて叫ばれた。

 神を見つめるという姿勢は、幼な子のような心で見つめることであるが、乳児の可愛らしいイメージの背後にあるのは、死が近づくような苦痛のなかでも必死で神を見つめ、叫ぶという強靭なもので、ギリギリの苦しみの中でも神を見つめて必死に叫ぶという精神を内蔵してるものなのです。

 私たちも健康、さわやかで、平和なことばかり続く長い年月を与えられた人も、あるいは最初から様々な障害や病気あるいは祖国でさえ暮らすことができずに決死の覚悟で何百キロも旅立ってくる人もいれば、今7億人に近い人たちが飢えてるという、食事がまともにできないという、様々な方であっても、そこから神を信じて仰ぐことは可能です。

 唯一の愛の神様をともかくも真実な心をもって仰ぎ見る。幼子のような純真さを持って見上げる。何事が起ころうとその神の愛を信じて見つめる。

 「地の果なるすべての人よ、わたしを仰ぎのぞめ、

そうすれば救われる。」

           (イザヤ4522  この言葉は、二五〇〇年も超えて私たち世界の人たちに呼びかけられている愛のメッセージだと思います。

 お祈りします。神様、今日のときもこのようにベッドで寝たままでもこのようなお話ができること与えられましたことを本当に感謝です。

 どうか神様、多くの方々が祈ってくださっておりますので、どうか神様、御心でしたら速やかに回復させてくださいますように。

 また、このような苦しみのある人が果てしなくたくさんおられることであります。 健康なときにはなかなかその人たちの苦しみが分かりませんが、どうか神様が愛の御手をそのような方々に伸べてくださいますように。全ての方々を覚え、また、その関わりある方々も覚えてください。御名によって感謝してお願いします。アーメン。

 


 

リストボタン神の栄光とは

 

 旧約聖書において、「栄光」と訳される原語(ヘブル語)は、カーボードである。

 この語には、次のような意味がある。

重み、高貴、 壮麗、輝き、強い感銘を与え、印象的、あるいは荘厳な,壮大、堂々とした様子。 weight,  (impressive) appearance, weightiness, noble, splendor, magnificence 

力、権威、尊厳、光の顕現、(光がはっきりと現れている状態)

power, authority, honor of God,  manifestations of light; (形容詞形 カーベードは、be heavy, weighty

 

 以上のように、聖書における栄光とは、人間にはないあらゆる力に満ち、壮大さ、壮麗、光に満ちた状態を表す。

 カーボードには、栄光という漢字から連想する光というのとは全くことなる、「重い」 という意味があり、この語には、尊厳といった神の重々しい本質との関連が考えられている。

 神の栄光ーその力や壮麗さのうちに、完全な愛、美や清さ、また永遠も含まれている。  

  人間の愛や美しさなどは、内に力がないゆえに、はかなく消えるのに対して、神の栄光とは、完全な愛、美、光はみな永遠であり、力そのものである。永遠とは永続させる力が内にある状態だからである。

 

 聖書において、最初に 栄光(カーボード)という言葉が現れる個所は次のような内容である。

…それでアロンがイスラエルの人々の全会衆に語ったとき、彼らが荒野の方を望むと、見よ、主の栄光が雲のうちに現れていた。 (出エジプト 16:10)

 

…主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。 (出エジプト 24:16)

 

 主の神々しい力に満ちた光が、雲の内から満ちて、そこに神がおられ、その雲のなかから神はモーセを呼んだことが記されている。

 現代の私たちにとって、雲は単なる水蒸気という気体が凝固した極めてちいさな水滴の集まりであるということでしかない。

 しかし、古代の神の民(イスラエル)にあっては、雲は神の宿る神秘に満ちたものであった。じっさい、雲は空中にあって落下せず、いつしか現れたと思うとたちまち消えることもあれば、持続して悠然と動き、あるいは成長し大きくなり、また時として大空一面を覆って大雨をふらす。

 一体いかにしてあのような莫大な水が落ちてくるのか、どこに貯えられていたのか、と古代人はじつに不可解であっであろう。 水蒸気などの気体の存在もまったく知らず、雲の生成の過程も全くわかっていなかったからであり、雲の本質はどこからか現れ、また何処へと去っていくゆえに、神の霊のごときものとして受けとられていたのがうかがえる。

 神の栄光は、神から出されるいのちの光というべきものであることは、次のような個所にも示されている。

 

… 起きよ、光を放て。

あなたの光が臨み、

主の栄光があなたの上にのぼったから。

 見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。

 しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。 (イザヤ601~2)

 

 この個所では、光、朝日の光と主の栄光が同じ意味として 並行法で用いられている。そして、罪の力に倒れ滅びゆく民のなかで、その主の栄光ー神の光を受けた者は、闇から新たな命を得て、立ち上がることができるのだという、神の宣言がなされている。

 現代の私たちにおいても、天来の光を受けるときには、いかに周囲が闇であっても、そこから新たな力を与えられて、前進していくことができるのだというメッセージとなっている。

 新約聖書においても、さまざまの個所で、神の栄光のことが記されている。

 

…神にのみ、あらゆる栄光と力が永遠から永遠に属している。それは真実なことだ(アーメン)。(Ⅰペテロ4の11

 このみ言葉は、同時に祈りとなる。人間や人間のつくったものに栄光を帰することなく、それらすべての人間やその能力をも与えた神にのみ、栄光を帰するように、との祈りである。

 さらに、次の個所のように、イエス・キリストの本質を、「栄光」という言葉で示している。

 

…そして言は肉体となり、私たちのうちに宿った。

私たちはその栄光を見た。

それは父のひとり子としての栄光であって、恵みと真理(真実)とに満ちていた。             (ヨハネ114)

 恵みという語は、「恵みの雨、何かを恵んでやる」等々、日本語ではあまり深い意味でつかわれないことも多い。

 しかし、このヨハネ福音書のはじめの部分で、全体の内容を凝縮している個所で用いられるほど、新約聖書においては重要な意味を持っている。

 キリストは何で満ちているのか。それは神の「栄光」であり、その内容とは、「恵み」と「真実」である。その「恵み」とは、万人の罪を赦す無限の愛、そして変ることなき真実を意味している。

 真実の内に、正義をも含む。嘘を誰かに言うことは、真実に反することだからである。

 そして、真実の内に、清さも含んでいる。 人のためといいつつ、秘かに自分がほめられることを思ってする行為は、は汚れた心である。

 このように、栄光という日本語では、事業における成功とか、目に見えるような目ざましいことープロ野球とかのスポーツで、優勝とかホームラン王になるとか、金メダルとる等々において、つかわれる言葉で、あまり深い意味ではつかわれない。

 しかし、聖書では、神であり、人であるキリストの本質や、そのキリストを信じることによって与えられる賜物も 栄光 という語で表される極めて重要な言葉となっている。

 

…わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、

神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものである。(Ⅰコリント2の7)


 

リストボタン報告

 

〇一月二〇日に、突然の体調の変化が起こり、緊急入院、手術となり、多くの方々からのお祈りやお見舞いをありがとうございました。

 集会員や「祈りの友」会員などでつながりある方々、またオンラインでの私どもの礼拝や家庭集会に参加してくださっている各地の方々、さらには、「いのちの水」誌の読者の方々に感謝です。

 2月9日現在まだ入院中で、体調には波がありますが、少しずつ快方に向っています。

 なお、今月号は、病院のベッドで休み休みしながら作成したもので、主日礼拝の講話の一部を教友がテキストファイル化してくださったのも用いることができて感謝です。

〇 2月7日(日)に予定していた福岡聖書研究会とのオンラインによる合同集会も私の病気により延期となりました。

 


リストボタン集会案内

 

〇主日礼拝は徳島市南田宮の集会場とオンラインにて継続中。

〇夕拝、北島集会、海陽集会はオンラインにて継続中。

〇天宝堂集会(綱野宅)、小羊集会(鈴木宅)もそれぞれの家庭とオンラインにて継続中。

(問い合わせは左記の吉村まで)