見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなた方に伝える。

(ルカ福音書二・10  

 


2008年12月 第574号・内容・もくじ

リストボタン飼い葉おけのキリスト

リストボタン青、緑、白

リストボタン橋渡し

リストボタン神を愛するということ

リストボタン聴覚障害者と音楽、宗教的教育

リストボタン九州から中国地方への集会と訪問

リストボタン知らせ

 


リストボタン飼い葉おけのキリスト

家畜小屋に生まれたイエス、暗く、汚れた場所、人に無視されたところで生まれた。しかし、そのようなお方が、「すべての民に大きな喜びを与える」と預言され、その通りになった。
いかに暗く、絶望的なところであっても、キリストが入って来られない場所はない。
そして神の力がのぞむならば、どんな小さきものも、他者に大いなるものを与える存在になりうることも指し示している。
今も、キリストが人や集まりの中に生まれることですべてが変わっていく。

 


リストボタン青、緑、白

初冬の朝、山道を歩く。周囲は緑の木々におおわれた山々。そして天に広がる澄んだ青空。そこに浮かぶ真っ白い雲。
地上では、ほとんどどこに行ってもこれらの三つあるいはそのうちのいくつかは私たちの身近に見ることができる。都会のただ中であってもなお、大空は頭上に広がっている。
緑は希望を表し、青空は神の無限の深みを示し、純白の雲はあらゆる汚れからの清められた状態を私たちに語りかけている。
新しい命は至るところで生じている。冬の到来にもかかわらず、緑の木々はたくさん山々を包み、一時は枯れたようになった落葉樹もとき至れば初々しい緑の芽を出してくる。緑は変ることなき神の命を象徴するもの、希望を私たちに語りかけている。
そして神の無限の深み、自然の世界の奥深さ、その神の御手の無限の多様性、そして人間や動物の持つさまざまの能力、さらに人間の集合たる社会全体の大きな流れである歴史において、人間の予想もできない大きなスケールにおいてその御計画を着々と進めつつあるその深さをあの青い空が指し示している。澄みきった空はたしかにどこまでも限界がない。神の御計画もあらゆる制限を超えた深みをたたえている。
使徒パウロも、神の歴史を通しての人類全体の救いにかかわる遠大な御計画を啓示されて、次のように感嘆の声をあげざるを得なかった。

…ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。(ローマの信徒への手紙十一・33

そしてパウロが神から啓示されたことは、あらゆるものが、ばらばらになっていくように見える表面的な状況とは逆であった。

…すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている。(同36節)

この世界にはさまざまの暗い出来事がいつも生じている。しかし、そうしたことは最終的には闇に向かっているのでなく、私たちの理解や想像をはるかに超えたところで神の御計画と導きがあり、最終的にすべてを、愛なる神に向かわせているということを直接神から啓示されたのである。それはこの世のあらゆる災害や政治的混乱や社会的な問題を越えて、その深い底流が神の国に向かって流れているという啓示であったゆえに、パウロもこのようにその無限の深い計画をただ賛美するほかはなかったのである。
私たちも頭上に広がる青い空を見つめることによって、その神の雄大な計画、人間の考えや学問、想像をすべて超えた神の愛の計画を思い起こすようにとうながされるのである。
私たちの悩みや悲しみ、あるいは不安や恐れは、たいてい私たちの考えや想像が狭く、限られたものだから生じてくる。自分が大事にされていない、といったことだけで不満や怒りが生じることでもわかる。それはこの広大な世界において、自分のことだけを中心に考えるという著しい狭さから来るのであって、もし、自分という狭く小さいものから離れて、どこまでも青く澄んだ空のように無限の深みをたたえた神の御計画を思うならば、そうした小さな不満はおのずから消えていく。


 


リストボタン橋渡し

この世にはさまざまの人間がいるし、その集まりも実にさまざまである。ある人たちは他国の重要な建物とそこにいる何の関係もない人々を、自らも命がけで爆発物を抱えてそこに行き、破壊して目的を達成しようとする。また、マザー・テレサのように、神の愛をもってもうじき死ぬという人たちに神の国の愛を注ぎだす人たちもいる。また、生まれつき重度の病気や手足、あるいは目、耳などにハンディを持っていて、仕事にもつけないという人たちもいる。またすでに子供のときから、弱いものいじめをして喜ぶような子供もいれば、老人の介護や障害者の手助けをすることを好む子供もいる。
この世は常にこうした極端な違いをもった人間、集団がある。
そうした違いはまた激しい対立を生み出す。それがいじめ、暴力、差別、絶望、傲慢、また大きくなると戦争といったことにつながっていく。
私たちの世界は常にこうした分裂に悩んでいる。
その対立した人間や集団を橋渡しするものを誰もがある人は精一杯の努力や、行動によって、ある人は、無意識的に求めている。この世の自然を見ても分かるように、一つ一つの葉、樹木、野草それ自体が千差万別である。植物など自然のものはそれでいて全体として一つの自然の調和がある。
しかし、人間の世界では、なにかが橋渡しするのでなければ、分裂、あるいは対立したままである。
私自身、大学一、二年の頃ではその橋渡しするものの存在を知らず、孤立、孤独といった感情に悩まされていた。人間の世界は本質的に一人一人が孤島のように孤立しているように見えた。ときはちょうど学生運動が激しい時代で、日夜デモや抗議ビラ、学生たちの演説であふれていた。それらの人たちと政治にまったく関心を持とうとしない学生たちもまた対立して、橋渡しするものはないように思えた。たいていの大学の教官たちもまた学生との橋渡しを真剣にしようとするのでなく、なすすべなく見守っているかあきらめているかのようだった。
そのような状況において、私はある日突然にして、そのような分裂して対立、無関心であるすべてに橋渡しするものがあると知らされた。ことごとくが孤島のようであったのに、それらのすべてに橋がかかっているということに目が開かれたのである。
敵対するもの同士にも橋をかけ、無関心な心にも生き生きした世界に橋をわたし、滅びゆくものに永遠の世界に橋が架けられているのが分かってきた。
人間が一つになることのために、キリストは地上に来られたという。それはすべてのものに橋渡しがなされることであった。たしかにキリストの心、その聖なる霊を少しでも与えられたときには、少しずつ離れ小島のようであったものが橋でつながっているのに気付かされていく。
祭司という言葉は一般の人にはなじみにくい。ふるい世界の遺物のようなものと感じる人が多いのではないか。しかし、その祭司というラテン語はまさに橋渡しという意味を持っているのである。祭司という言葉は、ラテン語では、 ponti-fex (ポンティ フェクス)という。ponti とは、ラテン語の「橋」pons(ポーンス)という言葉に由来し、fex とは、facio (ファキオー・作る)という語に由来する。すなわち、祭司というラテン語は、「橋を造る」という意味なのである。
橋渡しをするということにおいて、最も大いなる働きをして下さったのは、主イエスであった。それゆえに、新約聖書でのヘブル書ではイエスのことを、繰り返し大祭司(ラテン語で ponti-fex)とあらわしている。

…キリストは、恵みの大祭司として来られ、…雄山羊や雄牛の血によらないで、ご自身の血によってただ一度聖所に入って永遠のあがないを成し遂げられた。(ヘブル九・1112より)

分裂や対立が繰り返し生じている私たちのこの世界において、その現状につねに橋を渡す存在がおられると知ることは大いなる希望を与えてくれる。敵対するものはその憎しみがひどいほどどうすることもできない。しかし、その憎しみや敵意にすら橋を渡すことができる。キリストが私たちの内に来ていただくことによってである。 主が一人一人の魂に住んで下さるとき、良きものにも悪しきものにも心の橋、祈りの橋がそこにあるのに気付かされる。
キリストは道である。そして道の通っていない深い谷や危険な崖であってもそこにあらたな道、橋を架けて下さるのである。
キリストがこの世に誕生したのは、暗く汚れた家畜小屋であった。それはまさに暗い心をもつ人々や無視された人々、人間扱いされないような人々を見つめ、闇から光の世界へと橋を渡す存在であることを示す出来事なのであった。
創世記に、ヤコブが一人遠いところに旅立っていく記事がある。両親がいたところからは、直線距離でも六百キロほどもある遠いところに向かったのであるが、その途中で、一人荒れ野で眠ったとき、驚くべき夢を見た。それは、先端が天にまで達する階段が地上に向かって伸びており、しかも神の御使いがそれを上り下りしていた、というのである。(創世記二八・12
この天と地を結ぶ階段とその天使たちもまた、常識的にはまったく接点のない天と地を橋渡しするものが存在するという啓示をヤコブに与えたのであった。
人間は自然のままでは実に地上的な存在であって、目に見えるもの物質的なものに堅く縛られている。それはまた罪に縛られているといってもよい。そのような人間には天の世界はまったく見えないし、断絶している。無限に深い谷があってそこから彼方へはわたっていくことは不可能なのと同じである。
それゆえにしばしば私たちは人生の歩みのなかで大変な苦痛や恥、あるいは悲しみによってまず私たちの堅い心が砕かれていく。そして私たちのさまざまの自分中心のよくない心のただなかに、主がきて下さり清い世界へと橋となって下さり、私たちを神の国へと導き出して下さるようになる。
大空の澄んだ青い色、そして山々、遠い星の輝き、地上の草木、渓谷の水の流れ等々、自然の清いさまざまのものもまさに私たちにとっての天への階段であり、私たちの心の霊的な感度が敏感になるほどに、そこに御使いが上り下りしているのを実感することができる。
そしてそのような恵みを与えられたとき、私たちそれぞれは実に小さな存在であり、なおつまずきばかりしているようなものであっても、私たちもひとつの小さな橋として闇にある人たちを主にある平和へと橋を架けるものとして下さるのである。

 


リストボタン神を愛するということ

主イエスは最も大切なことは、神を愛すること、そして隣人を愛することだと言われた。
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
*
これが最も重要な第一の掟である。
第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』(マタイ二二・3739

*)心を尽くし、…を尽くし と訳されている原語は、「すべての心をもって、すべての精神をもって」ということであるから、ほとんどの英語訳でも次のように all を用いている。 You must love the Lord your God with all your heart, with all your soul, and with all your mind.NJB


人間にとって何が最も大切なことであるのか、それを知らなかったら私たちは生涯を間違った方向に進んでしまう。
例えば、健康が最も大切なことであるとすると、たとえ人を傷つけたり盗みをするといった不正なことをしても、健康があればよい、というようなことにもなる。このようなことを考えるとすぐに分かることであるが、健康以上のものがあるということはすぐに分かることである。それは正義にかなうこと、真実であるということになる。
そして正義や真実を完全に包み込んだ完全な存在こそ、神であり、神を愛するとは、そうしたあらゆるよきものを内に持っておられる存在を愛することだということになる。
真理を愛する、ということは多くの場合、学問的な真理を愛するということを連想する。それゆえ大学とは真理の探求の場である、といわれてきた。
自然科学、文学、経済学、哲学、芸術学等々いろいろな分野がある。それらを専門的に学ぶことは、真理の探求であるということはたいていの人が分かっていることであろう。
しかし、神を愛するということは、学問的な真理を愛するということよりはるかに深く、広い。古い時代から、学問などまったくしたことのないごく普通の人々や奴隷たちであっても、現代のたくさんの学びをしている私たちよりはるかに神を真剣に愛して生き抜いた人、ときには命まで捨てていった人たちも多くいる。
聖書の中には神を愛するとはどのようなことであるか、私たちがふだん気付かないような広範囲の方面から記されている。
主イエスは、最も大切なのは、神を信じることだとは言われずに、神を愛することだと言われた。それは神への信仰が究極的なことでなく、神を愛することこそ、人間の究極的な姿であるからだ。そして神を愛するためには、神への信仰がその出発点となる。
神を愛することの重要性は、旧約聖書の最初から現れてくる。主イエスが言われたように、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神を愛するという最も重要なことから人間ははずれてしまうということが最初から書かれている。
それはアダムとエバの記述である。アダムは、神から食べてはいけない、という命令を受けていたにもかかわらず、エバの誘いによってその戒めを破ってしまう。それは神を心を尽くし、精神を尽くして愛していなかったということを表している。エバがまずサタンの象徴的な存在であるヘビの誘惑に負けて、神よりもヘビの言葉を受けいれたが、それは神を心のすべてをもって愛するということからはずれてしまった結果であった。
人はだれでも、深く愛する者の言葉を守ろうとするからであり、ある人の心からの警告やいいつけを守らず簡単にそれを破るということは、その人への尊敬も愛をも持っていなかったというしるしとなる。
アダムとエバの最初の堕落、楽園からの追放とは、神への愛を失ったゆえである。
その後聖書に現れるアブラハムは、神から「私が示す地に行きなさい。」との言葉を受けて、慣れ親しんできた親族や土地、また親しい友人や郷里をも捨てて、神の言葉に従ってはるか遠くの未知の地へと旅立った。このことは、主イエスが言われたように、アブラハムの「すべての心、精神、魂」をもって神を愛していたがゆえの決断と行動であった。
全身全霊をもって愛するのでなければ、このようにすべてを捨てて未知の危険の多い旅へと出発することはなかったであろう。
このように、神を愛するというのは単に感傷的に、人間的な好きといった感情を持つのでなく、命をかけてもその言葉に従うといった決断や勇気、忍耐を伴うのである。
こうした神への愛が最も直接的に人の心から溢れ出た言葉で記されているのが、旧約聖書の詩編である。日本や中国などの古い時代の詩集には男女の愛に関する詩が実に多く含まれている。それに対して、旧約聖書の詩集である詩編には、そうした内容のものが全くなく、それに代わって、神への愛が全編にたたえられている。
それをいくつか見てみよう。
まず、詩編の第一編からそれははっきりと知ることができる。

いかに幸いなことか…
主の教えを愛し
*
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木
時が巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。

*)この箇所の直訳は、「彼の喜びは、主の律法の内にある」であるから、英語訳では、 his delight is in the law of the LORD, となる。「愛し」と訳された原語 ヘーフェツ(名詞)は、「喜ぶ」と訳されることが多い。新共同訳以外の日本語訳(新改訳、口語訳、文語訳、関根訳、松田訳などすべて「喜ぶ、悦び」と訳している。英語訳も大多数は、delight を採用している。)

ここでは、詩編全体の総括としてこの詩編第一編が置かれている。そこには、神の言葉への深い愛があり、喜びがある。そしてそれがある限り私たちの幸いは確実であることが確言されている。
神の言葉を愛する(喜ぶ)ことからこの詩編全体が生み出されている。そして神への愛とは、人間の愛のように感情的なものではない。私たちが神を愛せよ、といわれると何となくどうしたらよいのかと惑うような気持になることが多いのは、愛するということを人間を愛するような、ある人を好きになるといった感覚で連想するからである。
聖書において神を愛するとは、心を注ぎだすことである。自分のあらゆる心のはたらきをいわば全部動員して神に向けていくことである。それゆえに、すでに旧約聖書において、原文の表現は、英語訳には反映されているように、(with all your heart and with all your soul and with all your strength.
すべての心をもって、すべての魂をもって、そしてすべての力をもって、 ということなのである。
それゆえに、単に好きであるといった感情でなく、それは人間の全存在を注ぎ出すことである。
それゆえに、この詩編第一編に記されている、「神への愛」は、すぐ後の 第二編のテーマである、この世の権力者たちがどのようにその力を誇示して、襲いかかるように見えても、その背後におられる神の正義の力、万能の力を信じることである。それは神への深い愛から出ている。
また、主イエスご自身が最期のときに叫んだ最も苦しみに満ちた叫びは、詩編にすでに見られる。それは詩編にその体験が記されている信仰を与えられている人間の最も苦しい時を、主イエスもそのまま経験されたということなのである。それは旧約聖書の詩編には、主イエスの最も深い魂の叫びに通じる深みをたたえているということである。そして主イエスは、自分と神は一つである。完全な愛によって結ばれていることを明言されている。

…私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか。…私が力の内におり、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい。(ヨハネ十四・1011より)

このように、主イエスと父なる神は互いに内にいるという霊的関係であり、不可分の関係であると言われている。それは言い換えると、完全な愛によって結びつけられていたということである。

…私が父を愛し、父がお命じになったとおり行っていることを、世は知るべきである。(同一四・31

こうした愛によって互いに内にあり、完全な結びつきによって一つとされていた。このような愛ゆえに、イエスは、その最期の苦しみのときにも、その愛する父なる神に向かって叫びをあげたのである。その叫びとは、憎しみや無関心といったものでなく、まさにその正反対の愛の叫びなのであった。神への無限の愛がこのような叫びをあげさせたのである。

わが神、わが神、なぜわたしを見捨てたのか。
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
わが神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。…
わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い
「主に頼んで救ってもらえ、主が愛しているなら助けてくれるはずだ。」…
母がわたしをみごもったときから
わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。
わたしを遠く離れないでください。
苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。

このように、信じる神から見捨てられたと思われるほどに助けなく、悪意ある者に苦しめられ絶望的状態に陥っている。このような状況に落ち込んだ人は数知れないだろう。この世には昔から病気や戦争、事故、敵対する者からの攻撃等々、私たちを苦しめ希望を失わせてしまう状況が至るところである。
しかし、それでもなおこの詩の作者は、神に向かって心を注ぎだして訴え、叫び、祈り願った。ここに神への愛がある。聖書にいう、神への愛とは全身全霊をもって神に向かうことであるからだ。それは、通常の日本語の愛という言葉で連想されるような甘い内容ではない。生きるか死ぬか、絶望にうちひしがれて闇に沈んでいくかどうか、という命の瀬戸際にあってもなお、渾身の力を注いで神に心を注ぐ、それこそ、イエスが言われたように、「心のすべて、魂のすべて、そして精神のすべてをもって神を愛する」ことなのである。
神が最も愛されたのは、イエスであった。完全に一つとなっているほどに神はイエスを愛された。イエスが伝道の出発点において、聖霊を受けたとき、神は「これは私の愛する子、私の心にかなう者」と宣言された。(マタイ三・17
さらに、自分が十字架で処刑されるときが近づいたとき、三人の弟子たちを連れて高い山に登り、そこで真っ白い輝く姿となり、神と同じ存在であることを示されることがあった。そのときにも、次のようにやはり神から特別な愛を注がれていることが示された。

…すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(マルコ九・7

このように、伝道の生涯の初めのときと、終わりに近づいたときにそれぞれ神が、特別に愛する子だと直接言われたほどであった。
私たちが普通に愛という言葉で思い浮かべるのは、大事にされるということで、小説やテレビ、歌などで毎日洪水のように、「愛」という言葉があふれているが、それらは厳しいものがなくて、それと逆のものを連想することが多い。
しかし、神がそれほどまでに愛されたイエスは、どのような歩みとなっただろうか。三十歳になるまでは神が愛したという特別なことはほとんど何も記されていない。わずかにルカ福音書に一カ所だけ十二歳の頃の記述として、「神と人とに愛された」というのが見られる。
イエスは三十歳のころから、生活のすべてを福音伝道に捧げられた。病気をいやしたのもその一環であった。神の愛を最も受けたその三十歳からの日々、それは苦難のはじまりでもあった。病気をいやし、ハンセン病の重い病人をいやし、目が見えなかったり耳が聞こえなかったりした人たちは昔はひどい差別を受けて、何等の生活の支援もなかったがそうした人たちに近づき、触れていやし、新たな霊を注がれた。
それにもかかわらず当時の宗教家たち、指導者的な人物たちからは妬みを受け、神を汚したという重い犯罪を犯したとしてイエスを捕らえ、ついには十字架で処刑してしまった。そのような苦しみに遭(あ)っている人を見れば、いったい誰がイエスを神から特別に愛されているなどと感じられたであろうか。
このように、最も完全な神の愛によって特別に愛されたイエスはまた、最も苦しい目に遇わされ絶望的な叫びをあげるほどであった。ここに神の愛というのがいかに私たちの連想するような甘いものとかけ離れているというのが分かる。
このような最も恐ろしい苦しみをも通らせるというのが神の特別な愛だという。人間の愛なら、自分の最愛の子供を十字架で釘付けにするなど、考えられないことである。このように、神からの愛ということは私たちの通常の愛というものに対する見方とは根本的に異なっているところがある。
こうした大きな隔たりは、私たちが神を愛するという場合にも生じる。
聖書に言われている、人間への命令としての、神を愛するということは、感情的な好きというような甘いものでなく、逆に激しい木枯らしの吹きすさぶ厳しい冬の寒さにもたとえられるようなものを持っている。

わが神、わが神、どうして私を捨てたもうたのか!

と絶望的な叫びをあげ、取り巻く悪しき人たちからの迫害に耐えて信じ抜いたときに、その苦しみと光の見えなかった深い闇とはまったくことなる世界へと導かれたことが、そのあとに続く詩の内容からうかがえる。あの激しい叫びをあげた作者と同一の人とは思えないほどに大きく変えられたのがわかる。
神は人間には不可能な変革を魂に成し遂げることができるお方なのである。

わたしは兄弟たちに御名を語り伝え
集会の中であなたを賛美します。
主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。…
主は貧しい人の苦しみを
決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく
助けを求める叫びを聞いてくださいます。
それゆえ、わたしは大いなる集会で
あなたに賛美をささげます。…
地の果てまで
すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り
国々の民が御前にひれ伏しますように。
王権は主にあり、主は国々を治められます。
命に溢れてこの地に住む者はことごとく
主にひれ伏し
塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。
わたしの魂は必ず命を得
子孫は神に仕え
主のことを来るべき代に語り伝え
成し遂げてくださった恵みの御業を
民の末に告げ知らせるでしょう。

どんな苦しみのとき、望みのないようなときにもあきらめることなく神に心を注ぎだすこと、それこそが最も深い意味においての神を愛することであるが、そのような姿勢のあるところ、必ずときがきてこの詩にあるような魂の平安へと導かれるのがわかる。
そしてこの詩のように、神から救われた者は、自分だけにその喜びをとどめておくことなく、多くの人たちの集まりで証しをし、未来の世代へと語り告げたいとの切実な願いを持つようになる。それこそが隣人を愛するということでもある。
欠け多い者であっても、失敗ばかりする者、罪多い者であっても、そこから神に助けを求め、赦しをこいねがうことはできる。そしてその心こそ、神を愛することであるから、これは本来誰にでもできることなのである。正義の行動ができない、そこであきらめるのでなく、神を愛する方向へと心を向けていく、そのことが神を愛し続けることになる。 死が近いときにあっても、そこからすべての地上の望みは消えてしまうそのときに、私たちは神にすべてをゆだねること、その永遠の御国へと入れて下さいと祈ることができるだろう。最後の最後まで私たちは神を愛するようにと導かれていくのがわかる。そしてその導きに全身全霊をもってゆだねていくこと、それは可能であり、地上にある最後の魂のはたらきなのである。


 


リストボタン聴覚障害者と音楽、宗教的教育
―あるろう教育者の歩みから

音楽は、私たちの心をうるおし、また力づけ、あるいは新たなイメージをいろいろなものに付加する働きがある。映画、ドラマにおいて音楽が不可欠であるのは、映像の動きや人物、あるいは風景だけでは、見る者にとって単調で奥行きが浅くなることが多いが、それに適切な音楽が加わると同じ場面がはるかに奥深いものとなり、見るものの心に深く入ってくるようになる。
映画などそれ自体筋書きや人物の言葉や動作、背景などで十分変化があるけれども、専門の音楽家、作曲家がそこに独自な音楽を付けることで、その映画音楽だけでも長く愛されるほどに音楽は重要となっている。
また、メロディーやハーモニィ、リズムといった音楽の基本的内容は言葉を介さなくとも表される。それゆえ、言語の異なる世界の人々にも妨げなく伝えることができる。
聖書において最初に現れる音楽(讃美)の記述は、エジプトから解放された民が、その救いを喜び、感謝し、神の大いなる力に心動かされ、最も簡単な楽器であった小太鼓をたたき、全身で表現して(踊って)神に讃美を捧げるということであった。(出エジプト記十五・20
そしてそれがキリスト教音楽の根底に流れていくようになった。それは単に一時の気分転換とか楽しみといったものではなく、魂の奥深いところからあふれ出たものなのである。
聴覚障害者は、こうした音楽の広く深い内容を、聞こえないゆえに理解することはできない。しかし、キリスト教的な音楽の原点は、神からの大いなる救いの恵みを喜び、感謝するということであり、それを太鼓や、シンバル、竪琴のような身近な楽器で演奏し、体をも使って躍って表現することである。それゆえに、神からのその救いの感動があれば、そしてそれを手や声で、またみぶりで表現することができればそれがすでにキリスト教音楽の本質的なものをあらわしていると言えるのであるし、そうした神への喜びや感謝の思いを身振り(手話的表現)であらわすことで、聴覚障害者にもキリスト教讃美(音楽)の本質的な部分を共有することができる。
そして手話のよりこまやかな表現によって音楽のメロディーやハーモニィの感じを少しでも表して伝えるという道が開かれている。音が分からないから、音楽の世界はろうあ者には、全く分からないということではない。
ろうあの子供たちは音楽のうるわしい世界やそれに通じる母親のやさしい語りかけ、小鳥の声、自然の風や谷川の流れの音などが分からないからどうしても精神的に落ち着かない傾向を生じがちである。だからこそ、手話によって、その指や手、体や表情によって音楽のやさしさや美しさを少しでも表現することの重要性がある。
それをはっきりと見抜いたのは、手話による教育の重要性を一貫して主張し実践し続け、他のすべてが口話法だけを使う教育へと転換をしていったなかで、唯一手話を使うろう学校として残った大阪市立ろう学校の高橋 潔校長であった。
高橋が大阪市立盲唖学校のろうあ部の教師として赴任したのは、彼の特別な育った環境も関係があった。
彼は、十二歳のときに、母と死別し、二十三歳のとき東北学院を卒業間際に父を失い、卒業後は母校の東北学院の英語教師をしていたが、 音楽のより高い教育を受けることを目指してフランスに行く願いがあったが、その希望は貧しさのゆえに打ち砕かれ、ちょうど求人の来ていた大阪の盲唖学校に赴任を希望して仙台から旅立った。
「この世に恵まれない子たちの教育にと志して …」、一九一四年、大阪の盲唖学校に赴任した。そして、ろうあ部の担任となった。
高橋は、一八九〇年、仙台伊達藩の藩士の家に生まれたが東北学院に進んだことによって、キリスト者となった。この学校は、キリスト教伝道者を育てるために一八八六年に「仙台神学校」として造られた。彼のキリスト教信仰が後々まで大きな意味を持ってくる。
今から百年近く前の明治の終わり頃に、はやくも英語を使いこなせるということは、たくさんの若者に英語を教え、日本の将来をになうような人物の育成に努めることができたであろう。大多数の者が、小学校程度の教育しか受けられなかった昔において、当時の英語教師は現代とは全く違って注目を浴びるような存在であった。
しかし、高橋はそのような教職をあえて辞して、郷里の仙台から離れ、遠い大阪の盲唖学校に赴任した。それは、弱き人たち、社会的に無視されている人たちのところに行くということであり、それは主イエスの精神にならったことであった。
そして、彼は、当時はひどい差別、いじめもあったそうした盲人やろうあ者の学校で教える教師たちは、何らかの宗教的精神をもった人たちだと予想していた。
しかし、彼が実際に大阪盲唖学校に赴任して驚いたのは、そうした予想とは全く異なる教師の実態があった。その時代は今から一〇〇年近く昔であり、盲人やろうあ者、知的障害者あるいは被差別部落出身の人たち、ハンセン病の人たちなどにさまざまの差別が広く行われていたのであり、現代では想像できないほどの状況であったことに思いをいたさねばならないであろう。

…主任の老先生が、ある先生に向かって「彼奴らは、犬猫同然だから、修身の話しなんかしてもだめだ。またそんなむずかしいことは聞かすこともできないが、たとえできても、それは猫に小判だ。それより早く職業を授けて親のすねかじりから離してやることだ」と。またある先生は、「ろうあ教育における訓育はこれに限るよ」といって、拳固を示されました。
私はあまりの恐ろしさにぞっとしました。こうしたろうあ教育という特殊教育では、先生方はみないずれも宗教的信念を抱き、まことに心からなる愛をもって子供たちの真の幸福のために働いておられるものと思っていたのに、これはまた何というあさましい言葉であったのでしょう。私はこの学校を去ろうとしましたが、思いなおして、このような先生たちに育てられる子たちの不憫さから、一生の仕事としてここにとどまることに決心いたしました。
手話がわかるようになり、ろうあ者の心の様子をはっきり読むことができるようになるにつれて、ろうあ者の中に入って手話も覚え、彼らと生活を共にしてわかってきたことは、ろうあ者の感情がうるおいのない温かみのない本当にすさみきったものでした。
同情心に乏しく、また利己的で、博愛の精神に乏しく、権利を知っても義務を知らず、また親兄弟、社会人に対しては感謝の念もないという状態でした。…
このように悲しむべき事実を知ったとき、…どうしてもそこに宗教の救いより外にないと思ったのであります。ろうあ者の重苦しい暗い生活は、神の光を浴することによってのみ、うらみを喜びとし、感謝とすることができるのであり、そこに初めて明るく生きさせることができるのであると悟りかつ信じて、ここに初めて私はろうあ教育においては、とくに修身教育に重きをおくと同時に、さらにすすんで宗教教育までほどこさねばならないものであることに思い至ったのであります。…

このようにして、高橋はろうあ教育の闇に直接に接して、そこでみずからキリスト者として神の光を受けてきたゆえにその光に何とかして触れさせたいという切実な願いが生じて、そのために生涯を費やすことになったのである。
彼はまた、こうした荒れた当時のろうあ者の心を静め、清め、そしてあたたかい心に導くために、手話の重要性を深く知っていた。

…いったい、なにゆえにろうあ者の感情はすさんでいるか、うるおいのないものであるかについて考えてみました。
赤ちゃんは生まれおちてお母さんのそばに寝かされているときから、泣けば泣いたであやしてくださいますし、またおむつを替えてもらうときにも母親からの「おお、よしよし、いまに気持よくしてあげますよ…」といった愛情のこもった話しかけを受けて育っていく。しかし、ろうあ者においてはその母親の愛のこもった言葉、それは音楽に通じるが、それがないのである。
しかし、ろうあ者においては、愛のこもった語りかけや子守歌もない。聞くすべもなかった。三つ子の魂百までも、と言われるように、最も尊い感情の養われてゆくべき、幼児時代のろうあ者は、このようにして、その栄養素ともいうべき音楽(人の言葉も歌も広い意味において)なしに育てられてきたのでした。そうしてその代わりに見せられてきたものは涙に曇りがちの曇った暗い母の顔でした。…
その行為が荒っぽいということも、音の聞こえないということからきて、自然に動作が我々から見れば荒く見えるのであります。ろうあ者の子供同士がけんかをすると、なかなか烈しく、ある時は恐ろしいようでありますが、これも相手の悲鳴を聞かないためであります。ふつう、児童はけんかをしても相手が泣きだすと、一つにその泣き声を聞いてその声に同情を持つ。それは自分が痛かったり悲しかったりして泣いたときの声から無意識的に想像して、しかも大声で泣かれた場合には、どうなることかと心配にもなり、たたくのを止めたりするのですが、ろうあ者は自分の泣き声すら聞いたことがないのですから、相手の泣き声からくる一種の同情というようなものも生じないで、それで相手が泣こうが一向におかまいなしにいじめております。
人の笑う声を聞けば自分も何だか笑いが誘われ、人の泣く声を聞けば自分も何とはなしに悲しいような気持になることも、みな、音のとりもつデリケートな働きですが、ろうあ者にはそれがなかったのです。そのため、一見同情心がないとか残忍性があるとか言われたりするのであります。また事実あたたかい同情の涙は湧き出てこなかったのであります。…
私が中学を卒業するとき、試験勉強もすんで床の中に入りましたが、何だか目がさえて眠れませんでした。父の病室であるとなりの部屋から父と兄の話し声が聞こえてきました。父は、「潔もまあお前のおかげで中学も卒業するが、どうしたらよかろうな。」と兄に尋ねました。
兄は「妹も女学校に通っているし、それに母や弟(私の兄)が長い病気の後に死んだりして、残るは借金ばかり。潔も今年は中学を卒業するからどこかに勤めて少しでも家の手伝いもしてもらいたいと思う」と答えているのでした。
すると、父は「家の貧乏はよくわかっているが、男兄弟としてお前と二人だけ、もう一つ上の学校へやっておけばお前も力強かろう。中学の校長先生も自分の学校の教員になってほしいとおっしゃって下さっているから、もう三、四年、上級学校へやってくれ。わしはもう長くはない命と思うが、頼むぞ」という涙声が聞こえてきました。
兄もしばらく黙っていましたが、「ようございます。そうしましょう。」とこれも涙声でした。私は床のなかで手を合わせて、すまない、すまないの心で胸は張り裂けるばかり、とうとう大声をあげて泣きだしました。
ふつうの子供は、親たちが子供のそばで、またとなりの部屋ででもその子の将来のことなどについて心配してくれていることなどを耳にするとき、どれほど嬉しくありがたいと思うことでしょう。そうしたことを耳にするとき、はっきりと親に対する感謝の念が湧き出るものです。
ところが、ろうあ者の言葉の世界は、目の前で見えていることの範囲に限られています。目の前の話しでなければ見ることさえできないのです。ふつうの子供より、ろう唖の子供たちは一度だってそのようなことを聞いたことも機会もなかったのです。
ろうあ者をとりまく状況がこのようでありますから、そこには宗教的情操というようなものは全く芽を出すことはできませんでした。
キリスト教の会堂で聞こえてくる讃美歌のメロディー、実になんともいい得ぬものがあります。宗教音楽は宗教的気分を刺激させる最も力強いものであります。
けれども、ここでもろうあ者はかの荘厳な宗教音楽を聞くことができないのであります。…
このようにして、当時のろうあ者の感情において、宗教的情操において、まことに哀れなものであることを知り得た私には、どうしてもまず感情の陶冶からはじめて道徳的観念の養成、さらに宗教的情操の涵養、すすんでは宗教的信念ができるようになるところまでいかねばならないと思ったのであります。

…従来の手話は、私の意図した感情の陶冶から始めるためにはあまりにもごつごつした非音楽的なものでありました。けれどもそれは無理もないことであります。だいたい手話そのものは、ろうあ者によって生まれかつ発達してきたものでありますから、すなわち音楽というものを聞いたことのない人の間に育ってきたものであるために、非常に非音楽的であったわけです。
それで今度は手話の芸術化ということについて努めました。すなわち手話を手の位置、手の順序、手の勢いの三つをリズム的に動かすことを試みました。自分でもこれならば、手話もきれいだし、小説も教えることができると確信して、いよいよ日本のろう学校において初めて人情ものの小説を教えることにしました。結果は、非常にろう唖の生徒たちに受けがよく、また談話会などのときそうした手話での話は美しいものとなって、話している私の手や姿の動くがままにみている生徒の姿もゆらりゆらりと動くようにさえなりました。
そこでこの手話をもってすれば、ろうあ者の感情の方面から和らげていくことができるという確信を得たのであります。…

このようにして高橋は、手話に力を入れてろう唖の児童、生徒たちの教育にあたった。その動機は何とかしてろう唖の子供たちに聞こえる世界の美しさ、うるおいのある世界を開いてやりたいというキリストにある愛からの動機なのであった。
現在日本中で使われている指文字は、どのようないきさつから生まれたのか、現在では手話、指文字ができる人はたくさんの数にのぼるが、そうしたいきさつを知っている人は極めて少ない。最近のインターネットを用いると過去、現在の歴史や科学、文学、芸術、政治、社会、地理等々、何でも調べることができるが、そのインターネットを用いてもこうした歴史についての詳しい記述はほとんどない。それは手話、指文字の主体であるろうあ者自身が日本語の文章を書くのが相当に困難であることから来ているのと、ろうあ者自体の数が全体からすると非常に少ないからそれを支える人も少ない、実際にろうあ者とかかわる人もごく少ないという状況のためであろう。ろうあ者にとっては、日本語それ自体が一種の外国語なのであるからだ。
現在日本中で広く使われている指文字は、一九三一年に、高橋潔が校長を勤めていた大阪市立ろう学校において考案された。高橋校長のとき、部下であった大曽根源助教頭は、ろう教育の実態を調べるためにアメリカに渡り、そこでアメリカの指文字を持ち帰った。それをもとにして、一九三一年に大阪市立ろう学校において考案されたのが現在日本中で使われている指文字となっている。 大曽根は高橋校長の母校、東北学院からとくに招いた人物であった。
魂をうるおす言葉や音楽を聞くことのできないろう唖の子供たちに、それに少しでも補う道はないのか、と子供たちの心の深いところでの交わりを持ちつつ与えられた結論は、手話を心を込めてしかも美しい表現を用いて表すということであった。これは一般の健聴者の世界での演劇や歌と同様である。その人物になりきって演じられるのと、セリフだけを覚えて動作をしているのでは見てすぐに判断できるほど訴えるものが異なる。歌もその歌の持つ世界を自分のものとして全身をもって歌うことに注ぎだしているのと、楽譜や歌詞を見ながらそうした心もなく表面的に歌うのとは、聞く方にも大きな違いを感じるものである。
ろうあ者、聴覚障害者は音が分からないから音楽も分からない、と簡単に結論をしてしまうことによって、健聴者の音楽の世界は全くろうあ者には遮断されてしまう。どんなことでも、できない、と諦めてしまうことからは何もよいことは生じない。
例えば、万人の魂に深く刻まれた罪を清める方法などない、イエスが十字架で処刑されても人類の罪からの救いなどない、また死に打ち勝つ復活などない、といって諦めてしまうことによっては、神の国の永遠の力は決して働かない。神を信じるものには不可能はないのである。
こうしたキリスト者に与えられている希望が高橋に働いて、不可能と見える音楽の世界の伝達のために、手話を魂を込めて表現し、そこにその指や腕、からだや表情などの動きによって音楽の世界が持っている情感、美しさを少しでも橋渡しをしようとしたのであった。
そして、それによって荒々しい心、音楽のない殺伐とした心の世界を豊かにし、神の国のことを知るようになること、宗教的なもののとらえ方、感じ方へと導くことを目的としていた。高橋は次のように言っている。これは、一九二三年のろう学校の子供たちの保護者向けに書かれたものである。

…いったい人間のやさしい感情というものは、どうしてつくられるのでしょうか。私は、これを音楽によってとお答えするのが一番当たっていると存じます。うるわしい優しい感情は音楽を聞くことによって作られ、そしてまた、そのつくられた、うるわしい感情の表れも音楽であると思います。 喜びの感情が無言の踊りとなった時でも、その踊りは音楽的に行われているに相違ありません。要するに、うるわしい感情と音楽とは切っても切れぬ関係があるということなのです。しかし、ここで私のいう音楽というのは、楽隊とか唱歌とかいう、いわゆる狭い意味の言葉ではありません。お互いのお話しも一種の音楽と考えております。…
生まれるときから耳の聞こえなかった子供たちは、どんなに眠いときでも、ただ背中を、とんとんとたたかれるだけで、お母さんがせっかく歌ってくださる子守歌さえ聞くことができなかったのです。三歳、四歳になってものを言うようになると、おじいさん、おばあさんに床のなかで抱かれながら桃太郎や浦島さんのお話しを聞かせてもらえます。こうしたときの昔話などはまったく子守歌と同じ一種の音楽として子供の耳に響くのです。
そしてその子守歌やおとぎばなしなどは、どれほど子供の心を和らげるかしれません。
さらに五歳、六歳になると、学校にいく外の児童の歌う歌を聞いて、たくさんの歌を覚えます。一人になって淋しくなると、自分の知っている歌を歌いだします。嬉しいときはうれしい歌で、こおどりしながらうたい出します。子供と歌とは離すことのできないものであります。歌は子供の心を知らずしらずの内に柔らかく、そうして美しくしていくものであります。 そのうえにさまざまの智恵を与えてくれます。動物ですらも、常に音楽を聞かせると、おとなしくなるとさえ言われているではありませんか。そのような歌を皆さま方のお子さまたちは聞くこともうたうこともできなかったのです。
それでは、その歌や話に代わるべき何ものかがあったでしょうか。せめては、やわらかい手まねで、やさしい身振りでもしてあげられたでしょうか。きれいな手まね、やさしい手まね、美しい手まね、それらは耳の聞こえない子供たちにとって、どのようにうるわしく見えることでしょう。
…一般にろうあ者が荒っぽいというのも、心がかさかさして落ち着きが悪いというのも、決して無理ではございません。決して責めることもできません。
ろうあ児童が(手話によって)お話しをいかに好むかは普通児童よりも強いのでございます。これはつまり、そうしたおとぎ話などほとんど聞いたことがないためではないでしょうか。
年齢のすすんだ生徒でもそうです。私が以前に生徒たちに話しました、ジャンヌ・ダルクのお話は三時間半、身動き一つせず見ていましたことなども、いかにこの種の物語が彼らに喜ばれるかが、お分かりいただけると思います。いつぞや、大阪毎日新聞に音楽家青木氏の「音声が与える恐ろしい感化」と題するお話が載っていました。 その要点は、「声は単に音声ばかりでなく、心の動きの表れである。したがって人の性質はきわめて微妙に声に表れてくる。そのため、父母の音声によって無意識にその幼児にさまざまな感化を与えることが非常に多い。
人の音声には温和なもの、覇気あるものそのほかさまざまな種類がある。
その音声の中に、その音声を発する人の性格によって、上品、下品の別がある。そこにはどうしても性格が表れてくる。
また、音声は言葉以外に心から心に通じるある力を伴うことが多い。よく母親が家庭や夫に対する不平をひとり言のように幼児をあやしながらも洩らす人があるが、それはもしその言葉が幼児に理解されなくとも、恐ろしい感化を子供に与えるもので、つねに愛に満ちているべき母親の声が、曇ることは、幼児に恐ろしい予感を与えるものである。」

音そのものが子供の心に、いかに響き、いかに感情がつくられるかは、よくよく考えねばならないことでございます。子供に音楽、実に密接な関係がございます。
しかし、その音楽は、あのろう唖の子供たちには聞くことができません。せめてそれに代わる音楽的手まね(手話)(*)、つまり、やさしい、やわらかい、きれいな感じのよい手まねを使っていただきたいのです。皆さまは早くそういう手真似をお覚えになって下さい。そして、ときどきお家でおもしろいお話をしてあげて下さい。どんなにお子さんたちはお喜びになるでしょう。お子たちには、きれいな着物を買っていただくよりも、やさしい手まねでおもしろい話しをしていただくほうがどれほど嬉しいことでしょう。
それが耳の聞こえない子供たちにとって音楽に代わるただ一つのものでございます。そして荒んでいる子たちの感情を陶冶していくただ一つのものであると信じます。

*)以前、ろう唖の児童たちには、手話という言葉でなく、「手まね」という用語が使われることが多かった。「手話」という言葉は日本語がわずかしか習得されていないろう唖児童には発音や読取もしにくく、難しい表現であったということと、手話というのを認めない立場からは、そうした名称もきちんと使おうとはされなかったからである。

このように、心をうるおし、豊かにしていく言葉や音楽というものが与えられていないろう唖の子供たちに対して、そんなことは仕方がない、といって諦め、音楽は健聴者のものなのだ、といって健聴者の世界にゆたかに与えられている音楽の世界をろう唖の子供たちに橋渡しすることを高橋は決してあきらめなかったのである。どんな音楽にもまさる神からの愛をもって対するときには、相手の子供たちがたとえ音楽といううるわしい世界が閉じられていてもそれにまさるものを与えることができるし、また相手もそれを受け取ることができることを彼は確信していた。
そのことは、いかに耳が聞こえても、また音楽も自由自在に取捨選択して聞くことができても、じつにたくさんの子供たちの心は荒んでいき、中学、高校と学校教育をたくさん受けても心は堅く、またひずんでいくのを私たちは知っている。
高橋が持っていたのは、神から彼自身が受けた愛の
心であって、それが聴覚の有無や年齢、性格の多様性を越えて伝わっていったのである。
まさに、それは神が使徒を通して言われたことである。

…これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。(コロサイ書三・14

高橋は、こうした愛をもってろう唖の児童、生徒たちに音楽のよき世界、すなわち、神の国にある豊かさを伝えようとしたと言えよう。そのような神の後押しがあったからこそ、全国のろう学校がすべて手話を否定し、さらに禁止して、ろう教育の最大のガンであるとし、口話法
*だけがろう教育の手段であるかのように言い出すことになったなかで、ただ一つの手話を使うろう唖学校として戦前から生き続けてきたのであった。
手話だけで教育するというのでなく、口話法に適した者にはその方法で教育をするし、それが困難と思われる場合には併用するということなのであった。 アメリカのろうあ者の大学として有名なギャローデット大学では、手話を十分に用いてろうあ者を教育するやり方によって大きな成果をあげていることは広く知られている。

*)ろうあ者の教育には、手話法と、口話法の二つが戦前からあった。口話法とは、音声を補聴器を用いて少しでも聞き取る訓練をしつつ、発声の訓練を幼児のときから行い、声で言葉が出せるようにし、相手の口の動きを見て言葉を読取る、という方法を用いて教育することである。この教育方法を最も効果的、さらには唯一であるとする考え方は、手話をろう教育の場から排斥することになった。それが決定的となったのは、一九三三年に文部大臣が、「…日本人である限りわが国語をできるだけ完全に語り、他人の言語を理解し、言語によって国民生活を営ましむることが必要であります。…」といった方針による。

日本にいるので、周囲が日本語を話している以上、ろうあ者も日本語が読み書き、話し、聞き取ることができるようになるのが重要であることは言うまでもない。しかし、耳の聞こえない子供に、日本語を習得させることは、例えば、全く音声を出さないで、口をぱくぱくさせるだけで英語やドイツ語などを習得させるなどということと同様、いやそれよりはるかに困難なことなのである。なぜかというと、日本人が英語を学ぶときには、ベースとなる言語を日本語として持っているから英語もたえずそれと比較しながら、つまり日本語に置き換えつつ訳しつつ学べる。しかし、ろうあ者にはベースとなる言語そのものがないのであって、まったく言語観念のない空白のなかに口をぱくぱくさせるだけで、一つの言語を習得せねばならないのであるから、その困難は健聴者には到底想像もできない。日本語が全く外国語そのもの、否、それ以上の困難なものなのである。
こうしたことは、私自身ろう学校に勤務して初めて分かったことであり、言語が聞こえなかったら人間は、人間の形をした動物になってしまうということほどの重大なことなのである。言葉が分からなかったら、考えるということが不可能になる。なぜかというと、「明日は雨が降る」といった単純なことを考えるには、明日とか雨、降るといった日本語を知っていなければならない。例えば、大学で習い始めたばかりのドイツ語やフランス語で考えたり誰もしないことからこのことは少しは類推できるであろう。それゆえに、言葉が聞こえず、言葉が習得されないなら、全く考えるという人間の本質的なことができなくなり、人間のかたちをした動物になってしまうのである。
言葉の習得はこのように極めて重要なのであるが、それを習得させるために、手話を用いない場合には、相当に困難になる。例えば、柿、下記、夏期、先、滝、秋、餓鬼、足、味、恥、匙、家事、火事等々、聞こえない人にとっては、みな口形が同じであって、それを一つだけ言ったところで、それが右記のどの言葉なのかは判定が不可能なのである。 であるから、口話法だけで学ぶようにと仕向けられたろうあ者は、たえず緊張してその言葉の前後を読み取ろうとしなければならない。それは知的な類推であるから、知的なレベルの高い人にはなんとかできても、それほどでない者、また読取の訓練が十分でないものには、しばしばまるで読み取れないことになる。それゆえに口話法だけの教育では、たくさんのろうあ者が見捨てられていくのを私自身、まざまざと見てきたのである。そのために、私もろう学校に赴任してそのように多量の児童、生徒たち、とくに中学、高等部になって教科内容が複雑になっていくにつれ、教師の教える言葉がまるで分からず、わかったふりをしている生徒が実に多いのを知って驚いたのであり、そこからなんとしてもみんなが分かるような方法をと、手話の導入を考えたのであった。
しかし、手話だけでは決して効果的な教育はできない。ろう教育においては、手話と口話法は、併用しなければならないものである。手話だけでは、日本語が十分に習得できないのは明白であった。読み書きが正しくできない状態では、学校を卒業してたちまち周囲の人たちとのコミュニケーションが取れないし、生活に多大の不便が生じ、いろいろと困ることになるし、職業にもつけない状態となる。ろうあ者の手話では日本語の文章とは相当異なる表現、語順となっているからである。
また、周囲の健聴者は手話ができない人が圧倒的に多いのだからすこしでも、声を使って話せるようになるのがよいことは明らかなことである。

高橋は、手話を用いる目的が単なる知識を教えること以上に、心の世界をあたたかくし、豊かにするということがあった。母親や友人などのやさしい愛のこもった言葉や音楽、小鳥や小川のせせらぎをまったく知らないゆえに心が荒っぽい状態となり、人の悲しみや苦しみの声もないゆえにおのずから自分中心となって精神的に狭い世界に閉じ込められてしまう。それを何とかして広げ、豊かに耕すということであった。
そのために、音楽に代わる教育的方法の重要性を説いた。それをなすために不可欠なのが手話を効果的に用いることであった。そしてさらに目に見えない世界のこと、人間を超えた存在に魂の目が開かれるようにというのが究極的な目標なのであった。
そのために、可能な手段は取り入れた。映画のように視覚的なものはろうあ者にとっても言葉が不十分にしかわからずとも、画面の動作でかなりの部分が理解されるから、映画も重要視した。

… 有名な宗教劇とか、母性愛の映画には、ほとんど見逃さないで子供たちをつれて参ります。その前に子供たちにはちょっと分からないであろうと思われるような内容については説明してから見に行きます。…この一、二年間にも、レ・ミゼラブル、クォ・ヴァディス、ジャンヌ・ダルク、キング・オブ・キングズ、アンクル・トムス・ケビン、十戒…をはじめなかなか多くあります。…(「手話は心」362頁)

このように、宗教的なよい映画というのは現在も同様であるが、大抵がキリスト教関係のものであるのが分かる。
私自身も日本語が外国語と同様である、ろうの児童生徒たちには、画像を見せつつ教育することが効果的であることがすぐに判明したので、それまでの高校教員時代には、教材などとしてはかつて用いたことのないマンガ、写真なども多く用いるようになった。例えば、歴史漫画、人物伝記マンガ、理科関係の学習マンガや何らかの絵を含む教材、さらに、聖書関係のマンガなどを多く買い求めて、理科室に置いてろうの子供たちが自由に読めるように貸し出し文庫とし、理科の授業の折々にもそうした内容を説明して関心ができるようにしていた。
そして、いつも理科の授業には何らかの実験、観察、あるいは戸外につれて行って植物や昆虫などの観察など、目で見えるものを用いることを重要視したことであった。

また、高橋は彼の究極的な教育の目標が、真実な目に見えない存在に心を結びつけることであったから、次のような方針で教育にあたった。

…私は、修身、国語、歴史、理科はもちろんとしてその他すべての教科の中に宗教的教材を見出し、そこに宗教的情操を喚起し、かつ涵養せしめることが十分できると信じます。すなわち教員自身が宗教生活者であるかぎり、日々の教科に必ずや宗教的訓練の行うべき材料を見出すことができるでしょう。
校庭に散るプラタナスの落ち葉も私には尊い宗教教育の材料でした。私は子供に話したことでした。
すべての木の葉は同じであるが、春には芽の出るのを毎日待ちこがれ、葉の形のようやく整ったころは新緑、夏には涼しい木陰をつくり、秋には紅葉とわずか半年の間にさまざまの姿で人を喜ばせてきた木の葉も、冬となると散ってしまい、竹やほうきで集められ焼き捨てられてしまう。
同じ木の葉があるときは、愛され、あるときは忘れ去られ、あるときは誉められ、そしてついには全く顧みられなくなったが、それでも葉はそうしたことに関係なく、その樹のためによき働きをしてきました。来年の春の新芽を立派に残して枝を離れ、再びもとの土に帰るのです。
家や国、世界を一本の樹木とするとき、お互いは一枚の葉であらねばなりません、と。そこには実に意義ある人生を教えられ、自然の驚くべき意味を知らされます。かくて、そのことはただちには神とかに結びつけなくとも、神の摂理、宇宙の神秘を教えるには十分なものとなるのです。…(P.354

このようにして高橋は、どのような教科を教える場合でも、つねに私たち人間の背後にある見えざる御手、御計画を指し示すようにとの考えをもって教育に携わったのであった。そしてそのようにしなければ、とくに音楽やうるわしい言葉による慰めを与えられないろう唖の子供たちには、心のうるおいのない世界からの解放はなされないとの経験的確信があった。

…音楽の世界から絶縁された淋しい人生を明るく生きてきた、そうしてまた生きていくであろうところの彼らろうあ者が淋しいこの世から再び明るい世界(天の国)へと旅立つとき、すべての子たちはつぎのようであって欲しい。
自分の身の障害をうらみ、悲しむ心は露ほどもなく、まず生きているということに感謝し、人生の終わりにおいて悲しみの中にもなお、感謝と希望の心に満たされて皆と別れ、よりよき世界へと旅立つように、これが私のろうあ教育における宗教教育の念願なのでございます。そうした大きな願いの止むに止まれない心から、あるいは省令にもとり、あるいは訓令にそむきつつ、宗教教育を行ってまいりました。宗教教育はかくあらねばならない、またかくあるべしと指示されてなされるべきものにあらずして、あの子たちの持つ魂を尊重して、それをはぐくみ、育てんとする、止むに止まれぬ心からのものなのでなければならぬと信ずるのであります。( 377378頁)

このように、高橋は、日本中のろう学校が、口話法となり、手話を排斥していったなかで、ただ一つ手話を用いるろう学校として踏みとどまったが、それは単に自分の主義を守るという自分中心の考えからでなく、何とかしてろう唖の子供たちに深い心の世界を、伝えたいという止むにやまれぬ心からであった。それは文部省の命令にすら背いてまで宗教的な内容を取り入れたのである。そこにはそのようなことをすれば自分の地位があぶなくなるといったことを覚悟の上であり、世間の評価などを越えて、彼の内に強くうながすものがあったからである。
そしてそのような内なる力とは、まさに彼が信じたキリストから与えられたのであり、わが内に古い自分は死んで、キリストが生きていると使徒パウロがいったように、高橋の内なるキリストがそのようになさしめたのであった。
かつて二千年前、イエスが復活したと証言をはじめた弟子たちに、当時の大祭司など、権力者たちがそのようなことを止めよと命じたが、弟子たちはつぎのように答えた。

「人間に従うよりも、神に従わねばならない。」(使徒言行録五・20
高橋が自分の一身上の地位の安定などより、内なる神の愛に従って文部省令などにすら反しても宗教的教育に力を注いだのはこうした心と通じるものがある。

私もかつて、ろう学校の教師として口話法のみがなされているろう教育のただなかに入り、そこでいかに口話法で多くの生徒たちが見捨てられているかを現実に見て、どうしても手話を取り入れて心の通う言葉で教育にあたる必要を痛切に感じたのであった。
口話法もろう教育において重要であって、それがあったからこそ、何とか発声できて、手話などまったく分からない一般の人たちとも会話がなんとかできるひとも多い。そして口形を読取り、日本語の文章を読み書きするということに口話法も大きな役割を果たしてきた。しかし、口話法は自由で楽しい、かつ自然な会話は決してできないのは明らかである。それは単語の少ない子供のときならまだしも、成人すると多様な会話を手話を使わないで自由にできるかどうかはただちに分かることである。
実際、徳島でろう教育に何十年と関わり、口話法で徹底して教育してきた、ろう教育の権威ともいうべき人と私は同僚として何年もともに教育にあたった。その人は聴覚障害者教育についての本も出版されたり、後には県の教育委員会で指導主事もされた、ろうの子供の教育に熱心な人であった。
私が赴任して数カ月後に、徳島ろう学校の小学部では初めて手話を取り入れていったときには、強い反対をされたのであったが、何年か後になって私に個人的に言われたことがある。「口話法しかやらなかったから、私は手話ができない。そして手話ができないと、大人になったかつての教え子とも話しができない。やはり手話はどうしても必要だ」と。
この先生は、最初は強い反対をしていたけれど、一年あまり経って、最初に私に手話を用いての教育に共感しはじめられたのが印象的であった。
私は、生徒たちが単に言葉を覚えるだけにとどまらず、それを越えて不自由な言葉の世界、音楽のうるわしい世界が閉ざされているろう唖の児童、生徒たちに、そうした聴覚障害が何の妨げにもならない、神との交わりの世界を知ってほしいというのが究極的な願いであった。
こうした点で高橋潔の歩んだあとは、私には深い共感を覚えるものがある。ろうあ者と音楽、信仰ということは、一般にはほとんど知られていないことであるゆえに、ここに詳しく彼の書いたものから引用して提供することにした。
そしてこの本はすでに以前から絶版であり、インターネットなどからでも入手できない状態となっている。もともと全日本ろうあ連盟から出版されたものであり、少数部数の発行であったと考えられるから、このような内容に触れる人はごく少ないので、ここに詳しく引用したのである。
聴覚障害ということと音楽の世界、そして目に見えない信仰の世界との関わりをこのように深く考え、生涯をとおして実践した高橋潔はまさに、このために神に選ばれた類まれな人物であったと言えるだろう。

 


リストボタン九州から中国地方への集会と訪問

 十一月十四日(金)~十一月二十一日(金)まで、九州、中国地方のいくつかのキリストを中心とする集会において、み言葉を語る機会が与えられ、またほかにも個人的な訪問、とくに「祈の友」にかかわる方々を訪問してともに語り、祈りのときを与えられました。
九州にわたるまえに、愛媛県の冨永兄宅にてご夫妻と短いみ言葉のための時間を与えられました。
愛媛県から五十キロほど九州に向かって伸びている佐田岬半島を通って、大分県に渡り、夜は大分市の梅木ご夫妻宅にてのハリの治療室での集会。 なお、家は、全盲のご夫妻が中心となって運営されている、独立ケア・センターの建物でもあります。「ケアプランの作成とデイサービス」の二つを行っていて、デイサービスではハリ灸マッサージによる機能訓練と筋肉トレーニングを中心とした介護予防サービスを行っているとのことです。
翌日、大分市から、高原の町、竹田市を経て、阿蘇山の火口原にある道路を通り熊本に向かった。途中の竹田市を越えた山道では、折々に黄色い野生の菊である、シマカンギクや、ヤマシロギクが見られて、長い車の旅にいろどりを添えてくれた。阿蘇の広大な火口原を走るといつもそのスケールの大きさに驚かされます。東西に十六キロ、南北に二四キロもあるというのです。遠くに見える山々は外輪山であり、車の走っているところは火口が陥没したところ―火口原です。
世界は実に多様な火山もあるのに、これは世界最大の火口原、かつてこの広大な火口からの噴煙はいかに壮大なものであったかと、思いをめぐらしたことで、人間の現れる前から限りなく大いなるわざをこのような自然においてもなされたきたのを思います。また、竹田市と言えば、滝廉太郎が数年間すごしたので有名で、土井晩翆の作詩した「荒城の月」は仙台市の青葉城址などでイメージがつくられ、滝廉太郎は、竹田市の岡城によって曲想を練ったと言われています。
滝廉太郎は、以前にも「いのちの水」誌で書きましたが、二十一歳(死の二年前)のときにキリスト者となっています。「荒城の月」は彼がキリスト者となった同じ年に作曲されていますから、私も竹田市を通るとき、少し寄り道をして岡城址まで行き、彼の生涯のある部分に近づけた思いでした。
熊本の集会では今回も、はり治療院をなさっている全盲の夫妻である河津さん宅での集会がなされました。そこには、ほかに全盲の方が三名も加わっており初参加の人もいました。健常者と視覚障害者の方々が主にあってひとつにされて主を礼拝し、み言葉を学ぶことが与えられることの幸いを思います。
熊本から福岡に向かう途中、「祈の友」で長年九州地区の世話人をされていた野口さん宅を訪問、ご夫妻との懇談、そして讃美と祈りをともにすることができました。
翌日の福岡での集会は、福岡聖書研究会と天神聖書集会との合同の集会。前月号に掲載した内容とほぼ共通する「希望の神」についてお話させていただきました。また久しぶりの方や無教会の集会とは別のキリスト集会に参加されているKさんやその娘さんご夫妻などの方々も参加し、また山口県から水渕 美恵子姉も体調が十分ではなかったなかを遠路参加されており、こうしたすべての参加者の方々のうえに、主がみ言葉と聖霊を注がれますようにと祈りました。
 また、その折り、以前から紹介しています、集音器を実際に着用してよく聞こえるということがわかったということで、何人かの方から申込がありました。これは現在はもう購入できないものですが、私が数年前から実際に購入していろいろな方々に装着してもらってとくに老人の方々にはよく聞こえると好評のあるものです。 そのために、私はインターネットで探して購入しておいたので、希望者に頒布することができています。 日曜日の集会や礼拝での講話、説教がよく聞き取れない、あるいは、十人前後の祈祷会で小さな声で聞き取れないとか、また日常生活で、一対一での会話など聞き取りにくいという方々には、効果的ですので、今回も何人かの方々から申込があり、受け取った人からはよく聞こえるとの応答をいただいています。
 福岡の集会の翌日は、「祈の友」の花田さん宅を訪ね、「祈の友」としての祈りと主にある交わりが与えられました。以前にはまったく関わりのなかった方々でしたが、「祈の友」ということで主による関わりが与えられて親しくお話できることは感謝でした。
 そしてそこから高速道路にいく途中にある、「いのちの水」誌の読者の黒木さん宅を訪問し、初参加の方二人も加わっての小集会がなされ、キリスト教のことはまだほとんど知らない方もあり、み言葉について説明と交わりの機会となりました。黒木さんは、現在東京在住の内田さんからの紹介で関わりが与えられた方で、内田さんのご夫君が気象台勤務で九州に来ていたときの友人とのことでした。そのお宅では息子さんが聖書の講話を集会の責任者となって、主日礼拝にはなさっているということでしたが、平日なのでお会いできませんでした。
 ほかにも訪ねたい「祈の友」の方々もあったのですが、体調が十分でなかったこと、また日程と車での走行のために距離とか時間の制限があるために、ほかには行くことができませんでした。
 福岡から、今回は初めて島根県に入り、浜田市の「祈の友」の栗栖泰蔵・陽子ご夫妻を訪ねました。ちょうど日本海からの強い北風の吹きつのる日で、つぎつぎと真っ白い波が打ち寄せてきて、創造の神の力強さの一端に心ひかれ、しばらくの間その風と波、そして大海原を見つめていました。栗栖さんのお家は百年を越えるという古くからのお家で海岸すぐそばにあり、以前はその高い石垣の下まで海であったということです。
 「祈の友」誌にてお名前だけを知って祈りに覚えていましたが、実際にお会いできる機会を与えられ、ご夫妻の信仰にかかわる歩みの一端を話して下さいました。そのとき、以前の「祈の友」主幹であった中山 貞雄さんの長女の賜子さんが近くにおられるとのことで、私も時間的な余裕があったら長く礼拝が持たれてきたその教会を訪ねたいと思っていたのでご夫妻に先導してもらって中山さん宅(教会)を三人で訪ね、ご父君のことをしのび、好まれた讃美歌を三曲、賜子さんのピアノ演奏でみなで讃美することができました。
 故中山兄は徳島にもきてくださって集会をもち、大学病院に入院中の勝浦兄のところでも祈りをともにすることができたことを感謝をもって思い起こしました。
 次々と信仰の先輩、知人は召されていきますが、その方々の霊的なはたらきはあちこちに主が水のように流し続けていかれることと思われたことです。
 中山宅から江津市のキリスト教愛真高校に向かい、山の中腹にある高校に着きましたが、ちょうど雪やみぞれが時折舞っている寒いときでした。ずっと以前、大阪の大川四郎さんの紹介で台湾の玉山神学院の学生たちが徳島にきてくださったことがあり、その人たちを大川さんたちとともに車に乗せて愛真高校まで行ったことがありましたが、そのとき以来のことです。
現在の渡邉 信雄校長は、十年ほどまえに、初めて大分県の別府に私が渡ったとき、夜の別府港に迎えにきてくださって、そこから近くの集会員の方のお家で集会がなされたことがあり、その夜はお家で宿泊をさせていただいたことがありました。
今回は、お忙しい時間をとって校内外を案内して下さり、そうした校舎や施設にこめられた祈りと信仰も合わせて説明を下さって、いっそう愛真高校という施設が主に導かれ、多くのかたがたの祈りと捧げ物(労力や献金その他)に支えられて建設され今日に至っていることをあらためて深く知らされたことです。
はじめの予定では愛真高校には数時間滞在して見学させていただき、そのあと出雲市まで出て宿泊、翌日鳥取に向かう予定でしたが、渡邉校長からのご厚意で宿泊を勧めて下さり、そして翌日の朝の生徒の会での短い話をと言われたので、よりいっそう生徒たちや学校のことを理解するためにもと、予定を変更したのです。その結果、さらに詳しく渡邉さんからいろいろと説明やいろいろの愛真高校にかかわるお話をうかがうことができ、生徒の実態にも触れる機会となり感謝でした。
 翌朝は暗いうちから生徒たちの声が聞こえ、朝食を準備する担当の生徒たちは早朝五時半くらいから起きてつくるとのこと、昼の弁当もまた夕食も生徒たちが当番にしたがって作るのだとのこと、こうした作業もまた重要な勉強であることを実感したことです。
 朝の集まりには、全校生徒、教員が集まってこの日は渡邉校長の担当の時間であったけれど、私がその時間をいただいて短いお話をさせていただきました。それは「神を愛すること」についてで、ほかのさまざまのことはみなだれでもに開かれてはいない、進学すること、学問やスポーツ、職業生活、結婚して家庭を持つなど、どんなに持とうとしてもかなえられないことはいくらでもある。しかし、神を愛することはいかなる人でも、また死を前にしたときでも、取り返しのつかないような罪を犯したものでもできるように道が開かれている。あの十字架上で処刑された重罪人のように、ただ、「主よ、私を思いだしてください!」との必死の願いだけでその日のうちにパラダイスに入れてもらえた。そのように、置かれた場にあって、神にむかって心をそそぎ出すことこそ神への愛であり、万人にひらかれている恵みの道である…。 生徒の方々にも今後どんなことがあっても神を愛するという最大の恵みへの道が開かれていることを心のどこかに覚えておいて欲しいと願って話しました。(それを少し詳しくして今月号に掲載してあります。)
なお、愛真高校には、私たちの徳島聖書キリスト集会の前の代表者であった、杣友(そまとも)豊市さんの書かれた毛筆の書が三つ用いられています。ひとつは、教育基本法の一部、もう一つは、全校生徒や教員のあつまる会場に置かれてあった聖句「われは道なり、真理なり、命なり」(ヨハネ十四・6)です。あとひとつは階段のところにありました。これらは、以前の校長であられた風間文子さんが写真に撮影して私に送って下さったことがありました。これも主が結んでくださったつながりのひとつだと言えます。
 その後、鳥取市へと四時間半ほどの道のりを走り、時折日本海の白波の大きく見える心ひかれる光景を車窓から目にしつつ、海岸近くの国道を移動。途中で大山の雄大な姿の一部が見えましたが、雪雲におおわれてしまいました。四十年以上前に大山に登って、蒜山への縦走路に向かうとき、ナイフリッジというきわめて狭い、歩くのがやっとというようなところを転落や落石の危険が身近にあるのを恐れつつ、重い荷物を背負って降りたことなどが思いだされました。
神は海や山の大自然を通してたえず私たちを神へと引き寄せようとされているのを感じます。
 途中で午後は鳥取市での集会。教会に属していた方がふとしたことから無教会を知り、今井館に問い合わせて岡山市の香西 民雄兄を紹介され、香西さんが私に連絡されてかかわりが与えられたのでした。鳥取には以前から近畿地区無教会キリスト教集会や全国集会などに参加された方もありましたが、行く機会がなく去年初めて広島の二カ所の訪問、集会を経て鳥取にまわって初めて、香西さんからの紹介された長谷川さんと、その友人たちとともに小さな集会を与えられたのでした。今年はまた初参加の方二人も合わせての集会となり、病気や問題を抱えた方々もあり、そのところに主の御手がのぞみ、あたらしい力が与えられますようにとの祈りをもって集会を終えました。
 その日は夜は雪となり、鳥取泊、そして翌日は日が上るとともに雪も溶け、快晴となり、宿舎のすぐ前の鳥取砂丘を歩きましたが、前夜の雪のせいかほとんど人影もなく、広大な砂丘をそのすがたの不思議さと澄みきった青空、真っ白い雲を目にしつつ、遠くに見える白波を打ち寄せる海岸と日本海といった自然のただなかにて天よりの風を受けつつしばしを歩いてすごすことができたのは、大きな恵みでした。人のいない広々としてうねるように広がる砂丘を歩いていると神の御手のうちをそのまま歩いているような気持になったことです。
 今回も集会関係以外のところを訪ねるとか歩くとかいうことは全くできなかったのですが、この砂丘を歩くことだけは、天然という聖書をゆっくりと読み、強い北風とともに神の国の風を心のうちにまで吹き入れていただく恵みを受けることができました。
 鳥取から岡山に向かい、途中の中国山地の高速道路からは、澄みきった夕空に、金星と木星が左右に並び、目で見える光景としては最も清い、また神の国を思わせる輝きを見せてくれたのです。星の輝きは、決して飽きることなき霊的な音楽をも送ってくれます。
「もろもろの天は神の栄光をあらわし、
大空はその手のわざを示す。
語らず言わずその響き聞こえざるに、その響きは全地にあまねく…」
と、詩編十九篇で言われているのを思いだしました。
 香西さん宅では、久しぶりの再会を感謝し、去年紹介していただいた鳥取の長谷川さんとその集まりのことなどもお話し、夜のひとときを主にあるお交わりをいただきました。またそのおり、岡山大学のキルケゴールの研究をされている教授のところで学んでおられることを話して下さいました。老年になってもたえず学ぶことへの情熱をもっておられるのを感じました。
 翌日は、岡山市地域やその周辺におられる「祈の友」の方々を訪問しようと電話や地図をあらかじめ調べてあったのですが、たまたま第一に宿舎から近いところに電話した方が、ちょうど最近行く機会がなかった長島愛生園を訪問する予定があるとのこと、私も訪問予定地のひとつであったことを告げると同行希望をされ、私もそのほうが途中の道のことや現地についてからの訪問のこともスムーズに進むので同行することになりました。その方は稲村さんでお話を聞いているうちに、前夜香西さんからうかがっていたキルケゴールの研究をされていて来年退職されて鳥取に帰られるという方の奥さんであることが分かり、意外なことでした。
 長島愛生園は、岡山駅からおよそ四十キロほどあり、往復八十キロというのは、一般道路では混雑もあり、相当時間と体力を要するところでしたが、有料道路でなくなった自動車専用道路を案内していただいたおかげで時間短縮ができました。
「祈の友」の二人はともに全盲となって高齢でしたが、一人の方は長い年月をふりかえり主の導きを深く魂に刻まれているのが短いひとときのお話をうかがうだけでも伝わってきたのです。その折々に見せるさわやかな、そして幼な子のような笑顔の背後に長い年月どれほどの心の苦しみやたたかいがあったことかとそれを導かれた主の御手の不思議とその力を思いました。短い讃美と祈りをしていつかまた再会できることを願ってお別れし、もう一人の愛生園内の病院に入院されている方を訪ねました。病気の進行で話すことも十分ではなかったのですが、ひとときの交わりと祈りをともにすることができて感謝でした。こうした訪問によってはハンセン病の方々の抱えてきたごく一部のことしか分からないのですが、一度でも訪問することでハンセン病の方々の書かれた文なども見ても、またその歴史に触れてもより身近に感じられるようになり、ハンセン病になった方々の歩みのことが少しでもより具体的に感じられるようになることは恵みです。
 なお、そのあと、長い歴史を持つ、長島愛生園内にある曙教会を訪れ、ちょうど在宅していた大嶋得雄牧師からハンセン病にかかわる問題について、とくに聖書の訳語に関する問題についてお話をうかがうことができました。そこでもキリスト教信仰によって支えられ希望を見出してきた多くのキリスト者のハンセン病の方々のあとをたどる機会となりました。
 こうしたすべてを与えられて帰途につき、主が与えて下さった集会、出会い、また新たな導きを感謝し、かかわりの与えられた集会や参加者、訪問した方々とその周囲にある方々すべての上に御国を来らせたまえ、との祈りを深くしました。


 


リストボタンお知らせ

○クリスマス特別集会
十二月二十一日(日)午前十時~午後二時 会費五百円。
○キャロリング
十二月二十四日(水) 午後六時三〇分までに集会場に集合。

○阪神地方での集会
吉村 孝雄は、十二月十四日(日)に、神戸市元町駅前の私学会館での礼拝集会に参加してみ言葉を語る予定です。
午前十時~十二時。
午後は、高槻市の那須宅にての礼拝集会にて、イエスの誕生とマリアの賛歌について学びます。午後二時~午後四時ころ。
○毎月第五週の集会は、日曜日の主日礼拝を除いてお休みになります。それで十二月は、二十九日(月)の北島集会、火曜日の夕拝、三十一日の水曜集会などはお休みです。そして今月は、大学病院でのつゆ草集会も休会です。
○元旦礼拝は、一月一日午前六時三十分より集会場にて。一年の最初の日の早朝に集まって礼拝をともにしましょう。