「いのちの水」  2023年  4月号    第746号 

私は復活であり、命である。

私を信じる者は、死んでも生きる。(ヨハネ福音書1125

    目次

・闇からの復活ーマグダラのマリア

・絶望からの復活ーヨブ記より

・第39回北海道 瀬棚聖書集会 に

参加しての感想、感話

 

リストボタン闇からの復活

 マグダラのマリアについて (イースターメッセージ)

 マリアというと、ほとんどの人は、イエスの母のマリアを思いだすであろうが、もう一人のマリアは、福音書の記述ーとくにイエスの十字架と復活に際しては、母マリア以上に強調されている部分がある。それがマグダラのマリア(*)である。

 

*)ラテン語では、マリア・マグダレーナ Maria Magdalena であり、そこから、マドレーヌという人名として広く用いられるようになった。なお、その名をもった女性が美味な菓子を作ったので、それが、帆立貝状の菓子の名となった。  ほかにも、例えばヨハネという名は、英語のJohn ジョン、ジェーン、フランス語のジャン、ドイツ語のヨハンナ、ヨハンネス等々広く用いられている。

 聖書の真理の重要性が、聖書の内容はもちろん、人名まで時間や空間を超えてこだましていると言えよう。

 

 イエスが十字架で処刑されるとき、最後まで従い、さらに墓に行き、安息日が終わった翌日の朝早く香料をもって墓にまで行く、そのように忠実にった人たちとは十二弟子たちではなかった。

 十二弟子たちが、家庭も職業も捨ててイエスに従ったのは、特別に彼らの魂に働きかけたものがあったからだといえる。無数にいる人間のなかから、とくにわずか十二人だけ選ばれたという特別な招きがあった。

 それにもかかわらず、彼らはイエスが捕らえられたときには、主を裏切って一人の例外もなく逃げてしまった。その直前のイエスの必死の祈りにおいても、弟子たちは、みんな眠ってしまい、イエスが途中で起こしにきたが、それでもなお、再び眠ってしまったほどであった。

 それゆえに、イエスが前夜は一睡もしないうえに、さらに兵士たちによって鞭打たれ、そのあげくに重い十字架を負わされてたくさんの人々のいる通りを選んでわざわざ長い距離を歩かされた。 刑場に着いて生身の両手、両足を、大きな釘でもって木に打ち込まれるという想像を絶する苦しみのとき、そばにいて深い悲しみと苦しみを少しでも共有しょうと祈りをもって見つめるべきであった弟子たちはそこにもいなかった。

 そこにいたのは、婦人たちであった。とくに、四つの福音書のすべてに書かれてあるのが、マグダラのマリアである。

 キリスト教信仰において最も重要なことは、復活と十字架の死である。これらは、キリスト教の中心であり、その二つの中心は、また世界史の長い流れのなかでも、最も大きな出来事であったといえる。

 その最重要な出来事においては、だれが、その現場に接していたのだろうか。

 それは、イエスの三年間の伝道の間、主イエスが特別に召されて、三年間もともにいてその驚くべき神のわざや教えを直接に見たり聞いたりした使徒たちでなく、かつては「七つの悪霊」にとらわれていたマグダラのマリアに最初に現れたのだった。

 十字架の死とそれに続く復活という特に重要な出来事にマグダラのマリアが深く結びつけられて、記されていること、そこに主の啓示が示されている。

  書き方やその内容が、ほかの三つの福音書(共観福音書)と異なるヨハネ福音書においてもやはりマグダラのマリアのことは記されている。 しかも、共観福音書よりも詳しく記されている。

 ほかの三つの福音書は、マグダラのマリアがイエスの葬られた墓にいったのは、明け方(早く)という表現であるが、ヨハネ福音書は、さらに、まだ暗いうちに、という語があり、「週のはじめの日、朝はやく、まだ暗いうちに、」と、より詳しくなっている。

 そして、共観福音書ではマグダラのマリアは、ほかの一、二の婦人たちとともに、イエスのおさめられた墓まで来たところ、墓の入口に大きな石でふたをされていたが、その石が転がされてあり、そこに天使が現れてイエスが復活したことを、マグダラのマリアたちに告げたと記されている。

 しかし、ヨハネ福音書では、とくにマグダラのマリア一人に焦点が当てられ、まだ暗いうちに墓に出向いたという。女性が、遺体をおさめた墓に暗いうちから出かけていくということは、よほどの思いがなければそのようなことはしないであろう。

  新約聖書において、マグダラのマリアについては、 なぜこのような特別に記されているのであろうか。

 マグダラのマリアについて聖書が記すことは、イエスが十字架で処刑されるときと、復活のときに最も深い関わりがある女性として現れる。その他では、一度だけ聖書に現れる。それが次の箇所である。

 

…イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。

 悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、…そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。(ルカ八・1〜3)

 

 これが、イエスの十字架の処刑のときと復活にかかわる以外のマグダラのマリアに関する唯一の記述である。これは、彼女は何ものであったかをひと言で表している。七つの悪霊とは何か。それは七という数字は一種の象徴的な数であり、本来霊は風のようなものであり、数えられないものであるから、この表現はこの女性が徹底的に悪の霊のはたらきによって支配されていたということを暗示している。

 聖書には、ほかに悪の霊に支配されていた人の状況が書かれてある箇所がある。

 

…イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。

この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。

彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。

      (マルコ五・2〜5より)

 このようなひどい状況であったが、主イエスはこの人から悪の目に見えない力を追いだして、その闇の支配から救い出されたのである。

 マグダラのマリアもおそらくはこのような恐ろしい闇の力に支配され、絶望的な状態であったと考えられる。そして七つの悪霊ととくに記されていることから、鎖を引きちぎったり、墓場や山で叫んだり…といっう異常行動のほかにも、罪をおかすことも悪の霊の力によるゆえに、そのような罪へとそそのかされて重い罪を犯したということも含まれうる。

 あらゆる悪の見えざる力に支配され、まわりから嫌悪され見捨てられていたと考えられ、彼女はどうにも救いようのない精神の重い病気とみなされてしまっていただろう。

 しかし、主イエスはそのような深い闇のただなかに置かれて苦しめられている人をも救い出された。この女性はこのような"七つの悪の霊"に支配されるまでに、どのようないきさつがあったのかしるされていない。何か特別に苦しいこと、悲しみに打ち倒されることがあったかも知れないし、また大きな誘惑に負けて悪の力に支配されるようになったのかも知れない。いずれにしても、そうした絶望的状態になるまで、本人自身も家族や周囲の人たちは何とかしてその泥沼のような状態から抜け出ることができるようにと祈り願ってきただろうし、可能な方法をいろいろと試しただろう。

 しかし、家族も医者も人格のすぐれた人も指導者もすべてどうすることもできなかった。

 そのようなとき、マグダラのマリアは主イエスと出会ったのである。そして「七つの悪霊」と言われるほどの徹底した悪の支配、それによる長い地獄の苦しみから解放されたのであった。

 人はだれでも罪深いものであるが、このマリアは、過去のどうすることもできない重い罪を赦していただき、そのたとえようもない喜びと感謝を胸に深く抱いていたことが推察される。

 主イエスが言われたように、多く愛するのは、多く赦されたからである。

 

…だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。

赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

              (ルカ七・47

 マリアがほかの弟子たちすら恐れて逃げてしまっていたなかで、恐ろしい苦しみから死を迎えようとしていたイエスを最後までその苦しみをともに担うべく、処刑されている十字架の近くまできて、最後まで見つめていたのであった。

 このように、自分を絶望の淵から救い出してくれた主イエスへの感謝と真実な心、そして愛によって行動したのがマグダラのマリアであった。

 主イエスへの愛、それは神への愛と同じものであって、イエスがまず神を愛せよ、といわれたことを思いださせる。このように真実にイエスを愛するものには、求めよ、さらば与えられる、という約束の言葉の通り、復活のイエスからの直接の語りかけを受けて、顔と顔を合わせて見るという大きな幸いを与えられたのであった。

 彼女は復活したキリストがすぐそばに立っているのを見てもなお、それがイエスだとは分からなかった。ヨハネ福音書では、マグダラのマリアが復活のイエスに直接語りかけられたときの状況が次のように記されている。

 

…マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、白い衣を着た二人の天使が見えた。

天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」

 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。

イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」

 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」(*)と言った。「先生」という意味である。

     (ヨハネ二〇・1116

 

*)ヘブル語のラビの変化形で、「我が師、私の先生」という意味であるが、「先生」と訳してはあるが、日本語の「先生」とは大きく意味が異なる。ラビとは、聖書の真理を教える教師であり、特別な重要性を持っていた。

 

 復活したイエスと出会ってもなおそれがイエスであるとは分からなかったが、イエスの「マリア!」という呼びかけのひと言で彼女の目は開かれて、復活のイエスと知ったのである。そしてこれが、歴史上の最大の出来事ともいえるキリストの復活を初めて知らされた瞬間であった。

 マリアはイエスが復活するなど、全く信じたことはなかったのがこの聖書の記述でうかがえる。そのようなマリアはしおれることのない、イエスへの、またイエスの背後におられる神への真実な愛をもっていた。そのような愛こそは、最も復活のイエスに近づくことを与えられるのである。

 知識や学問でもなければ、血筋や生まれつきの能力でもない。また長い人生経験でもない。それらが全くなくとも、ただ主イエスを愛し、神を愛するという真実な心があるときには、神は近づいて下さるということをマグダラのマリアの記事は示している。

 そして、悪の霊にまったく支配されていた状況は、周囲の人たちからも嫌われ、見下され、差別を受けて、だれからも相手にしてもらえなかったであろう。

 今日でも、心の病の人たちは、ほかの病気の人と違って見舞いに行く人たちも少なく、病院の中で閉鎖された生活を送っていることが多い。

 孤独と苦しみ、淋しさ、そして悲しみ等々、言うに言えない闇のなかにあって呻いていた魂がそこから救い出された、ということ、それは天で大きな喜びがあったと考えられる。

 そうした苦しみの根源に赦されない罪があったであろう。

 中風で寝たきりの人を友人たちが運んできて、どうしてもたくさんの人々がいてイエスの前に行けないために、その家の屋根をもはいで病人をつり下ろすという非常手段を用いて、イエスのまえに出ていったとき、イエスは友人たちの信仰を見て、病人に「あなたの罪は赦された」と言われたことがあった。

 病気の重い苦しみも罪の赦しが与えらることが、根本的に重要なこととされている。

 

…悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい(と思っている)人についてよりも大きな喜びが天にある。」

 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」(ルカ福音書十五章7〜10より)

 

 悪霊の力から解放される、というようなことは現代の私たちとは関係のないようなこととして受け取られることが多い。しかし、それは私たちを取り巻く悪の力(闇の力)から解放されること、言い換えれば罪を赦されるということと本質的には同じなのである。

 そしてそれこそ、あらゆる問題の出発点となるのだということがマグダラのマリアについて福音書で、特別に重要なこととして記されている理由なのである。

 最悪の状態にあって、あらゆる人から見捨てられていたであろう状態から救われ、十字架の悲劇の最後までつき従い、死してもなお主に対する愛を失わず、そこから復活という最大のことを誰よりもさきに知らされて、復活の主と出会うという恵みが与えられたこと、それは「弱きところに神の力が現れる」という使徒パウロの有名な言葉を思い起こさせるものである。

 聖書は、そしてその背後にある神は、そのような暗い世界を見つめて下さっているのであり、主の愛のまなざしはどんな闇をも見通して下さっていると信じることができる。

 マグダラのマリアのことは、イエスの出現が旧約聖書のイザヤ書でいわれていた預言の成就であったことを記している。

 

…暗闇に住む民は大いなる光を見、

死の陰の谷に住む者に光が射してきた

。(マタイ16、イザヤ書9の1)

 

 七つの悪霊に支配されていたー悪の霊の力にまったくねじ伏せられていた深い闇にいた女性に、上よりの光が射してきて、そこから、十字架と復活のとき以来、二千年を通じて福音の象徴的存在として扱われてきたことをよく示している。

 現代において、世界に闇は深まり、だれもその先を見通せないほどになっている。

 そのような大きな問題に立ち向かい、かつそのような闇の力にうち勝って前進する道は、死から復活し、いまれ生きて働くキリストにある。

 「私は道であり、真理であり、命である」と言われたとおりである。(ヨハネ14の6)

 そして、この道は、過去二千年の間、無数の世界の信じる人々にじっさいにそのような勝利を与えてきたのであり、それゆえに歴史上でのいかなる災害や悲劇などが生じようとも、今日まで伝えられてきたのである。

 

 

 リストボタン絶望からの復活の道

          ーヨブ記より

 旧約聖書において、まったくの絶望的状況にあり、死んだような状況から、復活した人のことが詳しく記されている。一人の人間に関して記された書としては、出エジプト記のモーセ、サムエル記のダビデなどとともに、相当な分量で記されている。

 それはヨブ記である。60頁という分量を費やして、ヨブの苦難と友人たちとの議論が延々と記され、終わりには、救いへの道が記されている。

 ヨブは、信仰深き人で、まったき人、正しき人であり、神を畏れ、悪を避けて生きていたと記されている。具体的には、自分のことだけでなく息子たちが罪を犯し、心の中で神に背き神を呪ったかもしれないと思い、折々に、息子たちを呼び寄せて 朝早くから彼らのために献げ物を捧げていた。

 そのような神を畏れ、息子たちのことまで思って神につながるようにと歩んできたヨブに突然大いなる苦難が襲ってきた。それは、略奪者によって彼の羊、牛などの財産が失われ、ほとんどの牧童たちは殺害され、さらに沙漠からの激しい風が吹き荒れて家は崩れ落ち、中にいたヨブの子供たちは死んでしまった。

 このような大いなる事故、災難がふりかかったが、それでもヨブは、次のように言った。

 

…私は裸で胎を出た。

主は与え、主は奪う。

主の御名はほめたたえられよ。(ヨブ記1の21

 

 それほどに、気骨ある信仰であった。

 しかし、その後、彼の肉体に恐るべき苦痛を与える病気となり、寝ることもできないほどの苦しみが耐えがたいものとなった。

 彼にとって最も近い存在であった妻さえも、「いつまで全き者のように振る舞うのか、神を呪って死んだらいいのだ!」と言い放つ状況となった。

 ヨブは、妻さえ彼をあざけるほどに追い詰められたが、それでもなお、こういった。

 

…私たちは神から良きものをいただいたのだから、不幸(悪しきもの)をも受けようではないか。(同1の10

 

 このように、ヨブの信仰は驚くべき強固なものだった。

 しかし、財産も子供たちも失われ、妻さえヨブを見捨てる状況となって、さらに病苦は激しさを増して夜も眠ることさえできなくなった。

 眠ることができないとき、人間は落ちついて考えることもできなくなり、判断もできず忍耐も難しくなり、ただ叫ぶしかできないほどになってくる。

 ヨブはそのようになった。

 

…私が生まれた日は消えてしまえ

その日は闇となれ…

なぜ私は母の胎内でいるときに死んでしまわなかったのか

せめて 生まれてすぐに息絶えてしまわなかったのか

悲しみと呻き苦しみは、湧き出る水のように止まることがない

 魂には静けさも安らぎも、憩いもなく

ただ前途を恐れるばかりだ…(ヨブ記3の1〜26より)

 

 こうした激しい苦しみのただなかにさいなまれ、あらゆる道がとざされた絶望状態となってしまった人間はいかにして救いへの道が示されるのだろうか。

 友だちはその苦しみを慰めようとやってきた。

 しかし、ヨブはみずから正しく、よいことをずっとやってきた。

それなのにどうしたこんな不当な苦しみがどこまでも続くのか…と

 

 そして、ヨブは苦しみのさなかにあって、それを慰めようとしてやってきた三人の友人たちとの38頁にわたる長い議論が記されている。

 ヨブは自分は精一杯神の道にふさわしいことをやってきた。それなのにどうしてこんな悲劇、理不尽なことが生じるのか…という切実な問いかけに対して、友人たちは、それはあなたが何らかの罪を犯したからなのだ、ということをいろいろな方面から語り、ヨブを非難する。ヨブはそれに対して、さらに反論する…ということが延々と繰り返される。

 このことは、苦難に陥るとき、自分はなぜこんな目にあうのか、もっともっとひどいことをした人でも何らこんな苦しみや悲しみを持っていないではないか、運命にのろわれているのでないのか… 等々と苦しみ呻く。

 あるいはまた、自分は罪を過去に犯したことがあるとはいえ、神のまえにいつも赦しを乞うて捧げ物もしてきたではないか。

 それなのになぜ…

 神は全き者も、悪を行なうものも同じように滅ぼされてしまうのだ…

 

 このようにヨブは、自分がいかによいことをしてきたかをその事実があるのに、まったくそれに報いなく、ただ持てるものすべて失い、重い病気となり死に面している。

 これは、神がいるとしても悪人も善人もなくみんな滅ぼしてしまうのだ…との絶望的な考えになっていった。

  この世を知れば知るほど、また自分が苦しい経験をすればするほどに、この世は結局は善人も悪人も同じなのだ、同じように滅んでいくだけなのだ、という虚無的な考えになっていくのが記されている。

 

 この世で生きるかぎりこのような虚無的、悲観論となっていく。

 このような状況は現代の世界でも、あらゆる地域、国々で見られるであろう。

そこからの救いの道はいかにして開かれるのか、それがヨブ記が記された目的である。

 そこからの道は、神が与えている。

 それは、神が創造した自然の深い意味に触れることであった。

 ヨブ記でも最後のほうにこのことが出てくる。

 それははじめからずっと終わりに近いところまで現れる三人の友人たちとは別に、彼らが長時間にわたってヨブを説き伏せようとしてもそれができないという状況のなかに、一人の人間が現れる。

 それがエリフであり、エリフの言葉が32章〜37章までかなりのスペースを用いて記されている。

 その中心は、自然の世界の広大無限にヨブの霊の目を開かせることであった。

 彼は、次のようにいい始める。

 

…人間においての正しき考えは、年齢、経験が知恵を与えると思っていた。

 しかし、そうではなく、老人になったからとて分別ができるのでもなく、賢くなるのでもない。人の中には霊があり、悟りを与えるのは神の息吹なのだ。(ヨブ記32の7〜9)

 

 このように、はやくも、人間の霊(心の深いところ)に英知を与えるのは経験や年数でもなく、神の息吹、神の霊なのだということを告げている。

 これはそのまま現代にもいえることである。真の叡智というべきは、学問や経験、年齢ではなく、神の霊、聖霊によるのである。それは新約聖書では繰り返し強調されている。

 

…聖霊があなた方にすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思いださせてくださる。(ヨハネ1426

 

 そして、ヨブをその罪と、神のさばきや報いに関してさまざまに説得しようとした三人の友人たちに対してもこう言った。

 

…天を仰ぎ、よく見よ、

頭上高く行く雲を見つめよ。(ヨブ35の5)

 

 神は人間世界のあらゆることを超越した聖なる御方だということを、あの空高く行く雲が指し示しているのだと。

 雷鳴やその稲妻の絶大な力、また雨雲が雨を世界に降らせ、大水とか洪水は懲らしめのため、また恵みを与えるために、神はそのようなことをなされる。

 ヨブよ、耳を傾け、神の驚くべき御業についてよく考えよ。…

 

今、光は見えないが、それは雲の彼方で輝いている。

やがて風が吹いて雲を吹き払うとき、

北から黄金の光が射して、

恐るべき輝きが神を包むであろう。(ヨブ記37章より)

 

 このようにエリフの言葉は、友人たちと異なり大いなる自然を創造した神の無限の力へと目を向けさせる。この世の霊的な雲が晴れたそのときには、神の光が射してくる…そのことを預言的に語っている。

 そしてその直後に、神がヨブに語りかけた。それは長い沈黙の後だった。

 そしてそれは、このエリフの語った自然という全世界の創造されたものへとさらに強力に目を向けさせることであった。

 この最後に語り始めた神のヨブへの応答は、ヨブ記の31章の末尾にある「ヨブは語り尽くした」という言葉に応えたのであって、エリフとか三人の友人への応答ではなかった。

 

 …主は嵐の中からヨブに答えて言った。

 知識もないのに、言葉を重ね

主の計画を暗くするこの者は何者か。(ヨブ記38の1〜2)

 

 神は長い沈黙を破ってようやくヨブに答えた、それはヨブの耐えがたい苦難、その苦しみの意味を言葉で説明するーといったものとは全く異なっていた。

 この神の最初のひと言のなかに答えが込められていた。

 人間は、この宇宙、世界の無限の多様性、その神秘に対してきわめてわずかしか知らない。知っているようでも、さらに深くつきつめて、人間にとってそれらはいかなる意味があるのか、と考えていくとき、小さな葉っぱや石ころ、また雲の動き、さまざまの昆虫、動物…等々のあらゆる自然の現象や姿は、現代においてもすべては深い神秘の世界がその奥に存在している。

 一枚の葉っぱの姿、形その鋸歯の変化、また葉の内でのかぎりなく複雑な化学反応、それらを構成する複雑多様な化学物質…それらを反応させる力…そうした一つ一つのものを神がすべて創造したのであって、人間の技術というのもそうした神の創造した自然、その反応の力を用いているにすぎないのである。人間の考える能力、その感じる神経なあらゆるはたらき、力もまた人間が作ったのでなく、神が創造したものであり、 さらに、そうした一つ一つの自然の姿、内蔵されている無数の変化、物質などに込められた神の人間に対しての御計画とは何であるのか、そうしたことは科学技術がいかに発達した現在であっても、科学技術では、まったく答えられることはない。神の存在やその愛と救いなどはそもそも科学技術で扱うことはできないものであるからだ。

 人間は神の無限の叡智、その創造力の前ではゼロにひとしく、与えられている力さえも神からいただいたものであるゆえに、そのような小さき存在が、あたかも何でも知っているかのように考えるのは、「主の計画(その意図)」を暗くして、いよいよわからなくなるだけだというのである。

 それゆえに、神は以下の長い答えで一貫して、ヨブに大自然の広大無辺のすがたを一つ一つあげていく。

 まず、嵐の中からの答えー大風の激しい力とその音のただ中から語りかけたのである。

 このようなところにも、自然の現象とともに語りかけ、神の創造された力の表された自然の力に魂の目を開かれつつ、聞け、とのご意志が込められている。

 かつて荒野で羊飼いをしていたモーセに神が初めて現れたときも、大自然のただなかであり、柴の間に燃え上がる火の炎のなかから現れたのだった。

 燃えているのに、燃え尽きることのない火の力ーそれは神のすべての悪を滅ぼす裁きの火の力とともに、すべてを燃やしていく強い火の力によっても破壊されることのない神の力をも暗示するものだった。

 このように、神は自然の現象をとおしてその本質を表そうとされることがしばしばである。

 このヨブ記においても、財産や家族も失われ、みずからも重い病気に日夜苦しむというあらゆる希望が失われた状況にあって、何がその暗闇の光となるか、それは説得や議論でなかった。

 人間世界の周囲にひろがる広大無辺の大自然のさまざまの現象の深い神秘、その無限の変化多様性、また太陽星々などの壮大な熱エネルギーや世界を照らす大いなる光、さまざまの地上の生き物、草木、そして大水や地震、稲妻、雷鳴…等々の現象を自由に生じさせる神のわざーそこに目を向けさせたのであった。

 夜明けを人間が生じさせることができるか、大地の広がりや海の広大さはだれが創造したのか、何者が洪水を起こし、また稲妻の光の道筋を決めたのか、そもそのあのすさまじい雷鳴や稲妻を生み出したりできるか、鳥たちが餌をみずからさガラテヤ信徒への手紙、ヒナをたくみにかえし育てる…そうした能力をだれが与えたのか、何者が野生の牛や鹿、猛獣などを生み出し、生活するようにならしめたのか、スバルやオリオンなどの星々を作ったり変形したりできるのか、…(ヨブ記3839章)

 神は長い言葉をかけたがそれはみなこの世界、宇宙の無限の広大さ、身近な草木、小動物から大きな動物までありとあらゆる自然のなかに込められたはかり知れない叡智がそこに秘められている。

 その大自然の姿、いとなみの一つ一つに目をそそげ、そしてそれらをすべて創造した神の無限の御計画、大能に心を向けよ、という語りかけであった。

 

 こうした神の直接の語りかけによって、ヨブはようやく霊の目が開かれたのである。

 

…あなたは全能であり、

そのご意志の成就を妨げることはできないと悟りました。

「お前は何者か、

知識もないのに、神の御計画(意志)を隠そうとするとは」

 そのとおりです。私は悟っていないこと、私の知らない驚くべき御業を申し述べていました。

 いままでは私は耳であなたのことを聞いていました。

しかし、今は、私の目はあなたを見たのです。

それゆえ私は自分中心に考え判断するのを退け、悔い改めます。(ヨブ記42の1〜6より)

 

  人間の苦しみがなぜかくも深く至るところで存在するのか、そうした永遠の問題に関する書であるヨブ記の最後の神が語りかける内容は、このように一般的な苦難の意味を説明するなどというのとは全くことなるものとなっている。

 じっさい、ヨブはその神の自然のさまざまの現象を深く見つめることによってその無限の深さと神秘を深く悟り、自分の苦しみという狭い視点から脱却し、悔い改めることへと導かれたのだった。

 神の創造された自然はたえずこのように私たちの狭くなろうとする心、考え方を広げ、清め、また深めようとするはたらきを託されている。

 ヨブのあらゆるものを奪われ、みずからも重い病にさいなまれた絶望状態からの救いは、直接の神からの語りかけによって、霊の目を一新されて深い神の御手のなかに休らうように導かれたのだった。

 キリストは、こうしたヨブ記における神の創造された自然に目を向けるべきこと、その重要性をただ次の短い言葉に凝縮された。

 

…野の花がどのように育つのか注意して見よ。

栄華をきわめたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

今日生えていて明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。

ましてあなた方にはなおさらではないか。 (マタイ6の2830より)

 

 神の愛というどこにあるかわからない、そんな愛などない、と多くの人たちが思っているが、それは、ごく身近な野草やその花などを霊的に深く見つめることからも感じ取ることができるのだというのである。

 現代の私たちにおいても、いまも生きてはたらく神、キリストの直接の語りかけをうけ、そして直接の創造物である自然のさまざまの姿に深く接することによって、人間の欲望や単なる好奇心から造り出されたもののはんらんするこの世に埋没することから守られ、神の国にあって生きることへと導かれている。

 そうした自然にこそ、神の愛の見える形として枯れた魂を復活させる力が宿されているのである。

 ヨブ記はそうしたことを強く私たちに語りかけている。

 そして、さらにイエスが言われたように、たとえ、自然の破壊されたただなかの大都会においても、聖なる霊こそがこうしたすべてを教えてくれるのだと。

…真理の霊(聖霊)が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。  (ヨハネ16131420

 

 

リストボタン49回 北海道 瀬棚聖書集会に参加しての感想

 

 49回 北海道瀬棚聖書集会が、2月22日(水)〜24日(金)に、オンラインで行なわれました。

 今回の主題は、「互いに愛し合いなさい」。ウクライナとロシアの戦争が行なわれている状況にあって、戦争とは、互いに破壊し、互いに殺し合う ことですが、その対極にあるのが、互いに神の愛をもって愛し合う、ということなので、現在の状況にふさわしい主題が設定されたと思います。

 コロナ以前には、瀬棚の地で開催されていましたが、コロナのために、現地開催ができず、スカイプを用いたオンラインの集会となりました。

 以下は、三日目の最後のプログラムとしての今回の瀬棚聖書集会での感想(感話)です。(発言順)

 

〇今日の吉村先生の話で、平和について特に平和というのは戦争がなければいいのでないということはその通りだと思いました。

 特に私はこの20年、現役を引退してから、障害者との繋がりがあり、その経験からもそのように思います。

 視覚障害者のグループとの繋がりと、それからこの15年ぐらいは「共に歩むネットワーク」というのがあって、これも障害者が主体のさまざまな障害を持ってる人たちと共に歩むという、月に一回、このグループ五人ぐらいなんですけど、全員障害を抱えてる方々とズームで聖書を学ぶ会を開いてます。そういう意味で障害者との付き合いが非常に多い。

 平和(平安)という原語のシャーローム の意味は、完成された、満たされた状態 complete を意味しているといいますが、 自分は必ずしも充分に満たされてないことを常に感じます。そこを通して、いろんなことを学ぶことができています。

 今日の先生の話にありましたように、満たされないときには、絶えず主に立ち帰る。そうしないとその不満や欲望を他者にもっていき対立、争い、そして大規模になると戦争となるー確かにそうだなというふうなことを確認致しました。

 この3日間ですね、昨日の証しも含めてたくさんいろいろな方と繋がることができて非常にいい機会だったと思います。ぜひこれからもできるだけ元気なうちはこういうウェブを通して、ある程度限られますけど、それだけ多くの人と接触することができるので。希望なんですけど、できるだけ顔を見せていただいて、お話しいただけると私は嬉しいですけど、よろしくお願いします。以上です。ありがとうございました。(TI 東京)

 

・聖書集会、私は都合により2日間だけの参加でしたけども、本当に恵みに満ちた良い時となりました。ありがとうございます。

 今朝、牛の世話をしながら、昨日の聖書集会で学んだことがよみがえってきました。

 その中で本当に罪人でしかない私のことを神様が愛してくださり、その罪の為にイエス様を十字架にかけてくださった、この恵みに本当に大きな喜びを感じながら仕事をしていました。そしてまた神様を通して、神様が本当に愛し愛される関係を作って下さったこと。そして私だけでなく、私の祈りを通じて、またほかの人にも、これが届くということを昨日の講話から学んで、本当にありがたいなと思って嬉しくて喜んでました。

 そして今回の聖書集会を準備してくださった吉村さん、また瀬棚聖書集会の皆さん、感話を準備された方たち。本当にその労が祝されますようにお祈りします。

 そして野中正孝さんのお母さんが孫たちにも信仰という思いで、この聖書集会が始められて49回を迎えたこと、本当にありがたいなと思いました。そして正孝さんのお母さんの信仰がこうして今も生きているというのを感じました。本当に私たちのこの信仰が、周りの家族や子どもたち、そして地域の人たちにもつながっていくことをお祈りします。ありがとうございました。(北海道瀬棚 MO

 

・途中からの参加でした。平和という意味の原語の意味は、「満たされる」という話、本当に、一番の満たしていただく方は神様であって、やっぱり自分に不満とか色々ある。やはりもっと神様に近づくということが大切であると言うことを思いました。(徳島IK

 

・この3日間のこの聖書集会はいつも楽しみにしていましたし、またこうして皆さんと共に御言葉を学べたことは本当に感謝です。今日のお話でも、本当に神様から満たされた状態であれば、こういう戦争とかそういう争いが起こらないということで、自分のことを考えた時に、満たされることもあっても、すぐまた渇いてしまうということの繰り返しで、どうしてもこう自分の中ではこう人間に満たされようとする思いがあるなと思いました。

 人間の、他者からの評価とか、そういうことを気にしている自分がいつもいるなということを改めて思いました。やっぱり神様に向かって顔を向けて、そして時を外れたときとか、迷ったり、間違ったことをした時に立ち返るということの重要性というのを改めて思いました。

 ノートを見返した時に、前々回の聖書集会のテーマが「神様に立ち返る」ということで、その時も学んで、やっぱりその神様に立ち返ることの大切さというのを学んで、また今回も学べたのでとても良かったと思っています。ありがとうございました。(北海道瀬棚 KK

 

・3日間ありがとうございました。聖書集会の準備をしているときになかなか順調に進まないこともあったり、きちんと準備がじゅうぶん整って会が開けるのか?不安だった時もあったんですけども。

 今3日間を過ごしてみて、神様に導かれて支えられましたが、準備のとき不安に思ったりしたのは、私の祈りが足りなかったのかなというふうに思いました。本当に恵みが多くて感謝です。

 今日、詩編23編を読んだあと、さっき牛たちにお昼の牧草をやりに牛舎に行ったときに、いろいろと講話のことなど思い返していた時に、緑の牧場というのを、詩編23編の中の言葉を思い出して 自分の牧場の牧草地を思っていました。

 昼間は緑の牧場はとてもきれいですがすがしくていいんですけど、夜は本当に真っ暗闇で。ここは田舎とはいえ、道路はLEDの外灯がついてたりなんかして、比較的道路は真っ暗じゃないんですけど、やっぱり牧草地に上がると真っ暗でとても怖いんですよね。

 そういう中に居て、でも自分がそこにいて神様に守られているっていうことを言えるという。その詩人のなんか核心みたいなものが素晴らしいなというふうに思って、自分もいつもこの詩を書く詩人のようでありたいなというふうに思いました。

 それと、今日の講話の学びで、心が満たされていれば揺れ動くことはないっていうことと、神様の愛は自分の罪の実感していない人には感じられないっていうところと、どんな人間的なもの、それが友情だったり、家族の愛だったり、地位や権力であっても、自分の深いところ、魂を満たすことができないっていう言葉が深く刺さりました。準備してくださった吉村さんに本当に感謝します。あと全国から本当に集まってくださった皆さんにもありがとうございます。

 自己紹介の時にちょっと言いそびれましたけど。ご存知の方も多いと思うんですけど。最初に挨拶した人は私の父でして、父とこういう形で繋がれるというのも本当に大きな恵みだなと思いました。以上です。ありがとうございました。(北海道瀬棚KK

 

・3日間ありがとうございました。瀬棚の人たちやっぱりなんかすごく憧れちゃいました。倉田さん、満たされてもすぐ渇いちゃうとおっしゃってましたけど、やっぱり私から見ると、なんかすごくみんな満たされてるなあっていう印象が強くて。やっぱり牛の世話をしてたり、農業をしてたり、そういう大自然の中に居ると、神様に守られていると感じることが多いんだろうなと思います。ぜひ瀬棚に行ってみたいなと思いました。本当に私自身も満たされた人になりたいなと思います。今度はぜひ瀬棚でお会いしたいと思います。ありがとうございました。(東京 KT

 

・3日間参加させていただいて、本当にありがとうございました。本当に瀬棚の人たちの生活を共にして、そのつながりのある暮らしというのは、やっぱり本当に他にない繋がりであり、また本当に神様を中心として、本当に聖書を学びながら一緒に暮らしているということはすごく大きなことというか、今の私たちにとっても大きな貴重なことだなということをすごく思わされました。それと3日間通して一番心に残ったのは、死んでも完全な状態が続く復活。これを持っていたら平和があるという言葉で、詩編23編には本当にとこしえに神の家に住むというふうに書いてある、復活ということがすごく心に残りました。

 またスカイプの労をとってくださった数度さんも本当にありがとうございました。本当にお忙しい中、聖書講話をして下さった吉村先生にも感謝です。どうもありがとうございました。(福岡 KN

 

・懐かしいお顔の方、拝見させていただいて本当によかったなと思います。昨日、野中さんに瀬棚の自然をちょっとカメラで見せていただきましたね。やっぱり雪がすごい。サーッと真っ白で、ずっと続いてるんだなと思って。おなじ日本でも全然違うんだなというのを感じました。

 満たされない思いというのは私にもありますね。満たされないと自分も傷つけ、他人も傷つけてしまうという悲劇が起こると思います。これ神様によって満たしていただくしかないんですけど。

 何が神様に取って代わって満たそうとしているかというと、自分の思いなんですよね。自分の経験に裏付けされた、自分の思いに囚われてるんですね。その思いは言ってみれば偶像だと思います。

 神を信じていると言いながら、自分の腹の思いや自分の欲望や自分の思いを神様としてるんですね。隅の方に神様が追いやられているというような状況かなというふうに思いました。

 そうならないために、何度でも何度でも立ち返るということを忘れないでいたいなと思いました。(愛媛 ES

 

・瀬棚の皆さん、本当にご準備大変だったと思いますけども、参加させていただいて良かったと思います。今日の吉村さんの講話でシャロームというのは初めて深く理解できた。そのヘブル語の意味は、コンプリートということで、なかなかそういう状態からすぐに完全になれないということで、その都度 神に立ち帰ることの重要性を知らされた。

 「(主に)立ち帰る」ためには、やっぱり聖書は事あるごとに読むことが必要だと思いました。その一人で読むというのがなかなか難しいので、やはりいろいろな集会、何人かで集まって来るということの大切さを教えられました。

 今回の3日間もそういう良い機会を与えられました。また皆さんの感話を聞くことで、自分以外のいろんな視点、気づきを与えられたということを感謝です。

 札幌からですので、もしまたこのような集会が現地で開催されれば、是非行ってみたいなというふうに思いました。本当にありがとうございました。また、今後ともよろしくお願いいたします。(札幌 NS

 

・私、高次脳機能障害と言って、脳の病気で障害者ですから読みます。感話。関聡。長野県上田市。まず準備してくださった瀬棚の兄弟姉妹の方々に感謝。信成さんの第一声。第49回目という神の業。主が支えてくださったんだなあと深く感じました。生出さん出身の酪農学園大学を支えてこられた方々のお支え。

 また西川求さん、日本基督教団 利別(としべつ)教会の方々、明子さんの子供達への願い、みんな総じて主が働かれている。過去、現在、そして未来もあると深く刻み込まれました。感謝。各々の方々の証しを感謝。

 23日の講話について、旧約のホセア書。終わりのときには、神(キリスト)が信じる者と婚約する(霊的に深いつながりとなる)という記述は、強烈でした、私には。

 主を信じる者は、キリストの花嫁とされること。新しいエルサレム。黙示録(啓示)21章と22章を思い出しました。そして、2013年から2016年に徳島で小舘知子さんが新しいエルサレムのところをお話ししてくださった。

 午後は新約聖書からの「互いに愛し合いなさい」の講話。そこで引用されたのが、ローマ書16章。主に従う人たち。パウロの命の恩人プリスカとアキラの箇所でお話頂いた、エジプトの王の名より神の永遠の御言葉。聖書に残るラハブとともに永遠に残る名にプリスカとアキラ。そちらの列に加えていただきたいというふうに思いました。

 最終日午前、今日ですね。主にある平和(平安)を表すという詩編23編。主は私の牧者。

 マスコミ、世の学者の知識、テレビ、宗教儀式になどが自分の牧者となるのではなく。

 このことは、キリスト教独立学園の創始者の鈴木弼美校長がいつも「刷り込まれてるんだよ、私たちは」というふうに言われてましたが、そういうこの世のさまざまのものに刷り込まれるんじゃなくて、生ける水、詩編23編で記されていることこそ根本的に大切です。

 その神様の命、聖霊に満たされたいと、いつも満たされたいと。そして立ち帰る。ルカ15章ですか。そういうふうに私は思い出しました。

 バッハの世俗カンタータ。バッハが詩編23編を曲にしたと 私が思っている曲。Youtubeで「BACH BWV 208 in piano」。これ、ピアノ曲にした曲が、(西川)譲さんのスカイプの画面と一緒なんですよね。癒されます。ありがとうございました。皆さんありがとうございます。生かされました。 (長野 SS

 

・3日間、参加させていただくことができて、ありがとうございました。

 心が揺れていたり鈍かったり、いろんなことが心に入ってくるということが今の私にはありますけれども。やはり先生がどんなところでもイエス様の主なる羊飼いの最高に一番いい道に導いて下さっている、そういうことを心に思って。いままでも本当に恵まれてきましたように、これからも。今、本当に一つ一つが導かれて行きたいと思います。

 ほんとうに今回参加できたことも主の導きであったと思います。いろいろなこと思うんですけれども。今、やはり夫が入院中でなかなか家に戻ってこれないということが、自分がどんなにか夫に甘えて、また友人に甘えて、そして自分の頭でしっかりと立つことが少なかったということを思わされて。それでも導いてくださったことを感謝し、これからの一歩一歩も、どんなときでも立ち帰り、すぐに立ち帰り、歩んでいきたいと思います。

 それから今日の「天つ真清水」という讃美歌は、キリスト教独立学園の16期生が初めて上手にハーモニーがとれたっていう歌だったと思いますけれども。独立学園に入学して3年間、その間に担任が助川(暢)先生で本当に恵まれて。そして人に恵まれ、先生にも恵まれ、本当に夫にも子供たちにも。いろんなことでたくさんの恵みをしっかり受けていることをしっかり思って、これからもイエス様にすがっていきたいなと心から思いました。

 本当にこの3日間をありがとうございます。大事なことを大事にして、決してあのイエス様の手から離さず、イエス様がしっかりつかんでくださってることを信じて、私も目を見上げていきたいと心から思っております。本当にありがとうございました。(岩手 YT

 

・昼の休憩時間の時に、人間の深いところが満たされると言うことを、私自身においてはどうだったんだろうかということをずっと考えて…。すると、小さい時からやっぱりずっと何かを求めてきたと思う。それは自分の心まで開けないから周りとなかなか一緒になれないこともあるんだけど、深いところで生きていないという感じがずっとあって。

 そして信仰に出会っていろんな集会に行ったりして。そして私がやはりよく満たされた瞬間というと、やはり6年前でしょうか。その時に、私の実感で、それは自分が他者に対する愛がなかった、自分勝手であった。あと、もう一つ。自分のこの欲望の姿を知らされたということ。その時はそうだったんだけど。この夜、布団に入って。すごいこのある意味で安らかだったんだけど、日記に私書くので、次の日も日記に書いた。

 私はやはり初めて神に触れたんだと思う。本当に神は生きておられるんだということが分かったときに、つまり罪を知らされることは、やはり直接的なそれなんだけど、その背後において知らされた方があるということに気がついたんだと思う。だから神に触れた。そのことが満たされたこと。深いところで満たされたこと。

 ただその時から6年も経ってますから薄れているけども、そのことを忘れないでいたいと思います、そしてそのことを私自身が求めるとともに、人にも伝えたいとも思います。

 この3日間、本当にありがとうございました。どうも自分のことばっかりいつも思ってしまうので、配慮がどうしてもそうなってしまうんだけど、3日間本当に準備してくださったいろんな方々ありがとうございました。以上です。(青森 TH

 

・今日は特に「シャローム」という、そういう完全な状態というのが、本当に印象深く、講話の中で感じられました。その中で本当に最初、私も聖書を与えられて先生の教えていただく途中で、そのシャロームという言葉。完全な状態というのが、本当にどういうものか。まだぼんやりしていてはっきりわからなかった状態で始めたんですけれども。

 そのシャロームという言葉の内容自体も、本当に先生の講話を聞かせていただいたり、信仰を続けてくる間に本当に深くも広くもなったし、本当に自分勝手な思いで聖書を読んでいた頃には全くそういう神様の御心という、そういう大切な部分というのが本当に自分で判断しようともしていなかったし、本当に自分勝手な思いで聖書の言葉を自分ながら読んでいたなというのを今日特に感じました。

 それと、神様はコロナという世界全体に伝染していくような病、神様はそういうものの中から本当に人間ができないことにおいて神様の愛が必要だということを知らせるために、そういうものを全て用意されているなというのを今回先生の講話から特に感じました。

 その中で特に聖書の中で、その中風の方を友達がその他人の家の屋根を破って、イエスの所まで連れて行って癒してもらったという記事があります。けれども本当に神様が喜ばれることというのは、人にする事ではなしに本当に神様に願うとか、本当に人間の常識をやぶったような行動、思いであっても、神様に求めるものをまっすぐに見ていただいて、それに対して神様はその実現してくださるというか、癒しを与えてくださったように、すべての良いものはそういうふうにして、神様は初めから用意されているんだなということで、今回のお話の中で特に感じ、感謝でした。ありがとうございました。(徳島 SK

 

・昨日の吉村先生の愛の話、今日の平和について、そして証しであり、皆さん一人ひとりの声を聞き、お話を聞く中で、今、私たちの中に神様が中心にいらっしゃるということを感じました。そして、愛の中に包まれていることを感じる3日間でした。本当に一つ一つが感謝です。ありがとうございました。(北海道瀬棚 NK

 

・3日間、本当にありがとうございました。最初のほうで、聖書における平和ということを吉村さんが話してくださったんですけども、誰でもわかる、戦争がないのが平和ということとはちょっと違うといいますか、そういう話を新約と旧約聖書に沿って話していただいたんですけども。

 まだまだ私には勉強不足で理解が追い付かないところがありました。ただ目標といいますか、詩編23編というのはとても馴染みがあるといいますか、小さい頃からよく聞いていた聖句です。その聖句、23編が目標であったり、すごく平和の象徴といいますか、そういう感じがしました。

 その詩編23編というのは僕にとっては、今この生活自体がそれに似てるのかなと言うところを今回改めて思いまして。と言うことは私自身とても恵まれている環境にあるということを思っています。これが私たちが忙しいとか、色々考えるところはありますけれども、すごく恵まれた環境で私は暮らさせていただいてるんだなというところです。

 また「神に立ち帰る」ということ、何かあった時に神様の元に帰る。その時、方向転換という形で赦され導かれる。求めれば与えられるという、そういうことなのかなというところでした。

 本来であれば瀬棚に集まっていただいて、瀬棚で会って、開催できれば本当にいいんですけども、残念ながらこういうオンラインでありますけれども、その代わりたくさんの人がオンラインでこうやって会うというか、顔見て話をいっしょに聞くということができて、本当に感謝です。ありがとうございました。(北海道瀬棚 NY

 

・3日間、お世話いただいた方、本当にありがとうございました。 今日の話の中では、神様の愛は罪を実感していない人には分からないということ。私自身、自分の罪というのがなかなか分からなかった。言葉では、罪の赦しを感謝しますと言っていても、本当に自分がどれほどの罪があるかっていうことを、ルーテル教会から2年前に徳島聖書キリスト集会のほうに移らせていただいてから、礼拝、各集会に参加するようになって、本当にそれが段々と分かってきたところです。

 それで神様のこと、立ち帰るということ、また聖霊の満たし、またどどまる。わが内に居れ。見上げる。そういうことをずっと吉村さんが言い続けてくださっているので、それが今少しずつ入ってきた。

 本当にいつも御言葉を聞き続けていって、それで自分というものがどれほどのものかというのを、罪も知らされたり、人間の弱さや欠け、また本当に傲慢なものであるということをずっと今見つめ直しているところです。

 本当に瀬棚の皆さんは、毎日働いて体を使って自然の中で牛も相手にして、地に足のついた生活をされているので、本当にそういう点で私は専業主婦で働いてもいなかったし、今はかなり病気があるので、元気で働かれている方、羨ましくも思います。それで集会のほうに変わってからは、準備されて話される吉村さんの話を、私は家で少し体をクッションにもたれたような形で聞かせていただいていますので、できる限り、それを聞き続ける。それが今、日常の生活の中では一番大きな仕事だと思っています。それで聞き続けています。

 それで今日は本当に満たされないものを満たしてくださる。若い時から何か足りない何か足りないというのを求め続けていた時、42歳の時に神様の方から現れてくださって、そこで一瞬にして洗礼を受けることを決心して、今34年になります。本当につたない歩みでしたが、今ここに来てやっと信仰、神様に立ち帰って御言葉を学ぶ。学ぶというか、いただく御言葉にやっと辿り着いているところです。ありがとうございました。(徳島 YT

 

・今回の聖書集会では、自分のどれだけ至ってなかったというか、足りなかったのかということをいろいろと自覚することができたというのが恵みだったと思います。

 祈る、ということについても、今回 「祈りの内で戦う」(*)というような表現を学ぶことができました。それから、罪の自覚がなければ罪の赦しというものを実感できないということを学んで、自分がすごく身勝手な人間だってことは自覚したんですけれども、その自分の罪として自覚できているかというと、本当に出来てなかったということに気付けた。

 罪の自覚ができるかというと、それはまだまだだなということなんですけれども。そういうこと。

 それから今日の講話の、主の平和ということ。昨日までは自分が読み飛ばしていたロマ書16章に出てくる名前の羅列とか、そういうことを、読み方を教えていただいたんですけれども。

 また、主の平和に関して、そのことについての詩篇のうち、今日はその一番有名と言ってもいい箇所、その詩編の23編をまた新たな気持ちで学ばせていただきました。ありがとうございました。それから証しなんですけれども、それぞれの方の証にすごく感銘を受けましたし、学ぶ事が多かったと思います。ありがとうございました。以上です。(北海道瀬棚 NN

*)コロサイ書4の12

 

〇お互いに愛し合いなさいというテーマから、神様の大きな愛が私たち一人ひとりに注がれていて、神様の愛について学ぶことができ、改めてその恵みを受けることができ、心から感謝があふれています。私の生活はもう本当の山の中に住んで自然の中にいて、動物たちと暮らしています。そしてもう20何年という長い時間を牛たちと一緒に居ると、牛たちからもらうものが多くて、その命をもらって生きているということを実感することが多々あります。考えてみると、本当に私たち人間はもう牛たちだけからではなくて、多くの命をもらっていながらも、多くのものを破壊してしまっているのが人間だと思います。ほかの生き物から人間を見れば、良い人と悪い人という区別はなくて、神様から見ると、どんな人間であっても分け隔てなく、すべて愛される存在であるので、共に生かされている存在であるという中で、ともに生きていく中に主とともにある祈りと聖霊の働きが必要であるということを学びました。神様の大きな愛について改めて知り、今日は詩編の23編。牛飼いなので草を噛んで寝転ぶ風景というのを知っているので、特別に好きな歌詞を歌ったんですけれども、平和、コンプリート、霊的に完全に満たされた状態を示すということを改めて知って強い感銘を受けました。欲望が先に立ってしまう現実の生活の中で、神様に合った祈りと、聖霊を受けて神様に立ち帰るということを日々つとめたいなと思います以上です。ありがとうございました。(RN 北海道瀬棚 )

 

〇今回、いろんな地域の方と一緒に集会できて、この方法も良い方法だなって本当つくづく思いました。今日の先ほど吉村さんから、絶えず悔い改めるという、その絶えずという言葉がすごく心に響いて、これは1分1秒、いつでも悔い改めてなきゃダメだなと思うほど、自分がやはり汚い心を持っているということを日々、気がついています。

 昨日、小舘知子さんのお話を聞いて、その学生との関わりを聞いて、非常にその学生が自分のように思いました。それは、その話を聞いてからずっと、独立学園での事を思い出していました。

 私は、誰かの言うことに納得できないと、その人に食いついていってしまう性格があって、それで独立学園時代のことを思いだしました。

 それは、学校の昼休みの時間に助川(暢)先生ー3年間 担任だったんですけど、助川先生がいろんな本を持ってきて、短い所を読んで聞かせるんですけど、その中に鵜呑みにするという話がありました。また、ある朝礼の時に(桝本)華子先生が、立派な先生だから、その先生が信じているものを信じる、という話を聞いた時のことです。

 その二つのことに関して、私たち男子生徒同士で議論して、あれは納得できないというようなことがよくありました。自分が理解できないことを信じることなんかできるかというような、そういう生徒たち同士での話でした。

 しばらくの間、ずっとぼくもそう思って、自分が納得できることは信じることができるというふうに思ってましたけども、その信じるということは、実は納得できないことでも、信じるという道があるということ。

 納得したことは、ただ理解をしたこと、学んだこと、学習したことであって、それを信じるということではないということを、ある時気がつきました。

 また桝本華子先生が立派な人が信じる信仰を私も信じます。と言った時も反発を感じましたけど、私自身が両親が亡くなった時、二人とも臨終の時に一対一でいたんですが、その臨終を見て、そしてそれまでの信仰の歩みの姿をふりかえって、自分も信仰するのだと決心しました。そうやってみると、散々反対し、あれはないよと言ってたことがすべて、いや実はそうじゃなかったんだということを気がつきました。

 自分が正しいと思ってた時ほど、気をつけなくてはいけないなって。子供たちにもよく言ってたんだけども、そういうことが一番難しいのが私かなということを本当に思ってます。

 本当に今回たくさんの方々と、いろいろ親しく交わることができ、本当に感謝でした。吉村さんも本当に大変な中、準備してくださり本当に有難うございました。これからも瀬棚のことを時々思い出していただいて、今度実際に対面でできるような時はぜひ瀬棚の地にも足を延ばしてください。本当にありがとうございました。(MN 北海道瀬棚 )

 

〇3日間、吉村先生はじめ、本州の徳島や地方の方々、また瀬棚の若い方々によって、こうやって集会がもたれましたこと、本当に感謝します。日頃、もう毎日毎日目の前にとらわれて、雨が強く降れば、また風が強く吹けば、おろおろ心配して大丈夫かなとか、農作物は大丈夫かな、野菜は大丈夫かなとか、そんなこと思ったり。それから、ウクライナとロシアの戦争も本当にどうなるんだろうって。日本はこれからどうなるんだろうとか、そんな心配を抱えていたりする場合でしたけれども、本当に神様が全てを満たしてくださる。それを信じることという。それが平和の原点であるということを先生から教えていただいて、本当に満たされる神様の恵みと慈しみを信じて、ほんとうに祈って過ごして行くということが、その心の平和だし、みんなの平和につながっていくんだということを教わりました。本当にありがとうございました。本当に信仰的に弱い者ですけれども、本当に立ち帰って、いつも祈りを絶やさず進んで行けたらと願っております。ありがとうございました。(AN 北海道瀬棚)

 

〇3日間でしたが、牛の世話などでバタバタしていましたが、吉村さんの講話や皆さんの感話を聞いて、いい時間を過ごすことができ、感謝でした。

 また、証の時間の司会をさせてもらいましたが、その時間もとても自分にとって良くて、証しをしてくださった皆さんにも感謝したいです。

 昨日こどもの時間で、子供たちがここにずらっと並んでましたが、その子供たちが本当この将来、笑って過ごせる世の中であって欲しいと、いつも思っています。

 講話の中にもありましたが、「敵対する人たちにこそ祈りなさい」というキリストの言葉の説明があったんですけど。今の僕には、その武力を持つことを当たり前と思っている政治家とか、外国の戦争をしている人の為にはまだ祈れないなと思っています。

 それなら子供たちのこととか、戦争などで苦しい思いしてる人たちのことを祈ってしまうと思います。

 ただ神様からすれば、僕もその祈れないと言ってる人たちと同じ存在なんだっていうことも気づかされました。そしてそれと同時に、それでも神様は愛してくださるということも今回また学ぶことができました。

 多分、お互いのことを祈り合うということができれば、本当平和な世の中になるんだなということを思いました。気を緩めてしまうと、神様から離れてしまおうとしてしまう自分が、今もいるんですけども。それは忙しさだったり、自分中心になっていたりすることが原因なんですけど、今日学んだ、「立ち帰る、神様の方に方向転換をする」ということを忘れないで祈りながら、日々生活して行きたいと思います。

 息子は昨日ここにいたんですけど、息子は、だんだん大人になってきて、難しい年頃になってきて、こっちもどうやって接したらいいか分かんなかったりとか。そういうので日々なかなか難しい時間を過ごしてるんですけど。彼が本当に満たされて大人になっていけるように祈っていきたいなと思っています。(MN 北海道瀬棚)

 

〇一日目の夜の吉村さんの講話が始まると、頭の上から吉村さんが語られている言葉とか御言葉の文字がパラパラ落ちてくるような感覚にすごくなって。さっき富永さんもおっしゃってたんですけど、その日の夜はもうなんか気持ちが溢れてというか、興奮して眠れませんでした。一生懸命ひと言ひと言、拾い集める作業をしました。すごくなんか渇いてるんだなと思いました。

 もっともっと聖書に御言葉に触れてなきゃいけないなと思いました。

 また、他者からほめられたいという思いがあると、そういうのが心の深いところにあると、人から何か言われたら腹が立つという言葉を、吉村さんから聞いて、本当だと思いました。

 主こそ私を満たしてくれる存在ということをいつも思っていたいと感じました。自分とすべてのこととか、すべての人との間に常に神様、イエス様と繋がってなければいけないなというふうに思いました。

 一日一日、一時一時、いつでも神様に立ち帰るという大切さを学びました。立ち帰らせてくださる、悔い改めさせてくださる、神様に感謝しています。

 吉村さんの講話の中で、「神を思い、神を経由して信じて、誰かのために祈るのは、私が神様とのより深い関係へと導かれることになる、そして自分も神様に愛されていると分かるようになる」というところがすごく心に残ってます。これからも主にあって、主に結びついて祈り続けて、主につく者でありたいと思っています。

 普段なかなか声を出してお祈りをしない夫が司会をすることになったので、夫のお祈りを聞けたこともすごく良かったです。あとほんとうに神様の導きとしか思えない、主によってつながっている皆さんと一緒にこの場に居られるという恵みにも感謝します。3日間、本当にありがとうございました。また皆さんにお会いすることを楽しみにしています。ありがとうございました。(NY 北海道瀬棚)

〇私は互いに愛し合いなさい、神の愛をもって愛し合いなさい。それがあなたがたに求められることである。どれだけ神の愛をもって愛し合ったり、人を裁かないでいるのかなということを思わされました。それと、瀬棚の人達に会えてとても嬉しかったです。倉田和子さん、(野中)麗さん、(野中)幸枝さん。本当に懐かしかったです。牛小屋、山の道、それから羊を飼っているところ、川があって、山々の中に家があって。とても懐かしく思い出しています。3日間参加できて本当にありがとうございました。(KT 徳島)

 

〇共に御言葉を聞き、共に聖霊を受けることができたことに感謝します。互いに愛し合うこと。主にある平和。神に方向転換する。神様がいつも内にいて導いていただかなければ、受け取ることも与えることもできないので、油断して離れてしまわないように御国へと進んでいきたいと思います。自分が受け取っている愛を他の人に与える。自分が満たされているから、他の人に分けようとする。そういう者でありたいと思わされました。命の水で満たされる人が増えますようにと祈ります。

 3日間ありがとうございました。各司会者による賛美の選曲もありがとうございました。野中信成さん、倉田健さん、数度さん、接続をありがとうございました。仕事をしながら打ち合わせ、準備してくださった御愛労に感謝します。証しを通して神の愛、恵みを分けていただき、ありがとうございます。吉村さん、多くのみことばの取次ぎをありがとうございました。以上です。(HH 徳島)

 

〇3日目のみ参加させていただきました。みなさんの特に関さんの感話で、1日目、2日目の様子も伺い知ることができ感謝でした。今日は特にシャーロームとシューブという言葉を詳しく伺いました。

 エレミヤの特別性を思いました。吉村さんにご指摘いただいて初めて気付きました。ありがとうございました。くりかえし立ち帰ることが大切と伺いました。(MH 神奈川)

 

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〇今月号は、4月9日のイースター特別集会での講話と証し、2月2224日に開催された北海道瀬棚聖書集会の感想などをとくに収録しました。農業(酪農)をしつつ、キリスト信仰を守りうけついで来られた方々のことを知ることで神の業の一端に触れていただきたいと願っています。録音CDを希望の方は左記の吉村まで。

 

リストボタン集会案内

  スカイプ参加希望の方は左記の吉村まで。

・主日礼拝… 毎日曜日、10時半〜12時半。集会場とオンラインでの集会。

 徳島市南田宮1丁目147

 (以下はオンライン集会)

・夕拝…オンライン集会

第一、第三火曜日1930分〜

・北島集会…毎月第四火曜日午後1時〜2時半

 毎月第二月曜日午後1時〜

・天宝堂集会 …毎月第二金曜日午後8時〜9時半(オンラインと綱野宅)

・海陽集会…毎月第二火曜日午前10時〜12

 ・集会案内

 

 http://pistis.jp (「徳島聖書キリスト集会」で検索)