200211月 第502号・内容・もくじ

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リストボタン心の平和と社会的平和

リストボタン沈黙はうみだす力

リストボタン王の王

リストボタン植物の効果

リストボタン休憩室

リストボタンことば

リストボタン返舟だより


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 空が青く澄み渡るとき、雲もいっそうその白さが目に映える。
 そしてその高くに浮かぶ雲からも、青い大気からも透明な何かが伝わってくる。
 吹く風が冷たくとも、その汚れなき空気に触れていると心まで清まる思いがする。
 秋の深夜、しずかにあたりが寝静まっているなか、夜空の星の輝きが天からのものに思えてくる。
 オリオンの明るい星々が上り、シリウスの強い光や木星の澄んだ輝きも見えてくる。それは目に見えるどんなものよりも清い世界を映し出している。
 たしかに星の世界は、神が私たち汚れたところにいる人間を、ご自分のところへと呼び戻そうとするために作られたように思われる。
 
月なき み空に きらめく光
ああその星影 希望のすがた

 これは讃美歌312番の「いつくしみ深き」の曲を借りて、日本で中学唱歌として今から百年ちかく前に発表された「星の界(よ)」のはじめの部分である。
 たしかに星は、神がこの無限の宇宙を創造し、支配されていることに思いを新たにし、その大いなる力に頼ろう、その清さによって心を清めて頂こうというあらたな希望を起こしてくれるものである。



st07_m2.gif心の平和と社会的平和

 だれでも社会的な平和を望む。戦争が生じたらあらゆる悪がつぎつぎと生じていく。大量殺人はその最たるものであり、家庭の破壊、人間を障害者にして生涯にわたって苦しめる、略奪、人権無視、差別、支配、自然の破壊…、戦争とは最も悪いことであるはずの人を殺すということを国家が肯定し、それを讃美するところまでいってしまうことであるから、当然であろう。
 だからこそ、戦争をしてはならない、戦争はどんな性質のものであっても始めるべきものではない。キリスト者の戦いは武力によるものでなく、目には見えない霊的な戦いであると聖書には明確に記されている。
 しかし、他方で戦争がなかったらそれで人間はよくなるのかといえば現在の日本を見てもわかるように、決してそうは簡単にはいかないのである。太平洋戦争が終わって五十年以上が過ぎ去った。そしてその間、日本は他国に戦争をしかけることもなく、平和が続いている。
 それで、日本人の心は本当によくなっているだろうか。多くの人はそうは思わないだろう。
 人間の心がよくなるためには、単に戦争をしないというだけでは十分でないのである。人間のからだも、病気になることなどだれも願っていない。できるだけ健康でいたいというのは万人の願いである。しかし健康であっても心はよくなるとは限らない。かえって、冷たい心、傲慢な心、不真実な心など、からだの健康な人にもいくらでも見られる。そして病気がちの人やからだの障害をもって苦しい生活をしている人のほうが、最も大切な他者の苦しみに敏感に感じたり、その苦しみへの配慮を持っていることも多い。
 それは戦争があってもなくても、また健康であってもなくても関わりなく存在する人間の一番深いところの問題であり、真実なものに従えない心の弱さ、自分中心に考えてしまう醜さ、他者を愛することができないということ、キリスト教でいう罪というものが除かれないかぎり、人間の問題は解決しないのである。
 社会的に平和のときにも、苦しみのとき、例えば自然の災害や飢饉、戦争のときであっても、地上のものでない心の平和を与える道をキリストは過去二千年の間、指し示してこられた。
 それが「主の平和(平安)」である。
 キリストによる罪の赦しをうけ、キリストの愛を感じ、この主の平和を少しでも味わうときには、これこそが永遠の真理だと確信させる力を持っている。私たちはまず、そうした主の平安を与えられてから、職業におけるはたらきや、社会的な平和運動など、それぞれが置かれている場で力を注ぐことが求められている。



st07_m2.gif沈黙はうみだす力

天の沈黙

黙示録に、これから封印された巻物を開く直前に、不思議な半時間ばかりの沈黙があったと記されている。

… わたしは、玉座に座っておられる方(神)の右の手に巻物があるのを見た。表にも裏にも字が書いてあり、七つの封印で封じられていた。… しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開くことのできる者、見ることのできる者は、だれもいなかった。…
小羊(*)が第七の封印を開いたとき、天は半時間ほど沈黙に包まれた。(黙示録七・13、八・1より)

 小羊とは、キリストのことであり、神の手にある七つの封印をされた巻物があり、そこにはこれから起きる出来事、神のご計画が記されている。しかし、その封印を解くこと、すなわち、その神の計画をあらかじめ知らされるのはキリストのみである。それゆえ、封印を解くことは、ただ小羊なるキリストだけだと言われている。
 黙示録は、とてもむつかしい書物である。新約聖書のなかで最もわかりにくい書物と言えるだろう。 しかしそれは、これからの世界がどうなっていくのか、神の大いなる御計画と導きが書かれているものなのである。
 神の手にあった巻物は、小羊なるキリストの手によって、第一の封印からひとつずつ開かれていった。最後の第七の封印が開かれることによって最も大きい内容が示されていく。そのような重要な場面の冒頭にこのような不思議な半時間ばかりの静けさがあった。

 (*)キリストのことをなぜ、「小羊」と言っているのかというと、キリストより一三〇〇年ほども昔、モーセの時代に、エジプトに奴隷状態となっていた人々を神の助けによって導き出すという旧約聖書で特別に重要な出来事があった。そのとき、小羊の血を家の入り口に塗っておいたら、その家の者はさばきを受けずに救われたということがあった。それは、キリストが十字架で血を流して人間のために犠牲となって死んで下さったが、それを信じることによって裁きが過越して救いを受けることの預言的な出来事であった。

 それはどんな意味があったのだろうか。これから生じる神の大いなるわざを前にして、それまでの無数の人々の大声での讃美も消えて、静寂が支配した。
 それまではつぎのように、讃美の大声に満ちていたのである。

 わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、…玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」
 また、天使たちは…玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。」(黙示録七・912

 このような、救われた人々の大声でのすばらしい讃美や天使たちの讃美はいつまでも響いていてもよさそうであるにもかかわらず、それらがすべて沈黙してすべてが静寂に包まれたのであった。その情景を思い浮かべるときには、人間から出てくるあらゆる思いを退け、ただ神の大いなるわざを受け止めるために、天の世界が集中したのがうかがえる。

現代における沈黙の必要性
 現代の私たちにとってもこのような沈黙が不可欠である。天の世界において、裁きに関わる神の言葉が実行に移されようとするときに沈黙が全体を支配したように、私たちもそのような静けさが必要なのである。
 黙示録は未来のことを預言している書物である。しかし、現代に生きる私たちの世界においても、神のさばきはつねに行われている。さばきは世の終わりといったいつのことか分からない未来にだけあるのでは決してない。
 
彼を信じる者は、さばかれない。
信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。(ヨハネ三・18

 こうした裁きがいわば常時行われている。私たちは神を信じていてもさまざまの時がある。苦しみのとき、感謝のとき、悩みのときあるいは讃美のとき、また喜びのときがある。そうしたどのような時においても、つねに沈黙のときを持つことの重要性を感じさせられる。
 苦しみのときには神から離れそうになる。神がおられるのならどうしてこんなにひどいことが生じるのか、なぜほかの人には起こらないで自分はこの大変な重荷を負って生きていかねばならないのか…そうした苦しみや痛みのときはまた誘惑の時であり、神への信頼を揺るがされ、ついには信仰を捨ててしまうことすらあるだろう。旧約聖書にはエリヤという神の大いなる預言者ですら深い挫折感のゆえに死ぬことを願って砂漠の一本の木の下に赴いたことが記されている。
 苦しみの深いほど、静まることも深くなければ、私たちはその苦しみの意味をまったく理解できないままとなるだろう。突然の別離や人間関係が壊れること、大きな罪、失敗や中傷などで傷ついた心は、そうしたことを引き起こした相手があるとき、その相手への憎しみや恨み、ねたみが深く巣くってしまうことになりかねない。 
 これは闇の力に敗北することであると言えよう。そうした悪の力に負けることなく、勝利していくためには、主イエスのすでになされた勝利の力を与えられる必要がある。そのためにこそ、祈りを伴う沈黙が必要となる。
 
これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平安を得るためである。
あなたがたにはこの世では苦しみがある。
しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っているのだから。」(ヨハネ十六・33

 逆に、神の恵みによって大きな喜びが与えられることもある。健康が続くこと、よき結婚、仕事、生活の安定、家庭の幸い等など、しかしそうしたものが与えられているとき、もし私たちがそれを当たり前と思ってしまうとそこから神への切実な心を失っていく。それを正しく受け止めて感謝するためには、沈黙が必要である。神のまえに静まることによってそうした恵みも当然のことでなく、一つ一つ神からの賜物として感謝をもって受け取っていくべきものだと知らされる。そうした感謝は「沈黙」のときを持つのでなければ、つい忘れていくものである。

 沈黙といっても何でもよいのではない。沈黙にも二種類ある。
 私たちは命じられなくとも沈黙することも多い。それは無関心や、言うことによる圧迫への恐れ、あるいは心の冷たさのゆえの沈黙もある。
 けれども、聖書にはそうした非生産的な沈黙でなく、前向きの沈黙のことが記されている。本当の沈黙、静けさとは、祈りであり、神へのまなざしであり、神への訴えであり、神からの力を受けようと待ち望む姿勢でもある。それは弱い者への心や不正なものへの嫌悪と正しいことへのあこがれ、願いとなっている。そしてそれは最終
的には、愛となっていくものである。
 聖書にもそうした沈黙の必要が記されている。

おののいて罪を離れよ。

床に横たわるときも自らの心と語りて沈黙に入れ。(詩篇四・5

マザー・テレサの言葉から
 私たちは神を見いださねばなりません。そして神は騒がしいなかとか落ち着きのないところでは見いだされないのです。
 神は沈黙の友なのです。いかに、自然、すなわち樹木や花、草などが沈黙のうちに育っているかを見なさい。また星や月、そして太陽、いかにそれらは沈黙のうちに動いているかを見なさい。
 私たちが、沈黙のうちに受け取れば受け取るほど、私たちは実際の生活のなかで、与えることができるのです。私たちがほかの魂に触れるためには、沈黙が必要なのです。
 本質的なことは、何を私たちが言うかではなく、神が私たちに何を語っておられるか、神が私たちを通して何を語っておられるかなのです。
 私たちのあらゆる言葉は、内から来るのでなければ無益なのです。キリストの光を与えない言葉は、闇を深めるだけなのです。(Something Beautiful For God 「神のために何か美しいものを」66P)(*

 このマザー・テレサの言葉は、二〇年ほど以前にこの原書を見つけて読んだとき、とくに印象に残っている箇所の一つである。私たちが沈黙のうちで、神から、主イエスから受け取っていないなら、他者にも何も与えることはできない、ということはことに心に残った言葉であった。この書物のタイトルは、「神のために何か美しいもの」であるが、私たちが何か美しいものを神のためになすためには、沈黙のうちに神から与えられるということが不可欠だと言おうとしているのである。

主イエスの沈黙

 主イエスは、夜通し祈られたことがしばしばあったようである。

朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコ福音書一・35

このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。(ルカ福音書六・12

 このような長時間の一人での祈りこそは、神のみまえの沈黙の時であり、そのようなときに神からの力を豊かに受けておられたであろうし、世の中の不信とその背後にある悪霊との戦いをされていたと思われる。 聖書ではあえて、そうした長時間の祈りのときになにを祈っておられたのかについては一切記していない。しかしそれは神と霊的に交わりを持つことであり、神の力を受けて、神の洞察力を注がれ、また周囲の弟子たちや人間がサタンに負けないようにと祈りを続けられる時でもあっただろう。
 そうした祈りは、つぎの言葉のようにまさに愛へと開いていくものであった。

真の沈黙は、平安へ、礼拝へ、愛へと開く。
沈黙を通して、愛することを学べ。沈黙は友愛にみちた交わりの実であると同時に、こうした交わりへの道でもある。
*

 神とともに私たちがあるとき、自ずから沈黙を愛するようになるだろう。なぜなら神は愛の神であり、愛とはつねに目に見えないものを注ぎ、語りかけるからである。もし、私たちが主イエスの言葉のように、まず神を愛しているならば、その神からの語りかけを聞こうとするはずである。
 それは山や谷川、星空や樹木、野草などを愛するときも同様である。それらを愛する心は、必然的にそれらに心を注ぐとともに、それらから発せられている目には見えないものを受け取ろうとする。山を愛する心は山から語りかけてくるある種の言葉に耳を傾けるであろう。
 主イエスは最も重要な戒めは、神を愛することであり、次にそれと同様に重要なのが隣人を愛せよということだと教えられた。神を愛することは、第一であり、それは神への沈黙を通してより純粋なものにされる。 

 主イエスも弟子たちとともに歩んだ数年間において、しばしば夜を徹して祈られた。現代のように電気による照明は全くなく、自動車や工場もない時代において夜とは、真っ暗な長い時であったであろう。そしてガリラヤ湖畔の低い丘においては、ほとんど民家もなく、風の音しか響いてこない静けさに包まれていたと考えられる。そのような静寂のなかで、主イエスの祈りは深まり、神からの力と語りかけを深く受け止められたのであろう。

しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。
だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ福音書二十二・32

このように言われた主イエスは常に弟子たちのために祈っておられた方であった。そうした祈りもこの夜の沈黙のときにもなされたと思われる。祈りは神からの力を受けるだけでなく、またその受けた力や愛によって人間に注ぎ出すのが本来の目的であるからである。

 こうした沈黙は、三年間のみ言葉の福音を宣べ伝えているときだけでなく、いよいよ捕えられて裁判にかけられたときにおいてもみられた。ユダヤ人の指導者たちが、イエスは神を汚したと、最も重い犯罪をしたと繰り返し主張しているのに、主イエスはまったくそれには答えようとされなかった。ローマ総督のピラトが驚くほど、主イエスは沈黙を通されたのである。
 しかしそのようなときにもいっそう神の御計画が確実に進んでいることを確信されていた。そのような神への信頼に基づく沈黙はますます確信を与え、周囲にも何かが伝わり、波及していくのである。

 このような黙して歩む姿は、すでにキリストよりもずっと以前の預言書に驚くほどあざやかに記されている。

彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
…そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。
…彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。
…多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。(イザヤ書五十三章より)

 このように、キリストの十字架はそれより五百年以上も昔にすでにその意味が告げられ、とくにその沈黙によってその使命が担われたことが強調されている。主に結びついた沈黙は愛であるという言葉が、キリストの十字架によって実現されたのである。
 このような事実を学ぶとき、私たちもそうした沈黙を日々の生活のなかで、持ち続けていくことの大切さを知らされるのである。

*)次にあげるのは、「沈黙について」の引用文の原文。
On Silence
We need to find God, and he cannot be found in noise and restlessness.
God is the friend of silence. See how nature -trees, flowers, grass - grow in silence;
see the stars, the moon and sun, how they move in silence.
The more we receive in silent prayer, the more we can give in our active life.
We need silence to be able to touch souls.
The essential thing is not what we say, but what God says to us and through us.
All our words will be useless unless they come from within - words which do not give the light of Christ increase the darkness.

必要なことは沈黙なのである。それによって私たちは神に従おうとしている者はいっそう静まって神の御心にかなった歩みができるようでなければならないし、また神に背いている者はその大いなるわざが始まる前に

ふつう私たちの生活ではあまりにも沈黙は少ない。いつも家の中では、テレビとかラジオ、CDなどの音が響いており、およそ物音一つしない静けさというのは想像できないほどである。
 しかし、少し以前であれば、


 


st07_m2.gif王の中の王

 聖書においては、主イエスが王として言われている。しかし、現代の私たちには王であるイエスというようなイメージを持っている人はどれほどいるだろうか。イエス・キリストといえば、多くの人にとっては、聖人、立派な教えを説いた人、奇跡を行った人、十字架で殺された人というようなことが連想されるだろう。しかし、聖書では私たちが通常では思い浮かべない、「王」であるということがしばしば現れる。

 神とかキリストというとき、私たちはどのようなイメージを浮かべるであろうか。神については、創造主、全知全能、目に見えない存在などを思い浮かべるであろう。そして、支配という言葉とか王という言葉はあまり、思い浮かべないであろう。
 しかし、神ははじめから私たちに神は王であることを示そうとされている。キリストについても、キリストはどんなお方か、と尋ねられるならたいていは、キリストを救い主と受け入れていない世間の人なら偉い教えを説いた人というのが最も多いだろう。キリスト教という名前からもそうした「教え」を説いた人、というイメージが浮かびやすい。
 しかし、神は私たちに単によい教えを説くというだけのお方ではないことを示して来られた。それは、新約聖書の一番最初にある、マタイ福音書のはじめの部分にすでに見られる。

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、見よ、東から来た博士たちがエルサレムに着いて言った。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタイ福音書二・23

 何百年もの長い間、神の民には、ダビデの子孫から救い主が現れるという信仰があった。しかし、マタイ福音書によれば、最初にキリストの誕生を知らされたのは、はるか東方の国から来た博士たちであった。
 それはキリストが、神の民と言われるユダヤ人でなく、異邦の国々の人々によって受け入れられるということの象徴的な出来事であったと言えよう。
 そしてその博士たちは、キリストのことをたんに、やさしい慰め手であるとか、教えを述べる人だとかいうのでなく、「王」だと啓示されたのであった。
 王、それは支配ということである。東方からの博士たちは、まったくユダヤの国のことはなにも知らなかったのであるが、生まれたイエスが「王」として生まれたということを、神から啓示されたのであった。
 これは、イエスは王であるということを、神は異邦人に啓示されるのだという預言的な出来事となっている。
 王なるキリスト、それは個人の罪を赦し、苦しみ、悩みを慰めてくれる愛に満ちたお方というイメージとはことなる側面を感じさせるものがある。それは、悪の力をもその支配下におき、人間のすべてや世界全体を支配し、歴史を動かし、導いていく、さらにはこの宇宙全体をも支配しているお方という、壮大な存在を暗示しているのである。
 キリストがそのような絶大な力を与えられたお方であり、だからこそ王であるということは、一般的にはあまり気付かれていないようである。
 しかし、聖書をよく見ると当然のことながら、すでにイエスが王であることが繰り返し強調されている。
ことに新約聖書のヨハネ福音書で、イエスが裁判にかけられて、十字架刑に処せられるところの記述にはほかの福音書よりも、ずっと多く「王」という言葉が用いられている。イエスを裁いた、ローマ総督のピラトと主イエスの裁判の場での会話はつぎのように記されている。

そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのか。」…
そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることだ。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(ヨハネ福音書十八・3338より)
 
 そのあと、兵士たちはイエスをあざけり、茨の冠を作ってイエスにかぶらせ、そばで「ユダヤ人の王、万歳」といって平手で打った。ユダヤ人たちも、イエスが、王と自称したといって皇帝に背く罪を犯したと断罪した。総督のピラトは、ユダヤ人に「見よ、あなた方の王だ」というと、彼らは「殺せ、殺せ、十字架につけよ」と叫んだ。ピラトは「おまえたちの王を私が十字架につけるのか」と言った。…ピラトはイエスの罪状書きを書かせたが、そこには「ユダヤ人の王」とあり、それはヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに「ユダヤ人の王」と書かずに「この男はユダヤ人の王と自称していた」と書いてくださいと希望したが、ピラトは、「私が書いたものは、書いたままにしておけ」と命じた。(ヨハネ福音書十九章より)

 このように、主イエスが処刑される場面の記述に、繰り返し「王」ということが出てくる。イエスを殺そうとする者、処刑に関わる兵士、赦そうとするローマ総督のピラト、そして主イエスご自身もそれぞれいろいろの思いで「王」という言葉を用いている。
 そしてピラトは、「見よ、お前達の王だ!」といったが、これは、その少し前に、主イエスを指して「見よ、この人を!」といったことと同様に、深い意味が込められている。主イエスこそ、私たちがどのような人生の場面においても、見つめるべきお方であることを、神がピラトの口を通して言わせていると考えられるのである。私たちは日常の生活において、新聞、テレビなどのマスコミで、「この人を見よ!」と毎日毎日見せつけられているのである。それは歌手であったり、政治家、スポーツの選手、あるいは犯罪を犯した人など多様な人々である。少し前までは、鈴木宗男を、その後は、田中真紀子、さらに北朝鮮に拉致された人たちなどなどつぎつぎに繰り出されてくる。そうした人を国民がテレビや新聞をつうじて一斉に注目しているのである。
 しかし、いくらそのようなマスコミで登場する人物を見つめていても、私たち自身の精神にはなんのよいこともない。単に目先の興味に振り回されているだけになってしまう。
 ヨハネ福音書において、「この人を見よ!」という言葉は、このような現代に生きる私たちにも投げかけられているのがわかる。現代のような、世界中の人間がつぎつぎと現れてくる時代にあってこそ、いっそう、ピラトの言った、「この人を見よ!」が重要性を帯びていくのである。私たちはたしかに、「この人」イエスを見つめるべきなのである。主イエスこそ、万人が見つめるべきお方であり、そこから神の国にあるよきものが注がれてくることになる。
 ピラトが、「見よ、お前たちの王だ!」と言った一言もそれと同様な意味をもって、現代にも語りかけていると言えよう。王、すなわち、真の支配者は、キリストなのだと。
 いつの時代においても、何者が支配しているのか、という問題は最重要な問題であった。日本においても戦前は、天皇こそが真の王であり、世界を支配する王になる存在なのだという宣伝をしきりに行った。「八紘一宇」(*)という言葉はそうしたことを意味している。戦前のキリスト者たちが受けた迫害の一つは、キリストが王であるという信仰であった。当時の日本では、天皇こそが本当の王である、キリストが王であるとか、黙示録にあるように信徒も一時的にせよ、王のように支配するなどというのは、日本の国家方針と相容れない考え方だとして厳しく迫害された。

*)八紘(はっこう)のうち、紘(こう)とは、「つな」という意味の言葉で、八紘とは、もともとは大地にはりわたした八本のつなを表す。そこから「大地の八方のはて」を意味する。19408月、第二次近衛(このえ)内閣が、日本の国家方針は、八紘を一宇(いちう)とすることだとして以来、しばしば用いられた。「宇」とは「家」を意味するので、この方針は、世界万国を日本の天皇の支配のもとに統合して、一つの家となそう、ということであった。それは、中国への侵略戦争をも正当化する考え方でもあった。

 このように、何者が王なのかという問題をめぐって、キリストこそ真の王なりと信じるゆえに、古代のローマ帝国のキリスト者への迫害となったし、日本の徳川時代の過酷な迫害も生みだした。
 またそのような社会的な問題にとどまることなく、個人の生活においても、何を自分の内なる王とするか、つまり何者に自分が仕えるのか、ということは日常生活や人生全体においてもきわめて重要な問題となる。
 あなたは、何を自分の王としているのか、何を自分がつねに敬い、心から従おうとする存在としているのかと尋ねられたら多くの人は何と答えるだろうか。それは、幼少の頃においては両親であり、学校の教師であるだろうし、友達関係では力の強い者であるかもしれない。大人になると、職場の上司であるかもしれない。また、夫とか友達など特定の人間に全面的に従い、仕えているという場合もあるだろう。また、長い病気になると、医者がそうした存在にもなりうる。
 しかし、心から信頼して仕え続けることができる存在は、どんな人間もふさわしくはない。人間は不正なことをすることもしばしばあり、不真実であり、弱い存在だからである。また何かの事故や病気ですぐに死んでしまうはかないものであるからである。本当の支配を永続的に続けることなどだれもできないのである。
 そうしたなかで、どこまでも仕え続けていくことができる存在、しかも何者をも支配できる力を持っている存在といえば、神のごとき存在でしかない。私たちはそうした観点からも目には見えない、神と同質の本質をもったお方ならば、仕えていくし、そういうお方こそ、真の王であるということになる。
 聖書はまさにそのようなお方として、キリストを指し示しているのである。そして私自身の個人的な経験によっても、かつては、そのように仕えるべき存在がなく、いわば自分に仕えていたということである。自分が少しでも認められるようになりたい、自分が強くなるのだといったことで自分、自分というのがつねにある意識であった。
 多くの人たちも同様で、他人に仕え、また自分に仕えているのが実態であろう。
 ヨハネ福音書でとくにいわれているように、キリストこそ、万人の王、あらゆる支配者のなかの最高の支配者である。ピラトが、イエスの罪状書きに「ユダヤ人の王」と書いたが、それについて異論を出したユダヤ人達に対して、「私が書いたものはそのままにしておけ」と言ったが、それもたんにローマ総督ピラトがユダヤ人に出した命令にとどまらず、歴史のなかで、二千年にわたって実現されてきたのである。ピラトはもちろん自分が神の道具となっているとは知らなかったが、歴史のなかでたしかに、キリストが王である、ということは、大書されてきたのである。ユダヤ人から出たただの人、処刑されてしまった哀れな罪人としか当時の人は思わなかっただろう。しかし神が、キリストこそは真の支配をされている王であると、人類の歴史のなかに書き込まれたのであった。
 このように、王であると強調されているイエスであるが、そのイエスは、嘲弄され、茨の冠をかぶせられ、平手で打たれ、鞭打たれて、重い十字架を背負わされて、処刑場への道をよろめきながら歩いていった。そこにはいかなる意味においても、王などということは感じられなかった。最も低いところまで、突き落とされた人間、もう一切の自由も奪いとられた死をまえにした哀れな人間でしかないと見えただろう。
 しかし、聖書は、そのような屈辱と弱さのただなかのキリストこそ、真の王であったと記しているのである。それは茨の冠ということが象徴的に意味している。茨をかぶせられるほどにあざけられ、見下され、苦しみを受けた。しかしそうした状況においてこそ、万物を支配されている王なのであると…。
 この世の王(支配者)は、敵と戦い武力で攻撃して多くを殺傷することによって王となったり、策略によって自分のライバルを排除していって王になる。しかし、キリストはみずからが人々から嘲笑され、見下され、重い傷を受けていてもなお、王なのであった。
 こうした性質を持つ救い主が現れるということは、キリストよりも五百年以上も昔に、すでに偉大な預言者イザヤによって預言されていた。
*そのお方が預言の通りにたしかに現れ、王という本質を持った救い主として地上に来られたのである。

*)彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、
多くの痛みを負い、…
私たちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのは、私たちの病であったのに、
私たちは、彼は神の手にかかって
打たれて苦しんでいると思っていた。…
私たちの罪のすべてを
主は彼に負わせられた。
彼は、捕らえられ、裁きを受けて
命を奪われた。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。(イザヤ書五三章より)

 また、ヨハネ福音書においてもここにあげた、福音書の終わりの部分だけでなく、その最初から、キリストが王であることを述べている。

…その翌日、イエスはフィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。…フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」
するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。
ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」(ヨハネ福音書1・4350より)

 これはヨハネ福音書の第一章の終わりに出てくる場面である。十二弟子の筆頭格であったペテロですら、イエスの数々の奇跡や、不思議の力、深い教えを聞き、もっと後になってようやく、イエスが「神の子」であること、すなわち神と同質のお方であることを知った。にもかかわらず、ここで現れるナタナエルは、右に引用した部分でわかるようにほんの一度の出会いで、主イエスがいっさいを越えて見抜くお方であることを知って、ただちにイエスのことを「神の子」であり、しかも「王」であることを啓示されたのである。
 ヨハネ福音書ではこのナタナエルの言葉もまた、一種の預言となっている。それはたしかに真理であり、以後の歴史も、イエスが神の子であり、王であることを啓示されて信じる人が、実際に無数に生じていったのである。
 私たちが用いてきた讃美歌には、「君なるイエス」とか、「イエス君(きみ)」といった言葉がしばしば出てくる。これを、親しみを込めた表現と思っている人もいるようだが、それは間違いである。万葉歌人として知られる、額田王(おおきみ)も「王」という漢字を「きみ」と読ませている。このようなことでもわかるが、。もともと、「君」とは、「王」という意味を持っている。それゆえに「君主」という言葉がある。だから、「君なるイエス」とは、「王であるイエス」という意味なのである。

 キリストが王であるということ、あらゆる支配の力を持っておられることは、旧約聖書の最初の書物である、創世記にもごくわずかであるが閃光のように示され、ダニエル書においては、はっきりと記されている。
 まず創世記の箇所を見てみよう。その創世記では、キリストを指し示している不思議な人物が現れる。(*)それは、メルキゼデクである。これは、「正義の王」
**という意味であり、新約聖書のヘブル書では、これがキリストを指し示していると、繰り返し強調されている。メルキゼデクとは不思議な人物で創世記の一箇所に現れる以外には、旧約聖書の分厚い内容のなかでは、あとは詩篇に一度出てくるだけである。ここに、キリストが初めて「王」として預言的に言われている。
 このように、このメルキゼデクという人物によって、はるか後に現れるキリストが、人間の罪をぬぐい去って、神と人間の間を橋渡しする存在(祭司)であるとともに、支配する権威を与えられた王でもあるということが、一瞬のきらめきのように暗示されているのである。

*)創世記十四・1724
**)ヘブル語で、メルキは王、セデクは、正義という意味。


 つぎに旧約聖書のダニエル書はどうであろうか。つぎの箇所がよく知られている。

…夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り、日の老いたる者(神)の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。
 諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続きその統治は滅びることがない。(ダニエル書七・1314

 ダニエル書は独特の預言的内容に満ちているが、ここで言われているのは、「人の子」のような者が、神のところに行って、永遠に朽ちない支配の力、王としての権威を受けたということである。ここに出てくる「天の雲に乗って」という表現は、主イエスがそのまま、ご自身の再臨のときについて語ったときに用いている。また、このダニエル書のこの箇所で、「人の子」と言われている者が、神のまえに行って永遠の王権、支配の力を与えられたとある。これが、主イエスの言葉によって、イエス自身のことを指しているのがわかる。主イエスは地上で福音を宣べ伝えておられたとき、自分のことを「人の子」といわれたが、それは単なる人間の子供といった意味でなく、このダニエル書で言われているように、神から特別に永遠の支配の力を受けた存在、すなわち王であることの称号として用いられているのである。
 こうしてキリストは、すでに旧約聖書の時代から、神から、世界を支配する王として預言されていたと言える。
 ヨハネ福音書において、キリストの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書かれていたが、それがわざわざヘブル語(*)、ラテン語、ギリシャ語で書かれたと記されている。殺してしまう人間の罪名をどうして三ヶ国語で書いたりしたのか、不可解なことである。そしてそんなことは、キリストが殺されるということに比べたらどうでもよいことに見える。ヨハネ福音書でなぜこのようなことに強調が置かれているのだろうか。

*)正確には、ヘブル語と同族のアラム語。

 それは、ここにも神の不思議な御手のはたらきがあるのだと言おうとしているのである。このような特別な仕方で書かせることについて、ピラトはそれが深い意味を持っているということはもちろん考えることもしなかった。一時の気まぐれでそのようにしたのであろう。しかし、神はピラトの手を用いて、キリストが全世界の「王」であることを宣言したのである。ヘブル語で書かれた旧約聖書は、現代では、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の三つの宗教の教典となり、世界を覆っている状況となっている。また、ラテン語は古代のローマの言語で、現在のフランス語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語などはそのラテン語から生まれたものであり、世界にその影響は及んでいる。またギリシャ語は、当時の世界語であり、哲学や自然学、政治学などさまざまの分野でギリシャ語の書物は大きな影響を及ぼしていった。
 こうしたことから、イエスが「王」であるという罪状書きがこれら三つの言語で書かれたということは、全世界に、イエスが王であることが宣言されていくことの預言でもあったのである。
 このことは、以後二千年の歴史を通じて徐々に実現していくことになった。キリスト教が広まるとき、最初にユダヤ人から迫害があった。ついでローマ帝国からの長期にわたる迫害が続いた。しかしそれらは、目には見えないが、王たるキリストの力によってその迫害の力は除かれ、キリスト教は広く浸透していった。はるか後に日本に伝わってきたときも、江戸幕府は全力をあげて、キリスト教を撲滅しようとした。けれどもやはり、三百年にわたる迫害も止めざるを得なくなった。それは目には見えないが、キリストが王としてこの世界を、御支配なさっている証しだと言えよう。
 将来の世界はどうなるのか、飢餓の問題、環境問題、核兵器の問題、各地でのテロや内戦、あるいは世界的な規模で生じるかも知れない紛争などなど考えると、人間の理性などで考えるだけでは、およそ解決不能だと言わざるを得ない。地球そのものも未来は消滅してしまうと言われている。
 こうした答えの与えられない状況にあって、聖書はこうしたグローバルな問題、はるかな未来の問題も視野におさめて答えを人類に与えているのである。それこそは、キリストが王であり、いっさいを支配しているゆえに、キリストに委ねることによって私たちはその大いなる力によって救い出される、霊的な「新しい天と地」が訪れるということを信じることへと導かれる。その信仰以外には、解決はなく、また将来への明るい展望は決して開かれないのである。
 キリストのことを、聖書の最後の書である黙示録では、キング オブ キングズ(King of kings)と言われている。(黙示録十九・16)まさに、キリストは、あらゆる種類の支配者のすべての上に立つ、真の王なのである。それは単に、国々の支配者の上にあるというにとどまらず、自然を動かす力、宇宙を動かしている法則の上にもある。そうしたあらゆる支配の上にあるのがキリストの支配なのである。
 キリストは昔も今も、そして将来も真の王であり続ける。しかしその王は、茨の冠をかぶせられ、侮辱され最も低いところまで降りて行かれたお方であった。最後にエルサレムに入って行かれたときも、旧約聖書の預言通りに、わざわざ小さいロバの子に乗って入っていったのである。
 
…シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
柔和な方で、ろばに乗り、
荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』(マタイ福音書二十一・5

 このように、キリストは王であったが、たしかにみすぼらしい小さなロバの子に乗って来られたのである。しかしそれもすでに旧約聖書に預言されていた。この新約聖書にある言葉は、旧約聖書のゼカリヤ書九章九節からの引用なのである。王とか皇帝など支配者は、ふつうはみごとな白馬にまたがって、家来を従え、堂々とやってくるものである。それといかに対照的であることだろう。
 私たちに与えられた王とは、そのような最も低いところまで来て下さる王である。私たちがどんなに低くされ、人から理解されず、また侮辱されることがあろうとも、主イエスはそこにも降りて来て下さる。そして落ち込んでいる私たちに、王の力を与えて立ち上がらせてくださる。病気で一人苦しむとき、孤独に悩み、将来に絶望するような事態に直面してもなお、そこに主イエスは降りてきてくださる。そして、悲しみに沈む心や孤独に悩み、体の痛みに耐えがたい思いをする者の心の内にまでも来て下さり、神の国の力を与えて下さる。一番の底辺にまで来て下さる王、それこそが聖書で記されているキリストなのである。

 


st07_m2.gif植物の効果

 植物は、さまざまの面で人間によきものを与えています。生きるために不可欠な酸素は植物が作っているし、毎日の食事の主食である米や小麦などの主食、それから副食も植物に由来しています。ここでは、いくつかの書物やインタネット、食品分析表などを参考にして、そうしたものを参照できにくい人のために書いてみました。
 今多くの人の関心が集まっているガンに対しても、植物、とくに緑黄野菜や大豆、玄米などが注目されています。
 緑黄野菜は発がん促進物質の効力を低め、がんの発生を防ぐ作用のあることが動物実験などから明らかになっています。
 緑黄色野菜に多く含まれるベータ・カロチン(体内でビタミンAに変わる)やレバーなどに含まれるビタミンA、緑茶や緑黄色野菜に含まれる植物成分のポリフェノールなどは、発がん促進物質の効力を低め、がんの発生を防ぐ作用のあることが動物実験などから明らかになっています。
また、カロチンやビタミンAを含む食品をたくさん食べることで、肺がん、膀胱がん、喉頭がん、胃がんなどにかかりにくくなることが知られています。
 ビタミンCというとみかん類を思い浮かべますが、柿、パセリやピーマン、いちごなどにも多く含まれています。日本では昔からもっともなじみのある果物といえる、柿は栄養的にもすぐれた食品です。甘柿についていうと、ビタミンAもビタミンCも、ミカン(温州みかん)にくらべると、いずれも二倍ほど含まれていますが、(*)たいていの人は、柿よりミカンがビタミンCを多く含むと思いこんでいるのではないかと思います。柿は、薬用植物でもあり、秋の果実も見て美しく、里の風景を豊かにし、心を和らげる働きもあります。

*)みかんには、ビタミンAは、33IU、甘柿には、65IU、ビタミンCは、みかんは35ミリグラムに対して、柿は70ミリグラム含まれており、それぞれほぼ二倍となっています。(可食部100グラムあたり)

 食品に含まれる物質同士が体内で反応しあって、発がん物質がつくられる場合があるのですが、ビタミンCにはこの反応を抑えるはたらきがあります。胚芽米や大豆、いわしや卵などに多く含まれるビタミンEにも同じような作用が認められています。
 また、食物の繊維質は、大腸のはたらきを活発にして、便通をよくします。便が腸の中にある時間が短くなり、さらに、繊維成分が腸内にある発がん物質の濃度を薄めるので、大腸がんにかかりにくいといわれています。
 葉酸とビタミン12を与えて実験すると、それらを毎日与えると八割が、前ガン病変が消え始めたが、それらを与えなかった場合には、大半が改善しなかったといいます。
 また、葉酸はビタミンの一種で、緑黄野菜に多く含まれています。ビタミン12は、イワシ、アサリなどの魚介類に多い。これらは傷ついた遺伝子を修復する作用があるのではないかと言われています。予防としては、緑黄野菜を摂るのが基本だということです。
 また、トマトにあるカロチノイドの一種、タマネギやニンニクに含まれる物質も大腸ガンや肺ガンなどにも抑制効果があったということです。
 また、最近では、緑黄野菜のほかに淡色野菜が免疫機能を強める成分を含むことが明らかになってきました。免疫のはたらきに重要な関わりを持っている白血球の一種であるマクロファージによって作られるある物質は腫瘍を攻撃することがわかりました。そのマクロファージを活性化させる物質が、キャベツ、ナス、ダイコンなどの淡色野菜やバナナ、梨などに多く見られたということです。
 また、大豆製品がよいというのは特に最近は多く言われるようになっています。国立がんセンターでの調査では、みそ汁を毎日飲む人ほど胃ガンが少ないと報告されています。みそ汁に含まれている塩分のことが気になる人がいますが、みそ汁と同じ量の塩分を入れたものを与えるた群と比べると、みそ汁を与えたほうが胃ガンの発生率が少なかったとのことです。こうした結果から、みそ汁は胃ガンの発生を抑えることがわかっています。また、それに野菜や豆腐などを入れるとさらに効果的となるわけです。また、牛乳を一日に三六〇CC 以上飲む人は、胃ガンになるリスクが、五分の一~四分の一になるという研究結果も出ています。
 私自身、三〇年ほども昔、夜間高校に勤務していたとき、激しい暴力が横行していて、夕食時間がほとんどなく、まともに食べられないことがしばしばあったうえ、理科関係の実験器具などを、食後すぐに準備したり後かたづけしたりしていて胃を悪くしました。食後数時間すると、胃が痛くなり、からだが重くなり、夜にはじっとしていられないほど痛むこともありました。そのようなとき、暖めた牛乳をよくかんで(唾液とまぜて)飲むこと、玄米を五〇回以上十分に噛んで食べること、植物性の食物にすることなどで薬を使わずに治っていった経験があります。それ以来、暖めた牛乳を愛用しています。
 また、岐阜大学の清水教授らの研究で、岐阜県高山市の三万人ほどの住民を対象として一〇年ちかく追跡調査した結果、豆腐、納豆、豆乳、味噌などの大豆製品を日常的に摂ると、胃ガンの死亡率が、半減するというデータが得られたと報告されています。それは大豆に含まれるイソフラボンという物質が細胞にできた腫瘍の増殖をおさえる働きがあるからです。
 ガンだけでなく、緑黄野菜や果物がよいということについては、最近アメリカで、ハーバード大学公衆衛生学教室の研究班の調査で、最大14年間にわたる大規模な疫学調査がなされました。調査対象者は、女性看護婦で75596人、男性は病院などに勤務する医療職に従事する男性38683人の計10万人を超える。その結果、つぎのような野菜の効果が明らかになりました。
・野菜は100gを1単位とすると、ブロッコリー、カリフラワーなどアブラナ科の野菜を毎日1単位以上食べている人は、ほとんど摂らない人より、脳梗塞の発症が29%減少していた。
・緑黄野菜を毎日1.5単位以上摂っている人は、ほとんど摂らない人より脳梗塞が24%少なかった 。
 このように、ガン以外の病気にも野菜の効果ははっきりと出ています。最近よくその著書が話題になる、聖路加病院の日野原重明さんも、夕食にはご飯は茶碗半分て、緑黄野菜をボール一杯を摂ると言っています。このように、野菜がよいというのは、言い換えると植物そのものがよいからです。主食でも、白米よりも自然のままの玄米がよいのは当然のことです。玄米とはイネの実そのままのものですから、主成分のデンプンのほかに、繊維分もビタミン類やミネラル、脂肪、タンパク質も多く含まれています。
 例えば、玄米は、白米に比べてご飯にした場合、繊維分は四倍、カルシウムは、二倍、鉄分は五倍、カリウムは四倍、ビタミンB1は五倍余り、B2は二倍、ナイアシンも五倍余り、ほかの栄養分についても、ビタミンE、ビタミン6、葉酸、リノール酸、パントテン酸等も白米よりも当然多く、白米と比べるとずっと栄養価値が高くなります。主食は毎日食べるものなので、この差は大きいと言えます。しかも玄米の食事はよく噛む必要がありますから、それも体によいわけです。
 サトウキビも自然のままのものを食べると、ビタミンやミネラルも含まれているけれども、それから白砂糖にしてしまうと、一種の化学薬品といったものになります。
 このように植物そのままのものはたいてい体によいのがわかります。からだの病気だけでなく、心の方面に対しても言えることです。私たちの心が憂鬱になり、沈みそうになるとき、植物の多いところ、つまり野山の自然に触れると心のなかのしこりが洗い流されるような気持ちになることがしばしばあります。植物、ことに樹木たちの沈黙とそのすがた、あるいは野草の花の清楚な美しさなどが心の栄養になり、よくないものを除く作用があるからです。
 最近は森林浴ということの重要性が知られるようになっています。
 森や林の中で清浄な空気を呼吸し、樹間を吹き抜ける風に当たりながら歩くことは、だれでも心身によい影響を感じるものです。森の樹木はさわやかな香気を放っていて、これはテルペン類という炭化水素化合物によるもので、人間の精神神経、とくに自律神経に作用して精神の安定によい効果をもたらすといわれています。
 植物は、酸素を作り出す以外にも、空気中の二酸化炭素をも吸収しています。それから、樹木や野草など、見ても心にさわやかさを与えてくれるし、果物もできる。暑さも和らげ、また山に降った雨をも貯めておくいわば自然のダムのような役割をも果たしています。
 食事においても、生活の場にあっても、植物との関わりを深めることで、人間はいろいろの意味で健康的になるのがわかります。

 


st07_m2.gif休憩室

○秋の夜空

 最近、夜明けには「明けの明星」として知られる、金星が夜明け頃に輝いています。明け方の静まった大気のなか、多くの人たちがまだ目覚めていないときに、夜空の闇にひときわめだって輝いているのが、金星です。明け方に戸外に出て、星をしずかに眺めるということはほとんどの人にとっては、経験していないことと思います。
 しかし、明けの明星をまだ見たことのない人は、ぜひ夜明け前の五時半ころに起き出して、東の空を見ることをお勧めします。星座にはまったく分からないという人でも、必ずただちに見付かる強い輝きです。古代からそれは見る人に特別な感慨を起こさせてきた星であり、人間のちいさな小さな世界から翼を与えられるような、人間世界とは別の国からの輝きのような気がするほどです。それはじっとまばたくことなく、私たち人間を見つめるかのようです。
 聖書の最後の書である黙示録には、つぎのように記されています。

…わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。(黙示録二二・16

 なお、まだ夜明け前の暗いうちなら、その金星のすぐ上に、金星ほどではないけれども赤く輝く星が見えます。それが火星です。
 また、土星は、夜中に見えてくるオリオン座のすぐ上に見えます。木星は、ややはなれて、東から登ってきます。

 


st07_m2.gifことば

146)「キリスト者であるとはどういうことかね、エヴァ?」
「何よりも一番にキリストを愛することよ」と、エヴァが言った。(「アンクル・トムの小屋」第二六章)

"What is being a Christian,Eva
"
"Loving Christ most of all," said Eva.

・主イエスは、最も大切な戒めとして、「神を愛すること」、「隣人を愛すること」と言われた。信じるということは愛するためには不可欠であるが、信じるだけでとどまっていては深い主の平安は与えられないだろう。人間関係でも、相手を信じることで留まっているのよりは、相手がどうあろうとも、よりよくなることを祈る心、つまり主にあって愛するということへとすすむのが本来であるから。
 キリストを何者よりも愛するとは、ほかのどんなものよりもキリストに心を注いでいることでもある。そして愛するからこそ、その声につねに耳を傾けようとするし、語りかけてくる静かな細い声に従おうという気持ちが自然に起きる。そしてそのキリストとは神と同様なお方であるから神の国のあらゆるよきものを持っておられる。そのよき天国の賜物へと心を開いていることでもある。

147)あなたの悩みをすべて主にゆだねよ、
主はあなたに代り配慮される。
あなたの家族のための心配を
われらの信ずる主にゆだねよ、
主は思い悩むことを好まれない。
しかし、あなたがささげる天に向っての祈りはよろこんで聞き給う。…

あなたを苦しめるために
理由なく苦難が与えられたのではない。
信じなさい、まことの生命は
悲しみの日に植えられることを。(ヒルティ著「眠れぬ夜のために上 三月十五日より」)

・悲しみをわざわざ求めるものはいない。しかし悲しみがなければ、私たちの心は深く耕されないゆえに、神は私たちにさまざまの苦しみや悲しみを与えるのであろう。主イエスも「ああ、幸いだ、悲しむ者! その人たちは神によって慰めされるから」と言われた。

 


st07_m2.gif返舟だより

○十一月十五日(金)から十九日(火)にかけて、松山、熊本、福岡、大分などでみ言葉を語る機会が与えられたことは、主による導きとして感謝でした。また広島、岡山、香川などで、主にある方々と交わり、「祈の友」会員をも一部ですが訪問して語り合う機会が与えられました。この五日間を祈りによって支えてくださった集会の方々、また各地の信徒の方々の主にあるご配慮にも深く感謝します。
 私たちは、一人一人が直接神と交わり、主イエスの生きた働きに導かれることが必要ですが、それとともに信徒の方々との主にある交流も重要なことと思います。聖書にも使徒行伝や使徒の手紙などにも、キリストを信じる者同士の深い交流が記され、たがいに祈り、支え合っていたようすがうかがえます。信じる者同士はキリストのからだであると言われている意味が、あちこちの集会に参加してみるといっそうよくわかります。パウロも身近にいる信徒だけでなく、めったに会うこともできない遠くにいるキリスト者たちとも、キリストのからだであると言っていることを思い出します。
 神の言葉こそ、そのような結びつきを生みだし、支え、そしてそこからよきものをくみ取ることができるようになっていることを思い、神の言葉を知らされた祝福を感じました。

○愛媛県の佐多岬半島を通るときには、道路が山の斜面を通るので、秋の植物があちこちでみられました。徳島県では一部にしか見られない、リュウノウギクの白いキクがたくさん見られ、その一部をつんで熊本の集会に持参しましたが、集会の人にとってもその葉の独特の香りが印象的なようでした。
 また、海岸植物である、ダンチクの上部の穂がついている部分がうまく採取できたので、それも持っていきましたが、参加者の一人の方はハンセン病療養所におられる方ですが、子供のときに海岸近くの家であったために、このダンチクに親しんでいたといわれ、そうした遠い昔とふるさとのことを思い出すよすがとなったようでした。ダンチクは、ヨシタケ(葦竹)とも言われ、三メートルの高さにも達する植物で、草のなかまとしては日本では最も大きいものの一つとされています。
 その他、ヤマシロギクの白い花、ヤマハッカの青紫色の花の群生があり、秋らしさを味わうことができました。また、熊本の集会に行く途中の阿蘇山に通じる道、大分県の竹田付近の山道では、シマカンギクという黄色の野菊が多く見られました。これは徳島の山々では私はまだ見かけたことがないように思います。

○訂正
。十月号六頁三段目左より三行目 「懇願した」→「ひれ伏して」(すでに訂正されて届けられたのもありますが、未訂正のものがあります。)