聖霊の導きのもとに祈りなさい。
神の愛によって自分を守りなさい。


(ユダの手紙2021より)



20088月 第570号・内容・もくじ

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リストボタン平和の憲法

リストボタン松風の奏でる讃美 

 リストボタン永遠の命

 リストボタン無教会全国集会での証し(その2)

 リストボタン北海道・瀬棚の聖書集会と神の導き

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今年の夏は毎年の高校野球だけでなく、オリンピックがあったため、ニュースでもいつもそうしたスポーツ番組ばかりのような気がするほどであった。
そこでは、勝つ、負けるという言葉が何と多く使われていることだろうか。
新聞やテレビなどでは連日大々的に報道され、世界の最大の出来事のように扱われる。
しかし、この世では大騒ぎするが、神の国ではこのようなことは全く問題にならないだろう。
なぜなら、たった一人の人間が、それまでの生き方が間違っていたことを知り、悔い改めて神へと心を向け変えること、それは天で大きな喜びがある、と言われているからである。
神の国での大いなる喜びは、ひそやかに、また人知れずなされたことに対してなのである。
この世の目に見える出来事でなく、主によって喜べ、としばしば言われている。
スポーツなどで勝つこと、負けることなどは大した問題でない。あと一か月も経てば人々はまた別のニュースに関心を向けるだろう。あれほどの大々的報道はどこにいったのかと思われるほどになる。― 夏草や つわものどもが 夢のあと― といった状況になる。
新約聖書の世界でも、スポーツの世界で使う表現が出てくることがある。

… あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけだ。あなたがたも賞を得るように走りなさい。(Ⅰコリント九・24

特定の場所が競技場なのでなく、この世界全体がその場なのである。賞を受けるのはただ一人だと言っているからといってそれなら自分は与えられないだろうと考える必要はない。
いつの時代においても、神の国を目指して走っている人はごく少数という状況だからである。ダンテが神曲の煉獄篇第十歌で象徴的に描いたように、神の国を目指す人は砂漠のなかを歩くかのように、人が見当たらないほどなのである。
主イエスも、「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。またそれを見出すものは少ない。」と言われた。
しかし、神の御手によってその門を知らされ、神の国への道にと導かれるとき、その細い道、歩く人が少ない道を走ると、だれにでも賞は与えられる。
それは、放蕩息子のようにただ心から悔い改めて、神へ心を向け変えるだけで、あたかも一番をとったように、神は喜んで迎えてくれるからである。まさに、ただ一人に与えられる賞を得たかのように父のほうから走り寄って迎えてくれる。(ルカ福音書十五・1924
そのような賞は永遠に朽ちることのない天国の金メダルである。
競争する者はいない、金も組織もいらない。長い間の苦しい練習も不要である。怪我や年齢が増したり、あるいは敗北を喫したり大きな失敗をしたとたんに見放されるこの世のスポーツの世界とちがって、また心から立ち返るならば、どんな大きな失敗や間違いがあっても、まっすぐ走ったと同じように、目には見えない「永遠のいのち」という賜物が与えられるのである。

 


リストボタン平和の憲法

私たちに与えられている憲法第九条の非戦の精神は、戦後はじめて与えられたものである。
そしてこれは一般の社会問題や政治問題と異なって、聖書の真理に直接に根ざす精神であるゆえにキリスト者としてこの憲法がぜひとも守られねばならないと考える。
この憲法が生まれたのは六〇年余り前のことであるが、神の国においてははるか二〇〇〇年前から、平和主義は神の国の《憲法》として定まっていた。主イエスが、明確に「剣をもってするものは剣によって滅ぶ」、「あなたに敵対するものを愛し、迫害するもののために祈れ」と示されたのは、いわば神の国の平和憲法といえよう。
そして、「私の平和をあなた方に与える」という約束もまた平和に関する神の国の憲法なのである。真の平和は、神から与えられるものなのである。
キリストの平和、それは神が持っておられる神の国の平和であり、罪ゆるされた平安、清さ、愛、力などあらゆるよきものをたたえたものである。そのような比類のない価値をもつものを、ただ主イエスを信じるだけで与えられるという約束であり、これは千年たっても二千年経っても変ることがない。
また、九条では、武力による戦争を否定した。しかし、これは目に見える戦争のことである。
私たちは目には見えない霊的な力、闇の力との戦いは決して放棄してはならないのである。そして、目に見える軍備でなく、目には見えない神の武力を与えられて、それをもって戦うようにと導かれている。(新約聖書・エペソ書六・1020
私たちに与えられた武力とは、永遠の真理であり、キリストの十字架によって罪ゆるされたという確信であり、また福音、すなわち神の言葉をつねに前面に出していくことであり、聖なる霊によってうながされる祈りである。それは放棄するどころか、日々求め、身につけておらねばならない。
私たちは、九条という条文としての平和憲法だけを見つめることに終わることなく、この憲法の精神のさらに奥にある主の平和を見つめ、神の国の平和を与えられ、霊的な戦いをつねに戦うものとして歩みたいと思う。

 


リストボタン松風の奏でる讃美

子供のころから、私は家の周囲にある松の葉に風が吹きわたるときの音に心惹かれていた。 そして私の通った小学校の前には、大きな神社に至るながい道があり、その両側に当時は県下でもおそらく随一であったと思われる松の巨木のつらなる道があった。
なかでも、最大のものは、はるか天を指してそびえるがごとくにやや斜めに立っていた。何百年経った木であったろう。帰るたびにその木を見上げて何か堂々としたもの、動かしがたい力のようなものを感じたものであった。
大木は幾百年の風雨に耐え、無数の人々を見下ろしてきたもの、またその成長の長い歳月のなかで、通りかかる人々から見つめられ、その愛を受けてきたもの、大きくなるにつれて畏敬の念をもって見つめられたであろう。
そのように、松の巨木、大木は見る人々の心をどこか落ち着けるようなはたらきを持っていた。それだけではない。その松に風が強く吹くときには、静かにしかし重みある響きが流れ始める。それは何にも代えがたい音色であり、その格調の高さは、どんな人間の奏でる音楽も及ばない深さをたたえている。
そのゆえに、松風の音は古来多くのひとたちに愛されてきた。万葉集にも次のような歌が収められている。

一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 声の清めるは年深みかも── 市原王〔万葉集 巻六・1042

松の古木があった。そこに風吹くときには独特の音楽が生じているが、それはまた清さをたたえていた。その松が生きてきた幾百年という長い歳月によって清められた音を出すようになったのだろうという感慨がここにある。

また、今から八〇〇年ちかく前に書かれたという「平家物語」にも、栄華を極めた平清盛の造った建物も荒れ果て、ただ、そこに響くのは松風だけだ、という光景が記されている。

…今はなき清盛が造ったいろいろの建物を見ると、それらは、どれもこれもここ三年ほどの間に荒れ果てて、年を経た苔が道をふさぎ、咲き乱れる秋草が門を閉じるばかり。 瓦にははやくもシダが生えて、垣根には蔦(つた)が繁っている。
高い建物は傾き、苔むして、通うものはただ松風ばかりである。
また、宮殿のすだれも落ちて寝所もあらわとなり、射し入るものはただ、月の光だけである。…(「平家物語」 巻第七より」)

このように権力をきわめた者もはかなく滅びさり、そのはかなさを知っているかのように、そしてそのような時間とともに消えていくことのない、永遠の音楽を松風は奏でている。
こうした古くからの文書だけでなく、現代の民衆の歌謡にも取り入れられたのがあり、この歌「古城」はふさわしい歌手(三橋美智也)を得て、そのメロディーとよく合っているために広く歌われた。

松風さわぐ丘の上
古城よ独り何偲ぶ
栄華の夢を胸に追い
ああ 仰げばわびし天守閣

この歌のレコードは、一九五九年というまだレコードを買う余裕のある人は少なかった時代にあって、三〇〇万枚も売れたという。この歌によって私も子供時代から、松風さわぐ丘の上…という歌詞が忘れられないものとなった。この歌は、「わびし」とか「哀れを誘う」とあり、この歌の最後に「 空ゆく雁の声悲し」というように、哀しみをたたえた歌であって、平家物語にも流れているはかなさへの感情が満ちている。
この「古城」という歌は、それが生まれるよりずっと以前に、日本の代表的な歌として知られる次の歌(荒城の月)によって影響を受けたのが感じられる。

3
、いま荒城の夜半の月
変わらぬ光たがためぞ
垣に残るは唯(ただ)かづら
松に歌うはただ嵐

4
、天上影はかわらねど
栄枯は移る世の姿
うつさんとてか今もなお
ああ荒城の夜半の月

ここには、荒れた昔の城跡にあって、すべては移り変わり滅びていくことを思いつつ、そのなかで三節に「変わらぬ光」があること、そして四節の歌詞にも、「天上の影(光)は変わらない」
*ことが歌われている。

*)古語においては「影」という言葉は、現代の意味とは異なって「光」を意味する。讃美歌三五五番にも「うるわし慕わし とこ世のくに。うららに恵みの日影照れば、命の木の実はみのりしげく…」とあるが、この「日影」も同様で、日の光という意味。

滝廉太郎はキリスト者であったことは、最近になって彼の所属していた教会から資料が見出されたことから確証されているが、わずか二十三歳で召された若い作曲家がキリスト者となった二十一歳のころに作曲されたのが荒城の月であった。また作詞者の土井晩翆も三〇歳のときであった。そして土井自身はキリスト者でなかったが、その夫人は熱心なキリスト者であったから、この荒城の月の歌詞にも、キリスト教の永遠の光が反映されているのがうかがえる。
滝廉太郎も、この荒城の月は彼がキリスト者となったころに作曲したのであり、その歌詞に彼自身の信仰を重ね合わせて「変ることなき光、天上の光」を見つめて作曲したと考えられる。
三節の歌詞にも、変わらぬ光の存在が歌われ、そして最後の歌詞は、この世の栄えはすべて移り変わるが、天の光は変わらぬことを指し示すかのように、夜半の月の光が射しているということであり、この荒城の月という有名な歌は、荒れ果てた城のはかなさだけが内容なのでなく、それ以上にその荒れた城に射してくる月の光が、永遠に変ることなき天の光を指し示している、ということを内容として持っているのである。
そしてその光を引き立たせるのが、三節の最後の行にある、「松に歌うはただ嵐」という言葉でみられる、松風の音なのである。
このように、キリスト教の影響のもとで造られた荒城の月には、はっきりと永遠が指し示されているのに対し、この曲の現代版である「古城」という曲にはそのような永遠を示す言葉が全くないという大きな違いが見られる。
そのいずれの曲も日本のひとたちは広く愛好したが、荒城の月の歌を歌うときに、果たしてどれほどの人が、その曲の中に暗示されているキリストの永遠の光に気付いていたであろう。
今も、次々と荒れて滅びていく人間の世界がある。しかし、そこにつねに月の光、星の光が射している。人々に天上の光は変わらないということを指し示すために。

内村鑑三は、福音を受ける開かれた魂は、都会の闇の力がはびこるところでなく、神の創造のまま、すなわち神のご意志をそのままに現している自然の風物の満ちた田舎の人々であると述べる。

…福音はこれを村落に伝えよ、松風、梢に楽を奏し、渓流、岩に瀑布を垂るるところに伝えよ。人は天然とともにおり、天然のごとくに正直にして純朴なるところに伝えよ。
聖書はこれを神学者に学ばんよりはむしろ野の百合花と空の鳥とに習えよ。(「聖書之研究」一九〇六年四月)

このように、内村は村のひとたちへの伝道を強く勧めている。 ここで内村が自然の満ちた田舎を取り上げるときに、第一にあげているのが、「松風、梢に楽を奏し」とあるように、彼もまた、特に松風の奏でる音楽に心を惹かれていたのがうかがえる。
ふつうの木々を吹く風の音と松風の音とは霊的な力が異なる。松の細く固い無数の葉がふれあって生み出されるゆえに、深みや重さ、そして清さに満ちた音楽を生み出すのであろう。それは、ほかの樹木を風が吹くときとは大きく異なっている。しかし、残念なことに最近ではそのような大きな松の木々が多く失われてしまった。
讃美歌の詩は大多数が英米の詩の翻訳であるから、それらには松風の音も出てこない。しかしこの松風の音は、日本人の作詩になる讃美歌のなかには残されていて、今も愛唱されている。

1 山路超えて ひとり行けど
 主の手にすがれる身は安けし

2 松の嵐 谷のながれ
 み使いの歌もかくやありなん
(讃美歌四〇四、讃美歌21-四六六、新聖歌五〇七)

これは 松山市で長く松山夜学校の校長をしていた、西村清雄(すがお)が、一九〇三年に作詩したもの。彼が、三〇歳を超えたころ、愛媛県南部の宇和島地方の教会の伝道を応援した帰りに一人で何十キロもある道のりを山を越えて歩いて帰ったときに偶発的に生まれた詩であった。当時はまだ鉄道が開通していなかったために、長距離を歩いて帰ることになった。そのような長い徒歩の旅の苦しみを用いて神はこの讃美の歌を生み出すことに用いられた。 これは西村の友人の「讃美歌」編集委員によって採用されて今日まで一〇〇年を越えて愛唱されている。(「讃美歌略解」「讃美歌21略解」などによる。)
そしてここにも、内村と同様に、松風の音(松の嵐とは、松風を強調した表現)と谷の流れの音が、山々の自然の音として代表的なものとして取り上げられている。
キリストの福音はこのように、日本の風土に特徴的な松とそこに吹きわたる風の音が生み出す音楽にも浸透していったように、個々の人間の多種多様な魂のうちに、また世界のさまざまの民族の、どのような状況のところにも、流れていってそこでその真理を証ししていくのである。

 


リストボタン永遠の命

旧約聖書における永遠の命

人間と動物との根本的な違いは、次の聖書の言葉にもあるように、永遠的なものを感じ、それを思い、それを求めるということである。

…神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。
(旧約聖書・コヘレト 三・11

人間は死んでも何かが残るといった目に見えない霊的な存在があるのではないかという漠然とした信仰のようなものは、約二〇万年前に現れてその後絶滅したネアンデルタール人(*)すら持っていたのではないかと考えられている。ネアンデルタール人は、遺体を屈葬の形で埋葬していたとか、花粉が残されていたことから花を副葬品としていたことが想定されている。屈葬というのは、墓穴を掘る労力の節約といった実際的な理由だけでなく、胎児の姿を真似ることによる再生を祈る、あるいは死者の霊が生者へ災いを及ぼすのを防ぐためといったことも考えられており、人間の死後もなにか霊的なものが残るという信仰のようなものがあったのがうかがわれる。

*)現生人類であるホモ・サピエンス(Homo sapiens)の最も近い近縁種とされている。二万数千年前に絶滅した。

人間と永遠との結びつき、このことは、聖書の最初の部分にも暗示されている。

… 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。(創世記一・27

最も永遠的なものとは神である。それゆえに神にかたどって創造された人間にも神の本質である永遠的なものに似た部分がある。本来人間はそうした永遠的なものに似せて創造されているのである。
また創世記の冒頭にあり、聖書そのものの最初の記事ともなっているのは、天地創造の最初は闇と混沌であったということであるが、闇と混沌の状況では永遠的なものは何も感じられないだろう。私たちが現実の生活のなかで、恐ろしい病気になったり家族の病気や事件、事故、仕事の深刻な行き詰まりなどの闇と混沌にあっては、自然のままの人間はいっそう永遠的なものなどに心が向かないであろう。目先のことの処理、対応に追われてしまうからである。
しかし、そのような中にあっても、神が光を与えようとすれば直ちに光が存在しはじめる。ここで神が創造した光とは、神の光であり、聖書のなかで初めての永遠にかかわる記述である。というより聖書は最初から意外な書き方で永遠の力強さを示しているのである。
私自身も闇と混沌にあったとき、まったく永遠など考えることもなく、友人たちも誰一人そんなことを話題にするものはなかった。目先のベトナム戦争や政治、学内問題や自分自身の将来の問題など、すべて狭い範囲のことばかりが念頭にあった。
しかし、そんな中にも神は私の心に、突然、光が差し込むように恵みを与えて下さった。その光は確かに闇を破り、混沌を秩序に変えてくれた。そして数知れない現実の不可解な出来事にもかかわらず、全ては神の国へと配置されているのだということが信じられるようになった。
私たちのふつう使っている言葉では、光と命はことなるものと受け取ることが多い。しかし、聖書では、このふたつが深く結びついていることを示している。それは次に示すように、新約聖書に示されているが、創世記の冒頭の記述ははるか後の新約聖書の記述を暗示するもの、あるいは預言するものとなっているのである。
この光はたしかに永遠であり、いのちそのものであるということは、新約のとくにヨハネ福音書にはっきりと記されている。

…この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
(ヨハネ一・4
…イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ八・12

旧約聖書では、人の死については大抵「死んで葬られた」とある。死後の命については明確な記述はなかった。
それでも、肉体が死んでそれですべてが終りとはならない、ということ、言い換えると天に帰ること、天とは永遠の国であるから、永遠の命ということが、暗示されているところがある。
それは、すでに述べたように、創世記のなかの闇と混沌の中に差し込む光ということで、死という闇と混沌が克服されることが示されていると言えるし、さらに、エデンの園にも命の木があっていつまででも生きることが暗示されている。
とはいえ、この命の木については不思議なほど、旧約聖書の長い内容のなかでも全くといってよいほど触れられていない。それははるかな新約聖書の時代、キリストの時代を暗示するものとなっている。
また、ほかのすべての人がいかに長寿であれ、すべて死んでいったと記されているただなかで、ある一人の人物エノクだけは、神とともに歩んで、神がとられたからいなくなったという表現で天に帰ったことが示されているし、かなり後の時代ではあるが、預言者エリヤという人も、死ぬことなく、神のもとに帰ったということが記されている。
これらは、後のキリストの時代にあきらかにされる、復活ということ、殺されてもキリストのように復活して天に帰るという真理が、預言として、また暗夜にきらめく閃光のように記されている。

そうした一瞬の光のようなものが、時代が後になっていくにつれてより明確に示されていく。
主イエスよりも七百年ほども昔のイザヤ書においてすでにこの世で終りとはならない、永遠の命というべきものが与えられることが示されていた。
そしてイエスの時代に近づくにつれて詩編、ヨブ記、ダニエル書などで復活ということが少しではあるが記されるようになり、滅びない命ということが一部に啓示されていった。

旧約聖書の詩編には、永遠の命に何らかの点でかかわることはどのように記されているであろうか。

…陰府に置かれた羊の群れ
死が彼らを飼う。…
誇り高かったその姿を陰府がむしばむ。
しかし、神はわたしの魂を贖い
陰府の手から取り上げてくださる。(詩編四九・1516

ここでは、すべての人間を死の力が踏みつけていくが、神は私の魂をどのような理由によってかは分からないが、他の多くの魂と別に、死の力から救い出して下さったという深い感謝の思いが記されている。
また、正しい人が受ける苦難についての長編詩であるヨブ記にも次のように、死の世界から救い出す力を部分的ではあっても知らされているのがうかがえる。

わたしは知っている。
わたしをあがなう者は生きておられる、
後の日に彼は必ず地の上に立たれる。(ヨブ記十九・25

この箇所はヨブ記のなかでも、とくにキリストの復活を暗示、預言しているとして受け取られてきた。夜の眠れない病気の恐ろしい苦しみ、財産を失った打撃、家族からも捨てられた悲しみ等々あらゆる苦しみがふりかかってきたヨブにはこの世ではもうあらゆる希望が失われたと思われた。しかしそのような闇と混沌の中にも、それだけでは終わらない永遠的なものが存在し、このような絶望的な者をもすくい取って下さるお方が来られるのだという光を与えられたのであった。

… あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく
あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
命の道を教えてくださいます。
わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い
右の御手から永遠の喜びをいただきます。(詩編十六・1011

復活ということがまだほとんど示されていなかった旧約聖書の時代にも、このようにとくに霊的な啓示を与えられた詩の作者は、永遠のいのちに通じるものを示されていて、それゆえに喜びは永遠であり、地上のさまざまの困難をも越えて喜びを与えるものだという証言となっている。

マカバイ書とは、キリストの誕生より百数十年前に書かれた書物で、ユダヤ人を激しく迫害した異教の支配者アンティオコス・エピファネス四世に対してあくまで信仰を守り続けたひとたちの記録であり、とくにその指導者となって命をかけて戦ったユダ・マカバイと言われる人の行動を中心として記されている。
復活のことがはっきりと出ているのは、第二マカバイ記である。 支配者の命令に従わないものたちは、苦しめられ最後は殺されていった。そのとき、息を引き取る寸前にある者は言った。
「邪悪な者よ、あなたは私をこの世から我々の命をこの世から消し去ろうとしているが、世界の王は律法のため死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせて下さるのだ。」(Ⅱマカバイ記七・9

バビロンへ捕虜として連れて行かれたユダヤ人たちは、エレミヤが預言していたように、半世紀を経て帰ってくることができたが、そのときもいろいろな困難がすでに住んでいたひとたちとともに生じた。
しかし、それから後の数百年の間で最も厳しい迫害は、このマカバイ記に記されている迫害であった。そのように歴史のなかでもとりわけ迫害の厳しかった時代に、復活ということが最も明確に啓示されたのであった。
それは、このマカバイ記の内容と同時代のことが記されている、旧約聖書のダニエル書でも同様である。

…しかし、その時には救われるであろう
お前の民、あの書に記された人々は。
多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。
ある者は永遠の生命に入り
ある者は永久に続く恥の的となる。
目覚めた人々は大空の光のように輝き
多くの者の救いとなった人々は
とこしえに星と輝く。(ダニエル書十二・13より)

世の終わりのとき、メシアが現れるときにはすでに死んだ者たちも復活する。そして永遠の命に入ることが啓示として記されている。どのような病気や事故、あるいは迫害によって死んだ人であっても、復活のときには、輝かしい星のように永遠の存在と変えられるという明確な希望をダニエル書の著者は受けたのであった。
復活という最も重要な真理は、民族の存亡の危機と言えるような迫害のもとで、最も明らかに啓示された。それは、使徒パウロも、死ぬかと思われるほどの苦難に直面して復活への信仰が強く浮かびあがってきたと書いている。

…兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。
わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。
神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。(Ⅱコリント一・810

多くの詩編がぎりぎりのところまで追い詰められたときの叫びや祈りが根底にあり、そこから神の助けを全身全霊をもって祈り願うということ、その結果神からの現実の助けが与えられ、救われていくという魂の歩みが多く記されている。詩編とはそういう意味では、すべての頼っていたものが失われたときに与えられた神の助けを感謝をもって記しているのがとても多いのであって、人間はそうした困難に直面しなければ本当の真理は体得できないようになっているのであろう。

このような復活への希望、永遠の命への確信が与えられる以前から、旧約聖書の一部にはたしかな永遠の命を啓示された文書がある。それは次のようなものである。

…見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。
初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。
代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。
見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして
その民を喜び楽しむものとして、創造する。(イザヤ六五・1718

新しい天と地の創造ということは、永遠的なものであることがその内にある。 それゆえに、そこでは「代々とこしえに(永遠に)喜びが絶えない」ような状況として創造されるのだとわかる。
そしてこのような生き生きした喜びが絶えることがないような状況は、命の水が流れ続けるという状況だといえる。
それゆえに、他の預言書において、神のおられるエルサレムから流れ続けるいのちの水という表現で現されている。

…その日、エルサレムから命の水が湧き出で
半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい
夏も冬も流れ続ける。
(ゼカリヤ書十四・8

(ゼカリヤは、イエスより五〇〇年ほど前の預言者。捕囚から帰った人々を指導した。)

新約聖書における永遠の命

このような永遠に関する啓示は、キリストの時代になって明確になる。
主イエスの最初の教えとしてマタイ福音書では、山に登って教えられたことが記されている。そこに約束されているのは、天(神)の国である。

ああ、幸いだ、心の貧しい者たちは!
天の国は彼らのものだからである。(マタイ五・3

この短い言葉のなかに、天の国、神の国というものがだれにでも与えられることが約束されている。特別な修行とか捧げ物、あるいは学問などがなくとも、ただその人の奥深い魂のなかにあって自分は無であることを深く自覚しているだけで、そしてそこから神を求めるだけで、天の国が与えられる。
それは永遠への道がいかにそれ以前と異なって単純なものであるか、万人に開かれたものであるかを示している。
神の御支配のうちにあるもの、それが天の国である。永遠の命もまた神の御手のうちにあり、それゆえに神の国が与えられるならば、永遠の命も当然与えられることになる。
そして「求めよ、さらば与えられる」という約束に従って確実に与えられるものとは、ルカ福音書によれば、聖なる霊である。そして聖霊とは神の霊であり、キリストの霊であって神ご自身の別の現れである。 (ルカ十一・13
それゆえに、聖霊が与えられるならば、それは永遠の命が与えられることになる。
そして聖なる霊とは、神からの風ということもできる。霊という原語(ギリシャ語)は、風という意味を持っている。人間も一種の風のようなものを出し入れして生きているということで「息」といった意味にも使われる。そしてそこから、人間の生命をささえるもの、「霊」といった意味も派生してきた。
言い換えると、永遠の命とは神からの風のようなものでもある。それに吹かれるとその人は変えられ、滅びるものから永遠の命を与えられたものへと根源的な変化をとげる。
実際、キリストを三度も知らないと否定し、逃げ去ってしまったペテロ、そしてほかの弟子たち、彼らはいかにして立ち直ることができたのだろうか。それは彼らの単なる反省とか意志でもない。話し合いでもなかった。
それはただ、聖なる霊が与えられることによってであった。そのためには、主イエスが言われたように、ひたすらその約束のものを待ち望むということ、真剣な祈りをもって待ち望むことであった。そうして時至って大いなる天からの風が吹いてきた。

…一同が(祈りを合わせて)一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。一同は聖霊に満たされた。(使徒言行録二・12

まさに聖なる霊とは、大いなる天からの風なのであった。この驚くべき風こそ、裏切り者たちをも根底から変えて、キリストの復活の証言をしてその福音を伝える者としたのであった。
霊とは神の風であるということ、そしてその霊(風)によって人は全く新たになる、新しく生まれるということを、主イエスもヨハネ福音書において次のように言われた。

肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハネ福音書三・68

この箇所で、「風」と訳されている原語も「霊」と同じで、プネウマなのであり、主イエスはここで、霊と風を重ね合わせて言っていると言えよう。霊(神からの風)はその言葉のように、神のご意志のままに吹く。どんなに人の心が暗黒であっても、また混沌があっても、神がひとたびそこに神の国からの風を吹かせるときには、そこに新しく生まれる、すなわち永遠の命が与えられる。無から有を生じさせるのが神であるからである。
このような力ある風のことは、すでに聖書の最初の創世記の巻頭に現れる。それは聖書全体のさまざまの内容の象徴的表現となっているが、永遠の命についてもやはりここで預言的に示されている。

初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。(創世記一・13

この記述はたんに天地創造のときだけを書いてあるのでは決してない。それはこの宇宙、人間世界に生じ続ける神のわざが凝縮されたかたちで書いてあるのである。
混沌と闇、そこには何も永遠を思わせるものはない。私たちがもし、たいへんな痛みや苦しみで心身ともに打ちのめされてどこにも救いの道を見出せないとき、例えば苦しい病気のすえにガンと宣告されてすべてがあとわずかだと知らされたとき、家族のものに突然の悲劇が生じてたいへんな問題となったとき等々、それが重大なことであればあるほど私たちの心は混沌と闇となり、目先のことすら落ち着いて考えられないほどになる。
しかし、そのようなときにも、神からの風は力強く、静かに吹いているというのである。旧約聖書の原語であるヘブル語においても、霊という語は本来は「風」という意味であり、この箇所は、つぎのようにも訳すことができる。
*

・神の風が水面を吹いていた。
・大いなる風が水面を吹いていた。
・…a wind from God swept over the face of the waters.New Revised Standard Version
・…with a divine wind sweeping over the waters.New Jerusalem Bible

*)なお、 従来からの英語訳は、邦訳と同様に the Spirit of God ―神の霊― と訳しているのが多い 。

あとの二つの英語訳聖書は、前者はアメリカのプロテスタントの代表的な聖書であり、後者はカトリックの代表的聖書である。 このように新しい重要な英語訳聖書が、神からの風、神の風 と訳していることのなかにも、これが神の霊であると同時に神からの聖なる風という本質を持っていることを示そうとしているのである。
そしてこのことは、キリストの時代に、すでに述べたように主イエスがヨハネ福音書において、神の霊は風のように吹く、といわれたこと、また使徒言行録で最初のキリスト教徒たちの伝道の出発点となったのが、天からの大いなる風のようなものが吹いてきたことにもつながっているのである。
このように、創世記のこの記述ははるか後の、きわめて重要な聖なる霊、聖なる風のことを預言するものともなっている。
永遠の命が、聖なる霊(風)によって新たに生まれた者に与えられること、こうした表現には神の霊と神からの風とが溶け合うようにして現されている。

それだけでなく、永遠の命はまた水の流れとしても表現されている。そしてこのこともまた、すでに創世記において暗示されている。それは、最初に創造された人間が置かれた特別の場所、それはエデンにあった園である。そこにはエデンから流れだした水が園をもうるおし、さらに全世界へと流れだしていったと記されている。
この不思議な記述は、単なる昔話や神話でなく、はるか後にキリストによって成就される永遠の命の水の流れを象徴しているものであり、その預言ともなっている重要な啓示なのである。
永遠の命は、神の風(霊)によって与えられ、次々と神の思いのままにそれは吹いていって永遠の命を持つ人が増やされているように、またそれは命の水の流れとしてキリストから流れ出て世界をうるおしていくのである。そのことを、主イエスは次のように言っている。

… 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ福音書七・3738

なぜ、わざわざイエスは祭の最も盛大なときのしかも最後の日に、さらに立ち上がって大声で叫ぶように言ったのだろうか。それは、このいのちの水の真理は人間にとって最も重要なことだからである。世界全体に、しかもはるか後の世代に向かって力強く語りかけられたものであり、宣言だからである。
この命の水の流れは、聖書の最後の書である黙示録の最終章にふたたび現れる。

… 天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。
川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。
(黙示録二二・12
永遠の命、それは単に自分にそういうものが与えられているかどうかといった個人的なものでなく、神のご意志によって風のように吹いていくものであり、また神とキリストから全世界に流れ出るいのちの水の流れでもある。
私たちはそれを受けるにはただ、心の扉を開いて、まっすぐにキリストを、神を見つめるだけでよい。幼な子のような心でなければ神の国に入ることはできない、と主イエスが言われた。

…よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできない。(マタイ十八・3

このような永遠の命をいただくには、どのような条件が必要なのか。それは幼な子のような心をもって、ただ信じるだけ、主イエスを見上げるだけでよい。
それは人々から見下され汚れているとして交際も拒絶されていた一人の徴税人ザアカイがそうであった。周囲のひとたちから相手にされない寂しい心をかかえて、ただイエスを直接に見たい、会いたいとの切実な気持ちで近くの木によじ登ってイエスをみようとした。そのような幼な子のようなまっすぐに主に向かう心こそは、神の国から吹いてくる風を受けいれることができ、またいまも流れている命の水の流れに口をつけてその水を飲むことが許されるのである。
また、イエスやほかの重罪人と共に十字架刑になった一人の犯罪人は、釘付けられたという途方もない苦しみのなかで、イエスこそは殺されても復活され、神のもとに帰るお方であることを知っていた。それゆえに、「主よ、あなたが御国に行かれるときには、私を思いだして下さい!」と激痛のなかから懇願した。それはまさしく幼な子のように、まっすぐひたすらにイエスに向かうまなざしであっただろう。それゆえに、そのような死を目前にした苦しみのなかにも、天からの風は吹いてきた。そしてその魂には永遠の命が与えられたのであった。
現代に生きる私たちにおいても、今後どのような闇と混沌が襲ってくるか分からない。しかし、神とキリストから流れ出るいのちの水流はいかなることがあっても、とどまることはない。それは永遠の神の命の流れであるから。そしてまた、神から吹いてくる風(聖なる霊)もまた、それは神ご自身のひとつの現れであるゆえに、永遠に止まることがない。
そうした神の国からの風と水の流れを受けること、それがこれからのいかなる時代にあっても、私たちに与えられた最大の恵みなのである。

 


リストボタン無教会全国集会での証し (その2)
5月に行われた徳島市での全国集会で語られた証しを発表順に掲載しています。最初のキムさんの文は当方が示してあった分量より大分長いのですが、特に外国から寄せられた原稿なのでほぼそのまま掲載しました。)

新しい皮袋に新しいワインを
アメリカ・ニューヨーク Hae Ahm Kim
聖句マタイ917  マルコ 222  ルカ537
 新しいワインを新しい皮袋に入れるべきだというのは、新しいワインを古い皮袋に入れたら、その皮袋は裂け、酒はこぼれ、その皮袋も無駄になるからです。しかし古いワインを飲んでみると、古いワインが良いということが分かるのです。
 この比喩に関して、無教会を新しいワインと考えてみれば、無教会は新しい皮袋に入れなければ、その普及の意味があまりないと私は考えます。私は初めてアメリカに来たときから、この新しいワインと見なしている無教会のキリスト教が西洋で起こった、様々な宗派とどう異なるのか、ということを考えてきました。又その真実の表れが疑いなく新しい信仰であるということを明らかに出来なければ、無教会が世界に進出する可能性は低いと思います。この様な観点から無教会を見ると、無教会伝道の後には何が残るか、何をしなければならないか、との問題がいつもあるということを私は考えて育ってきたように思います。私の両親を始め、韓国無教会の主な先生たちの考えをよく学んできました。「信仰だけの信仰」とか「信仰があれば、行動も自然について来るし、神様が君の問題を解決して下さる」というような教えを聞きながら、無教会の基本的な礼拝様式をもよく見てきました。
要は、教会の中、又は外で救いがあるかないかということが問題なのではなく、信仰を持っていかに良く生きて行くかが問題ではないでしょうか?内村鑑三が後世に残した最大の遺産である彼の信仰的な生涯そのものが、真の無教会のあり方を表していると思うのです。東アジア諸国では、日本が驚くくらいに速く先進化し、技術的文化において優れていることには大変尊敬致しますが、私が勉強した側面から見れば、ある意味ではそう速い発展ではなかったということが分かりました。以下、このことに関して歴史的側面から′のお話を致します。
 西洋の宗教としてのキリスト教は以下のように日本に広まりました。マルティン=ルターの宗教改革に対抗する反宗教改革として起こった北スペインのイエズス会が、その教えを普及するために日本に到来し、種子島銃との交換として織田信長から得た布教の権利をもとに、イエズス会の教えの普及が大変広まったのです。16世紀の後半には二百余りのカトリック教会と2030人の宣教師が日本で教えていたと私は学びました。その結果30万人の日本人のカトリック信徒が生まれたそうです。秀吉によるカトリックの迫害が始まり、その迫害が徳川幕府末まで続いたのは、皆様がご存知の通りです。私がなぜこのことをお話しするのかといいますと、キリスト教が三百年前から入ってきたことは、日本人の精神的な基盤を作ったということだと私は考えているからです。オランダ語、スペイン語を学び、その辞典もできていました。何よりも、聖書の知識が代々受け継がれて、近代化の力になったのではないでしようか。知識は一度吸収すれば去ってしまうわけではありません。信長が始めた西洋の武器の導入と研究は引き続きなされていたと見るのが正しいと思うのです。
 そんな理由で、日本は明治維新で軍事力を強め、結局は西洋の帝国主義を止めるのに成功したのですが、日本自身が帝国になって近隣諸国を侵略しました。私は網野氏による「日本とは何か」「日本の歴史を読み直す」などの良心的な歴史本が大好きです。
 こうした観点から無教会の始まりを見ますと、それは内村鑑三が西洋的なキリスト教よりは、日本的な新しいキリスト教を新しい袋に入れるようにと弟子たちに教えたことにあります。これはキリスト教だけでなく、西洋の古典を学んで、キリスト教が残した遺産をも吸収して欲しいという考えだと思います。一代目、二代目の先生達は熱心に精一杯そうした勉強を続けました。しかし現代の無教会はどうでしょうか?それが問題です。無教会の意味そのものが問題になっていると思います。教会の人々よりも、信仰と神に対しての愛にもっとも忠実な考えが無教会だと誰が言えるでしょうか。信仰的な驕慢というのが罪の中でももっとも深いものだという宋斗用先生のお話しから、私自身も分からない間にそうなっている自分を発見し、自分をとがめたことを覚えています。
 精神分析の領域ですが、人間の防衛機能の一つとして”Identification with the Aggressor”という概念があります。フロイトの娘であるアナ=フロイトが初めて発表した有名な本で紹介されています。アナ=フロイトは子供たちの精神的発達の過程を観察しながら、そういうメカニズムがあることを発見したのです。
日本の精神的な発展もその様になりましたし、現在においても神の愛とその導きに頼るのではなく、軍備で日本を守ることに専念しているのではないでしようか。網野氏の様に歴史そのものものを正直に教えるとか、平和憲法を改正することよりはもっと平和憲法を強化することに皆様に努力していただきたいと存じます。
 真の愛とは神様の前では隠すところのない正直な態度で、女性の地位の改善とか、自国民だけでなく、他国民のための援助をもっと増やすことではないでしようか?私には日本の皆様にお話しする折には必ず表明する感謝の言葉があります。それは物質的に成功して生活水準が世界最高の一つとなったことで、白人文明に対する東洋人の地位を高めたことに対してであります。それは国際連盟が日本の帝国主義に対してより厳しい態度をとったことに表れている人種差別の問題を、経済的に解決したことにあります。しかし働く虫であった日本人の精神的文化は発展していません。ゆえに世界的な思想家や哲学者が日本からあまり出ないわけです。
そういうところは日本を訪れると良く見えてきます。中央公論とか文芸春秋などをよく読んでいますと、日本の精神的文化の発展は見受けられません。夏目漱石レベルの作家が出ていません。芸術でも同じだと思います。
 なぜこのような話をするかといえば、私は日本人を愛しているからです。東アジア人の発展のために働くことができるのは日本人だと思うからです。
 神様が愛するように愛する、ということはどういうことなのか?私の考えを提示しましよう。それはありのままを見せる、助ける、そして愛するということではないでしようか?私は今回の全国集会で、そのような神様の導きによる愛が働いているのを見ました。私の不完全な日本語の話を熱心に聴いてくださった皆様に感謝する次第です。
 神の愛に対して、もう少しお話しましよう。皆様は遠いアメリカから来た私を愛して下さいましたが、以前にも私は日本でお世話になりました。一九五九年に私がアメリカに医学を学ぶために渡航する際、日本に立ち寄った折、政池仁先生の家で二日間お世話になりました。
先生は、私の父親、金鳳国様と内村鑑三の教えの勉強を通じて知り合いとなっていました。政池先生は東大病院とか上野公園などを案内してくださり、弟子たち数名と私を連れて行ってくださいました。
 数年前にリュウ・ヒセイ教授という方が、無教会の大先輩である政池先生が行った、金教臣先生のための追悼礼拝講演の内容を私に読んで下さいました。それによりますと、この聖書的な月刊誌である聖朝誌に天皇の肖像か二重橋をその一ページに載せるようにと圧力をかけられた事件があったそうです。
これに困った金教臣先生は同僚と友達の意見を聞きました。その時、政池先生は「そんな写真を出すよりは廃刊するほうが正しい。」と助言したそうです。 しかし金教臣先生は忍んで二重橋の写真を載せて聖朝誌を続けました。
けれども結局雑誌は「弔蛙」という寓話を使った論文のために、廃刊させられてしまいましたし、先生と数十名の読者、寄稿者たちが投獄されました。
政池先生はその事件だけではなく、韓国人の原爆被害者、樺太の日本人と韓国人の保護の問題などに関心があり、皆様がお分かりになるように堤岩里教会の再建と謝罪のために韓国に行きました。政池先生のような無教会信者が日本に多く出ることを願う次第です。
 政治の問題と社会的な考えが信仰の問題に対してどう関係するか疑問があるかもしれません。しかしマルティン=ルターやマーティン=ルーサー=キング牧師や政池先生たちの信仰が弱いとは誰も言わないでしょう。その人たちの生涯は信仰と行動力を持って生き抜いたものでした。
新しい袋になって新しいワインを世の中に供えた人たちです。信仰を持って生きてゆくのが行動として現れるのです。大部分の日常の生活は無意識の行動で動きます。呼吸するとか歩くのも意識的にするのではなく、考えることなく自動的に出来るのですから、信仰の問題も自然に動いていくようになることが真のキリスト教信者の生活になると思うのです。精神分析の経験によりますと、様々な人種が住んでいるニューヨークのような社会では、お互いに愛し合い、協力して住まなければならないという理解が自然に出来上がってきます。けれども、日本や韓国のように、単一民族で主に成り立っている国では、人間関係は距離的に近くても心理的に遠いところとなり、お互いにお互いを相手にするのが苦痛になる時があるそうですね。そんな事が無意識的に起こってくるのです。一般社会で若者たちは意見を交換し、共鳴する考えを共に社会に発したり、行動として現すことが多いのですが、インテリ階級ではそういう交流は難しくなるようです。今回の訪問のときに、私に自然に近寄ってくださった方々に、もう一度感謝したい気持ちです。
無教会の中でも、偉い先生がこう言ったから聖書をこう解釈し、その話に誤りがある事は考えられないという人々が韓国にも日本にもいます。最高水準にある知識人たちもそうであります。これは精神分析では先生に対しての転移現象(Transference)のためだと言いますが、尊敬するのも批判するのも感情にだけに拠ってはならないと思います。韓国と日本の文化的差異はありますが、こういう現象がこのニカ国に共通して私には目立って見えます。
 自分の信仰で自分の考えを持って生きる目的を探す、または決める事は信仰の中に生きるのに最も重要なものだと思います。今の世界ではそういう新しい知識が出来まして、新しい社会を作って行っています。ヨーロッパ人を見ればそんな事が見えてきます。ドイツ人はフランス人と殺しあいました。大量虐殺の世界大戦を二回までして、実存哲学(existential philosophy)を超えてやっと今の状態に着きました。EU共同体の組織が出来ました。運命は一つで、生きる道は共存していくことであるという事が至上命令になりました。
 東アジアでも大戦を経験しました。日本、中国、韓国、そして北朝鮮が共存しなければならないということは明らかな現実だと思いますが、どう行動するか、どう平和を構築してゆくかが十分話し合われていないのではないでしょうか。新しいワインを新しい皮袋に入れようとするのは当然だと思うのですが、どんな皮袋を作るのかについては、一つ一つの状況に合うような皮袋を作らなければならないのだと思います。
 これは信仰の問題、行動の問題ではありません。神に対しての態度によるものだと思います。礼拝とか祈りでもないのです。生きることそのものです。考えて生きるとか、考えて行動するというのは生きる有様ではありません。人が歩くように、自然に次々に来る歩みをさっさとたどって歩くのが生きてゆく姿です。
無教会の人々がそのような形で生きたら、世の人々が「さすがに無教会の人たちは信条よりも正しい生活を喜んでいるな。」と見て、自分も無教会人になりたくなると思います。
 今日は、皆様に新しい考えを持って生きて行くことが実に信仰的な生活だと思って下さい、とのメッセージを残しておきたいと思いました。イエス様が「汝の隣人を自分のごとく愛せよ。」とおっしゃったのは、要するに物質的に助けることでは必ずしもなく、愛することなのです。国境というものがなくなるような世界が来るように生きて行って欲しいです。
 皆様、愛するということは心のこと以外には何ものでもないのです。聖書を読み、解説を参考にするのもどう生きるかの問題のためだと思います。どこに行って住んでも構わないというほどの覚悟で確信を持って生きていきましよう。教会があるのが良いか悪いかとか、儀礼が必要か否か、無教会の人であるかないかというのは昔は重要でしたが、今はそう大きな問題にはならないのだと考えます。どう生きるかということは、喜びの福音を持って楽しく生きることが出来るか出来ないかによると思います。もし出来ないのであれば、それが何故かを考えてみましょう。喜ばしい笑顔でお互いに面倒を見あいながら生きてゆく態度が表れてきたら、世の中の人々が自分も無教会人のようになりたくなる、と私は思うのです。
ありがとうございました。

神の憐れみと私の信仰
徳島 K.Y.

 まず、前もって知って頂きたいことがあります。私は人工呼吸器を着けているために、発声がうまくできません。聞き取りにくい声だということです。途中で詰まることがあるかも知れません。そこのところをご理解下さい。
 私は20歳で病気になって33年、実に長い時間だったです。それは私の障害者になってからの人生が充実していなかったためです。神様にたどり着くまでが遅かったからです。生き甲斐もなく、漫然と生きてきたからです。人間とは何もすることがなくて生きていけるものではありません。常に何かを求めて生きていくものです。
 新約聖書に登場する「ベトザタ」に横たわっていた重い肢体障害者は38年もの間、希望もなく静かに寝ているだけでした。しかし、イエス様に出会って信じただけで癒され、救われました。ここが私と似ているところです。ただ何かを求めていただけで聖書やイエス様に触れることが出来ました。待っていただけで希望を与えられました。「ベトザタ」の障害者と同じような状況の中で求めただけで生きていく希望が出てきたのです。もう生きていく力がなくなった時にイエス様のほうから近づいてくれました。クリスチャンは待っているだけで失望が希望に変わり生きていけるという希望が与えられているのです。
 病は罪から来ていると言いますが、確かに私もクリスチャンになる前から多くの罪を犯してきました。私の中にもドロドロとした物が流れているのが良く解ります。神を知ろうとしなかった罪です。もし私に罪が今でも多くあれば、自虐的かも知れませんが、今よりもっと罰せなければならないという心境です。平安を求めるだけが信仰ではないと思います。
 病気とは神の御業が現れるためだと書かれています。病気が必ずしも不幸とは言えません。その人の気持ちの持ち方で幸福にも不幸にもなります。前向きになったほうが自分の人生を生きる上で得です。全盲の人を見てイエス様が「神の業がこの人に現れるためである」という言葉は、私にはまだよく理解できていませんが、この言葉が信じられた時には、幸せになれるのではないかと思えます。もうすでに私の上には、神の御業が現れているのではないかと言えます。その意味では、もう充分に幸せを手に入れているのです。癒されているのです。
 人間には人に言えることか言えないことかは別にして、誰でも弱い部分を持っています。私は私の弱さをここで告白したいと思います。今日の証しで一番言いたいことです。そうでないとキリストを証しすることにはならないからです。私には麻薬を使わなければならないくらいの脊髄の痛みが30年以上続いています。自分では解決できないどうしようもない痛みです。今の医学でも解消できません。自己解決出来ないからにはあきらめるか、神様に委ねるしかありません。
 そんな痛みを和らげる方法をご存じでしょうか。もうお解りだと思います。
イエス様の十字架の痛みを思い浮かべることです。そうすれば自然と痛みも薄くなり、信仰も深くなってきます。クリスチャンは神様に委ねるという特権を持っています。今まで生かして下さった神様だから、これからもそうして下さるだろうと言えるのです。「どんな苦痛でも、それにすこしの罪も混っていなければ、堪えられるものである。」とヒルティは述べています。痛みはいつかは安らぐものですが、そうならない時は天に召されるのです。そう強く信じて生きています。
 私は信仰の友の祈りを必要としています。どうか私の友になって下さい。そして私のためにもお祈り下さい。私には熱狂的な信仰は必要ありません。静かな信仰で充分です。御国よ早く来て下さい、イエス様来て下さい、といつも祈っています。
 神様は私に生きる希望と信仰を持たせるために一つの仕事を与えて下さいました。それはパソコンで讃美歌の入力をすることです。当初目的としていた作業は終わりましたが、その時点で私の人生も終わると信じていましたが、神様の思いは違いました。讃美歌は思ったよりたくさんあります。まだこれからもこの仕事は続きそうです。この仕事が続く限りは私は生かされるようです。神様がまだ「生きなさい」と言う声が聞こえます。
 聖書に出てくる障害者や病人はイエス様に癒されたり清められた時、神を讃美しています。私たちは実際の病気は治らなくてもイエス様を信じた時にはすでに癒されているのです。神を讃美する姿勢が必要なのだと思います。それが信仰だと思い、最期までそれを全うしたいと思っています。私は自分自身の力で生きている、などと言う思い上がった考えは持っていません。委ねて生きるという気持ちでいます。これからも、目立たぬように静かに静かにいるつもりです。
 最後に、私の好きな讃美で、心から慰められる歌詞を拝読して、この証しの終わりとします。
新聖歌 第442番 「病の床にも」第一節
「病の床にも慰めあり
 われらに代わりて血を流せる
 主イエスの苦しみ思い見れば
 痛みはいつしか忘られけり」
 
神の導き
沖縄県西表島 I.M.

若き日に造り主を覚え、信仰の歩みをはじめて50年近くなります。今朝は聖書を通して示されたことを三点から頒ちたいとい思います。
ロマ書828節に「神は神を愛する者たち、即ちご計画によって召された者と共に働いて万事を益となるようにして下さることを私たちは知っている」というみ言葉があります。私たちは長い人生の旅路に於ていろいろな体験をし、学びをします。或る時は理不尽に見え、無意味に思うことがあります。然し私達が出会う一つ一つの出来事は聖書のプリズムを通して見る時、何一つ無駄なことはなく、自分の姿を知らせ、自分に対する教え、警告であったことを思わされます。私の場合、高校卒業後、廻り道をしたことや全寮制の愛農高校に24年間勤め、そこで体験し、学んだ事が西表島へ移住して生きていく上で凡て益となって働いたことを確信します。
二つ目はピリピ書213節に「あなたがたのうちに働きかけてその願いを起させかつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」というみ言葉があります。私は戦中・戦後の食糧のない不自由な時代を過して来ました。戦後は畑を耕し、家畜を飼い、よく家の手伝いをしました。土に根ざした生き方がしたいと長年夢見て来ました。愛農高校へ導かれ小谷純一先生と出会い神を愛し、人を愛し、土を愛する三愛精神を学び、その思いは一層強くなりました。その夢は西表島に於て実現しました。私の夢は、子供たちに継承され、現在西表島の豊かな自然と農業を基盤にした休息と癒しの空間を作って、疲れている人、病んでいる人、自分を見つめ直して再出発したい人たちを受入れて家族共同体(友和村)の実現に向けて取りくんでおります。
三つ目はマタイ伝633節、「先ず神と神の義とを求めなさい、そうすれば、これらのものは凡て添えて与えられるであろう」イザヤ書4110節に「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたを強くし、わたしはあなたを助け、わが勝利の右の手をもってあなたを支える」とのみ言葉を示されて、私たちは19年前西表島へ移住しました。神様の導きのままに神の国の約束を信じての旅立ちでありましたが、凡て必要なものは与えられ備えられ、時に適う助け手を与えられました。現在4世帯家族13人が生活する家族共同体の中でそれぞれの役割を分担し、協力し、助け合いながら生活しております。創造のみ業と活きて働き給う神様の導きを日々感謝し讃美しながら内村鑑三の「読むべきは聖書、学ぶべきは天然、為すべきは労働」の言葉をかみしめ友和村の営みに励みたいと思います。

神様の祝福 
沖縄県西表島 I.T.

私は結婚式の時、高橋三郎先生を通して創世記12章1~4の御言葉を頂きました。その中で神様は“祝福の源となるように”と語りかけて下さいました。
あれから43年、私共はこの御言葉の通り、祝福の源となるべく導かれて参りました。
主は、いつどこにあっても私共を祝福し、その祝福が多くの人に及ぶように導かれました。 一九九〇年、西表島に導かれて友和村という祝福の拠点がすえられたのも、主の祝福が多くの人に及ぶために神様が用いられたのだと信じます。
祝福は神様の愛そのものであって、自分の側に信仰があるとか愛があるとかいう自分の側の条件には全くよらず、神様御自身の永遠の真実の故に神様の側から全く一方的に与えられるものでありました。その究極は罪の赦しの祝福でありました。
主は無きに等しい私に“あなたは尊い存在である”と呼びかけて生きる意味と喜びを与えて下さいました。
そして私の罪を赦され“めぐまれた女よ、おめでとう、安心して行きなさい”と呼びかけて下さいました。このような祝福を与えることの出来るお方はイエスさまのみであります。このイエスさまの祝福の御手に守られて、今日の私がここにあります。
何という喜び、何という感謝でしょうか、ハレルヤと主を讃美いたします。
最近、島崎暉久先生の書物の中で次の文に出会いました。
内村鑑三最晩年の言葉
「全人類を教会と見るのが本当の見方ではあるまいか。
選民と非選民、信者と不信者と区別するのは間違いではあるまいか。全人類を教会と見て、キリストをその首長と仰ぐならば、自分もその会員たるを辞さない。
無教会の積極的反面は全人類教会主義であらねばならぬ(1929102日の日記)」
キリストと関係のない人は一人もいないと私は信じます。
すべての人に祝福をお与え下さる主を信じていくところに無教会の生き方が示されていること、内村鑑三が最晩年に教えて下さっていると思います。
私が求めていたものはこれでした。イエスさまがいらっしゃるところが教会です。私を祝福して下さる主の愛を喜び感謝して生きたいと願い祈ります。
(付言)無教会にも祝祷があってもいいのではと私は思います。私は祝祷により恵まれます。

 



リストボタン神の愛とその導き      盛岡聖書集会 T.S.

① 私は一九四五年に秋田県の田沢湖町の農家に生まれました。終戦の年です。戦争で苦しんでいた日本中の多くの人々、特に戦争に反対し、平和と自由を求めていた方々にとってはこの終戦はまさに神の愛と正義の実現でした。戦争が終わっただけでなく、それに引き続いて与えられた日本国憲法は日本人だけの努力で獲得したものではなく、そこに神の愛と義が実現されたものだと私は考えています。 
 私の人生においてその様に感じたもう一つの歴史上の出来事は一九九一年のソ連崩壊です。一九一七年のボリシェヴィキ時代から数えると74年もの間アメリカ合衆国に匹敵する超大国として、東側陣営の総本山として君臨したソ連が崩壊し、世界を二分した冷戦の時代が終焉したことす。私はよもやその様なことが起こるとは夢にも思わっていなかったのです。
 この二つから学ばされたことは、人間の目や判断を通して見た世界の情勢や歴史がどれほど絶望的なものであっても、神は人類の歴史を支配され、生きて働かれ、正義と愛を実現してくださるということでした。
② 私の父は優れたところも沢山ありましたが、子どもたちにとってとても嫌だったのは夫婦げんかをしたことでした。それは大体は父のわがままから引き起こされ、父はかんしゃくを起こして大声で母に怒りをぶつけるというものでした。しかし、不思議なことに私は父の信仰していたキリスト教には反発しなかったのです。時々信仰について父と語り合うことがありました。私の両親は私たち子どもにキリスト教について沢山教える事はしませんでした。しかし、二つのことがとても良かったのではないかと思っています。
一つは両親は食前に必ずしんと静まりかえって黙祷をささげていました。それはミレーの晩鐘の絵に見られるような雰囲気のものでした。
もう一つは私の家庭は貧しかったので父と母は時々これからどうやっていこうかと話していましたが、その最後の結論は「一生懸命生きていれば神様が必ず何とかして下さる」というものでした。私は子供心に聞くともなくそれを聞いていたと思います。そしていつの間にかその両親の信仰は私にも根付き私は「神様は愛の方だから、必ずいいように導いてくださる」と信じて生きてきました。
両親がキリスト教の信仰を持っていたこと、そしてそれに反発しなかったことは神様のお導きによるものだと思っています。
③ 私は大学進学を目指して地方の進学高校に入学しました。その高校で成績の上位のものが目指す大学を受験しました。不合格でした。その時のショックは強く、恥ずかしくてもう二度とその高校に訪れるようなことはしないと思いました。
つまり私は日本の学校に於ける価値観、つまり成績が良くて有名大学に合格する人間が一番偉いという価値観の中に生きていたので、そのプライドがずたずたに切り刻まれてしまったのです。
私にとってはそれはルターを修道院に入らせたあの落雷事件のようなものであり、パウロを回心させたダマスコでの復活の主イエスの顕現のような出来事でした。
というのはその後、山形大学に入学した私の下宿の隣が山形市の本町教会であり、私は父に伴われてその教会を訪れました。牧師さんは木俣富太郎先生で、その弟さんの木俣敏先生は農村伝道をなさった方で、私の父は敏先生を知っていました。さらにその頃木俣富太郎先生は山形大学の聖書研究会磐上会に教えに行っておられました。
この会は実は無教会の伝道者黒崎幸吉先生がお作りになった無教会の聖書研究会でした。それを木俣先生は私に教えて下さった。教会の牧師さんから無教会の聖書集会を紹介していただいた。
それが私の無教会主義との初めての出会いでした。そしてその会に教えに来ておられた、キリスト教独立学園の校長の鈴木弼美先生に出会いました。
先生のお話で最も印象を受けたことが二つあります。一つは先生は真理という言葉を頻繁に使われたことです。真理という言葉はもちろん私も知っていましたが何の内実もない言葉でした。鈴木先生の真理という言葉は今まで聞いたことのない響きを持ち、意味を持っていました。「あなたがたは真理に逆らっては何の力もなく、真理に従えば力がある」という言葉です。
 もう一つは絶対非暴力、絶対非戦主義の主張でした。私の大学時代は学生運動の盛んな時代で、デモや学内でバリケードを築くようなことがありました。 その様な具体的な問題で先生は絶対暴力を使うべきではない、平和的な手段で問題に当たらなければならないと話されました。私はその頃、非暴力について深く考えていなかったので先生のお考えを百パーセント肯定することが出来たのではありませんでした。しかし、先生のお話はどこか否定しがたい力を持っていました。
私は両親から十字架の贖いと、復活の信仰について教えられたことがなかったと思います。
私は無教会主義との出会いによって、十字架と復活の信仰、非暴力愛敵の姿勢、そして真理の絶対的な力を信じるという姿勢を教えらました。私はその後この無教会全国集会の設立に尽力された堤道雄先生などを知っていくようになります。
磐上会は夏休みにキリスト教独立学園を訪問しておりましたが、私も大学一年生の時に初めて独立学園を訪問しました。私がその時そこで感じたことはここの方々は私が今まで接してきた社会と違っているということでした。そこの方々は他の人との優劣を競うという心で生きているのではない、と感じたのでした。そして私は自分もこの高校に入りたかったなと思ったのでした。高校生として入ることは出来ないからここの先生になってやろうなどと考えたのでした。
一九七三年、二八歳の時に私はキリスト教独立学園に勤務しました。私は自分が偉いから独立学園に勤務するのでなく、学ばせてもらいに行くのだと考え、そこに務めさせていただきました。鈴木先生との交わり、独立学園の12年間を通して私が受けた恩恵は数え切れません。
一九八五年、私は向中野学園(現在の盛岡スコーレ高校)に転勤しました。この高校はキリスト教精神で行われていますが、独立学園のように入学者にキリスト教を熱心に学ぶことを条件とするということはありません。ですから入学者のほとんどの生徒はキリスト教に関わりがありません。その様な学校でキリスト教の教育をすることは容易なことではありません。より深い信仰理解と言葉だけでなく本当の愛と実行がなければやっていけません。何も出来ないままに今日に至っていますが、そのために随分鍛えられたと思います。このような試練も又神様が私のためにお与え下さったものと思います。
 最後に聖書を2カ所引用したいと思います。
・主は愛するものを鍛え、子として受け入れるものを皆、鞭打たれるからである。
(ヘブライ人への手紙12章6節)
・神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
(ローマの信徒への手紙8章28節)

 


リストボタン北海道・瀬棚の聖書集会と神の導き

 毎年の夏に、北海道南西部の日本海側の瀬棚地方にて開催される、瀬棚聖書集会に聖書講話のために出向くようになった。今年は、七月十七日~二〇日(日)までの開催。そこにはキリスト教独立学園の卒業生が多く集まり、酪農などをして生活している。
 私が瀬棚に招かれてから今年で六回目になった。不思議な導きにより、それまではその地名すら知らなかった北海道の瀬棚という日本海側の地域にて、聖書講話をするようになった。
 今年の与えられたテーマは「キリスト者の喜び」ということであった。そのテーマに沿って四回の聖書講話をすることになっていた。そして最後の日である日曜日には、瀬棚から二〇キロほど離れた、日本キリスト教団利別教会にて合同の礼拝が持たれた。
 今回は、与えられたテーマに従って、私は旧約聖書、新約聖書から神を信じる者に与えられる喜びがどのようなものであるかを、学びたいと思った。
今年の瀬棚聖書集会での、感話会でふだんは家庭でも話さないような個人的な悩みなども一部話され、また初参加の若い人、いままでこうした全体の感話会で発言したことのない若い方の発言もあって、そのような個人的なことをも参加者を信頼して打ち明けるということのなかに、主がこの聖書集会のなかにいて下さって導かれているのを感じることができた。
この瀬棚聖書集会は、一九七四年に始まったので、今回で三五回となる。
酪農をしているひとたちを主体としたこの夏の聖書集会は、キリスト教横浜集会の野中正喜・智子ご夫妻の息子さん(野中 正孝さん)が、瀬棚で酪農を始めたとき、智子さんが何とかそこで生まれた子供たちの前途のために、神の言葉が教えられるようにとの願いをもっておられ、瀬棚の地で聖書集会が開かれるようにと祈りを強めておられた。
その結果が瀬棚聖書講習会が生まれることになり、その講師として、キリスト教横浜集会の責任者であった堤道雄は最初からの聖書講話の講師として参加し、以後二七年間にわたって毎年北海道という遠い地へ出かけられたのであった。
堤 道雄が最後に瀬棚聖書講習会に参加したのは、二〇〇一年七月である。そしてその翌年は、山形のキリスト教独立学園の桝本華子さんが講師として瀬棚に来られ、その翌年から私(吉村)が聖書講話の講師として出向くようになった。
堤 道雄は二〇〇五年一〇月に召されたので、死の四年前まで、衰えた体力のゆえ足の動きも弱くなった体で遠い北海道まで聖書の真理を語るために出向いておられた。
私が六年近く前に、瀬棚聖書集会での聖書講話の依頼があったとき、そうした集会のことは何もしらなかった。
しかし、調べてみると、その依頼をしてこられた西川 譲さんは、私どもの徳島のキリスト集会の礼拝の録音テープを以前からずっと聞いておられた、静岡市の西川こと姉(故人)の孫であることがわかった。
西川ことさんは、私が送付していた「はこ舟」誌(現在の「いのちの水」誌)について、毎月必ず郵便振替に小さな字で感想やお礼などを通信欄一杯にていねいに書かれて協力費をきちんと送られる方であった。西川姉の病気がかなり重くなってからのことであるが、私が静岡県に出向いたおり、清水市に聖書講話をする機会があったが、そのときには、会場の二階まで、四人のひとたちに車椅子をかついでもらって参加された。本来ならとてもそのような集会に参加できる状態ではなかったと思われたが、内にうながす力によって参加されたのであった。その後、西川姉はあまり長くない日々の後に天に帰られたのであった。
さらに、その二〇〇一年まで瀬棚聖書集会の事務局担当(責任者)をしていたのが、野中正孝さんであったが、その野中さんのご父君 正喜さんもまた、横浜のキリスト集会員で、私どもの集会のテープを聞いておられた方で、お手紙も何度もいただいていた。
そのような関わりがずっとあったその方々の息子や孫にあたる方々が運営していた聖書集会に、思いがけず参加するようになったことも不思議な導きである。
さらに、私の前に二七年もの間、横浜から北海道の瀬棚まで毎年の夏に出向かれていた堤 道雄が、最初にはっきりとした伝道の出発をしたのが、徳島の地であった。
堤が以後四八年間、「真理」という伝道のための印刷物を発行し続けたが、その第一号は徳島の地で出されたものであった。
ここで、瀬棚の聖書講習会の講師として長い年月にわたってみ言葉を伝えてきた堤の生きた跡を少したどってみよう。
一九四一年に早稲田大学を卒業後、一九四二年に召集され、二年半をミャンマー沖のインド領のアンダマン群島にて陸軍将校として過ごす。復員後、静岡藤枝の小学校、中学で教師。
・1年ほどで止めて、一九四七年 夏 浜松の戦災孤児収容所で働いていた。
・一九四八年一月 徳島の救護院(感化院)に移った。ここで、日曜学校を行った。それは県立の施設であったから注意されたが止めなかったので、解雇されたようになった。なお、この救護院は、徳島出身の賀川豊彦の関係する県の救護事業の一つであった。
・一九四九年六月 徳島無教会主義聖書研究会を立ち上げた。
・一九五〇年 「真理」創刊
・一九五一年(三三歳) 横浜に帰って 横浜聖書研究会をはじめる。(「真理に導かれて」堤道雄先生追悼文集 による)
堤の歩んだあとをふりかえると、若き日に太平洋戦争に加わり、後に戦争が聖書の真理に根本的に反することを深く知らされ、十字架の福音を伝えることを中心としつつ、平和主義をも重視して出発し、そのまま生涯変ることなく走り続けた人であった。(この点では、静岡県浜松にて、長く福音伝道と平和主義を強調し続けて、先年召された浜松聖書集会の代表者、溝口正と似たところがある。)
福音伝道においては、とくにごく普通の人、病人など弱き人をとくに重視してわかりやすい言葉で福音を伝えているのがうかがえる。
瀬棚で酪農などをしている人にはキリスト教独立学園の卒業生が多く集まっていることを前述したが、その独立学園は一九三四年にその最初の出発をしているからもう七〇年以上の歴史をもっている。それゆえその卒業生は各地に広く活躍しているであろうし、独立学園にかかわる多くの方々が日本にはいる。
徳島からは、独立学園に入学した生徒はだれもいない。四国の他県からも独立学園に進学した人はごく少ないだろう。そのために関わりは薄かった。
それにもかかわらず、私が独立学園の卒業生が多く集まっている北海道の瀬棚という遠いところに行くようになったのは、人間の思いを超えた神の導きを感じずにはいられない。
堤 道雄はこのキリスト教独立学園においても一九七〇年から二八年間にもわたって、とくに二月十一日の建国記念日に、憲法や平和問題、キリスト教信仰との関わりなどを生徒たちに語り続けた。(独立学園では建国記念日の制定が間違っていることを示すために、毎年登校日として講師を呼んで話しを聞くということになっていた。)
堤が北海道の瀬棚に聖書講話のために行くようになったのは、この独立学園への毎年の講話がはじめられた数年後であり、その延長上にあったといえよう。それは神が備えられた道すじなのであったという気がする。
堤 道雄の歩んだ跡を見てすぐに気付くのは彼の敗戦後の生涯は、キリストの福音伝道ということに深く根を降ろしていたということである。戦後の混乱期にあって彼の魂の根底にあったのは、彼に戦争の決定的な悪魔性を教えた聖書、そして内村鑑三の信仰にあった。普通の公立学校の教員を辞めてまでして浜松の戦災孤児収容所で働いたとか、その延長上にある家庭を失った子供たちへの救護施設に赴任するために、はるばる徳島まで誰も知る人もないのに移って来られたということ、そのことのなかに、まず弱いひとたち、無視されているひとたちへの配慮をもって行動に移した姿がみられる。それは彼の内に生きて働くキリストがそのように導いたのであろう。
そして慣れない地で、結婚してまもない状況であるにもかかわらず、徳島の少数の無教会のキリスト者たちに働きかけて、一つの集会として立ち上げたということ、そしてわずか数年の徳島滞在のときに三二歳のときに、伝道のための定期的印刷物「真理」という冊子を発行することを決断され、横浜に帰っても、すぐに横浜聖書研究会をつくってみ言葉を伝える基地としての集会の基礎をつくられた。
今年の五月に徳島で行われた無教会の全国集会も二二回目となった。この全国集会も堤道雄の伝道にかかわる深い主にある情熱からその着想が生まれ、提案されたものであった。
北海道の瀬棚の聖書集会、また全国集会なども堤 道雄に示された道を私どももまた歩ませていただいているのであって、六〇年ほども前に堤 道雄が徳島にて伝道の働きをはじめられたことの道の延長上にあるといえよう。
全国集会が開かれるようになった理由はいろいろあるが、次のことは重要である。
無教会には組織を作らないというのが自明のあり方のようになっていて、全国でどこにどのような無教会のキリスト教集会があるのかさえ、分からない。それで、県外に進学や就職で出た人にその地の集会を知らせることもできない、という状況であった。このようなことでは、せっかくの信仰も消えていくことになりかねない。そのために、横のつながりをも活性化して、互いに主にある交流をし、あらたな力をそれぞれが与えられ、それが福音伝道に寄与するようにという願いがあった。
これは、福音伝道ということを真剣に考えるならば、そして自分のところから別の府県に転勤、進学などする人がいるときには、その人にせっかく根付いた信仰を強め、さらに成長させるためには不可欠のことであるはずである。
キリストを信じる人たちの集まり(教会、集会)(*)は、「キリストのからだ」であると聖書に書かれているほど、重要なものである。そしてそのキリストの集会は単に自分の所属している小さな集まりだけがキリストのからだでなく、キリストを信じる人たちはどこの国の人でも本来はキリストのからだなのであるから、なるべく多くのキリスト者たちが互いに祈り合い、覚え合うのは重要なことである。
*

*)教会という言葉の原語(ギリシャ語)は、エクレシアという。これは中国で「教会」と訳され、それがそのまま日本語聖書にも取り入れられたが、エクレシアという原語には建物という意味はなく、「呼びだされた者の集まり」(集会)といった意味である。

堤 道雄の歩みを見ると、その行く先々で常に福音を伝えるということが彼の行動の中核にあったのがわかる。
キリスト教独立学園に彼が聖書の真理を伝えたいという願いがあり、学園の教師たちもその願いを共有し、そこから堤道雄と独立学園との深い関わりが生まれた。そして彼が学園に毎年行くようになった。そして北海道・瀬棚の聖書講習会はその四年後に始まっている。このように、福音を伝えようとする真剣な思いは、主によって導かれ、それはだれも予想したことのないような道筋をとって導かれていく。
そして堤 道雄の福音伝道のための働きのうち、ここに書いたのは、瀬棚に関するその一部にすぎない。
「収穫は多い、しかし働き人が少ない。」という主イエスの言葉が思いだされる。
福音は伝えられねばならない。今日の日本にあって最も必要なのはこのキリストの福音である。主イエスが教えたままのその教えである。神を愛し、隣人を愛するということ、それは活けるキリストに導かれ、その愛を受けてはじめて実行することができる。 そして、そうした愛や導きをもたらす聖なる霊を受けることである。
非戦とか憲法九条の平和主義ということも、この神を愛し、隣人を愛するということを本当に真剣に受け止めるとき、おのずから生まれる結果である。真理と慈しみの神、神のひとり子を十字架にかけて、死に渡されてまで人を愛してくださった神を愛するならどうして他国の無数の人たちを殺傷するような戦争を認めることができようか。
また、主イエスは、敵を愛し、迫害するもののために祈れ、肉体を殺して、魂を滅ぼすことのできないものを恐れるな。魂を滅ぼすことのできる神のみを恐れよ、と言われた。この教えに従うときにどうして他国の本来関わりもない人たちを攻撃して殺したりすることを認められようか。
それゆえにこそ、現代のような混乱した時代、おそらくますますその傾向が強められる状況にあって、それぞれの人が、その人の置かれた場においてなす聖書とキリストの真理を伝える福音伝道こそは、大いなる祝福の道であり、まただれにでも開かれた道なのである。
福音伝道に生きた堤道雄はさまざまのところに遣わされたが、その一つが北海道・瀬棚の地であった。彼はそこで神の言葉を語り続けた。そしてそのような集まりのはじまりには、前記したさまざまの人たちの祈りや働きがあった。
そして、この集会は祝福され、神によって守られ、導かれてきたゆえに、現在も続けられている。
神はこれからも、福音のための働き人を各地に起こし続けられるであろうし、そこでまた新たな集会が生まれ、キリストの命は流れていくのである。

 


リストボタン北海道、東北、関東、中部などの集会を訪ねて

今年も神の導きと支え、そして多くの方々の祈りと準備によって北海道の瀬棚地方での聖書集会をはじめとして各地のキリスト集会を訪れ、また個人的にお会いして語り合う機会が与えられた。
 北海道には、徳島から舞鶴まで乗用車で行き、そこからフェリーで小樽までの行程。舞鶴に行く途中、少し寄り道をして山間部にある、愛農高校卒業の添田潤・光子夫妻宅を訪れ、信仰のこと農業への取り組みなど話を聞く時間が与えられた。出発の直前になって、毎月送っている「集会だよりに」関して問い合わせがあり、話しているうちに、添田さん夫妻が、私がこれから向かおうとしている瀬棚集会に参加している上泉 新さんや倉田 健さんの愛農高校時代の教え子であることが分かって意外な導きだと感じさせられた。
瀬棚では、信仰の喜びということがテーマとされていて、それに沿って私は旧約聖書と新約聖書にわたって四回の聖書講話、そして最終日の日曜日には、瀬棚から二〇キロ近く離れた、日本キリスト教団の利別教会での聖書講話(説教)を担当させていただいた。
聖書講話以外には、感話会、懇談会、自己紹介、そして夜のひとときは音楽と讃美の会もあって、四日間を主の導きによって過ごすことが与えられた。瀬棚の酪農、農業に従事している方々には表面からは分からないさまざまの困難もあることがこの六回にわたる瀬棚での集会に参加して次第に分かってきたが、そのような困難のなかにあって信仰により、み言葉によって導かれていくようにと願ったことであった。瀬棚聖書集会が聖書の学びとともに、参加する方々のかかえている問題を何らかの形で出し合う場ともなっていることも主の導きを感じさせられた。
瀬棚での聖書集会が終わって、翌日は札幌での合同集会であった。以前は北海道の合同の集会がなされていたが、近年はそれが途絶えていたとのこと、それが、私たち徳島からの複数の者が瀬棚の聖書集会に参加してその帰途に札幌に立ち寄るということから、徳島集会との交流会という形での集会がなされるようになり、札幌聖書集会の方々だけでなく、旭川、苫小牧さらに遠く釧路からも参加される方があるようになり、さらに今回は「祈の友」の会員の小樽の方も初めて参加された。こうして、合同集会のかたちをとった集会がなされるようなった。これも、私たちの予想しなかったことで、とくに札幌聖書集会に属する全盲の大塚さんや私達の集会の全盲の綱野悦子姉、弱視の熊井夫妻といった視覚障害者との関わりがそうした交流がなされる重要なきっかけとなった。
なおこの札幌での集会で、私の疲労を少しでも軽減するためにと車で送って下さった上泉畔菜さんが、この札幌での集会にも参加されたが、そこでもう長く会っていなかった瀬棚でかつて酪農をともにやっていた仲間であったUさんと思いがけなく出会うことになった。 その前日に瀬棚の野中さんからの問い合わせがあって札幌での集会の場所と時間を野中さんに伝えていたが、その目的はUさんが参加できるようにとの願いからであった。
札幌での集会の次には青森の松丘保養園(ハンセン病療養所)を訪ねた。そこに「祈の友」会員の神子沢さん夫妻を訪ね、二時間ほどいろいろの体験やハンセン病療養所の歴史とそこにおける病者の困難な歩みなどの一端をきかせていただいた。そこで見せていただいた数枚の大きな写真はとくに印象的であった。一枚はすぐそばの沼に一面の雪景色のなかで遊ぶ美しい白鳥、もう一枚は顔がハンセン病のために大きく変形した人の祈りの姿であった。それは全く異なる二枚の写真であった。しかし、よく見ているとそこには双方とも神のわざが明らかに現れているのだった。一つは神の完全な清さをそのまま象徴する雪と白鳥の白さ、別の一枚は絶えがたい苦しみや絶望的な闇を通してキリスト信仰に導かれそこに平安を見出した魂の姿であった。
青森から盛岡・スコーレ高校の田口さんを訪ね、そこの一室での集まりが与えられた。事故で車椅子の生活となった新井さんも参加された。
盛岡から仙台に向かい、そこでの集会が平日であったにもかかわらず、二〇名近い人たちが参加された。ここでは聖霊による導きということでとくにパウロがローマ信徒への手紙の最後に書いた箇所を用いて語らせていただいた。市川寛治兄のお世話によって今回も仙台での集会が与えられ、高齢の吉田 均兄や若い田嶋夫妻、ほかに初参加の方々もあった。
仙台から山形に向かい、そこで夜の集会がなされた。参加者のなかには、今年五月の徳島での全国集会に参加予定して申込もされていたが家庭の事情などから参加できなかった田中姉、石澤兄のお二人も参加されていた。
翌日は初めて鶴岡の地を訪ね、五月の全国集会に参加されていた佐藤さん宅での集会となった。山形から鶴岡に向かう途中の山道で、美しいヤマユリが咲いており、野生のものを間近に観察できたのは初めてのことであった。(ここで撮影した写真を「今日のみ言葉」に用いた。)鶴岡での集会に参加された方々とは私には初対面の方々ばかりであったが、主にある結びつきのゆえに、学びと交わりが与えられた。佐藤ご夫妻と夕食をゆっくりいただくことができて感謝であった。こうしたことも全国集会の恵みなのであって、いろいろなことに結びついていくのを思った。
鶴岡からは新潟に向かい、待っていて下さった山口賢一兄や数人の集会の方々とともに、土曜日の午後、高橋さん宅を訪ねた。事故のために重い障害を持つ身となっておられ、日々の生活がたいへんなご様子を感じた。主がともにいて支えて下さるのでなければ耐えがたいような重荷だと思われ、主が日々共にいて下さいますよう、その重荷を軽くして下さるようにと祈らせていただいた。
翌日は日曜日であり、内村鑑三の著書、信仰について語って欲しいとのことであったので、一番だれでもが入手しやすく、かつだれにとっても日々の指針となると思われる、内村鑑三の「聖書之研究」誌の巻頭言の短文を集めた本「内村鑑三所感集」の一部を印刷してそれをもとに語らせていただいた。
新潟から福島県郡山市に向かい、富永 国比古兄のロマリンダ・クリニックでの初めての集会が与えられた。安達太良聖書集会の方々や教会の方などが激しい雨のなか、参加しておられた。途中の高速道路では郡山に近づくにつれて、かつて経験したことのないような激しい雷雨で高速道路ではすぐ前を走る車さえ見えず、小走り程度に最徐行しても車線もなにも見えないほどのなか、雷の轟音がとどろくといった状況で、自然の猛威を肌で感じつつの走行であった。
ここでも初めての方々と主にある学びと祈り、讃美を共にすることが与えられて、主の導きを感謝であった。
翌朝は、郡山市の「祈の友」の古くからの会員であった相山さん、加藤さんたちとの懇談を与えられた。「祈の友」誌の印刷を何十年と受け持ってこられたが、パソコンの時代となり、印刷の仕事が減少し会社は続けられなくなり、そのうえ、水害、火災、家族の発病など次々と困難が押し寄せてきて現在の試練のなかにおられることを直接に聞くことができた。お会いした四人ともキリスト者であり、そうした困難にもかかわらず、希望を主にあって持ち続けておられることを感じた。そうした困難を主が支え、導いて下さるようにと祈った。
郡山から栃木県大田原市の小河原 貞一兄を訪問した。ずっと以前の無教会全国集会でお会いして以来の交わりが与えられているが、二〇年ぶりであったか、久しぶりの再会となった。いろいろな困難があるけれども、主の導きを受けつつ信仰に歩まれているご様子をうかがうことができた。
そこから埼玉県の野崎宅を訪問。浦和キリスト集会員であるとともに、「祈の友」でもあるのでお訪ねした。ほかに栗原さんや和田 信介さんご夫妻、そして初めての参加者の方も加わっての集まりであった。
 埼玉から高速道路を用いて八王子市の永井宅での集会には、初参加の人も数名あり、十五名ほどが集まることができた。今は故人となった岩島公兄の集会に関わる方々が多いとのことであった。 今年五月の徳島での全国集会に初めて参加された方々とも再会の機会となって感謝であった。
 そこから翌日は山梨に移動し根津さん宅にて「祈の友」の方々が六名ほど集まり、み言葉の学びと祈りの会がなされた。その後、午後には南アルプス市での加茂宅での集会で、ここでも初めての参加者やガンで残りの命は半年と言われていた方も東京のほうからわざわざ参加され、信仰によってあらたな力を与えられていることを証しされた。集会の主催者である加茂 悦爾ご夫妻の主にあるいろいろな御配慮によって集会にかかわる方々が信仰に導かれ、またその信仰が続いていることも知らされて感謝であった。 さらに長野に行く途中にも「祈の友」会員である松村さんが住んでおられるとのことで、お宅に立ち寄り、ご夫妻と懇談のひとときを与えられた。お二人とも「祈の友」とはずっと以前からいろいろと関わりがあるということをお話し下さった。
 諏訪湖の近くの民宿で一泊、翌日は長野の倉田さんのロッジ吹上での集まりが与えられた。長野は去年の三月に白鳥宅、七月には有賀宅にての集会が与えられ、参加者の方々ともなじみの方が増やされた。
 このようにしてみ言葉中心の集会が持たれることによっていろいろな方々と新たな主にある交流もできたり、それがまたほかの方にも及ぶということがある。私たちのキリスト集会においても、他県からの方によって特別集会がなされるときにはふだん参加していない方も集められてふだんの集会にはない主の導きを受けることがある。
 その後、そこから四〇キロほど南下したところで、去年徳島を訪問された松下さん宅に立ち寄って、家庭集会でみ言葉の学びを持つことができた。ここでも足の不自由な方を含めて初めての方が参加されていて主がその方々の心にも聖霊を注いで下さったことを信じて感謝。
 まだほかに何カ所か訪問予定があったけれども、夜中になると生じてくる歯痛のためにしばしば夜が安眠できず疲れがたまってきてほかのところは断念して帰宅することにした。 
しかしその夜は十分ではなかったが眠りが取れたので、翌日は名古屋市の木村尚文・ハンネローレご夫妻宅を訪問して信仰のこと、無教会のことなどお話しする機会が与えられた。
出発してから帰宅までの日々を主が守って下さり、また共にいて下さってさまざまの場所でみ言葉中心の集まりや交流が与えられた。何よりも神の言葉が参加者に深くとどまり、み言葉による横のつながりが今後とも強められてそれがまた新たな人が加わることや、すでに信仰をもっていく人の霊的な強めにもなるよう、主がこれらの集まりを用いて下さいますようにと祈りつつ過ごした日々であった。
関東地域でも立ち寄りたいところはいろいろあっても、車での移動の困難、駐車場の問題もあり、高速道路に近いところに限定し、都会の中心部を避けて訪問することになった。
来年もこのような長距離を移動しつつ各地の集会を訪問できるかどうか分からない。主の御心ならばそのような機会も与えられるだろう。
何年か前に、北海道からの帰途、各地を立ち寄るようになったが、はじめは毎月発行している「いのちの水」誌の読者の方々、そして「祈の友」につながる方々が全国各地におられるので、その方々を訪問ということを考えたのであるが、私のはじめの思いを越えて、御言葉を学ぶ集会がなされるようになり、「いのちの水」誌とは関わりない方々、初めての方も参加される場合がしばしばあり、主の導きを感じさせられている。
今も生きてはたらいておられる主が各地でもおられるのをはっきりと知らされ、今後ともいっそう主の働きがなされていくよう、またそのための働き人が各地でさらに起こされますようにと願ったことである。

 


リストボタン休憩室

○木星と金星
さまざまの問題に悩むとき、また悲しみにあるとき、とくに夜空の星の輝きは親しいものとなります。「悲しむ者は幸いだ、その人は(神により)なぐさめられ、励まされるから。」という主イエスの言葉が心に近い言葉になります。
また、そうした深い悩みや悲しみのない年若い子供や、元気に立ち働いている人にとっても、星の世界は心を永遠へと誘うものになり、魂の栄養となることが多いのです。
夜九時ころには、南の空に輝かしい星、木星が見えます。その透き通ったような強い光は、見る者の心を惹きつけるものがあります。金星は夕暮れとか早朝でないと見えないので、仕事などについている人たちには見ることができないのですが、木星の強い輝きは、夜通し見ることができます。
その木星の上方には、わし座の一等星アルタイル、その右には強い光のこと座のベガ、そして頭上には白鳥座のデネブが幾千年と変わらぬ光で輝いています。
空気の澄んだ地方では、このアルタイルとベガの間に天の川が見えます。
また、金星は、夕暮れ時には西の低い空に見え始めています。これから徐々に高い空で見えるようになり、目をひくようになります。暗くなり始めたころに木星が東の空に見え始めるので、これからは夕方暗くなるころには、西に金星、東に木星という惑星のうちでは最も明るいこの二つが見られるようになり、次第にこの二つの明るい星が近づいて見えるようになります。

○桂の大木
七月に北海道の帰途、青森から盛岡へは予定の時間にすこしゆとりがあったので、東北の植物を知る一助にと、十和田湖経由の道をたどりました。そこで最も印象にのこったのは、途中の山道と十和田湖畔にあったカツラ(桂)の巨木です。桂という漢字や言葉は京都にも桂という地名あり、桂離宮という有名な建物あり、人名にもよく用いられているのでみんな知っています。しかし、その実物の樹木を見たことのある人はごく少ないようです。徳島県でも私は二カ所しか自生のを見たことがありません。
しかし、十和田湖に至る道にはいくつもの桂の木が見られ、なかには数百年を経たと思われる巨木があり、桂の木独特の地面からいくつもの木が生じて幾本もが密生して大木になっているのもありました。
ことにそれらのいくつかは何人もが取り囲めるような堂々たる大木で、そのどっしりとした重み、風格というものは他には見られないほどでした。そして桂の木の丸い葉は採取してまもなくよい香りを発するようになるので、その大木の付近は落ちた葉からその香りが漂っていてそれがいっそう心惹かれるものでした。
数々の風雪に耐え、何百年もの間生き抜いてきた巨木には心を引き寄せる力があります。私はしばしその巨木を見つめて離れがたい気持ちでした。

 


リストボタンことば

290)神は「隠れた神」である。(イザヤ書四五・15しかし、生きている神である。
一切を支配し、多くの人には知られてはいないが、実在しているこの英知の存在は生命を持っており、しかも感じ取ることができる。 単に人々や社会などの全体のうちに感じられるだけでなく、個々の人間生活のうちにも感じ取られるものである。

(「愛と希望」一五八頁 白水社版 ヒルティ著作集(原題は BRIEFE 「書簡集」 )

・私たちの信じる神は、たしかにとくに日本人の大多数にとって隠れた神となっている。しかし、神は単に信じるだけの神でなく、魂の深いところで実感できる神なのである。私たちが深い悲しみにあるとき、どんな人間によりも神に、あるいは主イエスに向かうときには、たしかにその慰めと励ましを実感することができる。

291)福音の伝道
 われは人に悪人と呼ばるるも福音の伝道に従事すべし、善人と呼ばるるもこれに従事すべし。世が私の福音に耳を傾くるも伝道に従事すべし、傾けざるもこれに従事すべし、わが国にいかなる政変が起こり来ようともわれはこれに従事すべし、たとい世界は消滅するに至るもわれはこれに従事せんと欲す。
福音はわが生命なり、われはわが生涯中われが福音の伝道に従事せざる時あるを思意するあたわず。(「聖書之研究」内村鑑三著 一九〇一年四月)

・福音は内村鑑三の生命であったゆえ、それを自分だけで持っていることはあり得ないことであった。死せるものは働きかけず、生命とはおのずから、他に向かって働きかける本質を持っているからである。内村にとって生きるとはそのまま福音が外に流れ出ていくこと、伝道なのであった。そして、それは内村にかぎったことでない。ヨハネ福音書にあるサマリヤの女の記事にあるように、イエスからいのちの水を受け取ったものは、だまってそれを保持することはできず、告げ知らさずにはいられなくするものなのである。
そして受けるより与えるほうが祝福される、と言われているように、学ぶと称して書物などから受けることばかりであると、豊かな祝福は期待できない。 受けたものを与えようとするところにさらなる祝福が与えられるゆえに。
292)自然の美
・星の輝きは、夜空の美しさを生み出し
高きところにいます主の輝かしい飾りとなる。
The glory of the stars makes the beauty of the sky, a brilliant adornment of the Lord on High.

・虹を見よ。そしてそれを創造されたお方を讃美せよ。その輝きは、この上もなく美しいゆえに。
Look at the rainbow, and praise him who made it; it is exceedingly beautiful in its brightness.

・主は、舞い降りる鳥のように、雪を降らす。
目は、その美しさと純白に驚嘆し、心は雪の降るのを見て強い驚きを感じる。

He sprinkles snow like birds alighting,

The eye marvels at the beauty of its whiteness, and the mind is amazed at its falling.
(旧約聖書・続編 集会の書 四三・918より)

293)本当の祈り
すべては祈りから始まります。祈ることを愛しましょう。日中、しばしば祈る必要を感じ、祈るため労を惜しまないようにしましょう。
もしあなたがもっとよく祈りたいのなら、たくさん祈らなくてはなりません。
祈れば祈るほど易しく祈ることができるようになります。
本当の祈りはたくさんの言葉でなく、
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イエス様に心を上げて熱心に願うことです。(「マザー・テレサ 日々のことば」一四四頁)

Everything starts with prayer. Love to pray
feel the need to pray often during the day and take the trouble to pray.
If you want to pray better,you must pray more. The more you pray the easier it becomes.Perfect prayer does not consists of many words but in fervour of the desire which raises the heart to Jesus.
(「THE JOY IN LOVING 218P

 


リストボタンお知らせ

○八月三十一日(日)静岡の西澤正文兄の聖書講話を中心とする特別集会があります。開会は午前十時三〇分。 昼食注文の予定がありますので、参加希望の方は吉村 孝雄まで申込してください。(主日礼拝や各地での家庭集会に参加の方は、貝出、中川(春)、伊丹の方々のうちのいずれかに申込してください。その方々は家庭集会のいずれかに参加していますので、申込と昼食費五百円を添えて提出してください。)

○吉村 孝雄は、九月十三日(土)~十四日(日)、静岡に出向いて聖書講話を担当する予定です。そのため、徳島での主日礼拝(十四日)は録音による集会となります。

○貝出 久美子詩文集 第十集「風に歌う」ができていますので、希望の方は用いて下さい。なお、県外の方々で複数冊を希望される方は、一冊百五十円でお届けできます。(送料当方負担)代金は、郵便振替にてお願いします。

○五月に徳島で開催された無教会のキリスト教全国集会での録音(MP3)、録画(DVD)など現在も折々に希望される方が申込されています。これも希望される方は申込してください。また、そのMP3録音したCDを聞くためのMP3対応 CDラジカセも、七月に北海道からの帰途の各地の集会で何人かの方々から問い合わせや申込がありました。これも希望者にお送りすることができます。

○「野の花」文集について
毎年一度、文集を発行しています。
その目的は、第一に私たちに与えられた福音を伝えることに用いられたいということ、第二には、文を通しての交流、そこから励ましや新たなつながりが与えられ、それがまだ唯一の神とキリストを知らないひとたちに伝えることにつながるようにとの目的です。
また無教会全体としてみると、自由な信仰の感話や意見などを、個々の集会の枠を越えて発表する機会というのがありませんので、そのための一助ともなればと願っています。
以上のような目的にご賛同の方々は、 次の要領で原稿をお送り下さい。

①締切り 二〇〇八年1031


③原稿の内容
・主日礼拝、または家庭集会や個人の聖書の学びから得たこと。
・信仰による生活上、職業上での体験。証し。
・信仰にかかわる、祈り、讃美、聖書などに関する意見など。
・五月の全国集会、八月の近畿無教会集会などで感想、印象に残っていること。
・読書で学んだこと。書物からの印象に残った文などの引用。
・聖書の言葉や讃美歌、新聖歌などの歌詞で心に残っているものの引用。
・社会的な問題に関して、キリスト者としての意見。

④原稿の分量
原則として二千字以内。長すぎるものは適当に編集者がカットします。
聖句の引用など、一節~数節でもよいのです。

⑤編集上の方針
この文集は、キリストの福音伝道のために用いられるということが第一の目的にあり、世間一般の評論や文芸誌的なものではありません。そのため、この目的にそぐわないと考えられる場合、不適切な表現などは、部分的に表現を変えたりカットすることがあり、また掲載しないということもあります。
またこの目的のゆえに、どのように短いものでもそれを主が用いて下さるということがありますので、そのことを信じて出していただきたいと思います。 祈りにしても必ずしも長い祈りが聞かれるということでなく、短いひと言の祈り、叫びでも真実なものは主が聞き届けて下さるのと同様です。

④原稿提出の方法
・テキストファイルにして、インターネット メールの添付ファイルとして送る。
(この方法が、以後のパソコンによる編集の際にも最も取り扱いが便利なのです。)
・メールができる環境にない方は、ワープロ入力したものをフロッピーやUSBメモリに入れて、郵送または直接吉村に手渡す。
・原稿用紙などに書いて郵送する。(FAXでは、もとの原稿の字が薄いとか続け字などの場合、はっきり読み取れない場合がしばしばありますので、できるだけ郵送としてください。)

⑤留意していただく点
・多くの方々から、メール、郵送、フロッピー、手渡しなど多様な方法でしかもさまざまの集会で原稿が提出されるので、時折原稿が紛失したり、メール処理やパソコンのトラブルで失われることがあり得ますので、文集が発行されるまでは、作成した原稿を手許に保存しておいて下さい。