いのちの水 2022 5月号  735

知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。

                                      (Tコリント8の1より)

 目次

・私たちにできること

御国が来ますように

・弱きところにあらわれる神の力

・死を前にした人を支えるものドイツ戦没学生の手紙から

・主日礼拝 5分間メッセージから 、歩んだ道(自己紹介)

お知らせ

集会案内

 

リストボタン私たちにできる大切なこと

 

  現在のような、ロシアとウクライナとの戦争にあって、私たちに何ができるのか、と思いまどう人達も多い。

 そもそも、このような状況でなくとも、ごく身近な人が死に至る病で日々苦しんでいる人、あるいは難病がつのり、医学でもどうすることもできないままに、次第に筋肉が働かなくなり、最終的には言葉も発せられず、自分の苦しいところなども伝えることもできない状況となり、苦しみつつ死に至るという人達もいる。

 また、医療過誤で重篤な障がい者となってしまった人、あるいは事故や災害、犯罪などにまきこまれ、大怪我をしたり、家族をなくした人、飢えで苦しむ7億人ほどもの人達、さらには、日本でも戦争はなくとも、毎年2万人を越える人達が自らの命を断っている。

 こうした苦しく絶えがたい状況にある方々は、いつの時代にも、戦争がなくとも、絶えることがない。

 そのような人達に何ができるのかーと思ってもたいていはいろいろな制約があるために、何もできない。

 しかし、どのような状況にあっても、私たちにできる大切なことがある。

 それが、祈りである。

 そして、人間に対する祈りのうちで、とくに心に残るのが、主イエスの次の言葉である。

 

…敵を愛し、

迫害するもののために祈れ。

 

 しかし、こんなことはできるはずがない、と一蹴する人が大多数ではないかと思われる。

 けれども、聖書の記述には、並行法という表現が詩篇やイザヤ書などに含まれる詩には多く見られる。

 例えば、詩篇の最初の第一篇にもそれははっきりとしている。

 

…悪しきものの計らいに歩まず

罪ある者の道にとどまらず

この二行は、ほぼ同じことを言い換えたものである。

 

…主の教えを愛し

その教えを昼も夜も口ずさむ

 

 この二行もほぼ同じことを言い換えたものである。

 

また次ぎのような詩も同様である。

 

…死の国に行けば、だれもあなたの名を言わず

陰府に入れば、誰もあなたに感謝を捧げない。(詩篇5の6)

 

 このような例は実に多いのであって、それを知れば、イエスの言葉もそうした並行法によって同じことを言い換えているのだということがわかる。

 すなわち、

 「敵を愛せよ」、ということと、「迫害する者のために祈れ」

ということは同じことを言い換えたにすぎない。

 ここでの、敵を愛するとは、例えば異性を愛するとか、わが子を愛するというような意味とは全くことなる。

 好きになる、とか、心惹かれるとかいうことではなく、相手の人の魂がよくなるようにと、最善のことが起こるようにと祈ることにほかならない。

 敵対する人の心から、その悪意が除かれますように、と祈ることがその人を愛することなのである。これは、その人を好きになるとかいうこととは根本的に異なることである。

 好きとか嫌いとかいう次元でなく、その人の運命がよくなるようにとの祈りの心だからである。

 ある人が悪意で何か悪しきことをする、もしその人の心から悪意が除かれ、そこに神の愛の力が注がれるなら、その人も最善の状態へと向うのであるから、心に真の喜びが生じるであろうし、周囲の人も悪意をぶつけられることもなく、幸いな気持ちになる。

 イエスが言われた意味を正しく受けとるならば、現在の状況にあって、ロシアのプーチン大統領のような人物を一般的な意味で、愛するとか、好きになれ、などということではないのは容易にわかる。

  もしプーチンの魂にその冷酷さや偽りの心が除かれ、神のお心の一しずくが注がれるならば、あのような戦争はただちに止めるであろう。

 あのようなひどいことを命じるということは、その魂のなかに冷たい石のような心があるからできるのであって、その石の心が除かれるならば、本人も周囲の人達も、また戦争も終わって、だれにとってもよきことになる。

 そうしたことになるように、彼の心に聖霊が吹き込むように、いのちの水が注がれるようにと祈ることが彼を愛するということであって、それならば、本来キリスト者ならだれでも可能なはずである。

 こうした、神様の真実や愛がだれかの心に与えられますように、という祈りこそ、主イエスが「主の祈り」で与えた「御国が来ますように」であった。

 それゆえ、敵を愛し、迫害するもののために祈ろうとする心は、御国を来らせたまえ、と祈る心と同じなのである。


 

リストボタン御国が来ますように

 

 この祈りこそは、聖書全体を一貫して流れている祈りである。

 ここで言われている「御国」とは何か。「御」は、神のような尊敬すべきものに対して付ける言葉(接頭語)であり、神の国が来ますように、ということである。

 神の国とは何か。

 そのためには、「国」と訳された元の言葉(ギリシャ語)は何だろうか。国という漢字は本来は中国語であり、現在も中国で用いられている言葉であり、そのまま日本に入って用いられている。この漢字は、その字の形が囲いを意味していて、武力で守る領域という意味をもっている。国の旧字体  國の内部の文字は、戈(ほこ)を意味している。

 しかし、聖書における「国」は、単なる領域ではない。ギリシャ語では、バシレイア というが、その元になっている言葉は、バシレウス であり、これは「王」という意味。それゆえに国と訳される原語のバシレイアは、(王)の権威、力、支配 という意味である。その支配が及んでいる領域ということで、王国 という意味にも用いられる。

 じっさい、聖書には、このバシレイアは、国、支配と訳されている。英語でも、kingdom であり、王(king)の支配する領域という意味を持っている。 〜dom は抽象化する接尾語であるから、王の支配する領域という意味になる。

 それゆえに、御国が来ますようにとは、神の国が来ますように、であり、それは神の王としての力、愛と真実による支配が来ますようにという祈りになる。

 しかし、「支配」という日本語は、私たちにとって好ましいイメージを持ってはいない。

 それは辞書にも、支配の類語として、専制、君臨、牛耳る、独裁 などが挙げられていることからもうかがえる。

 王の支配、信長や徳川などの支配、かつての天皇の現人神としての支配ーなど、だれが好ましいニュアンスだと感じるだろうか。

 このように、原語を日本語にすると、本来の意味はニュアンスが変化してしまうのがいろいろと見られるが、この主の祈りの重要な言葉も、日本語にするともとの意味が不十分となってくる。

 「神の支配」といっても人間の支配のような専制的支配ではなく、愛と真実、そして正義による働き(支配)のことである。

 言い換えれば、「御国が来ますように」 とは、神の愛と真実、清いもの、美しく正義であるそのような力が私たちの心にも、また人間社会にも来ますように、そして権力者の心の中にも来ますようにとの祈りである。

 敵意や憎しみのあるところに、神の愛が注がれて、その愛によってそうした暗い感情がなくなりますように、という祈りである。

 さまざまの私たちのかかえる問題やこの社会、世界が直面している難問は、みな不正やあざむき、不信実、欲望、妬み、自分が上に立ちたいという支配欲…等々が、もとにある。それらは人間的なもの、闇の力が支配しているからである。そうしたまちがった心の思いを罪といっている。それゆえに、聖書では人間は罪に支配されている、と記している。

 それを、神の真実な力による支配によってその罪の支配の力を滅ぼしてくださいーという祈りとなる。

 病になっても、事故、災害なども含め、いっさいのそうした苦しみや悲しみ、また人間関係の問題も、その究極的な解決は、人間を超えた神の真実な力が働くことによる。言い換えると、神の真実な愛の御支配によって解決される。

 それゆえに、御国が来ますようにーとの祈りこそは、全能の神の御支配により、いっさいのこの世の問題の究極的解決を願う祈りである。

 家族同士の難しい問題も、そこに神の国が来るならば解決される。自分の心のさまざまの汚れ、自分中心の発想、思いなども、そこに神の力ーその愛の御支配が来ることによってそのような思い、罪が赦され、悪の力が追い出される。

 御国が来ますように、との祈りこそは、 現在のウクライナとロシア、そしてウクライナに加担する欧米も加わっての戦争にあっても、そのそれぞれの国々の人々、そして大統領や首相たちの心のうちに、神の愛と真実が注がれ、彼らが自分の権力や他国を攻撃するような心が鎮められるようにとの祈りであり、根本的な解決の道への祈りなのである。

 


リストボタン弱きところにあらわされる神の力

 

(2022年5月1日 主日礼拝講話より。聖書箇所 ヨハネ四・1〜10 参加者 53名 オンライン集会(スカイプ)

 

…イエスは、サマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。(ヨハネ福音書4の5〜10より)

 

 この箇所は、イエスが、サマリアの女に、「生きた水」、永遠の命の水のことを告げるところで、よく知られた箇所である。

 「生きた水」については次回の述べることにして、今日は、その中から、とくに、弱さの中の力ということで学びたい。

「イエスが旅に疲れた。」とある。イエスは疲れるのである。イエスは神の子として驚くべき力がある。ペテロが剣を抜いたとき、わたしが呼んだら天の軍団を呼べると言われた。イエスは死人をよみがえらせ、盲人の目を開け、海の上を歩くことができた。

 そのような神の力を与えられていたのであるから、いかに長距離を歩こうが疲れることのない力があると思われる。

 しかし、イエスは「疲れた」と記されている。この言葉は「コピアオー」という言葉であるが、私たちが通常ちょっとしたことで使う「疲れる」というのとは、異なる強い意味を持った言葉である。

 「疲れた」と訳された原語は、κοπιαω(コピアオー)であり、その意味は、work hard, toil, strive, struggle (懸命にはたらく、努力する、苦闘する)などと訳される言葉である。この言葉は別の箇所では以下のように「疲れ果て、労苦」などのように、私たちが生活の中で使うような軽い意味とは異なるのがわかる。

 

・私は私の嘆きで疲れ果て、 私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ (詩篇 6:6)

・私は主に叫んで疲れ果て、のどが渇き、 私の目は、わが神を待ちわびて、衰え果てました (詩篇 69:3)

 

・あなたは、道の遠いゆえに、疲れ果てる You grew weary from your many wanderings,  (イザヤ 5710)

 

・わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたは、彼らの労苦の実にあずかっているのである」 (ヨハネ4の38)

 

・あなた方のために非常に労苦したマリアによろしく(ローマ16の6)

 

・私たちは、今まで、飢え、渇き、着るものもなく、虐待され、労苦して働いている。(Tコリント4の13)

 

 これらの聖書における用法を見ても、このコピアオーという言葉は、単なる疲れた、という程度のものでなく、その「労苦」は、命がけであり大変な苦しみを伴うものであった。

 ローマの信徒への手紙の最後の部分に記されている多くのパウロを助けた人物の記述がある中で用いられているのが、やはりこの言葉である。

 迫害の中、歩いていく、何があるかわからない。しかし命がけで尽くした女性たちがいた。

 数々の労苦、それは日常の疲れではなく、殺されるかもしれない労苦である。飢え渇き、虐待、そのことを労苦というこの言葉が使われている。

道の遠い、さまよい続けた疲れ。昔のパレスチナの旅は、多くは乾燥地帯であって雨がふらず、雲もない空から太陽が照りつけるので、地面が熱で熱くなりその旅の疲れは非常なものであったであろう。日本のような至るところに樹木があり、日陰があり、飲み水が流れているところでは想像もできない旅の困難があった。

 イエスは、体力を消耗し疲れたー主は、このような人間としての弱さを持たれていた。それでありながら、神と同じ力を持たれていた。

 神であり、しかも人の弱さをも持っておられた方であり、地上で生きた人間のうち最も神秘に満ちた存在であった。そして、その疲れた中でサマリアの女性に、水を飲みたいと頼むほどであった。

 疲れたそのもっとも弱い中に不思議な力がイエスにはあった。そして、初めて会ったサマリアの女性のその過去のことをすべてわかる霊的な洞察力、そして真理を伝える力。それは衰えることがなかった。

 人間には弱さがある。人間のどうしようもない弱さ、聖書では、いかに優れた人であってもその人間を賛美しない。イエスはすべてのこと見抜かれ、何が人間の心にあるかを知っているとある。そして人間を信じなかったとある。

 弱さの中で神の力が現れる、表される、と言うことは聖書では一貫している。アダムとエバも、すばらしいエデンの園を与えられていたのに、神の命令を守れず追放された。その子供のアベルは弟カインを殺した。そのように人間は闇の心をもっている。神が直接善きものを備えて創造されたのに、感謝しないばかりか、背いていった。その弱さがある。

 ノアの時代も、ノア以外はすべて罪にまみれたとあり、驚かされる。ノアのゆえに、その家族も大洪水から救われたと記されている。それほど神に従う生活をしていたのにもかかわらず、洪水の後、普通の生活になって、ブドウを栽培しできたぶどう酒に酔って、裸となって寝そべっているところを子供たちに見られる、といった弱さもそのままに記されている。

 アブラハムも忠実であったが、他方ではサラに子供が生まれないで女奴隷ハガルに子供が生まれとき、サラはハガルをねたんだ。アブラハムはサラに不満を突きつけられてハガルと子供を生きていけないような砂漠地帯へと追い出したとあり、アブラハムにそんな人間的弱さがあったのか、と驚かされる。

 ヤコブにおいても、イスラエル民族のもととなった人物であるが、しかし、母親と結託して兄を欺いた。

 ダビデも、幼少時から勇気あり、イスラエル軍がどうしても倒すことができなかった巨人ゴリアテを石投げ一つで倒したり、後に広大な地域を支配する王となり、しかも詩人であり、竪琴をも弾く音楽家でもあるという多才な能力を与えられていたにもかかわらず、女性に関しての大罪を犯してしまった。しかもその重い罪の重大さに関して、預言者のナタンに厳しく指摘されるまでは気が付かなかったほどの弱さがあった。

 このように、キリストの先祖となり、特別に敬われていたダビデ王に関しても、その弱さをあますところなく記している。

 聖書は、いかなる人間をも深い罪をもっているのであり、どのような人物をも決して賛美しない、ただ神のみを賛美するという精神が際立っているところでもある。

 ペテロも聖霊を与えられていたが、ユダヤ人からキリスト教に改宗した人達と交わっているうちに、当時のユダヤ人が救いのために不可欠であるとされていたユダヤ人の儀式である割礼を受けていない人を汚れているとして避けるようになった。そして使徒パウロから面と向って叱責されるというようなペテロの弱さもありのまま記されている。

 ペテロは初代のローマ教皇であったと位置づけられるほどの重要人物であるが、聖書は人間すべてがもっている弱さを記している。このように神に直接呼び出されたものであっても、弱さがあった。

 しかし、その弱さをかかえた人間の中で神は、神のご計画を進めていき、神の証をさせた。それが人類の歴史であった。

 イエスもゲッセマネで苦しみながら祈られた。超人であれば、堂々と十字架を受けそうであるが、徹夜で、血したたるような汗を流して祈った。徹夜で祈るのでなければ、サタンに倒されそうになった。イエスの命がけの祈りであったにも関わらず、弟子たちは眠りこけていた。イエスは十字架など平気だと言うのではなく、苦しまれたのである。そして弟子たちは眠りこけていた。

 この記述には、イエスの弱さと弟子たちの弱さの双方が生々しく記されている。

 十字架は良き人の理由なき苦しみをも象徴している。今も理由なき苦しみがある。膨大な人が飢え苦しむ。長い間、どれほどの苦しみがあったか。とくに悪いこともしていないのに降りかかる多大な苦しみ。

 そうした言われない弱き者の苦しみ、それは、弱い一人の人間としてのイエスが、その生涯をとおし、またとくに十字架にかけられる前後に示した弱さとともに、全世界に示された。イエスは十字架をになわされて刑場のゴルゴタの丘まで歩まされたが、あまりの疲れに歩みを全うできず、兵士たちが通りがかりの人に代わって十字架を負わせたことも記されている。そしてイエスは、十字架上でも、激しい痛みにもだえつつも、となりに同様に十字架に釘付けられていた重罪人の「あなたが御国に帰るとき私を思いだしてください!」との必死の懇願に答えて、「あなたは今日パラダイスにいるのだ」との救いの約束を与えたことが記されている。

 そして、あまりの苦しみのために、「わが神、わが神、なぜ私を捨てたのか!」との叫びが発せられたほどであった。これは、著しい困難、苦しみ、衝撃のときには、たとえいかに深い信仰あるキリスト者であっても こうした人間としての弱さがあふれ出てくる、それがイエスにも如実に現れたのだった。こうして以後二千年間、無数の人が、キリストのために激しい苦しみに遭遇し、耐えがたいなかからの叫びをあげていったが、その源ともなった。

 そのような人間の弱さ、苦しみのただ中から、万人の罪のあがない、そして復活という最大の人類への賜物が与えられる道が生れたのだった。

 こうした弱さの中にこそ神の力が現れるーという常識的には考えられないような道を神はとられるのだった。

 使徒パウロも、次のように、この真理を述べている。彼は、弱さを常に感じさせるある病気をもっていて、主に繰り返しその癒しを祈った。

 しかし、主は次ぎのように言われたのだった。

 

…すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われ。

だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇ろう。(*)(Uコリント 12の9)

 

*)ここで、「誇る」と訳された言葉の原語は、カウカオマイであり、日本語のように、自慢する、といった意味とは大きく異なるニュアンスをもっていて、それは「喜ぶ」ということの別の強い表現として用いられる。

 ここでは、「大いに喜んで(ヘーデオース)、自分の弱さを喜ぶ(カウカオマイ)のだ」と、喜ぶことを二重に別々の言葉で強調しているのである。

 日本語の「誇る」は、自分の能力や家系、またスポーツなどでの優勝の回数、母校の有名なこと等々を自慢するというような意味で使われるのであって、それは自己顕示であり、罪である。

 それゆえに、パウロは 「弱さを自慢している」などと受けとるのは全く間違った理解となる。

 例えば、「私は苦難をも誇る」(ローマ5の3)と訳されている有名な箇所もこのカウカオマイが使われているが、これは、「喜ぶ」(rejoice)とも訳される言葉であり、そのように訳している聖書も下記のようにいろいろとある。

・私たちは、患難さえも喜んでいる。それは、患難が忍耐を生み出し…、(口語訳、新改訳)

we also rejoice in our sufferings, because we know that suffering produces perseverance;     (NIV

 ほかにも、同様に、rejoiceexult など喜ぶと訳している英訳も カトリックの代表的英訳聖書である、New Jerusalem BibleNJB)、 NLTNKJ他 多くある)

 

 キリストは、家畜小屋で生れた。ここにも貧しさ、弱さがある。こうした何も権力も武力もない弱さのただなかで生れたものに、神は驚くべき神の子としての力を与えたのであった。

 また、ペテロは12弟子の筆頭のような立場であったが、イエスが捕らえられたときには、みな逃げてしまったし、その直後に、女中などから「あなたもあのイエスの仲間だった」と言われて、そうでないと激しく三度も否定したと記されていてここでも人間の弱さがありありと示されている。

 しかし、そのような弱いペテロたちにも、それを思い知らされて、イエスの復活のあと主の言葉に従って、仲間たちと真剣に祈りて待ちつづけていたとき、聖霊という牢獄に投げ込まれたり、殺されることをも甘んじて受けていくという驚くべき力が与えられたのだった。

 また、以後のローマ帝国におけるキリスト教の伝達や世界に広がる過程で、ローマでは大競技場でキリスト者たちを野獣に食わせるとか、弱火でじりじりと長時間十字架にかけたまま殺すなど、残酷な刑罰がキリスト教禁止のなかでその迫害の程度には波があったが、三百年ほどもつづけられた。日本でも、スペインなどの宣教師の記録した文書に、そうした過酷な拷問の数々が詳しく記されている。

 しかし、キリスト者たちは、そのような迫害に武力で反撃、抵抗せずに、その弱さのままで受けて死んでいった。

 しかし、彼らは復活し以後の信徒たちをはげます存在となり、キリスト教そのものもその多くが苦しめられ、殺されていくという弱さのただなかで、驚くべき力が与えられて、広大なローマ帝国に広がっていき、それが世界に広がっていくことにもつながった。

 ここにも、弱さの中に、神の力が現れるということが歴史の大きな流れのなかで証しされている。

 そしてこのような弱さの中に神の力が現れるという真理は、二月に発行した「勝浦良明文集」の中にも表されている。大学病院の医者の誤診により三十六年間も人工呼吸器付けて寝たきり、しかも首から下はいっさい動かない、食事も排泄も、起き上がること、手足を動かすことさえも自分の力でできない、という拷問のような状況に閉じ込められていきた、一人の人間と直接に接したなかで、弱さの究極のような状況にあって、神の力が表されて、そこに生きる喜びや平安をも与えられていたのを身近に知らされてきた。

 そして、そのような特別な弱さでなくとも、日常のさまざまの出来事のなかでも、私たちはつねに弱さを痛感させられている。

 とくに、老年になると、病気や孤独など、心身の弱さ、また家族の弱さに苦しみ、悩まされる人達が多数となる。さらに災害、事故、内乱、戦争となるとその苦しみは弱さのゆえに耐えがたいものとなる人達が数知れない。

 しかし、そうしたあらゆる人がその生涯において悩まされる弱さのただ中に、神の力ありーこの不思議な言葉、その真理を知らされ、神の力を受けるには、ただ、宇宙万物の創造主である神を信じ、その神様が地上に送りだしたキリストを救い主として信じ、仰ぐだけで足りる。

 この一人一人の人間の魂のなかに成就し、さらに広大な帝国にもその真理が実現していったこの真理を聖書は、神の力を込めて刻み込んでいる。

 現代のような人間の弱さ、罪深さをいっそう深く世界的に知らされる状況にあって、いかなるときにも立ち上がり、前進する力が与えられるこの真理が、だれにでも与えられるようにと願っている。

 主よ、御国を来らせてください!


 

リストボタン死を前にした人を支えるもの

 

 現在、世界に大きな不安を引き起こしているウクライナにおける戦争は、欧米の巨額の軍事支援によって双方の攻撃がさらに激しくなる様相を呈している。

 こうした状況において、何が打ち続く困難にあって、人間を支えうるのかが重要な問題となる。

 戦争となると、いつの時代においても、戦場での兵士たちは、いつ攻撃を受けて、死ぬかもしれず、また死なずとも砲弾や爆発物、破壊されたものなどの破片や剣…等々によって、重い傷を負い、重度の障がい者、あるいは病人状態となり、生涯苦しまねばならない人が多数生み出される。

 ウクライナのために戦うのだという勇ましいことを言う兵士たちもいるであろうが、彼らがじっさいにそのような重い傷を負って以後の長い生涯を病気や障がいを負って生きていくとき、いかに重苦しい人生となることであろう。

 しかし、若くて健康なときにおいては、そうした病気や障がいを負いつつ生きることがいかに苦しいものか分からないし、自宅や病院での養生、あるいは仕事もできなくなった身で、周囲からの冷たい目と戦いつつ、何十年も生きることがどんなに苦しいことか、若い兵士たちには到底理解できないと思われる。

 また、愛する息子を、そのようになる可能性を深く憂えつつ、ロシア兵と戦え、という大統領、政府や軍部などの命令によって、送り出し、その結果、そのように息子が死んだり、重い傷を負って帰ったとき、その家族たちの悲しみや苦しみはいかばかりであろう。

 戦争という大量の殺傷を伴う事態においては、こうした数しれぬ人々の悲劇が、一時的でなくずっと何十年と続いていくという事態が大量に生み出される。

 戦時の困難だけでなく、その後もそのような、人の話題にのらないような形で、深い傷痕を残しつづけていく。

 戦争が長引くほど、そのような重苦しい事態が現在から将来の長い期間にわたって続いていくことになる。

 そのような状況にあって、何が人間を支え、なおも希望を与えることができるのか、それがとくに重要な課題となる。

 そうした場合、じっさいに戦地にあって、死を目前にしつつ、何を見つめていたのかを知ることは、現代においてそうした戦いに送り出された人だけでなく、どこの国の人にとっても重要なことである。

 なぜなら、そのような死あるいは、重傷を負うという状況が目前にありつつも、そこで力が与えられるなら、それこそが真理の力であり、平時のだれにでもあてはまることだと言えるからである。

  整えられた自室で安全に過ごしている者が、いろいろとそうした生死の危険を直前にした人々に何を言うことができようか。

 以下に掲げる手紙の一部の内容は、6年ほど前に「いのちの水」誌に掲載したが、現在のような特別な状況において繰り返し読み直すことの必要性を感じるので、再度次に引用する。

 これらの手紙は、「ドイツ戦没学生の手紙」(*)から引用した。ドイツ語原書は、2万2千通以上の手紙が収集され、それらのなかから選ばれて出版されたもの。

 この手紙の収集に関しては、「戦死者の大学や教授、友人たちからの貴重な援助、とりわけ、ヘルムート・ティーリケ教授に感謝する」と書かれている。

 ティーリケは、ヒトラーの率いるナチスによって教授職を追われ、迫害は続き、講演や移動を禁じられたが屈せず、熾烈な空爆下にあって説教や講演を続けた。

 戦後、ハンブルグ大学学長、テュービンゲン大学総長にも選ばれた。そして、総長会議の議長もつとめていたときその立場からこの戦没学生の手紙の重要性のゆえに、その収集を広く呼びかけ、戦争の悲劇を生きた証言をまとめることによって、歴史に刻み込もうとした。

 

*)「ドイツ戦没学生の手紙」一九五四年 高橋健二訳 新潮社発行

 

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 ドイツ戦没学生の手紙から

 

…私はいっさいの人間的なものを見る冷静な目を、だが、その人間的なところから人間を高めるものを見る目をも、失わないでいたい。…

 しかし、いずれにせよ、私は恐れを和らげてくれる最後の力を知っている。

 大きな彫像のように、聖書の言葉が心に浮かんでくる。今、それがかつて思いもよらなかったほどに意義深いものとなって現れてくる。

「陰府(*)に身を横たえようとも、

見よ、あなたはそこにいます」(旧約聖書 詩編・一三九・8

 心静めている厳粛な時に、私は周囲の友にこの言葉を言い、さらにつぎの別の言葉を添えた。

「しかし、私はつねにあなたと共にある。」(詩編七三・23

(「ドイツ戦没学生の手紙」108

 

*)陰府とは、旧約聖書で、死者が行くとされていた所で、地下にあり、闇にあるとされていた。旧約聖書には後期に書かれたもの以外には、復活するという信仰はまだなかった。

 

○これは、第二次世界大戦において、ヒトラー支配のドイツとソ連との戦争のときにドイツ兵として戦場に向かい、捕虜となって衰弱していくなかで妻に宛てて書いた手紙である。この一年後に死亡。戦後になって帰還兵によって妻のもとに届けられた。

 この兵士は従軍した医者であった。自分の最期が近づいてくる深い闇と絶望的な状況にあっても、不動の彫像のように浮かび上がってくるもの、それが聖書の言葉であった。

 ほかの一切がもはや頼りにならないとき、そのような時にいっそう眼前に揺れ動くことなきものとして見えてくるのが神の言葉なのである。

  死においても、どのような状況に置かれようとも、神は私たちと共にいて下さるという確信がそこから再び強められる。

 

 次に引用するのは、戦うことを余儀なくされた若きドイツ兵士が、子どもたちにあてた手紙である。

 書いた人はヨアヒム・ベンネス。ハイデルベルク大学の語学講師。一九〇六年生まれ。一九四四年三月六日に戦死。ここにあげた手紙を子供たちに書き残して、1週間あまり後に戦死したことから、この手紙はいよいよ死のときが近づいていることを実感しつつ書き残したのがうかがえる。

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一九四四年二月二十五日、

 神がわたしをおまえたちからあまりにも早く引き雕すことを覚悟しなければならないような時代に、私たちは生きている。だがそれは目にみえる体のことで、霊的にはそうではない。わたしの愛はいつも. おまえたちみんなのそばを離れない。私たちは再び会うことができる。

 今はまだお前たちはごく小さいので、私のことばを理解することができないだろう。

 だが、いつもいつも私の心の近くにいるおまえたちに対して、自分の目に起ころうとしていることについて黙っていていいだろうか。

 キリスト教のことを大切にし、学び、愛すること、それにしたがって生きるようにつとめなさい。キリスト教の本質に深く入るためには、絶えずそのようにする努力が必要である。

 私たちが生きていくうえだて、このことは群を抜いて大切なことだと私は信じている。

 お前たちが、信仰にしたがって生きるように絶えず努めるならば、そのときお前たちはしだいに信仰の果実を知ることになる。

 すなわち、真理、魂の自由、平和と喜びなどである。これらはこの世のものではないのだ。

 自然から学びなさい!

 自然の中にこそ、神の意志は、人間の歴史の中よりも大きな文字で現れているからである。森や野、山や海に対する本当の関係を、歩くことによって獲得しなさい。

 夜でもときどき、さえぎられることのない夜空の下に、起きていることをすすめるよ。動物や植物に親しみなさい!

 お前たちの生活において、決して表面的な利害を第一にしないようにしなさい。「人間は、神を深く知り、愛し、神に仕え、それによって天国に導かれるために地上に存在するのだ」私たちのキリスト教のこの教えこそ、お前たちにとって導きの原理とならねばならない。

 世界は滅びる。しかし、神と私たちの魂は残る。神様に向って手を差し伸べ、つねに神様に向って成長していかねばならない。お前たちの幸いはそれにかかっている。

 とりわけ、人間を欺いてその平安と真の人生の価値を奪い取ってしまう、金銭を追い求めないようにしなさい。貧しくとも、満足している幸いな人を、私はたくさん見てきた。 私がお前たちに残すものは、金銭以上の値打ちがある。私は絶えずはたらいたが、お金儲けということはついぞ考えなかった。

 私は貧しさをいつも私に忠実だった良い友だちとしてお前たちに推薦する。

 いとしい私の子供たちよ! 忍耐つよくあるように!

 あらゆる不自由、不正、軽蔑を受けることなどを耐え忍ぶ鍛練をしなさい。なぜなら世界はそういうもので満ちているのだから。

 そうしたこの世の不完全性が私たちを育てる母であり、さまざまの苦しみが私たちを強くする日々の食物なのである。

 苦しみ、困難、悲しみ、憂い…それらを抱きしめて、甘んじて耐えていきなさい。

 救い主イエスを見上げなさい。

 神はこのうえなく愛の御方! 私はこれまでに、百度も、千度もそのことを経験してきた。神をたたえ、感謝をささげよう!

(「ドイツ戦没学生の手紙」124頁〜。新潮社1953年 高橋健二訳)

 

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 現在のウクライナとロシアでの戦争の時、そのような命の危機の迫る状況において、兵士たちはどのようなことが心に浮かび、何を考えているであろう。

 そもそも、キエフ(キーウ)は、ロシア正教会の起源の地であり、そこに今から千年ほども昔に建てられた大聖堂は、世界遺産とされている。(*

 多くの日本人は、全体としてキリスト教のことを知らない人が圧倒的に多いため、ウクライナというと広大なロシアの南方の一部の地方、せいぜい地理で学ぶように小麦の重要な産地と受け止めるだけで、ロシアのキリスト教(ロシア正教会)の基となった重要な地であることを知らないと思われる。

 

*)954年には、オリガという女性がキリスト者となり、その孫が、キエフ大公ウラジーミル1世となった。彼は988年にキリスト者となって、以後広大なロシアにキリスト教が広がっていく出発点となった。

 

 こうした背景のあるキエフ(キーウ)において、報道はされないが、多くのキリスト者たちが、やはり今回の不条理、悲劇のなかから、必死で神に祈り、すがっている状況を想像することができる。

 戦争という、人間を殺傷し、長年住んできた建物をも情け容赦なく破壊していくことが当たり前のようにおこなわれる状況にあって、そのような武器を取っての争いや、ニュース画面では、その残酷な破壊や被害者の惨状、悲しみや苦しみの状況だけが報道され、そのような中で何が人間の存在を支えることができるのか、については、神への祈りと力が与えられている人達などは、全く報道はない。

 しかし、ここに引用したように、そのような闇と死の迫る状況にあってもなお、いやだからこそ、死の彼方の永遠の光を凝視する人達もまた、起こされていると信じることができるし、一層そうした人達の信仰が強められ、悲惨、困難のなかで、彼らが神の力によって支えられるようにとねがってやまない。


 

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T.H.(青森)

 見ないで信ずる信仰について話したいと思います。

 ヨハネ福音書20章29節「イエスはトマスに言われた。私を見たので信じたのか。見ないで信ずる人はさいわいである。」

2コリント書5章7節「目に見えるものによらず信仰によって歩む。」

 さて春期四国聖書集会、また「祈りの友合同集会」、「祈りの友通信」、「野の花」文集等々の様々な人の証しや感話を聞いて思うことがあります。

 人みんなそれぞれの形において、ある時に神から強く特別な霊的な経験を与えられているという思いです。そ の霊的な経験、強くその人に働きかけられた事柄。それを今、神から与えられたしるしとして、まず言い直してみます。

 私にもまた、そのようなしるしがほぼ6年ほど前、与えられました。しるしは与えられた当初はやはり、一種の精神的な高揚状態になっていました。

 前へ飛び出して大きな失敗もしましたけれども、この外に向かう気持ち、また他者に対して心を開いて向かう気持ちは強く積極的だったように感じます。

 月日が経ってくると、そういう高揚した精神状態というのは、当然おさまってくるわけです。すると、この次第に落ち着いた気持ちにはなっているのですが、この外に向かっていくまた他者に対して、積極的に向かって心を開いていくということが、どこか抑えのブレーキが自分にかかるのかというような感じになってきたことを、やはり思っています。

 さて、2020年の5月から、徳島聖書キリスト集会のスカイプ集会員として主日の礼拝、夕拝、家庭集会に参加し続けました。

 そこで学んだことがたくさんありますけども、その中で今は特に2つのこと。「復活の信仰」と「父を仰ぎ見よ。また立ち帰れ」と言うことですが、そのことを強くあらためてはっきりと知らされます。

 救いの道は誰にでもわかる単純な事。しかし、意外にその道は曖昧にされてしまったりするのである。主日礼拝の度ごとにそれを教えられることに学ばされます。イザヤ書では

「地の果ての全ての人々よ。

 私を仰いで、救いを得よ。 私は神、ほかにはいない」            (45章22節)

ローマ書では

「福音には神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」(1章17節)とあります。 この信仰義認の言葉は、この「見ずして信ずる。」信仰というのを含んでいると私は感じています。以上です。

 

 いままでの歩みから 

O.E.(北海道・苫小牧)

 私は先々のことを思って良い方向に考えるのではなく、低い方向に考えていく自分、そして思い煩いばかりで前へ進めない自分、「主の御名を賛美します」と言っている自分が本当なのか考えてしまっている自分でした。

 2020年8月の末より、吉村様の御愛労で徳島聖書キリスト集会の主日礼拝に参加させていただいております。

 初めはスマホで、現在はスカイプで参加させて頂いております。

 吉村様の講話、参加者の方々の感話、そして徳島聖書キリスト集会のお世話していただいている方々との交流の中、札幌聖書集会の大塚様との交流の中からも主の愛を感じさせて頂き、聖霊によっての喜びがどんなに大切なことか。私は愛されているということが感じられて感謝の毎日です。

 本当にありがとうございます。これからも主の愛をいっぱいいっぱい受けて生活していきたいと思っております。ありがとうございました。以上です。

 

K.R.(北海道・苫小牧)

 苫小牧聖書集会の北川玲子です。現在一人住まいの83歳です。

 私が聖書を学び始めたのは結婚後の30歳の時でした。 羽仁もと子さんの友の会の「思想しつつ生活しつつ祈りつつ」、キリスト教精神に基づいて自由協力愛による社会の建設をめざす会に入会した時に、無教会の船澤澄子さんに出会って、苫小牧聖書集会に入会しました。

 いろんな事情で休むことも多く、あまり理解できないまま過ごしておりました。 その他、堤道雄先生に学び、のちに横浜集会のお話をテープに録って流してくださり、長い間聞いていました。

 また、札幌聖書集会の人々とも交流をしていただき、ライムギ先生ご夫妻や大塚さんご夫妻など随分お世話に頂きました。

 2008年ごろより吉村先生が北海道にいらした時、札幌交流集会に参加していました。

 のちには、苫小牧も高齢者が多くなり、札幌市まで出かけて交流集会に参加するのが難しくなり、吉村先生に苫小牧に来ていただきまして、直々講義を受けておりました。

 今はコロナウイルスに見舞われ、苫小牧聖書集会も大澤さんと北川で、このスマホを使って聞いており、み言葉を学んでおります。

 今後も是非学ばせて頂きたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。終わります。

 


 

リストボタンお知らせ

 

〇コロナのために、オンライン集会としてきましたが、5月15日(日)の主日礼拝から、徳島市の田宮の集会場にての集会を再開します。スカイプを用いるオンラインも併用します。

 

〇勝浦 良明文集、「沙漠にサフランの花咲く」、また、 若井克子さん著の「東大教授、若年性アルツハイマーになる」(講談社)などの本の注文が続いてあります。

 追加も印刷し、また購入していますので、希望の方は申込くださればお送りできます。

 若井さんの本の追加注文をまとめて講談社の担当者に電話したところ、また在庫なくなっているとのことで、5月20日ころに再版ができるとのことで、印刷をしても次々に売れていくと講談社の担当の方が話していました。

 アルツハイマー以外にも認知症になる方々が多数となりつつあり、関心が高いこと、東大教授であって脳外科の専門医が罹患したこと、そしてそれを公表し、ご夫妻で可能なときまで、各地を訪れ講演などされてこの病気のこと、介護での体験をキリスト者としての心をもって書かれていることなども多くよまれている理由になっているようです。

 

〇コロナはいつになったら終息するか分からないなかで、持病のある方々は自宅での時間が今後とも多くなると思われます。

 私たちの徳島聖書キリスト集会では、数十年前から、主日礼拝と夕拝の録音、一部の家庭集会の録音CDを希望者に送付しています。

 祈り、賛美、聖書講話、感話などもおさめていますので、健康な方と共に病気などで自宅療養の方々などからも以前から希望あってお送りしています。

 最初はカセットテープでの録音、送付でしたが、かなり以前から、MP3対応のCDプレーヤ、またはパソコンで聞くことのできるCDでの作成と送付となっています。

 一枚のCDで主日礼拝4〜5回分と夕拝2回、家庭集会2回の合計 8〜9回分の集会の録音で、一回二時間として、8〜10時間分の録音です。

 毎月の第一週に前月の録音CDを発送しています。

 費用は、一か月分の一枚のCDが500円(送料込)、半年または一年をまとめて送金でも可です。左記の郵便振替でお送りできます。

 それを聴くためのMP3対応プレーヤは、大型電気店でも置いてないこともあり、

近くにそうした電器店がないとか、パソコンも持っていない方で そのMP3対応のCDプレーヤをご希望の方には、従来から私がインターネットで注文して発送するということでお届けしてきました。

 価格はインターネットの店なので変動がかなりありますが、1万円前後です。

 それはラジオ機能もあり、CDラジオという名前での製品もあります。しかし、CDラジオといってもMP3対応でないのが多いので、近くの店で購入される場合には、MP3対応かどうかを必ず確認しておくことが必要です。以前にも間違って購入してしまったという方が複数あったのでとくに記しておきます。

 私自身も、夜に途中で目覚めて眠れないときには、その録音を聞き直していると自然に眠っているということもありますし、去年の入院中も苦しくて眠れないときには、その集会の礼拝録音CDや、イザヤ書、使徒言行録などの徳島聖書キリスト集会の聖書講話録音CD(すべてMP3版)を聞いて痛みを耐えたこと、また眠れるようになったことを思いだします。


 

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 主日礼拝…5月