いのちの 20219月号 727

主よ、あなたの慈しみは、天に、

あなたの真実は大空に満ちている。(詩編36の6)

目次

キリスト者の祈り

神とキリストの同一性

神の風ー聖霊の神性

聖霊とキリスト、神

「祈りの友」について

お知らせ   祈りの友 合同集会

 

リストボタンキリスト者の祈り

   ー 慰霊・鎮魂との違い

 

  日本的な死者への祈り

 日本においては、原爆記念日とか災害にあった方々、事故などの死者に対して、テレビや写真でしばしば、手を合わせて祈る、ということが見られる。

 けれども そのようなとき、何に向って何を祈っているだろうか。

 慰霊祭、また鎮魂ということもよく言われる。しかし、 慰霊ということは、死者の霊を慰めることであり、死者が何らかの事故、病気、事件、また地上の戦いや争いなどで、悲しんでいるということが前提となっているし、鎮魂は、その魂を鎮める ということであるが、その鎮めるということは、金偏があることでわかるように、もともと、荒れるものや、危険なもの、不法のものに重しをしておさえるという意味がある。それは、鎮火、鎮圧という言葉を見てもわかる。

 慰霊や鎮魂という意味は、死者が悲しんだり、事故や災害、あるいは犯罪によって死んだりした魂が死後そのままにしておくと、祟りや自然災害などを起こすというように信じられていた。そのために、死者に、いろいろな供え物を捧げるなど儀式を続けて、死者の魂の怒りや悲しみなどを鎮める(鎮魂)ということが行なわれてきた。

 とくに、災害や戦争、事故など突然の死においては、肉体と魂が突然切り離されるので、魂が不安定で落ち着き場を求めて、他人を苦しめたり、天地異変とか疫病の流行となったり、作物の害虫がはびこったりすると考えられていた。

 そうした、落ち着き場のない魂を、中世では、御霊(ごりょう)、怨霊(おんりょう)、物の怪(け)などと言い、近世では、無縁仏(むえんぼとけ)、幽霊などといわれている。

 このような伝統的な考え方から、日本においては死者の魂、霊が不安定なものとなって遺族や関わりのあった人たちに害することがないように、死者の霊が鎮められ、落ちついて安らかであるようにと、慰め、祈ることになる。

 それゆえに慰霊、鎮魂という言葉がつかわれている。

 

キリスト教の死者への姿勢

 それに対して キリスト教においては、不当に殺されたから魂が怒り、嘆いているとか、生きている人たちに祟る(災害などの苦しみを与える)といった考え方は全くない。

 キリストは、完全なよきことをなされた。全盲の人や、歩けない人、聞こえない人やハンセン病の人たちのような 最も弱い人たちを憐れみ、癒し、まただれも知らなかったような真の祝福、幸いへの道を教えた。

 しかし、それにもかかわらず、まったくの悪意によって捕らえられ、鞭打たれ、十字架に釘で打ちつけられてもだえつつ死んでいくという悲惨な死に方をされた。また、そのようなキリストにしたがって、厳しい拷問のすえに殺されていった多数の殉教者たちがいる。

 キリストを信じて最初の殉教者となったステファノは、神への立ち返りを願うゆえに、彼らがいかに正しい人、預言者たちを迫害してきたか、その罪をはっきりと指摘した。そのために、 ステファノはユダヤ人たちから激しい憎しみを受け、石を投げつけられて殺されるにいたった。

 しかし、ステファノは襲いかかる人々の前で祈り、そのような最も殺意の満ちたただなかであったが、天が開けて、神の右にキリストが座しているのを見た。そして、主に向って「主よ、この罪を彼らに負わせないでください! と大声で叫んだ。そして息を引き取った。

 (使徒7の5460)このように死の直前においても、周囲の人たちの悪行に対して何らの恨みも持たず、かえって全身全霊の祈りをもってしたのであり、ステファノが復活したときには、完全なイエスと同じような清められた存在となったのであって、罪なき自分を不当に殺したといって憎んだり、たたったりすることはありえないのは容易にわかる。

  同様に、ステファノからはじまり、現代に至るまでの二千年間の数々の殉教者たちも、彼らは不当に苦しめられ、無惨な最後を遂げたからといって、死後自分をそのような目に遭わせた人たちへの怒りや恨みで不安定な魂となってや地上にある人たちに祟ってくるーなどということはありえない。

 それどころか、死後は復活し、永遠に祝福された命を受けると約束されている。

 日本の伝統的な宗教からいえば、そのような人は死後も恨み、悲しみなどが根深くあり、その魂は不安定となっているからそれを鎮め、慰めねばならない。そうしなければ地上の人たちにたたってくるということになる。

 しかし、それとはまったく逆で、キリストも殉教者も死後復活して、神の命ー永遠の命を与えられて完全に清いものとされて至福の状態で永遠に存在する。

  キリスト者の祈りと願いは、それゆえに、生きている人たちに向けられる。地上では、私たちそれぞれの身近なところにおいても、実に多くの人々が苦しみ、悩み、また悲しみのうちにある。

 目を少し遠くにー世界の国々に注ぐならば、そもそもまともに毎日の食事ができない人たちは、世界では7億人ほども存在する。(国連世界食糧計画のホームページによる)

 そのような無数の人たちに対しても、祈るべき内容はあるだろうか。

 それが、主イエスご自身が示された「主の祈り」である。

  次の詩もそうした「主の祈り」の流れのうちにある。

 

1、天の神、祈ります、

あわれみと祝福を。

その民をひとつとし、

愛される み神よ。

2、救い主、み子イェスよ、

十字架と復活の

み恵みに感謝して、

歌います、わが主よ。

 

3、来て下さい、聖霊よ。

悩む者力づけ、

傷ついた人々を 

いやすため、今すぐ。

         (讃美歌21354

 

  キリスト者の祈りは、神の憐れみと祝福を祈ること。祝福とは、前途にいかなることが生じようとも、最終的には良きものとなるように導かれていくことーそれらを受けるときにはおのずから、人間には分裂や闘争などがなくなってひとつにされる。

  そのような 憐れみと祝福の力は、一言でいえば、神の愛である。 だれに対する祈りであっても、この神の憐れみと祝福ーその愛を注いでくださるようにという祈りが不要な人は一人もいない。

 つぎの2節では、イエスが十字架について死なれたこと、しかし三日目に復活して神のみもとに帰られたこと。十字架によって人間の根本問題である、自分中心の本性(罪)が砕かれ、その罪の赦しを受けることにつながった。

 私たちが、過去から現在にいたる歩みのなかで、どれほど多くの正しくない言動、愛のない思いや行動があっただろうか。それはだれにとっても数限りなくある。

 まず一番身近な家族に対して、また学校や仕事等々で知り合った人たちに対してもなすべきことをしてこなかった、またそれどころかいうべきでないことを言ったり、無関心で歩んできたーそんなことはいくらでも思いだされる。

 さらにさまざまの事故や災害、また各地の内乱や、戦争、飢餓、迫害を受けている人たち…そうした人たちに対して神に救いー祝福と助け、癒しを祈ってきただろうか。 そうした観点から見ると私たちはだれでも著しく欠けた存在でしかない。

 このような、愛や真実のない心を罪というのであって、そのような心はどんなに学問や経験を積んでも、また生れがよいとか、豊かな生活をしようとも、有名になったり賞をもらうなど、どのような状況の人もみな深いところでは同じように、そうした愛や正義、真実のない状態でしかない。それゆえに、聖書においては、人はみな罪人と言われている。

 そのようなすべての人間にとって根本的な問題を解決するために、キリストは地上に来られ、そのために、みずから十字架にかかられて万人の罪を身代わりとして受けて死なれたのだった。

 このことは、キリストより五百年以上も昔に書かれた旧約聖書にすでに預言されているのにおどろかされる

 神は人間の根本問題を解決するために、はるか昔から遠大な御計画をもってこの世界を導き、キリストを世界に遣わしたのだった。

 私たちがその計り知れない罪から解放され、赦しを受けるには、キリストが十字架にかかって死なれたのは、私たちの深い罪から救うため、赦しのために死んでくださったのだと、単純に信じるだけで私たちは実際に赦しの平安、また喜びを与えられる。

 それがキリスト教の福音といわれることの中心にある。

 私自身が50年余り前に、古書店で一冊のキリスト教の本からその真理を知らされたのが、今日までずっと続く信仰の出発点となった。

 神の言葉ー聖書の言葉の大いなる力は、そのようなただ一言の中にもこめられているのを現在までの生活のなかで知らされてきた。

  イエスの十字架の死によって私たちの深い罪がすべて赦されるーそのことは旧約聖書の次の言葉においても預言として記されている。

「主は我らを憐れみ、我らのすべての罪を海の深みに投げ込まれる。」(旧約聖書・ミカ書7の19より)

 

 次に「十字架と復活の恵み」ーとあるように、キリストの十字架による罪の赦しとともに、キリスト教の福音の中心にあることは、復活である。

 これはあらゆる災害や迫害、病気、事故などで命をうしなうことがあっても、また老齢ゆえに死を迎えることになっても、決して失うことのない希望の根源である。

  そしていかなる状況で死ぬことがあろうとも、主は私たちに永遠の命を与えてくださる。しかも死ぬ前から、ただキリストを信じるだけでその永遠の命を与えてくださる。

 そのような祝福と幸いな約束を与えられている者にとって、「聖霊よ、来てください! という祈りは、すべての人たちにあてはまる祈りとなる。

 「御国を来らせたまえ!」 という祈りと重なり合って私たちの祈りとなる。

 


 

リストボタン神とキリストの同一性

   ーその聖書的根拠

 

 キリスト教における三位一体という言葉は、広く知られている。

 キリスト教と無関係にも、三位一体的改革などと政治や社会的な状況においても使われたりする。

 しかし、三位一体というキリスト教の真理を表す言葉の本当の内容はどういうことなのか、一般的にはほとんど知られていないし、キリスト者であっても、三位一体などは後のキリスト教会が生み出した教義だといって聖書にはそのような言葉はないといって本来のキリスト教とは関係がないのだ、というような主張をする人もいるほどである。

 さらに、エホバの証人のように、組織の力をその三位一体を否定しようとすることに力を注ぐような団体もある。

 こうした受け止め方は、その聖書的根拠を明確には知らないということが根本にある。

 三位一体という言葉自体は聖書にない。しかし、その内容ー神とキリストと聖霊の本質は同じであるということは、聖書に明確に記されていることであって、後の教会が作ったということなどではない。

 このキリスト教の真理の中心にあることを、後の人間(教会の指導者)が作った教義なのだと受けとることからさまざまの問題が生じてくる。

 エホバの証人の問題もそのひとつである。その組織からの誘いにその団体に加入して、人生が大きく変わってしまったという人も数多くいる。

 少し以前にNHKでも この団体に入って、いかなる仕打ちを受けたか、家庭がそのために破壊されてしまった状況を一人のエホバの証人にとらわれてしまった女性の歩みを追ったドキュメンタリーが放映されていた。  私が、エホバの証人の存在を初めて知らされたのは、いまから40年以上前のことである。

 その後、教え子や知人がエホバの証人となって大きく生活が変わってしまった人を知らされて、そこからこの問題を正しく知らねばならないと強く思わされてきたのだった。

 ここでは、まずキリストが

神と等しい存在であること、別項で、神と聖霊、そしてキリストが本質的に同じということを聖書の箇所を根拠に記したい。

 

キリストは神と等しい存在であることー

(ここでいうキリストとは、イエスという名で地上に生まれる前から存在していて、ヨハネ福音書でロゴスというギリシャ語で示されている御方、そして 地上で生まれてイエスという名前で33年間、人間の姿をとって生きて働かれた方、さらに復活して聖霊となった御方をも含む)

 

@ はじめに 言があった。言は、神であった。万物は言によって成った。成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。…

 言は肉となって、私たちの間に宿った。…それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。(洗礼の)ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「私のあとから来る方は私より優れている。私よりも先におられた方である、と言ったのはこの方のことである。」(ヨハネ1の1〜

 このように、ロゴスが肉となってー肉体をもって人々の間に来られたと記され、ここで初めてこのロゴスとは、神と同じ存在であるが、あえて人間の体をもってこの世界に来られたイエスであるとわかる。

 このように、キリストは神と同質であるということは、キリスト教信仰において特に重要であるゆえに、ヨハネ福音書の冒頭に記されている。

 この「言」の原語は、ロゴスである。(*

 新共同訳においては、このロゴスの訳語としては、「言葉」でなく、「言」が用いられている。また神とともにある存在であって、万物の創造もキリストによって創造されたということを明確に告げている。これは使徒ヨハネの思索や学びの結果でも学問からでもなく、経験からでもなく、他者からの教えでもなく、神からの直接の啓示として示されたことであった。

 なぜ、イエスとして生れる前の存在に ロゴス という語が用いられたのであろうか。

 それは、ギリシャ哲学においては、ロゴスという語は、単に言葉という意味だけでなく、宇宙を支配する根源的なものをも意味していた。そして、旧約聖書においては、光あれ!との神の言葉によって光が創造され、万物は神の言葉によって創造されたことから、神の言葉は、神の力をそのまま保持しているという比類のない重要性があり、それはギリシャの哲人たちの叡知が認識していたこの宇宙を統率している理性とも訳される目に見えないものーロゴスであり、 キリストは、旧約聖書の万物を創造する神の言葉であり、また宇宙を支配する理性的なものの双方を兼ねた完全な存在であると示された。キリストこそは、万物創造の力をもつ神の言葉であると同時に、万物を支配している根源的存在という啓示がヨハネ福音書を書いたヨハネに与えられたのだった。それが、ヨハネ福音書冒頭の内容に反映されている。

 

*)ロゴス(logos)と、それに関連した言葉は、この言葉の重要性ゆえに、世界的に有名な膨大なギリシャ語の辞典ーTheological Dictionary of the New Testament は、ドイツで出版された GERHARDT KITTEL 編集の英訳版。大型本の全10巻で、各巻が一千頁を越えているのがほとんどである。ロゴスを含む第4巻は、一一二六頁の大冊で、ロゴスに関する部分は、logos の動詞形やその関連語 logion,logikos,logios,lalew など含めて、一二四頁にわたって驚くべき精密さで解きあかされている。

 

Aヘブル書1章2〜3

 神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。 (新改訳)

 ・この箇所によっても、ヨハネ福音書と同様に、御子キリストは世界の創造者であり、神の本質の完全な現れ、すなわち神と同質であることが示されている。

 

Bコロサイ書 11320

・…子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。

なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

 

・この箇所によっても、キリストは単に二千年前に生れた人間だけを指すのでなく、万物は御子キリストによって創造されたと繰り返し記されている。

 このように、ヨハネ福音書、ヘブル書、コロサイ書のそれぞれが第一章にキリストは万物創造者であると記して、神と本質的に同じ存在であることが強調されている。

C「主」 と訳された原語は、キューリオス であるが、これは、旧約聖書では、ヤハウェ(唯一の神)のギリシャの訳語であり、6828回という多数が用いられている。

 それゆえに、新約聖書を書いた使徒たちが用いた聖書は旧約聖書のギリシャ語訳であったから、旧約聖書におびただしく用いられている キューリオス という語が、そのまま神(ヤハウェ)を表すので、おのずから、彼らが書いた新約聖書においても、キューリオス は、神と同じ意味で用いたのがわかる。

 

Dヨハネ2028…ヨハネ福音書の最後の章の終わりの部分で、トマスが 「我が主、わが神!」と叫んだ。これは著者のヨハネが、神の啓示を受けて、このトマスの告白こそがキリスト者のしるしとなるのを知らされたからである。

 このように、ヨハネ福音書においては、その冒頭にて、キリストが神であり、万物の創造主であると、確言し、その福音書の最後にも、弟子トマスの告白を通して、キリストは神であることを世界に宣言したのである。

 ヨハネ福音書においては、とくに、イエスが語ること、また弟子たちのイエスへの告白は、単に同時代の人たちが読むためでなく、あとの数千年をも視野に収め、人類全体に向って語りかけている側面がある。聖霊が豊かに注がれるほど、時間と空間を越えていく。

 

 例えば、イエスが大声で立ち上がって言われたことがある。一般的には、イエスは物静かに、しかし神の力によって語るというイメージがある。しかし、このヨハネ福音書の重要な箇所では、それとは逆である。

 … 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲め。わたしを信じるものは、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ 7の37

 このイエスの大声で叫ぶように言われたのは、とくにだれに向って言ったのかは記されておらず、時間を越え、空間を越えて語りかけたという意味が含まれている。

 

 また、次のような箇所もイエスが神性をもっていることを指し示している。

E…イエスの姿は 顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。(マタイ17の2)

Fマタイ2531  人の子は栄光の座につく

G…ユダヤ人たちは イエスを撃ち殺そうとした。彼らは言った 「お前は人間なのに、自分を神としている。」

  イエスは言われた、「私は神の子であるといったからとて、どうして 神を冒涜している というのか。」(ヨハネ103338

 

・イエスの時代には、神の子 といえば、神と同じ存在を意味していた。それゆえに、アブラハムやモーセ、ダビデなど旧約聖書では特別に神に近かった人物も 神の子 とは言われていない。イエスはみずからを人の子と言い、また神の子とも言っていた。

 日本語では、神の子といえば、だれもが神の子であり、人間みな神の子という主張もある。

 しかし、聖書においては、「神の子」というのはキリストだけであり、神と等しい存在である。それゆえに、次のような言葉が自然につながってくる。

 

…これらのこと(ヨハネ福音書の内容)が書かれたのは、あなた方が、イエスを神の子メシアであると信じるためであり、また信じてイエスの名により、命を受けるためである…(ヨハネ福音書2031

 ・ヨハネ福音書が書かれた目的は、人々が、キリストは神なのだ、ということを信じるようになるためだと言われているほどである。

 

…イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまる。(Tヨハネ 4:15

…だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではないか。(Tヨハネ5の5)

 

 このように「神の子」とは神と同質であることを意味するからこそ、そのことを信じるかどうかが決定的に重要になることを強調しているのである。

 それゆえに、イエスが神の子であると言ったことは、自分が神と同質の存在であることを言ったということで、ユダヤ人たちは「イエスを、神を汚した、冒涜した」といって迫害しはじめたのである。

 


 

リストボタン神の風ー聖霊の神性

 

二千頁にわたる聖書の冒頭に、まず記されているのは、闇と空虚のなかに 神からの風(*)が吹き続けていたということである。(創世記1の2)

 

*)「風」と訳される言葉の原語(ヘブル語)は、ルーァハであり、これはもともと「風」を表す。この同じ創世記の少し後には、このルーァハは次のようにつかわれている。

…彼らは、日の涼しい風(ルーァハ)の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。(創世記3の8)

 

 そのことは、次のアメリカのプロテスタント、カトリックの重要な英訳聖書に反映されているし、日本の聖書学者、伝道者としても知られている関根正雄訳もそのように「霊風」と訳している。

 ルーァハという原語は、目にみえない空気の動きをいみするので、風とか人間も一種の空気の動きを生み出しているので、それを「息」と訳している。 そこから息が止まると死ぬので、霊という意味にも用いられる。

 これはラテン語の spiritus でもギリシャ語の pneuma でも、同様に、風、息といった意味がもとにあり、そこから霊とも訳されるようになっている。

 

・神の霊風が大水の上を吹き…。(関根正雄訳)

a wind from God swept over the face of the waters. ( NRS)

a divine wind sweeping over the waters. (NJB)

 

 全くの闇と何も形なく、空しいところに、ただ神からの風が吹いていた。これは何を意味しているだろうか。

 どんなところにも、神からの風は吹いていく。目にはみえず、どんな小さなすき間でも入っていく。そしてどこから来たのか、どこへいくのかわからない。しかし、強い風ならば、大木をもなぎ倒すほどの力を持ち、台風の時などは、広大な大海原に10メートルを越えるような大波を生み出すが、そのエネルギーは莫大なものがある。

 創世記の最初の記述においては、この「神からの風」の重要性は、この言葉の直後にあらわれる言葉、「光あれ!」の言葉とその言葉にしたがって万物が生み出されたということの蔭に隠れがちになる。

 しかし、光の出現以前に、何もないところ、かたちなく空虚のただなかにあって 神からの風が吹き続けていたということは、重要な意味をもっている。

 この霊的な風は、いかなる闇であっても、また何もない空虚なところであっても吹いているということであり、神のご意志にかなったものをを生み出そうとして、吹いている。

 それは現代の私たちにとっても重要な霊的な意味がある。

 固く閉じられた心にも、そうした風は入ってくることができる。それは、キリストが十字架で殺されたあと復活したあとでも、弟子たちは人々を恐れて部屋の戸に鍵をしめて籠もっていたことが記されている。

 …その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(ヨハネ 2019

 

 このことは、復活したイエスは、風のように鍵をかけている家にも入ってくる(吹いてくる)ということが意味されている。

 また、イエスは、次のようにも言われた。

…風は思いのままに吹く。

 あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。

霊から生まれた者も皆そのとおりである。(ヨハネ3の8)

 

 この風は聖霊を暗示している。聖なる風は、どこからどこへと神のご意志のままに吹いていき、どこへ吹いていくのか、私たちにはわからない。

 聖霊のはたらきもだれも予想できない。聖霊によって新たに生まれた人も、風のように聖霊が導くゆえに、その前途の歩みはだれもわからない。

 こうした神の風(聖霊)のはたらきが風と関わりをもって記されているのは、次の有名な箇所にも見られる。

 

…五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。(使徒2の1〜2)

 

 歴史上で最も大いなる聖霊の注ぎは、この箇所で記されているように、激しい風のような音とともに集って祈り続けていた人々に注がれた。

 現実の風と同様に、風は弱いしずかなものもあれば、暴風のような激しい風もある。史上でもっとも大いなる聖霊が注がれたときは、このように激しい風のような音とともにであった。

 ベートーベンのような天才的作曲家は、耳が聞こえなくなってもなお、第九の終りにあるような壮大なコーラスが聞こえて来たゆえに、それを楽譜に表して以後世界で演奏されるようになった。

 また、預言者にも、そうした神の大いなる声を聞いた人たちがいるのが見える。

 これは激しい風の音のように、聞こえてきたのだと思われる。

 

…主はシオンから、大声で叫び、

エルサレムから声を出す。(ヨエル書3の16

 

 あるいは、今から二七〇〇年以上も昔の、アモスという預言者は、彼の受けた啓示の冒頭につぎのように記されている。

 

…主はシオンから吠え、

エルサレムから声を出される。(アモス1の2)

 

 アモスは、どんな人物であったか、聖書にはただ、羊飼いであった ということしか記されていない。

どのような生い立ちであったとか家族はどうか、性格は…等々といったことはすべて無視され、ただ羊飼いという当時の宗教的な仕事にはまったく関わりない牧者であったが、そのようなただなかに、神の大いなる叫びが聞こえてきた、ということに集中して記されているのである。

 このように、とくに日本の大多数の人々にとっては、宇宙万物を創造した神などいない、個人的に語りかける生きた神などいない、その支配も力も何もない…という感覚を持っていると思われるが、じっさいは、このように数千年まえから、神の大いなる叫び、人々にむかって語りかける愛なる神が存在して、その選ばれた人に聞こえるようにしていたのだった。

 そして、その聞き取った言葉は、後に筆記具も貴重な時代であったが、文字で記され、代々伝えられていくことになった。

  神の言葉が数千年前に、とくに選ばれた人たちに語られ、それが神の支えと守りによって、受け継がれ、現代の私たちにまで広く世界中にて広がってきた。

 それは、かつてごく一部の人によって聞き取られた神の言葉が、大いなる神の風によって 数千年を越えて、ありとあらゆる障壁を越えて、また貫いて現代まで吹き続けてきたということである。

 そして現代に生きる私たちも、またその風を日々魂の深みに受けつつ日々を歩ませていただきたいと願うものである。

 


 

リストボタン聖霊が神と同じであること 

 

 神とキリストは同じ本質を持っているということは、キリスト教信仰における基本的な内容である。

 それゆえに、神様!と呼びかけて祈ることも、イエス様!といって祈ることもよくある。

 新約聖書においても 主(キューリオス)という語が、神を指していることもあり、またキリストを指している場合もある。さらに、キリストとも神ともとれる場合もある。その使用例からもわかるが、新約聖書を記した使徒たちは、神とキリストを区別せずに用いていた、その両者を同一として受けとっていたのがわかる。

 そうした聖書の記述のなかから、神と聖霊が同一であることを示す箇所をあげてみたい。

 

 @ヨハネ1416〜(私が地上からいなくなって後は)聖霊をつかわす。

 この方は、永遠にあなた方とともにいる。この方は、真理の霊(聖霊)である。

 その聖霊があなた方にすべてのことを教える。…

 

 すべてのことを教えることができるのは、神以外にはない。また永遠に我々と共にいることができるのも、神(キリスト)以外にはない。ここでも、この聖霊は、神と同質であることが示されている。

 そして、神は愛であると言われているように、弱き罪深き者である私たちとともに永遠にいてくださると約束してくださった。聖霊の働きの本質は愛である。

 

 ・その聖霊は、あなた方と共におり、これからもあなた方の内にいる。(ヨハネ1417

・かの日には、あなたが私の内におり、私もあなた方の内にいる。(同20

(これらの箇所は、聖霊はキリストと同じであることを示す)

 

・私を見たものは、父(神)を見たのだ。(同9節)

(このようなことが言えるのは、神とキリストが同じ本質を持っているからである。)

 

・私は去っていくが、また、あなた方のところに戻ってくる。(28節)

(これは、キリストが死しても、復活して聖霊となって戻ってくることを意味していて、ここでもキリストと聖霊が同じであることが示されている。)

 

 旧約聖書には、神は「憐れみの神、恵みの神、愛の神であり、かつ真実で、正義の神」と記されている。(出エジプト記34の6〜7) しかし、この重要な事実は、旧約聖書に見られる悪しき行動への裁きが強く印象づけられていて、神が愛であることがしばしば見落とされ、さばきの神と受けとられやすい。しかし、人間として来られたイエスは、目に見えるかたちで弱者、捨てられた者、罪に死んだ者への愛を直接的に示され、いかに神が愛であるかをだれでもわかるかたちで示された。

  聖霊となったキリストは、戸を閉めていても入ってくることができる。聖なる風であり、どこへでも吹いていける完全な自由さを表している。

 創世記の最初にある、闇と深淵の世界に 吹き続けていた神からの風(divine wind またはwind from God)は、いかなる闇にあっても、現代においても吹き続けている神の風を指し示すものとなっている。

 あらゆる困難にあっても、不幸の打ち続くような状況に置かれてもなお、そこで神からの語りかけを聞き取り、そのなかに、私たちがなぜこのような苦しみに遭わねばならないのか…そしてこの苦しみの果てはなにか、いつ解決するのか…等々、謎のような深い問題についても、聖霊はすべてを教える。それは聖霊もまた愛なのである。

 以下にあげる例のように、使徒言行録において、聖霊は、語りかけ、命じる存在として記されていて、単なるエネルギーなどでなく(*)、活ける神、あるいは復活のキリストと同じ生きて働きかける存在である。

 

*)別項で述べたように、「ものみの塔」という団体に属する人たちーエホバの証人と言われるーは、この聖書できわめて重要な、神とキリストと聖霊が同一の本質、神性を持っていることを強く否定する。例えば、「聖霊とは人格的なものでなく、神の活動力だ」「電池のエネルギーのようなものだ」と主張する。 そして、活けるキリスト、聖霊の導きにしたがって歩むのでなく、彼らの団体の一部の指導者の言うままに従うような人間に変質させて、支配していこうとする。それは、家庭に深刻な打撃を与えることもしばしばとなった。私は45年ほどまえに徳島県に入ってきたエホバの証人の本質をしるために、相当な時間とエネルギーをもちいてさまざまのエホバの証人関係の書を参照し、かつ彼らと個人的にかなり長期にわたっていかに彼らの主張が聖書の真理からはずれているかを聖書の箇所を示しつつ、理解してもらうような個人的な集まりを持ったり、また遠く仙台から徳島にエホバの証人を知らせるために来たという人たちと相当な時間を費やして、何カ月にもわたって定期的に聖書をもちいて議論したこともあり、さらに、彼らの集会にも参加して、礼拝をどのようにしているかの実態にも触れ、そして大阪からもエホバの証人で家庭が破壊され、裁判になっているという人から依頼で大阪に行き、大方一日を費やしてそのまちがいを聖書を参照しつつ、彼らの書物の内容のまちがいを指摘したこともあった。そのようなさまざまのことを通していかにエホバの証人が聖書の真理からはずれているかを知らされていった。

 

 使徒言行録における以下の内容は、聖霊が、復活したキリストと同じように語りかける存在であることをはっきりと示している。

 Aペテロがなおも、見たものについて考えていると、(聖)霊がこう言った。「3人の者たちがあなたを捜しに来ている。下に行き 共に行け…」(使徒言行録1019

 

B…一同が主に礼拝をささげ、断食をしていると、聖霊が「さあ、バルナバとサウロとを、わたしのために聖別して、彼らに授けておいた仕事に当らせなさい」と告げた。 (使徒 1322

 

C…聖霊がピリポに 「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と命じた。(使徒言行録829

 

D…霊が私に、「ためらわずに一緒に行け」 と言われた (同上 1112

 

 次のロマ書8章においても、神の霊、キリストの霊が同一視して記されている。

E…しかし、神の霊があなたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。

 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださる。(ローマ8911

 

・ 次のローマ書の箇所、ここも、執り成す(祈る) とあって聖霊が人格的な存在であることを示している。執り成すと訳されている原語は、祈るという意味を含んでいる。

 

…聖霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、聖霊ご自身が、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さる(祈ってくださる)からである。(ローマ826-27

 

  聖霊は、神のご意志にしたがって、聖徒たちのために、執り成してくださる。

 それゆえに、神を愛する者たちには、万事が益となるように共に働く。

 

…私たちを罪に定めるものはいない。

 復活したキリスト・イエスが私たちのために執り成してくださる(祈ってくださる)。(*

 だれがキリストの愛から私たちを引き離すことができようか。、艱難か、苦しみか、迫害か、飢えか、剣か。(ローマ8の26283435より)

 

*)「執り成し」とは「祈り」  ここで、繰り返し用いられている「執り成す」と訳された原語は、ヒュペル エンテュンカノー(26節)、エンテュンカノー(2734節)である。(ヒュペルは、〜のために、でここでは強調をあらわす接頭語)

 

 この原語は、どのように訳される言葉であるかを次の用例で見ることができる。

 旧約聖書の続編にある「知恵の書」でソロモンが叡智を求める長い祈りが9章からはじまるが、その直前の8の21では、このエンテュンカノーは、「私は主に祈り…」と訳されている。 I prayed to the Lord (Wis 821 NJB) また、中国語訳でもこの部分は、 「祷告」 別訳で、「祈求」と訳され、やはり祈りと訳している。

 しかし、日本語の「執り成す」という言葉は、「対立する二者の間に立って、うまくまとめる」ということであり、例えば仲違いした父と子のあいだに母親が入って対立をなくそうとするといった意味である。この日本語には、祈るというような意味は全くなくて双方を妥協させるという意味がある。

 

 このローマ書の重要な部分において、聖霊が、私たちのために罪に定められないように、滅びることのないように、またどんな困難が生じても救いに至るようにとうめくほどに祈ってくださっている。

 それゆえに、万事が益となるようにしてくださるということである。

 そのような聖霊の祈りがあるゆえに、艱難も苦しみや迫害、飢え、剣…あらゆる危険がふりかかっても神の愛から引き離されることはないと強い表現でしめくくっているのである。

 このような聖霊(復活したキリスト)の祈りは、生前のキリストの次の言葉と同様に、現在の私たちにおいてもなされている。

 主イエスは、捕らわれる直前、ペテロに対して「あなたの信仰がなくならないように祈った」(ルカ2232

 聖書の記述は、たんに特定の人物だけにあてはまるのでない。これは、単にペテロだけでなく、困難な状況にある私たちすべてに対して言われたのである。

 キリスト者が他者のために祈るーそれはごく自然なことであり、たえずその祈りは捧げられている。

 そうした祈りをうながすものは、聖霊であり復活して生きてはたらくキリストである。


 

リストボタン「祈りの友」について

 

 祈りの友は一人のキリスト者、内田正規(まさのり)の肺結核の同病者のための祈りという一つの小さなところから始まった。

 1932年1月、当時の結核療養者の冊子「療養生活」の読者投稿欄に岡山の結核療者であった内田正規が投稿した。

 それが「午後4時の祈りについて」という題で、それが「祈りの友」出発点となった。

 それは、1932年の1月。その中で内田は次のように書いている。

「私達、病める者、とくに長い病床生活を余儀なくされている者の最も深い仕事は祈りであると思います。いかなる重症患者も祈りだけはできます。

 幸いにも憐れみの父なる神を知ることができて救われ、病床に感謝の生活を送っている私は同じ病気に悩み苦しんでる人たちを思うと祈らないではいられなくなりました。

 そこで私は毎日朝夕の祈りの時に病人の為にも祈ることにしていました。

 ところが今年の8月にひとつの転機があり、病友のために、別に午後4時を定めて祈ることにしました。

 私は百万人(*)の結核患者を救いたまえと、祈ります。ご賛同くださる方は、どうか祈ってくださるよう願い上げます…」とこのような呼びかけだった。

 

*)1934年には、結核による死者は12万3千人余、患者数の推定=120万人。

 

 この呼び掛けに対して、ただちに次号に、二人が、さらに次号以降は賛同者が増え続けて、1年半ほどのうちに50数名となった。 そして、この賛同者は、「午後四時一致祈祷団」と呼ばれるようになった。

 その後、1934年6月には、「療養相互祈祷会通信」第一号が発行され、これが後の「祈の友」誌となった。さらに、1936年には、内田によって、共に祈る時刻を午後4時から午後3時と変更した。それは、キリストが息絶えた時刻であり、祈りに際してまずそのことを思い起こし、キリスト者の信仰の出発点は、イエスが非常な苦しみをもって、万人の罪を担い、十字架上で死したことにあり、繰り返し私たちの信仰の原点に思いをいたすためであった。

 会の名前も「午後三時祈祷療友会」と変更された。

 1944年、内田正規の死により、江藤顕三が、会報を受け継いだ。1947年に江藤の死により、山梨県の西川賤(しずか)が、後を引き継いで、主幹となった。 以後、1977年まで、30年にわたって主幹を続けた。

 西川の後を引き継いだのは、島根県の中山貞雄。

1988年に、中山に変わって、埼玉県の 稲場満が主幹となった。

 その稲場さんから2000年の年明けて、直接に埼玉県の秩父市に呼ばれて、次の主幹となって「祈の友」を続けるようにとのことで、細かい引き継ぎの事務的なこと、「祈りの友」の定期的出版物の編集、発送関係や経費、そうしたさまざまのデータのパソコンでの処理…等々を話された。

 それまでにも、稲場さんが弱いお体で「祈の友」の相当な数にわたるデータ処理に難儀しておられたので、そのデータベース処理のソフトでとても簡便に仕えるものがあったのでそれを紹介して、インストールし、それが使えるようにお手伝いをしていたことがあった。

 稲場さんは、私が次の主幹になることについて、すぐに私が引き受けることと思っておられたようで、そのために、一泊の宿泊を近くの旅館で予約さえしてくださっていた。

 それは、電話やメール、手紙などでは、引き継ぎのためのさまざまの複雑な「祈りの友」関係の仕事が十分につたわらないからだった。

 しかし、私には当時、日曜日の主日礼拝以外に、夕拝や各地での家庭集会があり、毎週4〜5回ほども集会があり、「いのちの水」誌や集会だよりの定期的出版、病気や障がいのある方々への訪問、等々、とても「祈の友」のために時間を用いることができない時期にあった。

 それゆえに、すぐにはお受けできないので、協力者や各地の家庭集会を少なくするなどいろいろと考え、祈る時間が必要なので、1年ほどは待ってくださいと希望をだしたのだった。

 それを一応稲場さんは受けられたが、数カ月経って、「1年は待てない、自分の健康状態が悪化しているので、一年後には、引き継ぎの作業もできなくなる可能性が大きい。それ故、もしすぐに引き受けられないのなら、別の人を選ばざるをえない」との来信が届いた。

 それでも、私はどうしても、すぐには受けられなかったので、別の方ー稲垣謙次郎さんが主幹となられた。

 その後、稲垣さんも健康上の問題から続けることができなくなり、「午後三時祈の友会」は終了することとなった。

 私は、「祈りの友」の状況を、年に一度の北海道瀬棚の瀬棚聖書集会での御言葉を語るという役割を終えてからの帰途に、各地の祈りの友を訪ねてその実態をしることになった。

 そして住所を捜して訪ねても不在とか死去、あるいはもう「祈の友」の通信も読めないという状況になっている方々をいろいろと知らされて、私が祈りの友を受け継ぐときには、キリスト信仰に立って祈られ祈るという基本的精神を維持しつつ、より単純化していかねばならないことを深く知らされた。

 それは、年に一度の九州から中国地方を各地の集会を訪問するおりにもそのような各地の祈りの友を訪ね、その実態をしることでいっそう強められた。

 私自身の各地の集会や「いのちの水」誌、また集会だより、等々があるので、時間も制限があるため、「祈の友」に専念することは到底できないことであった。

 しかし、私は、稲場満さんから、すでに書いたように埼玉まで呼ばれて依頼を受けたが、その以前に、中山貞雄元主幹が徳島に来られたときにも、直接に中山さんからも、稲場さんは体が弱いからそんなに長くは主幹をやれない、そのあとは是非「祈の友」の主幹となって、「祈の友」を受け継いでほしいと強く言われていた。

 そうした二人の元「祈の友」の主幹の方々から、それぞれ別々に、ぜひ「祈の友」を受け継いで主幹としてやって欲しいと言われていたので、それは、十分に時間がとれなくとも、何とかして受け継いでいくのは神様からのメッセージなのだと感じていた。

 そのために、新たに、「祈りの友」を始めることになり、以前の「午後三時祈の友会」の会報の最終号に、その新たな「祈りの友」の内容を書いた印刷物を同封し、2013年4月から始め、今日に至っている。

 現代の日本は、高齢化により、夫婦が病気、あるいは片方が病気で負担の重い介護に相当なエネルギーがかかり、苦しむという状況にある方々はますます増大しつつある。

 また、夫婦の一人が入院、あるいは施設入りとなると一人住まいという孤独が襲いかかっている状況にあり、そのような状況にあってもなお可能なのは祈りである。もともと「祈の友」は、戦前に結核に感染し、何もできず、病室で病と苦闘し、あるいは死を待つだけのような弱い人たちが互いに祈りあって神様からの力を受けようとすることからはじまった。

 祈りこそは、現代の高齢化した弱者、一人孤独な生活をしている人たちのできる大切な仕事となって残されている。

 一人だけで祈ることももちろんできる。しかし、主が言われたように、二人三人集まるところに私はいる、と約束されたのは、遠く離れたものであっても祈りをもって結ばれて互いに祈られ、祈ることでそこに主は、聖霊の主はいてくださるという約束でもある。 そしてそうした祈られ、祈る人たちに新たな平安と力を与えてくださることが期待できる。


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祈りの友 合同集会

 (オンライン集会  スカイプ)

・日時…9月23日(木 休日)

 午前11時〜16

1030分からスカイプ接続開始 12時〜1240分まで昼食休憩

〇内容

・開会礼拝  吉村孝雄(10分)

・聖書講話(各15分)、

・小舘 知子(東京、春風学寮寮母)

・西澤 正文(静岡聖書集会代表)

・秀村 弦一郎(福岡聖書研究会代表)

 ほかに、県内外の方々による証し、感話、讃美、自己紹介、午後三時の祈り(全員短く祈る)

・この「祈りの友 合同集会」には会員でなくとも、「いのちの水」誌の印刷版の読者であれば、自由に参加できます。

 ネット(徳島聖書キリスト集会のホームページ)で読んで下さっている方で参加希望の方は、吉村まで問い合わせ下さい。

 申込は、左記奥付の吉村孝雄まで。E-mai、 電話 申込は9月18日までに。ただし、事情で参加が不確かな場合、この期日を遅れてもその旨連絡あれば参加できます。

主よ、あなたの慈しみは、天に、

あなたの真実は大空に満ちている。(詩編36の6)