20008月 第475号・内容・もくじ

 リストボタン神の言と人の言葉  リストボタン混乱の中で
リストボタン緑・青・白   リストボタン小さきもの
リストボタン神の小羊としてのキリスト (ヨハネ福音書一・2934 リストボタン人間の大切さを見つめる流れ
リストボタンQ&A(質問コーナー「旧約と新約とは」 リストボタンSさんの転居
リストボタン徳島を去るにあたって(S) リストボタンキリスト者の俳句
リストボタン休憩室 リストボタンお知らせ
リストボタン返舟だより 


リストボタン神の言と人の言葉

 この世には、この二つの種類の言葉がある。二つの言葉は、いずれもどこにでもある。人の言葉は、日々の会話、仕事先から、また近所や家族といった身近なところから、国際社会に至るまで、だれもが朝起きたときから夜までずっとその洪水のうちにある。
 テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などあらゆるマスコミや印刷物はそうした人の言葉で満ちている。私たちの心は人の言葉によって喜び、悲しみ、また傷つけられ、そしてときには励まされている。
 人の言葉と同様に、どこにでもあるにも関わらず、比較にならないほどに多くの人々が知らずにいるのが神の言である。旧約聖書にすでに神の言はこの世界に満ちていることがつぎのように記されている。

この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。
話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、
その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。(詩編十九より)

 事実、私たちを取りまく自然のさまざまの現象は、神の言が見えるかたちになったものだと言えるほどである。青く澄み切った大空、真っ白い雲、海の広大さ、そこにわき起こる波、小鳥のさえずりや、野草や樹木の花、その姿など、いずれも言葉にできない神の言を語っている。
 しかし、そうした言葉以上に、私たちの魂の最も深いところに光を投げかけ、命を与えるのが、神の言である。何一つ自然の美しさも見えない盲人にも、また小鳥のさえずりも聞くことのできない聴力の失われた人にも、また、病院で寝たきりとなった人にも、その魂の核心に届く神の言がある。
 それは、自然が破壊されようとも変わらない。私たちの体が病気や老齢、事故などのために壊されようともなお、神の言はいささかの変化も受けることはない。

天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。(マタイ福音書二十四・35

 神の言は、歴史を越えて流れ続ける一つの川、見えざる大河であり、宇宙のあらゆる変化にも動じない形なき岩であり、神の命である。


 


リストボタン混乱の中で

 最近とくに異常なほど少年の特異な犯罪が続出している。仲間や自分の親の命を奪ったり、生涯にわたって苦しむような重い傷を与えるような行動は、それは他人をも自分をも生きている限り、償いようのない苦しみに巻き込むことになるのが見えないのだろう。
 しかし、そのような混乱のなかにも、光は依然としてある。 キリスト教の不滅の価値は、いかなる事態が生じようとも、決して自分が捨てないかぎり希望を失わないでおられるということだ。
 いかなる出来事が生じようも、それでも神はいる、神の愛はあると信じ続けるものには、たしかに神の存在や、神の愛を実感できるような人と出会ったり、出来事が生じたりする。
 闇はだれも見たくない、しかし闇は周囲にある。闇深くなれば、いよいよ絶望するほかはない。しかし、キリスト者はその闇の深まるならますますはっきりと光を実感することができる。
 「闇のなかに光は輝き続けている」ゆえに、キリストと結びついているかぎり、私たちは闇が深まるように見えても、そのなかで真理の光をますます明瞭に見るようになるだろう。


 


リストボタン緑・青・白

 緑一色の山々をおおうように、青く澄んだ空が広がっている。

そしてそこには、真っ白い積乱雲がその力に満ちた姿を見せている。

ただこの三つの色、緑、青、白が目に入ってくる。

自然のただなかにおいてこの三つの色はなんと目と心に心地よく、そして意味深いことか。

それぞれに神の本質の一端を見せていただく思いがする。

緑は命を感じさせ、青は深さ、そして白は清さを感じる。

真っ白い積乱雲は、清さとともに神の力を思わせる。

神のいのち、それは永遠の命と言われ、生きてはたらくキリストを思う。

青は、神のはかりしれない清い深みを語りかけてくるし、神によって清められ、現れた姿を思わせる。

この三つがあったら私たちは他になにもいらないだろう。

これらは、どこまでも深い神のご計画にゆだねて歩み、生まれついて持っている罪の汚れを洗われ、その代わりに力に満ちた、朽ちることのない神の命を受けることを指し示している。

                                (県南部の集会に行く途中に感じたこと)


 


リストボタン小さきもの

大きいものへのあこがれ

 聖書では、小さきものという言葉がしばしば見られます。小さいものはいたるところにあります。すべては大きいものから小さいものまで数限りない種類があるわけです。人間においては能力の大きい者もあれば、能力の小さい者もある。すでに小学校においても算数がどんどんできる能力の大きい子供がいれば、他方では分数の意味がわからないで進めない者もいます。音楽演奏やスポーツなどでも、能力の大きい者、小さい者の差は歴然としています。

 できるだけ成績の点を大きくして、大きな評価のある大きい大学に進学して大きい会社に入って、大きい金額の給料をもらい、世間から大きい評価を受け、大きい家を建て、大きい車を購入してゆったり生きる。・・

 夏の高校野球などもできるだけ大きい得点をあげて、勝ち星を大きくし、優勝という最大の名誉を獲得しようとする。・・そのため、ヒットを全く打てず、大敗したようなチームは見向きもされません。

 オリンピックなどになると、国中をあげて、金メダルなど大きい名誉獲得に必死になるという状態です。このように、テレビ、新聞などマスコミも大きいものを宣伝して、国民がそれに引っ張られていくというのが現実で、いかに大きいものが重視されているかがマスコミ報道は如実に示しています。

 コンピュータもできるだけ大きい能力のあるものへと激しく変わりつつあります。

 そして会社もできるだけ大きく安定した状況へと向けて、合併がしきりに行われています。大は小を兼ねるともいわれ、日常的にも大きいのを好むのが当然となっています。

 国家全体が大きいほうへと異常な努力を傾けることもあります。これが戦争です。ヒトラーはヨーロッパ全土を支配下に置こうとしたし、日本も戦前には韓国、台湾、千島などを領土とし、さらに中国の満州地方をも支配してさらに大きい国家となろうとしていました。大東亜共栄圏というような、東南アジアからインド、オセアニア一部までを加えた範囲に天皇中心の支配権を及ぼそうとしたほどです。

 このように、人間は子供から大人、国家までつねに大きいものを目指そうと必死になっているわけです。宗教の世界でも、真理とか真実、愛などが目的であるのに、それよりも自分の教派とか影響力を大きくしようという人間的な動機が働くこともしばしば見られます。

 こうした傾向に対して、カール・ヒルティは最晩年の著書でつぎのように述べています。

 私は生涯にいくどか人間軽蔑者になりそうな時期があった。そうならずにすんだのは、たしかに人間社会の上層の人びとと知り合っていたためではなく、反対に、ささやかな人びとの生活や考え方を深く理解したおかげである。

 この世の小さなものに対する関心と特別の愛を持つようになると、現代の病気であるべシミズム(*)に永久にかからなくなる。これに反して、物とか地位などにしても大きいもの、身分の高いものや、うわべだけ目立つものに対する、たとえ秘かにであっても、何らかの憧れが心のなかに残っているかぎり、「この世の支配者」はいぜんとしてその人びとに対して権限を失ったわけではなく、彼らはゆるぎない幸福に達することができない。

 なお、言い添えておきたいのは、通常小さなものは、それに深く心をとめると、一般に大きなものよりもはるかに興味ある、愛すべきものだということである。巣のなかで観察された蟻、勤勉な蜜蜂や、鷺などは、ライオンや鷲や鯨などよりもずっと見ごたえがあり、興味深い動物である。

 また、小さな高山植物は、派手なチューリップやモダンな観葉植物よりもはるかに美しい。人間の場合もその通りである。この世の小さなものに眼を注ぎなさい。そうすれば、人生は一層豊かに、満足すべきものとなるのである。(ヒルティ著 「眠れぬ夜のために」上 1117日の項目)

*) ペシミズムとは、この世では、悪が善よりも支配的であると考えて、この世を嫌悪すること。


 何か大きいものにあこがれている心の傾向がある限り、揺るぎない幸いは与えられないとヒルティは断言しています。たしかに聖書は、こうした人間の傾向と根本的にちがった小さきものへのまなざしを特別に重視しているのです。

主イエスと小さきもの

 このように見てくるといかにこの世は何らかの意味で、「大きいもの」にあこがれ、それを求めるということがその本性のようになっているのがわかります。

 こうした本性を思うとき、キリストが小さきものへの配慮とその重要性を特別に指摘したことは、驚くべきことであったのです。

  聖書における小さきものへの特別な関心は、主イエスの誕生のときからはっきりと示されています。それはイエスが馬(家畜)小屋で生まれたということです。当時は夜となれば電灯もないゆえに真っ暗であり、家畜の飼料やさまざまのもので汚れて臭いただなかでイエスが生まれたというのは、いかに神が小さきものを重んじているかを表すものです。 また、イエスの誕生は、地位や財産を持ったこの世で目立った人間にでなく、なんの力もなく、この世では最も小さい存在でしかなかった素朴な羊飼いたちに初めて知らされたということも同様です。

 そしてさらにその最期も、重い罪を犯した者たちと共に十字架につけられ、この世でなきに等しいものとして処刑されたのです。

 主イエスは三十歳になるまでは、田舎の村で大工の仕事を手伝い、その後の三年間も地位も権力も財産もなく、文字どおり最も小さき者として地上を生きました。

 主イエスご自身の教えやたとえにも小さい者への配慮がいたるところで見られます。

はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。(マタイ十・42

 ここで「はっきり言っておく」と訳された原語の表現は、「アーメン、私は言う」であり、アーメンとはヘブル語です。このような表現を使っているときには、「真実に、確かなこととして言う、重要な真理を言う」といったニュアンスが含まれているのであって、たんに「はっきり」というよりもずっと重い意味がこもっています。日本語では人に答えるとき、「はっきりと言いなさい」と言うように、内容の重要さとは関係なく、あいまいでないという場合に使われますが、聖書では内容それ自体に重要なことを言うときに用いられています。

 キリストを信じる小さい者に水一杯を与えるだけでも、大いなる神からの恵みは必ず与えられるというのです。

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉い(大きい)のでしょうか」と言った。

そこで、イエスは一人の幼な子を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて幼な子のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この幼な子のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。

わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。

「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。(マタイ十八章より)

 ここに引用した主イエスの言葉にいかに小さきものが、重く見なされているかがよくわかります。天の国とは神の国であり、そこにおいては、最も大きい者(*)とは、自分を低くして幼な子のように純真に神を仰ぐ者こそ、最も神の国では大きいと言われたのです。

 このような基準で大きさが計られるということは、この世とは根本的に違っています。これなら、たとえ学校き成績が悪くとも、また病気がちであって仕事も十分にできなくとも、あるいは、老人になって何もかも衰えてもなお、幼な子のような心で神を仰ぐのになんの妨げもありません。どんなにこの世で小さくみなされ、捨てられていようとも、なお神の目には大きく価値あるものとして扱って下さるということは、なんという福音かと思います。

*)偉いと訳されている原語は、メガス megas であり、原意は「大きい」という意味です。この言葉は英語に入り、メガトン級爆弾とかのように使われています。

 主イエスがいかに小さき者を重んじられたか、それはつぎの箇所にもよく現れています。

・・お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた。』

 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』

そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ二五章より)

 ここで王とは、キリストを表しています。

 病気で死ぬばかりの者、飢えや渇きで苦しんでいる人たち、衣服も奪われ、着替えるものもなく、寒さに震える者、あるいは、牢に捕らわれてその暗く非衛生的なところで絶望的な苦しみにあえぐ者、砂漠のような荒涼たる土地を旅しているとき、暑さや渇き、食料の欠乏で苦しんでいる者たち、そうしたすべてはじつはキリストのべつの形でもあるというのです。そうした苦しみに追いつめられ、死ぬかと思われるほどの状況におかれている人は、最も小さな存在です。助けなくば、そのまま死んでしまうような者だからです。

 そうした最も小さき者へなすことは、キリストに対してなすことだというのは驚くべきことです。

 主イエスはこのように、小さきものへの配慮がいかに重要であるかを繰り返し教えられましたが、キリストの十二人の弟子たちも漁師が半数近くいたり、当時さげすまれていた取税人もいてやはり当時の社会では小さな人たちばかりでした。

 また、イエスご自身もそのように生きたのが福音書には記されています。イエスがとくに関わったのは、当時は仕事も与えられず、捨てられた状況にあった、盲人、ろうあ者、足のマヒした人、ハンセン病(らい病)の人たちであったのです。彼らはまさに当時の世においては最も小さきもの、無視されていた人たちであったのです。そうした人たちがキリストの力によって、いやされ、新しい力を与えられていくことは、キリストによる新しい時代の到来を象徴するものとなりました。

パウロと小さきこと

 二千年のキリスト教の歴史のなかで最も重要な使徒は、パウロです。かれが書いた手紙が聖書にたくさん収められていることからも、その絶大な影響力がわかります。

わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。(Ⅰコリント 十五・9

 彼の心には、自分は本当に小さい者だという意識がいつもあったのがわかります。また、別の箇所では、自分のことを「罪人のかしら」であるという表現すらしているのです。パウロの書いた手紙の冒頭にまず自分が何者であるかをつぎのように記しています。

キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから(ロマ・一・1

 ここで「僕」と訳されている原語(ギリシャ語)は、「奴隷」という意味の言葉であり、じっさい聖書でもつぎのように使われています。

もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。(ガラテヤ書三・28

 キリストは完全な愛と真実なお方であり、そのお方に全面的に従うという意味でキリストの奴隷という特別な表現をつかい、それを自分の肩書きのように使っているのです。

 パウロはキリスト者となる前は、ローマの市民権を持つほどの家柄を誇り、高い教養や、律法の学識をもって指導的人物と自他ともに認めていたと考えられます。

 そして大祭司や長老たちも知っているほど、彼は当時新しく起こったキリスト教を迫害する指導的人物となり、自分が大きい人間だと意識していたと思われます。

 しかし、そうした見方は、当然にして破られ、キリストのまえにじつに小さい者にすぎないと思い知らされました。そこからパウロの新しい生き方は出発したのです。

 そして、彼は、自分がどうしても善いことができない、死んだようなものだという告白をしています。また、そこから自分のことを「罪人のかしら」であると思っていたのが、記されています。

 かつてはユダヤ教の指導者であるかのように、キリスト者迫害に関して大祭司のところにまで行って外国まで行って捕らえてこようとまでしました。そのように、自分のことを大きなものとして考えていたことと比べると、キリスト者となったパウロがいかに自分を小さいものだと考えるようになったか、その根本的な変化に驚かされるのです。

 新約聖書で最もよく読まれたと言われる、山上の教えの冒頭に、つぎのような言葉があります。

ああ幸いだ、心の貧しい者たちは!

なぜなら、天国は彼らのものであるからだ。

 ここでいう心の貧しい者とは、パウロのように、自分がどんなに小さい存在であるか、それを知った人のことです。

 この言葉が主イエスの教えの冒頭にあるのは、このことがキリスト教信仰の中心にあるからです。自分の心の醜さや弱さを知ることよって、自らの小さいことを深く知るとき、そこに神の赦しと恵みが初めて注がれるということなのです。

 二人、三人が私の名によって集まるところに、私はいるのである。(マタイ十八・20

 ここにも小さきものへの祝福が語られています。一般的にいうと、宗教はともすれば、大きくなってその勢力を誇示しようとしたり、その人々から多くの金を集めて政治団体と結びついたりして変質していきます。主イエスは、たとえ二人、三人であっても主イエスを心から信じて、仰ぐ心で集まるときそこにともにいて祝福を与えて下さるというのです。大切なことは、大きくなることでなく、いかに主イエスを仰ぎ、イエスの持っておられるような真実や愛をみつめて集まろうとしているかどうかだということなのです。

 そして小さき者は、永遠に小さきもののままでなく、復活のときには、キリストと同じ姿に変えられる、そして神の命を与えられると約束されています。キリストとは永遠の昔から神とともにおられ、神でもあり、万物の創造にも関わったお方であるゆえ、最大のお方です。そのようなお方と同じようにして下さるというのはそれ以上大きい約束はないと言えます。

彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さる。(ピリピ 三・21

 このように、聖書には、この世で、見下され、また悩みや苦しみを持ち続けたいかに小さきものであっても、未来においては考えられる最大のよきものを下さると約束しているので、そこに深い神の愛とご計画を知らされるのです。


 


リストボタン神の小羊としてのキリスト

  (ヨハネ福音書一・2934

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。

『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。

わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」

そしてヨハネは証しした。「わたしは、(神の)霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。

わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『(神の)霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。

わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

 ここではまずイエスがどんなお方であるかが言われています。

見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ!

 この一言はじつに大きな意味を持っています。世とは世界中であり、また世界のあらゆる人たちの罪を指しています。この世とは現在の世界だけでなくあらゆる時代をも指しています。ということは時間を越えてあらゆる時代の人々という意味があります。

 そして罪とは人間がだれしも持っているものであって、真実なものに背く心、愛することが大切と思ってもできないその本性、本能のようにしみこんでいる自分中心の心などなどこうした心の傾向を罪というけれども、そのような罪を取り除くことは人間では到底不可能なことです。

 罪は自分でも気付かないことがよくあります。自分が不信実であるとか愛がないのを本当に深く知っているためには、神が持っているような完全な愛や真実をしってそれに比べるといかに自分が不信実であり、愛を持たないかがわかるのですが、神の愛や真実をごくわずかにしか知らないときには、自分の罪もわずかしかわからないということになります。自分で気付いていない罪を取り除くということはもちろんできないことです。

 このように、自分の罪すら少ししかわかっていないので、それをすべて見抜いた上で取り除くということは、たいへんなことを言っているのがわかります。

 罪とは人間の最も根源的なものです。どんな人間もふれることのできない魂の奥深いところのことです。そのような罪を取り除くということは、人間ではとうていできないことです。

 
そのようなことのために来られたのがイエスだというのです。

 また小羊という表現には、イエスの時代から千数百年の旧約聖書に書かれていることと関係があります。かつてモーセがエジプトにいた民を導き出すとき、小羊の血を入り口に塗って神からの裁きを逃れたということがありました。(出エジプト記十二章)

 その時以来、小羊の血は受けるべき罰を逃れさせる力をもっているとされるようになりました。イザヤ書五十三章にはそうした小羊のことをとりあげつつ、その小羊たるお方が存在するということが預言的に書かれています。

 彼は苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠(ほふ)り場に引かれる小羊のように、・彼は口を開かなかった。

 彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた。

 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。・・

 わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。・・

 彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。(イザヤ書五十三章より)

 見よ、この人を!

 これに類する言葉は、気付かないことが多いと思われますが、いたるところで見られる言葉です。

 毎日のテレビ、インターネット、新聞、雑誌などで現れる人々についてそれらのマスコミは「見よ、この人を!」と言い続けているし、それらのマスコミに従って、つぎつぎといろいろな人々へと人々は注目しています。

 政治家、スポーツ選手、とくに野球やサッカー、相撲など、あるいは歌手、俳優などのタレントたち、こうした一種の偶像がめまぐるしく現れて、「見よ、この人を!」といい続けています。そして多くの人たちは、その声に惑わされて、なんの益にもならないもの、有害なものへとその視線を引っ張られているのです。

 これは、聖書の世界にもあって、ローマ皇帝が自分を神としてあがめるようにとの命令を出したことがあります。それも「見よ、この人を」という命令です。それに従わなかったら殺されたほどです。

 日本でも戦前では、宮城(皇居のこと)遥拝といって、天皇がいるところを拝むことが命じられ、そこにいる天皇をいつも心にて見つめることが要求されました。

 このようにいたるところで、しかもはるかな古代から、人間はいつも何者かを指し示して「この人を見よ!」と言い続けてきたのです。

 これに対して聖書では、神の戒めを守れ、ということが一貫して命じられてきました。神の言葉に聴け!という命令も同様です。聴いて守れということです。しかし、もっと後の時代になるまで、旧約聖書のなかでも、神を見よ!といった命令は言われていていない。それはもし直接に神を見ることになれば、人間はその汚れのために殺されるというほどに神は隔絶した遠い存在であったからです。

 しかし、旧約聖書のなかでもキリストの時代に近づいた時、キリストより五百年ほど前になって現れた預言者の言葉にはっきりと私たちは何に注目すべきであるかが言われてきました。

地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。

わたしは神であって、ほかに神はないからだ。(イザヤ書四十五・22

 キリストが来られてからそうした状況が根本から変わったのです。それは、遠くて目に見えない存在であったお方でなく、誰でも求める者の近くに来て下さる。仰ぐ者には見えるようにしてくださる。

 福音とは、いまも生きているイエスを仰ぎ見ることであると記されています。

ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。(口語訳 Ⅱテモテ書二・8

 つぎにこの箇所で告げられている重要なことは、キリストとは、聖霊を与える方だということです。

わたしは、水で洗礼を授けに来た。・・しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、「(神の)霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」とわたしに言われた。(ヨハネ一・3134

 このように、ヨハネは水で洗礼を授けたのに対して、キリストは聖なる霊(神の霊)を注ぐお方であるとはっきり証言しています。祝福の最大のこととは、聖霊を与えられることです。キリスト教では愛が最も重要であると言われているのはだれでも知っています。しかしそのような愛は人間が生まれつき持っているものでなく、聖霊が与えられて初めて人の心に生じるとされています。使徒パウロが言っているように、愛とは聖霊の実であるからです。

 また主イエスが最後の夕食のときに、あなた方に残していくととくに約束されたのは、「主の平安(平和)」でした。人間の持っている平和でなく、神からのみ訪れる平安こそキリストがこの世に残される最大のものだったのです。そしてその平安もまた、聖霊の実として与えられるというのです。

 最後の夜に語った主の平安の重要性は、またイエスの誕生のときにも語られていました。それは、初めてイエスが誕生したことを、羊飼いたちに知らせたみ使いたちの讃美に現れています。

いと高きところには栄光、神にあれ

地には平和(平安)、御心に適う人にあれ!(ルカ二・14

これは、天使たちの讃美であったのですが、神が私たちに望んでおられることが明確に示されています。人間がよいこと、力あること、美しいものなどあらゆるよいものを人間に帰することなく、神に帰すること、それはキリスト者の基本姿勢です。

 人間が自分のしたことを自分がやったのだと誇るとき、競争が生じ、憎しみとか妬みが生まれ、そのようなことのできない者を見下すようになります。またそうした目立つことを成し遂げる力を持たない者は、自分の存在に希望が持てなくなります。

 しかし、すべてを神に帰する心、神に栄光を帰する姿勢のあるところには、必ず神からの平安(平和)が約束されているということをこの讃美は示しています。


 

 


リストボタン人間の大切さを見つめる流れ

 ヨーロッパの歴史のなかで、人間が持っている自由、生命、権利を大切にする考え方は、つぎのようないくつか目立った規定となって現れてきた。

 イギリスの権利の章典(一六八九年)は、名誉革命のときにできた法律であった。ここには、当時の王が国会を無視して勝手に、法律を守らず、実行もしないとか法律が効力を停止するとかの横暴をなしていたり、かってに金を集めたりしたことから、そうした権力の乱用をさせないようにし、市民の権利を守ろうとする内容を持っていた。それは、王に請願する自由、選挙の自由や議会での自由な発言を保障するものであった。

 さらにそれからおよそ百年後に出されたアメリカの独立宣言(一七七六年)においては、つぎのような内容が宣言された。

われわれは自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天よりの権利を与えられ、そのなかに生命、自由、および、幸福の追求が含まれることを信ずる。

 ここに、人間が造物主(神)によって平等に造られたということが基本になっているのがわかる。それは神が愛であり、正義の神であるからこそそのようなことが主張できるのである。ギリシャの神々や日本の神々のような不正や欺きをする神々ならば、すべての人間を平等に創造するなどということが初めから考えられない。

 なお、このアメリカの独立宣言の表現を少し変えて、福沢諭吉が「天は、人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉を述べて、広く知られるようになった。

 そして、日本国憲法にあるつぎの規定は、右にあげたアメリカ独立宣言に記されたものとほとんど同じ内容だとわかる。

 すべて国民は個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その羊飼いの国政の上で、最大の尊重を必要とする。(第十三条)

 フランスの人権宣言(一七八九年)では、その前文に至高の存在ということで、キリスト教的表現を薄めているが、「神の前で、そして神の護りのもとでの宣言」というかたちをとっている。

国民議会は、至高の存在の面前で、かつその護りのもとに、つぎのような人および市民の権利を承認し、かつ宣言する。

 そしてそのはじめの重要部分において、つぎのように人間の尊厳を述べている。

・人は、自由かつ権利において平等なものとして生まれ、かつ生存する。・・(第一条より)

・あらゆる主権の原理は、本質的に国民に存する。(第三条より)

 このように、国家の制度として、歴史のなかで次第に人間はだれでも平等に創造されており、したがって命を護り、自由、幸福追求においても同じような権利を持っているとされてきた。

 これらの歴史的に重要な人権の宣言を見てくると、太平洋戦争のあとでつくられた日本の憲法がこれらの延長上にあるのがわかる。国民主権、基本的人権の尊重といったことはこの憲法で明確に記されている通りである。

 そしてその上に、生命、自由、幸福追求の権利を護るために、戦争放棄ということが記されている。戦争とは、まさに自国だけでなく、相手国の人間の生きる権利、自由を奪い、無差別な大量殺人によって幸福を破壊していくことだからである。

 国家として武力を持たない、戦争に加わらないということこそ、こうした人間の生きる権利とか自由、幸福を破壊する戦争を決してしないという固い決意を表明したものである。日本の平和憲法は長い人類の歴史の歩みのなかで、到達した帰結なのであって、それを重んじることは歴史の必然の流れに沿ったことであり、歴史を導く神の御意志にかなったことなのである。


 


リストボタン問コーナー


1)新約と旧約とは何を表すのですか。

聖書には、新約聖書と旧約聖書とがあり、聖書が万人に知られているように、旧約とか新約という言葉も広く知られています。しかし、その意味になると、どうもわかりにくいと言われることがあります。

 契約とは、約束という意味ですが、ふつうは家などの売買とか人を雇うときに使われています。だから、それが聖書のように心の問題に関わる書物で重要なものとして出てきても、どうも私たちにはピンとこないのです。

 聖書では、旧約とは、神がとくに選んだイスラエルの民に与える恵みの約束のことです。その恵みを神が与え続けるために、十戒という特別な戒めが与えられたのです。

 新約とは、新しい契約のことで、それまでの古い契約(旧約)が、イスラエルの民という特別な民と結んだ約束であったのに対して、あらゆる人間、民族に与えられた恵みの約束なのです。それは神からの一方的な恵みの約束だと言えます。その根本の内容としてキリストの十字架による罪の赦しがあり、赦された者が神に従って生きるために聖霊が与えられるということなどがその内容となっています。

2)聖書はだれが書いたのですか。

 一言で言えば、神がさまざまの人を選び、働きかけて書かせたものだと言えます。

 むかしは、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記などはモーセが書いたと長く信じられてきましたが、現在では、さまざまの理由からそうでないことがはっきりしています。

 詩編もダビデの作と記されているのが多くありますが、内容からもダビデ時代以降のものだとわかるものもあり、ダビデ以外の名が記されている詩もあります。これも有名、無名の多くの詩人が、神への信仰によって書き残したものです。それは神がそうした内容を書くように導いたと受け取ることができますし、また現在の詩編以外にも多数の詩があったのを現在のように一五〇編に限定したさいにも、それを選んだ人たちは信仰により、神に導かれながらその作業をすすめたものが今日の旧約聖書に収められていると考えられます。

 エレミヤ書やイザヤ書の預言書も、エレミヤとかイザヤという名の預言者が書いたものがもとになっていますが、それ以外に名の知られていない信仰の深い人が神からの言葉を受けてそこに追加して、全体としてエレミヤ書とかイザヤ書という名で伝えられてきたものもあります。

 新約聖書では、ルカ福音書とかパウロのローマの信徒への手紙、ガラテヤ書といった手紙のように、はっきりとその著者がわかっているものもありますが、書かれている内容や用語などからだれが書いたか確定できないのもあります。

 しかし、旧約、新約の聖書を通じて、だれが書いたかよりも、何が書かれているか、私たちに何を語ろうとしているのかがはるかに重要な問題なのです。

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。(Ⅱテモテ書三・16

 この手紙が書かれたときの聖書とは、旧約聖書しかなかったので、この言葉は直接には旧約聖書について言われています。しかし、新約聖書についても、そのままあてはまる言葉です。

 聖書とは神の霊の導きによって書かれたゆえに、最初に述べたように、その著者は神であるということができます。だからこそ、この書物だけが、数千年を越えてその力を全く失うことがなく今日までその影響が続いているのです。

(ときどき、聖書について右のような質問を受けることがあります。簡単に答えることはむつかしいのですが、できるだけわかりやすく、簡単な説明を今後もときどき掲載したいと思っています。)


 


リストボタンお知らせ

Sさんの転居

 本文に書きましたように、長い間私たちの集会の支えとなっていただいた、S姉が京都に転居されました。数々の主にあるご奉仕を感謝です。主が新しい地においても、ながく祝福と導きを与えて下さいますように。

○八月二七日(日)には、静岡聖書集会の責任者であられる、S.I氏ご夫妻が来徳して、主日礼拝講話を担当して下さいます。

○無教会のキリスト教全国集会が今年の十一月四日(土)~五日(日)に東京後楽園会館で開催されます。
 


リストボタン歌の中から

俳句の本からいくつか心にとまったものをあげてみます。句の後の文は筆者(吉村)の感じたことです。


・降り注ぐ 主のみ恵みや 蝉時雨(せみしぐれ)

・風鈴や こんな平和な 風の音

・ふれ伏して 主に祈りたき 花野かな      (以上、山下茶亭作)

○セミのなかでも、とくにヒグラシの独特の静けさを帯びた鳴き声は、樹林のなかにあって神の恵みが降り注ぐように感じられる。

 目には見えない風、しかしその風が風鈴の澄んだ響きを生み出す。聖霊は風のようにと主は言われた。平安を生み出す聖霊が風鈴の音から思い出される。

 最後の句は、作者がイエスの歩んだガリラヤ湖畔の野生の花に接して造った句で、それを病床にある友に送ったが、そのあとまもなく天に召されたため、最後の俳句となったという。イスラエルでなくとも、山に歩き、樹林のなか、野草の花が点在する自然のたたずまいのなかにあるとき、私たちはその背後にある主への祈りへとうながされる。


 


リストボタン徳島を去るにあたって

           S姉の感話(2000.7.23日主日礼拝後)

 みなさんの大切な感話の時間をいただきましてありがとうございます。本当に突然こういう話をするのに私もずいぶん考えたり迷ったりしました。

 じつはこのたび、現在は大阪にいる息子の家族と同居することになり、京都にいくことになりました。1月おわり頃にそういう話がありまして、ちょうどそのころ私は風邪をひいてたいへん長引いていました。たいへんびっくりしました。どう返事したらよいかわからないほどでした。とにかく自分のからだもふだんと違うと感じて、この申し出は考えてみるべきではないかという思いになりました。

 しかし、考えれば考えるほどたいへんなことで、もし、そのようになると主人が言うには、この集会場の土地も今住んでいる場もみんな売却しなければ向こう(京都)へ行けない。私たちに財力や余力があれば別の方法があるだろうが、その余力がないので、それしかない。家族と同居するという問題はまったく私たち家庭の事情でプライベートな問題てすが、この集会場の問題はたいへん大きい問題となって残りました。それはここが長い間、神様が用いて下さった土地であっからです。そのことを考えると、どうしても私たちの一存でどうするかを決めることはできませんでした。

 それからちょうど一か月ほどたったとき、私はインターネットメールをしていますので、ちょっとメールを開けましたら、Yさんからの「きょうのみ言葉」というメールが入っていました。そのみ言葉の内容は、「これまで一度も通ったことのない道であるが、あなた方の行くべき道はわかる(ヨシュア記三・4)」です。それは、これから行くべき道を通っていくとき、神様の契約の箱を前にしていくことは、神の言葉を前にしてそのみ言葉に従うとき、神様から必ず新しい道を示して下さる、そういうお約束の言葉でした。もちろんYさんには当時まだ何にもいっていなかったのですがそれが答だと私にはわかりました。

 それでも私はだれにも言えませんでした。これからは、どうしたらいいか、主人とも相談して、まずYさんに相談することを決めました。それが四月のおわり頃でした。Yさんが来て下さったので、その事情を話しました。家庭の事情はプライベイトな問題だが、集会場の問題はとても重要な問題なので、すこし考えさせて下さいとのことでした。そしてその結果は、Yさんはこの集会場のことをとても大切に思っていましたから、いずれはこういう時がくると考えていて、そのために、退職金、献金などそのために貯えていたお金を集めてこの場を買い取って下さるということになりました。私たちにとってはそれは感謝ですが、それではたしてよかったのか、それでよいのか、私の選択がよいのかとなお悩みました。

 そうしていましたら、今度私は思いがけなく病気になって三週間ばかり入院しました。そのときに私は一人になっていろいろ考えていました。毎朝4時に目が覚めて、五時になると私は窓を開けました。とてもあのとき涼しい風がふいてきましてひょっと讃美歌の「朝風静かに吹きて・・」(讃美歌30番)というのはこういうことかなと思ったし、近くの公園から小鳥の声も聞こえてきましたし、神様への思い、清らかな神への思い・・という讃美歌の言葉があっと思い、私は、それまで与えられたみ言葉が答だと信じながらなんで今まで迷ったり悩んだりしたか、神様は私のことを一番ご存知でした。

 そういう迷ったりしていた弱い私を神様は、もう一度念を押されたわけです。そして私の心は決まりました。とても平安になって退院することができました。

 それで今日初めてみなさんにご報告することを神様に導かれました。全く知らないところにいくので全然不安がないとはいえませんが、神様のみ言葉に従っていくときには、どんな所でも神様は新しい道を開いて下さってそこを私に下さると言うことを私はだんだんと信じることができました。本当に今まで言えなかった理由はそれでした。それともうひとつ皆さんにこのことを言うのはとてもつらくて、そのことが言えませんでした。時間的には、つきあいの長い方、短い方もいますがみんな大切な兄弟姉妹でした。そういうことを思いますと私はとてもどのように話したらいいかわかりませんでした。こんな粗末な家でいろいろ不便なことがあるのに、みなさん不満もおっしゃらないで、かえって支えて、私のゆきとどかないところもゆるしてくれました。

 本当に感謝はつきませんが、このことの報告と皆さんに長い間お世話になったことへの感謝を言わせて頂きました。皆さん本当にありがとうございました。


 


リストボタン休憩室

○雲

 真夏の風物詩は積乱雲(入道雲)です。水平線に接してむくむくと盛り上がる積乱雲のすがたは、夏らしさとともにふしぎな力を感じさせるものがあります。

 日本人にとっては、雲とはただ、そのような眺めの対象であり、暑さをやわらげてくれる夕立を生み出すものであり、からからに渇いた畑を潤してくれる恵みの雨をもたらすものと感じます。

 しかし、雲は聖書においては、たんに雨とか日陰になるなどといった気候のことだけにとどまってはいないのです。

そして祭司が聖所から出たとき、雲が主の宮に満ちたので、祭司たちは雲のために立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。そこでソロモンは言った、「主は日を天に置かれた。しかも主は自ら濃き雲の中に住まおうと言われた。(列王記上八章10~)

 このように、主の宮に満ちるもの、そこに神が住むと言われているほどです。私たちが雲を見るとき、そこに神が住むというようなイメージは全くないはずです。ここにも、古代の聖書の民の感じ方が私たちと相当異なっているのを感じます。


 また、旧約聖書の出エジプト記19章とか20章には、有名な十戒を神から与えられる状況が書いてあります。そこにも雲が神の臨在の象徴であることを示すつぎのような記述があります。

主はモーセに言われた、「見よ、わたしは濃い雲のうちにあって、あなたに臨むであろう。それはわたしがあなたと語るのを民に聞かせて、彼らに長くあなたを信じさせるためである」。モーセは民の言葉を主に告げた。

そこで、民は遠く離れて立ったが、モーセは神のおられる濃い雲に近づいて行った。

 命を支える水をもたらす雲、無限に高い空に浮かぶ雲、その限りない変化の有り様、そして神の深さを示すかのように包んでしまう雲、そこに旧約聖書の人たちは、神を思い、神の臨在を感じたのがうかがえます。


 


リストボタン返舟だより

○来信より

・・以前から、本当に苦しくて、もうダメかなと思うとき、「はこ舟」誌が届き、勇気を与えられてなんとかやってきました。一つの試練が終わると、少し休みがあって、神様は必ず、次の試練を下さると思っています。-----ときどきどうしようもなく、苦しくなります。しかし、キリストとともにくびきを負うことは負いやすく、荷も軽くなると約束されているので、イエス様を信じて生きたいと思います。苦しいとき、いつもこのように、神様からはげましていただけることは大きな幸いです。(関東地方の読者より)

・神は愛する者を鍛錬されるというみ言葉を思い出します。私たちが苦しむのは、神から見放されているためでなく、神が愛して下さっているのだということを。

○韓国の朴  氏からの来信です。

 昨日(八月一日)、無教会全国集会(韓国)を終わって帰りました。約七十名の参加者が集まっておもに聖書の学びを行いました。終わりの感話会のときに、徳島聖書キリスト集会のことを少しですが紹介することができました。集会に集うことがいかに大事であるかをもう一度感じることができた徳島の三週間でした。・・(中略) いつか機会がありましたら、こちらの兄弟と一緒に徳島の集会に参加できることを願っています。

 また会える日を待ちつつ集会の皆様の上に主イエス・キリストのよき導きがありますよう、お祈りいたします。

 ・朴 氏は、今年七月に再び韓国から徳島大学に三週間ほど出張で来られ、その間、私たちのキリスト集会に参加されて、主にある学び、礼拝を共にすることができました。国は別であって、遠くに住んでいても、主にあって一つに結ばれていることの恵みを感じました。右のように、韓国でも毎年全国の無教会のキリスト者が集まって全国集会が行われているとのことです。