あなた方は、神の変ることのない生きた言葉によって

新たに生まれたのです。


(Ⅰペテロ一の二三)



 
2010年8月 第594号 内容・もくじ

リストボタン導かれることの重要性 リストボタン風と水のように―聖なる霊のはたらき リストボタン核廃絶と憲法九条 
リストボタン愛と賛美の力によって煉獄篇 第二七歌(その1) リストボタン集まりの重要性について リストボタン北海道と各地の集会
リストボタン名作のなかから ―アンクル・トムズ・ケビンより  リストボタン休憩室 リストボタン報告とお知らせ


リストボタン 導かれることの重要性

今年も北海道の何カ所を移動して聖書の集会が与えられ、東北や関東、中部などの各地での集会が与えられたが、そこで全面的に役だったのがカーナビであった。
もしカーナビがなかったら、到底今回のような長距離でさまざまの地域の目的地に達することはできない。 かつてカーナビがなかったころは、初めてのところに行く場合には、クリップで運転席の前に地図をつるし、絶えず交差点での地名を見て、しばしば路肩に停車して地図で次はどこの何という交差点で右折あるいは左折するのか、など一つ一つ確認していかねばならなかったし、目的地に近づいても団地など一向に目指す家がわからず、あちこちと車で移動しては尋ね歩くことが必要であった。
それは時間もとてもかかるうえに、交通の激しい都会の何車線もある広い道路では、地図や交差点の地名を確認しながら走るというのは実に危険なことであった。また、地名も街路の様子もわからない夜はもちろん未知の場所などは行くことはできない。
しかし、カーナビを備えるようになってから、それに導かれていくことは以前とは到底比較にならない安全さと時間の短縮、エネルギーの節約となった。
自分の判断や地図によるのでなく、走っているさなかにも適切に導かれるということは実に安全で効果的に目的地に到達するということである。
このことは、この世に生きる場合にも言える。この世のさまざまの間違いや悪意や誘惑のある危険な道を、自分の考えや意志で正しく歩いていくというのは至難のわざである。
目的地がどこなのか分からなくなるし、途中でさまざまの迷路や落とし穴、あるいは沼地のようなものに落ち込んでしまうことが多い。
そのようなこの世の生活において、適切な導きがあるということは何よりもありがたいことになる。
困難なとき、喜ばしいとき、また悲しみや苦しみのとき、孤独のとき、死を前にしたとき…あらゆるときにおいて、人は適切に導かれなかったらすぐに高慢になったり、逆に絶望したり、あるいはまた平安を失って心の病気になることもある。また悪の道に引き込まれるとか、傲慢になって人を見下すとか、あるいは神などいないと言うようになってしまう。
私たちの生活においても、適切な導きをしてくれる人物はとても重要である。
 ダンテのような偉大な詩人、哲学者、政治家であり、当時の科学や歴史的なことにも通じていた博学多才な人物であっても、自分の意志や決断では目指す目的地へとは登っていけないこと、適切な導きをする人がいなくては前進できない、ということを痛切に知らされたのであった。
それゆえに、彼の大作である神曲では、まずその導き手となる、ローマの詩人ウェルギリウスが現れる。彼が、地獄と煉獄を導くという構造になっている。
私たちも多くの書物や生きた指導者によって導かれて日々を過ごしている。すぐれた導き手のあることは大きな恵みであるが、人間は弱さがあり、ときにはそうした導き手の意外な欠点とか罪によってつまずかされることもある。
そして誰でもがそのような生きたよき導き手を恵まれるわけではない。またその導き手も病気になったり、老年になって老年に特有の老化や、いろいろな病気に悩まされ、他人を導くどころか、自分が御国への道を歩むのが精一杯ということにもなる。
そのように、人間による導きには、当然大きな限界があるために、それをもすべてご存じの神は、生きて働くキリストを、真の導き手として、私たちに送って下さったのである。
ダンテの神曲においても、最後の天国篇においては、ウェルギリウスに代わって、神の愛の象徴でもあるベアトリーチェが導くのである。
真の導き手、それは、神であり、キリストであり、聖霊である。私たちの内にまで来てくださり、住んで下さる。そして風のように見えないけれども必要なところに来てくださる。
主イエスが、私に従ってきなさい、と言われた。これは単に二〇〇〇年前のキリストの弟子たちへの呼びかけでない。それは永遠の呼びかけである。それはイエスこそ真の導き手であり、万人の導き手であるからだ。
また、「私はよい羊飼いである。狼から守る。真の門から羊たちを囲いに入れる。命すら羊のために捨てる」とも記されている。(ヨハネ福音書)それほどの良き羊飼い、導き手なのである。
主こそ導き手であること、それは旧約聖書の詩篇やイザヤ、エレミヤといった預言書にもゆたかに示されている。
特に「主はわが牧者である。私には乏しいことがない」から始まる、詩篇第二三篇は、すでに旧約聖書の時代から神は最善の導き手であることが、今から数千年も昔からすでに心を惹く言葉で表現されている。
科学技術の発達によって、カーナビのような随時道案内をする道具は、ますます発達していく。
しかし、人生の道案内をするような機器は作ることができない。その点では数千年前と少しも変わっていない。むしろ、そうした科学技術の産物が、さまざまのまちがった情報をもはんらんさせ、かえって道をまちがう人を増大させているといえるだろう。
生きて働いておられるキリストこそは、そしてそのキリストを指し示し、キリストの言葉を記す聖書こそは、昨日も今日も、そして永遠に変ることのない人生のカーナビなのである。

 


リストボタン風と水のように― 聖なる霊のはたらき

聖霊とは、聖なる霊である。一般的には、聖とか霊とかの言葉は縁のないものと感じる人が多い。毎日の会話で、聖とか霊とかを口に出す人はほとんどいないし、テレビ、新聞などの頻繁に見聞きするものにも、そうした言葉はほとんど出てくることもない。
学校教育でも、聖とは何か、霊とは何かなどといったことはまったく教えられることもない。
多くの日本人にとって、聖とは自分にはまったく縁のない言葉だと感じるだろう。
霊というと幽霊という言葉がまず思い浮かぶといった人が多い。それは、何か暗いもの、よい印象を持っていないものとして、多くの人たちは受け止めている。
しかし、風あるいは水といえば、ごく身近なものと感じる。 聖なる霊は風と水でたとえられるような本質を持っており、本来はとても身近なものなのである。
主イエスは、風はどこから来てどこへ行くのか分からない。聖なる霊によって生まれるものも同様である。といわれた。(ヨハネ三の八)このイエスの言葉にある、風という言葉も霊という言葉も原語は同じなのである。
キリスト教の二千年の歴史の上で、最も豊かに力強く聖なる霊がそそがれたのは、キリストが十字架で処刑され、三日後に復活し、その復活したイエスが、弟子たちに「約束されたものを待っていなさい」と命じ、弟子たちがその命令にしたがって、祈りつづけていたときであった。
そのとき、当然激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえてきた。そして一人一人の上にそそがれた。(使徒言行録二の二)
ここにも、聖なる霊が風と重ね合わされて書かれている。ときには静かに、またときにはこの箇所のように激しい風のように天から吹いてくる。
この風としての神の霊のことは、聖書の一番最初の書である創世記のその冒頭にはやくも記されている。
天地創造のときには、ただ闇と混沌があり、深淵があった。その真っ暗闇のなかに、吹いていたものがあった。
 それが神の風なのである。旧約聖書の原語であるヘブル語においても、風と霊は同じ語(ルーァハ)である。それゆえに、聖書の翻訳によって、この箇所は、風、あるいは霊と訳されている。
旧約聖書学者として著名な、関根正雄訳では、この創世記の箇所では、霊と風が重ね合わされているということから、次のように訳されている。

…闇が原始の海の面にあり、神の霊風が大水の面に吹きまくっていた。

また、カトリックの英訳聖書として代表的なものとされている訳では次のように訳されている。

…深淵の上には、闇があった。水の上を聖なる風が吹いていた。
(…there was darkness over the deep, with a divine wind sweeping over the waters.
New Jerusalem Bible)(sweep とは、さっと動く、通過する、吹きまくる といった意味)

また、旧約聖書のエゼキエル書にも、神の霊が風という意味も含ませつつ記されている箇所がある。
この書が書かれた時代は、キリストの誕生よりも五〇〇年以上も昔、ユダヤ人が、祖国から現代のイラク地方にあるバビロンという都市まで、たくさんの人たちが捕囚となって移された。その状況のなかで、神からの啓示を受けた預言者がいた。それがエゼキエルという人である。
彼は神によって霊的に引き上げられ、広い場所全体に骨があり、それが徹底的に枯れた状態となっているのが見えた。それはもはや生き返ることなど不可能と思われる状態であった。
しかし神は言われた。「私がこれらの枯れはてた骨に霊風を入れる。そうすればこれらは生きるようになる。」このような驚くべきことが言われた。
これは信じがたい言葉であったが、実際に神がそこに霊風を四方から吹き入れたとき、それらの枯れはてた骨が命を持ってよみがえったと記されている。(エゼキエル書三七章)
これは、祖国が滅び、残った民も多くが遠い異国に捕囚として連れ去られ、まさに民族としては枯れはてた骨のような状態となっていたユダヤ民族が、神の聖なる風(息、霊)によってよみがえるという預言であった。
そしてこのことは、はるか後のキリストの復活ということをも預言する啓示であった。
ここで、神が吹き入れた風とは、ヘブル語でルーァハであり、風と霊、そして息をも意味する言葉である。
関根正雄訳では原語が持っているこの三つの意味を重ね合わせて表すために、「霊風」と訳し、それにフリガナをつけて、「いき」と読ませている。
ここでも、神の霊は、風という意味をも持ったものとして現れている。
一面の闇と混沌と大海といった状況のなか、静かにあるいは激しく吹いていた神の霊の風、これははるか後にキリストの弟子たちに吹いてきた聖霊の風を暗示するものがあった。
神のご意志にかなったものを創造するために吹いていた風、それはキリストの復活の後に弟子たちに吹いて、新たなキリストの共同体が生み出され、世界にその福音を伝える大いなる力となったことを思い起こさせる。
そして、この聖なる霊(風)は、一度だけ吹いたら終わりとか、キリストの十二弟子のようなきわめて特殊な人たちだけに吹くのではない。
主イエスが、求めよ、そうすれば聖なる霊が与えられると約束されたのは、そのような特定の集団とかでなく、ひろくすべての人に向けてであった。

…このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。
まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ十一の十三)

あなた方は悪い者だ、といわれると驚く人がいるかも知れない。自分は悪い人ではない、と思っている場合が非常に多いからである。
しかし、神の絶対的な愛や真実といった基準に照らせば、人間はだれでも、不真実であり、他者を愛しているように見えても利己的であり、つい真実でないことを言ったり行ったりするのであって、それは悪い者だといわれて当然なのである。そのような者でも、日常的に子供が求めてくればよいものを与えようとする。
だから、神はその子供―信じる人たちが求めるならば、日常的によいものである聖霊を下さるということなのである。
私たちが神のことを、お父様 といって親しく呼ぶ心を与えられているのも、聖霊によると書かれている。

…あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」(*)と呼ぶのである。(ローマの信徒への手紙八の十五)

…このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。(ガラテヤ信徒への手紙四の六)

*)アバとは、「お父さん」という意味のアラム語。アラム語とは、イエスの時代のユダヤ人が使っていた言葉で、ヘブル語と似ていて、ヘブル語は、父のことを、アブ という。

このように、神とキリストを信じる人が、目には見えない神を最も親しいお方のように、お父様と呼べるのは聖霊を受けているからなのである。
このように聖霊を受けるということは、日常的なことでもあると言えよう。毎日神様に向かって、天の父よ、お父様と祈ることができる、ということは、毎日新たに聖霊を受けているからなのである。
しかし、一度聖霊を受けたら、もうあとはずっとその状態が続くというのではない。
使徒ペテロは、キリストの復活の後、みんなと祈って聖霊を待ち望んでいたときに、時至ってあふれるばかりに聖霊をそそがれた。そこからペテロはそれまでの恐れていた姿勢が一転して、敵対するユダヤ人に対しても、命がけで福音を伝えるほどの力を与えられた。
しかし、後になって、割礼の問題でユダヤ人からキリスト者になった人たちの影響を受けて、異邦人たちを汚れたものとして共に食事をしないという状況になったことがある。
そのとき、パウロから面と向かって叱責されるというほど、ペテロのような指導者でも、油断しているとまちがってしまうのがわかる。
これは、聖霊を一度受けたからもうずっと続くというのでなく、日々祈り求め、日々新たに与えられるのでなければ、持続しないということを示している。
主イエスも、いつも目を覚ましていなさい、と言われて、一つのたとえを話された。花婿がいつくるかも分からない。そのときに備えてともし火と油を持っていなければならないのに、愚かなおとめたちは、油を持っていなかった。
他方、賢いおとめは油を持っていた。そのことが、夜中に思いがけなく、花婿が来た時に、婚礼の席に入れることにつながった。
婚礼の席に入る、それは神の国に入れていただくということのたとえである。
そのために、油、すなわち聖霊を日々受けて保っている状態でなければならない、ということが示されている。

すでに述べてきたように、聖霊は風としての意味を持っているが、他方では次のように、水としても表現されている。

…祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている霊について言われたのである。
  (ヨハネ福音書七の三七~三九)

この箇所は、とくに重要な内容であるゆえに、祭で最も重要な最後の日、立ち上がって大声で言ったと、特に強調して書かれている。
しかも、誰に向かって言ったという記述がない。これは、以後の人類全体にむかって大声でこの真理を叫んだのだ、というニュアンスが込められている。
ここでは、キリストを信じる人が受けようとしている聖霊こそが生きた水であり、信じる人のうちから泉のようにあふれ出て、周囲に流れ出るという。
風と水という二つにたとえられている聖なる霊、それは私たちに恵みの世界をどこまでも近づけてくれるものなのである。風と水はどのようなすきまでも入っていくことができるからである。
キリストの弟子たちは、キリストの死後は復活など到底信じられず、万事休すといった絶望的なあるいは自分たちも捕らわれるのでないかという恐怖もあって部屋にこもって鍵をしめていた。
しかしそのようなところにも、聖なる風でもある復活のキリストはどこからともなく入ってこられたのであった。
(ヨハネ二十の十九~二三)
聖なる風としての聖霊が外から、天から人に向かって吹いてくるのに対して、ヨハネ福音書七章で言われる聖霊は、信じる人に与えられたらそれで留まっているのでなく、その魂の内から外に向かってあふれ出るとされている。
外なる天から吹いてきた聖霊の大いなる風は、弟子たちの魂に点火し、燃えるような情熱となってさまざまの言葉の違いを乗り越えて各地に福音を伝える原動力となった。
そして信じた一人一人からあふれ出た「いのちの水」としての聖霊は、また本人をも霊的に深く満たしつつ、周囲に向かって流れ出て、それがまた他者に伝わり福音伝道となっていった。
日本のキリスト者が百二十年にもわたって歌ってきた次の讃美歌(歌詞)(*)には、この流れ出て、世界をうるおすいのちの水としての聖霊のはたらきがその内容となっている。

1 天つ真清水 流れきて、
  あまねく世をぞ 潤せり。
  長く渇きし わが魂も、
  くみて命に かえりけり。

2 天つましみず 飲むままに、
  渇きを知らぬ 身となりぬ。
  つきぬ恵みは 心のうちに、
  泉となりて 湧きあふる。

3 天つましみず うけずして、
  罪に枯れたる ひとくさの
 栄えの花は いかで咲くべき、
  注げ、命の ましみずを。
(讃美歌二一七)


*)この讃美歌の作詞者である、永井えい子は、江戸時代末期の生まれ。青山学院の前身の東京救世学校で英語などを学び、後に宣教師を助けて聖歌集の編集にかかわる。その頃作ったのが、この讃美歌であるから、彼女が十八歳ころの作品。その後の改訂を受けて現在の歌詞になった。なお、永井は後に、女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)などの助教授をも勤めた。

こうした聖なる霊のはたらきは、私たちも感じてきたところである。大きな影響を与えるようになったキリスト者たちは、確かに天来の聖なる風を受けた人たちであり、彼らの魂から流れ出るいのちの水によって周囲の人たちの魂をうるおし、福音を信じる人たちが加えられていった。
私は一冊のキリスト教の本から信仰を与えられたが、それはその著者からあふれ出た命の水が、その本の中に留まり、、私はその本からあふれ出た福音を受け取って飲んだということになる。
また、聖なる霊の風は、また、日常的に私たちを取り巻く自然からも吹きつけてくる。夜空の星も樹木や野草、あるいは青い空も雲もみな、そこから聖なる風が私たちの魂に向かって吹きつけているのである。
それらの自然は、神の直接の御手による創造物であり、神のお心(ご意志)そのままがそこにある。
それゆえに、心を開いて接するならば、いつもその神のご意志そのままの聖なる霊(風)がそこから、私たちに向かって吹いているのである。
ただ私たちが心のとびらを閉ざしているからそれが入ってこないだけなのだ。 今から二五〇〇年以上も昔に神が言われた次の言葉、「霊風よ、これらの死した者たちに吹きつけよ、そうすれば彼らは生きる」(エゼキエル書三七の九)
は、現代の私たちにもそのままあてはまる。私たちは、罪のゆえに死んでいるようなものであるゆえ、(エペソ書二の一)つねにこの願いを持っている。

聖なる風よ、私たちに吹きつけてください。そうすれば、どんなに罪を犯した人たちも、またさまざまの状況で苦しむ人たちも、霊的に生き返るこができるからです。
 そして、一人一人の魂からいのちの水があふれ出るようになりますように。

 


リストボタン核廃絶と憲法九条

八月になって、広島、長崎に原爆が落とされた日が近づくと、毎年核廃絶ということが新聞やテレビのニュースなどで言われる。
政府関係者もまた、同様に核廃絶という言葉をよく使う。 核兵器を廃絶すれば問題はなくなるかのような響きさえそこに感じられることがある。
核兵器で多数の人が死ぬ、そして何十年も苦しむ人が大量に出てくる。そのような兵器を廃絶することは当然、人類の願いである。
しかし、もし核兵器を廃絶したらそれで問題は解決するのだろうか。核兵器がなくとも、高性能の爆弾を用いれば、多量の人間の命を奪い、一生を破壊するような身体の重い傷害を受けることも多数生じる。そしてそれらの人たちの家族もともに取返しのつかないような苦しみと痛みを負わされて長い人生を歩まねばならない。
核兵器を使わずとも、東京大空襲では十万人もが、一夜にして命を失ったし、生き残った人たちも重度のやけどや身体に大怪我をしたり、家族の多くが死んだり重い病人や障がい者となった人たちも多い。
そうした数知れない人たちの死や苦しみや悲しみは、原爆とは関係なく生じている。
また、東京大空襲に続く日本の大都市の空襲によって、おびただしい人たちの命が失われて行った。
これは、日本がそれより何年か前に中国本土の上海、南京、重慶などの大都市に対して行った無差別爆撃という悪行の報いを日本が受けたという形になった。
 重慶への空爆は、一九三九年から五年半にもわたって二百回以上行われ、激しいときには、二日間で四〇〇〇人ほども犠牲者が出たという。
ベトナム戦争やイラク戦争、あるいはアメリカで高層ビルが破壊された同時多発テロなどでも核兵器は使われなかったが、膨大な死者や大怪我をした人たちが生まれた。ベトナム戦争だけでも、数百万人もの犠牲者が出たと言われる。
また、そういう戦争以前に行われた、日中戦争、太平洋戦争などで、日本軍が中国やアジアの国々に対して千万から一五〇〇万人にも及ぶとも言われるおびただしい人命を奪い、また身体の損傷を受けたのはさらに多く、人々の家庭や人生を破壊していったのも、核兵器による殺傷ではなかった。
ヨーロッパで行われた第二次世界大戦も核兵器は使われなかった。そこでも二〇〇〇万人に及ぶ大量の命が失われ、それ以上の人たちが負傷者となっている。
これらはみな核兵器を使わずに生じた犠牲者である。
このようなおびただしい犠牲者を生み出したもの、それは戦争である。
このように、核廃絶ということをいくら言っても、そしてもしも核廃絶がなされたとしても、戦争というものがある限り多くの人たちの命は奪われ、生活を破壊される人たちが生まれるということである。
NHKやその他新聞のニュースや報道記事で、核廃絶をしようとか、原爆被災者の話しを聞くとかがいつも繰り返しなされている。それはそれで必要なことである。
しかし、核兵器を使わなくとも、戦争が起こったらその状況によってはすでに述べたように、数千万という人たちが殺され、その死んだり重い怪我をした人たちの関係者もまた、長期にわたる苦しみを受けるのである。
それゆえに、戦争そのものを否定するのでなかったら、戦争の悲劇は生まれる。そしてその戦争を否定するためにこそ、日本には憲法九条が生まれた。
けれども、毎年の八月の各種の報道や記事では、核廃絶、戦争があってはならない、というような記事と戦争でどんなに悲惨な目にあったかという老人の体験談を語らせて終わるというのが通常である。
戦争を起こさせないために、いまの平和憲法を守らねばならない、といった主張はほとんどそうした紙面や報道では出てこない。
平和を守るため、自国を守るためと称して、戦前も戦力増強の道を歩み、それが第二次世界大戦、太平洋戦争などとなった。現在も同様な理由で、核兵器を持つべきだという国々があるし、日本でもそういう主張をする政治家や学者たちがいる。
しかし、そうした考え方や主張こそが、今日の核兵器のはんらんと世界的危機を生み出したのである。
 また、八月には核廃絶という言葉と共に、平和への願いとかいった言葉が繰り返し使われる。だが単に平和というだけでは、戦争の大きな口実にさえなってきたのである。
 太平洋戦争を始めたときの天皇の開戦の詔勅(*)の最後には何と言われていたか、それはまさに、平和のためということであった。

*) 皇祖皇宗の神霊、上に在り、朕は、…速に禍根を芟除(せんじょ)して、東亜永遠の平和を確立し…。

それゆえに、核廃絶すべきだとか、平和は大切だ、いう言葉を使って終わるのでなく、戦争廃絶をいうべきである。そのためには日本は特別にその戦争廃絶をうたった憲法九条があるのだからその精神を世界に高く掲げることこそ、日本の特別な使命がある。
そしてこの精神の根源は聖書にある。それは二五〇〇年ほども昔に書かれたと考えられる旧約聖書のイザヤ書の一部にすでに見られ、新約聖書に完全な形で現れる。キリストやその代表的弟子であったパウロやヨハネ、ペテロといった人たちの受けた啓示は、悪を倒すために、武力を使え、というような教えはまったく含まれていない。
このように、二〇〇〇年を越える昔から一貫して人類の心を流れてきた聖書の真理こそは、現代の混沌とした状況や、将来の何が起こるか分からない状況にあっても、つねに私たちを導くともしびなのである。

 


リストボタン愛と賛美の力によって 煉獄篇 第二七歌(その1)

煉獄篇第二十七歌では、人間の本能的欲望に負けた人たちが、煉獄の山の道の際から吹き出る炎によって焼かれつつ、その罪を清めている。
ダンテと、彼を導くウェルギリウス、スタテウスたちは、その火に焼かれないように環道のへりを一人ずつ歩いていった。
ここは最後の環道であったから、そこから上に登るならば、地上楽園に至ることができる。ダンテは、火に焼かれないままで、その地上楽園に至る登り道に入れるとおもっていた。
日はまさに沈もうとしていた。神の天使は、満面に喜びをたたえ、ダンテたちに現れた。 天使は炎の外にある環道のへりに立って、次のように歌った。

「何と幸いなことか、心の清き者は!」
この天使の声は、「そのさわやかさ、心地よさ、世間の声をはるかに凌ぐ。」(*

*)寿岳文章訳、原文は、in voce assai piuche la nostra viva voce 声―英語のvoice assai非常に、 piu より以上に nostra 私たちの viva 生きている)
ダンテの英訳として代表的な、ケアリ訳とロングフェロー訳をあげておく。
And with a voice, whose lively clearness far
Surpassed our human
CARY 訳)
In voice by far more living than our own. Longfellow )
・岩波文庫の山川訳は「その声 さわやかにして はるかにこの世のものにまされり」
・なお、河出書房の平川訳は、「私たちよりはるかに甲高い声で」とあるが、原語からしても、viva を 「甲高い」と訳するのは不可解な訳し方である。
この煉獄篇の状況において天使の声の状態の描写は重要であるが、訳によって大きく異なるのがわかる。

天使がみ言葉をもって賛美してダンテたちに語りかけたのであって、それは生き生きした声、いのちに満ちた声であって、それゆえに天の国のさわやかを帯びていたのである。
この後に続く聖書の言葉は、「その者たちは神を見る」である。火で焼かれて清められるとき、神を見るという祝福の境地へと導かれることを暗示している。
とくに最後の環道で清められるのは、本能にかかわる欲望であった。本能であるゆえに最後まで残る罪であり、汚す罪だといえる。そのために煉獄篇の最後の環道で、火によって清められている。
ダンテはこのようなみ言葉によって、その火を通っていくようにと後を押されたのである。
 煉獄の山においては、第一から第七までの環状になった道があり、その一つ一つの環道で違った種類の罪が何らかの苦しみを受けることによって清められている。
 そこから上部に上がるときに、その環道で罰と清めを受けていた罪が一つずつ天使によって消されていくのであった。
 例えば、第六の環道から第七の環道に至るときには、次のように記されている。

五月のそよ風が
草花のかおりに満ちあふれて、
かんばしくあたり一面にそよぐように、
風が私の額の真ん中に吹き寄せて、
(天使の)羽が動くのがはっきりと感じられ、
そこからかぐわしい大気が漂うのだった。(煉獄篇二四の一四五行~)

あるいは、第五の環道から第六の環道に登るときには次のようにやはり天使が額の罪という文字を消している。

私の額から罪の文字を一字消して
私たちを第六の環道に送り込んだ天使は、
はや私たちの後ろはるかとなった。(二二の一~三行)

現代のキリスト者においては、さまざまの罪は十字架のキリストを仰ぐことですべて赦されると信じるゆえに、このようにひとつずつ罪の種類に応じてその罪が消されていくという考え方は持っていない。
しかし、私たちの日々は神の恵みを受ける毎日ではあってもなお、その弱さから心ならずも罪を繰り返してしまうという実態がある。
そのような状況にあって、私たちが犯す罪を思い、またさまざまの苦しみや悩みもまた、犯した何らかの罪への罰であり、また同時に正しい道に立ち返るようにとの警告や勧めであり、また清めでもあるから、そのたびに十字架のキリストを仰いで罪の赦しを願うときには、み使いがその見えざる羽をもって私たちの罪を消してくれるのだと受け取ることができる。
実際、自然の谷川のながれや静かな夜の星の輝き、あるいは小鳥の歌や野草の花のたたずまい、といった自然の姿に接するときには、そこから天使の翼が私たちの罪深い魂に清い風を送ってくれて、罪を消し、心が清められるという実感を持つことができる。

このように上の環道に登るときに、天使によって一つ一つ罪が消されていくのであるが、第七の最後の環道から一番上部にある地上の楽園に登るときにはその記述がない。それはこの環道では火で焼かれているゆえに、その火が最後の清めとなっているからである。
さらに天使は言った。

「この火に咬まれぬうちは ここから先に行くことはできない。
聖き魂よ、この中へ入れ
彼方から響きわたる歌声に耳を傾けよ」

煉獄の山の頂上にある、地上の幸いな楽園、命あふれる場所に至るためには、火で焼かれるという苦しみを通っていかねばならない。このことは、旧約聖書の創世記にある記述と関連している。

…こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。(創世記三の二四)

アダムやエバたちには、労働することもなくして食べるによく、見ても美しい果実が備えられ、豊かな水も流れていた。しかし、彼らはそのような恵みに深く感謝して神の命令に従うことなく、蛇の誘惑に負けて神に背いてしまう。そのために彼らは楽園を追放された。
この記事は、現代の私たちにもさまざまのことを思い起こさせるものがある。私たちもまさにゆたかに与えられている神の恵みを思わず、歩むべき道を歩かずに闇の力、罪の力に負けてしまい、そこから大きな苦しみを受けることになることが実に多いからである。
命の木に至る道には、きらめく剣の炎が置かれたという。火で焼かれることなくしては命の木には達することができないようになったのであり、煉獄篇の二七歌にあるように、清められた者に与えられる地上楽園―それはエデンの園に似て、あらゆるうるわしきものに満ちているところであるが、そこに達するには、やはり火を通って行かねばならないのである。

しかし、ダンテは、そのような恐ろしい火を通っていくということはまったく考えてもいなかった。それゆえにこのように天使から言われても、到底はげしく燃える炎のなかに入ることはできないと思われた。
そのようなダンテに対して、ここまで導いてきたウェルギリウスが言った。
「わが子よ、火のなかに入ると激しい苦しみはあろうとも、死ぬことはない。
…地獄を通過するときにも、危険な場所を安全に導いてきた。ここではいよいよ神に近づいているゆえに、何を恐れることがあろうか。
 ただ、安んじて信ぜよ。もしお前がここにたとえ千年この炎のなかに留まろうとも、髪の毛一本焼けることもない。…さあ進むのだ。炎のなかに向かって信じて踏み込むのだ」
そのように、天使から言われ、さらに強くウェルギリウスにうながされてもなお、ダンテは一歩も炎にむかって前進できなかった。まるで足に根が生えたかのようであった。
いままで、地獄、煉獄と長い旅路をウェルギリウスに導かれ、彼の教え導くままにダンテは従っていった。そしてもうあと一息で地上のパラダイスというところまで来ることができた。
それにもかかわらず、この最後の登り道に入ろうとするところでこのようにウェルギリウスの強い勧めに従えない、ということはかつてなかったことである。
ここに、ダンテのような意志堅固の人であっても、自分の深い本性が焼かれるという苦痛にあえて踏み込むことができないということが示されている。それは、理性的な、哲学的な判断を十分に重ねてもなお、この自我とか本能的欲望の根を絶やすことはできないのであり、そのような特別な困難がここに示されている。
 私たちの内なる自我を砕くこと、それは実に困難なことであるゆえに、神はしばしば私たちに自分では決して選びとることのしない苦しみを与えて、自我を砕こうとされる。
どんなに意志堅固な者であっても、みずから交通事故にあって目が見えなくなったり、歩けなくなったりという大変な目にみずから遭おうとするものはいない。またひどい心臓や脳の病気になりたい、とか ハンセン病のような恐ろしい病気になろうとするものなどは有り得ない。
そのような人生の歩みのなかで遭遇するさまざまの困難を通っていく過程で神とキリストを知らされた人たちは、苦しみや孤独、悲しみによって魂が深く耕され、自我が砕かれ、そこから清めを受けてきた、ということを感じるであろう。
しかし、だれもみずからそのような火で焼かれるような魂の深い痛みや苦しみのなかに入っていくことはできない。
ダンテがこの激しく燃える火を前にしていかにウェルギリウスに強く勧められてもその火に入っていけなかったのもこうした困難を示すものである。
 そうした困難を導いたのは、神であり、神の愛であったということを、ずっと後になってようやく気付くのであるが、この煉獄篇の箇所においても、その炎の中へと踏み入れることができたのは、ただ一つの道によってのみであった。
それは人間の説得や、自分の理性的、哲学的判断でもなかった。ウェルギリウスはダンテが動こうとしないのを見て、次のように諭した。

「子よ、この火の壁こそは、お前とベアトリーチェとの間に立つ壁なのだ」

このウェルギリウスの言葉にベアトリーチェという名を聞いて、ダンテの心に大きな変化が生じた。ベアトリーチェとは、ダンテが九歳という子供のときにすでに出会ったといううるわしき女性である。しかし、神曲では単なる人間でなく、神の心をもった天的な存在の象徴として現れる。
ベアトリーチェへの愛は、ダンテの若きときにはすぐれて美しい異性への愛としてであったが、それはその後のダンテのさまざまの苦難、いわばそれは炎で焼かれるような苦難であったが、そうしたことによって若きときからの人間的な愛は焼かれ、神やキリストへの愛と同じようなものとしてたかめられていった。
この炎の壁を通ったらベアトリーチェという長年の愛をそそいできたお方、神の愛を完全に受けて清められた方に会えるのだ、という思いは、ダンテに新たな力を与えた。それによってダンテは炎のなかに入っていくことができるようになったのである。
たしかに、天的な愛は、どんな苦痛をも耐えていかせる力を持っている。理論でも説明でもない。ただ天からの声とみ言葉こそが、人を異常な困難な状況にあってもそこに入っていこうとする力を与えるのである。
新約聖書には、最初の殉教者、ステファノのことが記されている。彼は周囲の人たちから憎しみと怒りで石を投げつけられ死んでしまうが、そうした闇の力に呑み込まれようとするときに、天が開けてキリストが神の右におられるのが見えた。そのようなキリストにお会いできたということによってそのような恐ろしい敵意のなかでも、敵対する人たちへの愛をもって息を引き取ることができた。
私たちを、さまざまな苦難―それは人によっては火の中に入るような恐ろしい苦しみともなる―に入れるのは、偶然でも悪魔のわざでもなく、愛の神が私たちの魂を火のように焼くことで清め、鍛練して御国へのふさわしいものとするためである。
そしてまた私たちが、二つの道のいずれを選ぶべきかとその岐路に立つとき、より困難な道を選ぶことができるのは、神の愛を見つめ、それを信じるのでなかったらそのような火で焼かれるような困難を伴う道を選ぶことはできない。
ダンテが、理性の象徴であったウェルギリウスの繰り返し励ます声にもまったく動くことができなかったのは、理性の限界を意味するとともに、神の愛によらねば、私たちはまったき清めの状態へは、決して入ることができないということを示している。
ベアトリーチェのことを聞くことで、火の中に入ることを得たダンテは、そこで激しい焼かれる痛みを感じた。その痛み苦しみを和らげるためには、高熱で解けたガラスの中に飛び込むことがましだと思われるほどであったとまで表現している。
彼が常識的には考えられないような言い表し方を用いているのは、彼自身の魂の歩みのなかで、自分の内なる深い罪、本能的な罪、さらに罪全般にわたってそれがいかに根強く存在していたか、そしてそれが清められるためには、いかに苦しみを味わうことを要したかを暗示するものである。
私たちの味わうさまざまの苦しみ、魂の痛みはたしかに、その罪の深さを私たちが思い知り、そこからそれらの罪をになって十字架にかかってくださったキリストの恩恵をいっそう深く感謝し、味わうためにもなされていることを思わせる。
ようやく火の中に入ったダンテに聞こえてきたものがある。賛美である。

…火の向かい側で歌う一つの声が、つねにわれらを導く。
その声にのみ心をとめて行くときに、
我らはいつしか登りの始まる地点へ出た。(五五~五六行)

壁のように火が燃えさかる向こう側から、歌声が聞こえてきてそれがダンテたちを導いたのであった。ここにも、賛美の重要性が記されている。いままでにも、繰り返し賛美の重要性が煉獄篇には現れてきた。
以前にも例えば第五の環道において、地にはらばいになってかつての罪の罰と清めを受けていたスタテウスという人に関して、その人の魂の清めが全うされたとき、彼はそこから立ち上がり、天を目指して歩みが始まった。そのときに山が大きく揺れ動き、いっせいに耳が聞こえなくなるほどの大いなる賛美がわき起こったということがあった。(煉獄篇第二十歌の一三三行~)
あるいは、煉獄の山の門が大きな音をたてて開いたとき、奥の煉獄の山の方から聞こえてきたのも、やはり「神よ、私たちはあなたを賛美します」という歌声であったし、第一の環道から第二の環道に登るときに聞こえてきたのも、「心の貧しい者は幸いだ」という表現しがたい美しい歌声であった。

…ああ、地獄の口に比べ、
ここ煉獄の口はなんという違いだろう!
地獄へは恐ろしい叫びとともに入ったが
ここでは、歌声とともに入るのだ。(煉獄篇第十二歌一一〇~一一四行)

このように、さまざまの煉獄の歩みのなかで賛美が聞こえてくるように描かれている。これはまた、私たちのこの世の歩みにおいても実現していることなのである。私たちが神を信じ、生きてはたらくキリストを内に宿し、聖なる霊の風を受けるときには、たしかにそのような賛美が生活のなかにおいても聞こえてくるであろう。
それをうながし強めるようにと、神は周囲の自然にさまざまの賛美―星の輝きや青い大空、白い雲のような声にならないものもふくめて―を込めてある。
この煉獄篇二七歌では、最後の大いなる苦しみとしての火の中を通っていくというとき、ダンテを導いたのが、彼方から聞こえてくる賛美なのであった。
賛美は広い意味での祈りであるが、それはここにあるように力でもある。私たちの魂のうちに、清い賛美があるときには、この世の汚れというものを通っても汚されないで進むことができる。
このことは個々の人においても真理であるが、キリスト者の集まり(教会)全体をとっても真理である。
キリスト教の集まりは、そこにたえず賛美を置いてきた。それは単なる形式ではない。キリスト者の集まり全体を前進させていく力となるからである。
こうした歌の力は悪用され、歴史的には例えば軍歌によって戦争を推進していく補助的役割をになわせるといったこともなされたことがあった。また、現代においても、闇のからの音楽かと思わせるような音楽があり、善悪のことを分からなくさせるとか、人間を暗い世界へと引き寄せる力を持っているものもある。
そうした中にあって、キリスト教の賛美は、確かに歴史的な迫害や困難のなかを、その賛美をもって推進する力ともなってきた。
聖書全体を見ても、詩篇は神の言葉とされているほどに最も内容の高い賛美集であるが、聖書のハートと言われるように、長い間すでに旧約聖書の時代から人々の魂をとらえ、闇の力に打ち勝ち、火のような苦しみを通っていく力を与えてきたものであった。
聖書のなかの黙示録という迫害の時代に書かれた書物にも、この世の闇の状況が記されているなかにあって、天上の賛美がところどころに記されている。
天上に見たのは、あらゆるこの世の悪の力に勝利した人たちの姿であった。彼らは賛美を歌っていたのである。

…彼らは神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸に立っていた。
彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とをうたった。
「全能者である神、主よ、あなたの業は偉大で、驚くべきもの。
諸国の民の王よ、あなたの道は正しく、また、真実なもの。
主よ、だれがあなたの名を畏れず、たたえずにおられましょうか。…」(黙示録十五の二~四)

このように、聖書の最後の書である黙示録においても、天上の賛美を聞きつつ、御国を目指して前進していったあとがうかがえる。
現代の私たちにおいても、さまざまの困難や苦しみが火のように降りかかる状況はいつの時代にも同じなので、そうした賛美を心の耳で聞くことができれば、それを越えて前進していくことができる。
日曜日ごとの礼拝集会やその他の家庭集会なども、ともに主の名によって集まることによって祈りと賛美を捧げ、それによって共同で、み言葉をもとにしつつ、聖なる霊を与えられ、困難を乗り越えていけるようでありたいと願っている。

 


リストボタン集まりの重要性について

新約聖書においては、キリスト者の集まりは、キリストのからだである、という特別な表現がある。
…あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。(Ⅰコリント十二の27) このことは、信じる人たちの共同体(集会、教会)がいかに重要であるかを示すものである。 日曜日の礼拝集会をもとにしつつ、ときどき行われる特別集会―クリスマス集会、イースター集会、四国や四国以外の方々の参加する四国集会や、東京ほか各地で開催されるキリスト教の全国集会(無教会)、「祈の友」の集会、集会員以外の人が来られて行われる賛美や聖書講話などの特別集会等々、そうしたものに参加することで新たな恵み、予想していなかった祝福につながることも多い。
例えば、キリスト教四国集会(無教会)は今年の徳島での開催で三十七回の開催となった。これまでの三十六年間にこの四国集会によって多くの多くのキリスト者たちと出会い、その後も交流が与えられ、霊的な恵みがさまざまの形で与えられてきた。
 私たちのキリスト集会に、視覚障がい者が八名ほどもいるのは、 ずっと以前のこの四国集会に参加していた愛媛出身で大阪在住のSさんが、当時大阪にいたある中途失明者Tさんを私に紹介する手紙があり、そのなかで、その人を訪問して欲しいとの依頼があったことが元になっている。
そのSさんも、大阪のあるキリスト教の集会に加わっていてそのことを聞いたのであった。
そこから、Tさんに聖書の学びをすることになり、すぐに点字を覚えて、使うために、何度か県立盲人福祉センターに出向いていたら、そこの担当者から、一人の盲人でかつ肢体に障がいのある人の点字による教育にかかわってほしいとの要望があり、その人とも毎週点字での教育をその施設に私が出向いて行うことになった。
 こうしたわずか数週間の間に、続けて二人の全盲の人を紹介されてかかわることになったので、これは視覚障がい者の関わりを神が求めておられるのだとわかり、盲学校に転勤希望を出した。そのことから、多くの視覚障がい者が集会員のなかに含まれることになったのであった。
 そしてその視覚障がい者との関わりがあったから、私が北海道南西部の日本海側にある瀬棚地方の瀬棚聖書集会に毎年行くようになって八年目となっているが、その二年目に、私たちの集会の視覚障がい者の数人と、札幌の聖書集会の中途失明の方との関わりが生まれ、そこから、札幌での新たな集まりがなされるようになり、今年で七年目になっている。そこで旭川や、釧路、苫小牧のキリスト集会の方々とも出会いが与えられてきた。
 こうしたすべては、もし大阪でなされていた小さな集会がなく、また私が四国集会に参加していなかったら、あるいは四国集会というのがなかったら、生じなかったことである。
 私たちのキリスト集会は、視覚、聴覚、あるいは肢体、知的などいろいろな障がいをもった方々によって大きな恵みを受けてきたことは、集会員はすぐにわかることである。
 弱きところに神の力は現れる、ということはまことに真実であることは、こうしたいろいろな障がいを持った方が多く集会に含まれていることによって私たちが実際に学んできたところである。
 主が、四国集会という特別な集会を用いて下さったと感じている。
これは最も身近な私たちの現在のキリスト集会についてあげた例である。
 けれども、東京や静岡での無教会のキリスト教全国集会で出会った方々とも現在に至るまでいろいろと主にある交流が与えられている例も思い出す。
 現在、私たちの集会と深いつながりのある、大阪府高槻市の那須さん宅での集会は、那須佳子さんがもとになって始められたものである。
 那須姉とは、まだ彼女が独身のときであるから、数十年前に、京都の北白川集会主催の夏の聖書講習会(京都北東部の山間にある古知谷での集会)にて出会ったが、そのときはほとんど話すこともなく終わった。それ以後、「はこ舟」を送っていたが、まもなく住所が変更になり返送されてくるようになったのでそれきり関わりがなくなっていた。
 それが、一九九三年の静岡での無教会のキリスト教全国集会のときに、盲人の参加者がいるために参加者名簿も読めないから、全員によって県名、名前を言う時間がとられた。その自己紹介の時間が終わったとき、後ろから、私に呼びかける声があったが、それが那須さんだった。
 それから、大阪の方々に紹介し、いろいろと関わりが与えられ、最近は那須さんの息子さんである那須容平さんや、その奥さんである有加さんも信仰を与えられ、四国集会や近畿無教会集会、青年の全国集会などへの関わりも深められて重要な若手の働き人の一人となっている。
 これも、北白川の夏期の聖書講習会や、静岡の全国集会がなかったらこのようなことは起こらなかった。
 これは、私たちのキリスト集会との関わりが深い出来事の一端であるが、これだけを見ても、日曜日の礼拝集会しか参加しない、ということでは与えられない恵みが与えられるということがわかる。
 このような特別集会の恵みに関連して、世界的に知られているマザー・テレサがはっきりと最も貧しい人たちへの奉仕に踏み出すきっかけとなったのは何だったかというのを思いだす。
 それは、毎日している早朝の祈祷のときではなく、意外なことであるが、黙想会というある種の集会に参加するために乗っていた列車の中で神からの呼びかけを受けたことなのであった。
 このことは、マザー・テレサも忘れることのできない重要なこととして述べている。彼女は、まだ十二歳のころ、自分の一生は、自分の楽しみのためでなく、神にささげた一生にしようと決めるようにうながされた。それが第一の神からの呼び出し(召命)であった。
 そして、両親や家族から離れ、祖国であるアルバニアからも離れて、遠いインドに出向いた。そこで、年月が経って、彼女はカトリックの高校で教え、校長としても勤めていた。
 そうしたとき、一九四六年九月一〇日に、ダージリンというネパールに近い山岳地域(平均標高二〇〇〇メートルを越す)での黙想会に参加することになった。彼女の住んでいたカルカッタからダージリンまでは、直線距離でも五〇〇キロもあるところで、昔であるから相当時間もかかったと考えられる。
 彼女に決定的な召命―神からの直接の呼びかけ―があったのは、そのダージリンへ行く列車のなかで、ヒマラヤ山地の駅にて神からの呼びかけを聞いたのであった。(*

*)彼女自身の言葉を引用する。
「…It was on the tenth of Saptember 1946, in the train that took me to Darjeeling,the hill station in the Himalayas, that I heard the call of God. The message was quite clear. I was to leave the convent and help poor while living among them. It was an order …」

EDWARD LE JOLY. MOTHER TERESA of Calcutta - A BIOGRAPHY.p.9 Harper& Row,Publishers.

彼女が遠くの黙想会―これも一種のキリスト教の集会である―に行く、ということが、神によって用いられ、その途中の駅で神はマザー・テレサに呼びかけたのであった。
 神に関わる何らかの集まり、― マザーの場合は黙想会に参加することであったが― そうした目的のために祈り、労力を注ぎ、費用、時間などもかけていくこと、そこに普段とは異なる祝福が与えられることがしばしばある。
また、宣教師のはたらきは、表面的には、集会とは関係のないように見えるが、実はその宣教師を送り出したのは、所属するキリスト者たちの集まり(教会)の人たちなのであり、彼らの背後には祈りや資金によって支えるキリスト者の集まりがあった。
 そして、宣教師たちの目的は、異国のキリストの福音をまったく知らない人たちにキリストの福音を宣べ伝え、闇にいる人たちが本当の幸いを知ることができるようにということである。そして、宣教師が帰国したあとも、信じた人たちの信仰が持続し、さらに別の人たちにも伝わるようにするために、信じる人たちの共同体(教会、集会)ができるように、という目的がある。
 このように、ここでもキリストを信じる人たちの集まりということが、根底にあるのがわかる。
キリストの弟子たち、信徒たちが、祈りの集会を持って、復活の主の約束を信じて、真剣に祈りをともにしていると、そこに聖なる霊がそそがれた。それが二千年に及ぶキリスト教伝道の出発点であった。
 それと似たことがパウロの異邦伝道の開始にも生じた。
パウロが西アジア(現代のトルコ地方)からヨーロッパへの伝道に志したのは、彼の意図や希望ではなかった。
それは、主によって呼び出された人たちの集まりが熱心に祈っていたときに、それが祝福されて、聖なる霊がそそがれ、その聖霊が、パウロを遣わすようにと告げたと記されている。(使徒言行録十三章)
パウロという大使徒が生まれたのも、集会員の互いに熱心な祈りの交流があったゆえなのであった。
 福音のために、み言葉の集まりのために、さらに、神の国のためにと遠くの集会に出かけ、また私たちが祈りをもってそうした集まりを開くこと、そうした福音のための労苦は、主が祝福して下さる。
 もちろん病気や仕事、あるいは家庭の事情などでそうした特別集会に参加できない人たちも多くいる。
 しかし、その人たちは祈りという形で加わることができるようになっている。
 それゆえに参加できる人たち、健康やその他のことが恵まれている人たちはその恵みを用いて、特別集会に参加することによって、聖霊やみ言葉を受け、参加できない人たちにも祝福を及ぼすことができる。そうして集会が全体として御国への道を進んでいくことができる。

 


リストボタン北海道と各地の集会

今年の夏も北海道南西部の日本海岸にある瀬棚地方にて聖書集会があった。七月二二日~二五日(日)までの三泊四日の日程で、今回のテーマは、「主に信頼する者になりたい」であった。信仰は、例えば十字架を信じている、復活を信じているといって表面的に信じている気持ちになっていて、ふだんは神やキリストのことを思いだすことのないという場合でも、信仰を持っていると言われることが多い。
それゆえに、今回のテーマはそのような形式的、表面的信仰でなく、生きた信仰、困難なときにもあくまで主に信頼して生きていく姿勢を求めたものだと感じられた。
そのため、今回はとくに 主に信頼する、ということについての聖書からのメッセージはどういうものなのか、それを旧約聖書のなかから選び、さらにとくに詩篇はそうした信頼の生きた記述であるので詩篇を別個に取り上げ、そして新約聖書における、主への信頼ということをみ言葉から学ぶことにした。
それらの聖書講話を三回、それぞれ一時間ほどをあて、そのあとで、その内容に関して、あるいは各自の生活のなかからの感話、自由な話し合いというものを一時間半ほどがあてられていた。
その話し合いにおいては、信仰のこと、そして夫婦や家庭の問題であっても率直に語られ、参加者の心に残る内容であった。ふだんはなかなか言葉に出しては言いにくいようなことをもみんなの前で話されることがしばしばあったのは、それだけこの聖書集会が主を中心として互いの信頼によってなされているからだと感じられた。
瀬棚の地以外の、キリスト教とは関わりのないところから結婚して酪農にかかわるようになった若い女性もいるが、そうした人たちもこの聖書集会に積極的に参加しているのも主の導きと祝福だと感じた。
この聖書集会の間、すぐそばの茂みからウグイスのさえずりがずっと聞こえていて、日によっては朝から夕方まで歌い続けている状況のなかでの学びや話しあいとなった。いままでこのようなことはなかったので、主の恵みをこんなところからも感じさせられた。
最後の四日目は、瀬棚から二〇キロほど離れた、日本キリスト教団・利別教会において、瀬棚の集会に参加している人も加わり、合同の主日礼拝であった。ここでは、説教として「喜びの知らせとしての聖書」というタイトルで語らせていただいた。
瀬棚の聖書集会にも、利別教会の相良展子牧師や数人の信徒も参加され、教会の方々の祈りもふくめての支援も合わされてこの集会が運営されているのは、数十年も前から無教会のキリスト者と教会のキリスト者たちの主にある共同体が続いていたからであり、ここにも主のわざを見せていただく思いであった。
瀬棚聖書集会の終わった翌日は月曜日という平日であったが、札幌での交流集会が行われ、これはもう七回目を迎えることになった。瀬棚集会がなかったらこのようなことは有り得ないことだったので、私たちの思いを越えて働く主のみわざをここでも知らされている。
ここでは、「聖なる霊の働き」というテーマで、旧約聖書、新約聖書を通しての神の霊、聖なる霊について語らせていただいた。聖書講話の後の感話のときの話しで、参加者もその多くが、苦しいときにも、病気や人間関係など、あるいは老年になってもつねに力づけ導きを与えられる聖霊の重要性を感じておられるのがうかがえた。
その後、苫小牧において集会が与えられ、初めての方々とも主にあって出会うこともできた。この集まりも札幌での交流会の関わりからなされるようになった。
北海道を出てからは、青森、盛岡の信仰の友を訪ね、山形県鶴岡市、山形市、仙台市、郡山市、それから房総の大網地方での集会と続いた。
 鶴岡市では、以前の徳島での全国集会に参加されたことが機縁となって佐藤さん宅での集会がもたれるようになり、今年で三度目となった。
 集会のあとで、鶴岡の地での無教会のキリスト者たちの福音伝道、集会などの写真集を見せていただいた。
 昔の写真も多くそこに見られ、きちんと整理されていて、古くから福音のために生き、歩まれた方々の足跡とそれを導かれた神のはたらきを思った。
 山形の集会では、いつもの方々のほかに、今回はとくに白崎さんご一家が九〇歳を超えた方から結婚したばかりの若い土屋夫妻もふくめて参加されて、初めての出会いもあって感謝であった。
 山形の方々と関わりが与えられたのも、きっかけは、だいぶ前の無教会の全国集会のときであり、黄木定兄との出会いから導かれた。ここでも、全国集会が新たな交流のきっかけとなったのを思いだす。
 仙台の集会では、石巻からの初めての参加者もあり、土曜日でもあったため、いままで参加されたことのなかった方々も参加して、集会が与えられたことは感謝であった。
 仙台の方々とは、市川寛治兄との出会いから導かれたが、最近は若い田嶋さん夫妻が、今回の集会にも特に関わって下さっているのは感謝である。
 その後、福島県郡山市において、富永 国比古兄のロマリンダ・クリニックでの二回目の集会で、今回は主日礼拝で、詩篇三四篇のみ言葉について語らせていただいた。
 ここでも初めての方々とも出会いの場が与えられ、新しい主にある交わりと学びが与えられたのは感謝であった。
 その後、いわき市へと向かい、「祈の友」会員でもある、吉原賢二兄宅を訪ね、お話しをうかがう機会が与えられた。
 吉原兄からは、以前に「夕映えの杜に」や、「いのちの杜に歌声起こる」の著書を送って頂いてそのお働きの一端に触れていたので、直接にお会いできたことは、それらの書物に書かれたことがいっそう身近になる思いがした。
 またそこからは、茨城県東海村に向かい、かつて京都の北白川集会時代に一緒だった、教友、峰原さんを数十年ぶりに訪ねた。主が離れた場所にあっても、いろいろな方法で導かれているのを知らされた。
 その後、房総の足立 哲郎兄宅にての集会が与えられ、今回で二回目であるけれども、、初参加の方々とともに親しく迎えて下さり、主がそこにおられて祝福してくださっているのを感じて、よきみ言葉の集会が与えられた。参加者の多くは、「いのちの水」誌をお送りしていることもあって、今後とも、み言葉を中心とした交わりが続けられるようにと願った。
 夜になったが、千葉県西部の市原市におられる土屋聡さん宅を訪ね、ご家族の方々や遠縁にあたる方の参加もあって家庭集会がなされた。土屋さんのご両親は、一九九一年の徳島での無教会のキリスト教全国集会に参加されていて、ずっと以前からの「はこ舟」、「いのちの水」誌の読者であり、また「祈の友」でもあったので一度はお訪ねしたいと願っていた。
 次いで、八王子での集会に向かったが、この地で集会がなされるようになったのは、やはり全国集会が機縁となっている。今回も永井さん夫妻、岩島さんのご親族関係の方々や以前から何度か参加された方、初参加の方も含めて、八王子市の会館の一室での集会が与えられた。
 その後、次の集会地である山梨県の北杜市に向かう途中にある大月市にずっと以前から「はこ舟」、「いのちの水」誌を送っている方を初めて訪ねたが、その方の奥さんが、札幌の交流集会に参加しておられた渡辺さんや、五月の四国集会にて聖書講話をしていただいた、大分の渡辺さんと縁戚関係があると伺い、意外なつながりを知らされた。
 今回は、いつも集会を持って下さっている南アルプス市の加茂さんご一家がドイツに行っておられるとのことで、今回初めて山梨県北杜市の山口さんご夫妻宅にての集会となった。
 ここでも初参加の方が何人かおられた。また、「いのちの水」誌を読んでいるといわれる九〇歳を超えた方が、わざわざ東京からご子息の運転で参加されるという意外なこともあった。 緑の原を眼前にしつつ、聖霊の風を感じさせられた集まりであった。
 集会には、特別な困難、苦しみを持った方も参加、あるいは集会関係者にもおられるということもあって、いっそうその苦しみのなかに聖なる霊が注がれますようにと祈っての集会となった。
 次には、長野県上伊那の那須野さん宅での集会で、今回初めての場所であった。数年前は白鳥宅、次には、有賀宅、その翌年は倉田宅といろいろな方々のお家での集会を与えられてきたのも、それぞれに違った霊的雰囲気があって恵まれてきた。
 もともと、以前から、機会あれば、「祈の友」の有賀慶治さんや白鳥さんを訪ねたいと願っていたことが、三年半ほど前に白鳥さん宅で集会がなされることにつながった。 残念なことに、有賀兄は私が訪ねる少し前に召されていたが、そのかわりにその親族の方々や上伊那の方々の信仰にはじめて触れて、ともに礼拝をする恵みを与えられることになった。これも「祈の友」という交わりの場に加入していなければ与えられなかったことであった。
 今回集会を持たせていただいた那須野嘉信さんの、ご父君がこの上伊那地方にキリストの福音をもたらして以来、この地に無教会の集会がもたれているという。
 次いで下伊那地方に住んでおられる松下さん宅を訪ね、その教友と、夏休みで来ていた、親族の子供さん三人を含めて六人ほどで、とくに子供にも神様のことを少しでも話すことができたらと植物や昆虫の観察をも兼ねて話した。
 このようにして、各地での集まりでみ言葉を語る機会が与えられ、主にある交わりが新たにされ、あるいは、「いのちの水」誌だけでのつながりであった方とも初めて出会いが与えられて今後も主がなかにあって導いてくださることを思った。
 こうしたみ言葉の集会を主が用いて下さって、そこに聖霊があらたに注がれ、み言葉がよりいっそう強く根ざすようにと願ってそれぞれの集会を終えることができた。 
 こうしたさまざまの地方の方々との出会いのきっかけは、「いのちの水」誌や、「祈の友」、東京や徳島などでの全国集会、四国集会、近畿無教会集会、といったさまざまの特別集会によって与えられた。
 別項で書いたように、み言葉のために出て行くことは、予想していなかった恵みを与えられるものである。それは実際に聖書の書かれた時代には、そのようにして、み言葉は伝わり、また遠くのキリスト者同士の励まし合い、助け合いによっても福音の伝達は進められてきた。現代でもそのことについては変ることはない。
 今回集会が与えられた、長野県の方からの来信で、
「以前は政池先生、日吉先生などおいで下さって合同集会を持たせていただけましたのに、長年そうした集まりがなくておりましたのに、久しぶりに合同集会を持たせていただき、やはり小集会より霊的に恵まれ、また新鮮さが与えられ感謝でございました。…」と書いてこられた方があったように、主が霊的な新鮮さを運んで下さったとすればとても感謝すべきことと感じた。私たち自身は弱く罪深い存在であっても、そこに主が真理のみ言葉を入れて下さるとき、それが用いられる。
 また、み言葉による集いや交流によって、私自身も新たな霊的な恵みを与えられた。
 今回の北海道ほか各地でのみ言葉のための集会や訪問は、長距離にわたるものであったから、途中の体調の異常や交通状態、あるいは天候異変、あるいは何らかの事故などあれば、それ以後のすべての予定はこなすことができず、多大の迷惑をかけることになるゆえに、出発して以来、絶えざる祈りをもっていたが、他方、徳島の集会の多くの方々が祈りに覚えて下さり、それぞれの集会の地の方々も祈りをもって準備してくださったのを感じ、主により、多くの方々の祈りに支えられての行程であった。
 主が支え、導いて下さったことを感謝し、み言葉の力、聖なる霊の注ぎが、各地の集会の上に注がれるようにと願ってやまない。

 


リストボタン名作のなかから ―アンクル・トムズ・ケビンより
 小さな天使
《ある裕福な家庭で、一般の白人よりはるかに奴隷に思いやりのある主人が、黒人奴隷の子供トプシーを持っている。しかし、トプシーは、奴隷であった両親から幼いときから引き離され、愛を受けたことがなく育った。
 その子の心はゆがめられてしまい、やさしくしてくれる主人たちのいうことを聞かないで、悪いことばかりする。
 その主人の妻は、こんないうことを聞かない子は、足腰が立たなくなるほどのひどいせっかんをしなければいけないと言ったほどだ。
その家にいたのが信仰深いエヴァという少女であった。
 そのエヴァは、病気が重くなり死のときが近いという状況にあったが、そのトプシーを自分のベッドに呼んで次のように話しかけた…》

…おまえ、だれかを愛してはいないの。トプシー?
「愛なんてこと、何もしらねえです。」
「でもお前のお父さん、お母さんを愛しているでしょう?」
「そんなものはいねえです。いつか言ったでしょ、お嬢さん。」
「ああそうだったわね。」とエヴァは悲しそうに言った。…
「でも、たとえおまえが黒くっても、愛してもらえるようになるのよ」
「そうは思わねえです。あの方は、あたいに我慢ができねえです。
 あたいが黒んぼうだもんだから―あたいに触られるくらいなら、ひきがえるに触られるほうがましだと思ってるんです!
 黒んぼうなんか愛してくれる人はいるはずがねえです。
 だから黒んぼうは何もできねえです。それでもあたいはかまやしねえ。」
「おお、トプシー、かわいそうに。わたしはお前を愛しているわ!」
 とエヴァはぐっと込み上げてくる感情に思わず叫んだ。
そしてその小さな細い白い手をトプシーの肩に置いた。
「わたし、お前を愛しているわ。だってお前にはお父さんもお母さんも、友だちもいないんですものね。―
 お前はかわいそうに、みんなから虐待されてきた子供ですものね!
 わたし、お前を愛しているのよ。だからおまえもいい子になってちょうだい。
わたし、からだがとても悪いのよ、トプシー、もうあまり長くは生きていられないように思うの。
 おまえがそんなにいたずらな子だと、わたしはほんとうに悲しくなるの。
 わたしのためと思って、どうかいい子になるようにしてちょうだい。お前と一緒にいられるのも、もうほんの少しの間だけですからね。…
その黒人の子供の、まるい鋭い目は涙でくもった。― 大粒の輝く涙が一滴また一滴とあふれ出て、小さな白い手の上に落ちた。
まさにこの瞬間、真の信仰の光、天上の愛の光がその心の中に射し込んだのである!
彼女はひざの間に頭をたれて、すすり泣きだした。― そして彼女の上に身を傾けている美しいエヴァの姿は、さながら罪人を導く天使の姿に似ていた。
「かわいそうなトプシー! おまえ、イエスさまはだれでも分け隔てなく愛して下さるということを知らないの?
あのかたはわたしを愛して下さると同じように、喜んでおまえを愛して下さるのよ。わたしがおまえを愛するように。
―いいえ、もっともっとおまえを愛して下さるのよ。あの方はわたしよりずっといいかたですもの。おまえがいい子になるよう、お力添えをして下さるわ。
そして最後には、おまえも天国へ言って、永久に天使になれるのよ。それは白人と少しも変わりないわ。そのことをよく考えてちょうだい。トプシー!
おまえだって、アンクル・トムがよく歌うあの輝く天使たちのひとつになれるのよ。」
「ああ、お嬢様、お嬢様!」とその子は言った。「やってみる、あたい、やってみるです。あたい、これまでそんなこと少しも思ったこともなかった。」
(「アンクル・トムズ・ケビン」*)下巻 一五〇~一五二頁 ストー夫人著 角川文庫)

*)このアンクル・トムズ・ケビンという作品は、トルストイが、「神と隣人に対する宗教的自覚から流れでる感情を伝える芸術」の代表的なものの一つとして、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」、シラーの「群盗」、ディッケンズの「二都物語」、ドストエフスキーの「死の家の記録」などとともに、あげている。(トルストイ全集第十七巻 芸術論・教育論 一一〇頁 河出書房新社刊)
神の愛を主題とした文学作品は、トルストイが指摘しているように、驚くほど少ないが、このストー夫人の作品は確かに、そうした稀な著作である。


・ここには、どんなにかたくなになった心、絶望的なまでにゆがめられてしまった心であっても、もしキリストの愛がそこに触れるならば、変えられるという、作者のストー夫人の確信が現れている。
これは聖書から生まれた確信であり、ストー夫人自身が経験してきたことであるゆえにこのような作品に描き出すことができたのであろう。
制度を変えても、あるいは厳しい処罰によっても、また物質的な豊かさを提供しても、いかなることによっても変ることのないかたくなな心が変えられるのは、ただキリストの愛のみ、その真理は今に至るまで変ることがない。
これは単に小説のことでなく、私たちの一人一人が、実は、このトプシーのように、神の御前ではかたくなで、扉を固く閉じていた者であったのであり、そのところに主がその愛を傾けて下さったゆえに、私たちは神の愛を知ることができたのであった。

 


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○木星の輝き
最近、夜の八時ころには、東の空に強い光を放って心惹かれるような星が見えてきます。夜半の明星とも言われる木星です。天気がよいときには、一晩中見られます。深夜零時ころにはほぼ真南の空に移動していてよく見えますから、見たことのない方は、ぜひ見てほしいと思います。木星の光は、ほかの星とは群を抜いた強い透明な感じの光なので誰でもすぐに分ります。
金星は夕方の空に強い輝きを見せてきたのですが、それがもう見えなくなりつつあります。その代わりに、東の空にこの木星がバトンタッチするように見えるようになっています。
これからかなりの期間にわたって木星は夜に私たちに語りかけるように夜通し見られるのは幸いなことです。やはり星の光はいかなる地上世界の状況にもかかわらずずっと輝き続けていることもあって、見えるもののうちでは、とくに神の真理やそのまなざしを感じさせてくれるものだからです。
ダンテがその神曲において、地獄偏、煉獄篇、天国編の三つの部分の最後に 星(ステレ stelle)という言葉をおいたのも、彼が、星に深い意味を感じ取っていたのをうかがわせることです。
なお、このイタリア語のstelle は ラテン語のステールラ stellaに由来していますが、この語は、ギリシャ語の アストロン astronや アステール aster、さらには 英語の star、ドイツ語の シュテルン Stern などとも語源的には共通しており、古代の広範な民族において、星という言葉は、同じ語源に由来する言葉を用いてきたのがわかります。

 


リストボタン報告とお知らせ

○近畿無教会集会
 八月七日(土)~八日(日)の二日間、京都市西京区の桂坂で、第十回の近畿無教会集会が開催されました。今回は、とくに「聖霊」というテーマで聖書講話もなされ、参加者が聖なる霊を受けることができるようにとの願いがありました。 登戸学寮長の小舘 美彦さんと吉村 孝雄の二人がこの聖なる霊について語り、確かに、多くの人たちの祈りと求めによって聖霊の風をいただいた集会でした。

○特別集会
 十月二四日(日)は、大阪から、全盲のシンガーソングライターである、阪井和夫さんと、浜田 盟子さんが徳島聖書キリスト集会に来られて、演奏と賛美をしてくださいます。

○九月二三日(休日)は、香川県坂出市の日本キリスト教団大浜教会にて、祈の友・四国グループ集会が行われます。午前十一時~午後四時です。「祈の友」会員でなくともどなたでも参加できます。

○九月二五日(土)~二十六日(日)は、大阪での全国集会。詳しくは、前月号を参照。

○MP3対応 CDラジカセ
 私たちの徳島聖書キリスト集会では、毎週日曜日の主日礼拝と火曜日夜の夕拝の全部の全内容を録音したCDを希望者に送っています。大体十二時間ほどの内容です。(一か月送料共で五百円、年間六千円)そのほか、四国集会や、徳島での全国集会、瀬棚での聖書講話など、さまざまの聖書講話の内容を、MP3という形式でCDに録音したものを作成、配布しています。
 従来のようなカセットテープでの録音では、一か月間の礼拝集会の録音内容は八~九本にもなり、作成や送付も大変だし、また聞く方も頭出しが難しく、聞きたいものだけを選んで聞くことがとても面倒です。
 しかし、CDにしますと、十二時間ほどの内容であっても、一枚のCDに収まりますし、聞きたいところが即座に聞けるというカセットテープよりはるかに便利なものです。
 このようなMP3のCDが再生できる機器は、パソコンや性能のよいミニコンポなどありますが、それらは操作ができないとか高価という点で難点があります。
 一番手軽で誰でも、機器に弱いという方でも、老齢の方でもすぐに使える、操作ボタンも大きいというのが、ここで紹介するMP3対応 CDラジカセなのです。
 しかも、取っ手がついているので、台所でも居間、寝室など どこでも持っていけます。
 このようなMP3対応のCDラジカセは、電器店に行ってもほとんど見当たらないし、店員もよく知らないということが多いので、私が折々に紹介しているわけです。
サンヨーの製品が生産終了となってしばらく、MP3対応のCDラジカセはなかったのですが、最近ビクターから販売されています。
 型番 RC-EZ57-A です。インターネットができる場合はこの型番で調べて購入できます。価格は、ネットより購入で、一万円前後です。
 これがあると、パソコンがなくとも、MP3対応のCDが使えますので、私たちの集会での主日礼拝、夕拝の全内容の録音のCDを聞くことができます。
 もしインターネットできなくて電気店も近くにない場合は、左記の吉村まで申込あれば、お送りします。(最近も数人の方から申込がありました。)
 たくさんのCDラジカセが店頭にあっても、MP3対応のものは現在ではこのビクターのものしかなく、これもいつまで販売期間が続くのかわかりません。ある一定数を販売するとそれは生産終了となってもう購入できなくなります。そのためにこうして何度も紹介をしています。