201110 608


真実をあなた方に言う。人は新たに生まれなければ、
神の国を見ることはできない。

(ヨハネ329



内容・もくじ

リストボタンみ言葉の深き味わい

リストボタンすべてを奪うもの、与えるもの

リストボタン主は心を見る

リストボタン再生への祈り

リストボタン救いと勝利―詩篇20

リストボタン燃え移っても気づかない人々―原発の輸出

リストボタン詩、ことば  星の世といつくしみ深き

リストボタン休憩室

リストボタンお知らせ


リストボタンみ言葉の深き味わい

 
聖書だけは何度でも繰り返して読める唯一の本である。

2000年もの間、無数の人々によって繰り返し読み続けられてきた。

 ほかのどんな本も、数回も読めば読み飽きる。

 一回しか読む気がしないものの代表は、新聞の多くの記事だろう。

 読み捨てるという言葉があてはまる。

 となり人を愛せよ、このひと言は、一度聞いたらわかった、というものではない。主の愛を受けて隣人を愛するということは、どこまでも深い。隣人のために命まで捨てるということまで考えるとき、通常の人間がそう真剣に考えていていないといえよう。

 隣人を愛せよ、これは10回読んでもう卒業したということはあり得ない。隣人とは果てし無く多いし、また全く思いがけなく出会った人もまた隣人である。

 聖書の言葉は、いくらでも奥が深い。それゆえに、たった一行、ひと言のようなものでも、そこに聖霊が働くときには、私たちにとっては実に深い言葉、長い間かかってもなお、その奥行きの一部しかわかっていないと感じてしまう。

 ああ幸いだ、悲しむ者たちは。その人たちは(神によって)慰められる。というわずか一行の言葉が、どれほど深い味わいを持っているか、それは私たちが深い悲しみとそのただなかから与えられた天の国に属する慰めを受けたときに知らされる。

 聖書とは、まさに限りない経験の書物である。数千年という長い間、無数の人たちがこの言葉によって人生を歩み、また励まされ、また新たにされ、平安を与えられてきた。

 繰り返し読むことは、そうした無数の人たちの魂の経験を自分の心に重ね合わせていくことであり、数知れない人たちの心の歩みをともにすることなのである。

 


リストボタンすべてを奪うものと与えるもの

原発の大事故は、福島の多数の人たちからさまざまのものを奪っていった。生活の場であった家を奪われ、田畑での農業、酪農などの仕事を奪われ、さらに、家族や地域、友人なども奪われていった。  しかし、こうしたことは、今回の大事故によって始まったのではない。

 実は、はるか40年も昔から、始まっていたのだ。多額のお金によって、まず地域の人たちの良き心が奪われていくことから始まっていたのである。

 戦争もその戦乱が起こるところでは、自然の美しさも家族のつながりや仕事も、何もかも破壊される。奪われていく。

 しかし、原発の事故においては外見は周辺の広大な地域では田畑が目に見えるかたちでは変化もなく、家々も燃やされたりしたわけではない。

 しかし、見えない放射線によって、家族、職業、学校、役所、川や海、田園等々、人間の生活に関わるすべてのものが破壊されていく。

 しかも、その災いのもとになった、核燃料廃棄物は何十万年も人間に害を及ぼし続けていく。

 そのような大量の放射能を持った原発の近くには何十年も帰ることはできず、半永久的に住めなくなる可能性が高い。

 福島県の人が、つぎのようにその奪われた悲しみと憤りを書き綴っている。

 

ああ、どうしてこんなことになってしまったのか。

交付金という麻薬を飲まされ、酔わされてしまった県民。

「安全神話」という根拠のない言葉にだまされて増やしてしまった原発。

 空気も水も土も、きれいな故郷は汚れてしまった。

 多くの魚が取れ、海水浴のできる海を返せ。

新鮮な作物ができ、おいしい果物が取れる田畑を返せ。

3世代が平凡ながらも、幸せに暮らせる団らんを返せ。

子供たちがのびのびと外で遊び、そろって学習のできる学校を返せ。

遠く避難している母子をその父に返せ。

ああ、どうしてこんなことにしてしまったのか。…(毎日新聞10月7日)

 

 華やかな原子力の平和利用、という名前のかげで、このような悲劇が生じることは実は、ずっと以前から予想されていた。一部の人が一貫してその本質的危険性を問い続けてきた。

 それらは、政府や電力会社、彼らを支える御用学者たち、地域の政治家、金にむらがる一部の住民たちによって無視されてきた。

 このような、強欲と偽りと良きものを奪い取っていく悪魔性を原発は内蔵しているのである。

 こうした奪い取り破壊していく本質を持っている原発と全く正反対のものがある。

 たえず与えようとする本質、悪しきものにも良きものをたえず注いでいく存在がある。

 それが、聖書に記されてている唯一の神であり、キリストである。

 

 …あなた方が、私の名によって何かを父(神)に願うならば、父はお与えになる。

 願いなさい。そうすれば与えられ、あなた方は喜びで満たされる。(ヨハネ福音書16の23~24より)

 原発の事故によって何もかもが放射能で汚されていくのに対し、神の力、キリストの愛は、汚れた人間の魂や過去にひどい害悪をなした悪人ですらよいものと変えていく。汚れを清めていく驚くべき力がある。

 すべてを奪い、汚していく原発の放射能、それに対して、求める者には人の魂に必要なすべてを与え、かつ清めていく神の力、聖なる霊のはたらきがある。

  すべてを奪われた人たちが、こうした目には見えないよきものが与えられる道を知ってほしいと思う。そして力を与えられ、なんとかして前進できるようになってほしいと思う。

 こうした霊的に必要なすべてを与える神の力は、特別な災害を受けた人たちだけが必要なのではない。そのような目にあっていない者たちにも、その聖なる霊の清めと聖霊は何よりも必要なものである。

 どんなに悲しみ深くとも、聖なる霊が注がれること、聖霊に出会うときには、その悲しみをも喜びに変えられるのだから。

 

…今は、あなた方は悲しんでいる。

 しかし、私は再びあなた方と会い、あなた方は心から喜ぶことになる。(ヨハネ福音書16の22)

 


リストボタン主は心を見る

 

 外見でなく、心を見ることの重要性、このことは、キリスト教に限らず、いろいろとよく言われていることである。星の王子さまにもある。

 私たちも、目に見える表面の出来事や有り様だけでなく、そうしたことを起こされた神様の心を見ようとする姿勢を持ちたいと思う。

 私たちは、つい表面だけを見てしまう。星を見る、それでもただその輝きだけを見るのでなく、それを造られた神様のお心を見ようとすることが大切なのである。

 見たくないような被造物、ある種の動物や昆虫などもある。しかし、何のために神様はそのようなものを造ったのか、と思いをめぐらし、そうしたものをも創造された神のお心を見ようとするようでありたい。

 分からなくとも、そのようにいつも努める。まず神の国と神の義を求めようとする。

 相手の人間の心を見る、それはわかっているようで難しい。

 主にあってものごとを考える、というのは、そのことである。神の霊によらなかったらできない。

 悔い改め、方向転換とは、見えるもの、自分中心でなく、神中心となること。

 人間の心を見るだけでなく、神の心を見ようとする。ここにふつうに言われる「心を見る」ことと根本的に異なる内容がある。

 体や心に苦しい病気にある人の心を見る、それはとても困難である。

 主イエスだけは完全にその心を見ることができた。そしてそこに相手の心が最も必要なものを注ぐことができた。

 旧約聖書に現れるサムエルのような預言者、神から特別に選ばれた人であってもなお、外見で見ようとした。また、恐れて神の命じられたことに従おうとしなかった。(サムエル記上16章)

 神を礼拝するときも、霊と真実をもって、と言われている。

また、聖なる霊が与えられるということは、神の心を与えられること、それゆえ、その聖なる霊によって表面でなく、その心を見ることができるようになる。

 野の花を見よ、といわれた。それは、創造された神のお心を見ようとすることであるし、太陽や雨を見てもやはり、そうしたものを創造されたその神の心を見ようとすることである。

 聖書の記事も同様である。言葉の表面だけでなく、その言葉や出来事の背後にある神様のお心、ご意志を見ようとすることが求められている。

 敵対する人、自分を攻撃してくる人に対しても、なぜそのようなことをしてくるのか、なぜ神様はこうしたいやなことを起こされるのだろうか、とすべてをご存じである神のお心を知ろうとする。

 罪を知るとは心を見ること。自分の心を見ること。そして、まず神の国を求めるとは、神のお心を見ようとすること。

 罪を犯すとは、神のお心を見ようとしないところから生じる。

 心の清い者は、神を見る、と主は約束された。心で見るといっても、汚れた心、自分中心の心で何かを見ようとしても見えてこない。

 それは清められた心でみなければならない。聖なる霊により、また神の言葉によって清められる(ヨハネ15の3)ときに、はじめて「神を見る」と言われていることが成就する。

 神を見る、というとあり得ないように思われるが、神の本質たる愛や、清いもの、美、力、永遠、といったあらゆるよいものが見えてくる。それを与えようとする神の心も見えてくる、感じられてくるということなのである。

 


リストボタン再生への祈り

 
私たちが最も願っていることは、再生である。病気になったときに、それが痛みが強く、苦しいほど私たちはその痛みや苦しみが早く治るようにと、ただそれだけを願うようになる。

 それは、弱った体、傷ついた体からの再生を願うことにほかならない。

 痛みで何も考えられないほど、あるいは夜も眠られないほどになると、それは全身での願いとなる。

 聖書の中でも最も人間の心を直接的に表現している詩篇においては、神への切実な叫び、祈りが数多く記されている。

 そして、主イエスが、地上においてなされた働きで重要な部分をしめるのが、そうした苦しみ悩む人々、とくに医者にもかかれず、痛みを軽減する薬もなく、社会的にも何の保障もなく、ただ耐えがたい病の苦しみや悲しみに打ちのめされている人たちへのいやしであり、救いであった。

 それは言い換えると、彼らの病める体と心の再生であった。

 マタイ福音書においてイエスの山上の教えのあと、まず記されているのが、病気のうち、最も精神的にも肉体的にも地獄の苦しみを味わうことになるものとしておそらく世界的に恐れられていたハンセン病の人のいやしの記事であった。

 そして、次に記されているのが、中風で寝込んでいてひどい苦しみにある人へのいやしであったし、その次もペテロのしゅうとめの熱病のいやしであり、さらには、多くの病人をいやされたという記述である。

 そして、このことは、イザヤ書53章に預言されているメシアが、「…彼は私たちの重荷を負い、私たちの病を担った」と記されていることの成就であった。(マタイ817

 そうした肉体の病気に次いで記されているのが、精神の病といえる、悪霊に取りつかれた人のいやしである。

 次には、12年間も出血の病気があって、汚れた女とされて宗教的にも肉体的にも非常な苦しみを味わってきた人のいやされることや、生まれつきの盲人のいやしが記されている。

 こうした病のいやしとともに人間にとって最も深い願いと祈りがある。それは死からの解放である。マルコ、ルカ、ヨハネなどの福音書においては、死んだ人の復活をもさせるイエスの力が記されている。

 死は万人にとって最大の問題である。すべて罪悪も命にかかわるほど重くなる。相手を死に至らせるような犯罪は最も重いものである。それは命が最も大切なものだというのが当然であり、その大切なものを奪うことは最も重い罪となる。

 その重要な命はあまりにもはかない。病気だけでなく一瞬の事故や、小さな砲弾、あるいは刃物によっても失われる。

 愛するものが死んだときには、最も深刻な悲しみや苦しみがつきまとう。それゆえに、死にうち勝つことこそが、最も深い祈りと願いとなる。

 病気の重いとき、また老年のときには死は避けられない。しかし、その死のかなたに再生があるのならば、死は最も深刻な災ではないことになる。

 死の力にうち勝つという願いと祈りに応えるため、深い苦しみと悲しみを根源からいやすために主イエスは来られた。

主イエスによって 死からの再生は、万人にとって可能となった。

 再生と復興への祈り、それは究極的には、死からの再生であり、この世界全体の再生であり、復興である。

 死からの再生をなしうる神を信じるということ―それはこの世の一切を超える力を持つお方だと信じることである。

 ここから、主の祈りとして、世界中で最も多く繰り返し祈られてきた祈りへとつながっていく。

 御名が聖とされるように(*)、この祈りは、人々によって神の本質が人間世界とはまったく別の汚されることも壊されることもないのだとみなされますように、ということである。

 どんな災害や事件、事故があろうとも、それでもなお、神はその愛と真実をもって存在しておられるのだと、あくまで信じる姿勢が人間にありますようにとの願いである。

 

*)「御名があがめられますように」と訳されている。あがめる、という言葉は、有名人や地位が高い人に対してよく使われる。しかし、原語のギリシャ語では、そうした一般的な「あがめる」ということとはことなる意味を持っている。「聖とされるように」である。聖霊という言葉に用いられる「聖なる」という原語の動詞形の受動態の命令形だからである。

 英訳などはほとんど次のように「聖とする」という語が用いられている。

hallowed be your name. (NRS)

may your name be held holy, (NJB)  hallow とは、holy と語源が同じ語)

 

 御名があがめられますように、との訳は、原文の「聖とされますように」という意味を十分に伝えているとは言い難い。

 聖とする、このことの本来の意味は、旧約聖書の時代から、「分けておく」(set apart)である。神の御名を聖とする、ということは、神の本質を私たちの通常の考えから全く別のものとして分けておくことであり、それは、地上のいかなる出来事や人間の判断などにも動かされない存在としておられる、とみなすことである。

 どんなに不可解なことがあろうとも、神を聖とするとは、そうした難しい状況―病気や事故、災害などが起ころうとも、なお神の愛や真実は動かされることなく、存在していると受け止めることである。

 神は、死から再生させることができるお方、そのように信じることができるとき、それは私たちの目に見える世界のすべてを超えた存在だと信じる―すなわち、神を聖であると受けいれることになる。

 神をこのように、信じて受け止めて初めて、次の祈りも生まれる。

 それは、「神の王としての御支配がなされますように」ということである。それは、病気のいやし、死からの解放などすべてを含む。病気の苦しみ、精神の 不安など、神がその宇宙を支配されている王としての力をもって私たちの病気を支配し、それを排除してくださるならば、病はいやされるし、病が残っても、それにうち勝つ力が与えられるからである。

 また、死ということも、死の力に勝利している神のいのちの御支配がなされるとき、死は排除され、いのちがそこに与えられるからである。

 このように、再生と復興ということは、万人の願いであるが、それは主の祈りに含まれている。

 そして、その願いは、津波、地震、原発、あるいは洪水の被害を受けた方々に対してもなされる。家や仕事、土地、家族等々ふつうの生活へと再生、復興したい、という切実な願いがある。

 そうした目に見えるものについては県や市町村、国の政治が重要となる。それが効果的に、すみやかになされることは、見える世界の再生と復興につながる。

 しかし、他方では、原発の問題にとくに顕著であるように、数十年もそこに住むことができない人々が生まれる。チェルノブイリ原発事故によって25年経っても30キロ周辺には、そこに住むことができないほどの放射能がある。

 福島にはチェルノブイリが1基の事故であったのに対して、4基もの原発が事故を起こし、大量の放射能があるのであって、どれほど長期間そこに住めなくなるかは誰も分からない。

 現在、福島原発周辺では人は住めず、あらゆる社会のはたらきは存在しなくなってしまい、死の町のようになってしまっている。それは、チェルノブイリのことを少しでも知っている人は、そこが広大な農地や町が人のすまない死の町となっているのであるから、そのようになってしまうのは類推できることである。

 そうした表現しがたい苦しみを現在日本の一角で日々受けている人たちがいるのに、そしてそれは原子力発電所の事故によるものであり、本質的に原発はそのような大災害を起こし得るものなのに、政権党の重要な人物は、できるだけ早く再稼働させ、さしあたり新規の原発はつくらないが原発の輸出は促進していくと言明している。一定期間すぎて人々の原発への警戒心が少なくなったらまた原発利用をすすめていくという考えが見え隠れしている。

 弱い立場の人間の苦しみや悲しみより、経済問題、自分たちの権力維持などのためにはどんなひどいことでもする、というのは、昔からあったことだ。戦争もそのような考えから弱い立場の国々の人たちを踏みつけ、犠牲にし、自国民もまた数知れない人たちが犠牲となっていった。

 このような死の町と化したものの再生はあるのか、復興はあるのか。

 もし何十年か先になって、原発の比較的近いところに住むようになったとしても、そのときには、もう多数の人たちはこの世にはいない。それでは、現在苦しむ人たちは―もし死後の命などないならば―まさに再生や復興の希望が見えない状況のままこの世を去っていくことになる。

 こうした状況において、キリストのメッセージがある。それは、いかに現状が絶望的であって、また行政や自分の力ではどうにもならない状態であっても、そこにもし神の力が注がれるとき、神の導きによって生きるときには、その暗い状況にあっても、なお、光が与えられ、いのちの水が与えられ、立ち上がることができるということである。

 このことを指し示す内容は、すでに旧約聖書にも記されており、最も知られた箇所の一つは、つぎの詩である。

 

主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。

主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。

主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。

たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。

あなたは、私とともにいて下さるから。(詩篇231-4

 

 ここには、困難な中にあってもなお、再生がこの世において与えられるということが、はるか3000年ほども昔からはやくも体験されていて、その証しとしてこの詩がある。

 主が私たちの魂の牧者となり、主が共にいて下さるとき、どのような状況にあっても、私たちは生き返らせていただけるということを指し示している。

 


リストボタン救いと勝利―詩篇20編

 
地上で最後の夕食のとき、主イエスが言われたように、この世ではだれでも苦しみや悩みがある。病気、事故、災害、貧困や飢え、仕事の上での苦しみ、人間からの憎しみ、人間関係の分裂、敵対やねたみ、老年、孤独、自分の犯した罪ゆえの苦しみ等々、あらゆる人はこうした何らかの苦しみを持っている。

 そのようなときに答えて下さるお方がいるということ、そのような存在を私たちが持つということは、何にも代えることができない。

 この詩は、その冒頭にそうした苦難に答えてくださる神への祈りがある。

 

…苦難の日に主があなたに答え

ヤコブの神の御名があなたを高く上げ

聖所から助けを遣わし

シオンからあなたを支えてくださるように。(3

 

 この詩の最初に置かれた言葉、それはヤコブ、シオンあるいは聖所とかいう現代の私たちには無縁と思われる言葉があるために、初めて読む場合には、なにか心にすんなりと入ってこないということがあるかもしれない。

 だが、詩の冒頭で言おうとしていることは、神が苦しみのときに助けて下さるという願いであり、確信なのである。

 救いを必ず与えて下さる神への確信があればこそ、そのような祈り、願いを捧げるのであって、人間の苦しみに答えることなどしない、と思っている場合にはそのような神に切実な祈りなど捧げないであろう。

 この詩は、民の代表者としての聖なる油が注がれた王に対する祈りだと言われるが、現代の私たちキリスト者もまた、キリストの油(聖霊)を注がれた者であり、我々一人一人への祈りとして受け取ることができる。

 

…あなたの供え物をことごとく心に留め

あなたのささげるいけにえを快く受けいれ

あなたの心の願いをかなえ

あなたの計画を実現させて下さるように。

 

 古代においてはじっさいに牛や羊を捧げ物としていたが、すでに旧約聖書の時代から、神の啓示を深く受けた預言者や詩篇において、真の神への捧げ物は、そうした目に見えるものでなく、砕けた心、悔い改めた心であると記されている。

 

…神の受けられるいけにえは砕けた魂。

神よ、あなたは砕けた悔いた心を軽んじない。(詩篇5117

 

 自分中心という堅い本能的な心がさまざまの苦しみや悲しみにより、自分の罪への裁きなどによって砕かれ、神にゆだねる心をもって主を仰ぐこと、それこそ本来だれでもが捧げることのできるいけにえであり、それさえあれば神は私たちの願いを聞いて下さる。

 

…我らがあなたの勝利(救い)に喜びの声をあげ

我らの神の御名によって

旗を掲げることができるように。

主が、あなたの求めるところを

すべて実現させてくださるように。(6節)

 

 この新共同訳の詩篇では、「勝利」という言葉が、10節からなる短い詩の中に3度も出てくる。この重要な言葉は、本来は日本語の「勝利」という言葉から連想される意味よりも深くひろがりのある内容を持っている。ここで「勝利」と訳された原語は、本来「救い」(*)と訳される言葉なのである。

 

*)イェシューアー である。これは、ヨシュアとかイエス(ヨシュアのギリシャ語形 )という名前にも入っているように、「救い」というのが本来の意味である。イエスという名は、罪から救うからである(マタイ1の21)と説明されているのもそれを表している。

 

 ヘブル語においては、口語訳で50回ほど現れる「勝利」という言葉のうち、40回近くは、「救い」を意味する イャーシャ、イェシューアー、テシューアーが用いられており、それが「勝利」と訳されている。

 しかし、日本語ではこの二つの言葉はかなり違う。「勝利」という言葉はスポーツにおいてたくさん使われる言葉である。ところが「救い」という言葉はスポーツでは全く使われない。

 ここで「勝利」と訳されている原語は、多くが「救い」と訳されており「勝利」と訳されてあるのは少ない。

 「神の御名によって旗を掲げる」というのはどういうことか。勝利の旗を掲げるというと、自分たちの武力の大きさに酔いしれて旗を掲げる、というようなことを連想しがちである。

 しかし、詩篇においては、そうした人間の力を誇示するための旗でなく、神の勝利のシンボルとして、神がしてくださったという心を表すしるしとしての旗を掲げるというのである。

 このようなことは、現代に生きる私たちにも不可欠なこととなる。私たちの旗印、それは自分の能力とか成果でなく、神が救いを与えて下さった、この世の力に勝利してくださったということを示す旗印なのである。

 

…今、わたしは知った

主は油注がれた方に救い(勝利)を授け

聖なる天から彼に答えて

右の御手による救いの力を示されることを。(7節)

 

 神は、油注がれた方、すなわち王に救いを与えてくださることがはっきりと示されたことを記す。

 「救い」と「勝利」は霊的な戦いではつながっているので、新共同訳では「勝利」と、新改訳ではそのまま「救い」と訳している。

 勝利という言葉は、力ある者を連想する。しかし、救いという言葉からは、弱い者を連想する。ヘブル語では、勝利という固有の語というべきものがなく、救いという言葉で勝利という意味にも転用しているということは、現代の私たちにとって意外なことである。

 旧約聖書では、勝利という訳語は50回ほどあらわれるが、救いとか救うという言葉は、511回もあらわれる。そしてこの勝利と訳された原語もその多くは、救いという原語が用いられているのである。

 これは現代の私たちの言葉の使い方とはまったく逆である。現代では、勝利という語は至る所で、ニュースとか新聞、テレビで繰り返し使われる。しかし、救い、救うなどという言葉はわずかである。

 人間とは弱い者であり、救われるべき存在だという認識が基本的に深く浸透しているのがわかる。

 油を注がれた者とは、旧約聖書の時代では、王や大祭司という特別な者だけだった。この油はオリーブなどの特別な油を混ぜて作られた香油であった。

 だから「油」と訳すよりも「香油」、あるいは「聖油」と訳したほうが、もとのニュアンスに近いと思われる。油を注ぐというと、日本ではまるで違ったイメージ―石油や料理で使う油が浮んで来るかも知れないからである。そうなると「油注がれた方」というのが意味不明になる。

 こういう点にみられるように、聖書を読むものにとって分かりにくい言葉がいろいろとある。

 新約聖書の時代になると神から王や大祭司などに注がれる油は聖霊を暗示するものとなった。そしてキリストを信じたものは誰でも、聖霊による油を注がれた者だというように意味が広がっていった。

 そういう意味では、現代の私たちにとっては、この20編は当時の王だけに当てはまることでなく、誰にでも当てはまる内容となってくる。

  この詩はもともとは、王が直接的に指揮する戦いに関わる歌だとみなすことができるが、その時にも人間の力でするのではないということを始めからはっきり知っていたということである。

 主が答え、主が高く上げ、主が助けを遣わして、主が支えるのでなければ勝つことはできない。  これはわたしたちにおいても同様で、どんなに能力があっても、健康であってもこの世の悪に勝つことができない。

 

 古代から現代に至るまで、戦争はさまざまの苦しみや悲しみを大量に生み出すものであった。戦争それ自体が、武器を使うゆえに、勝っても負けても双方に相当な傷があり、どちらかが敗北して奴隷にされ、他国に連れていかれ、あるいは殺されていく。

 このように戦いに赴くとき、そこで出会うさまざまの苦難から、また人間的な罪から救われるように、そして勝利へと進むことができるようにという祈りは自然に生まれてきた。

 このような内容の詩は、はるか今から3000年ほども昔のものだから、現代の私たちには関係がないと思いやすい。

 しかし、聖書の世界はいかに古代であり、遠い外国のことであれ、すでにのべてきたように現代の私たちに不思議なほどあてはまる内容を持っている。

 

 今、わたしは知ったとあるが、いくら神様を知っている人でも、本当に神が救い(勝利)を与えるんだということは、いろいろな経験を通して知ることだということである。言葉としては知っているけれども、実際にこのような経験をして悪の力から守られたり、救われたり、あるいは勝利した。天から実際に答えがあり、助けられるということは、戦いが行われて勝利が与えられて初めてはっきりと分かる。時が来てはっきりと分かったから、今知ったということになる。

 

…戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが

我らは、我らの神、主の御名を唱える。(8節)

彼らは力を失って倒れるが

我らは力に満ちて立ち上がる。(9節)

 

 この8節はここの部分だけ取り出される非常によく知られたところである。ここでは「誇る」という言葉に訳されている。しかし英語訳ではtrust「信頼する」と訳しているものが多い。

 なぜかというと「誇る」という言葉は原文にはなく、「ある者は戦車、あるものは馬」という簡潔な表現なのである。

 だから、その原文の表現を補うために英語訳では、…ある者は戦車に「信頼する」 Some trust in the war chariots.として、信頼という語を補足して訳されている。

 次に「唱える」という言葉があるが、原語は「ザーカル」、すなわち 主の御名を「覚える」という意味である。英語訳では But we will remember the name of the LORD.となっている。

 「唱える」と訳しているのは新共同訳だけである。訳語の違いはあるが、ここで言おうとしていることは、神を深く知っている人にとっては、誇るもの、頼るものがまったく違うということである。

 神の名、神ご自身の本質である万能の力、正義、憐れみ…そうしたものを常に心に覚えている。その神がいっさいをなしてくださるという信頼がある。

 このことは、現代においてもまさに言えることで、戦車や戦闘機や空母、ミサイル、核兵器などを誇っているが、しかしキリスト者は、本来全くことなるものに頼るということである。

 主の御名、要するに主御自身を覚える、そこに頼るんだということで、これが平和憲法の精神へと流れ込んでいる。

 戦力を持たないで攻撃されたらどうするんだということが言われるが、そのような可能性よりもアメリカのように戦力を増強したゆえに戦争を引き起こす可能性のほうがはるかに高い。

 今までの歴史を振り返っても戦力を蓄え続けた結果、第一次、第二次世界大戦が起こっていった。日本はあくまで武力による解決を目指すのでなく、武力をとらないさまざまの援助、医療や水、食料、教育等々、民衆の心に届くような援助を真剣に続けていく、という道をとるべきなのである。そうした方向に邁進しているなら、そのような国が武力攻撃される危険性は、武力を増強することによって生じる危険性よりはるかに小さいものとなるであろう。こうした非軍事の方向こそは、真の平和の可能性を開くものである。

 武力、暴力、軍事を誇るということはどれだけ間違ってきたか示されたにもかかわらず、それでもなお現代でも変わらない。

 この詩篇の作者は、武力、軍事に頼る者は、最終的には力を失って倒れていくが、神に頼る者には不思議な力が与えられて、立ち上がることができる。という真理を何千年も前から啓示を受けて知っていた。

 「我らは力に満ちて立ち上がる」これは最終的には復活ということで、たとえ殺されても確かに神の力で立ち上がらせて下さる、しかも永遠に汚されることのない清い神の国においてである。

 8、9節は個人の問題だけにはとどまらず、国際的、政治的な世界の平和がどういう方向であるべきかということまでつながっている。 

 これは、単に戦争のこと、古代人のことを書いてあるのではない。そのような時代の状況に制約されているのでなく、現代の私たちにもあてはまる。

 …戦車を誇り、馬を誇る、これは、今日では、金や権力、巨費を投じた兵器などを意味する。あるいは、自分の能力、学識、経験等々に相当する。

 しかし、いかにこうしたものをもって勝とうとしても、神が祝福されないときには、すべて役に立たないものとなってしまう。

 そうしたものに頼る者はまさに、いつかは「彼らは、力を失って倒れる。しかし、我らは力に満ちて立ち上がる」のである。

 古代から現在に至るまで、強力な軍事力によって周囲の民族、国家は征服されてきた。にもかかわらず、そうした軍事力に頼るものは力を失って倒れる…ここには深い洞察がある。まさに神からの啓示がなければこのような考えを持つことはできなかった。

 だからこそ王に救いを与えてくださいということになる。王に救いが与えられれば、当然その王は支配している民にも及ぶのだからである。 

 

 目に見えるものに頼れば、最終的には力を失い倒れる。こうした考え方は他の箇所にもある。

 

「王の勝利は兵の数によらず 勇士を救うのも力の強さではない。

馬は勝利をもたらすものとはならず 兵の数によって救われるものでもない。」(詩篇33編の16~17)

 

 鉄砲のような兵器が登場するまでは、どこの国でも馬は不可欠の武器の一つであり、武力の象徴であった。しかし救いはそういうものにはないという驚くべき洞察である。2500年たってもこういう洞察が世界の多くの政治家や日本の政治家にもいまだに分からず、全く進歩していないと言わねばならない。

 この詩では、王が救われることを祈り願っている。

 しかし、そのまま私たちにも言えることである。私たちもまた、金や地位、権力などを求めず、ただ神を心に思い、神の力をうけることへの祈りとなる。

 

主よ、王に勝利(救い)を与え

呼び求める我らに答えてください。

 

 新共同訳では、王に勝利を…と訳されているが、代表的な英語訳の一つでは、「おお、主よ、王を救ってください。私たちが呼ぶとき答えてください。」 Oh, LORD, save the king. Answers when we call.NIV)となっている。新改訳も同様である。

 これを基にしてイギリスの国歌 God saves the king! が作られた。これは、詩篇20歌に由来するので、本来は、神が王を救ってくださいますように! という祈りの歌なのである。

 イギリスの国歌を「王様万歳!」という意味だとして、「君が代」と同じだという人がいる。「君が代」を天皇をたたえる歌であって、国民の歌でない、という主張に反論しようとする人が、このことを取り上げることがある。

 しかし、イギリスの国歌の本来の意味を知っているなら、「君が代」とは全く異なる発想から生まれた国歌だとわかるであろう。

 「君が代」は、君が代は千代に八千代に、と歌われているが、これは、明治以来どのような意味で歌われてきたのか、それは、天皇の御代、すなわち天皇の王としての支配が永遠に続きますようにという願いを表した歌としてである。

 しかしイギリス国歌は、この詩篇からの引用であり、「神が王を救ってください」という祈りが本来の意味なのである。

 この世的には救いと勝利はつながらないが、聖書的に、あるいは信仰的には救いは勝利とつながっている。

 新共同訳では、7節には、救いを意味するイェーシャが2回用いられているが、はじめのほうは、「勝利」と訳され、後のほうは、「救い」と訳してある。このように、一つの節で全く同じ言葉が、二通りに訳されているために、同じ言葉が繰り返し使われて強調されているということが分かりにくくなっている。

 ほかの日本語訳では、この逆に、はじめを救いと訳し、後のほうを、勝利と訳している。(新改訳)

 こうした訳し方を見ても「勝利」は「救い」とその意味がつながっているのがわかるが、本来の意味は「救い」ということなのである。

 人々が王に祈るとき、それは王が救われますようにということであり、それは勝利につながる。

 日本の場合、長い間、ただの人間である天皇を神としてまつりあげてきたが、西欧ではこの聖書の真理が背景にあるため、いかに力ある王であっても、人間は人間であり、弱い罪人にすぎない。だから神が王を力づけて救うというのが基本にある。

 その点で日本はそうした唯一の神を信じないで、さまざまのこの世のものを神々としているので、天皇も現人神とされて、人間であるのに何か特別な力あるものだとされてしまう傾向がある。

 日本で最も大きい二つの都市、東京都と大阪市では、本来は天皇の支配の永遠を歌い、国家国民を天皇の持ち物であるとして歌う「君が代」を強制的に歌わせるようになった。

 明治政府が天皇による支配を打ち出してまず手がけたこの一つが、一世一元制であった。それまでは、元号はあっても、時の状況―黒船がきたとか、飢饉がひどいとかで一種の迷信で元号を変えたりしていたのであるが、明治政府は、天皇を神だと教え込むために、天皇の名前になる元号をもって時間を数えることを考え出したのである。その結果、時間をいうという人間の生活で最も基本的なことに、たえず天皇の名前―正確には死後の諡(贈り名)―を使うようになってしまったのである。

 

 主よ、王に救い(勝利)を与え

呼び求める私たちに答えてください!

 

 現代の私たちにとって、この詩篇の最後の言葉は、すでに述べたように古代の王に対しての祈りにとどまるものではない。

 キリスト者とは、聖霊という聖なる油を注がれ、キリストの御支配の力をいただいた小さき王としていただいた者なのである。

 自分のような小さき者、罪多い者が王などとは! と驚かされるが、表面的なことでなく私たちに何が与えられているかを見ることによって一人一人のキリスト者がすでに小さき王であるというのである。

 このことは、主イエスも、つぎの箇所で信じる者を王とすると言われている。

 

…あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。(ルカ 2230

 

 さらに、聖書の最後の書である黙示録の最初の部分にもキリスト者とは王であるということがはっきりと記されている。

 

… わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方…(黙示録 16

 

 王というとはなやかな宮殿に座してたくさんの家来を従えているという姿を連想することが多いから、貧しい者、病気で苦しむ者、罪深きものがなぜ、王なのか、とまるで理解しがたい言葉のように思う人も多いであろう。

 しかし、聖書は万事を霊的に見る。王の本質は、そうした外見のきらびやかさでなく、支配と権威を持っているという点にある。キリスト者は、この世のあらゆる悪の力、さらには死をもたらす力に対しても、それらを支配する力を与えられているという点において、まさに王なのである。

 そして、

「王に勝利を、呼び求める私たちに答えてください!」

 との願いは、私たちすべての信じるものへの救い(霊的な勝利)を願う祈りとして私たちもこの祈りを共有することができる。

 主イエスは、あらゆる苦難にすでに救いを与えてくださっているを保証してくださった。「私はこの世の力に勝利している。」との宣言を、地上での最後の夕食時の教えの締めくくりとして言われれたのである。

 


リストボタン燃え移っても気づかない人々―    原発の輸出

 
現在福島では多数の人たちが困難をきわめた生活を強いられている。

それにもかかわらず、民主党の幹部は、原発を海外に輸出しようとする方向を変えない。

 民主党の前原政調会長は21日、朝日新聞などのインタビューに応じ、「日本の原発の安全性に対する信頼は揺らいでいない。輸出はしっかりやるべきだ」と述べ、野田政権でも原発輸出を引き続き推進する考えを示したという。

 福島の原発による災害による苦しみがずっと続いているというのに、そして今後何十年もそうした苦しみが続くと予想されているにもかかわらず、はやばやとその危険な原発を途上国に輸出することを表明したのである。

 このようなことは、本来原爆を史上初めて投下されて何十万人という人たちが犠牲となり、その後も何十年という長期にわたって人々を苦しめてきた核の恐ろしさを世界に伝えていくという日本独自の使命を放棄することになる。

 それどころか、経済的な利得のためには、相手国がその原発やそこから生みだされる可能性の高い核兵器の拡散につながり、原発と核兵器の双方の危険性をもたらし、大事故の場合には、取返しのつかない悲劇を相手国にもたらすことになるといった危険性を何ら考慮しない態度である。

 とくに日本が原発を輸出しようとしているトルコやベトナム、インド、リトアニアなどの途上国には、政情不安定な国々も多く、また原発の恐ろしさや放射能の危険性に対する知識などきわめて乏しいと考えられる。医療もすすんでいない。

 そうしたところで原発の大事故が生じるなら、その犠牲になる人たちは適切な医療もほどこされずに、長い間苦しまねばならないことになるだろう。

 トルコに対しては、福島原発の事故のあと、菅直人首相の原発輸出戦略の見直し発言があり、トルコは、日本からの原発輸出に関する交渉を打ち切る方向になったことが報じられていた。しかし、最近トルコは、日本との交渉を継続する意向を日本政府に伝えてきた。日本の新しい政権が原発輸出の方針を固めていることで考えを変えたのである。

  リトアニアについては、日立製作所が東芝などとの受注競争にうち勝って、7月に、リトアニアの原発建設の優先交渉権を獲得したが、そのために数千億円も出資するという。

 これでは、原発を「売る」というより、「買う」のだという批判もでるほどである。こんな巨額の金で、福島の大事故から半年しかならないのに、自らの会社の利益となるならなんでもする、といった態度だと言えよう。それだけの巨費があるのなら、どうして自然エネルギーの開発に注がないのかと思う。

 相手国が原発の大事故のとき、どうなろうと、福島の被害者がどんなに苦しんでいようと、そういうことは眼中にないのだろう。

 また、中米パナマで、各国の環境保護団体でつくる「気候行動ネットワーク」が、10月はじめに、日本は、福島の原発事故にもかかわらず、地球温暖化対策を理由に原発を輸出しやすい仕組みづくりを求めたとして、日本政府に、交渉で後ろ向きな発言をした国を対象とする「化石賞」という不名誉な賞を贈ることになった。

(「化石賞」という風変わりな名称は化石燃料を指すとともに、化石のような古い考え方との揶揄も入っている。)

 このネットワークは、日本に対して、「国民に途方もない苦難をもたらした技術を途上国に輸出し、見返りに排出枠を得ようとしている。不適切かつ無責任で、道徳的に誤っている」と批判したという。

 この他、日本企業が受注を目指しているのは、ベトナムやヨルダンも含まれる。

 ベトナムについては、8月末に、日本原子力発電は、日本企業の原発建設へとつながる調査契約を結んだ。

 インドは、原子炉6基、出力計990万キロワットの大規模な原子力発電所を建設する計画が進行中である。これが完成すると、東京電力の柏崎刈羽原発(821kW)を抜き、世界最大となる。

 この建設に対する反対運動は以前からあったが、福島原発の事故を受けて、いっそう反対運動が強まり、今年4月にデモがおこなわれたが、その際、警察が警棒で女性や子供の参加者を殴ったため、デモ隊が暴徒化し、投石などで警察側にもけが人が出たという。デモ隊の数十人が拘束されたという。

 その地では漁業に重大な影響があり、原発近くの住民にとっては死活問題となるゆえに、強い関心を持ち、反対運動を続けているが、今回のデモは、4月中旬に地元住民に通告なく重機やセメントなどの資材が予定地に持ち込まれたのがきっかけだったという。

 このインドの原発建設についても、日本の日立製作所は、去年の7月に、インドの原発6基もの受注獲得を目指していると表明している。

 このように、途上国において原発の増設は次々と計画がされ、日本はそれらと深く関わろうとしている。

 このような日本の政治、企業の方向性、その考え方について、思いだされるのは聖書の次のような箇所である。

 

…その炎に囲まれても、悟る者はなく

火が自分に燃え移っても、気づく者はなかった。(イザヤ書42の25)

 

 これは日本の現在を思い起こさせる。

 日本は、大地震、大津波、そして4基もの原発の大事故という世界の歴史でも前例のない災害を受けた。

 それは日本全体にいわば火が燃え移っているのに、それに気づかないで、さらに原発を再稼働しようとする多くの政治家や役人、電力会社、原発関係の科学者等々がある。

 今回の事態は、まさに、このままの方向を突っ走っていけばどうなるか、ということに対する日本全体、さらには世界の方向性に対する大いなる警告なのである。

 それはまさに、今から2500年ほども昔に一人の預言者が神から受けた啓示と重なってくる。これだけ多くの人たちの苦しみを目の当たりにし、現在も続いているにもかかわらず、立ち止まることもせず、大震災以前の考え方をそのままに、まず経済、まず金儲け、まず自分の栄誉、といった発想を、日本の有数の大企業のトップが露骨に表している。

 このような考えかたに関して、とくに日立製作所の社長(巨費を投じて外国に原発を輸出しようとしている)に対し、評論家の佐高信(*)は、「旧式ロボットのような人間」であり、「既得権益にしがみつく後ろ向きの会社の典型のトップらしい発言」と強い言葉で、批判している。

 この企業の社長のような考え方は、時代のしるしを見ることもせず、弱者を見つめることもなく、この世での正義とは何であるのかを見る、といった最も必要な視点を持ち合わせていない人の発想だと言えるだろう。

 

*)佐高は、その著書「原発文化人50人斬り」(毎日新聞社刊)において、原発が安全だという神話を吹聴してきた人物として、中曽根康弘(元首相)、渡部恒三(民主党最高顧問)、与謝野馨(前財務大臣、若い時、中曽根の秘書。)、梅原猛(元国際日本文化研究センター所長)、小宮山宏(元東大総長)、評論家の田原総一郎など、多くを大胆に批判している。

 

 また、自民党は、原発の事故以来、菅直人前首相が、脱原発を前面に出して総選挙をするかも知れないと考え、そのために、これまでの原発を推進していくというエネルギー政策の見直しの委員会を設置して8月末までに新たな政策の中間報告をまとめる予定であった。

 しかし、新しい野田政権になって、首相は原発の再稼働や原発の輸出に前向きになっているとみて、結論を来年まで先送りすることになったという。

 脱原発の世論もそのうちに弱まって原発容認の方向へと変ると見込んでいるのである。

 また、公明党もやはり8月中に原発縮小の新しい方針をまとめる予定であったがこれまた先送りとなっている。(毎日新聞10月5日)

 こうした政治家の発想は、まったく選挙対策だけを考えているのであり、要するに自分たちの党がより多くの票を獲得して権力を得たいという低い次元にある。

 福島の人たちの苦しみを引き起こした根本の原因が原発であり、その原発を止めることこそ最大の方策であるということを全く考えていない。

 日本に、これほどの大災害、大事故が連動して生じているにもかかわらず、その事故で苦しむ人たちへの援助すらほんのわずかしか進んでいないにもかかわらず、なおも、その災害を引き起こした原発を用いて利益を得ようとする政治家、会社経営者、学者たち、そして、なおも原発を続けようとする半数ほどの日本人…、いったいいつになったら目が覚めるのであろうか。

 

…災いだ、助けを求めてエジプトに下り

馬を支えとする者は。

彼は戦車の数が多く

騎兵の数がおびただしいことを頼りとし

イスラエルの聖なる方を仰がず

主を尋ね求めようとしない。(イザヤ書31の1)

 

 これは、次のように言い換えることができよう。

 

ああ、災いだ、原発の利益を求めて画策し、あるいは外国に渡り

ただ儲けが多くなることだけを支えとする者は。

彼は、原発の数が多いことを誇りとし

正義の神、聖なるお方を仰がず

主を尋ね求めようとしない。…

 

 また、次のような箇所もある。

 

…災いだ、偽りの裁きを下す者

彼らは弱い者の訴えを退け

私の民の貧しい者から権利を奪い

夫を失った女を餌食とし、

みなしごから、かすめ取っている。(イザヤ101

 

 数千年も昔のこの時代、社会保障という制度もなかったから、夫を失った女(寡婦・やもめ)は、働く場がなくなり、子供を抱えて著しい困窮に陥るのが常であった。親のなくなった子供もまた、生きることができない状況に置かれることがあった。このため、最も困窮している人たちの例としてしばしばあげられている。

 原発は確かにこのイザヤの言葉のように、裁判も安全を繰り返して御用学者側につくように仕向け、原発は絶対安全だという神話を正しいとして偽りの決定をしてきた。

 また、農業や漁業でつつましい生活をしていた人たちから農地や漁場を奪い、また多額の金をばらまくことによって人の心を寸断し、弱い立場の人たちを苦しめその労働力を使い、彼らの健康を奪ってきた。

 こうした真理に反するやり方は、必ず時が来たら裁かれる。現在も日本全体に、いつまで眠っているのか、という上からの叱責がなされている。

 

 天よ、聞け

 地よ、耳を傾けよ、

 主が語っておられるからだ。(イザヤ書1の2)

 


リストボタンことば

349)神と共にあることの祝福

 精神的な戦いにおいて、我々は決して中立にとどまってはならない。しかし、敵対する者に対して、好意を寄せ、理解を持つことは、ほとんどいつでもなし得ることである。

 神と深い個人的な関係を持っているという確信があれば、間違いなく、他人に対しては思いやりをもち、しかし、彼らの判断に対しては動かされなくなる。

 神と完全に友となった人にとっては、それ以後の人生において、もはや幸いな出来事しか起こらない。(ヒルティ著「眠られぬ夜のために」 第一部6月29日)

 


リストボタン詩の中から

美しい秋  水野源三詞

 

木々の紅葉を見ましたか 

百舌の声を聞きましたか

主の御名を呼びましたか 

主の愛に触れましたか

美しい秋を 美しい秋を

創られた父なる御神を

喜び讃えていますか 

喜び讃えていますか

赤いりんごを食べましたか 

栗の実を拾いましたか

主の御名を呼びましたか 

主の愛に触れましたか

美しい秋を 美しい秋を

創られた父なる御神を

喜び讃えていますか 

喜び讃えていますか

 

 この詩は、秋の身近な自然を見つめつつ、もみじ、小鳥の歌ごえ、そしてリンゴや栗の実といった秋の果物も取り入れ、「見て、聞いて、たべる」という日々の生活のなかに、神のみわざを思い、感謝するという静かな心が伝わってきます。

 長い間寝たきりというなかで、しかも作詞者が生きていたときには車も家になく、車いすで運ばれることもなかったため、狭い家で寝たきりといった状況にあるにもかかわらず、こうした身近な秋の訪れを新鮮な感覚をもって書き綴っています。

 こうした詩は、主の聖なる霊によって清められた心から生み出されたものだと感じます。

 この詩にふさわしい、静かで美しいメロディーをつけたのが、全盲の作曲家の阪井和夫さんです。

 秋の季節に重ね合わせた讃美歌、聖歌というのがないなかで、この賛美は貴重なものです。私たちの礼拝集会、家庭集会では、秋の季節には毎年この賛美を取り上げており、秋の愛唱歌となっています。

 


リストボタン休憩室

○星の世界 木星、文部省唱歌

 夜の10時ころには、木星の強い光が、南東の高い空に見え、その左に(東寄り)には、昔から「すばる」と言われ、知られている有名なプレヤデス星団がみられます。そしてその下方には、牡牛座の一等星アルデバランがその赤い光で輝いています。 すばるは、牡牛座に属しています。さらに、北東の空には、御者座のカペラという一等星がかなり強い光でみられるようになっています。

 なお、正確には、カペラは、0・1等で、日本でふつうにみられる恒星のうちでは、おお犬座のシリウス、牛かい座のアークツルス、こと座のベガについで4番目に明るい星ですから、よく目立ちます。

 なお、アルデバランは、0・8等星、恒星で最も明るいシリウスでマイナス1・5等星に対して、木星は、最も明るいときでは、マイナス2・9等ですから、シリウスよりはるかに強い光で見えるわけです。 明るさの等級が、一等上がると、2・5倍の明るさになります。

 星の世界に見入るときには、地上のものの何よりも永遠と清い世界へと導かれる思いがします。

 星の世界というと、思いだされるのは、讃美歌としては最も日本で広く親しまれている「いつくしみ深き」(讃美歌312番)です。この讃美歌の曲が日本に取り入れられ、文部省唱歌として長く親しまれてきたので、日本人ならほとんどだれでもこのメロディーを聞いたことがあるというほどです。

 

月なきみ空に、きらめく光、

嗚呼(ああ)その星影、希望のすがた。

人智(じんち)は果(はて)なし、

無窮(むきゅう)の遠(おち)に、

いざ其の星影、きわめも行かん。

 

雲なきみ空に、横とう光、

ああ洋々たる、銀河の流れ。

仰ぎて眺むる、万里(ばんり)のあなた、

いざ棹(さお)させよや、窮理(きゅうり)の船に。

 

 この歌の作詞は、鳥取県出身の杉谷代水です。これは明治時代の難しい歌詞で現代の人には分かりにくいものなので、後になって口語の訳として別に、川路柳虹が、つぎのようなわかりやすい歌詞をつくり、中学の音楽教科書に採用されています。

 

かがやく夜空の 星の光よ

まばたく数多(あまた)の 遠い世界よ

ふけゆく秋の夜 すみわたる空

のぞめば不思議な 星の世界よ

 

きらめく光は 玉か黄金(こがね)か

宇宙の広さを しみじみ思う

やさしい光に まばたく星座

のぞめば不思議な 星の世界よ

 

 この曲の作曲者コンバースは、1832年生まれのアメリカ人。ドイツの音楽学校で学び、さらにアメリカの大学の法学部で学び、法学博士の学位を得て弁護士をしながら作曲にも取り組んだという異色の人。交響曲やオラトリオ、管弦楽曲なども作曲したといいます。

 このコンバースが、ジョゼフ・スクライバンという人(1819年生まれ)の作った詩のために作曲したのが、「いつくしみ深き」という讃美歌になったのです。

 作詞者のスクライバンは、アイルランド生まれ。彼は、結婚式の前夜に婚約者が溺死し、さらに移民としてカナダに渡ったあと、婚約した女性もまた、結婚する前に溺死したという特別な悲しみをになった人だったのです。

 こうした特別な状況において主イエスからの深い慰めと力を受けたという経験がこの詩の背後にあったと考えられます。それが法学博士で弁護士という異色の作曲家のメロディーとともに、主イエスの愛を歌う讃美歌として広く愛されてきました。

 さらには、日本に取り入れられて、日本の唱歌となった讃美歌のうちでは最も親しまれているものとなっているのにも、悲しみをも祝福に変えられる神の力を感じさせるものがあります


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○「原子力発電と平和」(吉村孝雄著)の本について

 これは、8月に出版されたものですが、その後、毎日のように申込が相次ぎ、追加申込用として700部を用意していたのですが、まもなくすべてなくなり、現在もかなりの方々に送付できない状況です。

 それで、増刷予定していますので、10月末ころにはできるかと思いますので、それまで待ってくださいますよう、お願いします。

 ○11月には、例年のように九州、中国地方の一部の集会での聖書講話の予定があり、また「祈の友」関係などの少数の個人宅を訪問したいと願っています。

 以下に時間などが決まっている九州での予定です。

☆11月10日(木)

・場所 独立ケアセンター(梅木龍夫宅・大分市東津留1の7の21)

電話 097-552-8235  午後7時~9時

☆11月11日(金) 午後7時~9時 (鹿児島市・連絡先 古川静 電話 0995-43-6723

 

☆11月12日(土)

・場所  熊本聖書集会(河津はり治療院) 午後2時~4時

熊本市水前寺4-2-7

電話096-383-0437

 

☆11月13日(日)午前10時~12時

場所 九州キリスト教会館 

連絡先 秀村 弦一郎

電話092-845-3634

 

☆11月14日(月)

午後7時~9時

  場所 奥出雲の土曜会館 (島根県雲南市木次町寺領 )

 連絡先 (宇田川 光好

 電話 0854-54-1765

 

☆11月15日(火)

午後3時~5時

 場所 鳥取市の国民宿舎 ニュー砂丘荘

 連絡先 長谷川 百合枝 

 

☆11月16日(水)

 午後2時~4時

 場所  岡山県職員会館 三光荘  連絡先  香西民雄(民子)    電話 0862-28-0442