20049月 第524号・内容・もくじ

リストボタン祝福を受け継ぐために

リストボタン世界は主の慈しみで満ちている

リストボタン平和の原点

リストボタンことば

リストボタン休憩室

リストボタン返舟だより

 



st07_m2.gif祝福を受け継ぐために

これだけ世の中に不合理なこと、暗いことが多いのに、愛の神が本当におられると信じることができるようになる、これは実に不思議なことである。
自分自身のことを考えても、キリスト教とか神とかには全く関心がなかったのであるが、前号に書いたようにある日突然にして私は神とキリストが私たちのために働いて下さっているということを知らされた。そしてそれを今から思っても不思議ないほどにすぐに受け入れることができた。
これは自分の意志でもなければ他人からの誘いもなく、ほかの人間や組織の意志でもない。人間を超えた神からの呼びかけだということをはっきりと感じたのである。
この世は、偶然と金や権力などの力、あるいは悪の力しかないように見える。しかし、その中にあって、生きて働く神がおられ、その神が私を呼んで下さったのであった。
聖書においても、私たちを呼び出される神のことがしばしば現れる。呼び出すという言葉に対して「召される」という訳語が多く使われている。しかし、これは現代の私たちにはどうも親しみにくい言葉である。ふだんの日常生活で、召されるなどという言葉を耳にすることはまずない。せいぜい、キリスト者が死んだときに○○さんは召された、ということを聞く程度である。
この「召す」という日本語は、古くからさまざまの意味に使われる言葉で、「御覧になるとか、治める、呼び寄せる、取り寄せる、食べる、飲む、服を着る、乗り物に乗る」などなど多方面に使われる。
それだけに、私たちが聖書を読むときに、原語の持っている明確な意味、「呼ぶ」という意味があいまいになってくる。


使徒パウロはその代表的な手紙においても、その冒頭に、「パウロ、キリスト・イエスの僕、福音のために選び出され、召されて使徒となった…」(ローマ一・1のように、神から呼び出された(召された)ということを記している。それはパウロの心にいつもあった原点であったからである。キリスト者とは神が呼んで下さったと実感した人たちであるということができる。
なぜ神は私たちを呼び出して下さったのだろうか。それは私たちが単に自分だけの安楽な生活をするためでない。

…悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。(Ⅰペテロ三・9

私たちが召されたのは、不当な苦しみを受けたときでもキリストを思って甘んじて受けるため、また、祝福を受け継ぐためである。私たちは苦しみとか悪意とかに反発して憎しみを返すことなく、相手のために祝福を祈るために神から特に呼び出されたと言われている。
この祝福ははるか数千年も昔から、受け継がれてきた。祝福が受け継がれていくということが最初に出てくるのは、創世記のアブラハムの記事である。

… 主はアブラムに言われた。
「あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。
あなたを祝福する人をわたしは祝福し…
地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」(創世記十二・13より)

ここで繰り返し祝福という言葉が現れている。アブラハムは信仰の父と言われる。後のユダヤ教やキリスト教など、世界の極めて多くの人たちの信仰の模範となったからである。そのような信仰と祝福とが結びつけられているのである。
アブラハムは神の言葉に従って遠い神が指し示す地へと旅立った。そしてそのように従うという信仰の姿勢によってその後も一層の祝福を受けるようになった。
後にイサクをも神の言葉に従って捧げるという決断までしたことでその祝福の約束はさらに固くされた。

…御使いは言った。
「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。…
地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。
あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(創世記二二・1618より)

このように聖書に記されてから実際に、その後アブラハムの信仰の祝福は子孫までずっと及び、キリスト教にもその祝福は受け継がれ、全世界にと広がって行った。悪が広がるという観念が強いこの世にあって、驚くべきことに、聖書は神の祝福がいかなる時代の変化や迫害や困難にも関わらず、着々と伝えられて行ったのである。
ペテロが述べたように、聖書の神を信じるものは皆、こうした不滅の祝福を受け継ぎ、まず自らがその祝福を与えられ、ついで周りの人にその祝福を手渡し、さらに次の世代へと受け渡していくようにと、この世から呼び出されたのである。



st07_m2.gif世界は主の慈しみで満ちている

現代の私たちの世界をみるとき、そこが神の愛で満ちているという実感を持っている人がどれほどいるだろうか。新聞やテレビなどで報道される内容からはおよそ、そうした神の愛とはほど遠い現実がある。
ことに最近はテロ事件があちこちで頻繁に発生し、日本でもその可能性が高まるなか、今年は台風が前例のないほどに多く上陸し、地震も発生、ということで全地に神の愛があるとは考えたこともないという人が大部分であろうし、キリスト者であっても心配ばかりが先に立っているという場合があるだろう。
しかし、こうした目にみえる世界の状況のただなかに、神は私たちに詩篇を指し示されている。
旧約聖書の詩編とは、どこの国にもある古代詩集とは本質的に異なる内容と目的を持っている。それは詩編を初めて見たとき、今から三〇年以上前にははっきりとは分からなかった。しかも訳語が口語訳ではあまりにも冗長で力が感じられず、誇張した表現とかまるで現代とは関係ないといった用語、言葉などのために、違和感が先に立って、詩編二三編などのわかりやすいものなど一部の詩以外には深く心に入ってくるものもなかった。
しかし、年を経るにつれてこの詩編というものが、神からの私たちへの直接的なメッセージを深くたたえているのに気付くようになった。用語や訳語など、また表現の不適切さなどを超えて、その背後にある永遠の神からのメッセージを知るとき、ここにはだれもが本来入っていける神の大きなご意志と憐れみの世界があると分かってきた。
ここでは、世界を慈しみで満たして下さっている神とはどんなお方であるのか、そして人間はどのように神とこの世の認識へと導かれるのかについて印象に残る表現である、詩編三三編について学びたい。

主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。
琴を奏でて主に感謝をささげ
十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。
新しい歌を主に向かってうたい
美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。

讃美こそは人生の目標
主に従う人、正しい人(心の直き人)とはだれか、それは神への讃美をもっている人だといわれている。人間は誰でも生まれつき正しい人とか悪人というのはないのであって、誰しも罪深い存在である。しかしそこから神を信じ、神からの赦しと清めを受けて、神に従う人となることができる。そのような人が正しい人、直き人と言われている。
神を知らないときには、うつろいやすい人間に従うしかない。自分という人間、あるいは周りの人、世の中の人間に従うことになる。新聞、雑誌、テレビなどもみんな人間の産物であり、それらに従うことは人間に従うことと同様である。
しかし、一度私たちが神を知らされて、罪深い者でありながら神からの憐れみを受けて罪赦されるのを実感したとき、私たちはそのあまりの大きな変化によって人間より神に従いたいという自然な心が生じる。そしてそこから神への讃美が生れてくるのである。神に従う心をもって歩むとき、周りの何の変哲もないと思われた光景や出来事などが一つ一つ神のわざと感じられてくるからである。
人間の最終的な目標は神への讃美である、それはことにこの旧約聖書の詩編を読むときに繰り返し現れる内容である。こうした詩編によって私たちは、日常生活のなかで立ち止まり、私は神への讃美の心を持っているだろうかと考えさせられるのである。
もし神への讃美を持っていないのがわかれば、その心の奥には、自分の考えや思いで生きていく姿勢、人間への讃美、あるいは人間的な欲望や願いがあったり、神への不満、不安、将来への絶望など讃美の心を妨げるものがある。
讃美などできないと思わされたときこそ、静まって、神に目を上げ、詩編のこころに立ち返っていくとき、再び神は私たちの心に、新しい讃美を与えて下さる。

多様な讃美
この詩では、ついで多様な讃美がすすめられている。
「琴を奏でて、主に感謝を捧げ、十弦の琴、新しい歌、美しい調べ」などといった言葉が重ねられている。
心にあふれるものがあるとき、それはおのずと多様な讃美へとうながされる。楽器が弾けるものは多様な楽器をもって、それができない者であっても、声という神から与えられた楽器がある。声は声帯といういわば一種の弦楽器のようなものである。
わたしたちは楽器がなくても、声を持って、どこにいても讃美をすることができる。
現代の私たちにとっては、可能な楽器を用い、声をもって讃美し、さまざまのタイプの讃美へとうながしていると言える。こうした多様な讃美へのすすめは、新約聖書にもみられる。

…キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして…、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。(コロサイ三・16

ここでいう「詩」というのは、旧約聖書の詩篇を歌う讃美であったと考えられ、讃美とは当時のキリスト者たちによって生み出された新しい讃美であったと考えられる。
そして「霊の歌」というのは、とくに聖霊が注がれて作られた即興的な讃美ではないかと推測されている。いずれにしても言えることは、このような多様な讃美が最初からキリスト者の間には歌われていたということである。
主イエスも最後の夕食のあとで、讃美を歌ってから祈りの場へと赴いたと記されている。これからゲツセマネにて血のような汗を流して必死に祈り、そのあと捕らえられて十字架につくことになるという緊迫したときにあってもなおこのように讃美を歌ったということからしても、讃美というのが現代の我々が考えがちな、心楽しいから歌うなどといったものとは本質的にことなる意味を持っているのがわかる。それは単なる形式とか聖書講話の付け足しなどでなく、それ自体が深い意味を持っているのである。それは祈りであり、困難なときにあって神からの力ある霊を受けることでもあった。

主の慈しみに満ちている世界

…主の御言葉は正しく
御業はすべて真実。
主は義と公正を愛し
*
地は主の慈しみに満ちている。
御言葉によって天は造られ
主の口の息吹によって天の万象は造られた。

*)新共同訳では、「恵みの業と裁きを愛し」と訳されているが、「恵みの業」と訳された原語は、セダーカーであり、セデクとともに、「正義」と訳される言葉である。創世記にメルキゼデク という人物が現れるが、メルキとは王の意、ゼデクとはセデクと同じで、それゆえこれは「正義の王」という意味だとしてヘブル書の著者も引用している。(ヘブル書十一・2
また、「裁き」と訳された原語は、ミシュパートであり、これは、裁きという訳語のほかに、旧約聖書では正義、公正、公平などとも訳されていることが多い。現代の日本語では、「裁きを愛する」というと、人間を罪あるものとして断罪することを愛するというように取られる可能性が高い。なお、関根正雄訳では、「義と公平を愛で給う」と訳されている。英語訳などもたいていは、He loves righteousness and justice のように訳されていて「神は正義と公正を愛する」という意味に訳している。


この詩の作者の讃美のもとになっているのは、神は正義の神であり、悪をそのままに放置しておくことなく、必ず正しく裁かれる、その確信がもとにある。神の言葉がいかに力強いものであるかという実感である。
それがこれらの言葉に現れている。
私たちがこの詩の作者の信仰で驚かされるのは、全地が神の慈しみ、神の愛で満ちているという表現である。この文章のはじめに書いたように、このようなことを現代の人がどれほど深く実感しているだろうか。世界は混乱と悪や不安、飢饉などで満ちているというのが多くの人の実感であろう。
この詩編が作られたはるかな昔も決して平和で、何も苦痛のない時代であったわけではない。現代のように病院もないから、病気になっても医者もおらず、また国家や部族同士の戦いはいつの時代にもあった。人権などというものも認められておらず、福祉制度もなく、特に女性は夫が戦死または病死や仕事中での事故死などに遇えばたちまち生活もできないほどに困窮することも多かった。そうした苦しみや悲しみのただなかにあってもこの詩の作者は「地は主の慈しみに満ちている!」 と感謝しつつ歌うことができた。
それはなぜなのだろうか。それは神から与えられた、新しい心と目で世界を、また現実を見つめていたからである。
預言者たちが国の滅びと荒廃のただなかで、未来に訪れる救いのときを霊の目でみることができ、黙示録の著者が、迫害の暗黒のなかで、天上の清められた人たちの大いなる讃美の声を聞き取ったように、この詩の作者もまた、通常の人たちには見えないし感じることもない、神の愛が地を満たしているのを実感したということなのである。
この詩の作者のように、この世界はいかに混乱や悪がはびこっているようにみえても、私たちの魂が、神(キリスト)に深く結びつくほど、地にはよきものが満ちていると実感されてくる。
ヨハネ福音書の冒頭で、次のように言われていることも、こうした「満ちている」という実感を表したものにほかならない。

…わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。(ヨハネ一・16

使徒パウロもこうしたキリスト信仰によって、満ちあふれるものを深く体験したがゆえに、つぎのように述べている。

…また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。(エペソ三・1819

これらはすべて、この詩の作者が言っている、「地は主の慈しみで満ちている」ということと共通した実感である。新約時代のヨハネやパウロにおいては、旧約聖書における詩人が感じた以上の豊かさとあふれるものを
魂において実感していたのがうかがえる。それが彼等が生涯、キリストを証ししていこうとする原動力にもなっている。
私たちは日常の変化のない生活が当たり前と思ってしまって、それを超えた世界があるということに気付かずに生きていることが多い。
そのような動きの取れなくなっている世界に生きる私たちにとってこの詩の作者のように、神に引き上げられて、通常では見ることのできないところを見た人たちの証言は貴重なものであり、それによって私たちもまた引き上げられるのである。
しかし、こうした特別の霊的な恵みが与えられていなくとも、周囲の身近な自然の姿を見つめることによって私たちは神の慈しみが随所に現れているのを感じることができる。明け方近く、闇に輝く金星の強い光は私たちへの光のメッセージであり、私たちに語りかけようとして下さっている神の愛を感じさせてくれるし、山野の野草たちは、その花や姿の一つ一つが私たちにやはりその純粋さや創造の多様性をもって、私たちの狭い心を広げ、創造の大きな神の御手へと導こうとする神のお心を感じさせるものである。

神の言の力
この詩の作者はこの広大無辺の天地宇宙が、神の言葉によって創造されたという確信をもっていた。私たちの通常の受け止め方は、一五〇億年ほど昔に、無から、ビッグバンという大爆発によって突然に、しかも偶然にできたというものである。しかし、その大爆発以前はどうだったのかと問われても、無であったとしか言いようがないのが現代の科学のいうところである。 そして将来はどうなるのかということについても、どこまでも膨張するのか、それとも収縮をはじめていくのかも分からない。
こうした万事が究極的には分からない、ということに行き着くのが科学であり、ここに大きな限界を持っている。
究極的にはっきりしたことは何も言えない、ということからは、確たる希望は生れない。平安も与えられない。そもそもこのような科学上の理論を理解できる人はほとんどいないのであって、天文学の研究者という極めて一部の人だけということになる。ほかの人はみんなそれを信じているだけなのである。
こうした科学の力を信じることによっては悩みや苦しみ、絶望といった人間の深い闇には何も力を与えることができない。たった一人との人間関係で複雑にもつれてしまった心、憎しみや怒り、ねたみなどの心はこのような科学上のことではどうすることもできない。
しかし、聖書に現されている信仰は、万人に開かれており、しかも苦しみや悲しみのただなかにいる人に深い支えと力を与えるものである。
ここで作者が述べていること、「神の言葉によって天地が創造された」ということは、神の言葉が絶大な力を持っていることを実感している心がそこにある。
キリスト者のものの考え方の基本はやはり、聖書の最初に書かれているように、神が天地万物を創造されたということであり、今もその創造の力を維持し続けており、万物を支えておられるということである。
その万物を創造されたお方であるからこそ、私たちの周囲の悪をも究極的には滅ぼすことができるお方であると信じることができる。

歴史における神
主は大海の水をせき止め
深淵の水を倉に納められた。…
全地は主を畏れ
世界に住むものは皆、主におののく。
主が仰せになると、そのように成り
主が命じられると、そのように立つ。
主は国々の計らいを砕き
諸国の民の企てを挫かれる。
主の企てはとこしえに立ち
御心の計らいは代々に続く。

私たちが神のわざをみるとき、現在みえる世界のことだけを考えていてはいけない。なぜなら神ははるか昔から歴史を動かし、導いておられる神だからである。聖書にはそのために、周囲の暗黒と混乱、またそれと対照的な自然の雄大さや美しさなどをたたえる言葉とともに、過去から現在へと導く神のこともしばしば記されている。
ここでも、この詩の作者からはるかに昔のことである、モーセによるエジプトからの脱出へと思いをめぐらしている。
そして時間の流れの中で、すべてが権力者や武力、あるいは偶然的なことで生じていると思われている歴史においても、この作者は天地を創造し、今も支えている神の万能の力がやはり働いていると知っていた。
私が高校などで学んだ歴史とは全くの暗記物であって、教える教師は何かというと、「これは○○大学の入試に出された」などということを口癖のように言っていたので、さすがにそれにうんざりしてしまったのを思い出す。そこでは目先の有名大学入試に少しでも多く合格させるということだけが至上命令であって、歴史が何なのか、何のために私たちは歴史を学ぶのか、日本人として歴史を知った上で、未来をどのように考えていくのかなどといったことは全く一言も触れることはなかったし、当時の教師はそのようなことを考えたこともないような状態にみえた。
そのように歴史など単なる暗記物だとほとんどの生徒たちが見くびっていたし、試験が迫ってきたら集中的に覚えたらいいのだと考えていた。
しかし、歴史とはそのようなものでなく、はるかに深く重要なものであることが、大学に入学して当時の学生たちと議論し、彼等がたえず口にしていたマルクス・レーニン主義関係の本を読むようになって気付いたのである。歴史というのは、その背後に法則がある、その法則にしたがって動いていくのだといった考え方は初めてのことであって、驚かされたものであった。そしてそのように歴史を見る考え方のもとは聖書にあるということも分かってきた。
聖書でははじめから歴史は極めて重要なものとなっている。アブラハムという個人が神の祝福を受けるとき、その子孫は空の星のようになる、そして子孫は外国に長い間奴隷となって苦しんだあとで、救い出され大きな民族として発展していく、ということが創世記に記されているが、ここにもすでに歴史とは神の御計画そのものであるということが暗示されている。
歴史は神の導きそのものであり、神の万能が現れるところであり、また時間を通して神のわざが表されるところなのである。
それゆえ、この詩においても、モーセを遣わして、エジプトにいた民を救い出し、そこから周囲の国々に神の力を証しさせ、将来神のことが世界に知らされていく予告となっていく。
そしていかに権力や武力があろうとも、またいかに広大な地域を征服しようとも、神がひとたびある国の支配や権力を打ち破ろうとされるとき、必ずそれは成る。

主が仰せになると、そのように成り
主が命じられると、そのように立つ。
主は国々の計らいを砕き
諸国の民の企てを挫かれる。

これはそのような確信を表している。神への信仰とは、単に個人的な悩みとか願い事を聞いてもらうための存在でなく、世界の歴史全体を支配し動かしておられるお方への信頼も含まれているのである。
このような社会的、政治的な領域における信仰はよく分からないという人がいるかも知れない。しかし、自分の心の内だけの平安を思っているだけでは、どこか漠然とした暗さが心深くに残る。それは周囲の社会や人々はどうなっていくのだろうという疑問がついてまわるからである。そうした世界全体に関する闇を克服するのが、ここに現れているような信仰なのである。

個人を見つめる神

いかに幸いなことか
主を神とする国
主が相続地(嗣業)として選ばれた民は。
主は天から見渡し
人の子らをひとりひとり御覧になり
御座を置かれた所から
地に住むすべての人に目を留められる。
人の心をすべて造られた主は
彼らの業をことごとく見分けられる。

ここで、一五〇編ある詩全体のタイトルともなっている詩編第一編の冒頭にあるのと同じ言葉、「いかに幸いなことか」(原文では、「アシュレー」という一語)が出てくる。
当時も現代に至るまでも世界のあらゆるところで、様々の神々がいる。しかし、聖書で言われている神、天地創造された神を信じることこそ、あらゆる幸いの原点であることが言われている。
天地宇宙を創造された神であり、歴史を導くという壮大な神でありながら、そのまなざしは一人一人を見つめて下さっているという。その著しい対照がここにある。
原文では、この詩編三三編の六節から十五節までに、「すべて」という言葉(コール kol)が次のように五回も繰り返し現れる。日本語の聖書では、その言葉が省略されたり、「皆」とか「一人一人」とかいろいろに訳されているので、そのことに気づきにくいが原文ではその繰り返し強調されていることがはっきりと浮かび上がってくる。

・主の息吹によって、すべての星々(万象)が造られた。(六節)
・すべての地は主を恐れ(八節)
・世界に住むものは全て主におののく(八節)
・主は、天から人の子らすべてを見つめ(十三節)
・地に住むすべての人に目を留める(十四節)
・人の心をすべて造られた主は…(十五節)

このように何度も「すべて」が繰り返されているのは、この詩の作者がそれほどに神が全世界、宇宙、人間、歴史を総合的に支配なさっているというのを深く実感していたからである。この点において、日本も含めさまざまの民族の神々は、それぞれの土地の神、山の神など、ごく狭い領域の神にとどまっているのと著しく対照的である。そうした神々を信じるということは、この世界の背後に薄暗いもの、不気味なある力を感じていたのを示していると言えよう。
現代の私たちはどうであろうか。神など信じないという人たちも、会社の力、金の力、権力や政治、大国の力あるいは武力、さらに偶然や悪意、死の力等々、得体の知れない力をいくらでも信じていると言えよう。
私たちはすべてを、正義と真実な神の支配下にあるものとして、統一的にみつめることがここでも求められている。

真の安全と勝利
…王の勝利は兵の数によらず
勇士を救うのも力の強さではない。
馬は勝利をもたらすものとはならず
兵の数によって救われるのでもない。
見よ、主は御目を注がれる
主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。
彼らの魂を死から救い
飢えから救い、命を得させてくださる。

今から二千数百年も昔から、はやくもこのように武力や権力、軍備増強の限界をはっきりと知っていたことに驚かされる。馬とは古代世界にあっては軍備の象徴的なものであった。
日本でも、すぐれた騎馬隊は戦さを支える重要な存在であった。一五七五年五月、長篠の戦で武田勝頼の優秀な騎馬隊が、織田・徳川の連合軍に大敗したのは、兵力な差もあったが、決定的な敗因は鉄砲隊の攻撃によるものであった。鉄砲が登場するまでは馬に乗った勇敢な武将たちの戦いが勝利を導く重要な要素となっていたのである。
この詩の作者は、兵の数や馬の効果的な利用も、勇敢な勇士がいてもそれらは決して勝利につながらないという。このようなことは、現代で言えば、いかに軍隊を強力にして、軍備を最新の強力な破壊力のあるものにしてもだからといって勝利を得ることはできないということになる。
このような驚くべき発想はどこから生れたのだろうか。
それは歴史を導き、国々すべてをも背後で支配している神への絶対的な信頼の心であり、信仰であった。そしてそれは頭のなかで漠然と神の力を信じているというのでなく、この詩を造った人のいわば血となり肉となっていて、毎日の生活においてもそうした神への深い信仰に生きていたからであろう。さらにそれに加えて神の霊的な啓示によって、このような真理が示されたのである。
このような確信は、ほかにも見られる。

… 戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが
我らは、我らの神、主の御名を呼ぶ。
彼らは力を失って倒れるが
我らは力に満ちて立ち上がる。(詩編二十・89

ここでも、この詩の作者は当時の戦力を誇り、それに頼る姿勢とは全く異なって、神に頼り、神を呼ぶことこそ、勝利の基であり、そして軍備に頼るものが祝福を受けず、最終的には倒れていくことも知っていた。
このように、信仰の確信は神との深い交わりから本人の平安、そして天地宇宙の創造への神、社会的政治的な問題へとつぎつぎと広がっていく。
そして最後に現在と未来をみつめるまなざしが置かれる。

…我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。
我らの心は喜び
聖なる御名に依り頼む。
主よ、あなたの慈しみが
我らの上にあるように
主を待ち望む我らの上に。

私たちは現代の問題に直面してどのような手段もその解決に即効性のある方法などないのを知っている。個々の人間の悩みや苦しみ、悲しみに対してなすすべのないことが多い。
さまざまな病気の中で、医学もどうすることもできない重症の癌や、エイズなどの重い病気に苦しむ人においては日夜その心身への負担、苦痛はたとえようもないことも多いし、また飢餓や貧困の苦痛、戦争のために家を追われた人たちの苦痛もはかりしれない。
しかし、また、それらの方々を少しでも援助しようと、それぞれの状況に赴いて苦闘されている人たちも多い。
そうした中でそのようなところに実際に関わっておられる方々とともに、誰でもが可能な道は、ここにあるように、神を待ち望み、祈りを続けることである。神は真実なお方であるゆえ、真実な祈りはどこかで必ず聞かれるからである。そして神の慈しみが太陽の光や雨がすべての人に及んでいるように、世界の人たち、そのような広いところでなくとも、身近なわずかな人たちのために祈ってその上に注がれるようにと願い続けることができる。そしてそうした祈りの心を持ちつづけるときには、神が聖霊を注いで下さって、闇のただなかにあっても、主にある喜びや平安を与えて下さるということを、この詩は最後に指し示しているのである。

 


st07_m2.gif平和の原点

三年前、アメリカで、テロによって世界貿易センタービルが破壊された事件以降、平和のためと称してアフガニスタンやイラクへの戦争が始められた。しかし、それが世界平和につながったであろうか。最近の世界で生じているテロ事件の頻発をみても、決して平和になったとは言えない。
平和のためと称して武力、戦争に訴えること、それははじめから一般の人々、とくに女性、老人や子ども、病人や障害者といった弱い立場の人が犠牲になることが明らかである。
よく、武力が必要な理由として、警察と同じだなどという反論をする人がいる。しかし、警察力は、その目的が国民の生命や財産を守ることであり、そのため悪をなした人を捕らえることになる。それは悪人の犠牲となる弱い立場の人を守るということにつながる。
しかし、戦争は、太平洋戦争とか、今回のイラク戦争を見ても明らかなように、はじめから弱い立場の人を大量に巻き添えにして殺してしまうことを当然のこととしている点において、根本的に異なる。
さらに、戦争は今回のことでも見られたように、他国をも巻き込んで多数の国々や人間を互いに全く知らない人たちを殺したり、傷つけたりする。警察は国内に限られて、他国をも巻き込んでの無差別的殺傷を引き起こすということはない。
武力を用いるという問題の多い方法と違って、真の平和に向かう確実によい一歩がある。そしてどんな長い距離も小さな一歩から始まるように、ここでいう一歩とは、きわめて小さいものとみえるが、これこそが確実な一歩なのである。
それは、まず自分が本当の平和を持つこと、しっかりと揺るがない平和を持ち続けることである。
そのためにはどうするか。それが主イエスの来られた目的でもあった。
それは私たちの本当の平和とは、魂の内なる平安であり、それは自分の考えや他人からの説得などにはよらない。私たちの心の動揺や混乱などは魂の奥深いところで、自分は悪いことをしたのだという意識からくることがある。だれしも人間を超えた正しい存在、清い存在、そして愛のお方を前にして、うしろめたい気持ちにならないという人は少ないだろう。
まず私たちの過去の罪をぬぐい去っていただき、今、現在の心の罪を清めて頂いていて初めて、私たちは主イエスを真正面から仰ぐことができる。
私たちが神との平和を与えられるとき、それが一人の人間の魂の平和の根源であり、出発点である。神との平和とは神と人間とを阻む罪の問題がなくなると、すぐに実感できることである。
たった一人の心の平和が何が世界の平和と関係があるのか、という人もいる。しかし、そのたった一人が集まって世界があるのであって、私たちもそうした人間のうちの一人なのである。だからたった一人でも確実な平安を持っている人は確実にこの世界に平和を生み出したことになる。
主イエスの言葉に、つぎの有名な言葉がある。

ああ、幸いだ、 平和を実現する人々は!
その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ福音書五・9

このところで言われている平和という意味を、現在私たちが新聞やテレビなどで耳にするふつうの社会的平和だと考えられる場合が多い。しかし、主イエスが福音書においても戦争を無くそうとか、政治的、国際的な平和を樹立しようとされたというような記述は見られない。それはなぜかというと、社会的な平和以前に一人一人のうちに確固たる平和がなければならないからである。
目にみえる戦いがなくとも、人間の心が傲慢で、自分中心に生きていて、聖書に示されているような愛の神を否定し、真実を愛することのない心があるなら、その人の心には揺るがない清い平和はないし、そのような心をもった人間同士では、何かのきっかけで争いがたちまち生じるからである。
日本においても、六十年近く外国との戦争をしなかった。しかし、だからといって日本人の心はより清く、真実になったであろうか。
自分の心の内にすら、確たる平和を持てないならどうして他者との関わりで本当の平和、神が喜ばれるような平和を持つことができようか。
人間的な遠慮や妥協、相手に対して気を悪くさせてはならないといった感情的なレベルでの平和は聖書でいわれている平和ではない。
それは次の主イエスの言葉によってもうかがえる。


わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。(マタイ福音書十・34

これは、古い人間的なもの、目に見えない真実や清いものを求めるのでなく、目にみえるもの、金や快楽あるいは汚れたものや人間的な感情を重んじるようなあり方の中にくさびを打ち込み、そうした心の姿勢が間違っていることを思い知らせるために来たという意味である。実際、主イエスは、当時の偽善的な宗教家や人々の形式的なものに堕落した宗教的姿勢を厳しく指摘した。その指摘を神からの警告と受け止めず、そのために、人々は激しく怒ってイエスに対して 敵意を持つようになった。しかし、他方ではそのようなイエスを神の子、救い主として受け入れる人もあり、そのような人には、神の力と祝福を与えられたのであった。
このような主イエスの態度は、神への悔い改めなくしては真の平和はあり得ないという確信から来ている。
主イエスが剣を投げ込むために来た、といわれたように、キリストの弟子たちもたとえ周囲に混乱が生じようとも、真理を伝えることへと導かれた。使徒言行録にはそうした大きな混乱や騒動、迫害がいろいろと記されている。キリストの使徒として最も大きな働きをしたパウロについても、そのことが記されている。当時の大祭司たちは、パウロのことを訴えて、つぎのように告発した。

この男(パウロ)は、疫病のような人間で、世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起している者であり、また、ナザレ人らの異端のかしらであります。(使徒言行録二四・5

また、パウロは、ギリシャの町フィリピでは、彼をねたむ人たちのために捕らえられ、つぎのように訴えられた。

そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。」(使徒言行録十六・20

このように、パウロは平和をもたらすどころか、騒ぎと混乱をもたらすものとして訴えられている。これは主イエスご自身が神殿において、いろいろなものを売り買いしていた人たちの椅子などをひっくり返し、人々がいかに見せ掛けの宗教に生きているかを厳しく指摘したり、当時の指導者であったパリサイ派の学者や祭司たちにはっきりと彼等の偽善を指摘したために、彼等が怒り始めたということが聖書には書かれているが、そうした真理のために語る姿勢を弟子たちも与えられていたからである。
こうした聖書の記述を見ても明らかなのは、キリストの福音こそは、真の平和をもたらす根源であり、それなくば平和というのは単にみせかけのものであり、砂上の楼閣のようなものだという認識である。
それゆえ、使徒たちは例えば次ぎのように、その手紙の冒頭で、「あなた方に平和があるように」という祈りを繰り返し強調しているのである。

私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平和(平安)が、あなた方にあるように。(ローマの信徒への手紙一・7など多数)

平和の根底には、私たち一人一人のうちに、神との平和がなければならない。パウロはその点を明確に述べている。

このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。(ローマ五・1

信仰によって、義とされる、すなわち救いを与えられ、神との霊的な交わりを与えられたということは、神との平和を与えられたということなのである。この平和こそが人間同士や、人間の集まりである社会的平和の揺るぎない原点となる。
この神との平和がないということは、すなわち、真実に背いているということであり、赦しや相手のために祈る愛をも持たないということである。なぜなら、愛や真実の完全な総合された存在が神だからである。
キリストこそ平和の源であるということは、新約聖書ではとくに強調されている。

…実に、キリストはわたしたちの平和である。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄された。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされた。…(エペソ書二・1416

この文は初めて読む人にはわかりにくい表現もある。「肉において敵意の壁を壊した」といっても何のことか分からないだろう。これはキリストが自分の肉体に十字架刑を受けて、血を流して死なれたが、それによって、さまざまの敵意を滅ぼしたということなのである。キリストの十字架の死を自分の罪のためになされたことだと心から信じて罪の赦しを実感した者は、それまで持っていた他者に対する何らかの敵意や見下すような感情は壊され、相手に神の国がきますようにとの祈りの心が芽生える。
また、この時代には、ここに書かれているように、戒律ずくめのユダヤ人の旧約聖書(律法)のこまかな規定を守らなければ救われないとして、そうした規定を守らないユダヤ人以外の人々を見下し、彼らを汚れているとしていた人たちが、そのような傲慢さや異邦人への敵意を完全にぬぐい去ることができた。それはそのような規定とは全く別に、キリストの十字架による赦しを信じるだけで、赦され救われるからである。
このようにして、キリストの十字架は多様な敵意や傲慢が作っていた壁を取り壊して、どんな民族であっても信じるだけで救われ、またどのような敵対者同士も片方が救いを実感したときから、祈りという道が開けて和解の道が開けるということなのである。
平和とは単に敵意を持たないということでない。人間が互いに愛もなく、無関心なのを平和な状態だと錯覚したりすることが多い。しかし、そうした無関心、あるいは冷たい平和というものは何かあるとたちまち敵意となってくる。日常の生活のなかでもそうしたことはよくある。だれかが自分の悪口を言っているということが伝わったとたんに、その人とは平和な関係は失われてしまう。
イラク戦争が始まったとき、アメリカではその戦争に反対した人は強い圧力がかかってきて、それまで平和な友人同士であったと思われていた関係がたちまち崩れた人も多かったようだし、イラクでの日本人人質事件のとき、それまで平和そうにみえた人間がとたんに人質になった人を攻撃しはじめたのであった。
その意味で、単に争っていないというだけでなく、相手によきことがあるようにとの祝福の祈りにも似た気持ちがなければ、本当の人間同士の関係は平和な関係とは言い難い。そしてそのような静かな持続的な祈りをなさしめるのが、私たちの内に住んで下さるキリストであり、聖霊なのである。
個人的なレベルにおいても、また社会的な広い範囲においても、確かな平和を造り出すための基礎は、やはり聖書にいうように、まず一人一人がキリストの十字架によって罪赦されて神との平和を与えられることなのである。

 


st07_m2.gifことば

192)私が今死ぬことになれば、私の死後、友たちがみ言葉を熱心に求めることしか彼らには勧めない。
なぜならまず神の国を求めるべきであり、私たちは自分が死ぬときに、妻や子どもたちのことを心配すべきでないからである。
「これらのものはみな与えられる」とある。神は私たちを決して見捨てない。(「卓上語録」 ルター著 教文館)
・ルターは最期のときであっても、周囲の人々に対して「み言葉を熱心に求めよ」というのが願いであったのがわかる。まず家族のことでなく、まず周りの人たちを支える神の言葉を求めるべきとした。現代の私たちも同様に言える。まずみ言葉を求める、それは生きたキリストから直接に与えられる霊的な言葉であるとともに、聖書に書かれた神の言葉をも意味する。

193)… 稲光がするどく光った。こだまする雷鳴の響きで
天には神がいまして、神が創造した世界を支配していると思わせられた。
その時、かつて聞いたことのある、天の正義の話しを思い出して、
悩む心も、なごみ和らぎ、朝まで平和の眠りについた。

(「エヴァンジェリン」ロングフェロー作
*岩波文庫版48P

Keenly the lightning flashed; and the voice of the echoing thunder
Told her that God was in Heaven, and governed the world He created;
Then she remembered the tale she had heard of the justice of Heaven;
Soothed was her troubled soul, and she peacefully slumbered till morning.

・エヴァンジェリンが、悩み悲しめるときに雷鳴がひとときの平安を与えた描写。重荷をかかえた心にとっても、ときにこのような稲妻と雷鳴が神の力と支配を思い起こさせる。そしてその苦しみを鎮める働きをする。自然は不思議な力をもっている。多くの人にとっては単に恐れでしかないような雷の現象や、そのほかの様々の自然のすがたや現象も、神に向かうまなざしを持った者には、新しい啓示や神からのメッセージとして実感する。この詩は私が三十五年以上も前に読んだが、そのときに美しく静かな自然描写、そして人の心の動きに強い印象をうけたのを思い出す。

*)ロングフェローは、一八〇七年アメリカ生まれ。「エヴァンジェリン」は十八世紀の半ばから終わりにかけて、イギリスとフランスが新大陸の支配を争った時代の長編詩。フランス系の移民村の若き女性エヴァンジェリンは生き別れとなった夫の跡を尋ねて広いアメリカのあちこちをさすらった。著者のロングフェローは、ハーバード大学で教鞭をとった学者であったが、アメリカの生んだ最初の大詩人として知られている。この詩は私が三十五年以上も前に読んだが、そのときに美しく静かな自然描写、そして人の心の動きに強い印象をうけたのを思い出す。

194)…私は今度のマラッカ(*)への旅に、神が絶大な恵みを与えて下さることを希望している。どうしてかというと、私をあの国々に送るのは、神ご自身であることが私には示されたが、そのとき、私に深い平安とあふれるばかりの慰めを与えて下さったからである。
私は神が私の魂に示して下さったことを、必ず実行しようと固く決心している。…
万一今年中に船がマラッカに行かないようならば、敵対するような者の船に乗ってでも、あるいは不信の者の船に乗ってでも出発する。またもしここから今年中に出発する船が一つもなく、ただ漁師の小さい舟しかないとしても、神の愛のためにのみマラッカに行く私は、その小舟に乗ってでも行こうと考えている。
それほど私は神に絶大な信頼を置いている。なぜなら、私の希望はことごとく神にあるからである。(「フランシスコ・ザビエル書簡抄 」上巻210P 岩波文庫 」)

*)マラッカとは、マライ半島南部の町。これは日本に初めてキリスト教を一五四九年に伝えたフランシスコ・ザビエルがインドから書いた手紙の一部。ザビエルがどのような気持ちではるかヨーロッパから、アフリカを周り、インドなど東洋にまでキリスト教を伝えようとしたかがうかがえる。使徒言行録におけるパウロのように、ザビエルは自分を遣わしたのは神であるとの確信を持っていたのが分かる。そしてそのゆえにインドから、三千キロ近くも離れた遠い地(マラッカ)へと、どんな危険が伴おうとも、その神の言に従おうと決心している。神への愛のために前進し、神にすべてを委ね信頼して進んでいくキリストの使徒としての姿が浮かび上がってくる。


st07_m2.gif休憩室

○明けの明星

七月頃から明け方の東の空に強い輝きの星がみえています。現在でも、まだ夜が明ける前、午前三時半ころから東の空には輝き始めて、それは思わず心を引きつけられるような強い輝きです。
しかし、夜明け前であるために仕事とかで早起きする人以外には気付かれることが少ないと思います。
この星が金星で、明けの明星といわれるものです。
このような強い輝きのために、昔からどの民族でも注目をしてきた星で、聖書にも何度か現れます。

こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。(Ⅱペテロ一・19

同じように、わたしも父からその権威を受けたのである。勝利を得る者に、わたしも明けの明星を与える。(黙示録二・28

わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」(黙示録二二・16

このように、明けの明星として現れる金星は、キリストを象徴するものであって、それを見るたびに古代のキリスト者は、心を引き上げられ、キリストが再び来られることを待ち望む心を強められ、喜びを新たにしていたのがうかがえます。
星は人間には決して届かないもの、人間によって汚されたり、破壊されたりしないもの、そして永遠に光り続けているその有り様は神の光を連想させ、神の清さや美、そして永遠を目にみえるものとしては最も神に近いと感じさせられるものです。
明けの明星は朝早いときであり、また東の空が妨げのあるところや、都会では明るすぎてよく分からないこともあり、またちょうど晴れていなければみえません。それで実際はなかなか見たことがないという人が多いのです。それゆえにまだ見たことがないという人にはぜひ天候のよいことを確認して早起きして見ておいてほしいものです。
しかし、私たちの心の内に主イエスがおられるとき、いかにこの世が闇であってもその闇のなかで輝く光をみることができます。それは夜明けを告げようとしている神の心の現れでもあります。

○ヒガンバナ
九月に咲く秋の野草というと、まず思い出されるのはヒガンバナです。現在ではその特別な美しさのゆえに、あちこちで植えられたりすることが増えていますし、品種改良で違った花色の美しいものも作られています。しかし、私が子どもの時などは、触れてもいけないなどと言われて棒でヒガンバナの花をなで切りのようにしたものでした。確かにヒガンバナには、リコリンやガランタミンという有毒物質を含んでいます。
しかし、ヒガンバナと同じ仲間(ヒガンバナ科)の花は、スイセン、アマリリス、ハマユウ、スノードロップなど昔から愛好されてきた花がいろいろとあり、それらも同じ有毒物質を含んでいるのです。しかし、スイセンやアマリリスがヒガンバナ科だから有毒だなとど思って毛嫌いするなどということは聞いたことがありません。
またツツジ科の植物にもジテルペン系の有毒物質が含まれているので、葉や花を食べると中毒症状を起こします。(私が子どものとき、飼っていた山羊がツツジの葉を多く食べて中毒症状を起こし倒れたことが何度かあり、ツツジは毒だから注意せよと言われていました。)しかし、それもほとんど話題にされずそのことを知らない人が多数を占めています。
また根拠もなく、植えたらいけない木だといったりするのもありますが、人間の植物に対する言い伝えには、迷信や気まぐれなものがたくさんあります。
ヒガンバナはその美しさのゆえに、手元にあるアメリカの図鑑では園芸植物として扱われており、「花壇の縁取りや切り花として用いる」と記されています。この花は、球根にデンプンを多く含むので、飢饉のときには水でさらして食用にしたとか、むくみを取ったりする薬用にも遣われてきました。
わが家の庭でも、ずっと以前に近くの小川の縁から採取したヒガンバナが毎年美しく咲かせています。都市部に近いところではだんだんこのヒガンバナも少なくなっています。
野生の花としては特別にはなやかな美しさを持つこの花は、緑一色の九月の野をひときわ変化あるものにしてくれるものです。
神の創造されたこの世界には、植物の花にもいろいろあり、わずか一ミリにも満たないような小さな目立たない花から、イネ科の花のようなに花びらを持たない花、そしてサクラのように大きい木全体が花で覆われるようなもの、さらにボタンのような大きいどっしりとした花などもあり、ヒガンバナも特定の時期に一斉に赤い花を開き、葉が後から出てくるなど、その花の姿だけでなく特異なところがあっていっそうこの創造された世界に変化を与えています。

 


st07_m2.gif返舟だより

○私は、聖書を読み始めてまだ一年余りです。全く思いがけない救いの体験をしたことをきっかけに、松山市のカトリック教会で約半年間、毎週司祭から個人指導を受けるとともに、ミサにも欠かさず参会させていただきましたが、受洗を前にして指導をお断りいたしました。
それは『キリスト教の歴史』(小田垣雅也著、講談社学術文庫)を昨年暮れに読み、信仰のみによって義とされるということをなぜカトリック教会が嫌うのか、それまでの疑問が氷解したことによります.
実は、私は自分で云うのもおかしいのですが、浄土真宗の熱心な信者でありましたので、信のみによって救われる、行いはいらない、行いはできないのだ、という真理は体験的にも教学的にも、たとえローマ教会がどう言おうとこれだけは絶対譲ることの出来ない明らかなことだったのです。
…(浄土真宗とキリスト教の)両方から信を賜るというそんな不思議があり得るのかどうか、それが知りたいとカトリック教会の門を叩いたのがそもそもの始まりでした。その結果は、前述のとおりカトリックから離れることとなりましたが、一方では、本願寺派の御同行、御同朋にも別れを告げることとなりました。
この上は、信仰義認の立場に立つプロテスタント教会を訪ねるべきなのでしょうが、数や種類があり過ぎて、かえっていずこにも足が進まず、そんな時に内村鑑三の『余は如何にして基督信徒となりし乎』『一日一生』に出会い、無教会に関心を持つようになったのです。
特に、『一日一生』に抜粋されてある内村師の言葉は霊感と力に満ちています。この他、『キリスト教問答』『後世への最大遺物』『代表的日本人』を読み、現在は『ロマ書の研究』を読みつつあるところです。なお、ヒルティの『眠られぬ夜のために』を毎日読むこととしています。(四国地方の方)

○八月号の「詩編百三編より」は魂が揺すぶられました。キリストよりはるか以前の詩人の信仰、罪を赦された人の喜びと讃美、とても深い味わいでした。詩編に対して更に更に強く心が引きつけられます。(関東地方の方より)
○八月に札幌での交流会がありましたが、その時の参加者から、「はるばるお出で頂いた皆様方から元気と信仰的な力を頂きました。コンピュータを効果的に使っての活動にも目を見張る思いでした。…」とのおハガキがありました。私とともに同行した何人かの視覚障害者が、聖書を読んだり讃美をパソコンを用いてできるようになっていることが特に印象に残ったようです。