「いのちの水」 2022年6月号 第736号

   知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。 (Tコリント8の1より)

 目次

受けとる者

・来れ、見よ

・荒廃から主の平和への道

罪の赦しと御国のための働き

・五分間メッセージから  T.S. T.M

・「野の花」文集追加

集会だより

 

リストボタン受けとる者

 

受けとる者であり続けることー

へりくだる心から。

そしてお前の柔軟性を保て。

受け取る者であり続けることー

そして感謝せよ。

耳を傾けること、見ること、そして理解することが許されていることを感謝すること。

(「道しるべ」ダグ・ハマーショルド著 一一七頁 みすず書房刊)(著者は元国連事務総長) 

 

To remain a recipient

out of humility.

And preserve your flexibility.

To remain a resipient

and be grateful.

Grateful for being allowed to listen,to observe,to understand.

Dag Hammarskjoprd:MARKINGS

 

「受けとる者であり続ける」とはどういうことを意味するのか、これは神を信じない立場にあれば、こんな受け身の態度ではよくない、というように理解するであろう。

 しかし、愛の神を信じるときには、まったく違ってくる。

 主イエスが言われたように、神の愛は、太陽の光のように、また降る雨のように、無差別に注がれている。私たちはただ心の戸を開いてそれを受けとるとよいのである。

 神の国は近づいてそこにある、魂の方向を転じてその神の国を受けなさい、というのが、キリストの宣教のエッセンスであった。

 十字架による罪の赦しも、永遠の命も復活もみなすでに誰でもが取り込めるように置かれている。

 これらの真理は、いわばこの世界の中心に置かれていて、誰でもがそこにアクセスして、自分の内に受けることができるのである。

 主イエスは私たちのために、その愛のまなざしを注ぎ、祈りをもって見つめておられる。そのまなざしも、私たちが魂の静けさを持って待ち望むとき、だれでもが受けられる。

 使徒パウロも、自分の意志とか考えでなく、主によって選ばれ、呼びだされ、遣わされたのだということを彼の手紙の冒頭にしばしば記し、神からの呼び出しを受ける者となったのを示しる。

 ここにも歴史上で特別に重大な働きをした人が、魂の深いところで、受けとる者であり続けた、ことを示している。

 そしてこのように、神が与えようとしておられるものを受ける心の準備を常にしていることが、心の柔軟性を保つことになるというのである。

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 なお、この言葉を残したハマーショルド国連事務総長がコンゴ動乱の停戦調整に赴く途中、アフリカ上空から飛行機事故死した。(一九六一年九月)それは私が中学3年のときであったが、大ニュースとして新聞に大きく掲載されていたのが深く心に残された。当時はアフリカのコンゴ動乱で大きな混乱があり、コンゴにも四回も訪問し、彼はそのために日夜精根込めた活動に勤めていた。

 彼のそうした働きに自国の政治的な視点から快く思わないソ連はハマーショルドの辞任要求を出した。そうした動きと彼の突然の事故死との関連は明らかではないが、比較的最近になって彼の乗っていた飛行機は、ベルギー人傭兵のパイロットによって撃墜されたことが判明した。

 彼は、生前からノーベル平和賞を受けることになっていたが死後にその賞を受けた。国連の一室に、瞑想室を設けて深く祈ることの重要性を身をもって示していた。

 ここに引用した「道しるべ」は、彼が残した唯一の著作で、私はずっと以前からこの書に心惹かれるものを感じてきた。

 国連事務総長という激職にあって、神に祈ることを中心に据えて活動する、それは内に神が生きて働いていなければできないことであった。

 


 

リストボタン来たれ、そして見よ! 

    ヨハネ福音書から

 

女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。

『さあ、見に来てください。』(*)」(ヨハネ4の29

 

*)傍線箇所の原文は、ギリシャ語で、deute  idete (デユーテ イデテ)であり、この文の英語訳はその多数が、Come and see 来れ、見よ (NRS) と訳している。

 

 この デューテ という語が、旧約聖書のギリシャ語訳と新約のマタイなどに用いられている例をあげる。

 ・「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。        (イザヤ 1の18

・すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい   (マタイ 1128)

 

 英訳はほとんどが上記に引用したようにCome and see と訳されている。

また文語訳でも、「来たりて見よ」と訳されている。

  日本語訳のように、

「見に来てください」というのとは、かなりニュアンスが異なる。

 この女性は水を汲んで持って帰る、という大事な仕事を置いてまで、町に行って人々に話した。

「見に来てください」とあるが、これは原文では「来たり、見よ!」という意味を持っており、新共同訳の「見に来てください」というニュアンスとは異なる。

英語では「come and see !」である。このことばはヨハネ福音書では他の箇所にも記されている。例えば、

 

…イエスは、『来なさい。そうすれば分かる』と言われた。(ヨハネ1の39

 これも、「来れ、そうすれば見ることになる。」(、英訳では、Come, and ye shall see (ASVなど)

 この「来なさい、そうすればわかる」という言葉も同じ「come and see」であり、「見る」ということばが「わかる」と訳されている。

 …するとナタナエルが、『ナザレから何か良いものが出るだろうか』と言ったので、フィリポは、『来て、見なさい』と言った。           (ヨハネ1章46節)

ナタナエルは、ナザレという場所に先入観を持っており、よいものなど、生まれるはずがないと思っていた。するとピリポが言葉で説明しないで「来れ、見よ」(*)と言った。

 

*)来れ、そして見よ(原文は erchou kai ide.(エルクー 来れ、カイ そして、イデ 見よ)、英訳 come and see はその直訳である。

 

 人間はさまざまのことで単なる伝統的な考え方や周囲の見方、常識といったものにとらわれている。

 そのような心にしみ込んだ考え方を根本から変革するものは何か、それは単なる教育や経験、学問、議論…等々ではない。

 それは、キリストのもとに行くことである。キリストは、単に二千年前に生きて十字架で処刑されただけの御方でない。復活し、信じて求める者には、なんじの罪赦されたり、との語りかけをなし、また、この世におけるさまざまな苦難、悲しみ、挫折、絶望などにおいて人間が与えることのできない深い慰めや力を与える御方である。

 言い換えると、今も聖なる霊(風)、あるいは「いのちの水」としてこの世界に吹き続け、流れ続けている御方である。

 きょうの箇所においても、この「来る、見る」という二語が使われている。

 ヨハネ福音書においては、「見る」という言葉は、原語も複数の言葉が用いられ、表面的に見るというのとは異なる、深い霊的な意味が込められていることがしばしばである。

 この女性は重い瓶に水を汲む仕事をおいて、「さあ、来て、見なさい」と言ったのである。女性はイエスと初めて会ったのに、自分の過去のことを見抜いていたことに驚いた。

過去のことを見抜く。時間や空間を超えた力をイエスが持っているということに目覚めた。

 私たちは、時間や空間に縛られている。しかし、その根本的なものを持たない御方がおられる、それはまたこの世のあらゆる出来事は、時間や空間に結びつけられていて、それらに縛られていると言える。

 しかし、この縛られた世界において、それらに全く縛られることのない世界が、ひとたび霊的な世界に目を開かれるとき、私たちの心の中にも、また至るところに広がっているのに気付かされる。

 サマリアの女は、井戸端で出会った見知らぬ人(イエス)が、自分のかつての罪を、時間や空間を越えて見抜くことのできる驚くべき存在であることに目が開かれた。

 こんなことができるのは、ずっと神が約束されていたメシアであると直感した。

キリストと言われるメシアが来たら一切のことを知らされる。この「一切のこと」には、すべてが含まれている。

 すなわち、すべての自然現象についても、人間にとってその意味が知らされることが含まれるのである。

 科学で花の色の生成の過程が明らかにされたといっても、それは「いかに(How)して、その色が生成したか」ということであって、その花の美しい色合いや花の形、あるいは葉の一つ一つや茎や幹などの違いが人間にとっていかなる意味を持っているのか、そうした美の存在意義や形、色合い等々が人間の魂にとってどのような意味があるのかなどには答えることはできない。

科学の解明は定量的なもの(数えられるもの)に限られているのである。

虹の美しい姿、それはなぜそのような七色が出てくるのか、というと、雨粒内にて波長の異なる太陽光が屈折、反射するからだと言われる。しかし、正確には、それは「なぜ」ではなく、いかにして(How)、あの七色が生成してくるか、ということである。微少な水滴における光の屈折と反射の法則によって虹が生じると説明できても、あの虹の美は、なぜ存在しているのか、とか、そのような光の屈折や、反射の法則はなぜ存在しているのか、さらに、虹を美しいと感じる感動する心はなぜ存在しているのか。(犬やネコその他の動物、鳥類は人間よりはるかに鋭い目を持っているのはいくらでもいる。しかし、虹や草花、あるいは夕日、山々や雪山などの美に感動することはない。)

 そうしたさまざまの存在の意味ーそれは科学技術や一般の教育や経験によっては与えられない。

 そのようなさまざまの現象がいかにして生じるのか、その過程をいくら精密に解明したとしても、大空の澄んだ青い色を心地よく感じる感覚がなぜ存在しているのか、それが人間にとっていかなる意味を持っているのか、あるいは数々の花々の形の多様性が人間にどんな意味を持っているのか…等々私たちの周囲に見られる数知れない現象の存在の意味は何一つ解明されない。

人間に関することでも、ある人は生まれつき歩くこともできない、またある人は、目が見えない…また健康であっても突然の事故、災害で生涯寝たきりとなったり、失明したり…また肉親を失ったり…、あるいはまた家族が難しい病気となり日夜苦しむとき、なぜ自分にそのような苦しみが降りかかり、耐えがたい苦しみや悲しみにまきこまれなければならなかったのか、交通事故にしても、無数の車が同じように道路を通行していたのに、なぜ自分の車だけが他者の違反で正面衝突されて生涯の苦しみを負うようになったのか、そうした苦難が、なぜ自分に突然にして存在するようになった意味もまた、医学や教育がいくら発達しても何も分からない。答えられない。

 こうした日常生活における数々の出来事が特定の人に突然存在するようになる意味は分からないからこそ、「偶然に生じた」という他ないのである。

 親が仕事もしないで酒飲みで暴力をふるうーそうした家庭の家族の苦しみは大変なものである。なぜそんな家庭に自分が生まれ出た、存在するようになったのか?…と繰り返し叫びたくなるであろう。

 こうした無数の存在の意味の分からないことに私たちは取り囲まれている。

 ウクライナの人達、とくに家を破壊され、家族も失い、住んでいた土地からも追われる身となった人達は、このような危険な場所になぜ自分は生れたのか(存在するようになったのか)と日夜問い続けることにもなるだろう。

 こうした類のことは、大学など高等教育が非常に発達した現代にあっても、まったく分からない。

 こうしたことは、聖霊がすべてのことを教えると聖書で記されている。

 言い換えると生きて働くキリストによって、こうした至るところにある存在のなぞに関する真理が少しずつ明らかにされていく。

 最終的には死後の復活のときに、肉体の制限から解放されてキリストの栄光と同じようなかたちに復活させていただいたとき、一切のことが知らされる。

…わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。

だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。(Tコリント1312

 

 辞典やスマホで花の名前や性質、自生地等々いくら詳しくしることができても、感動できる心は生れない。

 科学の知識やカメラ等々の機器がなくても、空、海、雲、花の美しさを見て感動する心。それも、イエスの所にきて、聖霊を注がれることによって与えられる。

 キリストのことなど知らずとも、感動する心はあるという人達ももちろんいくらでもいる。そのような方々の感動する心もまた、神(キリスト)によって与えられている。

 科学やその他の学問は、私たちのそうした感動の心、悲しみや喜びを感じる心…等々を生み出すことはできない。 

 それらは、科学やその他の学問など全くなかった時代や状況にある人達であっても豊かにそのような心を持っていた人達はいくらでもいる。

 それは、神が与えたのである。これも科学技術や経験、学問などからでは分からない。

…しかし、弁護者(励ます者、慰め主、救い主とも)、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

       (ヨハネ14の26)

 科学やその他の学問、書物、経験、あるいは生まれつきの能力等々があっても、この世で最も美しいものは何か、とかこの世のさまざまの花々とか風景、山々、雪の山の美しさは、どんな意味が込められているのか、本当の愛、神の愛とはどんなものか、死んだらどうなるのか、この世界は最終的にどうなるのか…等々、科学や学問、経験、知識などでは答えがない問題はいくらでもある。

 そうしたあらゆる現象について、その存在の意味も含めて、聖霊が、その人にとって必要なすべてのことを教える、と約束されている。

 聖書にはキリストの言葉が書かれている。苦しいときにはキリストの言葉、聖霊となったキリストがパウロなど使徒に与えた言葉、さらに、旧約聖書からの神の言葉が思い出される。それが、聖霊の力、働きである。

今、ウクライナにおける戦争が続く。それがなぜ起こるのか。そして戦争はウクライナだけではない。今も戦闘は各地にあり難民はあふれている。そして過去には世界にも日本にももっと残虐なことは昔からいくらでもあった。しかし、それにも関わらず、キリストの真理は続いてきた。

 人間である学者が提言することは時が来たら変る。マルクス経済学は、ソ連、中国、東ヨーロッパの国々等々の共産圏を生み出した。共産主義とは資産や生産手段を共有し、それぞれの人の必要に応じて、平等に分けるということである。   そうした世界へと、資本主義から必然的に社会主義、共産主義へと移行していく科学的真理であるといわれた。

 生産手段などを共にして生産し、利益を個人の必要に応じて平等に分けようと言う。とてもよい制度になると思われた。しかし、実際は違っていた。

 また、原発も安全だと言われていたが、実際は非常な危険を内蔵している設備であり、さらに放射性廃棄物の処理の問題は、10万年を経てもなくならないほどの難題であって世界のどの国も非常な困難に直面しているし、今後ともほとんど永久的に後の人々を苦しめることになる。

さらには、汚染水の処理ができない。また、テロの攻撃にあうおそれもある。このように、学者や天才がすぐれたことを言っても変わるのである。

 しかし、聖書には、二千年、三千年経っても変わらない真理で満ちている。

そして神は人間の過去の罪もすべて見抜かれている。見抜かれて赦してくださるから、神の愛がわかる。

それを知らされるとき黙っていられない。この女性のように「イエスの所に来たれ、そして見よ!」と思う。

その単純なことばで、人々は、来たのである。

 わたしたちは自分のことを見抜かれている。過去も、未来も、場所も、良い思いも悪い思いも見抜かれている。

 わたしたちが隠れてよいことをするときには神が報いてくださる。その神を知るとき「来たれ、見よ」と言わずにはいられない力がある。信仰は単純である。

イエスのところに行かないで、人間のところに行くとき平安はない。

 イエスは、この大切な真理を、偶像崇拝しているとされ、見下されていたサマリアで水を汲みに来た女性に表した。このように、だれでも、真理を受け取ることができることを示された。

 わたしたちの苦しみ、家族の問題、世界に起こるさまざまな問題、津波、地震等々の自然災害の私たちにとっての意味を学者や医者などの人間ではなく、イエスが教えてくださるときに、初めてわたしたちは安心できる。

 人間の言葉でも安心できることがあるが、また別のことを言われると動揺する。神以外のどこにいっても、本当の安らぎはない。攻撃されても壊れることのない強固さはキリストが持っている。

 どんなことがあってもキリストのもとに行こう。霊的に真理を知らされて共に力を与えられよう。

 それは、わたしたちキリスト者の共通の願いである。

 

(5月22日(日)主日礼拝における聖書講話「来たれ、見よ!」を修正追加したもの。ヨハネ4章2530 参加者 会場8名、スカイプ49名 )

 


 

リストボタン荒廃から主の平和への道   イザヤ書の初めの章から

 聖書の預言者たちは、まさにみずからの国の政治、社会的状況の混乱とその根本原因、そしてその行き着く先を鋭く見抜いてそこから、人々や支配者たちに神から受けたメッセージを語り続けた人達だった。

 旧約聖書の代表的な書の一つであるイザヤ書を見てもそのことは明らかである。

 イザヤ書は、66章から成り110頁にわたる書であるが、その最初の部分には何が記されているであろうか。

 それは、当時のユダとエルサレムの社会状況に対する実態であるが、その前に、次のように言われている。

 

…天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。

          (イザヤ書1の2)

 天地に向って、聞け!と呼びかけるとは普通にはあり得ないことである。それほど、イザヤがこれから告げようとすることは、広大無辺のことだと言おうとしているのである。

 人間の根本問題たる罪深さ、そこからの滅び、しかしそれにもかかわらずそのような状態の人間に与えられる救いへの道ーそれらがこのイザヤ書の内容であり、それは一部の民族とか地域、あるいは時代だけに通用するのでなく、永遠の真理であるからこそ、このように天地に向って聞け! と言われている。

 そのように天地に呼びかけたあとに続くことは次ぎのような内容である。

 

  神が特別にその民を愛して育てたが、彼らは背き、罪犯し、悪を行う民となった。それゆえ地は荒廃し、町々は焼き払われてしまった。

 かつては、正義が宿る町であったのに、今では人殺しが横行し、支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり、賄賂を喜び、孤児の権利は無視され、夫なき女の訴えは取り上げられない…。

        (イザヤ書1章より)

 このような荒廃した町、人々が救われる道はあるのか、それがイザヤ書の中心問題である。そしてイザヤ書には、著者の考えや希望といった人間的な思い、考察、思想といったものでなく、そのようなあらゆる人間の思惑を超えた神からの直接的な啓示が記されている。

 普通に考えるとき、イザヤが冒頭で記しているように、腐敗に満ちた状況は、絶望であり、どんな方法によっても回復はできないと思われる状態である。人間全体が腐敗にみちてしまっているからだ。

 しかし、それは、目に見える力だけにとらわれ、人間の弱さと悪の力のみを見つめているからだ。

 ひとたび、人間や万物を創造した真実と正義の神、しかも愛の神を見上げるときには、そのような絶望の極みのようなところに、まったく異なる世界の到来を知らされる。

 そのことも、イザヤ書の第一章ですでに記されている。

 

…主なる神、イスラエルの力ある神はいわれる。

 ああ、私は逆らう者を必ず罰し

敵対する者に裁きをおこなう。

私は不純なものをすべて取り去る…

その後に、あなたの町は、正義の都、真実な町と呼ばれるようになる。…

シオン(*)は公正によってあがなわれ、

立ち帰る者は、正義によって贖われる。(**

 

*)神殿のあった丘を意味していたが、広くエルサレム全体、イスラエル全体を表す象徴的な意味を持つようになった。

**)「立ち帰る」と訳された原語は、原語は、シューブ(shub)であり、「方向転換」を意味する。従来の訳では、「悔い改める」と訳されることもあった。イザヤ書に限らず、預言者では根本的に重要な意味を持った語である。英訳聖書では、しばしば 下記のように、return(方向転換する) と訳される。

 

Zion will be pardoned by the LORD's justice, and those who return will be pardoned by the LORD's righteousness.(GWN)

 

 人間の根本的な性格がつねに真理や正義に背き、自分中心、欲望中心であるゆえに、人間の力では回復はできない。

 それゆえに、神が時至って、直接的にその全能の力、正義の力によって悪の根源を裁き、神へと魂の方向転換をする者をそこから贖い出す。(救いだす)

 神は、真理と正義、そして愛に背き続けた民を救う道として、神への方向転換を繰り返し告げ続ける。

 そしてそのことは、イザヤ書の終わりに近い部分(53章)においては、人間に魂の方向転換をさせるために、神は特別な人を起こすことが記されている。

 その人は、あざけられ、見捨てられ、そして最後には人々の罪の身代わりとなって苦しみ、殺されるという運命を神の導きによって選びとる。そしてその預言のとおり、キリストが現れ、当時の宗教的支配者や宗教学者たちに憎まれて、捕らえられ、十字架で死してただ信じるだけでみな救われるという道が世界の人々の前に開かれた。

 このように、現実の社会の腐敗と混乱を深く見つめ、神から与えられたまなざしで深く見つめ、その根本原因を見いだし、それが真実と正義の神、憐れみの神に背を向けることだと啓示され、そこからの方向転換を命がけで告げ続けていったのがイザヤやエレミヤなどの預言者であった。

 そしてその延長上に、彼らの預言どおりに、今から二千年ほど前にキリストが現れた。

 その歴史的な流れ、大いなる神の御計画を見てもわかるように、この世の動向とキリスト教信仰ということは深いかかわりを持っている。

 社会の混乱、腐敗、弱者を虐げる人間…それらはすべて、現代の社会的状況と同じである。

 人間社会は、数千年を経ても変ることはない。

 そして、そのような人間一人一人、そしてその人間の集合である社会を救う道も変ることはない。

 それは、まず一人が、神に立ち帰ること、自分を含む人間や人間のつくったものから、神への方向転換することである。

 このように、社会的不正の横行や、戦争等々の人々を苦しめる問題の根本的解決の道、それは著しく社会的問題であるが、その根本的の解決の道は、聖書全体を貫く単純なことー神への方向転換である。

 このように、社会的、政治的問題と信仰とは決して無縁ではない。人間が生き、働いているどこであっても、何が生じようとも、すべて人間の心に生じたこと、それから行動に出て生じた問題である。

 主イエスも、また社会的問題に決して無関心ではなかった。

 それは、次の言葉によってもうかがえる。

 

…あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。(ルカ1251

 

 これは社会的な問題において、真理を語るときには、多くの人がその真理に敵対するということで、分裂が生じるということである。それほど人間の世は真理に背いているということを暗示している。

 例えば、戦前において、「戦争は間違っている。戦争は大量に人を殺すことだからだ」などと言えば、治安維持法に反するとされ、非国民、卑怯者…といった言葉を投げつけられ、逮捕、処罰さえされた。こうした状況が、イエスの言われた「分裂」である。

 このように、聖書は決して社会的問題に対して無関心なのでなく、社会を構成する一人一人の人間の根本問題を常に見つめ、それが同時にその人間が多く集ってできる社会の根本問題にもなっていることを見抜いていた。

 そしてその根本問題の解決の道は、実に単純なこと、神に立ち返ること、言い換えるなら神への方向転換なのである。

 それゆえに、イエスが最初に伝道を始めたときの言葉もまた、「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタイ417)である。

 この「悔い改め」とは、ヘブル語では、シューブ(shub)であるから、ドイツの神学者デリッチによる新約聖書のヘブル語訳では、シューブを用いている。方向転換するという言葉であり、預言書では、「立ち帰れ」と訳され、多く用いられている。

 悔い改めるという日本語は、個々の罪を悔いて改める、ということである。例えば、人にわるい言葉を使った、そのことをあらためて今後はよい言葉を使おうとすることのように。このシューブという原語は、個々のわるいことを悔い改めるということでなく、魂の根本を神に転じること、方向転換が本来の意味である。

 しかし、その単純なことにどうしても心を向けようとしないのが人間の本質であるゆえに、最終的に何によって永続的な平和は来るのか、それは人間のそうしたあらゆる努力によらず、直接に全能でかつ正義と真実に満ちた神のわざによるということがはっきりと記されている。

 そのことが、イザヤ書の第二章の冒頭に書いてある。

 

…終わりの日に

主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち

国々は川のようにそこに向かい

多くの民が来て言う

「主の山に登り、神の家に行こう。主は私たちに道を示される。

私たちはその道を歩もう」と。

 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。

彼らは、剣を打ち直して鋤とし

槍を打ち直して鎌とする。

国は国に向って剣を上げず

もはや戦うことを学ばない。(イザヤ書2章1〜4より)

 

 このように、旧約聖書で最も重要なキリストの預言が多く現れる最重要な書の一つであるイザヤ書においては、人間とその社会のどうすることもできない腐敗が記されている一方で、全能の神の手によって必ず「終わりの日」が来ること、そのときに初めて究極的な平和が来ることが言われている。

 私たちは、今日のウクライナ戦争という状況において、遥か昔から繰り返し言われてきた、平和への道はどこにあるのか、について、切実な問題を突きつけられている。それは軍事増強の道か、それとも聖書が数千年前から指し示してきた道のいずれを取るののかということである。

 大国の開発した武力を信じ軍事力の増強によって、互いに憎み合って多数の人達が殺しあい、また重い傷をおって生涯、心身ともに深い傷を受けつつ過ごすようになり、さらに核兵器が用いられておびただしい人達が回復不能な状況になるーそんな可能性を秘めた道を平和への道と信じるのか、それとも、すでに数千年前のキリスト以前に記されてていた旧約聖書がすでに記すように、全能の神からの啓示を信じる道を歩むのかを選ぶことが迫られている。

 イザヤ書は、人間世界全体の現実の腐敗とどうしょうもない闇の力、そしてそこに与えられる、神の解決の道、それは数百年後にキリストの誕生となって全世界にその真理が知らされるようになっていくことをすでに預言しているという壮大な内容を持っている。

 それは、隣国が無意味な核兵器の実験をするたびに逐一放送して、さらなる軍備増強をしていく、またウクライナとロシア、さらには欧米も加わる目先の領土の支配権の問題という世界的に見れば小さな問題であったはずのことを経済、軍事的には世界的な影響の及ぶ問題と膨らませていった。

 武力と武力はしばしば゜そのように最初は局地的な小さな問題を、だれも予想できないような大きい問題と膨張させていく。

 それは、目先のことに心奪われ、その行き着く先は何であるのかが全くだれも分からないままに何か大きな闇の力に引きずられている状況である。

 聖書はその点で、対照的である。はるかな過去から未来の全体を展望し、人間存在の根本にさかのぼって、万物の創造者たる神がその御計画を示し、その展望を与えられ、それを信じて歩む道が示されている。

 その広くてかぎりなく深い神の導きに入るためには、ただ、単純に、全能でかつ真実な神を信じて仰ぎみつつ、その神からの言葉を信じて歩むことである。

 


 

リストボタン罪の赦しと御国のための働き(イザヤ書6の68

  北島集会での講話(3/22

 

「イザヤの召命」というこのタイトルが新共同訳の6章の最初にあります。

そのところで、預言者イザヤは神から呼び出され(召され)、神から、「私の言葉を告げよ。」と言われる。

  この世界から高く引き上げられて、「主を見た」と、はっきりと言われている。この「主を見た」と記されているのは、聖書では、ごくわずかですね。

 日本語訳では、原文では、まず「主を見た」とあっても、日本語訳では、文の最後に置かれているために、その「主を見た」という意味が強調されていることがわかりにくくなっている。その点では、外国語訳では原文の語順にそって訳されているので、より原文のニュアンス、強調がわかりやすくなっている。

 

… 私は見た、主を、王座に座している、高く上げられ

 …I saw the Lord seated on a throne, high and exalted, and the train of his robe filled the temple. (NIV)

 その時に、預言者イザヤが霊の目と耳によって、神様を見たこと、御使いたちが賛美をしているのを聞き取り、荘厳な霊的世界に引き上げられたことを記している。

 彼が、まず聞いたのは、「聖なる 聖なる 聖なるかな」という御使いたちの賛美であった。それは、神様という御方は、「聖」だということをまず、神はイザヤにはっきりと知らせるためだったのです。

 神とはどんな御方なのか、それは聖なる御方だ。日本語としての「聖」、これは、聖人、といったイメージから来るように、完全な人、歴史上でもまれな人というイメージがある。じっさい、中国では、聖人というと歴史上では、堯(ぎょう)と舜(しゅん)という神話の人物が最も優れた聖人であり、孔子も聖人、しかし孟子はそれに次ぐといったように、完全な気高い存在という意味で使われる。

 しかし、ヘブル語の聖なるという原語(ヘブル語)は、カードーシュである。

 これは、その本来の意味は、英語で言えば set apart, seperate (分ける)という意味を持っている。それゆえに、この語の動詞形が最初に現れるのは、聖書の第2章の天地創造が完成したので、「神はその第七の日を祝福し、聖別した」(創世記2の3)という箇所である。 聖とするということを、聖別というように分けるという意味を持つように訳している。ほかの日と全く異なるものとして分けた、というニュアンスがある。

 イザヤが見た神様は、ほかの神々は地域、民族によっていろいろあるが、そうしたあらゆるものとは、全く異なる、すべての存在とは別に分けられた存在というニュアンスを強調している。

 その神の特質として、「清い」ということがイザヤにも示されている。神はあらゆるこの世の汚れから全く別の完全な清い存在であるゆえに、その神を見ることで、みずからの汚れをかつてなく深く直感した。私たちは白地には小さな汚れもはっきりと見えるように、背後に何をみるかによって、汚れに関する感じ方が異なってきます。

 それゆえ、イザヤは、この神を見たという経験を誇って喜ぶのでなく、まったく異なる反応を表したことが記されています。

 彼の口からまず出たのは、ヘブル語で、「ホーイ リー

 日本語訳の「災いだ!」というのとずいぶん感じが違うんですね。この原語は、間投詞なので、英語でも 間投詞で Woe! あるいは alas! ああ!オー!といったうめきのような言葉なんですね。リー!は、私において。

 こういうのはむしろ、「ああ!」とか、いうふうに訳すべきですね。本来、間投詞なんだから私にとっては、ああ大変だと。ああ、 私は滅ぼされてしまう!というのが、まず反応だったというところに、この神様から特別に召された預言者の心の世界が示されています。

 このイザヤという預言者は、2700年ほども昔の人ですが、こうした反応にも、人のあるべき姿が表されています。

 まず彼自身が感じたのは、「私は汚れた唇の者だ。」汚れた唇。こんな言い方、普通はしないですね、あの人は汚れた唇だって言い方はあまりしないと思いますが。

 これはイエス様が言われたように、「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚す」(マタイ 1511

 まずこのように汚れた唇、言葉でもって汚れたことをついつい言ってしまう者にすぎないということをイザヤは深く知っていた。それは心が汚れているから、そこから汚れた言葉が出てくるんだ。それなのに主を見たからもう滅ぼされる。こういう反応だったということにですね。

  これほど自分の心の汚れに敏感であり、そして神はそうしたいっさいの汚れのない完全な御方であり、そのような神に近づくなら、人の心の汚れ、罪のゆえに、滅ぼされるのだ、ということを深く知っていたのに驚かされるわけですね。

 普通なら、めずらしいことを見たり聞いたりしたら喜んで、周囲にも告げて回るとかいうのとまったく違うわけです。

 その後で、セラフィム( 翼がある天使、御使い)が来て、そして神の祭壇から取った火をイザヤの口に触れて、「あなたの罪は赦された」と言った。

 このように、まずイザヤはみずからの深い罪を知っていた。自分は汚れた唇。汚れた心の人間だと。その自覚を確かめたうえで、天使が神に清められた祭壇の火をもって触れた。

 ここで言われている「火」は、今の私たちが持っているようなイメージとまるで違うわけですね。火というと、炎をあげて燃える、何でも焼き尽くすもの、火事…。

 私の子供のときには、火というと炭火。火鉢にあたって、暖まっていたわけですね。家の中で暖房といったらどこでも田舎でも火鉢しかなかった時代です。

 しかし、聖書においては、私たちのそうした化学的、物理的な火と全く違った意味で用いられています。祭壇のところで燃えている火。その火をイザヤの汚れた唇に当てたら口は心の中から出るところの象徴として、そしたら罪が赦されたという。

 神の本質というものは、慈しみと真実とともに、罪に対しては必ず裁きをも与える正義の神だから。そしてその裁きというのは、悪の力を滅ぼす。その滅ぼす力を最も象徴しているものが、地上で我々が普通に見たり経験出来るのは火の力なので、悪の力を滅ぼす神の力の象徴として「火」ということがしばしば用いられています。

 現代の私たちの連想する火とは、火力発電、あるいはウクライナ戦争の爆弾の火、破壊して燃やす火、あるいは不注意かなんかで起こる火事。そういうふうに焼き尽くす。家でもなんでもです。山火事でも、大きな大火災でも。

 そういうこととまったく違って、この箇所では、罪、言い換えると魂の汚れを清める大いなる力のシンボルとして使われているわけです。

 火を見てですね、罪の力を根底から焼き滅ぼすような神の力を思い出すと言うことはほとんど現代の日本ではないと思いますが、聖書の世界では火の力ってのは、そういう神様の愛や真実と共に、正義の力を象徴しています。

 だから新約聖書のマタイの福音書においても、イエス様のことを洗礼のヨハネがなんと言ったか、次のように、聖霊を与える存在であるということに「火」を付け加えています。「私は水で洗礼を授けているが、私の後から来る方は聖霊と火でバプテスマ(洗礼)をする。」(マタイ3の11

 イエスという御方は、聖霊を与える御方であり、聖霊は神と同質であるから、愛や真実、正義、そして永遠性等々いっさいを持っているから、当然悪の力をも焼き滅ぼす力を持っている。

 それなのに、なぜ「火」を付け加えたのか、それは、罪の力を根底から滅ぼす神の力をもった存在であることを強調して示すためだったからです。

 聖霊を注がれるために、私たちは、魂の深みに存在している罪の力、罪を犯させる悪の力を火の焼き滅ぼす力で表されるような神の力で滅ぼされる必要があり、そのためにもキリストは来られた。その上で聖霊を注がれるのを意味しています。

 ここでもそのような形で、神殿の中心に置かれている祭壇のところで燃えている火。火に触れてあらゆる悪の力を滅ぼす。それでやっと罪は赦される。そうした上で、イザヤは主の声を聞いた。

 

…誰を遣わすべきか、誰が我々に代わって行くのか。

 

  この表現は意外です。主の御声なのに、我々と言っている。神は唯一の神なのに、我々とはどういうことなのか。ということで問題にされるところあります。

 この点で思い起こすのは、創世記にもこうした表現があることです。

 創世記1章を見ますと、あの万物創造の時です。

…神は言われた。

「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。

 そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」(26節)

 どうしてこのような唯一の神が我々という言い方しているのか。

 これは、新約聖書の時代となって使徒ヨハネが啓示されたのは、キリストは永遠の昔から神であり、神とともにおられたーという啓示を受けた。

 それゆえに、この創世記での「我々にかたどり…」という表現は、創世記の著者にも聖なる霊が働いて、早くもキリストのことを暗示している。予言していると言われてきたところです。我々とは、神と永遠の昔から神とともにあったキリストのことを意味しているということなのです。

 それと同じことが、このイザヤ書の重要な箇所にも現れていると受けとることができますから、だれが、神なる私と共にいるキリストに代わって行くのか ーという意味になります。

 「誰が我々に代わって行くのか。」という神からの語りかけがあり、それを聞いたイザヤが「私がここにおります。」と応えた。

 ほかの預言者の場合は、神が特別に選んでー預言者アモスなどは羊飼いであったー神の言葉を伝えよと、御言葉をあるいは語りかけるわけですが、ここではですね、このように神から「誰が行くのか」と問いかけられたとき、ほかの預言者と違ってはっきりと、自分は本当に汚れた存在で滅ぼされる程、罪の汚れに満ちたものだと、そういう深い自覚を持って、そしてそれが赦されたと確信を与えられたからこそ、イザヤはまっすぐに神からの呼び掛けに応えることができたのです。

 イザヤは、「私はここにおります。私を遣わせてください。」この神様が遣わす者になるという事、神から直接命じられるということは大変なことなんだけども、「私を遣わせてください。」これは普通の武力による戦い、今回の戦争。昔から今に至るまでも、その上官がこれ大変な仕事だ、命がかかってる。誰が行くのか、誰を遣わせたらいいか。私を遣わせてください。これ、死ぬ覚悟でなかったら言えなかったはずですね。

 イザヤは、ある日思いがけなく神から引き上げられて、神を見たときには、本当に自分が罪に汚れたもので、神を見たからもう死ぬばかりだと悲鳴をあげたほど弱々しいものにすぎなかったのに、 ここでは「その困難な職務に私を遣わせてください。」と大胆に言うことができた。

 このように神様からの直接の罪を赦された者、罪を赦された者は初めてこのように前進する力を与えられる。

 神様に罪を赦されなければ、私が行くのですと、言葉では言っても、すぐに悪の力(罪の力)にうちのめされてしまう。これがあのペテロの例なんですね。

 イエスがもうじき自分は十字架に付けて殺されることを話したとき、そんなことがあってはならないと、イエスを引き寄せて叱ったことさえあった。そのときには、イエスに「サタンよ、退け!」と一喝された。

 また、いよいよその十字架に付けられる前日になって最後の夕食も終わったあと、イエスが自分が殺されることを暗示したとき、ペテロは、「私はたとえみんながイエスのことを信じられなくなっても、私は決してそんなことにはならない。また、殺されることがあっても、あなたを知らないなどとは決して言わない。」(マタイ263135 より)

 「私こそは行くのです」という勇ましい、力強い態度をみせた。

 しかし、そのすぐ後に、イエスが実際に捕らえられてむざむざと引っ立てられた時、そのあと女中にあんたも一緒だっただろうと言われたらたちまち、私はそんな人は絶対知らない。イエスというあの人は知らないんだとか言い張った。

 そのように、人間的な決心というのは必ず破綻するということを示しています。神の直接の力によって罪赦されたものが本当に力を与えられるんだ。そして神様の指し示す仕事に向かっていけるんだと。

 イエスが十字架で処刑されて、復活したのちに、弟子たちが聖霊を豊かに注がれた時(ペンテコステ)もそうだったわけですね。みんなイエスを知らないと言って逃げてしまったけれどもその罪を深く知らされて、復活したキリストから「ともに祈り続けて約束のものー聖霊ーを待て」と。そして時が来てですね、イエス様がその聖なる霊を注がれたら、そしたら大胆に大祭司だろうが何であろうが、福音、復活を宣べ伝えるようになったということです。

  そのように私たちもさまざまなことに関して力を得るためには、絶えず障害となる罪を赦されていかなければならない。そのためにこそ、十字架が世界に広がっていったということですね。今日の事態に直接関係する。

 

ウクライナ戦争と罪

 今回のウクライナ戦争のような社会的大問題も、人間の罪の問題が根底にある。

 いまから8年前から、ウクライナ東部で、ロシアの後押しを受けたロシア系住民とウクライナ軍との武力闘争は続いていた。

 その延長上に今回のウクライナ戦争がある。

 ロシアは周辺の国々が自分の思うままにならないときには、武力攻撃をして従わせようとすることを以前からおこなってきた。それはチェチェンや、グルジアでの ロシアとの武力紛争、ロシアによる侵攻で見られてきたことであり、ウクライナ東部でもそのような状況が続いていたので、それを武力で解決しようとすれば、過去のそうした国々の悲劇を知るならば、大規模な軍事衝突、戦争が起こる可能性はあった。

 それゆえに、ウクライナ東部でも武力でロシア系兵士や住民たちを攻撃するということをしていたら、その先に何が生じうるか、ということを洞察していなかったということが今回のウクライナとロシアの戦争の背後にある。

 こうしたこと、すべては、キリストの言葉、「剣を取るものは、剣によって滅ぶ」という言葉の真理性を指し示すものとなっている。

 愛国といい、それゆえの防衛の戦いといっても、現実の場面では、敵兵をねらって銃やミサイルで砲撃し、殺すことを目的とする。しかし、敵といっても、何も相手の兵士を知らず、どんな心でどのように家族の心が痛むか、ということも考えないで、敵国の兵士だというだけで、その人間を殺すことを目的とする。

 平時では、一人二人を知らない人を殺害する、ということでも死刑になるほどの重罪である。 それが、敵国の特定指導者から命じられたからといって戦場に駆り出された人を撃ち殺してそれは何も罪にならないどころか、手柄として喜ぶべきことになるーしかも、大量に殺人をした人がいっそうほめたたえられる。

 そのような相互に人を大量に殺しあうという大罪を犯して本当によいことが生じると信じることができるだろうか。

 敵と戦うために出向く、祖国を守るために行くのだ、と行って自発的に出向く人もいるだろう。

 しかし、その人が、戦場で、重い傷を受けて生涯目が見えないとか足が飛ばされて重い障がい者となって仕事も結婚も何もできなくなった、周囲からの冷たい視線を浴びての日々となれば、そのような戦争を恨み続けるであろう。志願して加わった者であっても戦争によよって重度の障がい者とか回復しないほどの病気になった場合には、あんな戦争は悪かった、志願して行くのでなかった…と。

 そして、戦争に武力でどちらかが制覇しても、勝利した側はさらに軍備があったから勝ったのだといっそう軍備に力を入れるし、負けた側も軍備がなかったから敗北したのだと、軍備増強を志すようになる。 そして世界がさらなる軍備拡張にと向うことでいっそう世界全体の危険は増大することになる。現在は核兵器があり、どこにでも飛ばせるミサイルがある時代であり、また人間の心にサタンが住めば、アメリカ同時多発テロ事件のようにどんな奇想天外なことが核兵器を用いて起こるかだれも予見できない。

 軍備による、力による戦争は、いずれもそうした大規模殺人行為をいっそう増加させる方向へと仕向けることにもなりかねない。

 「剣を取るものは、剣で滅びる」ー武力、軍事力にたよって他国を脅迫し、奪い取ろうとするものは、またその国も時至れば、何らかの武力によって滅びていくーそれは歴史の中で常にそれぞれの国の内乱や国や民族同志の戦いで常に生じてきたことである。

 そもそも国を守るというが、日本は海に囲まれた国で国というイメージは簡単に生じる。しかし、今回のウクライナとか周囲の国々に限らず、どこの国でもはるか昔にさかのぼれば、どこからどこまでが自分の国なのか、そんな国境というものも存在しなかった。

 正確な測量もできないのであるから、当然のことである。

 国それ自体がどこからどこまでなのか、時代によって、支配者によってまた周囲の状況によって変る。日本でも、朝鮮半島、千島列島、樺太の半分、台湾までも日本領土であったときもあった。台湾においても、はるから古代から原住民が住んでいた。そこに大陸から多くの漢民族が移り住んできた。現在では、漢民族が元から住んでいた原住民よりはるかに多い。現在は原住民はわずか2%だという。

 台湾に移り住んだ漢民族において自分の国とは中国大陸も、台湾も広い意味で、自分の国ということになる。

 テニスで有名な大坂選手もアメリカで住んでいてアメリカ国民でありつつ、日本も自分の国だとしていたが、近年になって国籍は日本を選んだという。だが日本語は話せないという。

 それゆえに、国を愛するといっても、そうしたたえず移り変わるものは、究極的な愛の対象にはなり得ない。30年ほど前までは、ロシアもウクライナも一つのソ連という国に含まれていたから、ウクライナの人もロシア人も全体としてソ連という国の人間だとして友好的な気持ちがあったであろう。

 しかし、現在では、鋭く敵対する国となってしまった。かつてウクライナにあってロシアをも一つの国として愛し、友好的に思っていた人は、いまはロシアを激しく憎んでいる人達が多く、また、ロシアにあってウクライナを貴重な穀物産地として敬愛していた人達もいまは敵対国として見るようになっている人が多いであろう。

 

キリストの国は

  このような状況は、世界の至るところに存在する。それゆえに、すべてを見通して深遠なまなざしを持つキリストは、最も大切なのは、特定の国でなく神の国だと言われたのである。

 …「わたしの国は、この世には属していない。

もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。

しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」        (ヨハネ1836

 そして、まず求めるべきことは、目に見える国家の利益でなく、神の国と神の義だと教えられた。

 

…まず、神の国と神の義を求めよ。(マタイ6の33

 

 そしてその神の国とは、目で見える国ではない。権力者が欲望や軍事力、あるいは煽動された民衆によって奪い取った国境による国ではない。

 目に見えぬ、神の愛と真実による導かれ、支えられる霊的な国である。

 そしてそれは、生きている間から、真剣に求めさえすれば、いますぐにでも与えられる。

 しかし、目に見える国土の奪い合いから生じる軍事力による戦争は、いく万、幾千万の命が滅び、傷つき、深い心の傷が残り、恨みと絶望、憎しみが心に闇の遺産として残り続けていく。その行き着く果てはどうなるのか。だれにもわからない。無数の死傷者を生み出してなお、国はどうなるのか分からないのといかに大きな違いがあることだろう。

 二千年続いてきた聖書に記されてた真理のみ言葉こそ、私たちの変ることなき拠り所である。


 

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どんなことにも感謝を

          T.S(千葉)

 私は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケ信徒への手紙1の5章16〜18節)。

 この聖句はとてもいい聖句だなと思っていました。しかし、自分の実感とは少しかけ離れた理想のようなもので、実生活の中ではいつも喜んでばかりはいられないし、すべてのことに感謝してもいられないなと思っていました。しかし先年の9月、台風15号の時です。 3時間も4時間も真夜中に家が押し潰されそうなほど強風に揺さぶられ、死にそうな思いを体験して、私の思いは変わりました。台風の最中は必死で祈りました。助けてください。守ってください。

 私には、この家しかありません。みこころならばどうか家がつぶれないようにお守りくださいと祈り続けました。死ぬか生きるか自分の根底から揺さぶられている思いの中での祈りでした。そして台風が去ったとき、家が無事で守られたことに心から神様に感謝の気持ちがわいてきました。同時にこれまで当たり前と思って過ごしていた日々、何気ない平穏な毎日が実は神様に守られていたことに気が付いたのです。

 ちょうど空気がなくなって酸欠状態になって初めて空気のありがたみが分かったような気持ちです。それからは当たり前ではなく、すべてのことが感謝に感じられるようになりました。

 私も60歳代半ばを過ぎ、体力も気力も少しずつ落ちてきていますが、できなくなったところから見るのではなく、まだ残っているところを見て感謝して生きて行きたい。神様にありがとうと感謝して生きて行きたいと思っています。

 朝目覚めたら布団の中で、まず身体を動かしてみるのですが、手足の指も膝も腰も肩も動かせる。ありがたいなあ。今日も食べるご飯があること。そして自分の口で食べることができるのはありがたい。トイレに行って用を足せることも感謝。本が読めて字が書けて、こうして元気に畑仕事をすることが出来て、感謝で喜びの毎日です。

 神様を信じられるようになったことも感謝です。神様が今も生きて私と共にいてくださると信じられるので、以前は恐ろしかった瞳の目が恐ろしくなくなってきて、心も安定し、平安になりました。

 遠く離れていても、こうしてスカイプを通して徳島キリスト聖書集会の礼拝に参加できることも、心に霊の糧をいただくことができてとても感謝です。今は退職し、家庭菜園で野菜を育てることが仕事ですが、畑仕事が出来るのも感謝です。 畑仕事をすると、天地を造られた神様の偉大さと自分の弱さを実感できます。そしてお日様や雨や風や自然の力を通して野菜を育てて下さっている神様に心から感謝して畑仕事をしています。

 神様に愛されて守っていただき、生かされていることに感謝できるようになった私です。そして身近な困っている人や、助けを必要としている人を見つけたら、神様への感謝の気持ちを、その人を支えることで現わして行きたいと思って毎日を過ごしています。

 

近くにいてくださる主に導かれて

            T.M

 インターネットのスカイプ集会に参加するようになったのは2013年頃かずいぶん昔だったような気がするんですけれども、横浜で冬の聖書集会の時に、吉村さんが聖書の話をしてくださるために徳島から来てくださっていまして、その時にスカイプ集会に参加するようにと教えてくれました。 そのころは信仰を導いてくれた父が亡くなって3年くらいだったんですけれども、やはり心の奥底では喪失感もあったと思うんです。また生活は表面的には充実していたようでも、なんとなく心が不安定だったと思います。

 そしてスカイプ集会に一週間に一回、日曜日に参加して徳島集会の方々と共に礼拝を行なった時には、あとは知らず知らずのうちに新たな力をもらうことができました。そして心新たに月曜日から職場で働くことができました。けれども働いていると、だんだんにまた疲れてきます。そしてまた日曜日が来て、また御言葉が心の中に入ってきて、また満たされて元気が出る、そんなことでした。

 今から思うとちょうどマラソンランナーの人が途中途中で水を補給するような感じだなぁと思いました。

 また何回かの冬の聖書集会の時のことなんですけれども、感話のときにどなたかが「生活が調子が良いとお祈りをすることを忘れてしまう。」とおっしゃいました。それを聞いて、私はそんなに順調に生きているとは思えないし、お祈りをしていないとやっていけないなと思っていた時だったので、はっと思いました。 職場で色々な困難とか生きにくさを感じるのは、自分を誇ることがないようにと神様が教えてくださって、神様から目を離さないようにちゃんと見ていなさいよと導いて下さっているのだと思いました。

 そういう風に思ったら、今度は嬉しくて楽しい気持ちにさえなったことを覚えています。その困難もちょうどこの小さな私が潰れない程度の困難で、身の丈にあった困難を神様が与えてくれているように思っています。 本当にコリント信徒への手紙1の「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるように、逃れる道をも備えていてくださいます。」(10章13節)という御言葉を思い出します。

 実はこの一週間も仕事のことで大変に気になって取り返しのつかないことで、自分にはどうにもできなくて、ずっとお祈りしながらなんとか支えられていました。 ですから神様がいてくださって良かったな。イエス様が人間と同じようにこの世に生きていてくださって御言葉をくださって本当に良かったなあと思っています。

 またスカイプ集会の夕拝にもようやく入れるようになりまして、詩編を学ばさせていただいています。人間が神様に切実に訴える箇所がしばしば出てきています。訴える相手がいることとか、神様はすぐではないけれど、必ず助けの手を差し伸べてくださってくれるということを教えてもらっています。

 近頃心の中によく浮かぶのは、イザヤ書にある聖句です。「あなたが呼べば主は答え、あなたが叫べば「わたしはここにいる」と言われる。」(58章9節)とか「わたしはここにいる、ここにいると言った。…絶えることなく、手を差し伸べてきた。」(65章1〜2節)というような聖句をよく思い出します。

 いつもこのようにして、スカイプを通して皆さんと繋がって居られることに本当に励まされていて感謝してます。以上です。

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リストボタン心に残っているみ言葉

 

(これは、5月に発行した「野の花」に編集者側のミスにより、掲載されていなかったものをここに掲載しておきます。)

U.N〈徳島〉

 今、とても困難な、そして恵みの時を与えられています。長年一緒に暮らしていた、夫の弟の癌による死。夫の闘病。そして、自身の体と心の不調。その中で神様から、

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私を信じなさい。」(ヨハネ十四・1)

「いつも、喜びなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。」 (一テサロニケ五・16〜18)

 私は、神様どうしてですか?でも、感謝します。と神様に叫びながら、み言葉に、たすけられています。

 

T.T(徳島)

 不安性の私にとって、いつも、ほっとする場所に掛けてあるボードに書かれている言葉が、あります。

…主なる神、イスラエルの聖者はこういわれた。

「あなたがたは、立ち返って落ち着いているなら、救われ、穏やかにして、信頼しているならば、力を得る。」      (イザヤ30章15節)

 そして、神をさんびせよ。いつも、どんなときも、全てを善きにしてくださる。

不平不満をいうことを習慣にせず、いつもどんなことにも感謝しなさい。。

 神様から、平安をいただき、いつも、笑顔でいたいと願っています。

 

H.Y〈熊本〉

「私につながっていなさい。

私もあなたがたにつながっている。 ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。」(ヨハネ十五・4) 


 
リストボタン集会案内

 主日礼拝…5月15日(日)から徳島市南田宮の徳島聖書キリスト集会場にて、

午前10時半〜12時

・以下はオンライン集会

〇夕拝…毎月第一、第三火曜日の夜7時半〜9時

 

家庭集会

 問い合わせは左記の吉村 孝雄までメール、電話などで。

〇北島集会…戸川宅 毎月第四火曜日の午後1時〜2時半。

〇海陽集会…毎月第二火曜日 午前10時〜12時

〇天宝堂集会…毎月第二金曜日夜8時〜9時半。天宝堂 綱野悦子宅。