いのちの水  2023年8月号     第750 号

励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。そうすれば、

愛と平和の神があなたがたと共にいてくださる。  (Uコリント1311

 

目次

・平和の破壊と建設

・ドイツ戦没学生の手紙

・イエスを信じるとは

・みつばさの蔭に

編集だより

・集会案内

 

リストボタン平和の破壊と建設

 

 平和の破壊は、一発の砲撃、一回の奇襲で足りる。第一次世界大戦は、青年の一発の銃撃をきっかけに始まり、

 太平洋戦争という膨大な死者を出した戦争の発端は、1931年の満州事変であり、それは一部の関東軍(満州に置かれていた陸軍部隊)が、満洲の奉天の近くの柳条湖付近で、南満洲鉄道(満鉄)の線路を爆破した事件にある。

 その爆破といっても、その直後に列車が無事通過できたほどの小規模の爆破であった。それを中国軍の攻撃だと偽り、中国軍への攻撃を始め、日本の満州支配、さらに傀儡国家たる満州国の建国につながり、それが国際的に非難を受けることになり、日本は国際連盟から脱退、その後は真珠湾の奇襲やその直後にマレー半島沖でイギリス艦隊を爆撃し、米英との大規模戦争となり、その後さらに多くの国々との戦争となり、原爆の投下、ソ連参戦でようやく無条件降伏したのであり、数千万の人々を殺傷する歴史上特筆すべき悲劇となった。

 これも、最初はわずかの弾薬を爆発させた、という小さいことがきっかけで、中国、東南アジア、米英他の国々と太平洋を取り巻く多くの国々との大戦争へと広がっていった。

 その太平洋戦争も、開戦半年のミッドウェー開戦ですでに、日本の海軍が空母4隻や300機近い艦載機のすべてを失い、人的被害もわずか数日の戦闘で3千名を超える犠牲を出すという状態となった。

 それを、政府の発表では大きく偽って被害は少ないとし、人々をあざむいてさらなる無意味な、また数千万という人々を殺害、大怪我をさせて生涯を打ち砕いてしまうという悲劇への道を突き進んだのだった。

 線路を破壊、しかもごく軽い損傷を与える爆発をさせた、ということが発端でいかに膨大な犠牲者と苦しみ、悲しむ人たちを生み出したかは驚くべきことである。

 このように、平和は破壊するのにごく小さな一撃で足りる。

 人間関係でも、長く続いた関係もちょっとしたひと言で壊れてしまうことがある。

 そして、その後の平和を建て直そうとすることには、たいへんな苦しみや時間が伴ってしまう。

 最も近くて、外見的にもよく似ている朝鮮半島の人々や中国の人々と、戦後80年近くを経てもなお、友好関係がなかなか回復されないのも、そうした過去の日本の侵略や武力による支配が根底にある。

 現在、世界を悩ませ苦しませる状況となってきているウクライナとロシアの戦争も、直接のきっかけは、去年2月にロシアが一方的に攻め込んだからであるが、それ以前8年前にロシアがクリミヤ半島を支配するようになり、その後、去年の2月まで8年も戦闘がウクライナ南部で続いていた。

 世界全体からみれば、クリミヤ半島は小さいところであるが、その地域を武力で支配するという小さなことと思われて、当時は世界的に重大視されていなかったことだが、それが拡大して現在では、世界中にその悪影響が広がり、収拾がつかない状態となっている。

 ここでも、平和をこわすのは、そのような小さな領域の奪取という、ほとんど誰もがそれが世界の状況を大きく変えるほどの大問題になっていくとは予想していなかったであろう。

 それゆえに、平和の問題は、そうした武力による最初のきっかけを作らないようにすることがとても重要になるのがわかる。

 どんなことがあっても、武力によって解決しようとしないこと(人を殺害するという手段を使わないこと)、あくまで平和への交渉という手段と、平素から、自国だけでなく、他国の支援、援助に費用とエネルギーを費やして、武力を持たないでそのための莫大な費用を、災害救助隊の育成とし、日本だけでなく海外への災害、貧困、医療や水対策、飢餓への救助を目的とする人々の養成や派遣に尽くすーそうした日頃からの平和主義の姿勢を堅持していく、それが最大の守りであり、他者を決して殺害しない真の平和への道である。

 すでに述べたように、日本が太平洋戦争を引き起こしたきっかけは、満州方面の関東軍の一部の将校の名誉心や権力欲がもとにあった。戦争を長引かせ終結させないのも、またそうした上層部の権力欲、自分の安全をはかるという自己中心の考え(罪)があるからである。

 そのように、人間の根深い罪こそが大規模な戦争を引き起こす根源にある。

 その戦争の根源であるそうした自己中心という罪は、学問や経験、思索などではとうていなくならない。

 人間を超えた、自分の努力とか思索を超えた普遍的な神の力によらねば、そうした根源的な罪は清められない。

 それゆえに、聖書では、そうした狭い自己中心の考えを根底からあらためて、愛と真実の神中心の考えに立ち帰るように、との強いメッセージが繰り返し語られてきたのだった。

 以下は、モーセ(*)が神からの言葉として記されている内容の一部である。

 

*)モーセは今から三千年以上昔のイスラエル民族の指導者。

 

 …あなたもあなたの子供も共にあなたの神、主に立ち帰り、わたしが、きょう、命じるすべてのことにおいて、心をつくし、精神をつくして、主の声に聞き従うならば…

 あなたの神、主はいつくしみの深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず…

(旧約聖書 申命記4の3031より)

…あなたが苦しみにあい、これらのすべての困難な事が、あなたに臨むとき、もしあなたの神、主に立ち帰ってその声に聞きしたがうならば、あなたの神、主はあなたを再び栄えさせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主はあなたを散らされた国々から再び集められる。(旧約聖書 申命記30の2〜3より)

 

 ひとたび戦争を始めたら、それを再び平和へと戻すには、どれほどの犠牲が必要になるか、はかり知れない。今回のロシアのウクライナ侵略も、これからもいつ終わるのか誰も予測できない。そこから長い戦争と(それがいつか終わったとしても)、その後に長い混乱の道が続いていくであろう。

 どこでその間違った道が途絶えて、平和の道へと変わるのか誰もわからない。

 わかるのは、その道で多くの死傷者が生まれ、生涯傷を負って苦しむ人、家庭の破壊など、そして憎しみや怒りと、深い悲しみが生まれていくということである。

 まさに、「すべての剣を取るものは、剣によって滅ぶ」(マタイ 2652)とイエスが言われたとおりであり、剣ー武力をとって他者を滅ぼそうとする考えによって、現在も無数の人々がそのことによって苦しみ、滅びつつあるある。

 そうした一切のことを見抜いていたキリストは、真の平和の道を自らの命をかけてこの世に示されたのであった。それが十字架にかけられて恐ろしい苦しみを受け、その後の復活により、そのキリストを信じるだけで、どんな重い罪も赦され、死の力に勝利して、復活という神の国での永遠の命を与えられる大いなる祝福が指し示されている。

 真の平和、それはまず一人一人が、平和の神、愛の神へと立ち帰ることからはじまる。

 イエスこそは、歴史上の最大の真の平和の建設者であり、そのことは、過去二千年を通じて変ることなく続いている。

  そして、そのような、平和の破壊された世界にむかって、「私のところに来たれ、私の平和をあなた方に与える」と招き続けておられるのである。

 


 

リストボタン「ドイツ戦没学生の手紙 」から

 

 ジークベルト・シュテーマン (神学生、ベルリン大学)

 (三四歳年長のドイツ詩人に宛てた手紙で、フィンランド派遣戦闘部隊の北部戦線で 一九四一年八月三日)

 

 我々を全滅させようとするロシア軍の大砲の射撃のため、ロシア軍が沼沢の多い原始林のなか深く、要塞や壕に留まり続けた時、私たちは、戦線にかけつけるため、酷熱をおかして、数日間に二百七十五キロも徒歩で突破しました。

 ここヨーロッパのはてには、道はほとんどなく、車が軸まで沈む砂みちがあるばかりです。そこを私たちはほとんど食糧の補給もなく、毎日六十五キロ進みました。ついに馬は倒れ、 私たちもやつれて果てました。

  弾丸がヒューヒュー飛んできた。私たちは九時間に一キロ半すすみ、多くの掩蔽壕を奪取し、戦車を破壊した。

 しかし、その戦闘で80名の戦友が倒れ、私たちは死ぬほど疲れ切っていました。

 砲弾の攻撃は、止まらなかった。今、私たちは、塁をかためているロシア軍と面と向かいあって、進むことも退くこともできない。 私たちは、ちっぽけな、見るかげもない一団になってしまった。狭い土の穴にもぐりこんで、雨にも、日照りにも、昼も 夜も眠らずうずくまって、次ぎの砲弾を待ちうけている。将校たちはもはや、どうしたらよいかを知りません。

 私たち孤立した兵隊にとっては、絶望のなかにあって、ただ一つのことが思い浮かぶばかり。

 それは、現実は無だ、奇跡ー神の力が一切だ、ということです。それが私たちを立ちなおらせてくれます。

 人間には私たちを助けることはできない。私たち生き残ったものを今日まで 恵み深く守ってくれた神だけが、私たちを助けることができます。

 それで私たちは恐れを抱かず、不思議に静かな明るさのうちに、共にうずくまって今、外見に反して生きており、死のただなかにあっても「生命に包まれていた」使徒のように。

 神が何を決定したかは、だれにもわかりません。戦死者が多く、 先週に比べると、私たちは半分しかおりません。 それゆえ、心からあなたに祈りの握手をし、あなたの不断のとりなしに感謝いたします。

 私は、祈りの壁が私を取り囲んでいるのを、はっきり感じます。あなたが私の妻を父のように大きな愛をもっていたわってくださるのを、常に感謝しております。

 それは、愛が非常に乏しくなった今日、神が 私に与えることのできた最大の贈り物です。

 ペテロは大波のなかに沈みそうになったのに、浮かびあげられたではありませんか。  (「ドイツ戦没学生の手紙」一九五三年九月 高橋健二訳、新潮社発行)

 

〇この手紙文は、書いた人の信仰がどのようなものであったかが浮かび上がってくる。

 神は、困難のときにどのように信じる人を支えるのか、孤立し、もう死ぬほかはないといった状況にあっても、「畏れず、不思議な静かな明るさの内にあり、死のただなかにあっても「(神の)命に包まれていた」との実感は、驚くべきことである。

 飢餓や水のない苦しい状況、そして砲弾が降り注ぐようないかなる意味でも静けさや安らぎなどないような状況であってもなお、魂の平安と光を感じ、祈りの壁で取り囲まれているーという。このことを知って、私たちもどのようなことが生じようとも、闇のなかに光を創造してくださる主を信じて歩むようにとのうながしを感じる。

 


 

リストボタンイエスを信じるとは何を信じるのか

 

 ヨハネ福音書には、とくに「信じる」ということの重要性がしばしば現れる。

 その福音書の最初から、この信じるということが現れる。

 洗礼のヨハネは、水の洗礼を人々に授けていた。そのヨハネの使命は、イエスこそは光であるということを証しすることであったが、それは「すべての人が信じるようになるため」とある。

 それでは、信じるとは何を信じるのかその具体的なことはどういうことなのかを聖書に基づいて学びたい。

 このヨハネ福音書の冒頭において、言(ギリシャ語でロゴス)なる「キリストの名(本質)を信じる人々には、神の子供たち(*)となる力を与えた」 とある。

 ここで、キリストを信じる、受けいれるとは「その名を信じる」こととされている。

 しかし、「名」を信じるということは普通の日本語では言わないから、説明なくしては、このことの重要性はわからない。

 聖書においては「名」とは、その本質を意味している。すなわちキリストの名を信じると言えば、キリストの本質たる、永遠性、神と同質、それゆえに全能、完全な愛や真実の御方である ということなどを信じるということである。

 ここから、「キリストによって万物は創造され、神の本質の完全な現れであり、万物をその力ある言葉によって支えておられる」(ヘブル書1の2〜3より)ということも信じる内容に含まれる。

 また、主の名によって祈る、ということは、単にイエスの名前を出して祈るということでなく、主の愛の内にあって、その愛、真実を信じて祈る ということになる。

 *)「神の子供たち」と訳した個所は、口語訳、新共同訳、聖書協会共同訳ともにみな「神の子」と訳しているが、その原語は、テクナであり、それは テクノン teknon の複数形。テクノンは、一般的なごく普通の子供や子孫さらには、イエスに従う人たちをも表す言葉であるから、聖書の中でも、旧約聖書のギリシャ語訳も含めて412回と多く使われている。例えば、「子供たちのパンを取り上げて小犬にやってはいけない」(マルコ7の27)、「エリサベツは不妊だったので子がなく」(ルカ1の7)

 しかし、イエスを「神の子」というときの、ギリシャ語では、「子」は ヒュイオス hyuios であり、これは単なる子供という意味とはまったく異なり、神と同質という特別な意味を持っている。

 イエスがマルタとマリアの家を訪れたとき、マルタが終わりの日の復活は知っていると言ったら、イエスが、私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる、生きていて私を信じる者はだれも決して死ぬことはない。このことを信じるか。という重要なことを語ったとき、マルタは、「はい、主よ、信じます。あなたが、世に来られることになっている神の子、メシアであると、私は信じています。」(ヨハネ1127

 あるいは、ヨハネ福音書の最後のところで、「これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、信じて(永遠の)命を受けるためである。」            (ヨハネ2031

 と言われているように、キリスト教信仰の根底にあることであり、だからこそ、ヨハネ福音書ではその冒頭にも、キリストは地上に生まれる前から、神とともに存在していて、神であり、万物はそのキリストによって創造されたと記されている。ヨハネ福音書の最初と最後に、そしてその間にも、イエスこそ「神の子」ー神と同じ本質を持っている存在だと信じることが、いかに重要であるかを示している。

 イエスが神と同じ本質を与えられているからこそ、生まれる前から永遠に存在していたし、十字架の死によって万人の罪をあがなう道を開かれ、かつ死からの復活をもなすことができた。このようなことは人間ではまったく不可能なことである。

 それゆえに、この個所で イエスを信じる者が「神の子」となる力を与えると訳すると、イエスを信じた人、キリスト者は神と同じになるなどという、まちがった意味に取られかねない。

 それゆえに、英語訳の聖書ではすべてこの個所は、 children of God (神の子供たち)と訳されているし、キリストのことは、すべての英訳聖書で The Son of God と大文字で表して単なる子供というのとはまったくことなることを示している。

 また、日本語訳でも新改訳は「神のこどもとされる特権を与えた」と訳され、岩波書店から出た新約聖書でも、「神の子供たちとなる権能を与えた」と訳しているし、日本でよく知られたギリシャ語辞典を編纂した岩隈 直(いわくま なおし)訳も「神の子供となる全権を与えた」と訳している。

 このように、日本語は大文字で区別することもできず、本来複数形というのがないから、ただ信じただけで、神の子になる と訳すると、キリストが神の子であるという意味と同じと受けとられることになり、キリスト教信仰においてまちがったことになる。

 

 日本では、キリスト者は1%前後という状態が長く続いている。そのことは、圧倒的な人々が、聖書でいわれている唯一の愛と真実の神を信じないし、したがってその神が世界に使わしたキリストのことをも神と同質な存在だとは信じないというのがごく普通という状況である。

 神様の子供とされるー神さまが目には見えない魂の父親であって、その父親たる神の言葉を聞き取る、受けいれることができ、さらに神様の力を与えられるようになるということである。

 そして、その神の子供としていただく重要なことについて、学問的に研究をしたとか長い経験を積んだとかたくさん本を読んだからといって、そのような神の子供となる力を与えられるのではない。

 ただ、幼な子のように単純率直にイエスこそは、神と同じ本質持って地上に使わされ、十字架にかかって、万人の罪を赦すために死なれ、ただ信じるだけでじっさいに罪赦される道を開き、死という最大の力を持つものにも勝利して復活された、そのことを信じることを意味している。

 それゆえに、そのように信じる者には、その信仰によって永遠の命が与えられると約束された。

 ここで言われている永遠の命とは単に長い命ではない。

 最近よくQOL(Quality of Life)ということが言われる。それは「命、人生、生きることの質」 という意味であり、いくら長生きしても、何の生きがいや目的もなく、惰性で長く生きても、また病気とか老衰で何もせずに入院、自宅療養するという長生きは決して喜ばしいものでない。

 命の質こそが問題だということであり、たとえ健康な人のような仕事はできなくとも、また体の障がいや高齢ゆえの不自由な体となっても、さらに寝たきりであっても、その心にはつねに私たちを支え、導いてくださっている神様への感謝とその神に自分や他者のための祈りをもって過ごしている人は、その生きる質が異なる。そういう日々が祈りと感謝であるならそれこそはその生活の質は祝福されたものと言えよう。

 そして、聖書の約束する、永遠の命を与えられて生きるとは、まさに最高のよきQOLであり、神の命であり、完全な清い愛、真実、といったものが、いかに小さい規模であっても、すでに引用したように、信じるだけで生きているうちから与えられる、ということである。

 

…わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。

生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ 112526

 また、イエスを信じるとは、その永遠性、たとえ死すとも、生きる存在だということを信じることだというのは次のようにも記されている。

 

…事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『私はある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。

           (ヨハネ 1319

 たとえ私が殺されることがあろうとも、そのときに、イエスこそは「私は在る」、すなわち、永遠の存在者であると信じるためだと言われている。

 

 また、ヨハネ福音書の最後の部分に、次のような内容がある。それは何のために最後に置かれたのか、その重要性のゆえである。

 

…トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。…信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 このイエスからの直接の言葉に、トマスの心深くに神の光が射し込んだ。そして彼は言った。

「わが主、わが神よ!」

   (ヨハネ 202728より)

 

 「主」と訳された原語は ギリシャ語のキューリオスであって、この語は、旧約聖書の中に6828回(*)も現れる ヤハウェという神の名のギリシャ語訳として用いられているのであって、イエスの時代の時の聖書は、旧約聖書であり、そのギリシャ語訳を用いていたゆえに、彼らにとっては、このキューリオスという言葉はそのままヤハウェという神を意味していたのである。

 

 *)アメリカの重要な聖書ソフトウェアである Bible Works による。

 

 けれども、日本語の「主」という言葉は、主人とか、店主、とか主となる人々、主として使われる、あるいは、主題 、…等々、いくらでも日常的に現れる言葉である。そのため、新約聖書の人々たちが、この キューリオスという言葉を「神」という意味で用いていたことに気付かないままになりがちである。

 このトマスの「我が主、我が神」との言葉は、キリストのことを、我が神、と重ねて言ったことを意味し、その重要性が刻印されている。

 このことを信じない者にならずに、キリストが 我が主、我が神、であることを信じる者になれ との呼びかけなのである。そしてその神とは 愛と真実や正しさ、美、清さなどあらゆる完全な良きものに満ちた存在であるから、神をそのような存在だと信じる、しかも他人の神でなく、一人一人がそれぞれの日々のあらゆる困難や苦しみ、悲しみのただなかでそのことを信じ続けよ、との最後のメッセージとして置かれている。

 この最後にあるひと言、「信じない者でなく、信じる者になれ!」という言葉、それは単にトマスという弟子に言われたのでなく、万人に対して言われたのである。

 私たちは、つねにこの世の混乱、不正、汚れたこと、悪の力からきている戦争…等々に接して、どこに神がいるのか、神の愛や真実などあるのかと疑ってしまう。

 それゆえに、この「信じない者にならずに、信じる者になれ」とは、日々の私たちの切実な課題となっている。そうした一人一人の心の深いところもすべて見抜いた上で、永遠の存在者であるキリストがこのように語りかけているのである。

 そしてこの個所の直後に、ヨハネ福音書が書かれた目的として次のように言われている。

 ここで「命」とは、永遠の命のことで、神の命であり、それは単なる長い命でなく、真実や愛そのものに満ちた命を意味している。

 

…これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、信じてイエスの名により 命を受けるためである。(ヨハネ2031

 

 


 

リストボタンみ翼のかげに

 

 現在、世界の至るところで、住んでいるところから追われて難民となった人たちは、今年6月では、10年以上内戦が続く中東シリアから六五〇万人、ロシアによる軍事侵攻が続くウクライナからは五七〇万人、南米のベネズエラでも、2019年6月で、四〇〇万人を超えており、現在では難民は11千万を超えたと報道されている。(国連難民高等弁務官事務所 UNHCRによる)

 また、食事が十分できず、飢えている人たちは、八億二千万人を超えている。(国連WFP

 こうした現実のなかで、日本や世界の状況を知れば知るほど、悲惨は至るところに満ちているのがわかる。

 しかし、飢えや戦乱は過去にはなかったのか、例えば日本において江戸時代には4回ほどの大飢饉があり、そのうちの天明の大飢饉においては、飢餓ゆえの疫病も蔓延し、死人が至るところにあり、人や馬肉なども食したと伝えられ、人口も90万人を超えて減少したという。

 戦乱にしても、日本では戦国時代という百年年を超えて各地で続いた戦乱の時代があり、そうした戦乱によって農民の食糧は奪われ、殺害され、また重傷を負って生涯病者となって苦しみや涙とともに過ごした人たち、その家族たちは数知れない。その当時は、およそ社会保障はもちろん、最低限の医療さえ、一般の人々、とくに戦乱の犠牲者たちには提供されなかったから、そうした傷ついた彼らやその家庭や生活がいかに悲惨なものとなったかは、現代の我々の想像を絶するものがある。

 ヨーロッパにおいても、14世紀には、ペストが世界的に大流行し、1億人を超える人たちが犠牲となったと言われている。現在、新型コロナの死者は世界では700万人に近づいているが、中世では人口がいまよりはるかに少なかった状況を考えると、いかに多数がペストによって死んだかがわかる。それは世界の人口の4分の1ほども死に至ったという。

 このように、現代は、過去の時代に比べて情報が圧倒的に多く、 それゆえに悲惨なことも地域によってはリアルタイムで世界に知らされるから、特別に現代の状況が異常だと思われがちであるが、過去の状況も知れば知るほど、悲惨なことはいくらでもある。

 最近百年余りの間に生じた、二度の世界大戦では、合わせて1億人に達する人々の命が失われたとされている。

 こうした世界の闇は、それだけをみつめるときには、私たちに絶望的な気持ちを投げかけてくる。いくら教育や民主主義、あるいは医学などが発達しても、こうした人間同士の争い、内紛や戦争は途絶えることなく、犠牲者数は兵器の大規模化、高性能により、いっそう増大しつつある。

 このように、世界の状況は、はるかな古代から、絶えざる戦争や飢饉、病気などに苦しめられてきた。

 しかし、そのような闇と混乱のただなかに、聖書の世界が光となって存在してきた。

 聖書の冒頭に、闇と空虚、荒涼とした状況のただなかに、光あれ! という神の言葉とともに 光が存在した、とある。これこそ、こうしたあらゆる歴史の闇における根本的な解決の道を示すものである。

 一挙に周囲の社会や世界が戦争や飢餓のないようにする方法などは存在しない。 しかし、この社会や世界は一人一人から成り立っている。

 その一人一人の存在の深いところにまず神の光が注がれるならば、その人は、他者を権力や武力、憎しみをもって倒そうとはしない。

 主イエスはたった一人の病める人、見捨てられた人のために、神からの力と愛を注がれた。そして注がれた人は、新たな人間となってよみがえった。

 そうした光、それは命の光といわれるように、物理的な光と異なって、魂の内に射し込むものであって、戦争中、病気や死の力の迫るときであっても、与えられ得る。

 そのような光こそ、過去から現代のあらゆる時代において人間が最も深いところで求めてきたものであり、それを与えることが、神のご意志であり、それゆえに、聖書の冒頭に記されている

 神の光をうけるとき、神の命が与えられ、もう死にたいと思っていた人が、ほかのどんな方法でも立ち返ることができなかった新たな魂に作り変えられ、立ち上がって前途をみつめる力が与えられる。

 立ち上がってもまた、この世の悪しき力に倒されそうになることもしばしばある。 しかしそのたびに、主に立ち帰るという道がそなえられている。

 そして立ち帰るとは、ここにあげた詩編の言葉によれば、「みつばさの陰」に帰ることである。

 親鳥が雛を集めるように、繰り返し、神は私たち人間の一人一人に目を注いで、「私のつばさの陰に入れ」と呼びかけてくださっている。

 私が小学の低学年のとき、父がプリマスロック(白黒の横シマ模様の鶏)の鶏からヒヨコが生まれるようにしてくれてその小屋まで作ってくれた。

 そしてヒヨコが生まれて母鶏が手厚く世話をするのを毎日親しく見ることができたのをそれから七十年ほども経っても思いだす。雛が寒いとき、また眠くなったとき、あるいは何か危険が迫ったときには、母鶏の羽の下にもぐり込み、頭を出してじっとしている。母鶏は中腰になってヒヨコたちを守っている。

 また、母鶏が餌を見つけたら、クックッと呼んでやる、ヒヨコはすぐさま駆け寄ってその餌を喜んで食べる…こうした愛らしいしぐさは、いまもなお思いだされる。

 それほどに、翼の下に守るその様は幼い心の深いところに刻まれたのだった。

 主イエスは、イスラエルの人たちが歴史においても、またイエスが現れたときにあってもなお、神に従わず、背信を重ねる状況に対して次のように言われた。

 

…ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。

めんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。

それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。

            (マタイ2337

 イエスの心にも、主の愛、神の愛とは、めん鳥のひなたちを翼のもとに集めようとする姿があったのがうかがえる。

 

 現状の苦難、悲惨、どうすることもできない状況に接して、私たちはどこに魂の平安や力を得ることができるだろうか。教育や学問か、AIなどの科学技術か、政治か、制度か…それらはますます発達してきた。しかし、いっこうにこの世の闇は消えることなく、ますます大規模に世界全体が呑み込まれようとしている。

 そうした新たな状況においても、はるか数千年前と変わらずに私たちにそなえられた道がある。

 それが、全能かつ愛なる御方の みつばさの陰に入るということであり、それは、次のよく知られた言葉のように主イエスのもとに行って、魂に安らぎを与えられ、さらに立ち上がり、前進する力を与えられることである。

 

…疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。

休ませてあげよう。

           (マタイ1128

 そうした安らぎを与えられた魂は、神様の真実や愛が確かに存在することを知るようになる。

それはまた、聖なる霊が与えられることでもある。

 聖霊は、イエスが復活したのちの姿であり、神と同様にどこにでも行くことができ、あらゆるものを見通すことができる神と同質の生きて働く存在である。

 それゆえに、その聖霊は、私たちの苦難のとき、悲しみや絶望的状況にあっても、私たちに慰めや励ましをあたえてくれる大いなる存在でもある。

 それゆえ、その聖霊のことを、聖書(ヨハネ福音書)では、パラクレートスというギリシャ語で表しているが、この語は、パラ(そば)と、カレオー(呼ぶ、叫ぶ)から成っているので、「そばに来て、私たちを慰め、励ます存在」という意味を持っている。

 聖霊をあらわすこの重要な言葉パラクレートスは、日本語の訳語は、新共同訳では、「弁護者」と訳されているが、この訳語では、まるで親しみの持てないばかりか、きわめて重要な聖霊を表す言葉としてはニュアンスが異なる。

 そもそも「弁護者」などというのは、私たちの日常生活では多くの人にとって縁遠い存在である。生活のなかで、朝起きてから夜休むまで、どれほどの人の会話とか心の中で、「弁護者」という言葉など出てくるだろうか。

 私自身、こんな名前の言葉など一度も使ったことがないし、会話のなかでも出たことがない。

 それほど、私たちの生活に関係がないような訳語である。 それゆえ、聖霊とは神と同質であり、復活したキリストのことであるにもかかわらず、「弁護者」などと言われると、まるでその重要性を表しておらず、本来の意味が著しく矮小化されてしまう。

 これは復活したキリストの本質が言われていることであり、英訳では、多くが頭文字を大文字とした カウンセラー(Counselor) と訳されている。英語では特別な意味をもたせるために大文字を使うという方法があるが、日本語にはそれがない。

 しかし、この英訳語もまた、日本人にとっては、聖書の本来の意味が伝わってこない。カウンセラーといえば、相談員という職業名を思いだすのがほとんどであるから、神や復活したキリストを思いだす人は、日本人ではほとんどいないと思われる。

 そして、多くの人は、カウンセラーという職業の人とかかわったことがないのではないかと思われる。

 しかし、ヨハネ福音書14章で現れる原語のパラクレートスは、復活したキリストを意味しているのであって、そうした職業のカウンセラーとは根本的に異なっている。

 日本語の「弁護者」などという訳語もまるで本来の意味を表していない。

 このパラクレートスとは、そばで語りかけ、罪の赦しか告げ、励まし、慰める活きた存在を意味している。しかも、永遠の存在であって、「すべてのことを教える」(ヨハネ1426)と約束されている存在である。

 信じる者とともにいて、かつその人々の心の内にいる存在なのである。

 それゆえに、私たちが深い苦しみや悲しみに出逢ったときに、私たちの魂の深みにいてくださって、そこから私たちに語りかけ、人間ではできない深い慰めや力を与えてくれる存在だということである。

 人が、苦しみや悲しみのために生きていけなくなるのは、そのような状態にふさわしい言葉をかけてくれる人もなく、見下され、あるいは無視されて、どこにいっても自分のいま直面している問題の難しさを共感してくれる人がいない、というような状況である。

 そうした状況にあって、語りかけ、慰め、励ましてくれるのが復活したキリスト、言い換えると聖霊なのである。

 そのようにして、復活したキリストが私たちの内にとどまり、人間にとって本当に必要なすべてのことを教えてくれる存在となる。

 それゆえに、それまでは、ただ自然の広がりや青い空、そこにうかぶ白い雲等々さえも深い感動など覚えなかったのが、まったく異なる新しい感動をもって天地自然を見るようになる。

 それが、次のようなことばで表されている。

 

 主よ、あなたの慈しみは天に、あなたの真実は大空に満ちている。(*

あなたの正義は神の山々のよう、

あなたの裁きは大いなる深淵。…

神よ、慈しみはいかに尊いことか。

あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ

あなたの家に滴る恵みに潤い、あなたの甘美な流れに渇きを瘉す。

命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。(詩篇36610

 

*)「慈しみ」と訳された原語ヘブル語は、hesed ヘセド、「真実」と訳された原語は、emuna エムーナー

 これは神の本質をあらわす重要な言葉として、すでに旧約聖書の出エジプト記に記されている。

…主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、慈しみと、真実の豊かなる神 …   (出エジプト34の6)

 

 ここに引用した詩編36の6節からの個所は、驚くべき内容である。

 最初に言われているのは、神の「慈しみ」と「真実」であり、これこそ、神の本質である。旧約聖書の出エジプト記において、右の(*)に示したようにすでに新約聖書、キリストに通じる神の本質が言われている。

 しかし、旧約聖書は新約と比して読まれることが少ないために、旧約聖書の神は裁きの神、恐い神だというように思われていることが多い。

 そして旧約聖書が正しく読まれず、まちがった受けとり方をして書いたり話したりされても、それを聖書に基づいて修正する人が少ないからである。

 ここで引用した個所の最初に、神の本質としての、慈しみと真実があげられている。この二つの重要性は新約でも同じ。この二つの内容こそ、聖書全体を流れている根本的な神からのメッセージである。

 ほかの歴史的なことやさまざまの学者とか言うことを知らずとも、神の慈しみと真実を自分の魂の深いところで実感できれば、それで足りる。

 

*)「慈しみ」という言葉は、日本だけにある言葉、古くからの本来の日本語である。もともとは、漢字もカナもなく、音だけであったから、慈しみといっても、本来は中国語である慈とは直接に関係がなかった。しかし、中国語の慈 という漢字の意味するところと、いつくしみ という古来からの言葉の意味が似ているから、中国語の慈 という漢字を いつくしむ という意味でも使おうということになって、現在に至っている。 このいつくしむ という言葉は、うつくし(美し)、いつくし(厳し)、とも語源的につながっていると説明され、本来の日本語として豊かな意味をたたえている語である。

 

 それがしっかり私たちに入ったらもうこれだけで魂が満たされる。根本に神の慈しみがあるから、罪を犯しても心から神に立ち帰るならば赦していただける。

 神の愛は人間の愛とは根本的に異なっている。人間の愛は頼りない、あるいははかない。影のようにすぐに消え去ってしまうものでしかないし、感情的に好きとか家族とか著しく限定されたところにしか働かないし、それも何かあると壊れて激しい憎しみにさえ転じてしまう。

 人間の体力の弱さ、時間も有限であり、病気になる、家庭に大きな問題が起こる…等々が生じると、それまでかかわっていた人のことを置いて対処せねばならない。

 人間は著しく限界ある存在であり、難しい病気や事故、災害等々が生じるとたちまち何もできなくなってしまう。とても他人にさく時間やエネルギーがないという状態になる。苦しむ他者のところを訪ねることさえもできなくなる。

 そのような人間世界の現実にありながら、数千年も昔からはかない人間の愛と全く異なる、神の愛(慈しみ)が、天に大空に達し、満ちているということが示されたのは驚くべきことである。

 人間の根本問題である罪の赦しを与えられ、さらにその清めをうけた魂は、新しい状態に変えられる。それを実感した者は、いかにこの世が暗く、さまざまの困難があろうとも、なお、神の愛は天地にあまねく広がっているという実感が与えられるゆえに、このような詩が生まれた。

 

…あなたの正義は神の山々のよう、

あなたの公正は大いなる深淵。

 (聖書協会共同訳 詩編367

 

 ここで、「正義」と訳されている原語は、ツェダーカーで、これは 「正義」あるいは「義」と訳される代表的な言葉である。それゆえ、従来使われてきた口語訳、新改訳などもみな、「義」と訳している。

 ところが、新共同訳では「恵みの御業」(*)と訳されて、まるで異なる訳となっているが、その改訂版の聖書協会共同訳では、本来の意味のとおり「正義は神の山々のよう…」というように変更された。

 さらに、「公正」と訳された原語は、ミシュパートであり、公正、公平、正義、裁きなどと訳される。英語では、justice(公正、正義)であり、この個所の重要な英訳は、次のように訳している。

 Your righteousness is

like the mighty mountains, your justice like the great deep. (NIV)

 

 *)すでに述べたように、新共同訳では、6節は次ぎのように訳されている。

…あなたの恵みのみ業は、神の山々のよう

あなたの裁きは大いなる深淵。

 

 本来は正義と訳されるべき原語が、新共同訳だけ 恵みの業 と訳されているのは、ほかにはほとんど見られない訳。これは、神の正義が単純に悪しきものを裁いて滅ぼすといったことでなく、立ち帰るものを赦す恵みを伴った正義なのだということから、こうした訳を採用しているが、説明なしにそのような訳語を用いると、ヘブル語のツェダーカー(正義)という言葉の多様な意味に気付かないままとなる。

 

 神の正義が、神の山々あるいは、高くそびえる山々のようだ、とはどういうことか。 こんなふうに正義を表すことは、まったく他にはみられない独創的な表現である。

(ヘブル語の エール、あるいはエローヒィームは神を意味するが、一部には、偉大な、力ある(great, mighty,towering)などと訳されることもある。新改訳は 「高くそびえる」 と訳している。)

 山は不動の存在としてしばしば象徴的に用いられる。

 

我、山に向って目をあげる

我が助けは何処から来るか

天地を創られた神から来る              (詩編121の1)

 

 これは山々を仰ぐときその不動の姿から、その創造者たる神こそ揺らぐことなき助け主だという思いが自然とあふれ出た作者の信仰を示すものである。

 

 あるいは、

…たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰…(Tコリント13の2)

 

 神の正義は山々のように揺るぎない。永遠だ。そしてその裁き、公正さは非常な深さをたたえている。深みがある。正義はつねに悪を裁くという本質を持っている。この世の正義、裁きは、人を何人も殺害すれば「もう悔い改めました」と言っても、死刑となるであろう。

 しかし、神の正義、裁きは、もしその殺害者が、本当に心から悔いるとき赦されるという愛の本質をも兼ね備えている。

 時と状況、いろんな罪に対する裁きは、その人の魂の深いところをみつめて、神がなされる。

 そういう意味で、神の正義・公正は、人間には窺い知れぬ深淵を持っている。

 その正義と愛のいずれも人間世界にはあり得ない無限の深みをたたえているのが、キリストの十字架である。あの十字架は神の正義と愛が出会うところとなった。

 次の英訳は、神の正義というのが、人間の正義の単純なイメージと異なるのを感じさせる訳となっている。

Your righteousness is like the mighty mountains, your justice like the ocean depths.NLT

(あなたの正義は、大いなる山々のよう、また、その公正(正義、裁き)は、大洋の深みのようだ)

 

 聖書の旧約聖書から新約聖書にいたる全巻が、その神の正義とは何であるのか、その本質を刻みつけた内容となっている。

 しかし、正しく、真実な人が当然の不幸、事故、事件や災害に巻き込まれて命を落とすこともある一方で、悪しき人が裁きもうけずに栄えているーそうした現実に接して、神などいない、という主張がよくなされる。

 しかし、神は無限の高さ、広さ、深さを持っているのであり、その神の正義もまた、通常の人間の極めて狭い考え、知恵ではまったく想像もつかないのは当然である。

 自分の本質、またとなりの人間の心の中さえまったく見えないし、明日何が生じるか何一つ確実に言えないほどの狭く小さなものでしかないことを考えるとき、天地宇宙の無限の広大さー最も遠い星まで百四十億光年、そして逆に千分の一ミリ程度の細菌のなかでなされている驚くべき複雑な化学反応、そうした一切を創造したのが聖書でいわれている神である。

 その神に比べるなら無限に小さい、厳密にゼロといえる人間の考えではとうていその神の無限の深さをたたえた正義や愛、その御計画などわかるはずはない。

 しかし、信仰によって与えられる聖霊によって私たちはそうした無限の世界のことをより深く知らされていく。

 そのような神であればこそ、その愛も無限の深みがある。 それは、人間の感情的な、そしてきわめて限定的な愛、何かあるとたちまち変質し、消えてしまう愛とは到底比較することもできない。

 神の愛、ヘブル語ではヘセド という言葉で表されているが、その言葉は、詩編が圧倒的に多く、130回も用いられ、次いで多いのはUサムエル記の13回、箴言の12回と続く。

 詩編とは神の愛を最も深く認識した人たちの神への叫びであり、懇願であり、また讃美であるからである。神の愛を深く実感した人は、詩人となる。

 周りのものが神の愛によって動かされているのを実感し、事物、出来事につねにある語りかけ、余韻を感じるようになるからであり、神が詩歌にあらわす天分も与えたときには、それが文字によって詩的作品となる。

 しかし、残念なことに、一般の詩、また日本の和歌、短歌は そうした天地創造の神を知らないゆえに、人間の男女の感情や、この世での憂い、悩みなど狭く限定されたものが非常に多い。自然をうたうものにおいても、それらの根源にある創造主をたたえるといった歌はほとんど見られない。

 

 この詩編36編において、次にあるのは、聖書でこの個所しか見られない表現である。それは、「獣をも救われる。」 そもそも救いというのは罪からの救いなので、獣には罪がないのでこのままでは意味をなさない。

 ライオンが草食動物を襲って食べる、猫がネズミを食べる。それは当たり前のことで、何かを食べて生きる。大きな魚は小さな魚を大量に飲み込んで食べる。しかし、他方で小さな魚はおびただしく生まれていく。

 本来この自然は、バランスよく創造されている。ライオンは強いようでひとたび足を怪我しただけでもう食物を襲って食べることもできず、死んでいかねばならない弱さを持っているし、襲われる草食動物は草だけ食べて生きていけるので繁殖しやすいし、生まれてもすぐに立ち上がって歩くこともできるように弱さの中に強さを共に創造されている。

 この個所は、「救い」という言葉は物質的に受けとると、繁栄と言うことで、そういう比喩的な意味で用いることもごく一部にあるので、新改訳は「人や獣を栄えさせてくださいます。」という訳にしている。もう一つの意味は、サポート。New Jerusalem Bibleでは you support both man and beast. 救うという意味でなく、support 、すなわち「支えている」動物、獣をもその存在を支えているという意味で受けとることができる。これは、最も世界で読まれてきた イギリスの欽定訳 King James Version もそのように訳されている。

 Thou preservest man and beast.

 

…あなたの慈しみはいかに尊いことか、

あなたの翼の蔭に人の子らは身を寄せ…(詩編368

 

 この詩編36編の引用した短い個所で、神の「慈しみ」が繰り返しあげられている。

 神の愛とは、そのみつばさの蔭に入れていただくことであるという視覚的に、またその経験をした人にはとくに印象的な表現である。

 じっさい、この世はいつも悪の力が取り囲み、目に見える世界ではそれが、小さなところでは、人間同士、家族や学校、職場や部活…あらゆるところで常に悪意やみずからの罪のゆえに暗い道へと迷い込む危険に常にさらされている。さらに広範囲に目を注げば、世界中で、戦争や飢饉、武力による威嚇、難民となって住むところからも追われ、また、日毎の水や食事さえも、医療もまともになく、あるいは、福島やチェルノブイリのように原発の災害に苦しむ、沖縄のように多年にわたって基地に苦しむ…等々が至るところで見られる。

 そのような中にどこに神の愛などあるのか、という声もまた、至るところでこだましている。

 しかし、そのような暗く困難なこの世だからこそ、神の慈しみ(愛)は、さらに深く実感されてきたのであった。

 闇ははるかな古代から現代に至るまで、絶えることなく存在している。

 他方、光あれ!との一言によって生じる神の光、言い換えると神の愛もまた、つねに生じてきたのである。

 その証しとして 聖書一貫は、全世界で読まれ続けてきた。偽りの情報で満ちたこの世界は、人間の弱さ、その傲慢、自分中心主義、支配欲、金銭欲や性にかかわる欲望など、そこから発信される無数の悪しき情報の洪水のただなかにあって、いかなる世界大戦や飢餓や貧困にもかかわらず、聖書が消えていくことはなかった。

 それは、なぜか。

 じっさいに、大いなる「みつばさの蔭」が存在し、そこに隠れることによって慰められ、力をうけ、平安を与えられるという真実な愛の世界があるからにほかならない。

 それは庭先で観察できるめんどりと雛の姿からは想像できないほどの無限の広大な神の愛のつばさであり、計り知ることのできない深みを、また奥深さをたたえている。驚くべき翼である。

 昔、ラドンという炭鉱から生まれた巨大な翼をもつ恐竜の映画があった。私の小学校時代だったが驚きをもって見た初めての怪獣映画だったから65年も昔の映画だったが今なお、記憶に残っている。

 しかし、神の大いなる翼は、そのようなものでも到底比較にもならないし、映画とかアニメで表すことも不可能である。無限の広大さをもった翼なのだから。

 そのような広大な神のつばさ、みつばさの蔭にいることによって何を実感したのか。

 それが次の表現である。

 

…あなたの翼の蔭に、人の子らは身を寄せ、あなたの家に満ちた恵みに潤され

あなたの喜ばしい流れに渇きをいやす。

いのちの泉はあなたにあり

あなたの光に私たちは光を見る。(詩編36810

 

 だれでも、心から求めるときにはその大いなる みつばさの蔭に入り、そこは神のいます家であるゆえにあらゆる良きものー愛と真実や美、そして永遠…等々に満ちていて それらによって潤される。

 そしてそれは静止したものでなく、周囲へとあふれ出る本質をもっている。

 主イエスが言われたように、いのちの水を与えられたときには、「その人の内から活ける水が、川となってあふれ出る」(ヨハネ738

 この殺伐とした世において、尽きることなき泉が存在する。はるか昔から。

 そしてその水は、いかなることがあっても枯渇することなく、あふれ続ける本質をもっている。それはその源が尽きることなき神であるから。

 その流れは、世紀を通じて止まることなく、その流れに気付いた人がそこに行き、だれでもが自由に飲むことができるという驚くべき流れである。

 水不足が世界的に言われて久しい。たしかにオーストラリアやアフリカその他の地域でも深刻な干ばつで農地の作物が枯れ、生活が困難な地域が以前から取り上げられている。先進国といわれる大国、豊かな国がその豊かな資金や軍事費をそうした国々に用いて干ばつの被害から救う道があっても、政治的に利得がないからと力を注ぐことをしないことも多い。政治、社会的動向や人間の贅沢化、科学技術の高度な進展が温暖化を招き、危機的な状況にある地域が増えつつある。

 こうした状況にあっても、神にその源があるいのちの泉の流れは枯れることがない。しかも、その水を飲むものは、たとえ寿命や病気、災害で死ぬことがあっても、死なない存在と変えられて永遠に神のもとで豊かに生きるのである。

 政治や社会の仕組みを変えようとすることも重要であるが、それは何百年たってもかなえられない問題である。

 それゆえに、聖書で言われている いのちの水は、それと対照的に、いま求めさえすれば、どんな貧しい人も、無学な人も、あるいは大罪を犯して処刑されるような人でもただ真剣に求めるだけで与えられる。

 このことは、いまから二千数百年も昔から、神の啓示をうけた預言者が語っている。

 

 …「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。

金のない者もきたれ。

来て買い求めて食べよ。

あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳(*)とを買い求めよ。             (イザヤ 551

 

 *)ぶどう酒とか乳というのは比喩的表現で、最もよきもののたとえとして用いられている。心身を満たし潤す霊的な賜物を与えられることを意味している。この言葉は、後の主イエスの「求めよ、さらば与えられん」という言葉をはるかに預言するものともなっている。

 

 さらには学問やよき賜物を与えられた人にはそのいのちの水を飲むことでその天分を苦しむ人たちへの力へと転換することができる。

「命の泉はあなたにあり。」これは本当にそのとおりで、ほかのどんなものが神様の命の泉と言えるだろう。神は完全な真実で美しさ、永遠性…それらすべて神のもの。

 ここから出てくるようなものは人間的なものではまったくない。科学技術が発達しても、食物の産物がなかったら私たちは何もできない。コンピューターも農作業の機械も農薬も、あるいは、それを運ぶ車も道路もみんな科学技術の産物。目に見えるものは圧倒的に科学技術の産物である。

 それらによって私たちは日々生かされている。

 しかし、心の魂の深いところには、そうした科学技術の産物は慰めや力とはならない。

 それらの科学技術の便利なものがまったくなかったときから、ずっと愛の欠如や憎しみ、傲慢、差別…等々の心の問題は昔からずっと変わらずに続いており、他方で、それらに勝利する神聖な力は保たれてきた。

 そこから浮かび上がってくるのが、いかにAIとか科学技術が発達しても関わりがもてないのが 聖書で言われている命の泉。

 ここで、命の泉と光とが同列で置かれている。神様の光を感じ始めて本当の光が分かる。

 砂漠地帯においては、水の湧き出る泉は命の源泉であり、それがなかったらたちまち死に至る。そのように切実なものがある。

 それと対照的に、日本の場合はどこにでも水がある。川がある。

 しかし、神の泉、いのちの泉はどこにでもありながら、ほとんどの人々は知らないままであり、それゆえに霊的な砂漠の状態となって、世界で自殺の大国となって久しいし、近年とくに若い年齢の人の自殺は世界で最も数多いという研究調査が発表されたほどである。

 それは、目に見える、生物として必要な水は至るところで流れていて、じっさいそれを飲んで生きている。

 しかし、日本においては、目に見えない水、神という泉から湧き出るいのちの水については、そのことを知らない人が99%にも達するということである。

 私自身、いろいろな本を読むことはもともと子供のときから好きであったが、それらはいかに多く読んでもまったく、この世界に永遠に流れている良きもの真実なものなどまったくわからず、学校教育の社会、国語、理科、数学などをいくら勉強しても そうした目に見えない「いのちの水」などまったくわからないままであった。

 学問や科学技術は、そうした人間のいのちの根源をささえる目に見えないものについてはまったく関与できないのである。

 それゆえに、いかに科学技術や学問、研究が盛んとなって巨額の金を投入しても 人々はまったくそのいのちの水を知ることにはつながっていかなかった。

 今日の聖書箇所の最後の部分、この詩編36編の10節は次のように記されている。

 

…命の泉はあなたにあり

 あなたの光に、私たちは光を見る。

 

 ここに光と水の深い関連性が示されている。

 神のいのちをもった泉は、神の内にある。

 そして、私たちの魂に届く霊的な光は、この世の学問やLEDのような科学技術、あるいは太陽の光によっても創ることはできない。

 だが、それは科学技術などまったく発達していなかった数千年前のときから、知られていた。

 私たちはすべて、命と光を求めている。そしてほとんどは、生物としての命であり、事故や災害、あるいは戦争などでの鉄の小さな弾丸一つで一瞬にして消えてしまう。

 その意味では、生物としての命ははかなく仮のものと言えるほどである。

 これに対して、聖書で言われている、神の光、そして神の命はいずれも、時間や空間、また戦争や感染病…等々とはまったく関係なく存在してきた。

 現代の我々が究極的に向うべきは、真剣に求めるだけで誰にも与えられるこの神のいのちの光といのちの水である。(2023年7月18日(火)夕拝の聖書講話より。参加者15名)

 


 

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「真珠の歌」

 前月号でお送りした「祈の友」の短歌集「真珠の歌」についての感想や追加の申込なども届いています。言葉も戦前の言葉もあり、短歌独特の用語もあり、時代も今から80年前後も昔に作られた短歌なので、わかりにくいものもありますが、それらの短歌に込められた著者の苦しみや孤独、悲しみとそこからの光と主の平安、希望の確かさが伝わってきて励まされます。

 

「真珠の歌」を読んで

〇今回真珠の歌、大変感動致しました。

 教会や短歌関係者の方々に送ってあげたいので、5冊ほどを送っていただけませんか。(近畿・KTさん)

 

〇長く施設で暮らしております高齢の姉に、何時ものように今月号の「いのちの水」誌とともに「真珠の歌」を、届けましたら、昨日、暫く短歌に触れてなかったから、一層嬉しくて、たちまち読んだ、と喜んでおりました。(中部地方・KMさん)

 


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