200410月号 第525号・内容・もくじ

リストボタン力のみなもと

リストボタン心の清いもの、その人は神を見る

リストボタン二種類の喜び

リストボタンキリスト者の願い

リストボタン休憩室

リストボタンことば

リストボタン返舟だより


st07_m2.gif力のみなもと

私たちが日々の生活において、力は人間からは来ない。人間や人間がなしたことを見つめるとき、かえって力は失せる。
まず神を見つめるとき、自ずから力を与えられる。人の書いた物、意見なども知識を増やし助けられる。しかし内なる力は別のところにある。幼な子がまっすぐに母親を見つめるように、私たちもまっすぐに神を見つめるときに力が与えられる。青く澄んだ大空も夜空の星も、その澄み切った色や輝きは神に近い。神の直接の御手のわざであるゆえ、そうしたものを心から見つめるときに、やはり天よりの水を受け、力を与えられる。
聖書は神の言葉だと言われる。それはまっすぐに神を見つめ、神から言葉を直接に受けたその記録だからである。それゆえそこには力がこもっている

私たちも人よりの一時的な、移ろいやすい力でなく、永遠的な神の力をうけるために、単純にしかも真剣に幼な子のように神を仰ぎ続けていきたい。

 


st07_m2.gif心の清いもの、その人は神を見る

神を見る、それは旧約聖書では禁じられていたことであった。神を見ると死ぬといわれていた。モーセだけが神に近づくことが許されたこと、イザヤのような特別の預言者だけが、神を見たと記されていることからもわかる。(出エジプト記二四章、イザヤ書六章)
しかしキリストが来られて私たちは罪の汚れを取り去られ、赦されて神との障壁がなくなり、それによって神を見ることができるようになった。
神を見るとは神の心を見ることである。人を見るとはその人の心を見ることである。外見でない。神を見ることが許されたとき、私たちは神の心が少しでもわかるようになり、神は苦しむ人、闇にある人に向かっているのがわかる。それゆえそうした状態の人に心が向けられるようになる。
神を知らないとき、だれでも楽しげな人、外見のよいひと、能力をもっている人などに心が向かうものであるが、それが変わってくるのである。
神を見ることができるのはどのような人と言われているか、それは心に何も誇ったり、頼るもののない人、聖書の用語で言えば、心貧しき人である。自分の心にすがる気持ちがあれば神への心が育たない。主イエスが「山上の教え」で、言われた、「幸いだ」という一連の言葉は、後のほうに書かれている神を見るということとつながっている。

ああ、幸いだ。心の貧しい人たちは。神の国はその人たちのものである。
ああ、幸いだ、悲しむ人たち。その人たちは神によって慰められるから。…
ああ幸いだ、心の清い人たちは。その人たちは神を見る。(マタイ福音書五・38より)

悲しみを深く抱く者、そしてそこから神を仰ぐ者は、それによって神からの慰めを受ける、神の心がみえてくる、神からの励ましの言葉が聞こえてくるのである。
神を見るとはまた神の被造物である天然そして人間の心もわかるようになるということである。自然にこめられた神の心、それは至るところにある。人間の心にある罪や悩み、苦しみも神の心をとおしてみえるようになってくる。
神を知らない人にも人間の心は見えるという人もいるだろう。しかし、その場合にはしばしば人間の内なる弱さや自分中心の心など、醜さばかりが浮かび上がってくるであろう。
日本の代表的な作家であった、夏目漱石の作品は晩年になっていくにつれてますます暗くなっていった。岩波文庫で最もよく読まれてきた作品が「心」と題するものであるが、それはその作品名で読者が期待するような心の励ましとか力を与えられるような内容では全くない。逆に、人間関係のもつれから自らの命を断った人の手紙のかたちで記された実に暗い内容なのである。古今東西の文学に通じた晩年の漱石の「心」とはそのように深い影が射してきたものなのであった。 漱石と並び称される作家、芥川龍之介もまた、最後には自分の命を断った。
このように、いくら才能豊かで、思想や文学、芸術に通じているからといって、神は見えてこない。生まれながらの人間はいかに能力が高くても、そのままでは人間の悪や醜さ、はかなさが見えてくるのである。
これとまったく対照的なのが、ここでいう、神によって心清められた者の眼である。神を信じ、キリストによる罪の赦しを受けることで、私たちの眼が新たにされ、汚れたものでなく、神の清いお心がみえてくるようになる。そこからその神の光をもってみるとき、この世や人間にも清いものが浮かび上がってくる。
神を見つつ人間の苦しみをみるとき、そこに何か引き寄せようとする力を感じ、そのような弱さの中にある人へと向かう心が生じる。ここに神の愛のはたらき、聖なる霊のはたらきがある。
聖霊を与えられるとすべてが教えられる、それは神の心がみえるようになるということである。

 


st07_m2.gif二種類の喜び

今年はオリンピックがあり、また野球で大記録を作った選手のこともあり、新聞やテレビのニュースでも金メダルをいくつ取ったとか、記録があといくつで達成とかいうことが繰り返し報道された。
日本の選手がアメリカで稀な記録を達成したことは、喜ばしいことであろう。
しかし、こうした喜びとまったく本質的に異なる喜びの世界があるが、それらは決してそのように新聞やテレビなどのニュースでは扱われることがない。
それは天における喜びである。

よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にある。(ルカ福音書十五・7
よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがある。(同、10

このように、神が特別に喜ばれることは、真実なものに逆らい続けてきた人間が、そのことに気づき、神に向かって自分のそうした罪を悔い改めること、そこに天の国で大いなる喜びがあるといわれている。
これは、よく知られた放蕩息子のたとえ話でもさらに強調されている。
ここに書かれている息子は、父親の財産を父が生きているうちから分け前を受けとって遠いところまで出かけて放蕩のかぎりをつくした生活をし、もう生きていけなくなるまで、落ちぶれてしまった。そこで初めて自分の罪に気づき、どんな仕打ちを受けてもいいから帰ろう、罪を悔い改めて父のもとに帰ることにした。

…そこで息子は、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼を見つけ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。
息子は父に言った、『お父さん、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうお父さんの息子と呼ばれる資格はありません』。
しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせよ。そして、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて喜ぼう。
このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。(ルカ福音書十五章より)

ここでの父親とは神をあらわしていて、神はどんなことを最も重要なこととしているかが明確に記されており、神が最も喜ばれることは何であるかが印象に残る描写で描かれている。
スポーツ界の人たちがもたらす喜びというのと、このような聖書で記している喜びとの違いはどこにあるか、それはつぎのようなところにある。
まず、オリンピックでの金メダルとか、スポーツ界で一位となるということは、他の大多数の人たちにはまずできないことである。
生まれつき病弱な人、歩けないような障害のある人、また貧しさのなかにあって、スポーツをするどころでなく、学校を卒業したのちすぐに一日中働かないといけないような多くの人たちには、特別なスポーツの練習する団体に高額の費用を払うゆとりもない。
またアジアの貧しい国々では、生れてから学校すらまともにいけない、病気すら治してもらえない、食物すらまともになく、おびただしい人々が飢えと貧困に今も苦しんでいる。そこでは、一日中ボールを追いかけてするスポーツなどは夢のなかの世界でしかない。
オリンピックで金メダルをもらう選手、あるいは大記録などをつくるような選手の背後には莫大なお金が動くために、その金にむらがる人たちも生じる。そこにはドーピングといった不正な方法ででもメダルを取れば、自分の国からは莫大な報奨金をもらえるという欲望が巣くうことにもなる。
このように、大々的に報道されるたぐいの喜びは、本質的に普遍性をもっていないのであって、時間的にも場所的にも、ごく限られているし、そこにはしばしば金にまつわる暗い影がつきまとっている。
金メダルを取ったという喜びは、敗者の人には分かつことができない。いわんや貧困にあえぐ国の人たちと共有することもあり得ない。日本人が金メダルをたくさん取ったといって喜んでいるその様子を、アジアの飢え苦しむ人が見れば何を感じるだろうか。
それに一番を取ったといって喜ぶその心は、成績がわるいものを無視し、見下すことにつながる。
またそうした喜びはたちまち時間とともに色あせてくる。だれかが金メダルを取ったとかいう喜びは、ほとんどの人にとって数か月もしたら何の喜びにもならなくなっているだろう。
しかし、聖書に言われている悔い改めに伴う喜びは、勝ち負けによる一時的なものではなく、神の喜びであり、それは悔い改めた本人も最も深い喜びを実感するものとなる。放蕩息子の父は最大限に喜びを現したが、その息子はもう奴隷同様に扱われても仕方がないという覚悟で帰って来たのに、かつてないような喜びで受け入れてくれたということは、この息子にとっても初めての深みある喜びであり、かつてまったくそうした喜びがあるとは知らなかったのである。
そしてこのような、悔い改めに伴う喜びは、天の国の喜びであるゆえに、だれにでも分かつことができる。他の人に悔い改めを指し示して、その人が神に心を方向転換するとき、その人も同様な喜びを持つことができる。神が喜んで下さっているという実感がさらにその人の喜びをも新たにしていく。
悔い改めの喜びは、本人にも最大の喜びであり、周囲の人たちにも大きな喜びとなるばかりか、その喜びは他者にも伝わっていく。
私たちが罪赦された喜びの実感は、はるかな古代にペテロやパウロが自分たちの裏切り行為やキリスト教徒を迫害したような重い罪を赦されて感じた喜びと同質のものなのである。それは連綿と二千年もの歳月を超えて、大河のながれのように人類の魂を流れ続けてきたのである。
スポーツや芸能の世界で一番を取るなどはきわめて少数の生まれつきの能力ある人にしか与えられない。しかし、悔い改めて神のもとに立ち返る喜び、そして神からさらにゆたかな霊の賜物を与えられる喜びは、いかなるひとでも、またどんな社会的状況であっても与えられるものであり、他者にも分かち与えることのできるものである。
私たちはこうした静かな、しかし神に根ざす力強い喜びを求めていくものでありたいと思う。

 


st07_m2.gifキリスト者の願い

キリスト教の最大の使徒というべきパウロは、新約聖書に収められた彼の手紙につぎのように自分が何者であるかをはっきりと記している。

…人々からでもなく、人を通してでもなく、キリストと神によって使徒とされた…(ガラテヤ書一・1より)

パウロは、人によって任命されたのでもなく、人間的血筋とかも関係なく、直接に神によって「召された」
*と強調している。召されたという原語の意味は、「呼び出された」という意味である。
彼が呼び出されたのは、何のためか、それはユダヤ人以外の人々をキリスト信仰に導き、信仰による従順、すなわち、原語のニュアンスをとって言えば、主イエスに聴き従う
**ようになるためであった。

…私たちはこの方(キリスト)により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされた。(ローマ書 一・5

*)・神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ、…(Ⅰコリント一・1
・キリスト・イエスの僕、神の福音のために選ばれ、召されて使徒となったパウロから…(ローマ一・1

**)従順とはギリシャ語で、ヒュパコエー hypakoe であり、これは ヒュポ hypo(~の下) と、アクーオー akouo(聴く)から成っており、「~の下で聴く」という意味。

人間は、神に聴くという姿勢をはじめからだれも持っていない。神などいないと思っているから当然である。ただ自分の欲望、本能、考え、感情などで動いている。それに聞いているのである。そのような人間の根本的な方向を変えて、神に向き直り、神に聴こうとする姿勢へと転換させるために、パウロは呼び出されたのである。
私たちもキリスト者となったのは、そのためであって、日々の行動や考えることが自分という人間、あるいはほかの人間の言うままに従うのでなく、神、あるいは主イエスに聞いてそれに従おうとする姿勢を持つようにと呼び出されたのである。集会の参加においても、他人との交わりにあっても、自分が○○したいとかでなく、神はどちらを喜ばれるだろうか、と考えること、まず神に聴こうとする姿勢である。
そしてまたそれをパウロは言い換えて、「あなた方がキリストのものになるように、キリストに属するものとなるように、呼び出された」とも言っている。
私たちは、自然のままでは、罪のとりことなっている。罪というものの奴隷だと言われているように、自分中心に万事を考えていく。そのような状態から解放して、キリストのものとならせるためだというのである。
私たちはそれぞれ日本という国に属しているし、それぞれ会社や家庭に属している。しかしキリスト者となったということは、そのように属していながら、魂はキリストに属するようになったのである。私たちの国籍は天にある、とパウロは別のところで言っているがそれと同様である。
次にパウロは、キリスト者とは、神に呼び出されて「聖なる者となった」と言っている。これも、神から呼び出されて、直ちにいわゆる聖人になったというのでなく、「神のために分かたれた者になった」という意味である。
日本語の聖人というのと、聖書の書かれたギリシャ語において、「聖なる者」(ハギオイ hagioi
というのでは意味が大きく異なっている。どんなに不完全な者であっても、私たちがキリスト者となったということは、神から呼び出されたということであり、それはすなわち神のため、神の国のためにこの世から分けられた存在になったということなのである。
キリスト者というのは、器なのである。土で作られた汚れた、しかももろい器なのである。
欠点はある、人間的なところもいろいろと残っている。それはたしかに壊れやすい土の器でしかない。しかしその土の器に、神の国の大いなる宝を盛ってそれを神は他者に分かち与えようとされているのである。
このことを私たちが深く知らされるとき、自分の欠点とか罪、弱点などにいつまでもこだわることはない。ただそのような器にも高価なる真珠にたとえられる天の国の宝を盛ってくださった神に感謝し、その宝を他者に分かち、伝えていけばよいのである。

パウロはローマに行きたいという強い願いを持っていた。しかしそれは、もちろん自分の楽しみのためでなかった。ふつう、人間がどこかに行きたいのは、ほとんどが単なる会社の用事であったり、観光や気晴らしなど、自分の希望や楽しみのためである。 そこには自分というのが中心にある。自分がそこに行きたい、見たい、遊びたい、等々である。
しかし,パウロは、聖霊によって与えられた力や真実、愛、洞察、預言などの賜物をローマの人々に少しでも分かちたい、与えたいということが目的であった。人間は、キリストに導かれるときこのように、人に会う時でも、自分が気の会う人だから会いたい、といった自分中心でなく、相手の人に分かちたいという気持ちになる。 病人に会うということも、そのように会いたいというより、その人に何か力を与えたい、分かちたいという気持ちなのである。

あなたがたにぜひ会いたいのは、(神の)霊の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからである。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのである。(ローマの信徒への手紙一・1112

私たちの究極的な生き方がここにある。それは「神から霊の賜物を受けて、それを他者に分かつこと」である。
神からの霊の賜物のうち最高のものは、愛であるから、これを言い換えると、神から愛を受けて、その愛を他者に分かつということである。
ここにキリスト者の最終的な願いがある。
人生の生き方などというと千差万別のように思われているし、実際人間の数だけ生き方はある。
万人にとって共通して一番よい生き方などない、と思っている人が多数ではないだろうか。しかし、神のご意志ははっきりとしている。
霊の賜物の最高のものが神の愛であることは、他の聖書の箇所ではっきりと言われている。

あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。…
信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
愛を追い求めなさい。(Ⅰコリント十二・31~十四・1より)

このようにパウロは自分が受けている神からの恵みをローマのキリスト者たちに分かちたいという切実な願いのゆえに、彼等に何とかして会いたいとねがっていた。それほどパウロには神からの賜物があふれていたのがうかがえる。旧約聖書の詩集(詩編)に、つぎのようなのがある。

…神はわが牧者なり、我には乏しきことなし。
神は我を緑の牧場に伏させ、憩いの水際に伴われる。
…わが杯はあふれる。(詩編二三より)

これは神から与えられた賜物を豊かに与えられていた魂の声である。同様にパウロはさらに深くキリストの恵みと賜物で満たされていた。それゆえこのように、「互いに励まし合いたい」と言っているのである。互いによきものを与え合う。私たちもこのような生き方をすることはできる。その第一歩は、互いに祈り合うことである。
キリスト者たちが日曜日ごとに、あるいは他の曜日に持たれる家庭での集会なども、それはパウロが言っているように、互いに霊の賜物を分かち合うことであり、励まし合うことがその目標となる。
主がそれらの集会のうちにいますとき、必ず参加する者たちは互いに励まされ、各自の受けた賜物を知らず知らずのうちに分かち合うことになっていく。
「二人、三人私の名によって集まるところに私はいる」と主イエスが約束してくださったとおり、その集まりのうちにいます主が、そのように賜物を与え、分かちあえるように目に見えない力で導いてくださるのである。
しかし、もし人々の間に主がいてくださらないならどうであろうか。人間同士は互いに自慢しあったり、他者のわるいところをいったり、あるいは互いのうさばらしなど意味もないおしゃべりに時間を費やすことになりがちである。
しかし、主がそこにいて下さるときには、天の国がそこに実現しているのであって、そうした集まりのなかに命の水が流れはじめる。一人で家にいるときには与えられないような平安や魂の満たしを実感することができる。
「ローマにいるあなた方にも、ぜひ福音を告げ知らせたい」とパウロはまだ会ったことのない、ローマのキリスト者たちに、神からの愛と情熱をもって語ろうとする。
福音とは、その原語の意味は、「よき知らせ」である。
*(実際、そのように「聖書」のタイトルを「Good News」と付けた聖書も外国にはある。)

*)福音とは、ギリシャ語で、ユウアンゲリオン euangelion という。ユウ eu とは「良い」という意味、アンゲリオンは、アンゲロウ という「知らせる」という動詞がもとになっている。この言葉は、英語のevangel(福音)とか、人名の エヴァンジェリン(Evangeline)などが作られている。この人名は、エヴァと短縮されたりして、ストー夫人のアンクルトムの小屋とか、ロングフェローの長編詩「エヴァンジェリン」の主人公の名としても使われている。

この世は新聞やテレビ、あるいは、周囲の人間は、本当によき知らせというのを持っていくことはできない。だれかが優勝したとか、試合で勝利したとか、よい人と結婚したとか、出産したとかも一種のよい知らせではある。しかし、次に負ければたちまちわるい知らせとなり、結婚後に悲劇的な離婚となったり、子どもが成長して親に限りない苦痛を与える場合もあり、それらを見てもわかるように、この世のよい知らせはたちまち悪い知らせともなってしまうもろいものである。
パウロが情熱をもって告げようとしている、キリストの福音こそ本当の意味で良き知らせなのである。それこそは、使徒たちの時代から今日まで良き知らせであり続けている。
それはどんな絶望の人、重い罪を犯したり、死の病にある人、孤独な人、貧しいひとたち、そのような最もくらい状況に置かれ、もはや何のよい知らせもないと、絶望しているひとたちにすら、良き知らせであり得るのである。
そのような驚くべき永遠性をもった良き知らせ、だからこそパウロはそれを命がけで人々に伝えようとしたのであり、以後二千年にわたって世界中でその福音は語り続けられてきたのである。
今日も、それはよき知らせであり続けている。神は太陽の光のように、絶えずよき知らせ、罪の赦しと、死に打ち勝つ力の存在(復活)、そしてこの世は最終的に新しい天と地になるという永遠の良きニュースを神の国から私たちへと送信しつづけてくださっているのである。

 


st07_m2.gifこの世は何が支配しているのか

旧約聖書にはダニエル書*というわかりにくい書物があるが、そこには一読して分かりやすいと思われる内容もある。
例えば、王を神のように拝めという命令に従わなかった三人の若者たちは、火に投げ込まれるが、驚くべき神の守り、すなわち御使いたちによって救い出されたこと、また、ダニエルが、王の命令に背いて、自らの信じる神に毎日祈りと讃美を捧げていることが見つかり、ライオンのいる洞窟のなかに投げ込まれる。しかし、そこでも神の守りによって危害を受けなかったことなどが書かれている。

*)ダニエルという名前は、有名な指揮者かつピアニストのダニエル・バレンボイムのような人名としてなじみがあり、私もキリスト者となるずっと以前からダニエルという名前は知っていた。ダニエルとは、ディン(裁く)と、エル(神)とから成っており、「神は裁く」という意味をもっている。

このような内容は、子どもの日曜学校のテキストにも書かれてあり、あまりにも非現実的だということのためか、単に興味深い昔話として読まれてしまい、現代の私たちと関係のないものと思われがちである。
けれども、このような驚くべき奇跡によって、このダニエル書は永遠のメッセージを神から私たちへ伝えようとしている。それは、この世は悪が至るところにあり、その悪が支配しているように見えるし、実際に悪しき権力者やその部下たちによって正しい人たちが実に無惨に捕らえられ、苦しめられ、殺されていく。
しかしいかに現実の世界で神などいないと思われるような暗い状況においても、背後には、神の驚くべき守りがあり、御計画があるということへの確たる証言なのである。
信仰のゆえに、神を信じる者が著しい苦しみを受けるということ、それはこのダニエル書の時代だけでなく、ずっとはるかな古代から今に至るまで続いている事実である。
ダニエル書が書かれた時代は、この書物のさまざまの記述を綿密に研究することによって、紀元前一六八年頃といわれている。それは、その頃にイスラエルに激しい迫害を起こした、アンティオコス・エピファネス四世(**)の時代の頃に書かれた書物だとされる。このことは、旧約聖書続編(***)の、マカバイ記という書物に詳しく記されている。このマカバイ記は、新共同訳では87頁にわたっており、創世記とほぼ同じ分量で、当時のアンティオコス・エピファネス四世の迫害の状況が具体的、詳細に記されている。

**)アンティオコス・エピファネス四世とは、在位 BC175163。アレクサンドロス大王の死後、創設されたセレウコス王朝の支配者のうちの一人。マカバイ記には直接彼の名前が何度か記されている。「そしてついには、彼等の中から、悪の元凶、アンティオコス・エピファネス四世が現れた。…」(マカバイ記一・10
***)旧約聖書続編とは、外典とも言われる。ヘブル語旧約聖書に含まれていない文書で、キリスト教会によって、尊重され、正典ないし、それに準ずる位置を与えられてきた諸文書をいう。有名な古代教父たちの間でもその位置づけについては意見が分かれていて、ヒエロニムスは旧約正典と外典を区別したが、アウグスチヌスは正典と外典を区別しない立場を取った。旧約聖書から新約聖書の間には大体において数百年の隔たりがあり、その間に書かれた文書は、その頃の歴史や当時の人たちの信仰を知るためには不可欠のものである。
ここでは、とくにその七章について見てみよう。


ダニエルは、一つの夢を見た。それは次のような内容である。
… 天の四方から風が起こって、大海を波立たせた。
すると、その海から四頭の大きな獣が現れた。それぞれ形が異なり、第一のものはライオンのようであった。…
第二の獣は熊のようであった。
次に見えたのはまた別の獣で、豹のようであった。
第四の獣は、非常に強く、巨大な鉄の歯を持ち、食らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじった。他の獣と異なって、これには十本の角があった。
その角を眺めていると、もう一本の小さな角が生えてきて、先の角のうち三本はそのために引き抜かれてしまった。この小さな角には人間のように目があり、また、口もあって尊大なことを語っていた。…(ダニエル書 七章より)

このような記述だけをみれば、全くなんのことか分からない人が多数を占めるであろう。ダニエル書は当時の世界の歴史的な状況を描いているのである。海から四頭の獣が現れたという。現代の私たちと異なって、聖書の時代には、海はその深い闇と大量の水によって舟でも人間でも呑み込まれたら二度と帰っては来れないということなどから、得体の知れない恐いもの、サタンがそこに住んでいるとみなされていた。黙示録にも、悪魔から力を受ける一頭の獣が海から現れることが記されている。(黙示録十三・12
ここで言われている四頭の獣とは、バビロン、メディア、ペルシャ、ギリシャとされている。
そして、第四の獣の十本の角から、一つの小さな角が生えてきて、ほかの角は引き抜かれ、傲慢な態度であったという。 この小さな角こそ、ダニエル書の書かれた時代に最も厳しい迫害をして、民を苦しめた、アンティオコス・エピファネス四世であり、ダニエル書全体がこのときのはげしい迫害を背景として記されている文書なのである。
この支配者がいかに神の民を苦しめたかについては、さきに述べた旧約聖書の続編に含まれるマカバイ記に詳しく記されている。その一部をここに記す。

…そしてついに彼等の中から、悪の元凶、アンティオコス・エピファネスが現れた。彼はエジプトを侵略し、その後で、イスラエルへの攻撃に転じて、エルサレムに大軍とともに進軍した。そしてこともあろうに、人々が最も神聖だとする聖所に入り込み、金の祭壇、燭台、その他の神への礼拝に用いる用具などを奪い、金の装飾とか金銀の貴重な祭具類をはぎ取り、略奪のかぎりをつくして国に帰っていった。
数年後、再び大軍をともなってアンティオコス・エピファネス四世はエルサレムに来て、イスラエルの人々をだまして、平和交渉と称して襲いかかり、多くのイスラエル人を殺した。そして略奪をした上で、都に火をつけて、家々や都を取り囲む城壁を破壊した。女、子どもは捕らえられた。…
聖所での焼き尽くす献げもの、いけにえ、なども中止し、安息日や旧約聖書にもとづく祝祭日も中止、聖所を汚し、そのうえで、異教の祭壇や偶像を作り、人々がながく守ってきた割礼を禁止した。要するに神からうけたとして守ってきた律法を忘れさせようとした。そして律法の巻物を見つけるとそれを引き裂いて火に焼いた。それを隠していたのが見つかったり、律法に従って生活を続けている者は、見付け次第処刑された。子どもに割礼を授けた母親は、王の命令で殺し、その乳飲み子を母親の首につるして、その家族の者たちまでも命を奪った。(旧約聖書続編 マカバイ記Ⅰ一章より)

この記述と、旧約聖書のダニエル書にある次のような記述を比べてみれば、それが共通した内容を持っていることに気付く。

その上、天の万軍の長(神)にまで力を伸ばし、日ごとの供え物を廃し、その聖所を倒した。
また、天の万軍(イスラエルの人たち)を供え物と共に打ち倒して罪をはびこらせ、真理を地になげうち、思うままにふるまった。
わたしは一人の聖なる者が語るのを聞いた。またもう一人の聖なる者がその語っている者に言った。「この幻、すなわち、日ごとの供え物が廃され、罪が荒廃をもたらし、聖所と万軍とが踏みにじられるというこの幻の出来事は、いつまで続くのか。」(ダニエル書八・1113

また、このことは、さらにダニエル書の十一章においても再び記されている。

彼(アンティオコス・エピファネス四世)は軍隊を派遣して、砦すなわち聖所を汚し、日ごとの供え物を廃止し、憎むべき荒廃をもたらすものを立てる。
契約に逆らう者を甘言によって棄教させるが、自分の神を知る民は確固として行動する。
民の目覚めた人々は多くの者を導くが、ある期間、剣にかかり、火刑に処され、捕らわれ、略奪されて倒される。(ダニエル書十一・3133

以上のように、マカバイ記に記されている迫害の背景を知ってはじめて、ダニエル書がそれと同時代に書かれた文書であるということがはっきりと感じられるようになる。

つぎに、マカバイ記Ⅱの六~七章の中からより詳しい記述を引用する。

息子に割礼をしたという理由で、二人の女が引き出され、その胸に乳飲み子をかけられ、、彼女たちは町中引き回されたあげく、城壁から突き落とされた。また近くの洞窟にて、秘かに安息日を守っていた人々があったが、密告され、みな焼き殺されてしまった。…
律法学者として名声のあったエレアザルはすでに高齢であったが、口をこじ開けられ、律法で禁止されている豚肉を食べるように強制された。しかし、彼は神の律法で禁止されているものを食べるよりは、むしろ死を受け入れることを選び、それを吐き出してすすんで拷問をうけようとした。そのとき、彼と知り合いの者が豚肉の代りに清い肉を食べて、豚肉を食べたようにみせかけることをひそかに連れ出して勧めた。しかし、エレアザルはそれを断ってこう言った。
「我々の年になって嘘をつくのは、ふさわしいことではない。そんなことをすれば大勢の若者が、エレアザルは九〇歳にもなって、異教に転向したと思うだろう。そのうえ、彼等は、ほんのわずかの命を惜しんだ私の欺きの行為によって道を迷ってしまうだろう。また、私自身、わが老年に泥を塗り、汚すことになる。たとえ今ここで、人間の責め苦を免れたとしても、全能の神の御手からは、生きていても死んでも逃れることはできないのだ。」このようにして進んで責め苦を受けて、世を去っていった。
また、七人の兄弟が母親とともに捕らえられ、律法で禁じられている豚肉を食べるよう強制された。しかし、彼等は「律法に背くくらいなら、いつでも死ぬ用意はできている」と言って、拒んだ。王は激怒して大鍋を火にかけさせ、兄弟のうちで代表的な者をまず母の面前で王に逆らったゆえにその舌を切り、頭の皮をはぎ、からだのあちこちをそぎ落とした。見るも無惨になった彼を、息のあるうちにかまどのところに連れて言って、焼き殺すように命じた。このようにして、次々と殺されていった。しかし彼等は、王に対して次のように言って世を去っていった。

あなたは、この世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王は律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせて下さるのだ。
たとえ、人の手で死に渡されようとも、神が再びよみがえらせて下さるという希望をこそ選ぶべきである。(「マカバイ記Ⅱ 七・914より)

このように、最も厳しい迫害のさなかにおいて、旧約聖書でははっきりとは言われていなかった復活ということが明確に確信をもって言われている。
そしてダニエル書においても、つぎのように、旧約聖書では復活のことが唯一明確に記されている。

多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り
ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。
目覚めた人々は大空の光のように輝き
多くの者の救いとなった人々は
とこしえに星と輝く。(ダニエル書十二・23

旧約聖書の長い時代において、死者からの復活ということは記されなかった。神の霊を豊かにうけたアブラハム、モーセ、サムエルなどの数々の預言者たちも、死の力に勝利する復活の力が与えられるということは啓示されなかった。それゆえ、創世記などでも、ヤコブは自分の子どもがエジプトから帰らなくなるかも知れないことを知ってつぎのように言っている。

…何か不幸なことがこの子(ベニヤミン)のうえに生じたら、お前たちはこの白髪の父を、悲しみのうちに、陰府に下らせることになるのだ。…(創世記四十二・38

このように、単に死後の暗い陰府と言われたところに下るとしか思っていなかったのであるし、モーセのような旧約聖書の最大の人物、再び彼のような預言者は現れなかったと記されているほどの人物でも、「主の僕モーセはモアブの地で死んだ」と書いてあるだけで、天に昇ったとか、神のところに帰ったといった記述はまったくされていない。(申命記三十四章)

復活という、きわめて重要なこと、それがなかったらキリスト教という信仰のかたちもあり得なかったのであるが、それは、キリストより百七十年ほど昔のダニエル書において初めて明確なかたちで記されているのである。多くの人たちが神の律法のゆえに命を落とし、拷問され、苦しめられた。それは民族の危機であり、それを支えてきた信仰の存亡の危機であった。
けれども、神はそのような苦難をも決して無駄にすることはなさらない。この苦難の時期において記された、マカバイ記やダニエル書によって、復活というキリスト教の柱となる真理が明らかに示されたのである。
さらに、こうした苦難によって、打ち倒され、神への絶望に打ちひしがれるのでなく、ダニエルを通して、いかに悪魔的な支配をふるうものであっても、それらはすべてある期間までのことであって、それが終わればたちまち神の裁きを受けて滅んでいく、という神の支配がこれも明確に示されることになった。
そして最終的には、神の全面的な力と支配の力をうけた「人の子のようなお方」が現れてすべてを神の善きご意志のままに愛と真理の支配をなされるということなのである。
この「人の子」という表現は主イエスも用いられた。そしてイエスの再臨のときに語られた主ご自身の表現でも、ダニエル書の表現とはっきりした類似点がある。

夜の幻をなお見ていると、
見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り
年を経たと見えるお方(神)の前に来て、そのもとに進み
権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え
彼の支配はとこしえに続き
その統治は滅びることがない。(ダニエル書七・1314

ダニエル書で言われている、「人の子のような者が天の雲にのって…」という表現は、つぎの主イエスご自身が言われたことを思い起こさせる。主イエスはこのダニエル書の言葉にさらに新しい意味づけをされ、世の終わりに現れるご自身を表す言葉として用いられたのである。

イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見る」。(マタイ福音書二六・64

また、人の子のような者が、神の前に来て、永遠の支配権、力を受けて、諸国はみな彼に仕え従うということは、新約聖書の黙示録で言われている、次の表現と同様な内容を持っていると言えよう。

…小羊(キリスト)は、主の主、王のなかの王であるから、彼ら(神に敵対する王たち)に打ち勝つ。(黙示録十七・14より)

ここでいわれていることは、小羊といわれるキリストは、あらゆる上に立っている者(主)たちの、さらに上に立っておられる存在であり、この世のあらゆる支配者(王たち)のはるか上にあって、それらの権力者たちを支配なさっているお方だとということである。
このような人間を超えた力、支配力は、人間が持つことはできない。それはダニエル書でいわれているように、神から直接に受けなければ持てない力である。
ダニエル書は旧約聖書にあってすでにキリストが神と同質のお方であるということを預言しているのであって、キリスト教の時代になって明らかにされていった、三位一体という真理を暗示していると言えよう。
このように、ダニエル書は、特別に残酷な迫害をもって人々を苦しめたアンティオコス・エピファネス四世の時代に書かれて、そこから悪魔の支配がはびこっているただなかであったゆえに、この世は何が本当に支配しているのか、という問題をとくに焦点をあててダニエル書全体にわたってさまざまの内容、表現をもって答えようとしているのがわかる。
ダニエル書のはじめの部分にあり、この文のはじめに引用したことをここで思い起こしてみよう。
偶像礼拝をしないという罪のために、燃える火の中に投げ込まれた三人の人たちが、神の助けによって不思議に助け出されたこと、またライオンの餌食に投げ込まれた洞窟で、驚くべき守りによって命を長らえたという二つの出来事は、ありもしない昔話とか、子ども向けのお話などいうことでなく、命をかけて唯一の神への信仰を守り抜こうとしたときの驚くべき助けの経験をふまえていわれているのである。恐ろしい迫害の時代にも、通常の平穏なときには想像を絶する責め苦に遇いながらも、そこに向かっている人たちが絶えなかったのは、このような奇跡ともいうべき助けが与えられたからであっただろう。外見的には助けなく、殺されていったように見える人であっても、その心の中に、御使いが現れて火の中、ライオンの中のような厳しさのただなかに、神の御手が伸ばされ、自らの魂が守られているのを実感したと考えられる。
火の燃える炉とは、すなわち激しい敵意であり、憎しみであるし、飢えたライオンとは、食いつくそうとするようなこの世の力、権力を象徴的に表している。私たちが神の御手にしっかりと捕らえられているかぎり、この世の力がいかに私たちを食いつくそうとして襲いかかってもなお、私たちはふしぎな守りを与えられてその魂が導かれていくのである。
ダニエル書とはこの世の悪との戦いについての勝利を述べた書だと言える。そのために、神とはどんなお方であるかということについても、そうした側面から強調されている。
ダニエルが見た神のすがたは次のように記されている。

… なお見ていると、王座が据えられ
長く年を経たと見える者(神)がそこに座した。その衣は雪のように白く
その白髪は清らかな羊の毛のようであった。その王座は燃える炎
その車輪は燃える火
その前から火の川が流れ出ていた。…(ダニエル書七・910より)

ダニエルが見た神の姿は、何よりも罪の汚れの一切なく、完全な清いお方であるということ、そして永遠の存在者であることであった。さらに強調されているのは、神の王座は燃える炎であり、神は自由に動くことができるので車輪のようなものの上に座しておられるという見方がここでなされており、その車輪そのものが燃える火であったという。さらに神の前からは火の川が流れだしている…ここでは「火」ということが繰り返し強調されていて、それは裁きの象徴として用いられている。
この書物が書かれた時期は、悪の力が支配して神に従おうとする人たちをふみにじっていたゆえに、いつまでこのようなことが続くのか、との真剣な問いかけに答える内容がこのダニエル書には満ちている。
悪がいかにはびこって支配しているように見えようとも、神はそうした悪を滅ぼす火のような力で満ちた存在なのである、だから悪を働く者たちの運命もごく限られているのであって、時が来たら、神から出る火の力によってたちまち滅びていくのだ、というメッセージが込められている。
このように、ダニエル書においては、神の愛という言葉は現れないで、神の悪への支配の力が強調されている。そして神が悪を滅ぼすのも、苦しめられている人たちへの愛ゆえであると言える。
現代に生きる私たちにとっても、悪の問題はつねに最大の問題であり続けている。アメリカのイラク攻撃、またイスラム原理主義の人たちによる無差別的テロ攻撃、あちこちで生じる犯罪、悲劇などなどすべては要するに悪の問題であり、この世を悪が支配しているのではないか、神などいないのではないかという深刻な疑問を抱かせるような事態が次々と生じている。
こうした中において、ダニエル書の私たちへのメッセージは闇に輝く光のように浮かび上がってくる。悪に対する神の力の勝利、その確信こそは最も私たちに必要なことなのである。

 


st07_m2.gif休憩室

○秋の山
最近の山は春以上に野草の花が見られる季節です。先日九州の全国集会のおりに、妻の実家に寄ったがそこから別の訪問先へと車で移動していたとき、とある山道にさしかかりました。初めての道でしたが、ちょうどその山道の両側には、小さい青紫色の花をたくさんつけるヤマハッカと、秋の七草に含まれる有名なフジバカマとほとんど花自体は同じであるヒヨドリバナ、そしてその仲間であるサワヒヨドリ、黄色い花をつけるヤクシソウ、それから山の野菊として代表的なヤマシロギク、シラヤマギクなどが次々と咲いていて、花の道のようでした。関西、四国、九州などは大体このような似た野草が見られ、これらを覚えるとどこに行っても友達がいるような親しみを感じつつ、そして神の創造のゆたかさを味わいつつ道を進むことができます。
秋の山のこうした花の季節には、それらの色やかたち、その群生の姿、周囲の樹木や草のたたずまいなどが全体としてハーモニーを奏でているのを感じます。

○明け方にみえる金星(明けの明星)のことを何度か紹介したので、初めて明けの明星を見たとか、あんな強い輝きとは知らなかったといった連絡を何人かから受けました。今年は台風が多く、前線の活動も活発で曇り空が多くせっかく早起きしたのに見られなかったとの声も聞きました。もうじき見えなくなるので、まだ見たことのない人は、天気予報でよい天気だと確認して早起きしてぜひ見ておくとよいと思います。早朝四時ころには、金星は東から上がってきていますが、東から南東の空にかけては金星の上方に、しし座の一等星レグルスがあり、そのさらに上方には土星がふつうの一等星の明るさで見られます。さらに上方には双子座という名前のもとになっている二つの明るい星のポルックスと、カストルがあり、それをもっと北よりに真上の方向には、御者座の一等星カペラが強い輝きを見せています。また南東には、シリウスの強い輝き、小犬座の一等星プロキオン、オリオン座の二つの一等星などがきらめいています。このように明るい星が明けの明星を第一として、一度にたくさん集まって見られるのはあまりないので、そういう意味でも今の機会に見ておかれることをお勧めします。

 


st07_m2.gifことば

195)人の生涯には、いつか突然、単純な信仰の境地が訪れて、神への真の愛がなければ、どんな信仰も、教義的な知識も、魂の向上に役立たないことがわかり、反対に、心のなかに神への愛があれば、一切が明らかになり、容易になり、単純になる、ということを示される。(ヒルティ著「眠れぬ夜のために」 上・八月二日の項より)

Einmal im Leben des Menschen kommt plozlich das Einfach und zeigt ihm,das ohne die rchte Liebe zu Gott aller Glaube und alle dogmatische Kenntnisnicht vorwarts hilft,warend mit dieser Liebe im Herzen alles klar,leicht und einfach wird.

これは、主イエスが、一番大切なことは、神を愛すること、それと同様に隣人を愛すること、と言われたことに通じるものである。神への真の愛、それはいつも主イエスによってうるおされているものであるが、それがなかったら、いろいろの学問的な知識も、それをもって誇り、他者を裁いたり、見下したり、自分を正当化したりするのに使われてしまう。また神への真の愛があるなら、神もその聖霊と愛を注がれるゆえに、主イエスが約束されたように、「聖霊があなた方にすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせて下さる」(ヨハネ十四・26)となる。神への愛があればあるほど、神と一つになるということであり、神のお心、ご意志も伝わってきて、隣人への愛も与えられ、いろいろの出来事、自然のたたずまいなどにもその背後に神の愛の御手を実感できるようになっていき、ただその愛を日ごとに受けて、またそれを他者に与えるという単純な生活へと導かれる。私たちもそのような聖なる単純さを与えられたいと思う。

196)この逆境の中にもいいことがある。私たちの眼と耳とがだんだん開かれてきているんだ。神が私たちに語られるとき、神の声など聞こえっこないようなところから、静かな小さな声で神は話しかけておられるんだ。(「死の谷を過ぎてークワイ河収容所」)

・この本は、今年五月号の「はこ舟」誌で紹介したことがある。太平洋戦争のときに日本軍は、タイとビルマを結ぶ密林や山岳地帯という困難な場所に430キロメートルに及ぶ鉄道を建設した。あまりにも苛酷な労働酷使のために、毎月二千人を超える人たちが死んでいくというおびただしい犠牲者が生じた。その地獄のような生活を強いられた人たちのなかで、驚くべきことに神への信仰を強く持ち続け、キリスト者としての生き方を貫き、他者のために犠牲になる人、死に瀕している人たちへ献身的な愛を注ぐ人たちが現れた。この本の著者も同様であった。自分が置かれている恐ろしい状況、毎日やせ細った人たちが病気の苦しみにさいなまれ、死んでいくという光景を目の当たりにしながら、それでも神からの語りかけが一層よくわかるようになっていくという驚くべきことが生じていった。神はたしかに、思いも寄らない苦しい状況、敵対する人、あるいは病気で寝たきりの人、また野の花や空にひろがる青い空、吹く風の音など、またそれとはまったく異なる都会の喧騒のただなかなど、さまざまのことから神は語りかけておられる。私たちが心の耳をすまし、静かな小さい語りかけに耳をすますことが求められている。

197)弱い者が強い者を必要とするだけでなく、強い者もまた弱い者なしには存在しえない。弱い者を排除すればそれは交わりの死である。(「信じつつ祈りつつーボンヘッフアー短章366日」 70P 新教出版社 )

・病気や性格、または能力、老年などでさまざまな意味で弱い者は強い者が必要だというのはすぐにわかる。医者とか健康な者、能力のあるもの元気なものがそうした人たちを支え、いやし運ぶからである。
しかし、強い者が弱い者なしには存在できないのだ、というのは多くの人たちにとって不可解であろう。それは新約聖書のなかに深く見られる。パウロが「弱いところに神の力は完全に現れる」(Ⅱコリント十二・9)と言ったが、弱さのなか、弱い者と自覚するところや、そのような弱さを持った人たちとの関わりによって神から力を与えられて強い者も支えられる。それゆえ弱い者を排除しようとするような人間の交わり、集まりは神の命を与えられなくなって、枯れていく。

 


st07_m2.gif返舟だより

今月もいろいろの方から読後感とか励まし、また祈りを届けて下さった方々があります。その中からの一部です。

○確かに、私どもは、この地上での暗く不健康な面を目にしがちですが、そうした中に「主の慈しみ」のあることをあらためて思わざるをえません。混乱の世界を通して、みことばが今日まで語りつがれ、そして今後もまた語りつがれようとしているところに、新たな力のわき起こるのを覚えます。感謝と希望をもってこれからの毎日を歩みたいと存じます。そのことをはっきりと示して下さいましたこの度のご文章に、心から感謝申し上げます。(関東地方の方)

○九月号にあった「私たちが召されたのは、苦しみを受けた時でもキリストを思って甘んじて受けるため、また祝福を受け継ぐためである。」何と直截(ちょくせつ)(*)で、身のひきしまるおことばでしょうか。それと同じ思いで、「相手によきことがあるようにとの祝福の祈りにも似た気持ちがなければ平和な関係とは言い難い」という言葉にも共感しました。(関東地方の方)
*)表現がまわりくどくなく、きっぱりしていること。「ちょくさい」とも読む。

○…私の心のなかの聖霊が曇りを取り去られ、新しくなるのを覚えます。これからも御誌を愛読させていただきたくお願いします。(東北地方の方)

・今後とも、神の言葉が、私たちの内なる曇りを取り去って下さり、新たな力を受ける一つの手段としてこの「はこ舟」が用いられますようとねがっています。

○先日は、「はこ舟」誌とともに「ともしび」をお送りくださってありがとうございました。「ともしび」は皆様の証しとして、掲載された内容は、はじめから終りまですべて、老齢になって何もできない私には心に残ることばかりでした。今日もまた、開いては読ませていただきました…。(中部地方の方)

○「今日のみ言葉
」(*は、今月のみ言葉として繰り返し読ませて頂き、励まされております。また野草と樹木たちの珍しい写真と解説はとても嬉しく慰められております。先生のお宅の近くの山には神様のお造りになって見事な草花やきのこなどがたくさんあり、御業の素晴らしさをいまさらのように思いながら眺めております。(関東地方の方)

*)「今日のみ言葉」とは、インタ-ネットメールで希望者に私が毎月二~三回程度送付しているもので、短い聖書の言葉とその説明、そして「野草と樹木たち」というタイトルで、わが家のある山や、各地の集会で聖書の学びをしていますが、そこへ行く途中で写した野草などの写真を入れてその解説を付けてあるものです。希望者は、私、吉村(孝)宛てに申込んでいただきますと、お送りします。

○偶然のように、徳島聖書キリスト集会のHP*に導かれ,はじめて「今日のみ言葉」を読み,命の水に心洗われる思いが致しました。メールですべての項目を定期配信していただけることに感謝します。(近畿地方在住で、ホームページを見て申し込まれた方です。)
*http://pistis.jp

○「はこ舟」九月号の中で、特に「平和の原点」の論考に同感、共感をもって読ませていただきました。キリストにあってまず本当の平和を持つこと、それが社会的平和以前に求められている。このことを人類全体が、いや私自身が忘れている、そのことが根源的な「罪」なのではないかと感じさせられます。
人間の最終的な目標は、神への讃美にある、 アーメンであります。(関東地方の方)

○全国集会
十月九日(土)~十日(日)に福岡市で、キリスト教(無教会)全国集会が開催されました。今回は、韓国、中国の参加者も交えて、聖書講話、発題などもなされ、夜の自由参加のプログラムとして教育基本法と平和憲法に関する有志のがなされたことが従来になかった内容でした。ただ、中心となるべき主日礼拝の聖書講話が二人によってなされましたが、配当された時間が長すぎた上に、その内の一つはとくに、学者の研究発表的な内容であって、苦しむ人、問題をもった人への福音とは言い難いものがあったのは残念でした。
学者のようにでなく、主イエスが語られたように神の権威と聖霊とによって、しかもだれにでもわかる言葉で、今苦しんでいる人、闇にあるひとたちを見つめ、福音そのものを語る人が起こされますようにと特に願われます。
しかし、全体としては、会場には神の霊、いのちの水というべきものが注がれ、それにうるおされた人たちも多かったと思われます。そしてこのような機会でなければ与えられない、中国や韓国からの参加者による発題や、久しぶりの方々との出会い、主にある交流が与えられて、今後も共に歩むための基礎が与えられました。また、多くの資料の作成など、それらの担当にあたった方々の主にある御愛労に感謝です。そうした働きが今後もよき実りを結ぶようにとねがっています。
また、インタ-ネットのホームページを通じて、「はこ舟」や「今日のみ言葉」の読まれるようになったある方が福岡に在住で、その人も初めてこの全国集会にも土曜日だけ参加。集会の終わった翌日に、私たちの集会から参加した有志の人たちがその方を訪問して、そこに信仰を求めている未知の方も参加していて、予想していなかった交流も与えられました。
私は福岡からの帰途、広島に立ち寄り、私どものキリスト集会とも関わりのある谷口 与世夫兄を訪問しました。谷口さんは足が弱くなって歩くのも不自由でしたが、霊的には主からの力を与えられ、支えられているのを実感して私にとっても恵みのひとときを与えられ、感謝でした。