20019月 第488号・内容・もくじ

リストボタン主の平安

リストボタン無限の正義

リストボタン復讐と祈り

リストボタン聖書における祝福と幸い

リストボタンパウロの伝道の心

リストボタンことば 内村鑑三、 ウ-ルマン、 キング牧師

リストボタン休憩室 シュウカイドウ、松虫)

リストボタン返舟だより

リストボタンお知らせ



st07_m2.gif主の平安

 キリスト教が与える最大の賜物のひとつは、主の平安を与えられることだと言えよう。自分の罪赦され、しずかに語りかけて下さる主の愛を感じ、揺れ動く状況にあっても心の奥深い一点に、ある光のようなものを感じること、どんなに目に見える世界が動揺しようともどこか静かなものがある、と実感させて頂けることである。
 主イエスは言われた、
「私は平安をあなた方に残し、私の平安をあなた方に与える。私はそれを世が与えるような仕方であたえるのではない。」と言われた。(ヨハネ福音書十四・27
 この世は、武力とかでそうした平和や安全を得ようとする。しかしそれは新たな不安と恐れを生み出すだけだ。
 本当の平安は、主への信仰の賜物として与えられるのであり、宇宙の創造主である神とキリストからくる。

st07_m2.gif無限の正義
 アメリカは今度のテロ報復のための戦争を「無限の正義」と名付けた。しかし、その作戦によって、本来は今度のテロに無関係な人の命をも大量に奪うことが考えられるにもかかわらず、それをもって、しかもそれが全世界のどこまで拡大していくか誰も予測できないような重大な事態となる可能性があるにもかかわらず、そのような作戦を行っていくことは、それは「無限の愚かさ」であり、「無限の悪」に変身していくだろう。
 かつての日本もまた、中国やアジアへの戦争を「聖戦」と言っていた。しかし、それはたしかに、数しれないアジアや日本の民衆を殺傷していく、無限の愚かさとなり、無限の悪となっていった。
 今回のようなテロが恐ろしい悪であることはだれしも異論がない。しかし、それに対して私たちはこのような戦争を起こすことに対して強く反対する。
 どこまでも正しいといえること(無限の正義)は、キリストが教えたように、神の裁きにゆだね、武力で報復することなく、敵のために祈る心にある。



st07_m2.gif復讐と祈り

 現在の世界がアメリカの方針によって大きく揺り動かされている。六千人に及ぶと言われるニューヨークの高層ビルの崩壊に関する事が毎日のように報道されてその報復としての戦争が近いうちに開始されようとしている。
 アメリカ大統領は敵に対して国民の憎しみをあおり、報復の戦争だと言っている。そして長期戦争になるから覚悟せよという。敵国とみなしている、アフガニスタンは国土の四分の三が標高四千メートルから七千メートルもある山岳地帯であり、かつてソ連は十年ほどもかけても目的を達成できずに、撤退した。
 今回のアメリカの攻撃にしても、相当に困難な戦争になるとわかっているのであり、はじめから長期になるとアメリカ大統領が言っているほどだ。
 長期になればなるほど、一般の人たちが多く犠牲になる可能性が高くなる。憎しみは憎しみを生み、報復は報復を生みだす。そしてどちらの側も自分たち以外の国の賛成と援助を求めて必死になる。そうしてできたつながりはますます増えていく。戦争を続けていくと、こうした敵対感情は増えていく一方となるだろう。捨て身で今回のような危険なテロが原子力発電所になされるなら、チェルノブイリ原発事故で推察できるように、おびただしい被害が生じる。
 あの事故によって、一千二百キロも離れた北ヨーロッパや西ヨーロッパにも多量の放射能を持った物質が降り注いだ。わずか一基の原発によって北半球の相当部分が放射能で汚染されるほどなのであって、日本のような狭いところで原発の事故が起こったら想像を絶する事態となるだろう。
 福井や福島などの原発に今回のような飛行機によるテロで爆発が生じると、日本の広大な領域が放射能で汚染され、その後も相当の年月にわたって住めなくなるだろう。
 報復戦争を押し進めると、命がけで捨て身でテロを実行しようとする人たちをさらに押し進めるようになり、原発を攻撃するということまでやりかねない。。
 こうして本来何にも関わりがなく、まったく敵対感情など持ったこともない人たちが互いに敵となり、殺し合うことを平気で実行するようになる。
 日本も軍事面で具体的に協力すると言い出した。敵には敵対心をあおって憎しみを増大させて、その憎しみの心をもって、戦争に行く。
 報復のための戦争ということがどんなに、悲惨な事態を招いたか、歴史を見ればすぐにわかるのである。
 例えば、第一次世界大戦は、一九一四年、オーストリアの皇太子夫妻がセルビア人に暗殺されたということがきっかけで始まった。それに対して、オーストリアがセルビアに宣戦布告して、第一次世界大戦へと拡大していったのである。
 ヨーロッパを巻き込んだ、四年間の激しい戦争の結果、戦死者は一千万人、病気や傷を負った人々は一千万~三千万人、一般の市民の死傷者は五百万人という膨大な犠牲を生み出してしまった。
 皇太子夫妻という二人の命への報復としてなされた戦争から、このように、おびただしい犠牲が広大な領域でなされた。もし、その場合、報復戦争でなく、忍耐強い話し合いをいろいろの国々と熱心になされていたなら、そうした無数の人々の死や苦しみ、悲しみは避けられたのである。
 こうした歴史上の例をみても、いかに報復のための戦争が大きい犠牲を生み出すかがわかる。

 私たちの世界では、個人的な場合や国家の場合でも、悪に対しては悪でもって報復するということが当たり前のように行われている。悪に対処するとき、このような憎しみと敵対心、武力攻撃といった方法しかないのだろうか。
 キリスト教の経典である聖書にはまったく異なる道が記されている。

我々の戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪のさまざまの霊を相手にするものなのである。(新約聖書・エペソ書六・12

 この言葉でわかるように、私たちキリスト者の戦いは、目に見える血肉でない、つまり特定の人間や人間の集団ではない。そうでなく、目には見えない悪のいろいろな霊だと言われている。
 この深い洞察は使徒パウロがキリスト(神)から受けたものであった。
 敵とは、自分たちに危害を加える特定の人間や組織、そして国家であるというのはふつうの人にとっては当たり前のことだ。そしてその敵に対しては、武力を用いて、戦いを勝利するのだと考えている。
 この当たり前と思われてきた考えや感情を根本から変えるたがキリストの福音である。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
あなたがたの天の父の子となるためである。(マタイ福音書五章より)

 このように、敵に対して、憎しみを燃やして、復讐するのでなく、敵のために祈れと言われている。それが敵を愛することに他ならない。
 今回のアメリカ大統領の考えのように、敵を憎んで殺してしまおう、それをかくまっている国家そのものも大がかりな長期にわたる攻撃によって滅ぼしてしまおう、そのためにはまったく無実な人々を殺傷するのもやむを得ないといったアメリカの大統領とかそれを援助しようとする多くの国々の代表者たちの考えはキリストの言われた精神とはまったく異なる。
 その代わりに、キリスト教を信じる者として、国民すべてが亡くなった人とその家族たちのために悼み、あのようなひどい悪をなした人たちの心が変えられるようにとの祈りを呼びかけ、国際的な話し合いや武力を決して用いない方法による解決方法を真剣に模索するなら、いま、生じようとしている戦争、その影響は場合によっては全世界にも波及しかねないほどの重大事態、そこから無数の人たちが苦しみ、殺され、傷ついていく、そのようなことを防ぐことができるのである。
 大量の殺人にほかならない戦争をも決してしないという前提に立って、物事に対処すべきなのである。そうでなければ、報復戦争をして無実な無数の人たちを殺し、傷つけるならそれこそテロの一種であり、今回のビル破壊をした人たちと同列の罪にある者になってしまう。
 キリスト者(英語ではクリスチャン)とはキリストにつく者という意味である。キリストにつく者なら、当然、キリストが教えられたことにも従おうとする者のはずだ。
 そしてキリストの精神こそは、だれをも殺さず、神の力を待ち望みつつ、悪人を殺すのでなく、悪人を支配している悪そのものが滅ぼされて、その人間が、変えられるようにとの願いを持たせるものだ。
 使徒パウロもつぎのように、キリストの真理を述べている。

だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。
愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せよ。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてある。
「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
(新約聖書・ローマの信徒への手紙十二章より)

 ロシアを代表する作家、思想家であり、宗教家でもあったトルストイの代表的作品、「アンナ・カレーニナ」という大作の巻頭にこの箇所からの引用が書かれてある。
「復讐は我にあり、我これ報いん」
 というのがそれである。
 トルストイはなぜ、この大著の巻頭にこの言葉をあげたのだろうか。それはすくなくともいかなる人間の考えをも越えて、神はすべてを見通し正義に反することには裁きを与える存在であることを言いたかったのであろう。
 彼は、悪に対して、武力をもって報復することに対して、徹底して反対した。それはキリストの根本精神に反することだと一貫して主張していた。トルストイは彼のいろいろの著書でこうした考えを聖書に基づいて強い調子で述べている。その一部をつぎにあげる。
 キリストは簡単明瞭に言っている。
「あなた方は武力や暴力を用いることで、悪をなくすることができると考えている。しかしそうしたことはただ、悪を増やしていくだけである。あなた方は数千年の間ずっと悪によって悪を滅ぼそうとしてきたが、滅ぼすどころか、増やしてきたではないか。
 悪を本当に滅ぼす道は、ただ一つ、それはいっさいの差別なしに、万人に対して、悪に報いるに、善をもってすること、これである。
 私が語り、行う通りにせよ、そうすればそれが真理かどうかがわかるであろう」と。
 しかも、こう言っているだけでなく、みずからその全生涯と死をもかけて悪に対する無抵抗というこの教えを実行しているのである。(「わが信仰はいずれにあるか」河出書房新社刊 トルストイ全集第十六巻29p
 このトルストイの聖書に基づく主張に共感したのが、インドのガンジーであり、さらにそのガンジーに影響を深く受けて、実践したのが、アメリカのマルチン・ルーサー・キング牧師であった。キング牧師は、あらゆる差別、暴力に対しても決して、暴力でもって復讐せず、一貫してキリストの言葉にあるように、祈りと神の力に頼ること、裁きは神がなされるという信仰によって、悪に対処してきた。そしてそれが大きい運動となって全アメリカに伝わっていったのである。
 キリストは「誰に対しても悪に、悪を返してはならない」と言われた。それは悪に対して悪をもって報復すれば、ますます悪の力ははびこりその悪に多数の人たちが飲み込まれていくことにつながるからである。しかし、神の力とその裁きを信じて、悪に対して善をもって対処するなら、そこで悪の力にすでに勝利したことになる。ここにこそ、悪に対するための永遠の真理がある。
 真理は、その時代の多数の人が認めるとは限らない。キリスト自身が、当時の宗教界、社会的な指導者たちによって憎まれ、ついに十字架上で処刑された。
 それ以後の長い時代においても、キリストの真理はきわめてしばしば踏みつけられ、無視されてきた。
 それにもかかわらずこのように少数の人によってその真理は保持され、伝えられ、信じられてきたのである。真理はそれ自身の力によってどんなにこの世がまちがった方向に押し流されていくようにみえても、なお、不動の岩のように存在し、この世の奥深いところを、時代を越えて流れていくのである。
 私たちはそうした真理をとるか、真理に反した流れに押し流されるかのいずれかを選ばねばならない状況にある。



st07_m2.gif聖書における祝福と幸い

 私たちが最も求めているのは、「幸福」であり、「幸い」です。どんな人でも、わざわざ不幸を求めてはいないと言えるからです。例えば、人間にはきわめてさまざまの行動をする人がいますが、わざわざ病気になる人、いやな皮膚病をもらいたいとか、エイズのような病気になりたいなどと願う人はありません。それは、そんな病気になるといかなる意味でも幸福ではないとだれもが感じるからです。
 人間のいろいろの行動はみんな、その人にとっても一時的な幸いだと感じるものを求めた結果だと言える。勉強するのもよい会社に入りたい、研究するのもそこで知られるようになりたい、安定した生活がしたい、娯楽も旅行などもみんなそうすることで一種の幸福感があるとそれぞれの人が感じるからです。
 幸福とか幸いはあらゆる人があらゆる方法で求めているように見えます。しかし幸福ということについて大多数の人たちにとって共通しているのは、健康、お金、よい家族たち、よい職業と、よい友達などだと思われます。
 こうしたものが「幸福」であるということは、小さな子供たちでもわかります。病気になること、家族が仲たがいしていることなどだれでもいやなことだからです。
 しかし、このような幸福はだれもが求めているものであるが、それはきわめて不平等に与えられているのがわかります。健康についても生まれつき病気の人、生まれてから自分の足で歩いたことが一度もない人もいます。生まれたときから病気で子供のときにすでに命を終える人もいます。 他方、何十年と病気の苦しみを知らないような人もたくさんいます。
 また、金にしても何億という資産を持っている人も多くいる一方では、その日の食物すらないような人々が世界には数しれずあります。
 家族関係にしても、生まれてから母親も知らない子供がいて家庭の味わいも知らずに大きくなったり、肉親から打たれ、苦しめられたりする子供もいれば両親や兄弟のいるあたたかい家庭に育つ人もいます。 
 まったくそれは、いかに見ても平等ではありません。このような運命的な差別ともいうべきことが、ふつうの「幸福」にはつきまとっています。そのために、英語の幸福にあたる言葉「happy」という言葉は、もともと、hap (運)という語から作られているほどです。幸福とは運だ、生まれつきだ、運が悪かったら生涯幸福ではありえない、事故が起こるとかガンになって途方もない苦しみを味わわされるのも運だ、というように考えていたのがうかがえます。

創世記における祝福

 このような、ふつうの幸福についての考え方や感じ方に対して、聖書にいう幸福とか祝福はどのような意味を持っているだろうか、最も人類に大きい影響を与えてきた聖書はこの問題についても一般の考えとはまったく違った内容を私たちに示しているのです。
 聖書は祝福と幸いをテーマにしている書であるとも言えます。聖書の一番初めから祝福という言葉は重要な意味をもって現れるからです。
 祝福という言葉はもともと、「よき力を与える」という意味だといいます。
* 神が海や空の生物を産めよ、増えよと言って祝福されたというのが、聖書において現れる最初の「祝福」です。この祝福は、確かに、生き物たちに産み増える力を与えたのがその内容となっています。
 また、天地を創造されたとき、最初の創造されたものは、闇と混乱のただなかに創られた「光」であったのです。

初めに、神は天地を創造された。
大地は混乱を極めた状態であり、闇が深淵の上に立ちこめていて、激しい風が吹き荒れていた。
神は言われた。「光あれ!」こうして、光が存在するようになった。
神は光を見て、良しとされた。(旧約聖書・創世記一章より)

 このように、最初に創造された光も、その後の創造されたものも、神はみな「良しとされた」の言葉があります。完全な神の目からみて良きものとして創造されたということは、すなわち、祝福された状態として創造したということでもあります。
 また、創世記の第二章には、第七日(安息日)を祝福したといわれています。それも、第七日に特別な力を与えたために、その第七日を守る者にも特別な力が与えられると考えることができるのです。
 たしかに旧約聖書においても、イスラエル民族が長い歴史のなかで、周囲の大国による侵略や攻撃、捕囚などによっても滅び去ることなく、続いてきたのは、そうした大国の攻撃にも滅びることのない、ある力を与えられてきたということであり、それは、一つには安息日を厳守しようとしてきたからだと言えます。
 そしてこの安息日の精神がキリスト教時代になってからは、主イエスの復活が日曜日になされたことから、日曜日へと移って、その日曜日が旧約聖書の安息日と同様なものとなっていきました。そして日曜日をも確かに神は祝福され、日曜日を守って礼拝に捧げる人たちが核となってキリスト教は続いてきたとも言えるのです。
 つぎに、創世記には人間の創造のことが書いてあります。彼らにも祝福が与えられ、産み増やす力を与えられ、ほかの動物たちをも支配する力を与えられたのです。それだけでなく、人間が最初に創造されたところは、エデンの園と言われています。
 そのエデンの園とは、どんな所であったでしょうか。

主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせた。・中ヲ エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。(創世記二章より)

 このように、最初の人は何も努力もせずしてはじめから食べるのにふさわしい果実を豊かに与えられ、さらに見るにもよい美しいものを与えられていたのがわかります。水もエデンの園の源流となって世界をうるおす四つの大河となって流れて出ていたと記されています。これは実に大いなる祝福された状態です。
 聖書が言おうとしていることは、この宇宙、自然や動物の世界、そしてそれらの創造の完成として創造された人間においても、本来はすべてが祝福されたものとして創られたのだということなのです。
 しかし、そうした完全な祝福された状態を、人間が自ら破壊し、その祝福を捨て去ったというのが聖書の言おうとしているところであり、祝福から見放された人間がいかにして再び祝福を与えられるのかということが聖書のテーマとなっています。

 その祝福の回復への道を、創世記において、アブラハムという一人の人間を通してくわしく述べています。
 それはメソポタミア地方に住んでいた、多くの人たちのうちの一人でしかなかったアブラハムの受けた祝福への道です。
 彼が受けた祝福は、まず神からの呼びかけを聞き取ったこと、そしてその声に従っていったことから始まっています。
 そしてこの祝福が聖書全体を流れているのです。もし、アブラハムが神からの呼びかけを聞きながら、それを受けなかったなら、彼が受けた祝福は消えていったのです。
 祝福の出発点は神からの一方的な声を聞き取ることだといえます。そして第二段階は、その声に従っていくことです。
 つぎにアブラハムがどうしたか、彼は神の言葉に従って旅立って行った。創世記の十五章によれば「わたしは、あなたをカルデアのウルから導きだした」とあります。ウルとは、メソポタミア地方、現在のイラクという国の領域にあり、ユーフラテス川の下流です。 そこから、目的地のカナンまでは、途中でその川の上流のハランという所を経由して行ったために、直線距離にしても千五百キロほどもあるのです。
 なぜ、アブラハムだけに呼びかけられたのか、なぜ、ほかの多くの者には呼びかけがなかったのか、アブラハムはメソポタミアに住んでいた多くの人間のうちの一人にすぎないのです。
 これはアブラハムが熱心であったとか、まじめであったとか、信仰深かったなどというのではないのです。そうした理由は全くあげられていないからです。
 それは、ただ、神の選びであり、ご計画なのです。
 このとき、アブラハムに語りかけた神はつぎのように言われました。

主はアブラム(アブラハムのこと)に言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。
あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の民族はすべて、あなたによって祝福に入る。」
アブラムは、主の言葉に従って旅立った。(旧約聖書・創世記十二・14より)
 
 アブラハムがこの時、神の言葉に従わなかったら、彼は祝福を受けず、祝福の基(もとい)となることもなかった。聖書で言われている祝福とは、このように、神の言葉に従っていくということと結びついているのがわかります。
 アブラハムが受けた祝福は彼自身の最も深い幸いとなり、喜びとなり、生きる力となったのはいうまでもありませんが、その後に続く無数の人々をうるおし、ほかのものでは全く与えられない心の平安と力を与えられてきたことがわかります。
 アブラハムが、当時はだれも知らなかった、全世界、そして宇宙をも支配しておられる唯一の神がおられるということを示され、その神を信じて、その神の言葉に従っていったというその生き方は、後にキリストが現れてから、キリスト教という形になって受け継がれています。そして確かに、地上の民族はすべて、アブラハムが持っていたのと本質的には同様な信仰によって祝福されていったのです。キリスト教は、全世界のおびただしい言葉に訳されて、世界のいたるところに入って行ったからです。
 しかし、このアブラハムはこの祝福を安易に受け取ったのではありません。彼は、すでに述べたように、現在のイラク地方、ユーフラテス川の下流地方に住んでいたごくふつうの人であったと思われます。そのアブラハムがともに住んでいたり、交わっていたいろいろの人たちのなかからただ一人、唯一の神からの呼びかけをはっきりと聞き取り、従っていく、その過程はたいへんな苦しみと迷い、悩み、悲しみがあったことと思われます。
 なぜ、住み慣れた故郷を離れるのか、そこでは家族も友人も、慣れ親しんだ郷里の自然、風土がある。そこをどうして離れる必要があるのか、目的地はどんなところかも全くわからない。だれも知らないような遠い所だからです。出発するときまでのアブラハムの心の迷いはどれほどだっただろうか。どれほど遠い所かも最初はわからなかった。行くところを知らずして、アブラハムは出発したのです。それが実に千五百キロほどもある遠い所、砂漠地帯を超えて行かねばならない所であったのです。そして、そこにはるばる砂漠や乾燥地帯を超えてやってきて、初めて神から「あなたの子孫にこの土地を与える」との言葉がアブラハムに与えられたのです。
 その途中も長い長い旅路において、きびしい暑さ、砂嵐など気候の変動による予期しない苦しみ、飲み水がない、食糧の確保などたいへんであったと思われます。そしてそのような未知の遠いところに行くにあたって、共に行った少数の人々からも強い反対や不安、攻撃が投げかけられたことと思われます。
 アブラハムのずっと後の時代にモーセが砂漠地帯を通って人々を導いていくときも、人々から強い反対や攻撃があり、モーセは死を求めるほどに心は苦しみにさいなまれたことがあったのです。
 目的地に行けとの言葉を聞き取ったのはアブラハムただ一人であって、同行した人たちにとっては、なぜそんな遠い所、何があるかわからないような所、さらに途中で事故や略奪などに遭うかも知れないのであって、途中ではアブラハムに対してもいろいろの非難や不満などもあったことが考えられます。自分たちが住んでいたところが災害があったとか、自然環境の変化などで住むのが困難になったということなら、一致して未知の所にでも行く合意があります。しかしアブラハムにとってはそのようなものはなく、ただ神が行けと命じる言葉を聞いたというだけです。
 聖書には、そうしたさまざまの現実に起こったであろうことはいっさい書いてありません。そうした困難や苦しみは省いて、ただ出発のときに神の言葉を聞いたこと、アブラハムが実際にその神の言葉を聞いて未知の土地へと出発したこと、目的地に着いたこと、そしてその目的地でアブラハムが何をしたかということだけを書いてあるのです。
 遠い目的地とは、カナン(現在のパレスチナ地方)であったのだとわかったのは、そこに着いたとき、神がアブラハムに「あなたの子孫にこの土地を与える」と語りかけたからわかったのです。アブラハムはその神の言葉でようやくそこが目的地であることを知り、長い旅の終わりを知ったのでした。
 彼がそこに着いて最初に何をしたのだろうか。

アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。
アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、・中ヲ天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。(創世記十二・78より)

 このように、彼がしたことは、神への礼拝であったのがわかります。それまでの長い困難な旅路を守り導いてもらったことへの感謝と、さらに今後の守りへの祈りであったと思われます。
 しかし、このように神に聞き、神に従って現実の困難をも進んでいくアブラハムの前途には、決して安全な状況ばかりではなかった。せっかくはるばる砂漠を超えてたどり着いた目的の土地では、まもなく飢饉となり、そこでは生きて行けなくなったのです。そのため、そこから数百キロもあるエジプトへと食糧を求めて進んで行ったのです。
 そこでアブラハムは意外な言動を見せています。

エジプトに入ろうとしたとき、アブラハムは妻サライに言った。
「お前が美しいのを、わたしはよく知っている。エジプト人がお前を見たら『この女はあの男の妻だ』と言って、わたしを殺し、お前を生かしておくにちがいない。どうか、わたしの妹だ、と言ってくれ。そうすれば、わたしはお前のお蔭で命も助かる。」 (創世記十二・1113

 ここには、これまで、千二百キロを超えるような長い困難な旅を、主の導きを信じて歩んできた信仰の父というような立派な姿はまったく見られない。そこには、自分の安全だけを考えて、自分の命のためには長く連れ添ってきた妻ですら、捨ててしまいかねない自分中心の姿があります。これは驚くべきことです。
 旧約聖書では、アブラハム、ヤコブ、エリヤ、ダビデなどといった人々は最も重要な人物です。イスラエル民族の根本的特徴となった、信仰の父であるアブラハム、以後の数千年にわたってユダヤ教、キリスト教だけでなく、イスラム教においても信仰の模範、預言者として敬われているほどの人なのです。 そのような歴史上で最も影響の大きかった人のうちの一人です。
 そのような偉大な人物と見なされるような人のことを書くとき、聖書は彼の弱さをも何の遠慮もなく、書き付けたのがわかります。
 ここに神の導きがあります。アブラハムはこの時、それまで最初に神の声を聞いてそれに従ったとき以来、ずっと神に祈り、導きを受けてきました。カナンの目的地にも着いてすぐにしたのが神への礼拝だったのです。
 しかし、それでもなお、自分の命が危ない状況となったときに、彼は自分中心になり、祈って神の導きを待つことができなかったのがわかります。 
 その結果、妻のサライは、エジプト王の妻として宮廷に入っていくことになったのです。こういう事態になったら、もうふつうの手段では王の妻となった人物を取り返すことはできないはずです。アブラハムは、後悔しなかったのか、祈って自分のやり方の間違いを示されたのではないのだろうか、妻の安否を気遣うことはなかったのか、妻を失ってどんなに異国にあって孤独であるかなどなどを思い知らされていたはずです。
 もし、このままでいけば、「あなたを大いなる国民とし、・中ヲ地上の民族はすべてアブラハムによって祝福に入る」と約束してもらったことは、成就しないのです。
 しかし、神はアブラハムの弱さのただなかに介入され、エジプト王や人々に苦しい病気が生じるようにされた。そうしたことを経て、王は、召し入れたサライはアブラハムの妹でなく、妻であったのを知らされたのです。そこで、何も罰することなく、アブラハムを立ち去らせたと記されています。
 神の助けがなかったら、アブラハムの妻はエジプト王の妃(または側室)となってしまってして再びアブラハムのもとに帰ることはなかったと思われます。このように、祝福の基となったアブラハムも神への忠実を一貫して守り続けることができたのではなく、その弱さのために、神のご計画を無にしてしまうような罪も犯してしまったのがわかります。本来この時のアブラハムの罪は重いものだったのです。神の祝福をすべて無にしてしまいかねない事態になるからです。
 こうして、神は、アブラハム自身の偉大さのゆえに、祝福の基となったのでなく、神ご自身の計画のゆえに、アブラハムを祝福の基としていったのだということを示そうとしているのです。どんな人間でも完全に神に従うことはできない、それでもなお、神はその弱く、不十分な人間を用いて、あるひとを祝福の基とし、それをさらに多くの人へとその祝福を広げていくのがわかります。
 このような人間の弱さを持ち、罪を犯し、失敗をしながらも、なお祝福の基とされていったのは、ダビデやペテロといった重要な人物もその代表的な例と言えます。ダビデは若きときの信仰の勇者であり、いかなる迫害を受けてもなお、自分の主君であった王に武力で反撃したりせず、ひたすら神を信じて、逃げるというだけであったが神の驚くべき導きによって、自分では予想もしていなかった、王となった。しかし、その後に最も重い罪を犯し、神からきびしく罰せられることとなった。それでもなお、心から悔い改めたダビデはその子孫からイエスが出るというように、祝福の基となり続けたのがわかるのです。
 ペテロについては、イエスが捕らえられたとき、三度もイエスなど知らないといって主に背いたにもかかわらずやはり、心からの悔い改めによって、以後二千年のキリスト教の祝福の一つの基ともなったのです。
 このように、旧約聖書で最も印象的な箇所の一つである、アブラハムが祝福の基となり、全世界の民族の祝福もその祝福から出るとまで言われた理由は、神がまず選んだこと、そして神からのその呼びかけにアブラハムが聞いて、慣れ親しんだものと決別して従って行ったこと、その過程においても常に神に信じて、神への礼拝を基本としていったこと、時に恐れから罪を犯すことがあっても、神ご自身が介入され、正しい道へと連れ戻したこと、アブラハムも再び神に立ち帰っていったことなどがその理由だと言えます。
 現在の私たちにとって、アブラハムの持っていた信仰を与えられるとき、私たちもまた祝福が与えられ、小さいながらも一つの祝福の基となると言えます。
 罪を犯して自分の小さいこと、醜いことを思い知らされることがあっても、なお神は私たちを赦し、導き、神ご自身の計画のために用いようとされているのです。私たちは、自分自身がどんなに弱く、みじめなものであっても、神につねに立ち帰る心を持っているならば、なお、神が用いて、他者の祝福の基として下さるのを信じることができるのです。
詩にみられる祝福
 旧約聖書で最も有名な箇所の一つは、つぎの詩編第一編です。

いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、
罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、
主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。(詩編第一編より)

 この詩は旧約聖書の詩集である詩編の冒頭に置かれています。全詩集のタイトルというべきものだからです。
 ここで幸いなこと、祝福されたことと言われているのは、「神に逆らう悪しき人の考えに従って生きるのでなく、また罪ある人の道を行かず、傲慢な者と共に座らない。主(神)の教えを愛して、いつも神の言を心に置いている人」だと言われています。これはその通りだとたいていの人には納得がいく内容です。私たちが、真実でないことを言ったり、したりすれば、それは罪ある人の道を歩いたことになり、悪しき人の考え方に沿って生きていることになります。このように厳密に考えると、私たちはこの詩編第一編の通りには歩いていないことを知らされるのです。
 もし、うっかりと悪しき者の道を歩いてしまったらどうするのか、どんな人でもそうした罪や失敗を数々犯してきたはずです。例えば、戦前のような軍国主義の時代にあっては、戦争という大量殺人を国家やマスコミ、教育などすべてをあげて賛成している状況であって、そのような状況にあって聖書のいうところに反する悪しき道をほとんどの人が歩んでしまったのではないか・中ヲ
 打ち続く不幸なことが心を動揺させ、病の苦しみが恐ろしいほどに身を痛めつけるとき、私たちははたして元気なときのように、主の教えを愛することができるだろうか。旧約聖書にあるヨブという信仰の模範生のような人ですら、激しい苦しみと痛みに直面したとき、神のことがわからなくなってうめき、叫んだのではなかったか・中ヲ。
 このように考えると、悪しき者の道を一貫して歩まないということは、だれにもできることでないのがわかるのです。
 キリスト教史上で最も神の言を聞き取った人、パウロですら、自分が善いことができずに、よくないことをしてしまう、このような奥深い本性をどうしたらよいのか、とふかく嘆いている箇所があります。
 このような私たちの弱さと罪を思うとき、この詩編第一編だけでは、私たちは幸いにはなれないのがわかるのです。
 ここに至って、そのような弱い人間、罪を犯してしまう弱さと醜さにあってもなお、与えられる幸いと祝福を私たちは求めるのです。そして聖書はそのような求めにもはるか昔からすでに答えているのです。

何と幸いなことか、(神への)背きを赦され、罪をおおい消される者は。
何と幸いなことか、主がその人の罪を数えず、心に欺きのない人は。

わたしは黙し続けて、絶え間なくうめき、心身ともに疲れ果てた。・中ヲ
わたしは罪をあなたに示し、隠さなかった。
わたしは言った、「主にわたしの背きの罪を告白しよう」と。
そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦して下さった。(詩編三十二編より)

 この詩において、最も深い幸いとは、神によって自分の罪が赦され、神がそれをなかったかのようにして下さることだと言われています。自分には罪などない、自分は正しいのだと言い張るときには、心は平安を与えられず、疲れはててしまいます。それは幸いな気持ちとは正反対です。私たちが最も苦しいのは、他人からの攻撃とか無理解、中傷でなく、じつは私たち自身のなかにある赦されていない罪だというのです。
 自分が正しい道を歩けなかった、歩こうとしても途中でまちがった道に入り込んだ、あるいは、これは違った道だと感じていたが、どうしても正しい道に帰ることができなかった、そしてつぎつぎと罪にまみれてしまった・中ヲ。
 そんな罪深い者にもこの詩は大いなる幸いを告げているのです。
 このことは、私も聖書を知るまでは考えたことがなかった。自分の苦しみは自分の外にある何かである、○○という特定の人間、社会、政治、あるいは、病気、事故などなど、せいぜい自分の生まれついた性格など、とにかく自分のうちに気付かないほどに深いところにある神、完全な真実と清さを持った神への背きがあるからなのだということがわからなかったのです。
 もし、そうした背きや罪がなくなったら、そのときには、何よりも幸いな「主の平安」に心は満たされます。それは神の国からのさわやかないのちの水が魂に流れ込んでくるからです。
 人間の幸いで最もふかいものは、何かをもらったとか、文化やなんらかの領域で大きい業績を上げた、そして誉められたとか、あるいは心の合う異性に出会ったとか事業で成功したとか・中ヲそのような外的なことでなく、私たちの魂の最も深いところにて、真実に満ちた神への背きの罪がぬぐわれ、赦され、そこで神(キリスト)と出会い、神の愛に満ちたまなざしを受けること、そして新しい力を与えられることだと、この詩は言おうとしているのです。

新約聖書における祝福

 罪の赦しを受けることの幸いは新約聖書の時代、キリストの時代に入っていっそう完全なものとなり、求める誰でもが与えられることとなりました。この罪の赦しの喜びと平安こそは、キリスト教が与える幸いの中心をなしていることなのです。新約聖書全体がその祝福と幸いを告げているのですが、ここでは新約聖書のはじめに出てくる最もよく知られた箇所をあげておきます。
 
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「何と幸いなことか、心の貧しい人々は!
なぜなら、天の国はその人たちのものだからである。
何と幸いなことか、悲しむ人々は!
なぜなら、その人たちは(神によって)慰められるからである。
何と幸いなことか、義に飢え渇く人々は!
なぜなら、その人たちは(神の国の賜物によって)満たされるからである。」(マタイ福音書五章より)


 新約聖書の初めに出てくるこれらの言葉は、聖書を少しでも手にとったことのある人はたいていの人が思い出す箇所です。最初の「心の貧しい者」こそは、聖書の祝福と幸福の基本になっています。すでにあげた詩編三十二編で述べたように、自分の罪のために打ち砕かれている心こそは、ここで言われている「心の貧しい者」です。
 私たちが今、神を信じて、キリストによる罪の赦しを与えられているということは、神から特別に選ばれたということであり、神の呼びかけを聞いて、それを受け入れたということだといえます。
「私が示す地に行け」それは、現在の私たちにとっては、日常の具体的な生活の中で、どうしたらよいか、分からないときに示されることです。そのままにしておくこともできる、思い切って困難な道を取ることもでぎる。そのとき、神を見つめ、神の光のある方へと、歩んでいくこと、その道をとれば、どんなことになっていくのかわからなくとも、まず神の国と神の義を求めよといわれる主イエスの言葉に従っていく、そこに祝福がある。それが現在の私たちにも与えられている道なのです。

*Dictionary of New Testament Theology Vol.1 207P

 


st07_m2.gifパウロの伝道の心

 キリストの弟子たちのうちで、最も重要な働きをしたのはパウロであった。彼はどうしてそのような特別に深く、しかも広い領域で働くことができたのだろうか。それにはいろいろの理由があるし、神がそのように特別な器として選んだからだという他はない。
 選ばれた器であったパウロの心の一端をうかがうことのできる言葉をつぎにあげる。

自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主に仕えてきた。・中ヲ
 神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのである。
 そして今、わたしは、霊(聖霊)に促されてエルサレムに行く。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分からない。
 ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げて下さっている。
 しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思わない。(使徒行伝二十章より)

 神の前に低い者、小さき者という実感を深く持っていること、それがパウロの原点でもあった。自分は罪人のかしらであるとすら感じていた。そのような心を聖書では、「心の貧しい者」と言っている。そうした心の貧しい者には「天の国はその人たちに与えられる」とのキリストの約束がある。その約束の通りにパウロはゆたかな天の国、神の賜物を受けたのであった。
 そしてまた、キリストは「悲しむ者は幸いだ、その人たちは、神によって励まされ、慰めれるからである」とも言われたが、パウロはまた、悲しみを深く知る人でもあった。涙を流しながら主に仕えてきたと言っている。
 自分の罪を知り、人間全体の罪、ユダヤ人の罪を知って、神に祈り願う心があり、深い悲しみを持ちつつ、その闇のなかに与えられる光なるキリストをいっそうはっきりと見つめていたのであった。
 そうしてさらにパウロを動かしていたのは、自分の考えや人間的な勇気でなく、他人に動かされるのでもなく、聖霊によって導かれていたのである。その聖霊が導くならば、命すら惜しまないという心が常にあった。
 使徒行伝全体が、たんに使徒たちの働きを記すのでなく、その背後にあって導いた聖霊のはたらきを記した書物である。パウロも彼自身の考えや人に動かされたのでなく、聖霊によって導かれた人であったのである。

 


st07_m2.gifことば

戦闘の止むとき

 勝つことは必ずしも勝つのでない。負けることは必ずしも負けることでない。
愛すること、これが勝つことであり、憎むこと、これが負けることなのである。愛をもって勝つことだけが、永久の勝利だ。愛は妬まず、誇らず、高ぶらず、永久に忍ぶ。そして永久に勝って、永久の平和をもたらす。世に戦闘の止むときは、愛が勝利を占めたときだけなのである。(内村鑑三・「聖書の研究」一九〇四年五月号 日露戦争はこの年の二月に始まっている)

ただキリストに聴く

 トルストイ一人はロシアの一億三千万の民より大である。キリスト一人は世界の十三億の人よりも大である。アメリカのルーズベルトとイギリスのチェンバレンとは戦争の益を説くが、我らは彼らに聴く必要はない。全世界の新聞記者は筆をそろえて殺すこと(戦争)に賛成しようとも、我らは彼らに従う必要はない。
 我らはただ、主イエス・キリストの言に聴けば足りる。世がこぞって戦争を賛美するときに、我らは天より下って来られた神の子の声に聴いて我らの心を静めるべきなのである。(同右・九月号)

 ・トルストイのことに特に触れているのは、本文にあげた彼の聖書に基づく徹底した、非戦論に内村が深く共感していたからである。

わが救いの神によって


 私たちの近くに現在起こっている地上の強国間の争乱については、私たちはだれもそのために心を乱されることなく、これらすべての動乱も決して動かすことのできない、岩の砦(神、キリスト)に身を寄せ、また不滅の力である神に常に信頼するように望んでいる。・中ヲ真理に対して真実な心を持ち、心のなかに真理に従って生きることを待ち望んでいる人々は、困難な状況あっても喜ぶであろうし、つぎのような経験をすることになるだろう。
「いちじくの木は花咲かず、ぶどうの木は実らず、オリブの木の産はむなしくなり、田畑は食物を生ぜず、おりには羊が絶え、牛舎には牛がいなくなる。
しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救の神によって喜ぶ。(旧約聖書・ハバクク書三章より)」 (「ウールマンの日記」聖文舎刊4647P

・ウールマン(一七二〇年生~一七七二年)はクェーカーのキリスト者。クェーカーは奴隷制度に最もはやくから反対していたキリスト教の教派であり、またいかなる戦争にも反対したことで知られている。

あなたの敵を愛せよ

「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」
 おそらくイエスのいましめのなかでこの命令に従う以上に難しいことはないであろう。ある人々はそれを実行することはできないと、感じてきた。・中ヲこのイエスの言葉に対してそんなことは実行できないという強い反対にもかかわらず、このイエスの命令は、新しい緊迫さをもって我々に挑戦してくる。動乱につぐ動乱は、近代人が憎しみという道を旅しており、破壊と滅亡へ我々を導く旅路にあることを思い出させてきた。敵を愛せよという命令は、ユートピア的夢想家の敬虔な指図であるどころか、我々の生存のために絶対に必要なものである。敵をすら愛するということは、我々の世界の諸問題を解くかぎである。(「汝の敵を愛せよ」マルチン・ルーサー・キング著 新教出版社刊 66P

・キング牧師は、非暴力による戦いを徹底して実行し、黒人差別と戦った。一九六四年、ノーベル平和章受賞。

 


st07_m2.gif休憩室
○シュウカイドウ(秋海棠〕

 秋になって、日本的な落ちついた感じを漂わせる花、それがシュウカイドウです。この名前は秋になって咲く「海棠(カイドウ)」に似た花という意味です。やや日陰のしめったところによく育つもので、ベゴニアの仲間です。
(学名をベゴニア・グランディス・ドリィア Begonia grandis Drya.といいます。)
 ベゴニアは丈夫で一般の家庭や花壇にもよく見られるものですが、シュウカイドウは、少ししか見られません。
 もともとは、中国からマレー半島に自生する植物。江戸初期の渡来とされています。
 半日陰で多湿の所でよく育ち、東洋的感覚の草花で古来文学・美術の材料となってきたということです。中国の最初の花の事典である『秘伝花鏡』(1688)という本において「秋色中第一となす」とたたえられているということです。わが家にも以前からあって、毎年その控えめな花の色(うすい赤色)と姿がその名前とともに、秋の到来を感じさせてくれるものとなっています。
 自然のたたずまいは、人間の世がどのような混乱や動揺、悲しみや苦しみがあろうとも、何千年もそれ以上も変わらぬ姿を私たちに示しており、人間にむかって、「静まれ、万物の創造の根源である神に立ち帰れ」と告げているようです。

○松虫と鈴虫

 現在では松虫は、チンチロリンと澄んだ声で鳴く虫のことで、鈴虫とは、リーンリーンと鳴く虫のことです。しかし、平安時代では、逆であって、リーンリーンという鳴き声は、松風の音に似ているということで、松虫と言われたといいます。たしかに、現在では松虫と言われるチンチロリンという鳴き声は鈴を振るような鳴き声でもあります。(なお、いまのキリギリスは当時ではコオロギを指していたと言われています)
 コオロギを捕らえてみた人は知っていると思いますが、あの薄い羽でどうしてあのように美しい鳴き声が出せるのか驚くべきことです。子供の時、エンマコオロギなどを飼育してその鳴く様子を観察したことがよくありましたが、捕らえてその羽をこすっても決してあのような音は出ないのに、といつも不思議に思ったのを思い出します。人間の作った楽器でも、あのように薄く単純なように見えるものでかなり大きい音を出すのはありません。神の御手によるならば、あのような薄い羽をも立派な楽器とすることができるのだとわかります。
 夜の集会の帰りには、とくに大きい川の堤防道路において虫の音は最も豊かです。さながら、一大交響楽のようにさまざまのコオロギやクツワムシなどが讃美を繰り広げています。

 


st07_m2.gif返舟だより

○アメリカのテロ事件、それに続いて報復戦争のことが連日報道されています。しかし、聖書にある真理、「悪に対するに悪をもってしてはいけない、神のさばきにゆだね、私たちは敵に対しての祈りをもって対処すべきだ」という原則を述べているのはほとんどありません。歴史は繰り返す、人間の愚かさも繰り返されます。
 しかし、主イエスが言われたように、「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」(マタイ福音書二四・35)。 永遠の真理である、キリストの言葉にいっそう信頼していきたいと思います。

○九月十六日は、静岡の中部の集いにて、み言葉を語る機会を与えられました。前日の十五日には、清水市の西沢 正文兄宅にて宿泊をさせていただき、何人かの静岡の集会のかたがたとともに食事とともに懇談の機会も与えられました。
 この集いは、静岡聖書集会、清水聖書集会、志田聖書研究会、静岡聖書研究会の四つの集会の合同の集会だということです。ふだんは遠く離れていても、時折こうした機会が与えられてより広い地域のキリスト者たちと交わり、ともにみ言葉を学び、祈り、讃美する幸いを感じました。長い歴史をもってキリストの福音がこの静岡の地にも受け継がれてきたことを実感することができて感謝です。
なお、今月号の「聖書における祝福と幸い」という文は、静岡で語った内容です。

○かねてよりご加祷頂いていました妻は九月十九日に退院しました。多くのかたがたの祈りとお支えをありがとうございました。県外の方からも、「毎朝、家内とともに祈っています」と書いてきて下さった方、「毎朝、恵美子さんのお体と貴氏の伝道活動を神様が守り導いて下さることをお祈りしています」と書いて下さった方、また日々祈りのなかに心を留めて下さった方、その他の多くの方々に心から感謝です。今後とも霊とからだが守られますように覚えて下されば幸いです。

○今月は、いろいろの事情のために、「はこ舟」がなかなか出来上がらずに遅くなりました。

 


st07_m2.gifお知らせ

○十月五日(金)の午後七時三十分~九時頃まで、前のキリスト教独立学園校長であった武(たけ)祐一郎氏の聖書講話があります。武氏はこの八月で七十六歳となり、体調も十分でないときもあるので、徳島訪問もあるいは最後かも知れないという思いで来訪して下さるとのことです。それて今回は「今、一番語りたいと思っていることを話させて頂きます」と言われています。都合の付く方はご参加下さい。
 題は「預言と福音 政池先生から学んだことを中心に」です。

○今年の市民クリスマスは十二月十日(月)です。私たちの集会では、毎年北島の教会のろうあ者のかたがたとともに手話讃美に加わっていますが、今年も手話讃美がなされる予定です。