2007年2月号 553号・内容・もくじ

リストボタン動かないもの

リストボタン水を求める

リストボタン神の守りー詩編九一編ー

リストボタン名を記された者

リストボタンアメイジング・グレイスー驚くべき神の恵みー

リストボタン虚偽と真実

リストボタン今日のみ言葉 153 「愛は造り上げる」 2007.02.13

リストボタン休憩室

リストボタンことば

リストボタンお知らせと報告

 


リストボタン動かないもの

風が吹いている。大きな竹の木々がさらさらと音を立てて動く。周囲の樹木も揺れる。強い風の日、山にあって一面の木々のうごきのなかにいた。
見えるものがみな揺れ動くなかにあって、動かないものがこの世界の中心にあることが示された。
人間や社会、そして時代のさまざまの出来事、それらはすべて揺れ動き、変質していく。
しかし、いかなる風が吹いても、強力な風が吹いてもまったく動じないものがこの世界にある。
風のなかにあってかえってそのことを強く感じた。
私たちもこの世の揺れ動く状況のただなかにあるからこそ、動かないものを感じ取るように、招かれている。
詩編には、しばしば神のことを、岩と呼んでいる。その心に触れたような気がした。

主はわが岩、砦、逃れ場
わが神、大岩、避けどころ
(詩編十八・3より)

 


リストボタン水を求める

わが家には直径一メートル足らず、深さ六〇センチほどの円柱型のコンクリート製の古い水槽がある。五〇年以上前にはそれは、山の斜面から湧き出る水をためるために使っていたもので、水道が使えるようになってからは、水槽になっている。そこに金魚を飼っているが、その小さな水槽に、小鳥が水を飲みに来る。広い山域の中のわずかな大きさであるにもかかわらず、さまざまの小鳥がやって来る。メジロが一番多く、キジバト、ヤマガラやヒヨドリ、時にはウグイスも飲みに来る。
山の高さが二〇〇メートルほどなので、谷川も小さく、水を飲めるところは、その谷のわずかの区間でしかない。去年から今年にかけてほとんど雨がないため、その小さな谷はもう水は少ししか流れていない。そのため、小鳥たちにとっては、わが家の水槽は貴重なもの、人家のすぐ側であっても恐れずに入れ替わりやって来る。付近一帯には池のようなものもなく、山全体でも水たまりなどはないから、ごく小さな水槽にすぎないが、よく覚えているのだろう。
私たちも、このような水が必要だ。どこに行っても心を潤すような水はない。この世では、家庭があってもそれゆえに悩み苦しむことも多くあり、またそうしたわずらわしさのために、結婚しない場合でも若いときには予想してなかった孤独や淋しさが、老年になると忍び寄ってくる。
職業生活でも心は渇くことが多いだろう。自分の仕事が評価されず、他のもっと仕事をきちんとしていないような人が、地位が上がっていく、自分との適性などでも悩むこともある。そして外に仕事を持たない場合でも、今度は昔のように家事や多くの子供の育児に時間をかけることもないために、その単調さに苦しむようになる。
健康で不自由なき生活をしている人でも、年齢とともに健康は失われ、また突然予想しなかったような問題が生じることもある。
そのようないろいろの場面にあって、私たちは魂の深いところで潤され、新鮮な力を与えられることを望む。小鳥が、山のあちこちを探しても水がなく、食べ物もない冬に懸命にそれらを探し求めるように、人間もまたこの世という渇いたところに、魂を潤す水と、心を強め、清める霊的な食べ物を求めている。
この世にはどこにもそれはない。職業を持っていても、また辞めても、また家庭があってもなくても、さらに、若くても年老いても、健康があってもなくても、こうした渇きは人の心の奥深いところに残り続ける。
山の一角の、我が家の小さな水槽に来ておいしそうに飲む小鳥たちを見て、これは私たちの姿をも暗示していると感じた。
私たちにとっても、キリストのところ以外には、魂をうるおす水はない。この広い世界にただ一カ所、キリストのところには本当に心を満たすいのちの水があり、誰もがそこに来て飲むことができる。

…さあ、渇いている者はみな水にきたれ。
*
金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。
あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。(イザヤ書五五・1

これは、今から二千五百年ほども前に言われた言葉である。このようなはるかな昔から、強い呼びかけがなされているのに驚かされる。

*)口語訳で「さあ」と訳されている原語(ヘブル語)は、「ホーイ」という間投詞であって、強い感情を表す語。この語は多くは、人々の背きや裁きを受けることに対する神の嘆きを表すときに使われているが、ここでは、糧(かて)にならぬもの、無用のものを求めてさまよう人々への強い呼びかけの感情が込められている。新しい代表的な英語訳でも、この箇所を、間投詞をそのまま、次のように訳しているのもある。
Ho, everyone who thirsts, come to the waters;
New Revised Standard Version
Oh, come to the water all you who are thirsty;
New Jerusalem Bible


そして、この預言者に記された情熱的な呼びかけは、主イエスの特別な呼びかけにそのまま流れ込んでいる。

… 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ福音書七・3738

この箇所の主イエスの態度と言葉には特別な力が込められている。祭の最後の最も重要なとき、だれにとも記されておらず、それはあらゆる人々への呼びかけであることを感じさせる。そして立ち上がって、大声で叫ぶように言われたのであった。神は今も声を大にして人間に呼びかけておられるのを、この主イエスの描写で感じることができる。
ここで言われている祭とは、仮庵祭(かりいおさい)のことで、イスラエルの民が、エジプトから解放され、シナイ半島の砂漠地帯を旅していくときその荒野において、厳しい放浪の生活と仮のテントで生活したことを記念するものであった。(レビ記二三・43
このような、荒野の生活は、いつの時代においても、精神的な意味においては続いている。江戸時代は厳しい差別や飢饉、病気に苦しめられた荒野であり、ようやくその縛られた時代が明治の時代になって、一応欧米の人権思想も生れ、自由や差別撤廃の動きも生じたが、相次ぐ戦争によって、また天皇を現人神とする間違った土台が置かれ、厳しい思想統制によってやはり荒野の時代は続き、結局それは太平洋戦争という大規模な戦争となり、数千万の人たちの命や生活が破壊されることにつながっていった。
このような状況もまさに荒野であった。
そしてやっと、平和憲法も作られ、天皇も当然のことながら普通の人間であって、神でないのが明らかにされ、学校教育もほとんどの者が高校教育を受けられるようになった。民主主義となり、自由や平等ということも当然になった。
このように大きく変えられたが、それにもかかわらず、今日の日本の精神の世界には新たな「砂漠化」が進行しつつある。そしてそれが子供の世界にも広がっているのが、いじめの問題である。
このような状況にあって、数千年前の預言者を通して神が熱い愛の心をもって呼びかけ、さらに主イエスを通しても呼びかけられたことは、現代の日本にさらに必要なこととなっている。

人は、周囲の人間から認められることによって満たされる気持ちになる。それゆえ、絶えずまわりの人たちのことが気になり、その評価を求める。認められずに否定されると、次第にその人の心は萎縮して枯れていくことにもつながる。現在の教育の問題では大きなテーマとなっているいじめにしても、認められるどころかその逆の否定されることであるゆえに、学校に行くことができなくなって、時には生きていく希望までも失っていくことになる。
このような状況にあって、いじめてはいけない、というのは当然のことで、本来だれもが知っていることであるが、そのようなことは知っていても仲間にそそのかされ、友達とのつながりを維持して、評価されたいからよくないと知りつついじめに加わる。
いじめられる者も、他の人と同様、周囲の者に認められることを無意識的にせよ心の深いところで求めているから、いじめによっていっそう深い打撃を受ける。いじめられるとは、価値を認めてもらえないということであり、見下されていることだからである。
もし人が、ただ神からのみ魂の水をくみ取り、そこにしっかりと立つときには、理由なきいじめを受けても、受ける傷は小さくてすむであろう。
神は深い愛を持って私たちに呼びかけて下さっている。自然の美しさも、音楽や文学なども、またいろいろの学びなども、みな一種の呼びかけである。私たちが顔をそむけようとするさまざまの問題も、病気や人間関係の難しさなども、みんなそれらを通して、キリストのところへと招き、そこでいのちの水を飲むようにとの神の呼びかけなのである。

 


リストボタン神の守りー詩編九一編ー

聖書のなかに、詩編というのがある。それは、詳しく学べば学ぶほど、実にさまざまの内容が、深く祈られ、考えられ、神に導かれて集められているのが分かってくる。この一〇年ほどをとっても、私たちのキリスト集会では、絶えず詩編は、主日礼拝あるいは、どこかの家庭集会で学ばれてきた。 現在も、私たちのキリスト集会では、三カ所で、それぞれ異なる詩編の箇所を継続して学んでいるゆえに、ますます詩編の奥深さと広がりを知らされている。
ここでは、それらの詩編のうち、神が守って下さるという確信と、神から与えられる平安が記されているものを学びたいと思う。
私たちの生きる過程において、どんな人でもさまざまの思いがけない問題が生じ、苦しみや悲しみが襲ってくる。そのような時、私たちは何によってそのような苦しみや困難に耐えて、打ち負かされずに前進していけるのだろうか。
この点について、次の詩編は私たちの揺らぐ魂に強く語りかけてくるものを持っている。

いと高き神のもとに身を寄せて隠れ
全能の神の陰に宿る人、
その人は主に向かって言う
「わが避けどころ、わが砦
わが依り頼む神よ」

ここには、まず、隠れ場を持つ人の確信が記されている。人生の歩みにおいて、何が私たちの魂の避け所となるだろうか。苦しみのとき、惑うとき、病気の苦しみにあえぐとき、そしてだれも助けてくれない時、そのような時はだれの生涯にも有りうることと言えよう。そこから隠れる場を持っている人と、そうでない人との大きな違いを生じる。
自分の力、あるいは組織、他の人間、あるいは国に頼ろうとするとき、私たちは動揺する。しかし、神により頼むときには、平安を得る。

神はあなたを救い出してくださる
仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。
神は羽をもってあなたを覆い
翼の下にかばってくださる。

神への確信は、単に神は存在するという内容でなく、救って下さるという確信である。
さまざまの悪意、あるいは重い病気など、苦しみは、この世に仕掛けられているかのように、私たちを攻撃してくる。 しかし、そうしたこの世の力に対して、神は愛をもって信じる民を覆い、親鳥がひなをつばさの下に招き寄せるようになされる。私たちの身近なところでは、親鳥が、ひよこを育てている時、ネコや、トビ、カラスが近づいたりすると、ひよこは急いで親鳥の羽の下にもぐり込もうとする。親鳥は、翼を広げてひよこをまねき入れ、その翼の下にかくまってやる。これは心に残る光景であって、私はもう五〇年以上前の子供時代にこのことを何度も見たものであった。
現実のこの世では、悪魔の手が伸びてきて私たちをとらえようとするかのように、次々と驚くような出来事が生じていく。しかし、その背後では、大いなる翼がある。そして私たちを招き入れて闇の力から守って下さる。そうした作者の経験がここに記されている。

神のまことは大盾、小盾。…
暗黒の中を行く疫病も
真昼に襲う病魔も
あなたの傍らに一千の人
あなたの右に一万の人が倒れるときすら
あなたを襲うことはない。…
あなたは主を避けどころとし
いと高き神を宿るところとした。…
主はあなたのために、御使いに命じて
あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。…
あなたは、ライオンと毒蛇を踏みにじり、
ライオンの子と大蛇を踏んでいく。(詩編九一・411より)

ここには、他の詩編にはない、勝利への確信が溢れ出る言葉によって記されている。現実には神を信じる人たちも、信じない人も戦のときは倒れるし、病気によって倒れるのはこの詩の作者もよく経験してきたことであろう。 しかしそれでも、このような揺るぎない確信がなぜ生じたのか。
それは啓示であった。目で見える現実からだけでは、決してこのような確信は生れないで、かえって善は勝つのか、死後の命はどうなるのか、等々さまざまの疑問が生じてくるであろう。
目で見える現象からの結論をはるかに超えた啓示によってこの詩の作者に示されたのがこの詩編の言葉となっていると言えよう。
それは、最終的にはキリストを指し示すものとなっている。すなわち、キリストは、いかに悪の力が襲ってきても、なおそうした悪には決してつぶされることがなかった。
悪意や聖霊を汚したといったいわれなき非難を受けても、キリストは動じなかった。いかに愛のわざをなそうとも、妬みのゆえに当時の宗教的指導者たちはイエスを憎み、殺そうとした。そしてついに捕らえられ、鞭打たれ無惨な十字架での処刑となった。しかし、それにもかかわらず、復活し神のみもとに帰り、聖霊として、また生けるキリストとして永遠に存在を続けるようになられた。 その姿は、まさに千人、万人が倒れてもなお、災いが襲わなかったことを示すものである。
そして毒蛇のような悪意にも打ち勝ち、ローマ帝国の権力がライオンのごとく襲いかかっても呑み込まれず、かえってのちにはそのキリスト教を迫害するローマ帝国をキリスト教国へと変えていった。
このように、単に二〇〇〇年前の人間の姿をもっておられたときのイエスだけでなく、復活したキリスト、すなわち聖霊(生けるキリスト)が、歴史を通じても、たしかに、この詩編で言われているような強固な力を発揮してきたのである。
そしてキリストがそのような力を持っているゆえ、そのキリストに結びついた者もまた、そのような力を受けてきたのである。

彼はわたしを慕う者だから
彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。
彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え
苦難の襲うとき、彼と共にいて助け…
生涯、彼を満ち足らせ
私の救いを彼に見せよう。(詩編九一・1416より)

私たちが神を信じ、愛するときには神からの祝福が豊かに注がれる。そして多くの人にとっては、祈っても何の反応もないと思われている神が、生きた応答をして下さる。神が答えて下さるということは、人間の励ましなどよりもはるかに深い力と平安を与えられることである。それゆえ、この詩の最後に、魂の平安と満ち足たらせて下さることが約束されている。

 


リストボタン名を記された者

人間はみんなどんなに元気があり、活躍していた人も次第に老齢化し、病気がちとなり、ついにこの世から去っていく。そして日が経つにつれてすべて忘れ去られていく。人間の集まりであるこの社会全体も同様である。

世の中を 何にたとへむ 朝開き 漕ぎ去(い)にし舟の 跡なきがごと(万葉集巻三・三五一)

この歌は、世の中を何に譬えたらよいか、それは、朝早く港を漕いで出て行った舟が、はじめは波を立てて進み行き、その進んでいく跡もはっきりとしているが、時間が経つと舟も見えなくなり、船の跡も初めははっきりとした跡が水面に残っているが、徐々に薄れていき、ついには跡形もなく消えてしまうのと似ている。この世のこともそのようにはかないものだ、というような意味である。
また、芭蕉の俳句にも、次の句がある。

夏草やつわものどもが夢の跡

これも、やはり過去の戦の動乱もみな過ぎ、消えて行き、ただ自然の夏草のみが静かに残っているという、すべてが移り行くことへのはかなさ、そしてそれに対比して自然の不変性が置かれている。
この世界全体が、いわば、この世のさまざまの戦いに加わり、生きることに疲れ、病に苦しんだのち老齢となり、死を迎え、そして消えていく、つわものどもの夢の跡 のようなものだと言えるだろう。
そのようなすべてが消えていくと見えるこの世にあって、消えない歩みがある。それは、次のように、神が覚えていて下さるからだ。

…あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。(ルカ福音書十・20

この言葉は、弟子たちが、主イエスから神の力を受けて悪の霊を追いだすことができたと、喜んで帰って来たときに言われた言葉である。主は、「悪の霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。」と言われ、一時的に目にみえるような結果が出たといって喜んではいけないと言われた。そうした見える世界でのことを喜ぶことは、すぐに自分がこのような力を持っているのだという高ぶりへとつながっていくことが多い。そして、そのような表面的な成果のようなものはすぐに次のときには、同様な結果が出ないことが多く、落胆へと容易に結びつくからである。
さらに私たちが老年になれば、そのような目に見えるような働きは次々とできなくなっていくのである。
私たちが神に信じて歩むときには、名が天に書かれている、すなわち神が覚えていて下さる。人間が忘れようとも、また自分自身も重い病気や死の近づく苦しみのなかで、過去のすべてが消えていくようにみえるときでも、神は万能であり、まったき愛であるゆえに覚えていて下さるのであるから、決して消えていくことはない。
次々に新たな人間が現れ、さまざまの出来事が生じ、そしてそれらすべては数年、あるいは数十年もすればほとんどが、時間の巨大な波に呑み込まれていく。
しかし、時間を創造し、時間をも空間をも支配されている神の内に導き入れられた者は、そのような大いなる波にもかかわらずそれに呑み込まれず、かえってその波の上に立ち、神に導かれて歩んでいく。
かつてペテロが、暗夜の大波に揺さぶられて危険な状況にあったが、主イエスをしっかりと見つめて歩んでいくときには、ふしぎにもその大波の上を歩いていくことができたのであった。
これは、神の名が記されている者の歩みを象徴しているといえよう。
名前が登録されている、と言えば、現代ではコンピュータの中や、それを記憶したCDなどに記されることが多い。それらは、インターネットを用いて情報が流出して、さまざまの分野で人の個人情報が予期していないような人のもとに流れて悪用されたりする。こうしたデジタル情報は、また即座に消去することができる。
しかし、天の書に記されている個人情報といったものは、いかなる権力や組織、あるいは武力などによっても削除されたり、消されたりすることはない。キリストやパウロ、ヨハネといった人たちの個人情報すなわち、彼らの真実や愛は数千年をへても削除されたり、消去されたりしなかった。
神が信じる者の名を記して下さっているということは、次のように聖書においても何度か現れる。

…二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。(フィリピ書四・3

…勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す。(黙示録三・5

私たちもまた、ただ神を信じ、神が人間のためにこの世に送られたキリストを救い主として受け入れるだけで、その名が天に記され、生涯の歩みを通して主の守りと導きを受けることを信じることができる。そしてその消えることのない歩みは、死の河を越えて天にまで続いていく。

 


リストボタンアメイジング・グレイスー 驚くべき神の恵みー

この有名な讃美歌の中心にあるのは、神の恵みということである。日本語では、恵みといっても、雨が降ると恵みの雨、恵まれた境遇とか、健康に恵まれた…等々ごく普通に使われているために、特別に深い意味を感じることはない。
しかし、キリスト教における「恵み」ということを、近年において広く世界に知らせることに大きな役割を果たしてきたのは、論文や解説文などでなく、意外なことであるが、アメイジング・グレイスという一つの讃美歌であった。

恵みとは何か
聖書でいう「恵み」とは、英語ではgrace、聖書に現れる原語(ギリシャ語)では、カリス (ca,rij)である。
この言葉は、通常の日本語の恵み、とは大きく異なる深い意味をたたえている。それは、とくにこの恵みを最も深く体験したといえる使徒パウロが書いた手紙によって知ることができる。パウロは、キリスト教徒を迫害する中心人物であって国外にまで、キリスト者を迫害して追跡し、捕らえていたほどの人物であった。
しかし、突然その迫害に向かっているさなかで、復活のイエスにとらえられ、キリスト者たちを迫害してきた罪を赦され、キリストの福音を宣べ伝える最も重要な人物となった。文字通り一八〇度転換させられたその生涯は、まさに神の恵みによって変えられ、導かれたのであった。
彼が書いた手紙が、聖書すなわち神の言葉として二〇〇〇年の間、ほかのいかなる人間よりも世界に圧倒的な影響力を持ってきたのは、神の恵みがそのようになさしめたのである。
パウロは生まれつき家柄もよく、能力に恵まれ、特別な教師についてユダヤ人の宗教を学んでいた。そのような恵まれた状況にあったにもかかわらず、キリストのことには全く目が開かれず、キリスト者こそ、ユダヤ人の長く信じてきた信仰を覆すものだとしてキリスト教徒を迫害することを真剣に行なっていたのである。
このことを見ても、生まれつきの能力がどんなにすぐれていても、また家柄や育った環境がよくても、キリストの真理を受け入れるとは限らないのが分かる。
キリストの生きて働く真理を受け入れるためには、まさに人間の努力や能力でなく、神の一方的な恵みが不可欠なのである。
聖書、キリスト教で言われる「恵み」とは、このように、それを受ける値打ちがないのに、一方的に与えられる神からの賜物を指している。

…事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。(エペソ書二・8

このパウロの言葉は、キリスト教信仰において、「恵み」と「信仰」という二つのことが持っている深い意味とその関わりを簡潔に示している。キリスト(神)は、人間を救おうという愛のお心を持っておられ、一方的に罪の赦しや愛、いのちを注いでおられる。それは主イエスご自身が太陽にたとえられたように、人間の側で気付かずとも絶えず注がれている。私たちがそのような神のよき賜物を受ける値打ちもないのに注がれているのである。
その恵みを受けるには、人間の側からはただ「信仰」のみでよい、というのが、キリストの福音であり、キリスト教信仰の中心なのである。
キリスト者の信仰とは、自分はそのような神からのよきものを受ける資格など全くない、それどころか神の真実に背くような罪を犯してきた。それにもかかわらず、神がこの世のあらゆるものにまさる天の賜物を与えて下さった、という実感なのである。
これが使徒パウロという人間の根本にあったのは、彼の書いた手紙によってはっきりと知ることができる。
パウロは、その手紙のなかで、この恵み(xaris)という語を、およそ百回ほども用いている。ローマの信徒への手紙だけでも、二十回以上用いているほどに、彼にとってはその信仰の中心をなす用語であった。
それゆえ、その手紙のはじめにそのことをほとんど常に次のように祈って書き始めている。

…わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。(ローマの信徒への手紙一・7

自分が受けたのは、神とキリストによる一方的な招きであり、罪の赦しであった。そこから神とキリストとの深い霊的な結びつき(平和)が与えられたというのがパウロの生涯を貫く実感であったからである。
そしてこの恵みという原語は、カリス(xaris)であるが、これは、喜ぶ(カイロー xairw)と語源的に同じなので、この恵みという言葉に、主にある喜びをも込めて用いていると考えられる。
この世界には、健康の恵み、家庭の恵み、それどころか日常の食物の恵み、病気のときの治療の恵みすら受けられない人たちがたくさんいる。飢えのために死にかかっている人たちが何億もいる現状、あるいは、毎日寝たきりという困難な生活の中に置かれている人たちにとって、この世の普通の恵みというものからは見放されていると言えるだろう。
しかし、聖書にいう恵みは、そのような人たちに対しても与えられる恵みなのである。この世のどんな壁をも越えて、与えられ、注がれるといった性質のものなのである。
死んだも同然の者が生かされ、過去に深い罪を犯した者、日常的に罪を犯してきた者も赦しという恵みを与えられ、あらゆるよきものを失い、希望を失った人も生かされる、そして死という一切を呑み込んでしまう力にも打ち勝って永遠の命を与えられる、それがこの恵みの内容となっている。
人間にとって、神からの恵みがいかに大きいか、そのことを、使徒パウロは、次のように述べている。

… あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいた。…
私たちも皆、以前は欲望の赴くままに生活し、行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者であった。
しかし、憐れみ豊かな神は、私たちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、
罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、―あなたがたの救われたのは恵みによる―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせて下さった。
こうして、神は、キリスト・イエスにおいて私たちに示された慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされた。(エペソ信徒への手紙二・18より)

人間は力強く生きている者、活躍している人はたくさんいると思われるのに、なぜパウロはこのように、「あなた方はかつては死んでいた」というような表現をとっているのだろうか。このような箇所を読みたくない、あまりにも極端な表現だと思う人は多いだろう。
これは人間の心のすがたを、神の清い真実なあり方と比べるときに初めて分かることであり、人間だけを見ているのなら、いくらでもよい人、活発に活動していると思われる人はいるので、この箇所のように、「以前は罪のために死んでいた」などというのは全く的外れだと思うのである。
しかし、もし、神の徹底した真実や無差別的な愛と比べるとき、人間の一体だれが、そのような真実や愛を持っているだろうか。どこにそのようなことを日夜心においても、実際の行動においてもなし続けている人がいるだろうか。そもそも、私たちは本当の正しさや愛すらわからず、自分の利益や自分が認められるようなことをどうしても考えてしまうような存在でしかない。
使徒パウロすら、次のように告白している。

…わたしは、自分のしていることが分からない。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをしているからだ。
わたしは、自分の内には、善が住んでいないことを知っている。善をなそうという意志はあるが、それを実行できないからである。
わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
わたしはなんと惨めな人間なのか。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるだろうか。(ローマの信徒への手紙七・1524より)

このように、私たちの心のあり方を神のみ前に置くときに初めて、自分が本当によいことをできない、力のない者、そういう意味で死んだような者であることがはっきりわかる。
このような状況から何が、救い出してくれるのかということは、魂の最も奥深い出来事である。 それは、いかなる学校教育や経験、生れつきの性質や家柄、あるいは環境などによってもどうすることもできないことなのである。
この不可能を可能にしたのが、神の恵み、キリストの十字架による恵みであり、キリストの復活なのであった。
このような背景を考えるとき、パウロがなぜ、その手紙のなかで、百回ほどもこの「恵み」(カリス)という言葉を使っているかが、浮かびあがってくる。
このように、使徒パウロはみずからの命をかけて、彼の受けた「恵み」を伝えようとした。
その彼の祈りと行動は、彼の受けた啓示が聖書となって、世界に永遠に伝えられることとなった。
こうした恵みを受けた人が、キリスト者であり、この二千年間に、同様な経験を世界中の無数の人たちが与えられてきたのであった。私自身も人生の決定的な体験として、まさにこのキリストの恵みを若き日に与えられた一人なのである。
この恵みの経験は、多くの分野へと広がって行った。アウグスチヌスのようなキリスト教思想家、ダンテのような大詩人、アッシジのフランシスコのような特別に清められ神のしもべとされた人、ザビエルのように、宣教師となってすべてを捨ててこの福音の恵みを伝えようとした人、等々。

アメイジング・グレイス
そして音楽の世界でも、この恵みをまざまざと体験した人がキリスト教音楽を次々と生み出して現在も無数の人々の魂をうるおし、キリストの恵みを霊的に実感させる助けとなっている。
そのなかで、現在広くキリスト教と関わりない人たちにまでこの恵みをテーマとした讃美歌が親しまれるようになっているのがある。それが、「驚くべき恵み」(讃美歌21・四五一番、新聖歌二三三番など)すなわち、アメイジング・グレイスである。
この讃美歌は、現在のアメリカの数多くの賛美集、ルター派、カトリック、改革派、長老派、バプテスト派、メノナイト・ブレズレン、聖公会、メソジスト派、無教派、モラヴィア派 等々、アメリカのさまざまな教派の讃美集二十二種類を調べた結果、それら教派のすべての讃美集に選ばれて取り上げられているのは、わずかに二つしかなく、アメイジング・グレイスはその一つであったという。(講座 日本のキリスト教芸術 第一巻「音楽」一〇六頁 日本キリスト教団出版局 二〇〇六年四月刊)
この讃美は、以前にNHKテレビの特別番組にも一時間近い時間をあてて放送されたことがあり、キリスト教の賛美のためにNHKがこのような特別番組を放送するということは、前例のないことであり、また今後も恐らくなされないであろう。
それほどにこの讃美が特にアメリカにおいて、プロテスタント、カトリックなどを問わず教派を越えて採用されているというのは、それだけ国民的に特別な支持がなされていることを示している。
それは、歌詞が信仰をよくあらわしており、そのうえ作詞者ジョン・ニュートンの生き方が神の恵みそのものを鮮やかにあらわしていること、それに加えてメロディーが魂に浸透する味わいと美しさを持っており、さらにその歌詞が教派的な色彩を持つことなく、年齢を越えて愛好され、不思議な力をもって広がっていったからであろう。
作詞者のジョン・ニュートンは、一七二五年、イギリスに生まれた。母はキリスト者であったが、ジョンが七歳のときに召されてしまう。その後彼は、黒人奴隷を輸送する奴隷貿易を仕事とするようになった。当時、奴隷としてアメリカに連行される黒人たちは悲惨なもので、暗い船室に丸太のように詰め込まれ、病気になったりすると海に捨てられるといった状況で、家畜以下のひどい扱いを受けて輸送されていた。ジョンはこのようなひどい扱いを彼自身も行なっていた。しかし、二二歳のとき、責任を任せられた船が嵐に出会い、浸水し食糧もなくなり、絶望的状況となったとき、必死に祈った。そして奇跡的に救われた。
こうした経験がもとになって彼は、のちに奴隷船の働きを辞め、キリスト教の伝道者(聖職者)となった。
自分がかつてやったことは、到底赦されない重い罪であったことを深く知ったが、そのような者に神は、罰を与えて滅ぼすことなく、一方的な罪の赦しを与えて下さり、生かして下さったのを深く知ったのである。それが、この有名な、「驚くべき恵み」という歌詞になった。それはいわば神が聖書の詩編のように、神ご自身がジョンをとらえて、彼を通して神の赦しの愛、恵みを体験させ、証しさせたものだと言えよう。
曲については、だれが作曲したかはわかっていないし、その起源も諸説あって確定されていない。こうしたところにも、みえざる御手が、ジョンの歌詞を支えるようにこの曲と結びつけられていったのを感じさせるものがある。
最近、アメイジング・グレイスの作詞者、ジョン・ニュートンの自伝が出版されたが、その編訳者は次のように書いている。

…アメイジング・グレイスを聞いて、これほど美しい歌を一体だれが作ったのだろうと思ったことのある人は必ずいることだろう。私もその一人であった。
この歌の、大河がゆったりと流れるがごとき旋律を聞いていると、何か遠い昔に触れたことがあるような魂の原風景というべきものに回帰していくような気持ちになる。…(「アメージング・グレース物語」四頁 彩流社 二〇〇六年刊)

このように、右の本の編訳者は、この讃美歌のメロディーが魂のふるさとに連れていくような力があると言っているのであるが、神の驚くべき恵みこそ、私たちを、最も深い意味で魂の原風景へと導いて下さるのであり、この讃美歌は歌詞と曲がともに相働いて私たちの魂のふるさとである愛の神へと導いて行く力を持っていると言えよう。
この讃美歌は世界的に有名であり、そのメロディーは広く知れ渡っているが、歌詞になると本来のこの讃美歌の歌詞をオリジナル版で知っている人は少ないと思われる。
そこで、以下に歌詞の全体を、原文とともに引用する。

驚くべき恵み ーその響きはなんとうるわしいことかー
その恵みは私のような哀れな人間を救って下さった。
私はかつて、失われた者だった。しかし、今は(主によって)見出されている。
私はかつて(何が大切なことなのか、何が悪いことなのか)見えなかった。
しかし、今は、見ることができるようになった。

(一)Amazing Grace! How sweet the sound
That saved a wretch like me!
I once was lost, but now I'm found,
Was blind, but now I see.

○最初の、「その響きは、なんとうるわしいことか!」の原文、How sweet the sound は、挿入文となっていて、原文にはカッコが付いているが、カッコをはずして書いてあるテキストも多い。この sound(音、響き)とは、直前の「Amazing Grace」(驚くべき恵み)を指していると考えられる。「驚くべき神の恵み」というその言葉を思い浮かべるだけで sweet な感情、すなわち「心をやさしくし」、また「胸をときめかせる」(*)ものとして感じられるというのであろう。神の恵み、その言葉自体が、その恵みが何であるかを深く体験したものにとっては、うるわしい響きをもって魂に感じられるのである。
原文は、一行目の sound と、三行目の found 、二行目の me と、四行目の see が同じ響きの音(脚韻)が置かれている。そして、残りの歌詞も大体同様に脚韻が踏まれている。

*)元恵泉女学園大学教授 大塚野百合氏は、その著書で、この第一行を「驚くべきみ恵みー何と胸をときめかせる言葉かー」と訳している。(「讃美歌・聖歌ものがたり」九二頁 創元社)sweet を「胸をときめかせる」と訳したのは、著者の感情をこめた訳語である。この例を見てもわかるが、sweet という語は、多くの人が連想する「甘い」といった味覚に関する意味だけでなく、「心地よい、やさしい、心を惹く、香りのよい、新鮮な、美しい」、といったさまざまなニュアンスを持った言葉である。

(二)私のこころに畏れることを教えて下さったのは神の恵み
そして、その恵みが、私の恐れから救ってくれた
なんとその恵みは、貴くみえたことか、
私が初めて信じたその時に!

'Twas grace that taught my heart to fear,
And grace my fears relieved;
How precious did that grace appear,
The hour I first believed!

(三)多くの危険、労苦、誘惑を
私は通ってきた。
み恵みこそ、ここまで私を無事に導いてくれた。
そして恵みは私をわが家(天のふるさと)へと導いてくれる。

Through many dangers, toils and snares,
I have already come;
'Tis grace has brought me safe thus far,
And grace will lead me home.

(四)主は私によきものを約束された。
主のみことばが、私の希望を確かなものにする。
主こそわが盾、また分け前。
私が生きる限り。

The Lord has promised good to me,
His word my hope secures;
He will my Shield and Portion be,
As long as life endures

○ 主が約束して下さるよきもの、それは信仰、希望、愛、そこから生れる喜びや忍耐、力、勇気、等々をすべて指している。二~三行が具体的なそのよきものを意味している。この世の希望はすぐに失せてしまうが、神に希望を置く者は決して壊されることがない。変ることのない神の言葉によって支えられているからである。
また、神こそは、あらゆる悪が攻撃してくることから守る盾となって下さる。それだけでなく、神ご自身を私たちの分け前として下さるというのである。神を分け前、といった表現で使うのは違和感があるであろう。これは、古代にイスラエルの人たちがカナンの地に住むようになったとき、神から分け前としてそれぞれの土地を受けたことが、背景にある。
人によっては、苦しみや病気、災害、あるいは貧困や家庭すらない孤独を「分け前」として受けて、その運命に悲しみ嘆く人も多い。どうして特定の人があのように重い苦しみを耐えなければならないのか、全く不可解にみえることが多くある。
しかし、そうした人たちにおいても、神を分け前として下さるとき、あらゆるそうした不満や悲しみに打ち勝って、霊的な喜びと平安を与えられると約束されている。それが、主イエスの言われた「ああ、幸いだ、悲しむ者は! なぜなら、その人たちは神からの慰め、励ましを受けるからである」(マタイ福音書五・4)という意味なのである。


(五)まことに、この体と心が衰え
この世の命が終わるとき
私は手にいれるだろう。
隠されていた喜びと平和のいのちを。

Yea, when this heart and flesh shall fail
And mortal life shall cease,
I shall possess within the veil
A life of joy and peace.

○ 私たちは遠からず必ずこの世から去っていかねばならない。そのときは、一日一日と近づいている。著しい苦しみや悲しみ、困難の人生であった人も、ただ信じるだけで、神の驚くべき恵みを受けることができる。それはもはや何者によっても壊されない永遠の平和と喜びである。ここに私たちの最終的な希望がある。

(六)大地はまもなく雪のように溶けていく。
太陽も輝きを失うだろう。
しかし、私をこの世から呼び出す神は
永遠にわたしのもの。

The earth shall soon dissolve like snow,
The sun forbear to shine;
But God, who called me here below,
Will be for ever mine.

○この世界、宇宙も仮のものである。科学的な結論からいっても五〇億年もすれば、太陽も地球も失せていくといわれている。しかし、神はそうしたみえる世界がいかになろうとも、永遠の存在であり、そのような無限の神ご自身をわがもの(分け前)と言えるような計り知れない恵みが約束されている。

(七)私たちは、天の国にて一万年を経ても
太陽のように輝きながら、
日々、神への賛美を歌うだろう。
最初に(賛美を)始めたときと同じように。

When we've been here ten thousand years,
Bright shining as the sun,
We've no less days to sing God's praise
Than when we'd first begun.

○天の国は永遠であり、そこでは、神への感謝と神ご自身を喜ぶことのみがあって、それゆえに神への讃美は尽きることがない。なお、この最後の節は、ニュートン自身が作詩したのでなく、少し後になって、ジョン・リース(一八二八~一九〇〇年)によって追加されたものである。
こうした永遠の讃美は、聖書の詩編一四五編~一五〇編にみられる、神への讃美の詩篇が源流にある。

ハレルヤ。聖所で神を賛美せよ。大空の砦で神を賛美せよ。
力強い御業のゆえに神を賛美せよ。大きな御力のゆえに神を賛美せよ。
角笛を吹いて神を賛美せよ。琴と竪琴を奏でて神を賛美せよ。…
息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。(詩編一五〇より)

「アンクル・トムス・ケビン」におけるアメイジング・グレイス
このアメイジング・グレイスという讃美歌が、とくにアメリカの人たちの心に深く浸透していたと思われるのは、一八五二年に刊行されたストー夫人が書いた「アンクル・トムス・ケビン」にすでに引用されているからである。
悪魔のような人間、レグリーのところでトムはひどい取り扱いを受ける。それは最終的には死に至る激しい暴力を受けるのであるが、そのためにトムは心身ともに痛めつけられ、祈りもできないほどになっていく。
以下に、どのような文脈で用いられているかを明らかにするために、この讃美歌をトムが歌うという箇所の手前の部分から次に引用する。
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…非常な重荷が耐えられないくらい魂を圧迫するとき、その重みを払い落とそうとしてただちに肉体と精神は必死の力を出すものである。そして最もひどい苦しみはそれゆえに、再び喜びと勇気の波が上げ潮のごとくに打ち寄せてくるのである。
この場合のトムがちょうどそれだった。彼の残酷な主人レグリーの侮辱は、前から打ちしおれていた魂を引き潮の底まで沈めてしまっていた。そして信仰の手はなおも、永遠の岩にしがみついていたけれども、その手はしびれ、絶望的になっていた。トムは火のそばに、ぼうぜんとして座っていた。
その時、周囲のものがことごとく消えていくように思われた。そこに茨の冠をかぶり、打たれて血を流している人(キリスト)の幻が彼の前に現れた。
トムは恐れおののいてその顔に現れた崇高な忍耐をじっと見た。
その澄みきった、悲愴なまなざしは彼の心の底までさし貫いた。
彼の魂は感激の潮に打ち寄せられたかのごとく目覚めた。そして両手を差しのばしてひざまずいた。幻は次第に変化していった。茨の冠は栄光の冠となった。
そして想像もできないほどの輝きと光のなかに、トムは憐れみ深いまなざしを彼のほうに向けている顔を見た。そして一つの声がこう言った。
「 勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。」(黙示録三・21
どんなに長い間そこにいたか分からなかった。我に返ったとき、彼の着物は冷たい露にぬれていた。
しかし、恐ろしい魂の危機は過ぎ去って、喜びに満たされ、もう彼は飢えも寒さも失望も不幸も感じなかった。彼はその時、自分の意志を永遠の神に捧げたのであった。
トムは、静かな無数の星を見上げた。永遠に人間を見下ろしている天使の群れ。夜の静けさは、勝利をたたえるトムの讃美歌の歌声で高らかに鳴り響いた。その歌は彼がもっと幸いであったときによく歌ったものであったが、これほどの感激をもって歌ったことはかつてなかった。

大地はまもなく雪のように溶けていく。
太陽も輝きを失うだろう。
しかし、私をこの世から呼び出す神は
永遠にわたしのもの。

まことに、この体と心が衰え
この世の命が終わるとき
私は手にいれるだろう。
隠されていた喜びと平和のいのちを。

私たちは、天の国にて一万年を経ても
太陽のように輝きながら、
日々、神への賛美を歌うだろう。
最初に(賛美を)始めたときと同じように。

…ほの暗い夜明けが、眠っていた奴隷たちを起こして、畑へと駆り立てていった。震えながら歩いていく哀れな日々のなかに、ただ一人、喜びの足どりで歩いていく者があった。
全能の神、永遠の愛を信じるトムの強固な心は、踏みしめる大地よりもなお固かったからである。…
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このように、暗黒の力に打ちのめされて絶望的になろうとしていた奴隷トムの心が、キリストの生ける姿の啓示に触れて再び立ち上がり、あらゆる苦しみをも受けていこうと、主イエスに似た決意を与えられたのであった。
そのとき、「アメイジング・グレイス」の最後の部分がトムの心に浮かんできた讃美歌として取り上げられているのである。
この著作の著者、ストー夫人の生きていたとき、すでにこのアメイジング・グレイスが、苦しむ黒人奴隷たちの魂の歌になっていたのがうかがえる。
こうして、世界の文学史上、特に歴史的な影響力をもった「アンクル・トムス・ケビン」
*の著作のなかで、すでにこのアメイジング・グレイスが生きているのに驚かされる。
ここにも、使徒パウロがキリストによって示された、「驚くべき恵み」が流れ込んでいるのを知らされるのである。

*)ロシアを代表する大作家トルストイが、その芸術論で、「神と隣人に対する愛から流れ出る、高い、宗教的、かつ積極的な芸術の模範」として、この「アンクル・トムス・ケビン」を、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」、ドストエフスキーの「死の家の記録」などとともにあげている。(「芸術とは何か」第十六章)
 また、ストー夫人やトルストイとも同時代であった、スイスのキリスト教思想家ヒルティも、この作品については、こう言っている。
「あなたはどんな本を一番書いてもらいたいと思うか。この場合、聖書の各篇は問題外としよう、同じくダンテも競争外におこう。 … わたしの答えは、ストー夫人の「アンクル・トムズ・ケビン」、デ・アミチスの「クオレ」、テニソンの「国王牧歌」である。 (「眠れぬ夜のために下」七月十六日の項より」)


このアメイジング・グレイスという曲は、アメリカの黒人たちの深い悲しみや絶望のなかにある魂の内に鳴り響き、それ以外の無数の人たちの心に反響しつつ、歴史を流れてきたと言える。
そして今日では、アメリカ第二の国歌とまで言われるほどに定着し、アメリカのキリスト教世界の最も広く採用されている讃美歌となっている。
これは、世界の背後におられる神が、そのようにキリストの恵みを世界に知らせようとなさったその神のわざなのだと知らされるのである。

 


リストボタン虚偽と真実

有名なテレビの健康番組で、一〇年ほども前から内容を捏造していたのが発覚して、大きな問題となっている。納豆をたくさん食べたらやせるなど、捏造したデータを用いたり、そんなことを言ってもないのに、あたかもアメリカの学者がそう言ったように虚偽の放送をしていたというのである。
しかもこうしたことが、長年繰り返されていたのではないかと考えられている。
健康番組全体が疑いの目で見られるようになったとか、政治家が放送内容にたち入ってく危険性を招くようになったとか、いろいろ他の問題にも波及していく様相を呈している。
少し前には、ホテルなどで、耐震強度偽装が行なわれていたことが報道され、また、原発においては、東京電力柏崎刈羽原発で法定検査を通過するための偽装が発覚した問題、また、創業して百年にもなろうとしている有名菓子企業である不二家の期限切れ牛乳を使用していた問題、大会社が談合をやらない、といったその直後から談合をやっていたこと、また、教育関係のタウンミーティングでのやらせ問題等々、さまざまの分野での虚偽が繰り返し報道されている。
こうした国内問題だけでなく、イラク戦争も、大量破壊兵器をイラクが所有しているとして始められたが、実はそういうものは存在しなかったことが明らかになった。そのような虚偽を事実だと信じこんで、戦争を支持したアメリカ国民も、それに安易に追随した日本の小泉前首相やその閣僚たちも、根拠のないこと、単なる類推でしかないことを公然と事実だと思い込んだのであり、虚偽を真実として宣伝したことになった。
このような虚偽は、今に始まったことではない。いつの時代にも広く見られた。
主イエスも最も神を敬い、神とともに歩んだにもかかわらず、神を冒涜したとして、虚偽の罪で捕らえられ、処刑されたし、ローマ帝国のキリスト教徒たちはやはりローマに火をつけたという虚偽の罪名によって捕らえられ、大競技場でライオンと格闘させられるという恐るべき刑罰を受けることになった。日本のキリシタンも同様で数々の偽りの汚名を着せられて逮捕、拷問され処刑されていった。
今から七〇年余り前のヨーロッパでも大規模な虚偽が世界に戦争という火をつけることにまで進んでいった。
ヒトラーの支配は急激に拡大し、一九三三年一月、ナチスが政権を獲得し、一党独裁を目指し、他の党を弾圧し始めた。その年の二月の夜、国会議事堂が炎上した。そして共産党が火をつけたとして弾圧された。しかし、実際はヒトラーの陰謀であったと考えられている。このような公然たる虚偽を重ねて一党独裁となり、ドイツ軍のポーランド進撃によって第二次世界大戦は始まった。
そして戦前の日本はやはり侵略戦争を、聖戦と偽って国民をも動員し、その結果数千万のアジアの人たちが犠牲となったおそるべき悲劇をもたらすことになった。そして開戦後わずか半年ほどでミッドウェー海戦で日本海軍は航空母艦4隻を失う大敗したにもかかわらず、国民には勝利と偽って報道させ、その後もずっと虚偽を報道し続けていった。
このように、現在から過去のの出来事を少しみてもそこには偽りが全体を包んでいるのがわかる。そして単にその偽りは個人的な問題や会社の問題にとどまらず、国家全体から世界の大戦争にまでつながっていくのである。
虚偽はまさに滅びへと通じているのがわかる。
このような現実に接して、私たちはどこにも真実はないのだ、とあきらめにも似た気持ちになることが多い。
しかし、神はこうした現実のただなかにいかなる虚偽にも動かされない岩のごとき真実を私たちの前に備えられた。神ご自身がその真実そのものなのである。 このことは、すでに旧約聖書によって数千年も昔から、はっきりと記されている。

「…憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみと真実(まこと)に満ち、
幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。(出エジプト記三四・67

神とは、慈しみと真実をその本質としておられる。その神が、目に見える姿をとって現れたのが主イエスであった。現代の私たちは主イエスを信じ、見つめることによって、究極的を真実を知って交わることが与えられているのである。
多くの人は、虚偽が至るところにあるから、神などいないという。しかし、神は数千年も昔からそのような偽りのただ中で神の真実を実感する人たちをも創り出してきたのである。
星の光は夜の闇にあっていっそうはっきりと見える。それと同じように、この世の虚偽のなかにあって、神の真実はいっそう鮮やかに感じるように造られている。
このような偽りの満ちた世にあって、もし私たちが神の真実という光輝くものがなければ、その暗夜のゆえに道に迷い、ついに深い闇に落ち込んでいったことであろう。
聖書は一貫して、神の真実を語り続けている。聖書という扉を開いて中に入るとき、至るところで神の不変の真実が静かに光っているのを見ることができる。

 


リストボタン今日のみ言葉 153 「愛は造り上げる」 2007.02.13

知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。(新約聖書 Ⅰコリント81
Knowledge puffs up, but love builds up.

ここには、簡潔であるが、生きる上での重要な真理が記されている。
だれでも、知識を求める。家庭での絵本などから始まり、家庭や保育園での子供同士の遊びなどで知識を増やし、さらに学校にいき始めると、さまざまの知識が増え続けていく。そしてそれらの知識は学校の成績の向上とつながる。それはより難しい大学への入学となり、そこから大きい会社への就職もつながっていく。 知識を持つことはこのように、各人の将来に大きな影響を持っている。 こうして、人は親、保護者、学校の先生、まわりの人々…によって知識こそは最重要だというような気持ちになっていく。
そして、いろいろな知識はたしかにきわめて重要である。英語の知識があれば、外国のすぐれた書物に触れて、視野を広げ、深めることができる。
それにもかかわらず、知識は、それだけでは、人間の魂を決して深く満たすことがない。それは、知識とは無限にあって、知れば知るほど自分がいかに知らないか、ということを思い知らされるからである。 あまり知らない人が、かえって自分は何でも知っているように思い込むのものである。
それ自体が深いところで魂を満たすものでないからこそ、知識を多く持っているものは、自慢とか高ぶりといった形で外に現れ、他者から認められようとしたり、優越感で満足しようとする傾向が生じる。
しかし、愛は人を造り上げるという。この原語(ギリシャ語)は、オイコドメオー (oikodomew)で、家(オイコス oikos)という語から作られた語であり、「家を建てる」というのが原意である。それで、英語訳では、 build を使っている。
ここでいう愛はもちろん、普通に考えられている親子や男女、友人間同士の愛でなく、神の愛を指している。神の愛とは、無差別的でたとえ自分に害悪をなすような者、自分を無視するような者に対してすら、及び、彼らが本当によくなるようにとの祈りが込められている。
そのような愛だけが、人間の魂に働いて、建てていく、造り上げていく。
かつて、戦前の日本は、八紘一宇(はっこういちう)と称して、世界を一つの家に建て上げるのだと教えていたが、そのような主張は砂上の楼閣であったから、太平洋戦争の敗戦とともにたちまち崩れ落ちてしまった。
一人一人の人間だけでなく、人間が集まった組織、団体、国家においても知識や権力などで建て上げよう、造り上げようとしても、時が来たら簡単に崩壊する。
しかし、神の愛によって建てられたものは、崩れない。キリスト教信仰をもつ集まりは、全体としてみるとき、神の愛によって建てられてきた。それゆえに、この二千年間という長い期間を経ても、部分的に崩されるようなことはあっても、全体として世界ではキリスト教の真理とそれに結びつけられた人々の集まりそのものは、決して崩れていくことはなかったのである。
聖書も神の愛が建て上げたものだから、数千年も壊されることなく、続いてきたと言えよう。
私たちの魂も、神からの愛を受けてはじめて建てられていく。私自身、どんなに学校での勉強を重ねても崩れていくものを感じていた。神とキリストを愛を実感するようになってはじめて、自分のうちに崩れていかないものが建てられていくのを感じるようになった。
人間関係も同様であり、神の愛がそこにあるとき、相互に建て上げられ、永続的なものとなる。人間的な愛は一時的には立派に建てていくようにみえるが、時が至ると何か予期しないことが生じて崩れ去るものである。
神の愛は、触れるものを造り上げ、建てあげていく。神の愛を少しでも受けることによって、敵対する人にも恨みとか憎しみでなく、その人の魂のために少しなりとも祈りの心が生れる。何かよきものが造り上げられる。
神は愛である。そしてこの世、この宇宙は神が創造し、現在も支えておられる。それゆえに、この世界全体は神の愛がもとにあり、常に建て上げようというご意志の中にある。たしかに神の国に向かって建て上げ、新しい創造へと進んでいるのである。
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野草と樹木たち
スイセン 小松島市日峰山 2007.2.7
スイセンは、冬のさなかに咲き続ける花です。この写真は、海岸のそばから数キロにわたって続いている高さ200mほどの山(日峰山)にあるわが家近くに半野生化して毎年増えているものです。夏から秋にかけては、入り込めないほどの草や低木が生い茂るところであり、可憐な花が増えていくなどとは到底思えないような場所であるにもかかわらず、このような美しい花を毎年咲かせるところに、自然の不思議さを感じます。 神の愛がこのような品格ある花を造り出していると言えます。この純白の花びら(花被片)と、中央部の黄色の副花冠、緑の葉、全体の姿、そしてよい香りは神の愛が私たちに向けられた一つのかたちだという気がしてくるのです。

 


リストボタン休憩室

○宵の明星
夕方には、一月に入ってから金星がみえるようになり、現在も夕方の西空に強い輝きを見せています。金星はその特別な光のゆえに古代から世界的に注目されてきた星です。
現在のように、夜空が町のさまざまの明かりが増えると、闇に輝く星を心を沈めて見つめることが困難になっている地方が多いのです。
それでも、金星だけは、どのような明るい都市であっても、西の方向がさえぎられていなかったら、夕暮れには見付けることができるほどの明るさです。
聖書の最後に、再び来たりたまうキリストのことが、明けの明星(金星)にたとえられているのは、古代のキリスト者がこの金星の輝きに霊的な意味をはっきりと感じていたことを示しています。
なお、今の時期に、明け方早くに南東の空に明るく輝いてみえるのは金星でなく、木星です。以前にある方が、一月に、明けの明星を見ました、と書いてありましたが、それは木星なのです。
金星も木星も、それを構成している物質そのものは地上にある物質と同じものですが、それらが太陽の光を受けて輝くときには、その光は私たちの心に特別な意味をたたえて感じられます。それは、今月号に引用した「アンクル・トムス・ケビン」にも記されているように、他の夜空の星々と同じく神の使いのようなものとなり、その光は、魂に届く光となっています。

 


リストボタンことば

255) 不法が加えられたことに対して、恨みによって復讐しようとする者は、たしかにみじめな生活を送る者である。
しかし、反対に、憎しみを愛によってあえて克服しようとつとめる者は、たしかに喜びと平安にささえられて戦い、大勢のものに抵抗するのにただ一人の人間に対抗するのと同じように容易に戦い、そしてほとんど僥倖(偶然的な幸運)を必要としない。(「エティカ」スピノザ著(*) 世界の名著版 三〇九頁)

*)スピノザはオランダの哲学者、神学者。(一六三二年~一六七七年)彼は、理神論であったが、その倫理学には、ここにあげた言葉のようにキリスト教の教えに通じるものもみられる。(なお、エティカとは、倫理学を意味する。)

・この言葉を聖書的に言い換えるなら、他者から受けた不正によって自分の内に相手への憎しみが生じるとき、神の愛を求め、その愛を受けるならば、主の平安が与えられ、その平安と喜びによって、悪意に打ち勝つことができる。主イエスが、敵を愛し、迫害する者のために祈れ、と教えたのもそのことであった。

256) 祝福された状態(至福)は、徳の報酬でなく、徳そのものである。
私たちは、快楽を抑えるから、至福を喜ぶのでなく、むしろ逆に至福を喜ぶから快楽を抑えることができるのである。
精神は、神への愛、すなわち至福を喜ぶことによって快楽を抑える力を得る。(同右 三七一頁)

Die GluckseligkeitistnichtderLohnderTugend,sondernselbst Tugend.und wirerfreuenunsihrernichtdeshalb,weilwirGelustehemmen,sondernumgekehrt,weilwirunsihrererfreuen,deswegenkonnenwir die Gelustehemmen.

・主イエスのたとえと似た内容である。「天の国とは、次のようにたとえられる。畑に宝物が隠されているのを見付けた人がいる。その人は、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払ってその畑を買う。」(マタイ福音書十三・44
神の国の宝、すなわち主イエスによる罪の赦し、永遠の命、神の愛などを知らされた者は、その喜びのあまり他のもの、例えばこの世の快楽をも退ける力を得る。

257)いつの時代にも、またどの民族にも、自分自身のためにはなんの願望をも持たず、ひたすら正しい道で、人を助けるためにのみ生きる幾多の人がいる。
このような人こそ真の「聖職者」である。(「眠られぬ夜のために 」第二部 一月十五日の項」)

・このような心は、神から与えられる。人間は自然のままであれば、このような生き方とまさに逆で、自分の利益になることのためにのみ生きているという状態である。他人のためにする場合でも、そうしておくと自分もよく評価される、といった心が隠れていることも多い。聖霊に導かれて初めてこのような心が与えられる。

 


リストボタンお知らせと報告

○今年の高知での四国集会

・申込書は郵送。会費は、
・申込書に相互理解のために、簡単な、自己紹介、好きな聖句などを書いて下さい。
○北田 康広・陽子さん夫妻が、二月一〇日(土)徳島市での人権関係の行事の催しものの一つとしての、「さわやかコンサート」に出演し、ピアノ独奏でシューベルトのピアノ曲などを、また、陽子さんのピアノ伴奏で「さとうきび畑」「心の瞳」などを歌いました。一時間ほどの時間でしたが、久しぶりにピアノの力強い演奏、陽子さんのピアノ伴奏での歌も聞く人の心に入ってくるものでした。
また、ちょうど同じ日の朝には、テレビのハーベストタイムで、北田 康広夫妻が出演する番組が放送されました。
これは録画されていますので、希望の方は、吉村(孝)まで申込んで下さい。(代金は送料共で三〇〇円)
なお、北田 康広さんのピアノ演奏と、歌のCD「心の瞳」が去年発売されましたが、私のところにも在庫ありますので、ご希望の方は吉村(孝)まで連絡ください。価格は、送料当方負担で、三〇〇〇円です。

○今月号には、私が八年近く前から希望者にインターネットで送信している、「今日のみ言葉」というのを入れてあります。
最近は作成する時間がなくて、毎月一度ほどしか送信できていませんが、野草などの写真は私が自宅周辺とか、高知県に近い海陽町に行く途中で撮影したものを掲載しています。
インターネットでの送信を希望される方は吉村(孝)まで連絡ください。