今月の聖句

主はあなたの呼ぶ声に答えて、必ず恵みを与えられる。
主がそれを聞いて、直ちに答えてくださる。


(イザヤ書三十・19



20003月 第469号・内容・もくじ

リストボタン結び付けること、壊すこと

リストボタン裁きはあるか

リストボタン天地創造の神(創世記一・1)

リストボタン君が代・日の丸の問題点

リストボタン荒れる淵と闇の中に(創世記一・2~3)

リストボタン休憩室

リストボタン返舟だより

リストボタン集会案内


リストボタン結び付けること、壊すこと

 私たちが真理そのものに結びつくほど、私たちの存在そのものがよきものを結び付ける役割を果たすことができるようになる。たとえいかにその程度が少なくとも、そのような方向へと導かれる。それは真理そのものがよきものを結び付ける働きがあるからだ。
 しかし、真理から離れるとき、自分中心になるとき、必ずそのまわりで何かよいものが壊れていく。
 例えば、真理そのものである主イエスに強く結びつくなら、私たちは神の国にあるよきもの、清いものへと心は結び付けられるようになる。また、それまで無関心であった人、あるいは、自分にはいやな相手であっても、そうした人に対しても何らかの祈りをもっていこうとするようになる。
 祈りこそは、最も人を近づけるものだ。敵対する人でももし、私たちが祈ることができたら、その人とあるよき結びつきが生じたということになる。
 また、まわりの自然に対しても、真理そのものの神が創造したゆえに、身近に感じるようになって、自然の世界とも結びつきは強まっていく。
 逆に私たちが自分中心、自分の利益をまず第一に求めたり、自分のことを自慢したり傲慢になって人を見下したりすると、確実にそこでよい人間関係は壊れていく。それだけでなく、自分のなかのよい部分も弱くなっていく。
 自分の利益や名声、他人からの賛辞を求める心が強くなればなるほど、神の創造した清い自然などは心に入らなくなる。なぜなら、そうした自然はただ黙していて、なんら人間を讃えたり、金儲けとは関係がないからである。
 キリストは人類の歴史の上で、最も多くの人たちを深く結び付けてきた。国籍や人種の別、病人や弱者であろうと健康な者であろうと、また年齢や社会的な、地位の上下などあらゆる差別とか壁を越えて結び付ける働きをしてきた。
 そしてキリストの最大の結び付けるはたらきは、本来、永遠に死という現実によって永久に生命から引き離される運命にあった人間を、神の永遠の命に結び付けて下さったことにある。

 


リストボタン裁きはあるか

 悪いことをして必ず裁きはあるかという問に対して、多くの人は、ある場合もあればない場合もあると答えるだろう。そしていくらでも私たちの周囲に悪いことをして何にも罰をも裁きをも受けずに過ごしている、かえって安定した名声や富を持っているという人もいるというだろう。
 しかし、裁きとか罰について考えるとき、何が悪いことなのかを考えないと正しい結論は出てこない。例えば、人の物を盗むことは悪いこととだれでも知っている。そして盗みを続けていたらいつかは捕まって刑務所に入れられるということは誰でも知っている。
 しかし、心の中で人の物を奪いたい、盗みたいという気持ちはいくら持っていても捕まらないし、裁きも受けないと思っている人が多い。
 しかし、実際にそれを行動に移したら悪いことを心で思うこともまた悪いことであり、そこにも裁きはある。それは、もしそのような考えを心で持ち続けていると、他のことでも、実行したら悪いことを心で思うことが多くなっていく。 
 そのような心を持ち続けることによって、人間の品性そのものが悪くなる。それが裁きである。そしてそのような悪い思いを持ち続けていくと、その人の声や表情、目などにも現れてくる。これは考えると不思議なこと、驚くべきことである。心にいつも思っていることが、表情とか目の輝き、あるいは声の調子などという目に見えるところに現れてくるのだから。
 嘘を言って得をしたといわれることがある。しかし、もしそのようなことがあったら、その人はすでに裁きを受けたのである。嘘そのものが悪いことであり、それがうまくいったということでその人はまた嘘をつくことになる。嘘に対して次第に心がマヒしてくるということ、そのような心には、清い喜びは生まれなくなっていく。そして本人はそのことがわからない。そこに裁きがある。
 また、逆に身近なできごとに少しでも心から神に感謝するとき、心にはなにかさわやかなものが生じる。たとえそれが路傍の野草や青く澄んだ空を見て、神の清さや無限の英知に対して抱く讃美の心であっても、あるいは、自分の隣人、さらには自分に害をなした人に対して小さな祈りをすることであっても、そうしたよきことは、必ずその人の心になにかよい種を植え付けることになる。
 このように人間の心の中まで考えるとき、どんなひそかなよき思いやよき行動にも、必ずよきことが伴うのであって、逆に悪い思いや行動にも必ず何らかの裁きが行われるようになっているのである。

 


リストボタン初めに神は天地を創造された。

 この一言から聖書は始まっています。他のどの国々や民族においても、このような天地万物を創造したお方が唯一であって、その本質が変わることのない真実を持っておられるお方であり、その唯一の神が宇宙のすべてを創造したということはわからなかったのです。
 それは、天地に生じる現象はあまりにも複雑で、混沌としているように見えるからです。例えば、激しい嵐のときに風は吹きすさび、それは波をも大きなうねりに変え、山々の樹木をも荒らし、ときには大木をも倒れさせます。また大雨は洪水をもたらし、山をも崩し、堤防や田畑を破壊します。火山などの噴火による火や煙、溶岩流などは、大地を破壊するかのように見えます。また、雷の稲光やその雷鳴は天からの激しい威嚇のように思われます。あるいは、干ばつで動物や植物たちも水や食物不足で死んでいくことがあります。
 人間にも、突然の事故や病気はおこるし、自然の災害に苦しむことも数々あったのです。
 このように自然の力は偶然的に生じ、無秩序に見えるために、どの民族もそれらすべてを唯一のお方が創造し、支配しているなどとは思えなかったのです。
 例えば、よく知られているギリシャ神話では、神々が世界を創造したのではなく、神が生まれでたときにすでに世界は存在していたと信じていたのです。神々が存在をはじめたとき、すでに天と地は創造されていたのです。ギリシャの最大の詩人、ホメロスは、「オケアノスは神々の親であり、万物の始まり」だと言っています。オケアノスとは、大地の果てにあって大地を取りまいている川であらゆる海も川も泉もそこから流れ出たものとされています。
 このように、すでに存在している大地に流れている川から神々が生まれたとされているのです。
 ギリシャの最高の神は、ゼウスといいます。しかし、このゼウスは別の神々であるクロノスとレアとの子供として生まれたとされています。
 ゼウスは天空の神で、雲を集め、雨をふらせる最も力のある神だとされていながら、海はゼウスの兄弟の神であるポセイドンが支配しているということになっています。
 そしてゼウスは至高の神であるといいながら、兄弟の神々や、妻のヘラという女神にだまされたり、人間の女の魅力に取り付かれて、次々とそうした女に引っ張られるという軽薄な姿をも持っているのです。
 こうした神々は、人間を越える力を持っているとされながら、人間そのものであってだましたりだまされたり、女性を誘惑したりするなど、到底人間の模範とは言えない存在です。
 すでにプラトンも主著の「国家」で、こうした神々の悪行は若い人々に対して、悪に対する非常な無頓着を生み出すとして、このような神々の物語は除くべきであると言っているほどです。(「国家」第三巻392A
 他方、日本の神々はどうでしょうか。 
 古事記には、最初に現れた三つの神々は、現れたがやがていなくなります。その後に、国が水に浮いた油のようでクラゲのように漂っているときに、泥の中から葦が芽を出してくるようにして現れた神々がいたがその神々もまたいなくなったとされています。
 このように、最初の神々というのは、なにか幻のようなもので、現れたと思ったら消えていったというのです。
 古事記に現れる最初の神々がこんなにはかなく、泡のように消えていくというところは、聖書に記されている神が永遠に動かされない存在であるというのとは、鮮やかな対照を示しています。
 イザナミ、イザナギの神々も自然に現れたと書かれています。そしてその二人によって日本を構成する島々が生まれたとしています。
 そして、この二人の神々は次々に海の神、風の神、野の神などの神々を生むのです。そのとき、驚くべきことですが、吐いたものや、糞尿からも神々が生まれたと書かれてあります。また、イザナギの命(みこと)は、妻のイザナミが子供を生んだことが原因で死んだので、その時に泣いた涙でまた新しい神が現れたと記され、イザナギは、その子供の首を切って殺してしまいます。その時の血からも神が生まれたと記され、さらに殺された子供の頭や腹、手などからも別々の神々が生じたと書かれています。
 また、イザナギが黄泉の国を見て汚れたので川で潔めをした。そのときに投げ捨てた杖や帯から別々の神々が生じたとか、左の目を洗ったときに生じた神が天照大神で、右の目を洗ったときに生じたのが月読命という神であったと書かれています。 
 このように、太陽の神とされる天照大神ですら別の神が目を洗ったときに生じたのであって、いとも簡単に自然現象のように生じているのです。
 杖、衣服や、死体、あるいは排泄物からすら、神々が生じるというのは、植物や動物が簡単にあちこちで生じたり、それらが死んで腐敗してもまたそこから新たに虫がわいたり、カビや苔が生えてきたりすることからの連想でこのように記されているのではないかと思われます。
 このように神々というものが、至るところで、またさまざまの物質から生じるというのは、聖書で言われているような、天地万物をただ唯一の神が創造したというのとは、根本的に異なる発想であるのがわかります。
 ギリシャや日本の神話では、はじめにすでに天地が創造されていて、そこに神々が生じているということなのです。
 このような出発点に対して、聖書においては、まず冒頭に唯一の神が存在してその神が天地万物を創造したということが宣言されているのです。現在ならば、神が天地を創造したと何となく信じている人は多くいますが、それはキリスト教、聖書の影響だと言えます。
 古代においては、唯一の神が万物を創造しそれを支配しているなどとは到底信じることはできなかったのです。すでに述べたように、それほどに私たちを取りまく自然の世界も、人間世界も混乱しているからです。
 美しく咲いた花も嵐によってたちまち吹き飛ばされるし、川も大水であふれ、山も崩れるし、火山の噴火があれば美しい山肌も溶岩流で死んだような状態となる、動物同士は食い合うし、人間も悪人がはびこる、こうした状態はまさに混乱であって自然の世界も人間世界も統一して支配しているお方がいるなどとは、理性的に考えるととても受け入れられない考えだとわかります。
 この混乱と不可解な出来事に満ちた世界が唯一の神、しかも真実で正しい神によって創造され、支配されているということは、人間の考えや経験から生まれるのでなく、全くそれと独立して神からの直接の啓示によって与えられたことだったのです。
 現在においても、宇宙万物がそのような神によって創造され、今も支配をされているということは、どんなに大学での学問を重ねても、経験や知識が豊かな人であっても、だからといって信じるには至らないのです。
 古代に現れた天才たちも唯一の神がすべてを創造して支配しているということには到達できなかったのは、現在も同様です。
 いくら科学的に、また経験などを通して論理的に考えても、万物は唯一の生きた神が創造したなどということは導かれないのです。それは、神とは、あらゆる論理を越えた存在だからです。 
 聖書の巻頭の言葉を心から受け入れることができるということ、それは神ご自身からの啓示を受けたということが言えるのです。
 神が天地万物を創造したということを受け入れるなら、愛や真実、正義、清さ、美しさ、力などあらゆるよいことも神が創造したと受け入れることになります。とすれば、一見不幸な出来事も、その背後に神の何らかの愛や真実が込められているのであって、人間にはそれがなかなかわからないだけなのだというように受け取ることができます。また、世の中のさまざまの人間、すなわち病弱な人、健康な人、障害者、勉強のよくできる人、できない人、白人、黄色人種、黒人などなどいろいろの人たちもすべて神は深い意図をもって創造されている、少なくともその背後に愛の神の心があるのだと受け取ることができるようになります。
 また、私たちのまわりの自然についても、それが神の力、また愛や美しさ、あるいは清さなどがそこに込められていると受けとめることができます。
 万物を創造したのが神であり、しかもその神は真実に満ちた存在であるという二つのことを受け入れるとき、私たちの物の見方が大きく変わってきます。たとえ身体に障害をもって生まれたり、病気がちに生まれたとしても、また学校の勉強が十分にできなくとも、健康の人と同様に神は深い目的をもって創造されたのだというように受け取ることができるようになります。
 もし、愛の神が存在しないなら、たまたま病気がちに生まれたのだ、障害をもって生まれたのも偶然そうなったのだから運がわるいだけであってそこには何にも特別な意味はないということになります。
 創世記の天地創造の記述は、天地がいかにして創造されたかとかどのような過程を経て現在の状態に至ったかということを知らせるために書いたのではありません。
 いかにして天地の創造以来現在の状態になったかということは科学が少しずつ解明してきたことです。
 それに対して聖書は、天地を創造されたお方がどんな本質を持っておられるのか、また創造の目的や意味を告げている書物なのです。
 科学と聖書の記述はこのように根本的に違った視点からなされているのですが、多くの人たちはこの二つを混同しています。科学は決して存在そのものがなぜあるのか、その存在の目的や意味を教えてはくれません。例えば、人間の生物としての働き、脳や心臓や肺などの内臓のはたらきがいかに働いているか、その仕組みをいかに詳しく知ったとしても、だからと言って人間を殺してはいけないという結論は出てこないのです。
 人間を殺してはいけないというのは、まったくそうした科学的知識とは別のところから出てきます。
 また、人間が何の目的のために存在しているのか、どんな意味があって生まれたのかなどということもいっさい科学では答えることはできないことです。
 だから、比較的最近まで人間の内臓の働きなど正確にはわからなかったし、大多数の人々はほとんどそれらについて何にもわからなかったけれども、人間を殺してはいけないというのは、古代の人から現代にいたるまでだれでも知っていることです。
 また、植物がいかにして太陽の光と二酸化炭素から、土中の水や養分を用いてでんぷんを作り、それから美しい花を咲かせたりするのかという過程は詳しく知られるようになっています。
 しかし、そのような過程を知ったからといって、野山に見られるおびただしい野草や樹木の一つ一つの姿や、花の美しさが人間にどんな目的や意義を持っているのかわかるでしょうか。それらの自然の草木の姿や花の美などが私たち人間に何を告げているのか、科学は全く答えてはくれないのです。
 同様に、毎日見られる空の雲は科学的には、空気中の水蒸気が冷やされて百分の一ミリ程度の小さい水や氷の粒になったものだということがわかっています。しかしそうしたことがわかっても雲のあの多様な色や姿が人間にどんな意味と目的を持っているのかなどは依然としてわからないままです。
 さらに夜空の星の光は核融合という現象であるとわかっており、いかにしてあの莫大なエネルギーが生み出されるかということも科学が教えてくれます。しかし、その星の神秘な輝きが人間に対してもっている意味はまったく科学は教えてはくれません。
 このように、科学はいかにして生じているかを説明できても、その現象の目的や人間にとっての意味などは教えることはできないのです。
 もし、私たちが万物を創造した神を信じるようになると、すべての現象はみんな目的と意義をもっていることになります。神は無限の愛や真実のお方であるゆえに、目的もなく創造することは有り得ないからです。これは、人間の場合を考えても類推できることです。ある人間が愛を深く持っているほど、そのなすことはみんなその愛にかなった目的をもってなされるからです。
 天地万物がある目的と意味をもって創造されたのなら、現在の世界もある目的をもっていることになります。ですからこの世界も偶然的な出来事が生じて、無目的に進んでいるのでなく、世の終わりまである目的に従って導かれていると考えることができます。
 その点では、人間もこの世界や宇宙も同様だということになります。人間も愛の神によって創造されたということは、その生涯は必ず意味と目的を持っているのです。
 この世界も終わりにいたるまで神の目的、計画に従って動かされているであろうし、いかなることがあろうともそれも人間には計り知れない大きな神のご計画に従って生じているのだということになります。
 このように、聖書の最初に記されている「初めに神は天地を創造された」という一言は実に波及するところが大きく、広く深いのがわかります。この一言を本当に信じていくかどうかであらゆる見方が変わってくると言えるのです。

 


リストボタン君が代・日の丸

文部省が君が代・日の丸を用いようとしない学校が多い都道府県の教育委員会に圧力をかけ、それを受けて教育委員会は、校長に職務命令としてそれらを用いるようにと命じ、長い間それらを用いてこなかった特に都会地区の学校の現場に大きい混乱が生じている。
 君が代とか日の丸がなぜ問題なのか、それはそれを用いて戦前には天皇への絶対服従をさせ、その天皇の裁断によって始められた戦争を推進する手段としてきたのであって、そのような体質に深い反省もなく再びそれらを用いるのは、太平洋戦争のあの悲惨な経験をないがしろにすることになるからである。
 第二次世界大戦を引き起こしたドイツそしてイタリアは、日本と同盟していた。敗戦後それらの国々においては戦時中の指導者であった、ヒトラーやムッソリーニは処刑され、あるいは、自殺した。そして戦争中使っていた国歌や、国旗を戦後は変えてその反省をはっきりとさせた。
 しかし、日本は戦争の最高責任者であった天皇は、何等の処罰もなく、責任をとることもなく退位すらせずにその地位に居座り、また天皇讃美の君が代、日の丸も全く反省も討議もされずにそのまま戦後も続けてきてしまったのである。
 少なくとも、太平洋戦争を引き起こした最終責任者としての天皇への処分とか退位を行い、そして君が代に変わる新しい国歌を募集して決定すべきであった。君が代は明白な天皇讃美の歌であるからである。
 ことにアジアの数千万という人々を殺し、苦しめたということを深く反省して二度とそのような悪を行わないようにすることこそ、日本に何より求められていることである。

 なぜ、文部省などが君が代を強制させようとするのか、その意図はどこにあるのだろうか。
 日本人は強固な精神的基盤がない。そこで、天皇をその基盤としてそこに人々を結び付け、そのうえで人々を思うように扱うという方法がとられてきた。戦争によって日本人自身もとくに若い人々を中心として数百万も殺されることになったのに、死んだ人々を靖国神社で神としてまつり、それを天皇が拝んでくれるのだから感謝せよというように教えられた。
 本来なら、人々から戦争反対という機運が生じてくるのに、天皇の命令だと言えば、だれも反対しなくなり、戦死者を神として天皇が拝んでくれると言われると、戦死した人の家族すら天皇に感謝するなどという奇妙なことになってしまった。
 明治政府がこうした天皇を用いて自分たちの思ったように動かすという方法を強力に用い始めた。そして天皇は生きている神(現人神)であるなどという明白な誤りを公然と学校で教えるということにまでなった。
 君が代、日の丸の問題は、すでに述べたように、日本が加わった戦争、とくに太平洋戦争のときに戦争推進の重要な手段として用いられたということにあり、それへの反省なくして戦前のような考えを再び広めようとする傾向にある。

 しかし、なぜそのように日本ではただの人間にすぎない天皇が神としてまであがめられたりするのだろうか、その根本原因を考える必要がある。
 それは、日本人の精神に変わることのない支え、基盤がないことにある。天皇という偶像を共通の基盤とすることなど間違ったことであるのは、天皇がふつうの人間にすぎないのであって、本来、特定の人間がそんな精神的基盤になどなることは不可能であるのは、人間の弱さや醜さを考えるだけでただちにわかることである。
 また、このような間違った偶像を精神の基礎とすることがなにをもたらすか、それは太平洋戦争を引き起こして数しれない人々を殺傷したことで証明済みである。
 君が代、日の丸の問題が私たちに提起しているのは、究極的には、人間の本当の精神的基盤を何に置くかということである。
 これは、聖書においては今から三千年以上も昔にすでにモーセが受けた神からの直接の言葉として明言されている。
あなたは私のほかに、なにものをも神としてはならない。
偶像を作ってはならない。それを拝んではならない。(旧約聖書・出エジプト記二十章より))
 真実な神、愛と正義の神、宇宙を創造した神を人間の基盤とするのでなかったら、必ず人間は他のもの、子供であれ、友人、家族、あるいはスポーツ選手とか、天皇のような地位の高い人間、あるいは、快楽、金等などを偶像としてしまうのである。
 君が代、日の丸の問題を政府は無理矢理に学校教育に持ち込んできた。
 日の丸も天皇がその背後にある。卒業式などで校長や来賓が深々と日の丸の前で礼をするのは、戦前ではその背後に天皇を意識させていたからであり、それがいまも続いているのである。かつては天皇の祖先は太陽神である天照大神であるというような神話を大まじめに教えられたのであったが、現在にいたっても日の丸への敬礼というかたちで生きているのである。
 数年前に七月二十日を「海の日」とすると決まった。これは、単に夏だから海に親しむからこの日を選んだと単純に思っている人が多い。しかし、これは、一八七六年に明治天皇が東北地方に行ったとき船を用いたが、横浜に帰ってきたのが七月二十日であったことがもとになっている。
 つまり、ここでも夏の休日をすら天皇と関係づけようとしているのである。
 また、最近、自民党の一部の議員から出されて四月二十九日の「みどりの日」を「昭和の日」と変えようとする動きが出ている。公明党も賛成にまわったということで、成立する可能性が濃厚になっている。この日はもともと昭和天皇の誕生日であって、ここでもたんに、昭和を記念するとか思い出すとかより以上に、「昭和天皇」と結び付けることが意図されているのである。
 昭和の時代といえば、第一に十五年ちかくにわたった日中戦争、そして太平洋戦争の計り知れない害悪を思い出すのであって、それを真に反省し、記念するために「昭和の日」という休日を制定するなら、八月十五日の敗戦の日のほうがずっとふさわしいはずである。
 また、時を考えるときの基準も、世界中で日本だけが人間の個人名を用いている。それが元号である。例えば、昭和五十年という言い方は、「昭和天皇の統治の五十年目」という意味を持っているのであって、古代中国がはじめた時間をも支配しようという考えをいまだに続けているのである。この元号制度によって、多くの日本人は時間を考えるときに、いまも天皇名を使っていて、そのたびごとに無意識的に天皇に結び付けられているのである。
 こうした傾向はさらに憲法も変えようとする動きにもつながっている。防衛庁を国防省にして、自衛隊を正式の軍隊と位置づけ、核の装備をも持とうとするそんな傾向が色濃く見える。こうした軍事への傾斜と、天皇への傾斜はまさに戦前において如実にみられたものであった。戦後半世紀を経て再びこうしたかつてのまちがった仕組みの方向へと押し流そうとする動きは歴史の大きな教訓をも見ず、まちがったものであることは明かである。
 確固たる精神的基盤をもたず、天皇などというふつうの人間を国の基盤とし、軍備という結局は人を殺し破壊する道具をよりどころとするならば、それは危険なことである。まちがった方向に暴走するのを止めることができないからである。
 キリスト者としての私たちは、この問題の根本は、なにを心の真の拠り所とすべきか、人間が第一として心に置くべき存在は何かということにあるのを知っている。
 そしてそのことをいかなる書物よりも明白に伝えている聖書の真理、キリスト教の真理を堅持していくことこそ求められている。

 


リストボタン荒れる淵と闇の中にて

地は混沌であって、闇が深遠の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ」
こうして光があった。(創世記一・23節)
 これらの言葉で、世界が創造された時には、どんな状態であったかが記されています。聖書では、まず混沌であった、すなわち一切のものが、秩序なく、完全な混乱状態であったというのです。
「神の霊が水の面を動いていた」という文の意味は、闇のただ中において、これから創造されようとするものを生み出すべく、神の霊が動いていたと説明されます。たしかに神の霊はいかなる闇にあっても、万能の力を持っているゆえに、新しいものを生み出す力をたたえているのです。
 しかし、この文はかなり異なる訳が可能とされてきました。「霊」という原語ルーアハ(ヘブル語)は、「風」という意味が本来の意味であり、「神の霊(風)」という言葉は、「神」という語が「大なる、非常な」という形容詞としても用いられている箇所(サムエル記上十四・15もあるところから、これは、「大いなる風」とも訳されています。ですから、この冒頭の箇所は、次のようにも訳されています。
地は荒涼混沌として闇が淵を覆い、暴風が水面を吹き荒れていた。
(前田護郎訳、なお前田氏は、元東京大学教授、西洋古典学、聖書学専攻で無教会のキリスト者。この訳は、中央公論社刊行の「世界の名著」シリーズの第十二巻」に収められています。)
 なお、外国の聖書の例もあげておきます。一例として、アメリカの代表的聖書(新改訂標準訳 NRSV )では、欄外注も含めて次のようにいくつかの訳を示しています。
・神からの風が水の面を吹いていた。(a wind from God swept over the face of the waters.
・神の霊が水の面を吹いていた。(the spirit of the God swept over ・・)
・大いなる風が水の面を吹いていた。(a mighty wind swept over ・・)

 このような訳から見ると、いっそうこの創世記の冒頭の箇所は、完全な闇と混沌、そして激しい風が暗黒の中で、一面に広がる荒れ狂う海に吹いていたという状況を表していることがわかります。
 このように、聖書が闇と混乱、荒れ狂う海の描写から始まっているということは重要なことです。ここに聖書はどんな書物であるかが示されているからです。
 どんな書物でも目的を持っています。私たちが書店で見る書物は、例えば小説、雑誌、週刊誌などなど、それらは人間の意見や作者の想像して作った話を伝えたり、単に商売目的で出しているものなどが大多数です。
 聖書はそうしたものとは違って、この宇宙を創造した神の御心、御意志が書かれています。神の御意志は、恐ろしい闇と混乱のただ中に光を与えることであったのです。
 私たちの世界には、至るところで闇があります。新聞に毎日のように出ているさまざまの犯罪はその闇を表しています。その犯罪を犯す人の心は闇であるし、その犯罪を受けた人やその家族もまた回復できない闇に包まれてしまうことも多いのです。
 また、病院にも数しれない人たちが日々の生活を病の苦しみや将来の心配で心を暗くして過ごしています。政治や官僚の世界、企業の活動などもさまざまな不正が行われるので、しばしば新聞に載っていることです。
 マスコミによく出るきらびやかな芸能界やスポーツなどの世界もその例外ではありません。はなやかな世界、マスコミなどで大々的に取り上げられる世界ほど、背後には深い闇があることもしばしばです。それは、そうした世間が注目しているものは、金がつきまといその金や名声を目的として人間が集まるからです。
 例えば、スポーツの代表的祭典であるオリンピックも、その開催に当たって、特定の企業が莫大な収益をあげようとする、誘致のために不正な活動をする、委員が受けるべきでない不正な利益を受ける、選手が禁止されている薬物を使うなど、多くの闇があります。
 こうした闇を数え上げるときりがありません。そもそも人間そのものが闇の部分を深く持っているからです。光と清さそのものである神に背を向ける本質が人間にはあるからです。
 聖書の最初に出てくる人間とされているアダムとエバが神によって備えられた理想の環境で生活していたのに、そのような素晴らしい環境を与えてくれた神に背いてしまったということは、人間の深い闇を象徴的に表しています。
 こうした人間そのものが持っている闇というだれでもが知っている現実に対して、神はどのようにされようとしているのか、そのことが聖書の中心テーマとされています。私たちがどんなに科学技術の産物によって便利になっても、心は少しもよくはなりません。不便きわまりなかった昔と比べて人間の心の思いやりとか清い心、勇気などといったものは全く伴ってはいないのを知らされます。
 私たちの人間そのものが闇の部分を深く持っていること、それを聖書では罪と言っています。
 闇を直視するのでなかったら、光がどんなに必要なのかもわかりません。闇の恐ろしさを思い知った者は、そこに注がれる光を何にも増して待ち望むし、その光を何よりも大切なものとみなすはずです。
 聖書は一言で言うならば、「闇が存在すること、そしてそこに注がれる光があること」を宣言している書物だと言えるのです。
 人間を絶望させる深い苦しみがある、しかし、その絶望のなかに希望をもたらす光があること、人間には、罪がある、しかしその罪を救う救い主がおられることを言っているのです。
 私たちが多くの書物を読み、多くの経験を積み、多くの知識を持てば持つほどに、この世の闇はますます深くわかってきます。人類の過去から現在、そして将来はどうなるのか、核兵器の増大や、原発の廃棄物処理、遺伝子に関わる技術のはんらん、公害その他のため科学技術は人間を滅ぼしてしまうのではないのか、人間そのものは少しもよくなっていないのに、このような大量破壊兵器や生物の根源である遺伝子を操作する技術がますます盛んになったらどうなるのか、等など。
 私たちが真の光を得るためには、書物による学問を積むだけでは得られないのです。太平洋戦争のような大規模な戦争を引き起こし、世界に計り知れない苦しみや悲しみという闇を作りだしたのも、当時の政治や軍、あるいは経済界の指導者たちであり、多くの学問をしたはずの人たちであったのです。 
 昔の人たちはどこの国においても書物を読むことなどほとんどの人はできないことでした。字を習っていない人が多数を占めていたうえに、書物そのものがきわめて貴重であり、一般の人たちには手にすることもできなかったからです。
 このような無学な人たちが大多数であっても、光はそうした一般の人たちに注がれてきたのであり、聖書で言われている「光」とは、どんなに無学であっても、病弱であっても地位が低くても、注がれるような光なのだとわかります。
 この世には、闇がある、しかし光がある、それが聖書の一貫した主張なのです。
 だから、旧約聖書には神が光を与える存在であることが多くの箇所で記されています。そのうちの特によく知られた箇所をあげます。

見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。
しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。・・
太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず、月の輝きがあなたを照らすこともない。
主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。
あなたの太陽は再び沈むことなく、あなたの月は欠けることがない。
主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆きの日々は終わる。(イザヤ書六十章より)

 闇は地を覆うほどに、広く深く我々を包んでいます。しかし、神を信じるときには、不思議なことにそうした闇のただなかに神の光が輝くと約束されています。

 新約聖書にもその最初のマタイ福音書においても、イエスの働きが始まったことは、旧約聖書に預言されている次の言葉が成就したことなのだと記されています。

暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。(四・16

 私たちの生活はますます便利になり、数々の科学技術の産物が取りまいています。しかし、だからと言って人間の心がやさしくなったり、清くなったということはだれも思ってはいないのです。かえって人間の心は善悪を見抜く洞察力が弱くなっていることも多く見られます。
 そして、人間の心には、科学技術がいかに発達し、コンピュータのような便利な物が多くなっても、やはり深い闇があるのです。そうした闇の一端が、オウム真理教事件、神戸の少年の驚くべき犯罪や最近の小学校に侵入して幼い命を断ったなどという異様な事件にも現れています。
 こうした犯罪を起こす人間の心は、まさに混沌であり、闇であり、激しい風が吹き荒れている状態だと言えます。そしてこのようなことは、決してそうした特別な人たちだけにあるのでなく、日頃はごく普通の人であっても、ひとたび大きい事故や重い病気、事件に巻き込まれるとき、たちまち混乱し、闇に包まれ、心に恐ろしい風が吹き荒れる状態と化してしまうのです。
 今から数十年前の戦争のときなどは、国家全体がそうした闇と混乱でファシズムという激しい嵐が吹き荒れることにもなったのです。
 このように、創世記の冒頭の箇所、従って聖書の最初の記述は単なる古代の人の創造説を書いているのでは決してなく、古代から現在に至る人間社会の困難でけわしい問題そのものを提起しているのがわかります。
 本当のものを求めようとする人たちにおいては、もっと便利さを、もっと快適さを、ということ以上に、「もっと光を!」という願いが強くなってくると思われます。
 もっと便利なもの、快適なものをという方向は科学技術の産物をはてしなく生み出してきました。しかし、身近な車一つをとってもわかるように、それはハンドルを少しきるだけで、重大事故となるものであり、その時には自分も他者も取り返しのつかない闇に投げ込まれることになります。
 また、科学技術の最先端の産物として原水爆や原発がありますが、これはひとたび使われると何十万、何百万という人たちを一瞬にして恐ろしい闇に突き落とすものです。生命科学の最先端には、遺伝子操作がありますがこれも、やはり間違って使うと、人間に取り返しのつかない闇をもたらすことになるでしょう。
 このような現在をも創世記の記者はすでに見抜いていたとも考えられます。神の霊は時間を越えて洞察する力を与えるからです。
 それゆえ、前途がどうなるかだれにもわからない私たちの時代にあって、果てしない闇と混乱の中に光をもたらすことのできる神を指し示しているのであって、この創世記巻頭の言葉は、まさに暗夜に輝く燈台の役割を果たしてきたし、今後も果たし続けていくのです。

 


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北斗七星
 春になると、夜空になじみ深い星は北斗七星です。「斗」というのは、「柄杓(ひしゃく)」のことで、水をくむのに使っていた用具です。だから、北斗七星とは、北に見えるひしゃくの形をした七つの星という意味になります。
 これは、三月下旬の午後七時頃なら、東の空から七つのひしゃくの形をした星が立ち上がってくるようにして昇ってくるのが見られます。柄杓の先端を五倍にのばしたところに北極星があるので、中学の理科で必ずといってよいほど学習することです。
 しかし、実際に星を見るのは、夜でないと見えないこと、生徒たちを夜にわざわざ学校に来させることが困難なことから、ほとんどの大多数の生徒たちは、北斗七星を実際に見たもないままで卒業してしまい、もう二度と星の配置などのことは考えなくなるという状態です。
 北斗七星は大熊座の中の尾と体の一部を構成している星で、星座名ではありません。しかし、昔は水をくむのにはどこの民族でも不可欠であった柄杓の形をしている上に、よく似た明るい星が七つ並んでいることから、どこの民族からも注目されてきました。
 また、地球からの距離もこれらの星たちはよく似ていて、六十年光年~百五十光年の距離にあり、比較的近いところにある星です。
 聖書にもつぎのように引用されています。

(神の)御心は知恵に満ち、力に秀でておられる。・・
神は山をも移される。・・
神は大地をその立つ所で揺り動かし、地の柱は揺らぐ。・・
神は自ら天を広げ、海の高波を踏み砕かれる。
神は北斗やオリオンを、すばるや、南の星座を造られた。
神は計り難く大きな業を、数知れぬ不思議な業を成し遂げられる。(旧約聖書・ヨブ記九章より)

あなたは銀河をその時が来れば引き出すことができるか。北斗とその子星を導くことができるか。(ヨブ記三八・32

 これらの詩句を見ると、二千数百年昔にヨブ記を書いた大詩人はあの北斗の七星を見つめて神の創造の大いなるわざに思いを馳せていたのが感じられます。

○ホオジロ
 小さい頃から、わが家のすぐ裏山の木の梢にとまって鳴いている小鳥をよく覚えています。澄んだ明るい声でのさえずりは、印象的であの小鳥は何という名前だろうかといつも思ったものです。
 その小鳥の名前がホオジロということがわかったのはずっと後になってからでした。最近、暖かくなってあの懐かしいさえずりが、折々に聞こえるようになっています。ついこの間は、わが家の前の庭先をえさを探しながら飛び歩いていたのです。また、それから少し後には、家の前の小枝にとまってさえずっていたこともありました。わずか十メートルにも足らない近くでさえずりを目にしたのは初めてのことです。
 野草や野鳥については、学校時代にほとんど習った記憶がありません。これは大多数の人にとっても同様のようです。小学校や中学の頃までに身近な野草や樹木ん、小鳥たちに親しむことは、その後ずっとそれらの身近な自然に対して親しみをもって見つめることになり、またそれらから善きメッセージを受け取ることにつながると思われます。

○梅と桜と、唯一の神への信仰
 まだ寒さ厳しい頃から、梅はぼつぼつと咲き始め、それだけにいっそう心引く花だと感じられます。まだ他の草木が寒さのために眠っているようなときに、よい香りを放ち、そのうえに純白や赤い花を咲かせる姿は、私たちにもなにか清さを伴って感じられるものです。そしてかなり長いあいだ咲き続けることでいっそう寒さに耐え続ける姿を示してくれます。
 桜にはそうした厳しさが感じられません。暖かくなって、卒業や入社、入学シーズンでもあり、また桜の下で花見と称する宴会なども結びつくからかも知れません。そして、いっせいに咲いたらそのあとは、たちまちいっせいに散ってしまうというはかなさがあります。桜の下の宴会の楽しさもほんのひととき、入学、入社の華やかさとか、ときめきもたちまち消えていくのとよく似ています。
 このように同じバラ科で花の形や色も似ている花であっても、性格がかなり違っていて、人々に与える印象も対照的であるのは興味深いことです。
 日本人は、桜の花をことに愛して、古来「花」と言えば桜を指すほどでした。このようにいっせいに咲いて、またたちまち散ってしまうはかなさが日本人の性質に合っていたからだと思われます。
 このような傾向は、今月号の「初めに神は天地を創造された」の一文で述べたように、日本の古事記では初めに現れた最初の五つの神々が、まもなくいなくなったというはかなさに通じるものを感じさせます。
 このように短命なもの、はかないものに引かれるということは、他方、自然の世界のうちで、最も永遠的で、その存在が確固たるものといえる星について、万葉集や古今集などはきわめてわずかの関心しか寄せていなかったことにもつながっています。
 そしてこの傾向は、現在に至っても、最も永遠の存在である唯一の神への信仰を持つ人々の割合が他の国々と比べて特別に低いということも関係があると思われます。
 キリスト者の割合を見ると、日本はわずかに人口の一%にも満たない状況で、百万人余りしかいません。
 しかし、例えば日本に一番近い韓国は二十五%あると言われ、中国でも、キリスト者は最近では、二千万人から三千万人になっていると推測されており、これは人口の二%を越えていてますます増えているといいます。長い間、キリスト教が認められていなかった中国のような国でも、現在は日曜日に千五百人も集まる教会ができていて、座る場所がなくて立ったまま礼拝を受けるような教会もあるということです。(キリスト新聞・99年一月30日号による)
 また台湾のキリスト者は人口の10%ほどで、フィリピンでは94%に及ぶのです。また、以前のソ連は38%ほどでした。(以上の統計は、「世界キリスト教百科事典」教文館刊による)
 こうしたデータを見れば、同じアジアで日本を取りまく国々と日本では、実に大きい開きがあるのがわかります。

 


リストボタン返舟だより

○今月は、体調がやや不全であったことと、予定外の訪問や出来事もあったので、なかなか書き終えることができずに遅くなりました。このような月刊の小誌であっても、主が支えて下さらねば、継続はできないということをいつも思っています。

○春となり、いっせいに植物たちは新芽を出しはじめ、またいろいろの花が咲き始めています。
 空や雲、太陽、星たちは変わることのない神の存在や力などを教えてくれますが、野草や樹木たちは、日々変わる姿によって、またその花の美しさなどによって神の変化に富んだ創造の力と英知を告げています。
 自然とは、言葉では表すことのできない「聖書」というべきものです。神の直接の御手によって創られたものだからです。そこにはやはり神の御意志、私たちへのメッセージが表されています。
 スイセンやウメは終わりに近づきましたが、桜の一種(実ザクラ)はわが家では満開に近い状態で咲いています。タチツボスミレや、ツボスミレ、ノジスミレといったスミレの仲間がわが家の周辺でも咲き始めています。それらは、春の訪れをその姿や色という豊かな言葉で語っています。

○パソコンと「はこ舟」
 パソコンのことをしばしば集会関係の人やその知り合いの人から尋ねられます。パソコンを購入してホームページとかメールなどに使いたいと思っている人は多くいますが、ていねいに初歩の初歩から教えてくれる人がいないというのが実状のようです。
 インターネットメールとかホームページによって、単に人間の言葉や、一時的な感情とか考えだけでなく、神の言が多く交流するようになればと願っています。 
 この「はこ舟」誌もパソコンで制作して出来上がったものを、印刷所に送って増刷してもらっています。その方法によって時間的にも早くできるようになり、またパソコンでつくると、原稿はみなテキストファイルになっていますので、全盲の人に送付して音声朗読をするソフトを用いて、内容を読んでもらうこともできるようになっています。

 


リストボタン徳島聖書キリスト集会集会案内

・場所は、徳島市バス中吉野町4丁目下車徒歩四分。
(一)主日(日曜日)礼拝 毎日曜午前十時三十分から。
(二)夕拝 毎火曜夜七時三十分から(旧約聖書を学んでいます)・なお、毎月第四火曜日の夕拝は移動夕拝で場所が変わります。
☆その他、土曜日の午後二時からの手話と聖書の会、日曜学校(日曜日の午前九時半から)、海南、北島、国府、藍住、徳島市住吉などでも定期的な集会があります。また祈祷会が月二回あります。問い合わせは左記へ。
・代表者(吉村)宅電話 08853-2-3017 ・集会場の電話 0886-31-6360