あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。
「これが行くべき道だ。ここを歩け。右に行け、左に行け」と。


(イザヤ三〇・21


 20081  563号・内容・もくじ

リストボタン新しい年を迎えて

リストボタン主よ来て下さい!

リストボタン回り道を通って 

 リストボタン神に聞くことの重要性

 リストボタン地の塩

 リストボタンミサイル防衛計画(MD)の問題点

リストボタン神は私たちに何を下さるか

リストボタン聖書における讃美の重要性

リストボタンことば

リストボタン休憩室

リストボタンお知らせと報告

リストボタン編集だより



リストボタン新しい年を迎えて


新しい年、この一年にはなにが私たちを待っているであろうか。それはだれも分からない。明日のことすら何が起こるか分からないほど私たちは未来のことを知ることには著しい困難がある。
しかし、過ぎた年のことはさまざまに思いだされる。去年一年だけとっても、様々の危険をも守り、罪を赦し、そしてこの弱き者をも導いて下さった神の愛を感謝せずにはいられない。
私たちは未来のことは何も分からない。しかし、未来を見る眼を与えてくれるのが信仰であり、そこから与えられる聖なる霊であり、その実としての神の愛である。
御恵みの高嶺に ついに登りたる身には
見渡すかぎり ただ 神の御栄えのみ(新聖歌四一一より)

聖なる霊によって引き上げられ、霊的な山の頂きに導かれた者は、過去、現在、そして未来を一望することが与えられ、どこを見ても、神の清い栄光のみが見えてくるという。
この讃美の歌詞にあるように、この新しい一年、私たちのだれもが、この世のさまざまの混乱のただなかにあって、そうした恵みの高嶺へと導かれていきたいと願い祈る。

 


リストボタン主よ来て下さい!

最も平和があって欲しい家庭のなかにも、しばしば苦しい問題が生じることがある。最近もそうした事実を友人から知らされたことがある。
最も身近なところだけに、だれにでも言えないで苦しみと悲しみに打ちひしがれた心になるだろう。どうしてあのような罪を犯すのか、なぜこんなことが生じるのか等々、そうしたおりには、自らの力の弱さも思い知らされる。
そのような状況がどこまでもつのっていくときには、もう生きていく力も希望も失っていく。ことに当事者が神に希望を持つことを信じることができない場合にはそうなっていくことが多い。
主イエスが十二弟子をこの世に遣わしたとき、主は、弟子たちに「汚れた霊に対する権威を授けた。それは汚れた霊を追いだし、あらゆる病気やわずらいをいやすためであった」と聖書にある。そこに時代を超えた深い意味がある。
汚れた霊とは悪の霊である。私たちを苦しめ痛めつけようとする悪の根深い力である。主は私たちのそうした苦しみを御存じであったゆえに、そのような悪の力を根源から除き去ろうとして下さる。
私たちはたしかに今も目には見えない悪あるいは闇の力に苦しめられている。私たちの魂の内部で、ときには苦しい病という形をとって、また家庭のような身近なところで、さらに学校や職場、会社や国家などの組織において、さらには戦争や内乱のようなテロにおいても、問題の根源となっていることは、すべてに共通して、そうした悪の霊、闇の力である。
主よ、来て下さい。そして昔と同様に悪の力、闇の力を追いだし、私たちに聖なる霊の力と清めを与えてください。

 


リストボタン回り道を通って

イスラエルの民がエジプトから解放されて目的地のカナンに向かうとき、四〇年もの歳月を荒野ですごした。
しかし、エジプトからユダの地エルサレムまでは、地中海沿いの道をとれば三〇〇キロ程度の距離であって、毎日五時間程度歩いて、二〇キロほど進んだとしても、わずか二週間ほどの日数で行くことができる。
それは、イエスの誕生のとき、ヨセフとマリアたちは、み使いから命じられたままに、エジプトに逃げていくが、それは「夜のうちに幼な子とその母を連れて去り、へロデが死ぬまでそこにいた」とある。そして、帰るときにも、幼な子と母を連れて、イスラエルの地に帰って来た。(二・21)と簡単に帰れることが示されていることからもうかがえる。
それゆえに、次のような箇所で記されているように荒野で四〇年もさまよったというのは、きわめて異例のことであったのが明らかになる。
あなたの神、主は、あなたの手の業をすべて祝福し、この広大な荒れ野の旅路を守り、この四十年の間、あなたの神、主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった。 (申命記二・7

イスラエルの人々は荒れ野を四十年さまよい歩き、その間にエジプトを出て来た民、戦士たちはすべて死に絶えた。彼らが主の御声に聞き従わなかったため、我々に与えると先祖たちにお誓いになった土地、すなわち乳と蜜の流れる土地を、彼らには見せない、と主は誓われたのである。
(ヨシュア記五・6

神はこれほどまでに回り道をするように仕向ける。四十年とか四十日といった表現は、特別な数字であり、主イエスが受けた試みの期間は四十日であった。(マタイ四・2) 神が決められた長い期間、それがこの四十という数字に込められている。

… さて、ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである。
神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。イスラエルの人々は、隊伍を整えてエジプトの国から上った。(出エジプト記十三・1718

ここで、ペリシテ街道とは、地中海沿いの道である。その道を通れば、すでに述べたように、カナンの地までは、二週間ほどで到達することができるのである。
なぜこのように考えられないほどの回り道をさせたのであろうか。それは、途中の敵対する民族との戦いが生じたら、滅ぼされてしまうと恐れてエジプトに引き返してしまうかも知れないので、あえて、多民族との戦いはないが、はるかに遠い道のりを長い年月をかけて、苦しみつつ歩んでいくようにと導かれたのであった。
私たちにおいても、前途に目に見える大きい困難があるときには、とてもそれを超えていこうという気持ちにはなりにくい。そのような場合には、別の道を示されることがある。
ダンテの神曲でも、最初は自分の力や意志で、清めの山(煉獄)を登っていけると考えていたが、それはたちまち強い敵の力によってそのような気持ちが粉砕されてしまう。そのために、神からダンテのために遣わされたローマの詩人に導かれて歩むということになった。
私たちの人生に生じる数々の苦しみや悲しみ、それは私たち自身の罪によるもの、他者の悪意などの罪によるもの、また病気や自然の災害等々、どうしてこんなに苦しみが次々と生じるのかと心沈むことがしばしばある。それは遠い回り道のように見える。
それは、そうした回り道を通って御国へと行くこと、主に導かれ、聖なる霊に導かれて歩むことを徹底して学ぶためにこのようなさまざまの回り道のように見えることをしなければならないのであろう。

 


リストボタン神に聞くことの重要性

私の信仰の生活は、十字架の福音を聞くことから始まった。一冊の本のわずか数行を読むことによって私はキリスト教信仰を与えられた。それはその本を通して十字架の福音を聞いたゆえであり、そしてそれを受けいれることができたからであった。
何かを行動することで、大きな学びを得ることもある。外国など見知らぬところに旅をすることで新たな経験を与えられて、大きな収穫を与えられることもある。
しかし、決定的なことは、人間を超えたところから響いてくる声を聞かないならば、何らかの行動によっても人間の醜さや、弱さばかり知って帰って真理から遠ざかることも多い。
私たちはいつも何かを聞いている。ことに近年は、新聞、テレビ、ラジオなどの他にインターネットによって全世界のさまざまの情報を自分の家にいて取り入れることができるようになった。それは実にさまざまの声を聞いていることになる。
けれども、そのような声が洪水のようにはんらんするときにあって、私たちはいっそう魂の静けさを失い、揺れ動く人間を超えたところからの声に耳を傾けることが少なくなっている。
聖書において、「聞く」ということはとくに重要なこととして記されている。研究する、まなぶ、経験する、いろいろ私たちがする領域がある。しかしこれらは誰でもが、いつでも、またどこででもできることではない。
しかし、上よりの御声に「聞く」ことは本来いつでもどこでも、また誰でもができることである。
聖書では、「聞く」とはもちろん、人間の言葉でなく神の言葉に聞くことが至る所で強調されている。どこででも耳にする人間の言葉、意見、考え、組織や国、世論といったものは聞こうとしなくとも耳に入ってくる。
それゆえそうした人間の声を超えたところの声、人間とは全く異なる内容を持つ声を聞くことの重要性がある。

旧約聖書での「聞く」こと
聖書ではどのように、「聞く」ということが記されているであろうか。
神が人間に語りかけた最初の言葉とは、何であっただろうか。それは創世記にある。一章では、男と女への言葉として「産めよ、増えよ。…生き物をすべて支配せよ。」というものである。
しかし、アダムとエバ、エデンの園ということで有名な別の記述
*による最初の言葉は、アダムに言われた次の言葉である。
*)ヤハウエ資料。創世記から申命記にいたる書物では、共通した特徴を持っている記述があり、それらをヤハウエ資料、エロヒム資料、申命記資料、祭司文書の四種の資料文書としている。創世記の第一章~二章の一節~四節前半は、祭司文書であり、二章四節後半から四章にかけては、ヤハウエ資料とされる。祭司文書は荘重な文体、ヤハウエ資料はエデンの園の描写にみられるように生き生きした表現をもって記し、神のことを記すときも、擬人的描写をもってするなどを特徴とする。

主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
        (創世記三・17
このようにわかりやすい内容の言葉であった。しかし、アダムもエバもこの単純率直な神からの語りかけを聴こうとしなかった。エデンの園には、見てよく、食べるに良いもので満ちていたにもかかわらず、食べてはいけないという「善悪を知る木」をまず、エバは、蛇の誘惑に負けてその木の実を食べてしまったのである。そしてさらに夫のアダムにも誘ってその実を食べるように仕向け、二人とも神の言葉を聞き入れようとしなかったことが記されている。
このように、聖書の最初に、具体的な人間に語りかけられた言葉であったが、それを人間は聴こうとしなかったことが最初の人間の姿として記されている。
このように、自然のままの人間の姿というものは、神の言葉に聴こうとしないということなのである。
しかし、そのような人間のなかで、とくに神からの声をはっきりと聞き取り、そのままに従って行った人間が現れた。そのうち後世にまで絶大な影響を持つようになった人物、それがアブラハムであった。
彼は、現在のイラク地方に住んでいた人であった。若いときにどんな人間であったのか、どのような生活をしていたのかなど全く記されていない。彼について詳しく書かれるのは、神が語りかけたこと、そしてその言葉にすべてを捨てて従って行ったということである。
そしてそこから、神の声を聞くことを最大の重要なこととする人たちが次々と現れるようになった。アブラハムの子供のイサク、その子どものヤコブ、そしてそのヤコブの子供たちとして十二人が生れ、そのうちの一人ユダの子孫がユダヤ人となっていった。
そしてそのユダヤ人からイエスやその弟子たち、そして最大の使徒といえるパウロも現れた。
このように、神の言葉を聞くということから、全世界に絶大な影響力を持つ民族が現れた。もし、アブラハムが、「生れ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行け。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、祝福の源となるようにする。」という神の言葉を聞かなかったら、あるいは聞いてもそれに従っていなかったら、今日の旧約聖書もなく、ユダヤ民族もなく、したがってキリストもキリスト教もイスラム教もすべて存在しなかったのである。
ユダヤ民族の宗教からキリスト教につながり、そしてイスラム教にまでこの神の声を聞くという単純ないとなみから派生していったのである。イスラム教の教典はコーランであるが、旧約聖書もその教典に含み、コーランには旧約聖書の引用あるいはその改変などがしばしばみられる。
このように、ユダヤ教、キリスト教だけでなく、イスラム教まで含んでいることから考えると文字通り全世界にその影響が今も続いているのであり、神の声を聞くというきわめて個人的、内面的なことのように見えることがいかに絶大な力を内蔵しているかがうかがえる。
ほかにもいろいろの宗教があって、それぞれの神々からの声を聞いたと称する人たちはたくさんいる。しかしそれらは広がらないし、永遠的でもない。それらは一種の新興宗教であって生じては消えるということを繰り返してきた。
アブラハムが聞き取った神のみ声、その声に聞こうとするところから、だれも想像できなかったひろがりを持つようになっていったのである。
後にアブラハム以上に重んじられるようになったモーセにおいても、このことが中心となっている。モーセがまだ神の声を知らず、自分の考えによって同胞を救おうとしたが、それは何の力にもならず、かえって殺されそうになって砂漠を越えて遠くに逃げていくほかはなかった。
そうして荒野で羊を飼っているときに、神からの語りかけがあった。モーセは神からの直接に人間にとって最も基本的なあり方を示す十戒を受けたということで、旧約聖書の根源につながる人物となった。そのような絶大な影響力は、やはりもとをただせば、ただ神のみ声に忠実に聞いて従ったということである。
彼のそばには書物もなく、モーセの与えられていた大いなる力の源は学問や研究、議論などによったのでなく、ただ神に聞くということだけであった。
それゆえに、モーセが受けた神からの言葉には、繰り返し、「聞け」という言葉が現れる。

… あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従う
*ならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。 (申命記三〇・23

*)ここで「聞き従う」と訳されている原語(ヘブル語)は、シャーマー で、最も普通に「聞く、聞き従う」という意味に用いられる動詞である。古代ギリシャ語訳(七十人訳)ではupo(~の下に)と アクーオー akouw(聞く)という言葉から成る ヒュパクーオー upakouw (聞き従う)という訳語が用いられている。

この個所で言われているように、聞くといっても安易な態度では神の声は聞けない。それで「心を尽くし、魂を尽くして御声に聞け」と言われている。心を尽くしとは、原文の表現では、「すべての心をもって、すべての魂をもって」ということであり、ほとんどの英語訳でも
with all your heart and with all your soul
と訳されている。
またこの個所の少しあとでは次のように言われている。

… わたしは、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、
あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。
それが、まさしくあなたの命であり、(申命記三〇・1920より)

このように、祝福の道か、のろいの道かという全く異なる結末に至るその分岐に立っているのが、神の御声に聞くかどうかという一点なのである。聞くことはいのちそのものとなるほどに重大なこととされている。
このような重要性をもっている御声に聞くということをしなかったために、とくに選ばれた民族であったにもかかわらず、次第に祝福の道から落ちていくすがたが旧約聖書には克明に記されている。
そしてそのような状況を何とかしてくいとめるために神が遣わされたのが預言者である。その初期の人物とも言えるサムエルについては、とくに人々が軽視した御声に聞くということがいかに重要であるかを示すために象徴的なことであるが、サムエルは、幼な子のときから御声に聞くことを特別に取り上げられている。

…サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。
主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、 祭司エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言った。しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエルは戻って寝た。
主は再びサムエルを呼ばれた。… 主は三度サムエルを呼ばれた。… 主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」(サムエル記上三章より)

このように、神は、直接に三度も幼な子のサムエルを呼んで、御声に聞くことをその魂に刻み込まれたのである。このように、当時の宗教家(祭司)が肝心の神の言葉を聞こうとせず、自分の祭司たる立場を利用して物欲に目をくらませていったとき、神はその民への愛ゆえに、特別に御声に聞く人間を幼な子のときから召しだしたのであった。
このようなことはその後ずっと歴史のなかで生じていった。旧約聖書の多くの部分はまさにそうした神の声(神の言葉)を聞こうとせずに堕落していく人々と、その人々を警告して神の御声に聞くようにと命がけで訴える人々(預言者)との霊的たたかいの歴史と言える。
旧約聖書に収められた詩集は詩編と言われるが、そこには悪意から迫害し苦しめようとする人間や、病気その他の困難の中から、必死で神の御声に聞こうとする人たちの祈り、叫び、そしてその御声を聞いたゆえに深い平安と喜びが与えられ、神への讃美となっていく魂の記録が多数みられる。
苦難のとき、敵対する者によって苦しめられて死にそうなほどの状況になったとき、そこで二つに分かれる。神のみに求め、神からの御声を聞こうとする道と、神以外に頼ろうとする道である。詩編は、魂のはげしい戦いのなかで、いかに苦しくあろうとも、ただ神のみに聞こう、神の力に頼ろうとする姿勢が全編にみなぎっている。
これは、すでに引用した申命記において、祝福の道とのろいの道という二つの道の選択に立たされた人が、いかに神以外のほうからの誘惑があろうとも、あくまで神に聞こうとする祝福の道にすがりつづける姿がある。

…深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
主よ、この声を聞き取ってください。
嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。…
わたしは主に望みをおき
わたしの魂は望みをおき
御言葉を待ち望みます。
わたしの魂は主を待ち望みます。…
イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに
豊かな贖いも主のもとに。
(詩編一三〇より)
この詩における特徴は、押しつぶされそうになる状況のなかで、魂の深淵から叫び、神が自分の苦しみを聞いて下さるようにとの切実な願いがあるとともに、神に望みをおき、神からの御声を全力をあげて待ち望む姿勢がある。そしてついにその願いは聞かれ、神の御声を聞くことができた。
それゆえに、人々に対して「主を待ち望め!」と呼びかけることができたのである。
もう一つの詩を見てみよう。

… 主に向かって喜び歌おう。
救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。
御前に進み、感謝をささげ
楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。
主は大いなる神
すべての神を超えて大いなる王。
主はわたしたちの神、わたしたちは主の民
主に養われる群れ、御手の内にある羊。
今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。(詩編九五より)

この詩において、主に向かって喜び歌おう、感謝をささげよう、楽器をもって喜び叫ぼう、と呼びかけられているのは、
最後の節にあるように、主に聞くことができたからこそ、このように歌えるのである。
神に心を開き、神からの語りかけを聞かないならば、この世は悪の力が満ちていて、弱い者が踏みつけられる恐ろしいところであって、到底神に讃美とか喜び歌うなどできない。
主の御声に聞くことからそのような、喜びの世界が開けていくことをこの詩の作者は深く体験的に知っていたし、それは啓示でもあった。
詩編の最後の部分に多く収められたハレルヤ!
*という言葉のみられる詩編は、そうした喜びの叫びなのである。

ハレルヤ。新しい歌を主に向かって歌え。
主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。
イスラエルはその造り主によって喜び祝い
シオンの子らはその王によって喜び躍れ。
踊りをささげて御名を賛美し
太鼓や竪琴を奏でてほめ歌をうたえ。(詩編一四九より)

*)ハレルヤとは、「ヤハウエを讃美せよ」、という意味のヘブル語。これは、ハーレル(讃美する)という動詞の二人称複数形の命令形と、ヤハウエという神の名の省略形 ヤハが合わさった言葉である。ヤハウエは神(エル)と置き換えることができるので、ハレル・エル(神を讃美せよ) という形も用いられている。詩編一五〇編では、この二つが次のように用いられている。
ハレルヤ。聖所で神を讃美せよ。…
英語では、ハレルヤも、神を讃美せよ も Praise God! となる。若い人たちによく用いられる讃美集で、プレイズ&ワーシップというのがあるが、これは、「讃美と礼拝」という意味。リビングプレイズ も「生きた讃美」の意。 なお、アメリカやイギリスの讃美集のタイトルは、ヒムナル Hymnalとか ヒム Hymns といった伝統的な名前(これらは、ギリシャ語の ヒュムノス hymnos に由来する。これは コロサイ三・16 で讃美とか賛歌と訳されている)のが多いが、Praise ! というのもある。 讃美歌の演奏器をヒムプレーヤというが、これもここから来ている。

以上のように、神の御声に聞くことの重要性は、詩編でもその詩の背後には神に叫びつつ、神からの御声を聞こうとする懸命な祈りが随所に感じられる、それが最も直接的に現れてくるのが、預言書である。
預言者とはその言葉のとおり、神の言を預かった人であり、預かった神の言を人々に対して、「神の言葉に聞け!」と自分のすべてをあげて語りかける人なのである。

…主は手を伸ばして、わたしの口に触れ
主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に
わたしの言葉を授ける。
(エレミヤ書一・9

エレミヤという預言者が若き日にこのように神の言葉を与えられたのは、自分が味わうためでも学びのためでもなかった。それは、崩壊しつつあるユダの国の人々に対して、その根本原因は神の言葉に聞こうとしないからであることを告げ、自分が預かった神の言葉に聞くようにと命がけで宣べ伝えるためなのである。
かつてモーセが申命記で語ったように、エレミヤもまた次のように語る。

… 主はこう言われる、「人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる。
彼は荒野に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない。
主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。
彼は水のほとりに植えた木のようで、その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ」(エレミヤ書十七・58より)

主に頼るとは、神の御声に聞いて従うことである。神はつねに私たちに歩むべき指針を語りかけている。人を頼るとは神の御声に聞こうとせず、求めようとせず、人間の声、考えを求めてそれに従おうとすることである。
国家の滅びという政治的社会的な問題もその中心にある原因は、経済や軍備や人口の問題などでなく、一人一人の人間がいかに神の御声に聞こうとしているかということなのである。
こうした語りかけは、預言書に一貫してみられるものであり、聞き従わない人間たちに最終的の道として神がなされたことは、神の子をこの世に遣わすことであった。

新約聖書での「聞く」こと
主イエスはアブラハムやモーセ、ダビデ、そして預言者などの持っていたはたらきのすべてを完全なかたちで与えられていたお方であった。神の子の保持者であり、詩人であり、預言者であり、王でもあった。
主イエスの教えのなかで、次の言葉はとくによく知られているものの一つである。

求めよ、そうすれば与えられる。
探せ、そうすれば見出す。
門をたたけ、そうすれば開かれる。(マタイ七・7)

これらの有名な言葉は、ふつうは神の言葉を聞くこととは無関係と思われている。しかし、これらの言葉もまた、「聞く」ことと深い関係がある。
 求めるのは何か、神からの言葉である。神に聞こうとしても聞こえないという場合が非常に多い。だからこそ、神からの御声を求めよ、と言われているのである。そうすれば、唯一の正しい指針である御声が分かるというのである。そうした意味もこの有名な言葉は含んでいる。
門をたたくこと、それも何も響いてこない神の国のとびらをたたく心をもってすれば、そこから神の国のとびらが開かれ神の言葉が響いてくる、ということでもある。
御声をさまざまのところで探し求める、例えば、苦難のおり、見下されたとき、信頼した人から裏切られた悲しみのとき、病や事故などのとき、失敗したり罪を犯して多大の苦しみを相手に与えたとき…等々、私たちはそのようなとき一番に必要なのは神の御声である。沈黙しているように見えるところにも、神の御声(神の言)を探し続けるときにはそこに見出すことができる。
野の花、白い雲や青い空、夜空の星等々、すべて御声とみ言葉をそこに見出そうとして探すものは予想していなかったところに、御声を聞き取ることができる。

…門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。
*
羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついていく。…
私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。(ヨハネ福音書十章より)

*)新共同訳で「聞き分ける」と訳された原語は、ほとんどの個所で単に「聞く」 と訳されている動詞(アクーオー)で、「聞き分ける」と訳されているのは、例外的な訳で、新共同訳では、ヨハネ福音書十章の三カ所だけである。
この動詞は、新約聖書では四三〇回ほども使われている。なお、口語訳では、この個所を「聞き従う」と訳している。英語訳ではほとんどが hear と訳され、一部が listen と訳されている。

このたとえで、羊飼いとは主イエスのことで、羊とはイエスを信じる者である。 主イエスに従う者は、考えたり、議論したりすることでなく、魂の奥深くに実感するそのみ声に従うのである。世の中のさまざまの雑然とした声、意見、世論、マスコミなど現代では洪水のようにあふれている。しかし、そのようなあらゆる声とは本質的に異なる神の声を聞き取るゆえに、従っていくのである。聖書に関して、学者のいろいろな議論、分析なども一種の人間の声にすぎないことが多いのは今も昔も変わりがない。聖書の時代にも、当時の聖書に精通していてさまざまの議論ができた聖書学者たちがかえって、主イエスを否定し、人々をイエスに導く道を妨げることになった。
ヨーロッパなどでキリスト教を信じる人たちの力が弱まっているのはなぜか。それは幼な子らしい心で主に聞こうとせず、聖書を神の言葉として受けとらないで、単に研究、分析や議論の対象とする傾向が強まったこともその一因であろう。
主イエスが言われたこと、「私の羊は私の声を聞く」という。しかし、イエスの声を聴こうとしないときには、たちまち名前だけのキリスト者となっていく。
キリスト教信仰の本質は、研究でもなければ議論でもない。聖なる霊と神の愛を受けることであって、そのためには、そうした研究や議論とは全くかかわりなく与えられるものである。それは私自身の経験からもはっきりと言える。私が初めて神の愛を受けたのは、まったく聖書を研究したこともないときに与えられたからである。そして今も、そうした研究などとは無関係に日々与えられていることである。聖なる霊や神の愛、それらは本質的に人間の研究によっては得ることはできないものだからである。
ここで主イエスはそのことを述べているのである。主イエスの声か人間の声か、それは静まって聞き入るときには実感できるものである。そこには愛があるかどうかということもつながっている。
青い空、また樹木の静けさ、白い雲や夜空の星、あるいは野の花、そうしたものからも、静まって聴こうとするならば、キリストの声を聞き取ることができる。
主のみ声に聞く者は、その声の主に従っていく。そのみ声はほかのどんな人間の声とも異なる清いものをたたえているからであり、それこそ魂の平安を与えるものであることが実感されるからである。
福音書のなかに、飼う者のいない羊のようになった人々のことが記されている。そのような人々は、夕方が近づいたにもかかわらず、そして食べ物も持っていないのに、イエスのあとを追って行った。それは、目には見えない力で引き寄せられるかのようであった。

…そこで彼ら(イエスの弟子たち)は人を避け、舟に乗って寂しい所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、彼らより先に着いた。
イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。(マルコ福音書六・3234

ここに記されている人々は、イエスの声を聞いてついていく羊たちと言える。その人々は過去のことでなく、それ以後の人間の実態を示しているのである人間は、だれでもその魂の深いところでは、どこに行ったらいいのかわからずさまよっている状態であり、飼う者のない羊なのである。そしてそのような迷える羊がひとたび主イエスの声を聞くとき、このお方こそは全く異なる種類の人間だということに気付く。
そのようにして時間のことも、食べ物のこともおいて、まずイエスに従っていこうとする人たちには、何が与えられるだろうか。
この記述のあとには、五千人のパンとして知られる驚くべき出来事が書いてある。

… ところが、はや時もおそくなったので、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。みんなを解散させ、めいめいで何か食べる物を買いに、まわりの部落や村々へ行かせてください」。
イエスは答えて言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。弟子たちは言った、「わたしたちが二百デナリ
*ものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」。
するとイエスは言われた。「パンは幾つあるか。見てきなさい」。彼らは確かめてきて、「五つあります。それに魚が二ひき」と言った。
そこでイエスは、みんなを組々に分けて、青草の上にすわらせるように命じられた。…
それから、イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。
みんなの者は食べて満腹した。そこで、パンくずや魚の残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。 (マルコ六・3643

*)一日の賃金が一デナリと書いてある個所があるので、おおよそ現在の日本の状況では、一デナリが一万円ほどとすれば、二百万円にもなる。男だけで五千人であるから、女子供を合わせるとその倍ほどもいたとすると、一万人となり、二百円のパンを購入するとすれば、合計は二百万円になる。

このパンの奇跡、それはあり得ないことが書いてあるのでなく、キリストの声に聞いて従っていく者に与えられる祝福を書いてあるのである。たしかに過去二千年の間、キリストの声こそ、真理の声と実感して従っていく人たちは全世界に広がって行った。それは到底五千人とか一万人などの比ではない。それらの人たちはたしかに、自分のわずかの努力、才能、働きにもかかわらず、(五つのパンと二匹の魚が象徴的に意味しているように)命のパンを満ち足りるように与えられてきたのであった。
私自身もその小さな一つの例である。まさに飼うもののない羊として、精神の荒野をさすらって苦しみ続けていたのであったが、一冊の古びた新書本にキリストの十字架の死のことが書かれてあって、そこに私は主イエスのみ声を聞いたのであった。そしてその後実際に京都の東山のふもとの疎水にそった道(「哲学の道」として知られている)にて、ある夜に、その静かな語りかけを感じたのであった。そして主イエスに引き寄せられるようにして、その本の著者を記念するキリスト教講演会に参加し、それを主催した京都のキリスト教集会に参加するようになった。
そしてたしかにそれまでどんな方法によっても与えられなかった魂の満たしを与えられた。さらに私が食べたパンの残り、といってもそれは神の霊的な目に見えないパンであるから、残りもまた完全ないのちを持っているのであったが、それを他者に提供したら、その人たちのなかから新たに、そのパンによって満たされる人たちが生じてきた。私が聞いて信じたキリストの福音を信じて受けとった人たちである。
このようにして、この五千人のパンの奇跡とは、おとぎ話のようなあり得ないことでなく、今も私たちに現実に生じることが記されているのである。
ヨハネ福音書において、次のように記されている。

…わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。
わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。(ヨハネ福音書十・2728

キリストの声を聞く者は、その声が、「これが道である、この方向こそ正しいのだ、ここに光がある」と語りかけるゆえに、自ずからキリストに従う。そうすれば、五千人のパンの奇跡に象徴的に言われているように、神の祝福を受けて十分に満たされる。それが永遠のいのちを与えられるということである。
さらに、そのようにして神のいのちを与えられた者は、滅びることがない。言い換えれば、いかなるものも私たちをキリストから引き離すものはなくなる。
この世は、さまざまの出来事があってたえず私たちを神の国から引き離そうとする力が働いている。しかし、私たちのほうから捨てるのでない限り、決して私たちは神(キリスト)から引き離されることはない。神の国から見捨てられることはないのである。
このことは、ローマの信徒への手紙によって比類のない力強い表現で表されている。

…だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。…
これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
わたしは確信しています。死も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
(ローマ信徒への手紙八・3539より)

このように、主イエスのみ声に従っていくというただ一つのことに忠実であるときには、さまざまの困難があっても、また最終的に死ということは必ずみんなに訪れるがそれでも、そのようないかなるものも神の愛から引き離すことはできない。神の愛とは、人間の愛のような一時の感情や情熱でなく、どんなものによっても引き離されることのない強固さがその本質にある。
この世の闇の力に縛られるのでなく、また最後の死によっていやおうなく無になってしまうのでもない。神の国に上げられて神の国のあらゆるよきものをもって満たされるという約束が与えられている。

 


リストボタン地の塩

塩というのは、 人間にとって生きるために不可欠な物質である。*
しかし、現代では、塩をとりすぎるということが高血圧や心臓病、脳卒中などの原因となるということで、そのほうが重要な問題となっているために、塩が人間になくてはならない物質であるということをあまり思っていない人が多い。
塩はよいものである。それは、塩がまったくなかったら生活できないからである。一五四七年今川氏真が武田信玄の支配下の領域に塩が入らないようにしたため、敵であった上杉謙信が、越後の塩を送ったということは有名である。
またアメリカ開拓時代には大陸中央部では塩がないので、鳥の糞をなめて塩分をとったと言われている。

*)塩は、化学的にはナトリウムイオンと塩素イオンが結合したもので、水に溶かすと、それらのイオンに分かれる。人間の体においては、さまざまの組織の浸透圧を調整して、体内の水分を適切にしておくこと、また、熱い、冷たい、光を受けてものを見る、歩く、手を使うなどあらゆる体の動きは神経細胞を通して命令が伝達されるからであるが、その伝達のために、ナトリウムイオンは不可欠な働きをしている。塩素イオンは、胃腸などの消化液成分としての働きをする。こうした重要な働きを受け持っているゆえに、塩が欠乏すると、体全体に影響が出てきて、筋肉の働きも弱くなり、心臓や腎臓など内臓の働きも弱まっていき、究極的には死に至る。

塩は、生命の維持のために必須の物質であるが、さらに、塩がなかったら肉や魚、卵などもとても食べられないであろう。スープ、味噌汁、カレー、マヨネーズ、ドレッシング、醤油等々私たちの食事の際に用いるものには塩分がなくてはならないものとして含まれている。あらゆる食品は気付かないところで、塩が入っている。*

*)例えば、食パン二枚の中に 一.五グラム程度含まれている。そうめん一束四十グラムにも一.二g程度の食塩が含まれている。

聖書において、次の言葉が塩に関連して思いだされる。

…あなたがたは地の塩である。
だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。
もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
      (マタイ福音書五・13
キリストに従う弟子たちは、地の塩と言われている。この個所に続くところは次のようになっている。
…あなた方は世の光である。あなた方の光を人々の前に輝かせよ。…(同1416節より)

このような言葉に接すると、自分はとてもこんな地の塩とか世の光などにはなれていない、といわれる方も多い。私たちが自分の努力などで人格を高めてこの世の光とか世の腐敗を防ぐ正義にあふれた人間になる、などということなら、これはとてもできないことである。
しかし、キリストの弟子とは、特別に修行した者ではない。ごく普通の人間にすぎない。しかし、そのような壊れてしまう汚れたものにすぎない―だからこそ、土の器と言われている―ものに、神の宝が盛られているゆえに、私たちは、地の塩、世の光でありうる。キリストを信じたときから、そのような神の国の宝が与えられていくのであるから、だれでも、その宝のゆえに地の塩、世の光になったと言えるのである。
これらの箇所から、キリストの弟子たちは、地の塩という外見的には目立たないものと光というよく目につくものの二つでたとえられている。塩は地味であって一見何の働きもしそうでないが、この世に神の国の味わいをもたらすものという意味が込められている。不信と偽り、あるいは敵対感情や憎しみが至るところにあり、また病気や事故などによる苦しみや悲しみがどこにでもあるこの地上で、神の国の、キリストの味わいをもたらす存在だと言われている。
その塩味の元である神の言葉があるとき、食物が塩によって腐敗が止められるように、神の言葉を与えられた人の存在によってその周囲にも神の国の味わいが伝わるゆえに、腐敗を遅らせ、あるいは止めることができる。
それは、キリストの弟子に委ねられた神の言葉そのものがそのような働きを持っているからである。
同様に、私たち自身は罪深いものにすぎないが、そのような弱き者であるにもかかわらず、神の言葉が与えられ、それが光を持っているからこそ、私たちも世の光だと言われている。
塩味が全くなかったらたくさんの食物は食べる気にならないほどである。
それと同じようにこの世もそれだけでは味が悪くて食べられない。生きていきたくないと感じる人がきわめて多いことは、自らの命を断つ人が何万人もいることだけ見てもわかる。
そのような追い詰められた状況にならなくとも、さわやかな味を経験したことがない、いつも心は騒いでどこか暗いものが漂っているという状態は非常に多数の人々の姿ではないだろうか。
そのような現状のために、地の塩となるべき神の言葉を信じる人たちに与え、その人たちがその神の言葉のゆえに地の塩としてはたらくことが期待されている。
しかし、せっかく与えられた塩気がなくなることがある。それは、キリストにつながっていないとき、み言葉に従わないときである。主イエスが言われたように、み言葉を聞くだけで従わない人は、砂の上に建てた家のようなものだ。
そのように不可欠であるが、ここでは、さらに腐敗を止めること、わずかで全体の味わいをよくすることのゆえにとくに塩はよいものであると言われている。
「あなた方は地の塩である」という言葉は、「あなた方は世の光である」という言葉と並べられている。(マタイ五・1314
それは地の塩という意味と、世の光であるという意味が似通っているからである。光といえば、電気のなかった昔にあっては、暗夜を照らすもの、行く道を照らすものであった。光がなかったらどう行くべきか分からないし、なすべきことも全くできない。
しかし、他方人間は光と逆の闇、すなわち罪を持っている。にもかかわらずどうしてあなた方は光である、と言われているのか。それは、闇のなかに光を受けるからである。光を内に与えられたとき、私たちはそのゆえに、光と言われる。
神からの光とは、言い換えれば神の言葉であり、神のいのちであり、また聖なる霊であり、いのちの水でもある。神の言葉は数千年の間光り続けている。ほかの思想、言葉、考えはみんな浮かんでは消えていく。古典といわれるものであっても、ごく一部にしか通用していない。日本の古典である万葉集とか古事記などほとんど世界では問題にされないし、源氏物語なども、数えるほどの言語にしか訳されていないが、聖書については、他のいかなる書物に比べても圧倒的な数
*で訳されている。

*)全聖書は、四二九の言語に、 新約聖書のみは、一一四四言語。 一部の訳は八五三言語。 合計二四二六言語に訳されている。(二〇〇六年 聖書協会世界連盟の資料による)

これは、聖書は人間の意見とか考えでないからで、人間を超えたところから語りかけられた永遠の真理、神の言葉だからである。他の宗教も、神がかりになって聞いたといった言葉を持っている場合があるが、それらは、ごくわずかの人、民族にしか通用しない。
例えば、さきほどの上杉謙信もまつられて神とされている。しかしそのような神を一体外国のどんな民族が神とあがめるだろうか。ありえないことである。戦前の日本は、植民地にした朝鮮とか、支配下においた地域で、神社を造り、天皇を無理やり神として拝ませようとしたが、敗戦でそのような神社とかはあとかたもなく消えて行った。
このように、翻訳された言語の数だけ見ても、世界においての地の塩として強力な働きをしていることを示すものである。 私たちが地の塩であると言われるのは、与えられた神の言葉、神の力、そして罪の赦しときよめのゆえである。
主イエスは、「もし片方の手や足、あるいは目が私たちをつまずかせるなら、切り捨てるとかえぐりだしてしまなさい。両手や両足あるいは目がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手、片足あるいは片目になっても命にあずかる方がよい」というそのきびしい表現に驚かされるようなことを話された。
そして、それに続いて次のように記されている。

… 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
人は皆、火で塩味を付けられる。
塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。
自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。
(マルコ福音書九・4350より)

このように、マルコ福音書においては、他のマタイとルカの福音書で言われている、「地の塩であれ」というニュアンスとはちがった意味が感じられる。それは、さばきの火ということが言われていてその火との関連で塩ということが出ている。
それゆえに、人は皆、火で塩味を付けられるということは、神からくる厳しい試練によって塩味が付けられるということになる。厳しい試練が続くときには、塩味どころか耐えられなくなって心が壊れてしまうこともある。固くなって人間らしさを失ったりすることもある。火のような試練を受けてもそうならずに、かえってよき塩味というべきものが備わるためには、神がともにいて守り支えることが必要である。それは神の言葉を私たちがしっかりと持っているときに、そのような試練が来ても打ち倒されないであろう。
主イエスも、荒野での厳しい試練のときサタンから試みを受けたが、そのときにイエスを支えたのは、旧約聖書に記されている神の言葉であった。
自分自身の内に、そうした試練のときに支えた神の言葉をしっかり保っているときにこそ、私たちは自分自身の内に塩を持っているといえる状況になる。そして、神はたえず何らかの苦しみや問題、悩みを送って、私たちが神の言葉の塩味を持続していくようにとされている。私たちもそうした試練の火、苦しみの火によって絶えず新しい心で御言葉を求めていくゆえに、その塩味が持続する。
そしてそのときには、たしかに互いに小さなことで争ったり憎み合ったりすることなく、平和をもって、祈りをもって過ごすことができるだろう。
塩が微量で味わいを強め引き立たせるゆえに、私たちの言葉も神の言葉をたたえた塩味のきいたものであるようにと言われている。
…あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。
       (コロサイ四・6
Always talk pleasantly and with a flavour of wit but be sensitive to the kind of answer each one requires.

私たちに与えられた神の言葉、それは祈りをうながす。祈りはまた塩の働きをする。塩気のなくなった塩、それは祈りのなくなったキリスト者である。祈らない人、祈っていない人の周辺では変化がない。本当に祈っている人の周辺では何か変化がある。
そしてこうしたすべてを最も力強く働かせるものは、私たちの内に住んで下さるキリストである。そのようなキリストこそ、究極的な意味での塩であり、そのキリストが私たち自身の腐敗をとどめ、周辺にもよき神の国の味わいをもたらすことになると言えよう。



リストボタンミサイル防衛計画(MD)の問題点

 北朝鮮がミサイルを発射した二〇〇六年七月以降、日本のミサイル防衛計画が急に巨額の費用を用いてなされていくことになった。
 これは、例えば北朝鮮がミサイルを発射したときに、日本海に配備しているイージス艦(*)がそれを途中で打ち落とし、それに失敗したときには、陸上に配備している、ミサイル
**で打ち落とそうという計画である。

*)イージス艦とは、レーダーやコンピュータを用いて、空や陸、海からの攻撃を探知して、攻撃できる高性能の護衛艦。これを持っているのは、アメリカ、日本、スペインの三国のみで、一隻を作るためには千四百億円という巨額が必要とされる。なお、MDとは、Missile Defense の略語。
**)パトリオット・ミサイル(PAC3)

 外国から飛来してきたミサイルを狙って発射するミサイル(SM3)によって守るというが、相手国が、複数のおとり弾を発射してくればとても対応できないと言われている。アメリカが実験で成功したというのは、そうしたおとり弾も使わず、あらかじめ設定されたミサイルの弾道をもとにしているから実際の状況とはちがっているので信頼できる実験とは言えないと言われている。
 また、現在は日本では四隻のイージス艦があるが、そのうち二隻は訓練や整備のために使えないので、常時日本海に置けるのは二隻程度だという。
 このような状況ではもちろん到底日本の防衛にならない。日本をカバーするには、十六隻も必要だと防衛省の専門家は言っているという。一隻が千四百億円という巨額なものをそのように整備すること自体なすべきことでないのは明らかだ。
 ミサイル防衛計画を構築していくことはきわめて困難でかつ、高価であるのに対して、そうした防衛体制をすり抜けるようにして次々と発射することでそんな防衛体制をくぐり抜けるようにすることは容易なのである。
 それゆえに、正確に一発も残らず海上で打ち落とすということはきわめて技術的にも困難な課題となる。それはピストルから発射された弾丸をピストルで打ち落とすようなもので、ほとんど「手品」のようで、使い物になるにはアメリカでもまだまだ膨大な費用をかけて十年はかかると言われているほどである。
しかも、そのミサイルが一発でも迎撃し損ねたら、致命的な打撃を大都会に与えるとなると、百発百中でなければならないというきわめて厳しい要求がなされてくる。
 このように途中で打ち落とすことは技術的にも、費用の点でもまた、その発射がどこに向かっているのか確定できないなどきわめて困難な問題を内蔵しているから、打ち落とすことができずに、日本に向かってきたミサイルを地上からミサイルを発射して打ち落とすというのが、もう一つの柱である。しかし、その地上から迎撃するミサイルが防御できる範囲は、そのミサイル発射装置を備えた付近のほぼ真下にミサイルが落下してくるときだけ撃ち落とせる可能性が高まるといった程度なのである。音速の十倍(秒速約三・四km)もの速さで落下してくるミサイルを横から迎撃することは極めて困難であり、落下してくる真下の狭い領域しか守ることはできない。
 それゆえに、軍事評論家によれば、確実に迎撃できる範囲は五㎞ほど、広く見積もってもせいぜい十㎞程度だという。
(週刊朝日二〇〇六年七月二八日号による)
 それゆえに、日本全土をカバーするためには、非常に高価なミサイルを何万台も購入して全国に配備せねばならないというが、そんなことはできるはずがないのである。
 このように、技術的にも費用の面でも非常な無理がある。
 さらに、ある国がミサイルを発射したとしてそれがどこに向かうのか、例えば、アメリカのグアム島の基地に向かっているのか判別できないときに、それが未知のままで撃ち落とすということになると、それは憲法が禁じている集団的自衛権を行使することにつながる。それによってアメリカと軍事的に一体化した国とみなされて戦争に巻き込まれていくことになる。
 また、以前の法律では、安全保障会議、閣議を経た上で首相が「防衛出動」を命令し、それによって迎撃ミサイルを発射するという手順であったが、北朝鮮からのミサイルを想定すると一〇分ほどで到達するからそれでは遅すぎるとされ、緊急の場合には、防衛庁長官が現場指揮官に迎撃するミサイルの発射を事前に命じておけるようになった。
 そしてこのような方向を押し進めていくと、そのうちにまだ発射していない段階から基地を攻撃するといったことまで想定されるようになるのではないか。それは戦争を開始するということにもつながっていく。
 また、技術的にも難問を抱えているものに莫大な経費を投入することは、軍事関連産業に巨額の利益を与え、そこに今回の防衛省の不正のような問題が入ってくる危険性も大きくなる。
 このようなさまざまの問題点を持っているミサイル防衛ということを押し進めることによって、ますます憲法九条の非戦・平和の精神から離れていく。そして日本とアメリカの軍事的一体化がすすめられ、アメリカがどこかの国と戦争を始めるとき、そこに軍事的に協力していく可能性が高まり、全体としてみるときテロの攻撃を受ける危険性も高まる。
 このような方向とは逆にそのような巨額の費用を軍備にあてるのでなく、アメリカとの軍事的な関係を弱めつつ、日本の国内も医療や格差の問題が深刻になっているのであるからそのような方に費用に充て、国際的にも、内乱、戦争、貧困や病気で苦しむ国々が多数あるのであって、そのような国々への福祉への協力を強く推進していくこと、そして絶えず平和的な話し合いを続け、それを前面に出していくこと、憲法九条の平和精神を固守していくならば、そのようなミサイル防衛よりもはるかに効果的な、平和的防衛システムとなるだろう。

 


リストボタン神は何を私たちに下さるのか

天地創造をされて今もすべてを愛と真実で支え、導いている神などいないと思っている人にとっては、神が私たちに何かよいものを下さるなどということは考えられないことである。そのようなものはなくて、逆に毎日の新聞やテレビなどのニュースで、いやなことばかり起きるから、この世はそのようなよくないものばかりが人間にふりかかってくるのでないか、と思う人も多いだろう。
しかし、神は存在していると信じることができる人でも、なかなか神はよいものを下さらないと思う人も多い。それどころか、苦しいこと、試練のようなことばかり次々と生じると感じる場合もある。
私たちの日常的な直感では、神はいったい何を与えようとしているのかと、疑問になったり分からなくなったりする。
だからこそ、私たちの一時的な感情や周囲の状況によらないで、物事を考えていくために聖書がある。
人間の考えや気持ち、あるいは感情はずいぶん大きく揺れ動く。あるときは、有頂天になるかと思えば、他のときには悔しさや怒りなどでいっぱいになる。ある時はやる気に満ちているのに別のときにはもう何もする気になれない、等々である。
このような人間の揺れ動いて止むことのない現実のためにこそ、決して変ることのない基準を与えて下さっている。それこそ、自分一個の感情や周囲の状況などに動かされない永遠の基準である。
そのような観点から、神は何を私たちに与えようとしておられるのかをきちんと知りたいと思う。
このことについては、聖書は実に多様な表現でさまざまのことが与えられると記している。与えるのが神の本質であるゆえに、聖書の冒頭から与えることが暗示されている。
天地創造のときには完全な暗黒であって限りなく深い闇で覆われていた。そのときに光あれ、との神の言葉によって光があった。と記されている。それもこの世の闇にもかかわらず、そのただ中で光を与えるという約束なのである。
神の言葉とは、確実であり、真実な言葉であるゆえに、このようにただ「光あれ!」というお言葉が出されたあとすぐに、光がその闇に存在するようになったのが分かる。
このように、聖書はその最初から、与えるということを前面に押し出して書かれた書物だと言えよう。
新約聖書においてこの「与える」ということがさらに大きく深くなってくる。

…わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
  (ローマの信徒への手紙八・32

ここで言われていることは、あまりに大きすぎて読む人の心にとどまることなく、素通りしてしまうのではないだろうか。神は私たちに御子とともにすべてのものを下さるとは一体どういうことなのか。すべてとは、身近なところから言えば、家、周りの人間や土地、山々、海や大河も小さい川も、お金、権力、健康や職業、家庭がうまくいくこと、健康、家庭などなど、限りなくある。
そんなものがみんないただけるということを言っているのであろうか。
そのようなことは考えられないのはすぐに分かる。
これは、山や川などの自然の持っている本質的なよさ、清さやその力、美といったもの、さらに人間同士の最善の友情、よき家庭の持つ人間同士の愛のある交流等々、そうしたこの世で味わうことのできるすべてのよいことの最上の部分が与えられるということを意味している。
人間同士でも、相手から何らかの深い真実をもって接する機会が与えられたら、相手の魂の最も大切な部分を与えられたという気持ちになる。
こうした目には見えない最上のものを与えられること、それをヨハネ福音書でも最初に述べている。

… わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。     (ヨハネ福音書一・16
ここで言われているのは、キリストの満ちあふれる豊かさのなかから恵みを十分に受けたということであり、キリストの豊かさとは神の豊かさそのものである。そして神の豊かさとは真実なもの清きもの、愛に満ちたものなどすべてを完全に備えた豊かさである。そのようなものの中から受けるならば、私たちはすべてのものを受けたと実感するであろう。
このような神の豊かさそのものを、聖書ではまた永遠の命と言っている。
ヨハネ福音書で次のよく引用される言葉がある。

…神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。     (ヨハネ三・16
また、その福音書の最後の部分でも次のように言われている。

…これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
       (ヨハネ二〇・31
このように、神は究極的に何を私たちに与えるかということは、実に明確に記されている。このような永遠に壊れることも奪われることも、また時代のいかなる状況においても変質することのない神の国の賜物を与えられるということを、信じるかどうかであり、信じるものには、この地上に生きているときにすでにそうした永遠の命の実感を与えて下さることが記されている。

「生きていて私を信じる者は、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ十一・26

決して死ぬことがないとは、いうまでもなく永遠の命を与えられるということである。肉体は病気や事故、あるいは殉教といったかたちで失われる。しかし、それにもかかわらず、その魂は永遠の命、すなわち神の命を与えられているゆえに、神のもとで生きるということが最終的に与えられることとして約束されている。

 


リストボタン聖書における讃美の重要性

聖書の世界において讃美は、奥深い重要性を持っている。それはすでに旧約聖書の出エジプト記にその源流をもって以来、今日まで三千年以上の歳月を通して、讃美は人々の心を流れ続けている。今日ラジオでもどこかでクラシック音楽は演奏されているが、そのクラシック音楽の根源にあるものはキリスト教の讃美と深くかかわっていることは、バッハやベートーベン、モーツァルトの音楽に接するとすぐに分かることである。
キリスト教や聖書の世界でなくとも、もちろん歌や音楽はどのような民族にもある。文字もないような原始的な生活をしている人々においても音楽は不可欠なものとなっている。音楽によって、喜び、苦しみや悲しみを表したり、彼らの崇拝する神々に礼拝を捧げたりするものとなっている。
そのような普遍的な重要性を持っている音楽と、聖書に見られる讃美との違いはどこにあるだろうか。
それは、聖書で最初に見られる讃美がすでにその特質を備えている。

… モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。

主に向かってわたしは歌おう。
主は大いなる威光を現し
馬と乗り手を海に投げ込まれた。
主はわたしの力、わたしの歌
主はわたしの救いとなってくださった。
この方こそわたしの神。
わたしは彼をたたえる。
わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。(出エジプト十五・12

これは、単に自分が嬉しいから歌ったのではない。この歌の中心に「主」があるのはただちに分かる。それはこの歌を歌わずにはいられないように働きかけたのは、神であり、その讃美の方向も「主に向かって」であり、悪の力によってまさに滅ぼされようとしていたときに、神の力によって救われたという最大の出来事のゆえに、感謝と喜びが自然にあふれ出したものがこの讃美の根本にある。神の大いなる力を実際に経験したところからくる事実をもとにした歌ということである。
普通の歌は、自分の感情で歌われる。また、何に向かって歌うのかというと自分の気晴らしとか、聞いてくれる人間に向かって歌うということになる。いろいろなところに作られているコーラスも、のど自慢大会、各地のホールや文化会館のような会場での歌は、まず自分が歌が好きだということ、そしてその歌を周囲の人間に聞いてほしいという願いがある。すなわちそこには常に人間の感情があり、人間に向かって歌われる。
しかし、聖書における讃美はこの讃美にあるように、「主に向かって」なのである。共に歌う場合も、みんなが神に向かう心をもって歌い、そのような気持ちになれない人をも共にそのような方向へとうながす目的を持っている。
そこには、歌の上手さによって人々の関心を自分に引きつけるということは目的とはなり得ない。歌とか演奏は多くの場合そうした演奏者や歌手に関心が集中していく。そしてその歌手とか演奏者が讃美され、栄誉を受ける。
しかし、聖書における讃美は決してそのようなものではない。
歌った人間や演奏者がほめたたえられることで終わってしまうなら、それは本来の聖書の讃美ではなくなってしまうのである。
歌うこと、演奏することもすべて、歌い手や演奏者とともに、それを聞いている人たちも神へのまなざしを強められ、神への思いを清められて、神への感謝と神からの恵みと祝福を実感させるようにするのが本来の聖書における讃美であり、キリスト教讃美である。
私たちは、人間の歌う歌とか演奏以外に、それよりはるかに壮大で重々しく、かつ深い演奏や音楽を知っている。
それは神ご自身がその直接の被造物を用いてなす演奏であり、歌声である。大波の音、樹木の無数の葉や木々から生み出される深い味わいをもった音楽がそれである。また、小鳥の澄みきった讃美である。また渓谷を流れる水の音、あるいは山々の木々を吹きわたる大風の音である。
こうした音楽は、まさに神ご自身が創造された自然を通して、神の持っておられる無限の力や美しさ、そして清さを人間に注ぐため、そしてそこから人間が神を讃美するためになされているのが分かる。
それと同様に、本当の讃美、演奏ほど私たちはその演奏者でなく、その背後の神へと心が引き寄せられ、その神を讃美するようにと導くのである。
もし私たちが、そのようにならずに、単にその歌い手とか演奏者に喝采をおくってしまうと、その当人たちも自分が何となくすばらしいのだと錯覚しかねないような状況に置くことになってしまうだろう。
聖書の讃美、キリスト教の讃美が、ほかの歌と根本的に異なるのは、すでに述べたように、その方向がはっきりと神に向かっているということ、神に動かされ、神に向かい、神を讃美し、神を喜びとするゆえの讃美であり、音楽なのである。
そしてその讃美の対象である神こそは、永遠であり、そこからあらゆる幸いが流れ出てくるお方である。
そのために、神に向かう讃美もまた、永遠であり、一時的な流行などを越えて人々の魂に働きかけるものとなる。すなわち、讃美自体が真理となり、神の言葉となっていくのである。ここに聖書の、そしてキリスト教讃美のほかのいかなる歌とは異なる特質がある。
讃美が神の言葉となる、そのようなことはふつうは考えられないことである。歌を歌うのは人間の楽しみ、娯楽であり、慰めだ、というのがふつうの受け止め方だからである。しかし、そうした人間の持ち物、人間の一つの文化といった狭い枠を越えて、神の言葉という永遠のものとなり、普遍的なものとなる。
聖書に収められている詩編とは、そうした意味のゆえに、人間のつくった讃美の詩でありながら、まさに神の言葉となったのである。何という驚くべきことであろう。
古来、詩は重要であり、それらの内重要なものが古典となって残されてきた。日本の古事記、日本書紀にもあちこちに詩が組み込まれているが、万葉集というかたちになって大きな詩集となった。中国にも三〇〇〇年ほども前の詩を集めた詩経というのがあり、またヨーロッパにはホメロスのイーリアス、オデュッセイアのような大詩集がある。
しかし、これらのものと旧約聖書の詩篇とを読み比べるとその根本的な違いがすぐに感じられる。それは聖書の詩集が人間の心の叫びや讃美でありながら、その背後に神の愛と神の正義の支配、万物を創造するの力等々をたたえており、それゆえにどんな苦しみにある人にも届く深いメッセージがたたえられているということである。
詩編は実際に歌われた聖書の讃美集である。その讃美集が神の言葉となっているというところに、讃美の究極のすがたがそこに示されているのである。
このようにすでに数千年も昔から、歌、音楽というものが、神に向けられ、神からの恵みと導きによって生まれるならば、それは神の言葉となるということのなかに、いかに聖書、キリスト教の讃美が重要であるかが分かる。
それは礼拝のプログラムの中での決まりで形式的に、あるいは補助的に付けられているのではない。それ自体が神の言葉を曲をつけて歌い、また祈り、感謝を表すことになるのである。
またそれはそのように重要なことであるから、最初の讃美が言葉だけで、口で歌う歌だけでなかったのは容易に想像できる。実際、次ぎのように記されている。

…女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。(出エジプト記十五・20

また、詩編の最後の第一五〇篇でも、詩編全体の締めくくりとなっている詩であるが、そこでも、次ぎのようにからだ全体で、また楽器をも用いての讃美がうながされている。

ハレルヤ。…
力強い御業のゆえに神を賛美せよ。大きな御力のゆえに神を賛美せよ。
角笛を吹いて神を賛美せよ。琴と竪琴を奏でて神を賛美せよ。
太鼓に合わせて踊りながら神を賛美せよ。弦をかき鳴らし笛を吹いて神を賛美せよ。
シンバルを鳴らし神を賛美せよ。シンバルを響かせて神を賛美せよ。
息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。

しかし、しばしば人はこのような讃美はできない、自分は苦しみとか悲しみのさなかにある。どうしてそんな讃美などできようか、という状況に置かれている人たちは多い。この詩編の最後は、人間が導かれる究極的な姿を指し示しているのである。聖書はつねにそうであって、現在の状況がだれでもこのように神への讃美と感謝で包まれるといったことは言っていないのである。現実は暗く、罪にまみれた世にあって自分もそのような中にのみこまれようとする状況にある。しかし、その闇に光あれ、との神のみ言葉が出され、光を受けるようになるとき、そしてその光をしっかりと保ってさらなる光と聖霊を求め続けていくとき、主はこうした讃美と感謝の世界へと導かれるということを示している。
それはたとえ地上でかなえられなくとも、この短い地上の生を終えるときには必ずそのようなところへと導いていってくださる。
それは悪の支配するローマの迫害時代にあって、苦しみのさなかに、天の国において大いなる讃美の世界が開かれていることを黙示録は記しているがそれはこうした究極的に与えられることが暗示されているのである。
また声も出ない、歌えないという状況にある人も多い。病気、あるいは聴覚の障害などであっても、心のなかでこうした讃美をすることはできるし、またそのような讃美を聞くことで、私たちの心はともに讃美する心へと引き上げられることも多い。
詩編はそうした苦しみ、悪の力の支配のただなかで救いを求める魂の叫びは随所にある。キリスト教讃美というのは、そのように苦しみの中からの叫びや嘆きをも含んだ総体なのである。それゆえに、単に楽しいから讃美するというのでなく、苦しみのときも、孤独のときも、また主イエスがそうであったように、十字架上にあって死に瀕するときの叫びにも詩編の言葉がそのまま出されたように、いかなるときにも聖書の讃美はともにあることのできる深い内容をたたえている。
こうした苦しみのさなかにこそ、讃美は力を発揮するということはパウロの伝道について記した使徒言行録でも示されている。パウロたちはキリストの福音を語ったために、憎まれ、捕らわれ、役人たちに服をはぎ取られ、何度も鞭打たれた。当時の鞭打ちは、その先に金属片などを付けたりして何度も鞭打たれた者は意識を失ってしまうこともあるほどであった厳しいものであった。そして牢に投げ込まれた。パウロたちは、全身傷だらけとなり、痛みと苦しみでまっ暗で不潔な牢のなかにあって、その上彼らは、一番奥の牢に入れられ、足には足かせを付けられていたのである。
こんな状況に置かれたら、ふつうなら今後のことを思ったら暗澹たる思いになったであろう。 しかし、驚くべきことに、彼らの心は打ちひしがれず、かえって神への真剣な祈りを込めた讃美を歌った。このような時の賛美は楽しいから歌うなどといったものではあり得ず、まさに祈りであり、叫びであった。

… 真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。
突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。 (使徒言行録十六・25

これは、讃美の力がいかに大きいかを示すものである。牢の土台が揺れ動くとか牢の戸が開いた、鎖が外れたというのは普通ではあり得ないような力がそこに働いたということである。これは、闇の力のただ中にあっても、それでもなお神に向かって祈り讃美することがいかに神の力を注がれることになるかを示すものである。二人三人主の名によって集まるときに、私はそこにいる、と主は約束されたように、たしかにこのまっ暗な奥深い牢獄にあっても、主の名によってパウロとシラスという二人が心を合わせて祈り、讃美するときに主はそこにおられ、その力を現されたのであった。
そしてこのことは現代も私たちに与えられることである。喜びのときだけでなく、苦しみのとき、闇の力に閉じ込められたようなときであってもなお、祈りと讃美を主に捧げるとき、そこに主の力は働くのである。
そして、詩編の最後に記されているような感謝へと導かれることを信じることができるのである。

 

 


リストボタンことば

277)美は私たちの周囲の至るところにある。それなのに、多くの人はそれに盲目である。地上の驚異を目の前にしながら、なんと多くの者は見ようとしないのか !
人々は熱病にかかったように動き回っているが、どこに向かって進んでいるのかを考えない。
絶望に打ちひしがれた魂のように、刺激のために刺激を求める。
世の中にある自然で穏やかで素朴なものに喜びを感じない。(「パブロ・カザルス 喜びと悲しみ」朝日新聞社刊 268頁)

・私たちの周囲にある樹木や野草たち、それらの一つ一つを静かに観察するときには、その精密な造り、一つ一つの独自の形や色合いなどに驚かされる。それは万能と完全な英知である神の御手がそこにあるからである。
・カザルスは、一八七六年スペインのカタロニア地方生れの音楽家。二〇世紀最大のチェリストと言われている。彼はとくに福音書にあるキリスト降誕の記述には深い意味を示されていた。そのため、後になって平和のための活動を音楽によってしようと決意したときに、つねに携えていたのが、「馬ぶね」(*)というオラトリオであった。かれは、キリストの降誕の聖書の記述には、命と人間への畏敬があり、美と愛に満ちているといい、命の最も崇高な表現だとしている。それはマリアと幼児イエスは新たな命の創造を象徴しているし、羊飼いは一般の労働者を意味し、平和の君(王)が王宮でなく、馬小屋で誕生したことには、深い意味があると彼は語っている。
*)馬ぶねとは、馬槽とも書く。飼い葉桶ともいう。これは家畜の飼料入れのこと。イエスが生れたときには家畜の飼料入れの中で生れたと聖書に記されている。

278)何がわたしの働きを始めさせたのでしょうか。
なにが私に霊感を与え、この長い年月を続けさせたのでしょうか。
それはイエスです。
私たちは、それをイエスのためにします。私はイエスをその言葉のとおりに受け入れます。
イエスは決して私を失望させることはないのです。
      (マザー・テレサ)
What made me start my work,what inspired me and kept me going during so many years ? Jesus.
I take Jesus at His word and He never let me down.
MOTHER TERESATHE JOY IN LOVING 309頁 九月九日の項)
279) あらゆる人が真理に従って永遠の命に至るように呼ばれている。しかし、真理をより深く知ることはすべての人にできるわけではない。
そのために何が必要か。そのためには誠実に祈り求めることであり、聖書にいう「開かれた眼と耳」である。さらに、それ以上のことになると、神を愛すること以外に、ほんらい何物も必要ではない。
そうすれば、すべてそれ以上のことは、実際おのずからその結果としてやってくる。
なぜなら、この愛の霊は、ふだん見えない一切のものを、人間に教えるからである。
(ヒルティ著「幸福論」第三部204 206より)
・これは、「聖なる霊があなた方にすべてのことを教える」(ヨハネ十六・13など)という主イエスの言葉をヒルティが説明的に言い換えたものである。私たちが神への愛を深めるとき、聖なる霊が与えられ、私たちの生きるべき道も、気付かなかった罪も、またその赦しを与えてくださる主の愛の深さも、日常の生活のなかで出会うささやかなものに込められた神の愛、さらにこの世の政治や社会問題の根源にある解決への道、未来になにが与えられるのか…等々、私たちの直面するあらゆる問題の本質が見えてくるといわれている。

 


リストボタン休憩室

○明けの明星は、「いのちの水」や集会だよりなどでも何度か紹介してきました。 今も早朝の五時ころから六時半ころによく見える金星を見た、とか、毎日のように見ている、といわれる方々がいます。また、火星は夕方七時ころにはもう東の空にその赤い輝きを強く見せており、夜一〇時ころには頭上にはっきりと見えますから誰でもが見付けることができます。
やや南に見える恒星で最も強く輝くシリウスやオリオン座の星々、火星より少し北よりに輝く御者座の一等星カペラ、また火星に続いて上がってくる双子座のポルックスとカストルという明るい星たち、今頃の冬の夜空は、澄みきった夜空に、真珠を散りばめたように輝く情景が毎夜繰り返されています。

 


リストボタンお知らせと報告

○今年の無教会 全国集会は、徳島市 センチュリープラザホテルにて、五月一〇日(土)午前一〇時~五月一一日午後四時までを予定しています。
何よりも、主ご自身が働いて下さる神の言葉(聖書)とキリスト中心の集まりとなるようにと願っています。

○キャロリング
十二月二十四日(月)の夜 七時~八時三十分のキャロリングは、いつものように午後六時半に集会場に集合し、少し練習したのち、七時ころ出発し、八時半ころまで、集会場周辺の商店や書店、個人の家の前、住宅街などを所々で讃美して歩きました。このような一般の通行人や見知らぬ家の前での讃美によって主がキリストにかかわる何かを伝えて下さることを願っています。
また、このキャロリングにだけ参加する人もいて、それが唯一私たちのキリスト集会との関わりであるので、そのような方が一層、讃美を通して神とキリストに近づいていただきたいと願っています。参加者十七名。

○クリスマス特別集会
十二月二十三日(日)午前十時~午後二時。次のようなプログラムで行なわれました。 参加者七十八名。(子供を含む)
①子供と共に 貝出、月岡(多)、中川(陽)の姉妹方による人形劇。いのちのさと作業所の知的障害者の方々や、そこに働く人たちによる讃美。
②クリスマス特別講話 「クリスマスと神の愛」吉村 孝雄
③讃美のひととき
・高瀬兄によるオルガン演奏
・綱野(悦)、数度(春)、中川(陽)さんたちによるギターを用いた讃美。なお、中川さん以外の三名は視覚障害者(全盲)です。
・手話讃美 十人余りによる。
④感話など (八名による)
⑤食事と交流のとき
イースターとともにこのクリスマス特別集会には、いつもの主日礼拝には参加されない方々も多く見えて、それが神と主イエスとのつながりを保つことにもなっています。またいろいろな事情でふだんは来れない方々もこの特別集会には参加される方もあるので、同じキリストにつながる者としての交流が保たれる機会ともなっています。

 


リストボタン編集だより

来信より
○…メモしていただいた使い方に従ってなんとかCD、USBメモリも聞けるところへこぎつけました。
技術の進歩と申しますかどうか、あんな小さい物(USBフラッシュメモリ)に多数の曲が入るとは、私には考えが及びません。ただただ感心しています。 (中国地方の方)
・この方は、以前の「いのちの水」誌の十二月号で、MP3対応 CDラジカセを購入して、私どものキリスト集会でのMP3版 ヨハネ福音書聖書講話 を購入された方です。USBメモリに、私たちの集会のときに録音した讃美を入れてお届けしたのです。 二五六MBのUSBフラッシュメモリには、主日礼拝や家庭集会のときに讃美しているそのままの録音が、一三〇曲ほど入ります。健康上の理由とかで自宅療養している方とか、教会や集会に参加できない方々に、より多くの讃美をともに歌って覚えたり、新たな紹介したりする目的で録音し、それをUSBフラッシュメモリとかSDカードに入れてこのMP3対応 CDラジカセを購入された方々にお届けしています。
 私が紹介していますMP3対応 CDラジカセには、USBフラッシュメモリを挿入するスロットがあり、USBメモリを使えること、またカードリーダを用いれば、SDカードも使えるからです。
 その後も、MP3対応のCDラジカセを購入希望される方が何人かありました。若い人たちにはMP3といったらたいていの人が知っている時代になっていますが、中高年の方々には多くの人たちにとって聞いたこともないと言われる方が多いのですが、慣れたら何でもないので、最寄りの大型電器店に行ける人は行って調べてみるとよいと思います。
(なお、そのような電気店がない方々のために、私の方からお送りもできるようにしています。)

○「私も次第に耳が遠くなってきました、最近不自由を覚えるようになっております。二人で向かい合って話すときはよくわかりますが、テーブルを囲んで多くの方々と話すときには、聞き取りにくくて不自由を覚えています。また主日礼拝の説教を聞き取りにくくなってきました。補聴器は多く出回っているけれど、相当高額を出さないと満足できるものはないと聞かされて、あきらめかけていたところでしたので、大変嬉しいニュースでした。」(近畿地方の方)
 前月号で紹介した集音器(価格は税送料共で一万円)の方も何人かの方々から新たに申込がありました。聞こえにくいことの悩みは健聴者にはたいていの場合理解されないのです。このように、数十万円もする高価なものでないとだめだと言われますと、あきらめるか、それとも貯えたお金で買うかということになりますが、簡単には購入を決め難い方も多いかと思います。関心のある方は電話または、FAX、手紙、メールなどで吉村(孝)まで、問い合わせください。

 


リストボタン徳島聖書キリスト集会案内

・場所は、徳島市南田宮一丁目一の47 徳島市バス東田宮下車徒歩四分。
(一)主日礼拝 毎日曜午前十時30分~(二)夕拝 毎火曜夜七時30分から。 毎月最後の火曜日の夕拝は移動夕拝で場所が変わります。(場所は、徳島市国府町いのちのさと作業所、吉野川市鴨島町の中川宅、板野郡藍住町の奥住宅、徳島市城南町の熊井宅)です。
☆その他、読書会が毎月第三日曜日午後一時半より、土曜日の午後二時からの手話と植物、聖書の会、水曜日午後一時からの集会が集会場にて。また家庭集会は、板野郡北島町の戸川宅(毎週月曜日午後一時よりと第一、三を除く水曜日夜七時三十分よりの二回)、海部郡海陽町の讃美堂・数度宅 第二火曜日午前十時より)、徳島市国府町(毎月第一、第三木曜日午後七時三十分より「いのちのさと」作業所)、板野郡藍住町の美容サロン・ルカ(笠原宅)、徳島市応神町の天宝堂(綱野宅)、徳島市庄町の鈴木ハリ治療院などで行われています。また祈祷会が月二回あり、毎月一度、徳島大学病院8階個室での集まりもあります。問い合わせは次へ。
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著者・発行人 吉村孝雄 〒七七三ー〇〇一五 小松島市中田町字西山九一の一四 電話 050-1376-3017 「いのちの水」協力費 一年 五百円(但し負担随意) 
郵便振替口座 〇一六三〇ー五ー五五九〇四 加入者名 徳島聖書キリスト集会 協力費は、郵便振替口座か定額小為替、または普通為替で編集者あてに送って下さい。
(これらは、いずれも郵便局で扱っています。)  
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