200312月 第515号・内容・もくじ

リストボタン自然界の調和

リストボタンキリストが来られた意味

リストボタン水仙ワーズワース作

リストボタンマリアの讃美

リストボタン人の計画と神の導きと

リストボタン海外派兵に反対する

リストボタン休憩室

リストボタン返舟だより


image002.gif自然界の調和

音楽の世界で、例えば、ドミソの音を同時に鳴らすと、あたかも一つの音のように溶け合って聞こえる。しかし、ドミファを同時に鳴らすと、音が溶け合わないで、不協和音として響いてくる。この世にも、さまざまの響きあう音と、そうでない不協和音とがある。
先日も、夜の大きな川の岸辺に立って、初冬の空に輝く真っ白い月と、東の明るい一等星のいくつかの強い輝きを、川のながれの静かな音や川面(かわも)を吹き渡る風を受けながら見ていた。それらは実に一つに溶け合っているのを感じた。月の白い光、風の音、星の輝き、そして眼前に流れる川の流れ、それらはそれぞれが一つのようになっていた。
主イエスはご自分を、ぶどうの木とたとえられた。それぞれはその枝であるという。
それと同様なことを、この神の創造された自然の中で感じていた。夜の川辺にて取り巻いている自然は、さまざまの現れ方を見せてはいても、それらすべては、キリストという幹につながる一つのものなのだと。
今から二千年も昔、神の霊をゆたかにうけた使徒は、キリストがこうした自然の創造にかかわっているということを啓示されていた。
‥・神は、この御子 (キリスト)

を万物の相続者と定め、また、

御子によって世界を創造された。

 (へプル喜一・2より)

 自然の世界にも不協和音を感じさせられることもある。しかし、全体としてみるとき、旧約聖書の詩人が、創造されたこの世界の奥から、ある種の協和音を聞き取ったように(*)大空の青い色や白い雲、時として西の夕空全体を茜色に染める姿は、たしかに霊的な協和音を響かせている。

(*)話しすとも、語ることもなく

声は聞こえなくても
その響きは全地に

その言葉は世界の果てに向かう。

(詩編十九・45

人間も、自分中心の思いやそこから来る怒りや憎しみ、ねたみなどを持っているとき、そこからは協和音は響いてこない。

周囲にも暗い不協和音を暗黙のうちに響かせているといえよう。

それに対して、私たちが主イエスの恵みをうけて、神の霊を注がれるとき、そうした暗い心はいつしか退いて、神への感謝と静かな平安が訪れる。そうした心は協和音を周囲にも注ぎだしているであろう。

主に結ばれての祈りは、清い協和音の響きを世の中に生み出す。

祈りがなければ、人間の心は知らず知らずのうちに、自分中心となり、不協和音の響く心をもって生きていくことになるだろう。

「これらすべてに加えて、愛を着なさい。愛は、すべてを完成させる帯である。 
(コロサイ三・14

 神の愛をうけるとき、初めて私たちは、魂の深いところにおいて、協和音が響き始める。

 


image002.gifキリストが来られた意味

クリスマスとはキリストが地上に来られたことを記念し、感謝する日です。しかし、一般的には、サンタ・クロース(*)の日とか、クリスマスプレゼントをもらう日、クリスマスケーキ、クリスマスツリーを飾るなど、肝心のキリストの誕生の記念日だということすらかすんでいるほどです。

*)サンタ・クロースというのは、「サンタ(聖)ニコラウス」のことで、その発音がすこし変化して、サンタ・クロースといわれている。サンタとは、「聖」を意味する言葉で、英語では、セイント(saint) 、フランス語ではサン(サント)、seinte)スペイン語やイタリア語では サンタ、サント santao) などとなる。

聖ニコラウスとは、キリストより三〇〇年ほど後の人で、現在のトルコ地方に実在していた人です。ふりかかる悪から人々を守り、子どもを保護し、また貧しい人への施しをしたこと、その他にも多くの伝説が生れていった人で、そのようなことから、現在のようなクリスマスにプレゼントをするサンタ・クロースの伝説にとつながっていったのです。
よくサンタ・クロースはいるのか、という話になります。実際に以前、アメリカの新聞でもこのことが取り上げられ、その説明が本にもなって広く知られたこともありました。
煙突から入ったり、トナカイに乗ったりするサンタ・クロースは想像上のものです。しかし、サンタ・クロースの精神、その心は実在しているといえます。それはこの伝説のもとになった聖ニコラウスはキリストの心を頂いて、多くの不思議をなし、施しをする愛を神から授かったのであり、そのように分かち与える力と心は現在も実在するからです。
今年、東南アジアのタイ国に住んでいる人から送られてきたクリスマス・カードに下のような言葉がありました。
---------------------------------
A time of joy
(喜びの時)
A time of sharing
(分かち合う時)
A time of give generously.
(快く与える時)

主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すように…
(使徒言行録 二十・35
---------------------------------
喜びの時、それは「主イエスが私たちのところに来て下さった喜びの時」という意味です。また、分かち合う時とは、主イエスによる救いや新しい力を与えられたその喜びを分かち合うことであり、主イエスから下さったもの、神からの数々の賜物を自分だけが持っているのでなく、共有し、分かち合う時ということです。また、そのような分かち合いということは、与えることにつながっています。私たちが神から多くのものを、受ける値打ちがないのに受けている、与えられていると実感するとき、自然に他の人たちにも少しでもそれを与えたいと願うようになるものです。水が満たされて内部からもあふれてくる泉は自然に周囲にもその水を注ぎだすのと同様です。
クリスマスとはそのように、キリストが私たちのところに来て下さったことを感謝し、喜び、私たちが受けたものを分かち合い、与え合うということなのです。
キリストはこの世界に光として来られました。そのことは、新約聖書のヨハネ福音書にもその最初に書いてあります。

…言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
(ヨハネ福音書一・45

ここでいわれている「言」とは、単なる会話のときの言葉でなく、神の「言」としてのキリストのことを意味しているとともに、この原語はロゴスというギリシャ語で、これはまた、単なる言葉という意味だけでなく、宇宙の根源にある理性といったような意味をも持っていて、それらを重ね合わした意味を持っています。ギリシャ哲学で考えられていたような理性と、旧約聖書で一貫してその重要性が言われている神の言としての双方の本質をもっているのが、キリストであると言おうとしているのです。
キリストというお方は、この世の闇を照らす光として来て下さった、その光は、単なる光でなく、いのちの光、神のいのちをもっている光である、それがヨハネ福音書で最も言おうとしていることなのです。
クリスマスの意味、それは闇の中の光として、キリストが来られたということです。それは、キリストが生れるよりずっと昔から預言されていたことです。

…それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。…
「暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
(マタイ福音書四・1417より)

この世は、闇である、それはたいていの人が感じていることです。闇とは、それをずっと見続けていたくないこととも言えます。例えば、病気とくに末期ガンのような死に結びつくような病気、ハンセン病のような差別や孤独など肉体的にも精神的にも大きな苦しみをともなう病気、人の命を奪うような犯罪、その巨大化したものである戦争、飢饉、一般に死そのもの…そうしたものを見続けていたいと願うような人はまず、いないのです。どんな人でも自分がそのような苦しみの激しい病気にかかりたいなどと願う人はいません。
そんなものを見続けていられない、闇にはそうした恐ろしさがあるからです。
それに対して、例えば、高い山から望む美しい山々の連なりや、野草の素朴な美しさ、それは誰もがずっと見続けていたいと願うようなことです。それは、なぜか、そこに光があるから、神の創造された直接の光があるからです。
この地球の世界そのものも、太陽が最終的に消滅に向かう途中で、消滅していくのであって、そんなことを見つめていたら、いっさいが空しくなってきます。ここにも、闇があります。戦争や飢饉などが仮にないとしても、このようなことだけを考えても、目に見える世界をそのままずっと延長していくと、いつのまにか滅びという闇の世界に入ってしまうのです。
現在を見ても、将来を見ても、何十億年というはるかな未来を見ても、闇は広がっています。そうしたあらゆる状況における闇の中に光を投げかけるために、主イエスは来られたのです。
このように、イエスが地上に現れたのは、暗闇に住む人への大いなる光として、また、死の陰の地、すなわち、死ぬかと思われるほどの苦しみ、絶望的な状況にいる人への光として来られたのです。そのことは、今から二五〇〇年以上も昔にすでに預言されていたのです。
私たちが最も必要としているのは、このような意味での光です。
今は、明るくバラ色に輝いていると感じる人であっても、そのうち、突発的な事故や病気などによってどのような闇が迫ってくるか、だれも分かりません。 闇それ自体はいつまで続くのかという疑問も持たせるものです。しかし、その闇があたり一面に存在しながらもその直中に光が差し込んでいます。
キリストが闇のなかに輝く光であり、そのために来て下さったことは、さまざまのところで強調されています。それは、クリスマスの讃美にも多くみられます。
例えば、クリスマス讃美のうちで最も有名なものの一つである、「もろびとこぞりて」(讃美歌112番)にもつぎのような言葉があります。

♪この世の闇路を照らし給う
妙なる光の 主は来ませり

また、やはりクリスマスによく歌われてきた讃美につぎのようなものがあります。

♪永遠の光 暗き世を照らし、
闇に住む民の 上に輝けり
(讃美歌21-二五五 3節より)

このように、私たちの現代の闇においても、光なる主を仰ぐとき、その光を受けるとき、私たちの抱えている問題の解決やそこに至る道が与えられ、同時に歩んでいく力も与えられます。そこにキリスト者の幸いがあります。

…太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず
月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり
あなたの神があなたの輝きとなられる。
あなたの太陽は再び沈むことなく
あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり
あなたの嘆きの日々は終わる。
(イザヤ書六十・19-20

このようにして、キリストの光を受けるとき、初めて私たちはもともと闇であったのに、あらたな光となる。それゆえ聖書ではつぎのように記されています。

…あなた方は、地の塩である。…あなた方は世の光である。
(マタイ福音書五・14より)
…あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。 (ピリピの信徒への手紙二・15より)

私たち自身は決して光でも、星でもない。それにもかかわらず、神の光を受け、そのいのちの光を魂に与えられるとき、私たちはそのゆえに小さくとも、闇のなかの光となるのです。

 


image002.gif水仙  ワーズワース作

私は雲のようにひとりさまよっていた、
谷や山を超えて高く浮かぶ雲のように。
その時、突然にして私は花の群生を見た。
金色の水仙の無数の花の群れであった。
湖のほとり、木々のもとで
そよ風に吹かれ、揺れ、踊っていた。

銀河にちりばめられた星のきらめきのように、
水仙の花はどこまでも続いていた。
入り江にそって縁どるかのように。
一目見て、一万株にもなろうか
それが皆顔をあげ、喜ばしく踊っていた。

入り江のさざ波も踊っていた。
しかし、水仙の花たちの喜びは、
きらめく波にもまさっていた。
このような喜びにみちた花たちに出逢って
詩人もまた心喜ばしくなってくる。
私は、見つめた、じっと見つめていた。
しかし、その光景がどんな恵みを私にもたらしたかは、
その時にはまだ気付かなかった。

その後、心のなかが空しく、淋しい思いに沈んで、
身を長椅子に横たえているとき、
その花たちは、しばしばわが内なる眼にひらめくようによみがえる。
内なる眼、それは孤独のときの祝福。
そして私の心は、喜びに満たされ、
水仙とともに踊りはじめるのだ。

*)ワーズワース (一七七〇~一八五〇)イギリスを代表する詩人の一人。八歳の頃に母を、その五年後には父を失う。自然への深い直感を歌っている詩が多い。

○ここで言われている水仙とは、黄色のラッパズイセンである。日本で海岸に近いところで、多く野性的に咲いているのは、それとは違うもので、日本水仙といわれるものである。現在の日本においては、湖の湖岸一帯に群生しているこうした水仙に遭遇するということは、まずないだろう。 しかし、スイセンでなく、他の花ならこれに類する経験をしたことのある人は多いと思われる。それが、群生でなくわずかに一株の野草であっても、付近の情景とともに鮮やかに心に刻印され、ずっと後になっても、ふとした時にそれがひらめくように、心によみがえるのである。
 私にとってはそうした野草や植物はいろいろ思い出される。以前に本誌に書いた、由良川源流の原生林地帯で見つけたリンドウもそうであった。また、徳島県の奥深い祖谷の山で、もはや廃道となってしまった古くからの峠に至る山道を迷いながら登ったことがあった。とある谷川は天からの流れかと思われるような、清い水が流れていた。そして、その谷のすぐ傍らで幾百年の歳月を見守ってきたと思われる、まれにみるようなトチノキの大木が沈黙のまま、私を見下ろしていた。そこに、はじめて見るジャコウソウが、いくつか水際で咲いていた。
 この野草を見かけたのは、この一度だけであった。もうそれは二〇年以上も昔のことであったが、今もなお、その清い流れと堂々たるトチノキ、美しい野草の花が一緒になってよみがえってくる。
 それは植物だけでなく、あるときの空の夕日と大空一面の夕焼けや、海の激しい波と音の情景、あるいは、山を歩いているときに眼前にひらけてくる雄大な展望なども心に深く残って後々まで、ふとしたときに心にある種の栄養を与えるのであった。
 これはどうしてなのか、そのような心に深く影響を残す自然はその背後に神がおられ、その神の愛がそこに込められているからである。
 神は、清いものには、清く、邪なものには曲がったものとなられる。(詩編十八編)といわれる。私たちが神に向かって、その創造された自然に向かって心を空しくし、心を開いて受け入れるとき、神がもっておられる清さや、美、そして力が、それらの自然を通して私たちに流れ込んでくる。それはそのようにして神の本質を分け与えようとされる、神の愛の働きそのものなのである。
 自然だけでない。私たちの暗い心のとき、憂うつなときに、思いがけなく私たちの心を照らしてくれるもの、それは神の言葉であり、神の光である。
 迫害に全力をあげていたパウロに、そうした神の光が突然ひらめいた。そしてそのときからキリスト教の迫害者のリーダーは、その光を魂にふかく受け取って、光を伝え、分かち与えるリーダーとなった。
現在の混乱した世に生きる私たちに必要なのは、そのような闇のただなかに、輝く光なのであり、それと共に伝わってくる神の命なのである。

 


image002.gifマリアの讃美

新約聖書のなかに、マリア讃歌といわれる有名な神への讃美の言葉がある。それは、イエスの母マリアが歌ったものとして記されている。

…そこで、マリアは言った。
「わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしため(*)にも目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も
わたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、
わたしに偉大なことをなさいましたから。

その御名は尊く、
その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。」
ルカ福音書(一・4653

*)「はしため」という言葉は現代では、ほとんど使われていないし、この言葉を会話や文章で用いたことがあるという人はほとんどいないだろう。これは端女と書き、召使の女を意味する。原語は、ドゥーレー(doule)であり、ドゥーロス(奴隷) doulos という言葉の女性形なので、「奴隷の女」というのが原意である。なお、使徒パウロは、新約聖書に収められた彼の手紙の冒頭には自分を「キリスト・イエスの奴隷(ドゥーロス)と言っている。主イエスのいわれるままに、すべてを従って生きるという姿勢がそこには表されている。」

イエスが生れることになると、天使から知らされたマリアは、親族のエリザベトに会いに行った。彼女も老年になっていたのに、神の御手が触れて身ごもっていることを知らされたからである。そのとき、エリザベトは聖霊に満たされて、喜びにあふれてマリアに祝福の言葉を与えた。そのとき、エリザベトの胎内にいた子どもが、喜びおどったと記されている。
イエスの誕生はそれほどまでに大きな喜びを与えるものだということがここに象徴的に示されている。聖書における喜びは、目に見えるものにとらわれている人にはわからない。
例えば、天で最も大きな喜びが、生じるのは、一人の罪ある人が悔い改めて、神に立ち返ったときであると書かれている。この世では、スポーツである球団が優勝したとか、給料が増えたとか、結婚とか就職で希望がかなえられたとかいうときに大きい喜びがある。
しかし、聖書ではそうした通常の人たちの喜びと全く違った喜びを伝えている。
ここでのマリアや、エリザベト、そして胎内の子どもの喜びはそうした喜びである。
その喜びは、マリアの言葉にあるように、「神を喜ぶ」ということである。私たちがもし、神を喜ぶことができるならば、どのような時にも逃れる道が備えられているということになる。清い喜びこそは、安全な逃れ場であるからだ。そうした喜びを実感しているとき、私たちは他の汚れたもの、悪いものに誘惑されたりしない。
新約聖書には、神を喜ぶということが、はじめから記されている。
主イエスが、教えられた本当の幸いということ、そのなかに含まれている。

ああ、幸いだ、心貧しき人たち、
天の国はそのひとたちのものである。
ああ、幸いだ。悲しむ者たちは。
なぜなら、その人たちは(神によって)慰められるからである。
(マタイ福音書五章より)

この有名な言葉は、神を喜ぶということを別の表現で言っているといえよう。心貧しき人とは、心に何も自慢や高ぶりを持たず、目に見えるものによっては本当の満足が与えられないと思い知らされた心の状態である。
天の国が与えられるとき、それは私たちの魂に神の御手が臨むことであり、悪の力が追い出されるのであるから、当然喜びが自ずから生じることになる。
また、悲しみのただなかにあって、神との結びつきが深くなるとき、神による慰めが与えられるとあるが、そうした慰めは深い喜びであるだろう。
こうした、主イエスの教えで約束されていることは、このように、神を喜ぶということに他ならない。

このマリアの讃歌は、ラテン語で最初の言葉をとって、「マグニフィカート」(*)といわれている。この讃美は、歴史的に有名である。

*)この讃歌の最初の「わたしの魂は主をあがめ」の原文(ラテン語)では、その最初の文が、 Magnificat anima mea Dominum (マグニフィカート アニマ メア ドミヌム)となっている。 magnificat とは、magnus(マーグヌス)「大きい」という語と、facio(ファキオー)「作る」から成っている言葉で、もとの意味は、「大きくする」。そこから、「重んずる、称賛する、あがめる」といった意味になる。アニマ(魂)、メア(私の)、ドミヌム(主を)という意味なので、「わが魂は主をあがめる」と訳されている。「古くからこの讃美は礼拝に用いられ、カトリック教会で、毎日捧げられる祈りに用いられ、聖公会、ルーテル教会でも、夕べの礼拝に用いられる。ことばが美しいので、名曲が多い。バッハのものが特に有名。」
(「キリスト教大事典」教文館)

マリアがこの讃美で最初に、主を讃えると言っているが、この本来の意味は、「主を大きくする」というもので、聖霊に導かれるほど、神が大きくなって見えてくる。神を信じないほど、神は小さく感じる。日本人は、神の大きさをいわばゼロと見なしているからこそ、聖書で記されている神を信じないのである。
人間はどれほど神を大きく実感しているだろうか。天地創造ということを本当に信じるとき、神はどこまでもおおきい存在として実感されてくる。
マリアの喜びは、自分の低いところ、弱いところに神様が、じっと見つめて下さったこと、そこに大きい喜びがあった。それが新しい時代の喜びであり、それはマリアの挨拶を聞いただけで、親族のエリサベツにも、喜びの波動が伝わっていく。それはエリサベツの胎児にまで伝わっていった。
そしてその波は二千年の歳月を通して、現代にも伝わっていく。聖書とはそうした目には見えない波動を伝えるものである。
福音とは、まさに喜びのおとずれという意味である。そのおとずれは時代を越えて、地域を越え、年齢や職業などを越えて伝わっていった。
マリアのこの讃美は、マリアの時代から千年ほども昔に現れた一人の女性、ハンナの歌と内容的に深い共通点がみられる。

主にあってわたしの心は喜び…
御救いを喜び祝う。
聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。…
驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。…
主は貧しくし、また富ませ
低くし、また高めてくださる。
弱い者を塵の中から立ち上がらせ
貧しい者を芥(あくた)の中から高く上げ
高貴な者と共に座に着かせ
栄光の座を嗣業としてお与えになる。
(サムエル記上二・18より)

このように、重要な共通点をもっている。それは、「主による喜び」が特別に大きく深かったために讃美せざるをえなくなったということ、そして高ぶるものは引き下ろされる、弱く貧しいものを見つめて下さり、高くあげて下さる…といった点である。
マリアの讃歌はこのハンナという女性の讃美を知っていたと思われる。知っているから同様の歌を歌ったということでなく、神による喜び、取るに足らないような者すら顧みて下さる神の愛を深く実感したものは、おなじことをやはり語らずにはいられないのである。
また、旧約聖書の内容、とくに詩的表現の部分には、預言が多い。例えば、詩編二十二編は、キリストが経験することの預言ともなっている。

わが神、わが神、
なぜわたしを見捨てられたのか。
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
(詩編二十二・2

このはじめの言葉は、主イエスが十字架上に釘づけられたときの叫びそのものであった。主イエスが最も苦しい叫びをあげたその言葉が、旧約聖書の詩編のなかの詩人の叫びとまったくおなじであったことは何を意味しているのだろうか。その詩編の言葉をたんに思い出して言ったということなのだろうか。そうではない。それは、詩編の言葉はキリストより五百年以上昔のある人間の叫びであったが、それはまた、預言ともなっているのである。それとおなじことが、将来生じるという預言であり、神の言葉なのである。そして主イエスがそのとおりに叫ばれたということは、その預言がそのとおりになったということを示している。預言そのものが含まれており、また神の救いのたしかなこと、神のなさることの表明など神の語ること、なされることが含まれているゆえに、本来は人間の言葉である詩が、神の言葉とされているのである。
この詩編二十二編には、ほかにも、キリストの最後の十字架にて処刑のときに生じたこととの、驚くほどの一致がある。

わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い
唇を突き出し、頭を振る。
「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら
助けてくださるだろう。」
(詩編二十二・89

そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」(マタイ福音書二十七・3940

わたしの着物を分け
衣を取ろうとしてくじを引く
(詩編二十二・19

この記述は、主イエスが十字架にかけられたときに、同様なことが生じたことを思い起こさせる。
彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、
(マタイ福音書二十七・35

このように、旧約聖書の詩編というのは、ふつうに詩と言われているもの、日本の万葉集や古今和歌集なども含めて、そうした詩のように、決して単なる個人の感情を記したものではない。それは、千年、二千年という時の流れを越えて、変わることのない真理をそこにたたえており、預言ともなっているのである。
それゆえに、人間の詩でありながら、神の言葉とされ、聖書に収められているのである。
マリアの讃歌は、それより千年も昔の、旧約聖書の一人の女性の喜びと感謝の讃美(ハンナの讃美)と深い共通点があるのも、ハンナの讃美が単なる詩でなく、預言となり、またそれは数千年を経ても変わることなき、真理をそこにたたえているからであった。
数に足らぬ、奴隷のように最も低い地位にあるような女であるにもかかわらず、神はまさにそのような低いところに来て下さって、大いなる恵みを注いで下さった、ということ、それは旧約聖書、新約聖書を通じて一貫して流れている真理である。
主イエスが生前に、ハンセン病の人や、長い間苦しんできた病人、盲人やろうあ者のような、昔は特別に苦しい状況におかれていた人、あるいは重い病人といった人たちのところに行かれたこと、さらにキリストの十字架での死も同様である。罪を犯してどうすることもできないような人間のことを深く思って、そのような人間の心に来て下さり、その罪を赦し、いやしてくださる、それは何よりも大きい恵みとして実感されるものである。
このマリア讃歌が、多くの讃美歌となっていろいろの作曲家によって、曲がつけられてきたのも、この讃美が深い意味をもっているからにほかならない。二十一世紀に向けて、従来の「讃美歌」に変わるものとして、発刊された「讃美歌21」には、この讃美の重要性のゆえに、「頌歌 マリアの賛歌」一七四番から、一七九番までの六曲も取り入れられている。その内の一七五番は、讃美歌では九五番の讃美として、従来の讃美歌でもよく知られていたもので、その一部を引用する。

(一)わが心は 天つ神を 尊み
わが魂 救い主を ほめまつりて 喜ぶ

(二)数に足らぬ 我が身なれで 見捨てず
今よりのち 万代(よろずよ)まで 恵みたもう うれしさ

(三)低きものを 高めたもう み恵み
おごるものを 引き降ろして 散らしたもう み力

今から三〇〇〇年も昔に、一人の苦しみと悲しみにうちひしがれた一人の女性の祈りが聞かれたその喜びと感謝は、多くの人の深い気持ちを表すものとしてうけつがれ、それが作られてから一〇〇〇年のちに、イエスの母マリアの讃美へと受け継がれ、さらに、それは二〇〇〇年もの間、世界で広く歌いつがれてきたのであった。
これは、ハンナ以来三〇〇〇年にわたって、世界に響いてきた讃美なのである。ここには、神は苦しむものの祈りや叫びを聞いて下さり、弱いものを愛をもって顧みて下さるという深い実感がある。
現代の私たちにおいても必要なのはまさにそのような、弱き者、失敗を重ね、罪を犯したくなくとも、罪を犯してしまう弱い私たちの祈りを聞いて下さる神なのである。

 


image002.gif人の計画と神の導きと

私たちの現在かかわっている仕事、職業や人々との出会いなど、自分がかつて考えた通りになっているというような人はほとんどいないと思われます。
私自身、高校教員をしていたが、大学の三年の終わり頃までは、教育関係の仕事にかかわりたいというようなことは、全く考えていなかったし、たえず人間を相手にする仕事にはかかわりたくなくて、自然科学の研究的な仕事を求めていました。
しかし、ギリシャ哲学を知り、その一年後にキリスト教を知って決定的な精神的転機を与えられてからは、だれにも勧められなかったし、反対すら受けたけれども人間相手の高校教員になりたい、そして理科教育に携わることで、神の創造された自然に関する不思議を教えつつそのような大きな転機を与えてくれた、哲学的に考えることや、キリスト教の福音を伝えたい、そのような導きを与えてくれた、書物を紹介していきたいという願いが何よりも強くなって、教員になりました。これも全く考えたこともなかったことです。
また、その過程で、プラトン哲学やキリスト教は書物によって知ったのですが、そうした書物も自分が見定めて買い求めたものでなく、何気なく手にとった書物でした。
一つは、姉が購入していた、河合栄治郎の「学生に与う」です。それは、ファシズム批判のゆえに、東京帝国大学教授の職を負われた著者が、若い世代への情熱を傾けて書き下ろしたものでした。 当時大学二年の頃、私は精神的に非常な苦しみにさいなまれていたのです。
以前に、その本は姉が在学中の大学の先生からよいと言って勧められた本だというのだけは覚えていたので、書棚から何気なく手にとって見たのが、私がおよそ哲学というものを知った最初であり、ギリシャ哲学とかプラトンとかの思想の世界の深い意味に初めて触れることになりました。
この哲学との出会いは、後にキリスト教に出会う伏線ともなったのです。
その後、その哲学の限界を思い知らされて再び精神の苦しみに落ち込んでいたとき、古書店でふと手にして立ち読みした本が、矢内原忠雄の「キリスト教入門」でした。この本のわずか数行で私はキリスト者となったのです。それは神の御手が私の魂に触れて下さったというような出来事でした。
それから、私がキリストの十字架の死の意味を知らされ、それを信じてキリスト者となったのは、大学四年の六月ですが、どこかの教会に属することなど考えたこともなかったのです。しかし、たまたま大学食堂に啓示してあったビラで、「矢内原忠雄記念講演会」があるのを知り、そこで話すのが、最も親しかった友人の所属するゼミの物理の教授で名前を聞いていた人であったので、生れてはじめて宗教関係の会に出てみたわけです。そこでの講演が心に残ったので、すぐにその教授を大学の部屋に訪ねたところ、家に来るようにとすすめられ、集会もしていると知りました。理科系で実験を主体とする学科であったので、連日夜遅くまで実験をしていたから日曜日に集会に出るなどは考えてもみなかったので、聖書の参考書を紹介してもらいたいと言ったのですが、一度だけ出てみようと思って参加したのが、
高校教員となって、この仕事が私に向いていることがよくわかり、そこでキリストの福音を伝えることができるのもわかり、ずっと若い人を相手に仕事をしたいと願いました。
そうしたとき、県外の人から一人の視覚障害者を知らされ、そこから少しあとに、また別の視覚障害者も紹介されて、続けて二人の視覚障害者との関わりができ、そのことから神がその方向に行くようにと示されたのだと直感して、盲学校の教員になったのです。
しかし、私は障害者とのかかわりは、大学卒業するまでにもまったくなくて、そうした教育にかかわるということは私の念頭には全然なかったのです。しかし、そこに神が思いがけない人を介して障害者の方々との関わりへと導かれたのです。
その後に出会った人たち、そしてずっと続いているのは、どの人たちも自分が交際を求めてつながりができたというのはなくて、みんな聖書の学び、キリスト教信仰を与えられてから私の希望とかと関わりなく、与えられていったのです。
また、私は高校教員として定年まで勤めたいと思っていたし、退職後も講師とかの立場で山間部の高校などに勤めて続けられる限り若い人たちの教育にかかわりたいというのが私の計画でした。
しかし、私の予想とは違って、集会にかかわる時間が次第に増えていき、両立がだんだん困難となってきて、十年近くまえに高校教員を辞めなければどうしてもできないという状況となり、退職したのです。
高校教員の仕事を辞めてまでして、聖書の言葉の説き明かしや、キリスト教の真理を伝えることに生活のすべてを費やすようになるということは、以前には、まったく私の計画になかったことであったし、そのようなことを願ったこともなかったのですが、自分の計画や予想を超えた神の御手によってそのように導かれたのです。

人の心には多くの計画がある。
しかし、主の御旨のみが実現する。
(箴言十九・21

私たちは何かを将来のことで、計画し、また予想するのは自然なことです。しかし、そうした計画はたいてい無残にも壊れ、まったく違った結果になることが多いのです。そしてそれを運が悪いとか、周囲の人や社会のせいにします。
けれども、神を信じるときには、自分の計画が成就せず、思いがけないことが生じることを感謝をもって受け止めることもできます。それはもし、自分自身の思うままに事柄が進めば、私たちは自分を一番大切なものと思い、自分の判断をいつのまにか頼りにしていくからです。そうした考えこそが、私たちを間違った道に連れて行くものです。
聖書には、人間の計画や予想がいかに成り立たないか、もろく崩れてしまうかを随所で記しています。それと同時に、私たちを自分の考えや計画を越えた神のご計画に従うように導かれる神のなさりかたが繰り返し記されています。
聖書に詳しくその信仰の歩みが記されている最初の人物であるアブラハムも、自分の予想では、ずっとユーフラテス川下流地域に住むことを考えていたと思われます。しかし、全くアブラハムの予想や計画を超えたところから呼びかけがあり、まったく知らないところへと導かれたのです。
神を信じない立場の人も、予想しないところへと人生が進んでいくのを感じているのですが、それはどこへいくのか、わかりませんし、最終的には死によって滅んでしまうわけです。
私たちは絶えず、まちがった方向、自分の人間的な考えによって進もうとしますが、神はそれを苦しみや困難な事態を起こすことによって妨げ、神の国に向かって進ませようとして下さっているのがわかります。
聖書には、預言ということがしばしば書いてあります。例えば、新約聖書の最初の書物である、マタイ福音書には、その冒頭から預言ということが繰り返し現れます。
マリアが聖霊によってイエスをみごもったときに、

このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
(マタイ福音書一・2223

イエスが生れたとき、ユダヤの国のヘロデ王がイエスを殺害しようとしましたが、そのときに、天使が現れてエジプトに逃げるようにと教えた。このことについても、

ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
(マタイの福音書二・15

…(イエスの父、ヨセフに対して)夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。(マタイ二・2223

このように、聖書には、主イエスの誕生そのものも、偶然的に生じたことでなく、はるか昔から特別に神に選ばれた人によって預言されていたことだと記されています。預言されていたこととは、神の御計画があるということです。預言が実現したとは、神の御計画の通りに歴史のなかで進んでいったということにほかなりません。
人間が、どのように権力や武力、策略を用いて、その計画を実現しようとしても、最終的にはそれらは壊れていく。そしていかなる妨害や悲劇的だと思われる事件や、動きにもかかわらず、神の御計画は成就していく。歴史とは、人間の計画や野望によるのでなく、神の御計画がなし遂げられていく過程そのものなのです。
新約聖書の最初に、「系図」と称する名前の羅列があります。これはほとんど誰でもがまず聖書を手にとったときに、目にするものですが、なぜこんな無意味な名前が書いてあるのだろうかと疑問に思うものです。
日本で系図というと、貴族や大名などがどんなにすぐれた家柄であるかを示し、それを誇示するために持ち出すということが多いようだし、一般の人でもやはり自分の家柄を誇るために出してくることがあるので、普通の人にとってはつまらないものです。
そのような見方があるので、新約聖書のような心の問題を書いてあるはずの書物になぜ、こんな無意味なことが書いてあるのかと、疑問に思うのです。
しかし、この系図は決してそうした家柄を誇るためでなく、アブラハムからイエスまで、いかに神が導いたか、神の御計画を表しているものなのです。
アブラハムから、民族の頂点とも言える状況になったのは、ダビデ王のときで、ここまで十四代、そこからダビデの重い罪のゆえに王国は転落し、民もまちがった道を転げていくように堕落し、ついに周囲の大国に攻撃され、滅ぼされて遠い異国に捕囚となってしまう、バビロン捕囚までも十四代、その深い闇の中から神の憐れみによって奇跡的に、およそ、半世紀の後にバビロンから帰ることができ、その救い出された民の子孫としてイエスが生れたのですが、そのバビロン捕囚からイエスまでも十四代だと記されています。
このように、信仰の父であるアブラハムからイエスまで、三つの大きな歴史上の区切りがあり、その一つ一つが十四代、すなわち、七×二という数となっています。そして三とか七というのは、一種の象徴的な数であり、神の御旨にかなった完全なという意味があります。
神は歴史のなかの数々の動き、悲劇や混乱、戦争、分裂などありとあらゆる出来事の背後におられて、それらすべてを最終的に支配され、大きな御計画をもって動かしている。そのただなかに、イエスは生れたのだと言おうとしているのです。
こうした神の御計画のことは、聖書に記されている重要なことです。使徒パウロもつぎのように述べています。

こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられる。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのである。
(エペソ信徒への手紙一・910より)

神を信じ、キリストを信じるというのは、たんに自分だけの心の平安を与えられて、他の人や世界がどうなっていくか関心がないということでなく、この世界全体における、神の壮大な御計画を知らされ、それを信じて生きることでもあります。
聖書に含まれる最後の書物である、黙示録というのも、なにか不可解な神秘的なことが書いてあるように思っている人が多いのですが、そうでなく、歴史を通じて実現されていく神の大きな御計画を記した書物なのです。
最終的には、歴史というのは、真実と正義の神に敵対するような悪の力や、死そのものも滅ぼされる。そして「新しい天と地」にされるということを指し示している内容となっています。
パウロはその代表著作である、ローマの信徒への手紙において、ユダヤ人問題を取り上げ、どうして本来は、まずユダヤ人の救いのために遣わされた主イエスが彼らによって受け入れられなかったかについて説き明かしています。
それは、ユダヤ人が受け入れなかったのは、広く世界に伝わっていくためであり、そうした後に、時至ってユダヤ人も受け入れるようになるとの啓示を述べています。
いかなる不幸なように見える出来事も、どんな偶然的なことと思えることでも、人間の願いなど聞いてもらえていないと思われるような事態のなかであっても、いっさいが、神の御計画のままにすすんでいると、そしてそれは深い愛ゆえのことであることを知って、パウロは、深い讃美の声をあげずにはいられなかったのです。

ああ、神の持つ豊かさや英知はなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
(ローマ信徒への手紙十一・33

そしてさらに次のように述べて、神の壮大な御計画への讃美をもって、この手紙における大きな区切りとしています。

すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのである。栄光が神に永遠にあるように。
(十一章の最後の節)

この世の情報では、いかに人間の計画がさまざまの方面にわたってなされているか、それは個人や会社、国家、国際社会などさまざまのところで、つねに計画がなされ、またそれが挫折していく過程や出来事が報道されています。
それはまさに、混沌としています。そのようななかに、神の御計画だけが最終的には成るということを信じて生きることができるのは、今後の動揺し続ける社会にあって、大きな慰めであり、励ましです。

 


image002.gif海外派兵に反対する

戦後六十年近くなかったことであるが、日本の事実上の軍隊といえる自衛隊が、外国の戦争状態の続く地域に派兵されることになった。このようなことは、今後の日本の進路に重大な変化を来らせることになるだろう。

しかもそれは日本にとつて暗雲のかかる状況への変化である。

首相は、人道支援だ、戦争に行くのでない、国際協調だということを強調する。

しかし、装輪装甲車や無反動砲、軽装甲機動車などを装備し、重機関銃は毎分五百発前後を連射できるという。これは、過去の国連平和維持活動(PKO)とは比べようのない厳重警備下の行動になる。
このような、装備は、攻撃を受けたときに、身を守るためだという。しかし、自衛隊が給水や施設の復旧などに従事中、テロリストなどが攻撃してきた時、装備している重機関銃を発射すればたちまち相手には死傷者が出る。それがさらに相手の敵意をあおって、さらなる攻撃を受けるようになれば、それを防ぐとか事前に守るとかいって、相手を攻撃することになる。それはまさに戦争である。

 このようなことは、すでに繰り返し指摘されている。にもかかわらず、首相が強行しようとするのはなぜか。それは、いくつか理由があるが、とくに北朝鮮の脅威があるからだ。イラク問題でアメリカの希望に沿うように行動するから、そのかわり北朝鮮問題で日本の意向を取り入れてもらいたいという駆け引きからやっていることなのである。

しかし、北朝鮮問題においても、こうした軍事力を用いて解決をはかろうとすれば、いっそう新たな問題が生じる。それはアメリカに日本の都合のよいように、はからつてもらうというにとどまらず、日本独自に、さらに軍事力を増強して、さらには核兵器までもって、北朝鮮に対抗するべきだという方向に進んでいくからである。

 アメリカは、広島型原爆の三分の一程度の小型核兵器の研究開発を、過去十年間禁止してきた。それはそのような小型核兵器は通常の兵器との差が小さくなり、かえって、核兵器を拡散させ、それを使うことが広がることになるからであった。

しかし、今回、小型核兵器の研究開発をブッシュ大統領が承認した。こうした軍事力に頼ろうとする傾向は日本にも直接的な影響を及ぼすことになるだろ。
このように、軍事力によって国際紛争を解決しようとする方向は必ずさらなる軍事力の競争、肥大化をともなっていく。そしてそうした増大した軍事力を持つようになると、必ずそれをつかうようになる。自分の国を守るためと称して、相手を攻撃し、そこから大きな戦争となり、数知れない人たちが殺され、傷ついていった。このことは、過去の歴史のなかで、繰り返し経験されてきたことである。

また、国際協調のためというが、国連加盟の百九十余りの国の中で、イラクに派兵しているのは37カ国であり、ドイツ、フランスも派兵していない。アメリカの隣国であるカナダはわずか輸送機三機しか送っていないという。

北朝鮮問題で都合のよいことをアメリカにしてもらいたいとの発想が根底にありながら、イラクの人道支援のために行くのだ、などというのは、国民を欺くものである。本当に人道的な支援を考えているのなら、世界の八億人もの人たちが、いまも学校や病院の復旧以前の問題である、食べ物がなくて、飢えている状態であり、飢えのために数知れない人たちが死んでいるという、驚くべき実態の方がより深刻な問題である。そうしたことに日頃から、力を注いでいくことがずっと人道的な姿勢だといえる。

今年度の防衛関係費は、49265円という膨大なものであり、世界有数である。この金額は例えば毎年百億円ずつ使っても、五百年近くも使えるほどである。そして今回の自衛隊派遣の準備費だけでも数百億円が予定されている。今後自衛隊が続いて派遣されていくことなれば、ますます費用は多額になっていく。年金とか福祉予算をつぎつぎけずっていくという状況にあるのに、このような防衛予算の削減をまるでしようともしないし、国民もどうもそのことを指摘しないのが不可解である。

そしてこうした防衛関係費を縮小して、そのかわりに、貧しい国々への文化、教育、穀物生産などに、人を派遣し、イラクでは自衛隊員が死ぬ危険もあるのに送り出そうとしているが、そうした真剣さを貧しい国々への援助や福祉に注げばどれほどか世界的に信頼され、国際的な平和を築く国となることだろうか。

現在すでにある世界の貧困、飢餓状態がたいへんな状態であるのに、そのようなことを放置しておいて、アメリカの圧力によって、始めようとしていることを、人道支援だなどというのは、国民を欺くものと言えよう。

 こうした一種の偽りをもとにし、軍事力をもとにした国際紛争の解決策というのは、必ず将来に大きな問題を残していく。だからこそ、日本国憲法では、つぎのように述べているのである。

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国埠の発動たる戦争と武力による威嚇、または武力の行使は、国際覇争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」(第九条)

国際平和を誠実に希求し…とあるのは、国民とその代表者たる、政治家が偽りのない姿勢で平和問題にあたっていかねばならないということである。個人の間で悪であるにもかかわらず、国民に対し、また国際間では欺くことがしばしば当然のようになされる。それは敗戦以前の政府や軍部がいかに中国など特にアジア諸国に対して、また国民に対しても偽りの言動をなしたかをみればわかる。

例えば、一九三一年に奉天の北方、柳条溝で満鉄の線路が爆破された。そのとき、軍部は、それは中国軍の攻撃だと発表した。これが、十五年も続く中国との戦争の始まりとなり、のちの太平洋戦争にとつながり、日本だけでなく中国や東南アジアのおびただしい人たちが犠牲となっていく発端であった。それは、このように偽りから始まったのである。一度、戦争が始まり、それが大規模なものとなっていくと、事実を隠し、偽りが堂々とまかり通るようになってしまい、破局にまで突き進んでいく。
 こうしたことにならないために、この憲法が制定されたのである。その憲法を事実上骨抜きにして、今回のような自衛隊の海外派兵となった。
しかし、状況がどのようであろうと、真理は変わらない。この憲法九条の精神こそは、平和への最もたしかな礎であり続ける。

 


image002.gif休憩室

○冬の夜空
現在、日暮れ時に西の空を仰ぐと、天気のよい日にはめざましい輝きでだれもがすぐに見つけることのできる星があります。これが金星で、宵の明星と言われて有名なものです。これから数か月は、日暮れ時の西空に輝き続けるのがみられます。月もなく、雲もない晴れた夕暮れにはことに、その輝きは印象的で、郊外の河原や、人影の少ない堤防上などではいつまでも見つめていたくなるような輝きです。はるか二千年も前の、深い啓示を受けた黙示録の著者は、主イエスのことを「明けの明星」と記しているほどです。夜明け前の夜の闇を貫いて輝く金星の姿は、この世の闇に不滅の光として来られる主イエスを思い出させるものとなっていたのです。
また、夜明け前の午前四時半ころに、南の高い空を見上げると、透明な美しさで強く輝く星が見えます。これも特別に明るいので、だれでも直ちに見つかります。これが木星です。これはまだほとんど人が動き始めない時刻なので、その静かな、しかし強い輝きは地上の人々を見つめる神のまなざしのようです。
また、深夜に頭上を見上げると、双子座が見えますが、その星座のなかに星座図にみられない明るい星が輝いていますが、それが土星です。


夕方に輝くとき以上に、金星が夜明けに輝くすがたは心惹かれるものです。

 


image002.gif返舟だより

○私が毎月2回程度、希望者に送信している、「今日のみ言葉」に関する返信です。

・「今日のみ言葉」を、ありがとうございます。 この世ににいて、「神の国」が戴けたらすばらしいことです。
 私はいつも 「聖霊」を下していただけることを切望しています。
 「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈悲、善意、忠実、柔和、自制であってーー」
(ガラテヤ5.22-とあります。
 このような心の状態が得られたら、まさに「神の国」にいることになるでしょう。
 「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」
(コリント第一3.16と言われていますが、そのような状態にはほど遠い自分を思います。
 「聖霊」が日々豊かに注がれることを祈るばかりです。
 添付の写真は、いつも素晴らしく心洗われる思いです。(関東地方の方)
・「み言葉」、ありがとうございました。
「神の国」とは、神のご支配そのもの・・・ほんとうに不思議に思います。そして、こういったカラスウリなどの叡智のかがやきのような色は、人の世における神のご支配への「入り口」のように思えます。
 以前は「地獄の入り口」みたいなものが見えましたが、この頃は消えてしまいました。なんという感謝でしょう。(四国地方の方)

○電話番号の追加
十二月二十四日から、私の家の電話番号をつぎの電話番号に変えて、電話していただくと、全国どこからでも、3分10.5円という低料金となります。現在のNTTの電話では、昼間なら、60キロを超えた地域との通話料金は、3分40円ですから、4分の1ほどになります。
 私(吉村)の家の新しい電話番号  050-1376-3017
なお、いままでの電話番号(08853-2-3017)も使えます。