20031月 第504号・内容・もくじ

リストボタン厳しさの中から

リストボタンたった一人の愛によって

リストボタンあなたの上には主の光が上り

リストボタン目に見えないものを受け取るために

リストボタンノーベル賞と平和

リストボタンことば

リストボタン返舟だより


image002.gif厳しさの中から

 星は一年中見られる。しかし、冬の厳しい寒さと北風に肌を刺すような風に吹かれつつ、見つめるとき、星は最もその清い美しさを私たちに伝えてくる。
 同様に、神の愛と清さ、その力などは、私たちが厳しい状態にさらされているときにこそ、いっそうはっきりと実感できる。
 心がゆるんでいるときには、私たちは神の力や清さを感じにくい。苦しみの中から、また悲しみに傷ついた心の中から神を仰ぐときに、最も明らかに神の愛を感じる。

 


image002.gifたった一人の愛によって

 人間はたった一人の愛を受けても生きる力が与えられるというところがある。逆にいくら多くの人と交際していても、たった一人の愛も受けていないときには、その人の心は荒れてくるし、だんだん枯れて固まってしまう。

 確かに愛はそれが、人間的な愛であっても、人を生かす力を持っている。
 しかし、誰でもが感じるそのような人間的な愛は、時には激しいものがあり、人間を生かすどころか、滅ぼしてしまう力を持っている。こうした滅ぼしてしまうほどの愛は、男女の愛に見られることがある。
 親子の愛もそれが人間的な愛であると、その強さに応じて子供を強制して、塾などに行かせることになる。しかしそのような自分中心の気持ちからの愛からも真によきものは生じてこないであろう。
 たった一人の愛、純粋な愛があれば、人間は生きることができるといっても、それが人間的な愛であれば、総じてはかないものであり、致命的な結果となる場合もある。
 人間から受ける愛はこうして祝福されないことが多い。しかし、神から受ける愛はまったく異なる。どんなに他人に誤解中傷されていても、その本当のことをだれも知ってはくれなくとも、心に主イエスの愛が注がれているのを実感することのできる魂は決して損なわれない。
 最初の殉教者であったステパノという人はどんなに周囲の者たちが、憎しみをつのらせても、彼らを憎み返したり、恐れたりすることもなく、キリストが神の右に座しているのをまざまざと見ることができた。ステパノは自分に注がれたキリストの愛を深く実感していたゆえである。

 愛を持たないで人とたえず交際するのは、魂をそこなうものである。だから、やむをえない場合には、むしろ交際をへらすか、それとも全くそれを絶つべきである。(ヒルティ著 眠れぬ夜のために上 一月三〇日の項)

 愛を持たないで、人間と交際を持つことは、今日では避けることができない。会社、学校、その他のさまざまの場面で、私たちは多くの人間と関わり合う。昔は例えば農業の人が圧倒的に多く、その農業をしているとほかの人と交際することはそれほど多くなかっただろう。
 なぜ、愛なくして人と交際することで、その人の魂がそこなわれるのだろうか。
 愛なくしてということは、無関心や憎しみ、ねたみ、あるいは競争心とかその人たちを利用しようといった気持ちから交際することになる。こうした心の傾向こそが罪と言われる気持ちであり、そうした気持ちは次第にその人のよき部分を壊していく。
 だれに対しても愛をもって関わるということは、自然のままの人間には不可能なことである。 そうした不可能なことに唯一道を開くのが、キリストという、今も活きておられる方の愛を受けることである。たった一人の愛を受けるだけであっても、生きていける。それが最もはっきりといえるのは、キリストというお方の愛を受けて生きることである。
 ほかのすべてから誤解され、受け入れられなくとも、キリストが受け入れてくださり、自分を愛して下さっていると実感できれば、私たちはすでにキリストの愛を受けているのであり、その愛を持っていれば他人を恨んだり、憎んだままで生きるということから免れていく。
 たった一人の愛も受けていないと思うときには、主イエスに心を向け変えて、主にむかって叫ぶとき、たった一人のお方である主イエスからの愛を感じることができ、そこから神の国へと歩み始めることができるようになってくる。

 


image002.gifあなたの上には主の光が上り

起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、
主の栄光があなたの上にのぼったからだ。
見よ、闇は地を覆い
暗黒が国々を包んでいる。
しかし、あなたの上には主が輝き出で
主の栄光があなたの上に現れる。

 起きよ! と呼びかけられているのは、直接的には、シオンです。エルサレムにある丘の一つですが、これをエルサレム全体、それから神に導かれる人々をも指していることがあります。
 起きよ!と呼びかけられているということは、この呼びかけを受けているシオンあるいは、神の民が、倒れてしまっていることを暗示しています。悪の力によって、敵対する人々あるいは国々によって立ち上がることもできない状態にあることがうかがえるのです。
 現代の人々も、精神的に見れば、起きあがれない状態にある場合が非常に多いと言えます。そのような倒れ臥した人々に対してこの言葉は言われているのです。
 預言書という書物は驚くべき書物です。それは、今から二五〇〇年から三〇〇〇年近く昔の社会の状態に即して言われている言葉であるのに、はるか後の現代に生きている私たちと同様な問題を提示しているのですから。
 しかし、起きよ!と、呼びかけられても、どうして起きるのか、また、光を放て!と言われてもいかにして光を放つことができるのか、おそらくほとんどの人は、「光を放て!」などと言われてもおよそ場違いな感じを受けて、自分とは何の関係もないと感じるのではないかと思います。
 人間が光を放つなど、ふだんの私たちの会話では話題にもならず、考えたこともないからです。
 これは聖書の世界においても同様です。聖書ほど人間のうちにひそむ暗いもの、悪魔的なもの、汚れたものを鋭く指摘している書はありません。ほかの古代文書にもいろいろありますが、例えばギリシャの神話には神々がいろいろと人間を誘惑したりすることが書いてありますが、これは日本の古事記などにも当たり前のようなかたちで現れます。例えば、有名な日本の神々の一つである、スサノオノミコトというカミが乱暴狼藉を働いた様が驚くほど赤裸々に書いてあります。これらは罪を犯すことが当たり前のような感覚で書いてあるのではないかと思わせるほどです。
 ここには、そうした悪しき心の動きに対しての深い悲しみや嘆き、そのような悪に支配されることへの苦しみなどはまったく感じられないのです。
 これに対して聖書では、いかに人間は罪深い存在であるか、ということが鋭く指摘されています。そしてその罪がなにをもたらすのか、どんな裁きがそこに下されるのかも書かれています。
 真実なもの、正しいものへの背きは人間に深くしみこんだ本性だと記されているので、そのような人間が光を放つなどとは考えられないことです。
 しかし、ただ一箇所、人間が光を放つようになったことが記されている箇所があります。それが、モーセの例です。

 …モーセは主と共に四十日四十夜、シナイ山にとどまった。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、十の戒めからなる神からの契約の言葉を板に書き記した。
 モーセが神から受けた十戒が記された石の板を持ってシナイ山を下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔が光を放っているのを知らなかった。人々がモーセを見ると、驚くべきことに、彼の顔は光を放っていた。(出エジプト記三四・2930より)

 四〇日もの長い間、神とともにあって神と交わり、それによってモーセの顔は光を放つようになったのです。モーセ自身は罪ある人間にすぎなかったけれども、神との深い交わりによって神の光を与えられたのだとわかります。
 このイザヤ書の箇所も同様です。

起きよ、光を放て!
なぜなら、あなたを照らす光は昇り、
主の栄光はあなたの上に輝いているから。

Arise, shine;
for your light has come,
and the glory of the LORD has risen upon you.
NRSV

 この英語訳にあるように(for が理由を表しています)、ほかの英語、独、仏語などの外国語訳でも参照した限りはほとんどはっきりと理由を現す言葉があります。それは原文ではその言葉があるからです。すなわち、「起きよ、光を放て! なぜなら、あなたの光が上ったからだ。」という意味なのです。私たちに起き上がれ、と命じられているのはどうしてかというと、神からみるなら、すでに述べたように(霊的にみると)人間はみんな倒れ伏した状態だからです。
 これらの言葉は、今から二五〇〇年ほども昔に言われたとされています。そして預言書というのは、もともとは当時の社会的な混乱や悪に対して、神からの警告であり、神に立ち返るべきであるというメッセージであるのですが、それが驚くべきことに、その後のあらゆる時代の人々にもあてはまり、現代の私たちにもそのまま言われていると受け取ることができる真実性を持っているのです。
 当時、この言葉が言われた相手は、半世紀の間遠い異国バビロンで捕囚となり、ようやくその生活から解放され、祖国に帰ることができて、生活を再建したユダヤの人々であったのですが、聖書の言葉は、そうした時代や地域をはるかに越えて、万人にいつの時代にも生きてはたらく言葉であり続けてきました。
 人間が倒れ伏している状態だということは、外見を見るだけではわからないことです。ある人は、とても元気よく働いているし、ある人は重い病気などで弱って動けない人がいる。ある人は天才的な才能をもって世界的に活躍している、その名声は世界に響いている。ある人はひどい犯罪を犯して何十年も牢獄に入れられている…こうした千差万別の人間の状態をどうして、人間はみんな倒れ伏しているなどと言えるのかと、反論する人は多いはずです。
 これは、そうした人間の能力だけに目を取られて、真実なものや、弱く苦しむ人間への愛や清い心を持っているのか、何を見つめて生きているかという観点から見ないからです。いかに科学や芸術、スポーツなどの能力があっても、真理を愛し、人間の苦しみに共感し、そこに愛を注ぐといった心があるのかという面からみると、きわめて多様な人間がいるにもかかわらず、とたんに同じようになってきます。
 学者としてはすぐれていても、数学などはごく初歩しか知らない人以上に愛があり、真実であるとは限らないし、マスコミなどでもてはやされている人たちも同様です。
 聖書にいうような愛や真実があるのかという観点からはだれもかれも同じように、できていないのに気付きます。
 それが倒れている、伏しているという状態です。これは新約聖書においてさらに、死んだと同様な状態だと言われます。

・このようなわけで、…死はすべての人に及んだ。すべての人が罪を犯したからである。(ローマの信徒への手紙五・12より)
・ 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和である。(同八・5
 
 ここで言われている、霊の思いとは、聖霊を与えられ、聖霊に導かれた思いということです。それは神の命を実感し、その命をさらに豊かに受けることにつながり、それは神の平和を実感することです。
 しかし、聖なる神の霊を受けていないときには、人間は当然自分中心の思いとなります。自分の力を自慢する心、他人を無視する気持ち、ねたみ、憎しみ、自分の好きなものだけを大事にするような「愛」、仕事をしても自分のため、何かでとても努力しても自分が認められ、自分が人より上に立つため、あるいは自分を目立たせ、支えるために最も役に立つと思われている金や財産を持っていること、そうしたことを第一に心で思うのが、ここで「肉の思い」と言われていますが、それは「死」だと明確に述べています。そのような思いを延長していけば、清い喜びや揺るがない平安は決して与えられず、目に見えない聖なる力を実感することもあり得ず、死ということによってすべて消えていくしかありません。それは死んだような状態です。
 冒頭にあげた聖書の箇所で、私たちが励まされるのは、私たちの上にすでに光が上っている、今その光は私たちを照らしているということです。周囲の世界はこのイザヤ書の言葉にもあるように、「闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」という状態であり、いろいろの人たちが、武力に頼り、軍備増強を声高に唱えるようになっています。このような闇のただなかにあっても、私たちが神を仰ぐそのときに、神の永遠の光はすでに私たちの上にのぼって輝いているということに気付くのです。
 こうした周囲の闇のただなかに輝く光というのは、聖書全体を貫くメッセージとなっています。
 聖書の最初の書、創世記において、「闇が深淵のおもてにあり…」(創世記一・2とはじめに記されています。しかしそのような闇のただなかに、神は命じるのです。
「光あれ!」と。その神の言の一言によって、闇のなかに光は生まれ、その光はいかなる闇に対しても勝利し続けてきたと言えます。

*)バビロンとは、古代メソポタミアの首都を指す。現代のイラクの首都バクダッドの西南にある。バビロン捕囚とは、紀元前五八七~五三八年まで、ユダの人々がバビロニア(現代のイラク地方)に奴隷状態の者として連れて行かれた出来事を指す。

 このような闇のなかの光を受けた者はどうなるのか、それがイザヤ書の冒頭の箇所のつぎに記されています。

国々はあなたを照らす光に向かい
王たちはその輝きに向かって歩む。
目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから
娘たちは抱かれて、進んで来る。
そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き
おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ
国々の富はあなたのもとに集まる。
…若いらくだがあなたのもとに押し寄せる。
(異国の)人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。

これらは誰か。雲のように飛び、巣に帰る鳩のように速い。
それは島々がわたしに向けて送るもの
タルシシ
*地方の船を先頭に
金銀をもたせ、あなたの子らを遠くから運んで来る。あなたの神、主の御名のため
あなたに輝きを与える
イスラエルの聖なる神のために。

あなたの城門は常に開かれていて
昼も夜も閉ざされることはなく
国々の富があなたのもとにもたらされ
その王たちも導き入れられる。

*)スペイン南部の地中海の最西端にあったとされる町。「世界の西の果て」という響きを含む表現としても用いられている。

 こうした記述はいったい何を意味しているのか、これは一見現代の私たちと何の関係もないように見えます。これはかつて真実な神に背き、正義に反することを行い続けたために神の裁きを受けた民に、時がきて彼らが神に立ち帰り、神の恵みを受けるようになる、その時には、このようにかつてとは逆に、あらゆるよいものが周囲の世界から流れ込んでくるというのです。タルシシとは地中海西端の町を指しており、当時知られていた世界の西の端です。そのような世界の果てからもよき物が運ばれてくる、ここには神の光や神の力を受けたものがいかに周囲からよいものを引き寄せるかということが記されています。
 神に逆らい、不真実と不正を重ねるときには、よきものが次々に奪われ、侵略され人間も遠くへと連れ去られていく、それが実際に紀元五八七年頃に行われたバビロンへの捕囚であったわけです。そのような悲劇はどこの国々でも見られたことです。強力な軍事力をもった国に、侵略され、よいものが略奪され国のよいものも破壊されていく。
 しかしこのイザヤ書にある箇所では、神に本当に立ち帰るときにはいかに良きものがつぎつぎと流れ込んで来るかを詳細に記しています。それほどこのことは実際に生じることであると強調されているのです。
 私たち一人一人にとっても、同様なことが言えます。神(真理)に背を向けている間は、努力しても努力しても何かが抜けていく、渇くという気持ちになります。 穴のあいた器に水を満たそうとするようなものです。しかし、神に立ち帰るとき、私たちの心にはある良きものが流れ込んでくるという感じが生まれてきます。それは神から注がれるものであり、私たちのほうで拒むことがなかったら注いで下さるものです。

「私は…あなたの神、主である。あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう。」(詩篇八一・10
 とある通りです。
 また、それは私たちの心に向かって戸をたたくというたとえでも記されています。

見よ、わたし(キリスト)は戸の外に立って、たたいている。
だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にする。(黙示録三・20

 復活されたキリストがこのように一人一人の魂の扉をたたいていると言われています。私たちが心の戸を開くなら、キリストご自身が心に入ってくださって、食事を共にする、すなわち祝福を共にして下さるということです。
 
 神の光が私たちの上に上った、だからこそ私たちもその光を受けて立ち上がることができる、このことこそ、新約聖書の中心にあるメッセージです。キリストが十字架で死んで下さったゆえに私たちは、どうすることもできなかった罪を赦されている、これも私たちの魂の上に神の光が上ったと言えることです。罪が赦されていない魂は、正しい道へと立ち上がって歩むことができないからです。

御父(神)は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。(コロサイの信徒への手紙一・13

 このことも同様な内容を表しています。いつの時代にも私たちを取り巻くのは、闇であったわけです。聖書の最初にも、「闇が深淵の表面にあった」とあり、新約聖書のマタイ福音書のキリストの伝道の最初の記述のところにも、
「暗闇に住む民に大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」(マタイ福音書四・16
 と記されています。
また、ヨハネ福音書の最初にも、「光は闇のなかに輝いている。 闇は光にうち勝たなかった」とあります。(ヨハネ一・5 口語訳)

 こうしたすべてによって、聖書はキリストこそ私たちの最終的な光であり、その大いなる光が二〇〇〇年前にこの世界に輝き始めたのであり、万人のうえにその光が上ったのだ、だからその光の方向へと向きを転じて、その光を受けるようにと勧められているのがわかります。これこそ旧約聖書から新約聖書にいたるまで一貫して言われているメッセージなのです。

 


image002.gif目に見えないものを受け取るために

 今回ノーベル賞を受賞した学者の研究が、ニュートリノという素粒子に関することであった。この素粒子は例えば地球の表側から裏側に抜けることができるくらい物質との相互作用が弱く、宇宙に充満しているという不思議な物質である。
 そのような素粒子を観測するために地下一〇〇〇メートルに、三〇〇〇トンの水を蓄えた巨大な水槽が作られ、それに特別な検出装置を付けて研究されている。
 これが有名になったのは、この装置が作られてからわずか四年ほど後に、まれにしか遭遇しない超新星爆発が地球から十六万光年離れたところで起きた。超新星爆発のときには大量のニュートリノが生じるがそのときに、その装置ではニュートリノ十二個を観測したという。肉眼でわかるほど近くで、この超新星爆発が起こったのは、四百年ほども昔の一六〇四年にあっただけというから、今回受賞した学者の研究結果は幸運に恵まれたといえる。 
 しかし、ニュートリノを観測したということは、基礎科学では重要な研究であっても、そのこと自体は、人間の心の苦しみや悲しみには何ら力になるところはないであろう。
 それどころか、物理学の最先端であった核物理学の応用として、原子爆弾や水素爆弾が作られてしまった。科学技術の行く先をどこまでも延長していくと、一発で数千万人が死傷すると考えられるような巨大な殺人兵器へとつながってしまったのである。 
 ニュートリノを検出するには、前述の巨大な地下水槽の中にきわめて多くの光電子増倍管を設置することが必要となり、装置全体でははじめのものには数億円、現在使っている改良型には百億円という巨費をかけて特別に制作された。 ラジオ電波を受け取るには安価なラジオがあればよい。テレビ電波もやや費用のかかるテレビ受信機があると足りる。しかしニュートリノという素粒子を受け取って観測するためには、巨費を投じた設備が必要である。
 しかし、こうした科学技術の産物がまったくなかった二〇〇〇年ほど前、キリストが伝え、キリストが聖霊というかたちでこの世にもたらしたものは、革命的なものであり、キリストを受け入れ、聖霊を注がれるときには、人間は根本から変えられる。
 現在の宇宙では一立方センチメートルに約100個(一立方メートルでは一億個にもなる)の非常にエネルギーの低いニュートリノが充満しているという。
 他方、使徒パウロが引用しているように、「我らは神の中に生き、動き、存在する」(使徒言行録十七・28j
 ということができるし、神から風のごとくに注がれている聖霊を受けるには何らの費用も要らない。神から注がれている光や聖霊に気付くには、そうした科学技術やそのための巨額の費用、あるいはそうした学問はいっさい必要ではない。
 神からのいのちの光、あるいは聖霊や神の言は、時代を超え、人間のあらゆる妨げを越えて、今も放射されている。それを私たちの魂が目覚めているときには、聖霊が注がれているのをその魂において感知することができる。
 物質世界には数々の不思議があるが、それにもまして驚くべきことは、目には見えない聖なるあるもの(聖霊)が実際に存在して、それを人間の魂が受け止めて導かれるようになるということである。そしてこの聖霊こそは、人間の最も深い心の渇きを癒し、平安を与え、清い喜びを与えてくれるものである。
 私たちが心を開いているならば、物質世界の不思議は、目にみえない世界の不思議へとつねに連れ戻してくれるものとなる。

 


image002.gifノーベル賞と平和

 昨年は二人の科学者(技術者)が、相次いでノーベル賞を受賞したというので、マスコミでも大々的に取り上げられ、とくに田中氏の庶民的な態度に人気が集中していた。
 しかし、彼らのことがずいぶん詳しく報道されていたにも関わらず、核兵器と平和の問題について、またそれと密接に関連している原子力発電の危険性などについて全く二人とも触れていなかったのは残念であった。
 核兵器は科学技術の生みだした究極的な兵器である。原爆の数百倍の破壊力を持っている水爆など一発が東京などで落とされたらおびただしい犠牲者が出るばかりでなく、激しい放射能汚染による多数の障害者や病者を生じ、関東一円が大混乱に陥ることになり、日本全体がかつてない状況になるだろう。
 こうした危険性をもつ核兵器の問題について、科学技術者はつねに本来は発言していく義務があるはずである。
 日本で初めてノーベル賞を受けた湯川秀樹博士は、そうした点では、今回の二人の姿勢とはまったく異なっていた。平和への願いを強く打ち出し、核兵器への反対をはっきりと表明し続けたのである。

 …湯川博士は一九五四年の水爆実験に激しい衝撃を受ける。そして翌年ラッセル=アインシュタイン宣言に署名し、そこで呼びかけた世界の科学者のカナダにおけるパグウォッシュ会議に参加、六二年から八一年にかけて四回の科学者京都会議を主催して、核兵器の全廃と戦争廃絶を訴えつづけた。さらに世界平和アピール七人委員会にも積極的に参加し、世界政府・世界連邦運動の熱心な推進者でもあった。(平凡社・世界大百科事典より)
 
 湯川氏は、科学者として、ただ研究だけしていればよいのだと思っていたが、原爆や水爆ができてからは重大な考え方の変化をもたらすことになったと次のように述べている。

 自然現象に関する最も基礎的な研究をする物理学者の間では、社会的な責任などということは考えず、ひたすら科学的真理のために真理を探求するのが、最も尊敬すべき態度だと認められてきたのである。
 実際、私自身も原子力の実用性が問題となるまではそれでよいと思っていた。
…ある学者が理論物理学を研究することと、他の多くの人々の生命や健康との間に、何のつながりもないように見えていた。しかしそれ以後、今日までの間に、私どもの考え方は変わらざるを得なくなった。…
 最も著しい例は、人間の日常生活と非常に縁の遠い研究だと思われていたアインシュタインの相対性理論が、あらゆる原子力の研究に共通する基本原理の一つであることがわかったことであろう。
…今や原子物理学者の研究は、間接的であるにしても、一人の医者の診察を受ける患者の数とは比較にならない多数の人々の命と関係を持ちうることになったのである。少し大げさに言えば、「人類の存続」とさえ関係を持ちうるようになったのである。…(「現代科学と人間」湯川秀樹著 101102Pより 岩波書店刊)

 今回の受賞者に限らず、ノーベル賞は最も注目される賞であるが、近年受賞した日本の科学者たちも、科学技術と平和、あるいは科学技術と人間の精神的進歩との関連などについての発言はなされていない。たんに専門の科学技術の領域についての発言に留まっている。
 科学技術がいかに進歩したところで、人間の精神面が進まなければ人間の滅びを促進するために用いられる可能性が大である。
 現代の世界の危機は核兵器によって最も鋭く実感されている。もし、アメリカとロシアのような二つの大国が核戦争を起こして、相互に核兵器で攻撃したときには、双方が最低一億人もの死者が生じると言われるから、負傷者、病人を合わせるとおびただしい人間に被害が生じることになる。また、爆撃の基地とか大陸間弾道弾を収めてある場所などへの限定した攻撃の場合でも、一千万単位での死者が双方に出るという。
 こうした恐るべき核戦争以外にも、原子力発電所への攻撃が行われて、爆発事故が生じるなら、あのチェルノブイリの原発事故でも想像できるように、その国に致命的な打撃を与えかねない事態が生じるであろう。
 こうした核兵器のもとは、原子物理学の研究にある。その原子に関わる物理学に関わって、有名な業績をあげた科学者の相当の人物が、ノーベルを受賞している。
 有名なキュリー夫妻、アインシュタインなどもそうした原子力物理学に多大の貢献をした人物であった。
 一九三二年のノーベル賞を受けたハイゼンベルクは第二次世界大戦中はドイツの原爆計画に参画していた。
 また、チャドウィックは一九三二年に中性子を発見した。この中性子を用いることによって今日の原子炉が作られたしこれによってプルトニウムが抽出され、それを用いて長崎に落とされた原爆が作られた。彼もまたノーベル物理学賞を受けた。チャドウィックは,第二次世界大戦中はアメリカのロス・アラモス研究所で原子兵器の研究に従事していた。
 また、ニールス・ボーアは原子の構造の解明に特に重要なはたらきをした物理学者で、一九二二年にノーベル物理学賞を受賞した。彼は優れた物理学者であって、世界から有能な物理学者が集まったが、日本の仁科芳雄もその一人であった。ボーアは一九四三年、第二次世界大戦のドイツ占領下のデンマークを脱出してアメリカに渡り、原子力計画(マンハッタン計画)に参加し、原爆開発計画に協力した。
 また、カール・アンダーソンはやはり一九三六年にノーベル物理学賞受賞して、原爆開発の責任者となるよう依頼されたが、断ったのであった。その代わりにやはり著名な物理学者であったオッペンハイマーが就任した。

 これらは一例であるが、当時の世界的な大物理学者というような人の多くが原爆につながる原子物理学者なのである。日本の湯川秀樹もやはり原子物理学者であった。こうした人々の天才的な頭脳とその研究によって残念なことに、人類最大の破壊兵器である、原水爆が作られる道が備えられていったのである。
 ノーベル賞の第一号の受賞者は、レントゲンである。彼は真空放電の研究をしていて、たまたま近くに置いてあった化学物質が蛍光を発しているのに気付いた。それが未知の目には感じないある放射線であることを発見し、そのゆえにX線と名付けた。(一八九六年)
 これが目に見えない放射線への関心を強くすることになり、そのころ、フランスの科学者ベクレルが、やはり目に見えないウランからの放射線に気付いたのであった。その正体を研究していくことによって、その放射線は、ウランという原子核が、壊れて別の原子になっていくときに放出されるのだということが判明した。そうした研究から原子核を人工的に壊す(分裂させる)ことへと進み、原子核の分裂という現象の本質がつぎつぎと明らかになっていった。そしておよそ五〇年後には、その究極的な産物が、ウランやプルトニウムという原子核の分裂を用いた原爆となってしまったのである。有名なキュリー夫妻の研究も、この放射線に関する研究であり、その結果、ラジウムやポロニウムという新しい元素の発見につながった。
 そういった意味では、キュリー夫妻も、原子物理学を耕す重要な科学者の一人であったから、原子爆弾へ道を備えた重要な人物の一人ということになる。夫妻は誠実な人たちであり、本人たちがそうした研究を始めたときには、未知の放射線へのひたむきな探求の心からなされたのであって、その研究が原爆のような恐るべき兵器につながっていくとは全く想像もしなかったのであるが、結果的にそのようになったのである。今日広く用いられている「放射能」という言葉を提唱したのもキュリー夫人であった。
 このように、今日の最も輝かしい賞であるノーベル賞の出発点が、X線という目には見えない放射線を発見したレントゲンに与えられることから出発し、そのすぐあとにやはりノーベル賞を受賞したベクレルがやはり放射線の研究からノーベル賞を受賞したこと、そしてその研究によって開かれた道は、およそ五〇年後の原子爆弾の製造へとまっすぐに進んでいったのであった。
 ノーベル賞という科学技術の最も栄光ある賞が、原子爆弾への道を最も備えた科学者に多く与えられたということになっているのである。
 このような歴史的な事実を前にして直ちに分かることは、科学技術が進んだとかノーベル賞を多く受賞したといって、単純に喜ぶことはできないということである。
 ノーベル賞を創設したノーベルの業績についてみても、彼が発明したダイナマイトに類する技術が単に土木や鉄道工事だけでなく、爆薬製造にも用いられ、戦争に用いられて数え切れない人々を殺傷することにもつながったのである。
 ノーベル自身は平和を愛した人であったと言われ、そうした状況を悲しんでノーベル賞を創設したといわれているが、彼が一八六六年頃にダイナマイトを発明してわずか七年ほどの後には、ヨーロッパを中心に十五もの爆薬工場を建設し、約三五五種もの特許をとり、それによって巨万の富を得た。そこでそれを用いてノーベル賞受賞者に賞金を与えることになったのであった。
 このように、今日では世界的な栄光のシンボルともなっているノーベル賞であるが、その賞が生まれた出発点のダイナマイト製造から原爆まで、戦争と深く関わることになってしまったのである。ことに最も脚光を浴びてきた物理学賞を受けた科学者たちは多くが原子爆弾への道を備える結果となってしまったのである。
 このように見ても、この世の賞というものが持つ大きな限界を見ることができる。
 主イエスが「人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる。」(ルカ福音書一六・15という、きびしい言葉を出されたのを思い出す。
 私たちはこの世で栄誉を受けるものが決して究極的な真理ではないということ、むしろ真理そのものをもっておられた主イエスが、この世の指導的な人たちから憎まれ、殺されてしまったほどであったことを思い起こす。
 その主イエスがいかなる真理を持っておられたのか、天地の創造主である神の究極的な真理とは何なのか、それは聖書にはっきりと記されている。聖書を表面的に読んだり、またはある一部だけを全体の、とくに新約聖書の光に照らさずに読むときにはまったく間違った結論を引き出すことがある。例えば、アメリカの黒人差別とか、戦争肯定などである。
 私たちは現在ますます武力や戦争を肯定する考え方がマスコミなどに増えている状況にあっていっそうそのようなこの世の流れに押し流されないような確たる土台に立っていることが求められているが、そのためには聖書を深く、正しく読むこと、そして祈りをもって読むことによって正しい土台が据えられていくことになる。

 


image002.gifことば

148)真の聖職者
…いつの時代にも、またどの民族にも、自己と世界との縁を絶ち、自分自身のためにはなんの願望をも持たず、ひたすら正しい道で人を助けるためにのみ生きる幾多の人がいる。これこそ真の「聖職者」である。(ヒルティ著「眠れぬ夜のために」上 一月十五日の項より)

○この文章の前に、ヒルティは、ふつうは牧師などの聖職者は、教会のなんらかの聖職授与式などによって、資格が与えられるとされる。しかし、真の資格は「学んで得られるものでも、そうした授与式によっても与えられることはない。それはただ神の直接のゆるしによっているのであって、それは昔も今も変わりがない」と述べている。
 キリスト者は本来、すべてがそのような「聖職者」となるようにと呼び出された者だといえる。それは聖なる霊が与えられることによってそのように変えられる。聖職者とは聖書の用語でいえば、「祭司」であり、ルターに始まる宗教改革の中心にあったことの一つが、「万人祭司」ということであったが、それはすなわち「万人聖職者」ということになる。だれでも、主イエスが約束されたように、「求めよ、そうすれば聖霊が与えられる」。(ルカ福音書十一・1013) 真剣に求めることによって聖霊が与えられるゆえに、万人聖職者への道がみんなに開かれているといえる。

149)より善くなるとき
他のある者は自分の田畑をより立派にしたときに喜び、また他のある者は、生まれより善くしたときに喜ぶように、私は毎日私自身がより善くなるのがわかる時に喜ぶ。(エピクテートス
*「語録」第三巻五章より)
 何に喜びを感じるか、それによって私たちは自分の精神の成長を知ることができる。食物に喜び(快楽)を感じるのは、人間も他の動物にも共通している。人間は、財産や物、お金を増やして喜びを感じることもある。また、何かを学んで喜びや楽しみを感じるのは、人間の特質だといえよう。人から誉められたり、認められることも喜びになる。
 しかし、物はなくとも、食物も乏しくとも、また人から誉められたりしなくとも、単独でも喜びを感じることができる驚くべき世界が人には与えられている。それがここでいう、自分自身がより善くなることを喜ぶことである。
 聖書で約束されているように、私たちのうちに主イエス(神)が住んでくださるとき、その内なる主によって、直接に
「あなたの罪は赦された」とか
「恐れるな、私が共にいる」
などの静かな語りかけを感じるようになり、そのことで私たちは実際に自分が善くされたことを感じて喜ぶのである。 
 罪赦されることは、罪が清められることであり、確実に私たちは善くされたからである。
 また、恐れるなとの励ましで力を受けるとき、やはり私たちはこの世の悪に負けないで歩みを続けられるということで、たしかに善くされるからである。 このように、主からの語りかけを感じることは私たちを必ず善くする。それはその静かなみ声そのものが、私たちの魂を清め、新しい力をも与えてくれるからである。

*)ローマのストア哲学者。(AD五五~一三五年頃)奴隷の子として成長したが,向学心があったため,主人は当時の有名なストア哲学者のもとに弟子入りさせ,後に解放して自由人としてやった。真理への愛(哲学)を教えて生涯を終えた。生涯,著作を書かなかったが弟子が書き残した語録などがあり、それは後のローマ皇帝マルクス・アウレリウスに大きい影響を与えた。

150)深く学べよ、そうすれば、あなた方は単なる批評家でありえなくなる。深く感ぜよ、そうすれば不平家ではなくなる。
 真理は謙遜であり、沈黙が必要である。宇宙は調和であり、騒がしいことを憎む。深く真理の泉に飲み、近く宇宙の琴線と触れて、われらは、軽薄であることはできなくなる。単なる批評家とか、不平家であるのは、その人が浅薄なる確証である。(内村鑑三「聖書の研究」一九〇三年)

○これは、すでに旧約聖書から、真理の泉に飲むものは、深く満たされるということを述べているがそのことである。「主は、私を緑の原に休ませ、憩いのみぎわに伴い、魂を生き返らせてくださる。(詩篇二三編より)というのも、こうした深く満たしてくださる神の実感を表している。

 


image002.gif返舟だより

○「ことば」の欄に、ヒルティ著「眠れぬ夜のために」からしばしば用いているのは、それを各地の聖書をまなぶ家庭での集会において、聖書を学んだあとで、少しの時間をとって、大体はその日の一項目だけを読書会という形で短時間ですが、学んでいるからです。この書物は毎日の日付とともに短い文と聖書の引用などがあって、短時間しか充てられない場合には好都合なのです。聖書でわかりにくい内容であっても、ヒルティの著作であらたな理解が得られたりする方もあります。内村鑑三の著作は月に一度の読書会で学んでいるので、それも時々引用することがあります。
○来信より
…「はこ舟」を毎月拝読しております。
 お送りいただくようになって約一年になりますが、「はこ舟」を読むようになって(ホームページ含む)、聖書のこともさることながら草花や星々、野鳥などに興味を引かれるようになりました。今まではまったく気にも止めなかった家の周囲や職場(紡績工場)の中に咲く草花に目が引かれるようになり、名前を知りたくて図鑑を購入して調べたり、夜空の星を観察するために「星空ガイド」などを購入したりしています。
「はこ舟」十一月号を読んで明け方の空を見ると、本当に金星が美しい輝きを放っているのを見ることが出来ました。
 また、木星は昨年の今ごろは、夜オリオン座の近くに見られたのに今年は朝方に金星と一緒に見られるんですね。今の時期は星々がいちばんきれいに見ることが出来ます。(九州の読者から)