いのちの水 20168月号 第666 

私は復活であり、命である。輪を信じる者は、死んでも生きる。
生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない
(ヨハネ112526


 リストボタン涙をもって種蒔くものは

 

 種をまく、それは単に農業や園芸関係の仕事にかかわる人たちだけのことではない。

 人は、みなそれぞれ、子供から大人まで、そして死のまぎわまで、何らかの種を蒔き続けている。

 ある人の何かの言葉や行動が、他者の中にも、また自分の中にも、何かを蒔いているし、それが芽を出して育っていく。

 私たちが毎朝、まず何を読もうとするのか―読むものが私たちの心にまず種を蒔く。

 人間同士のいざこざや悩み、世の中の混乱等々、新聞やテレビに報道されるさまざまの問題―それらを読むことはまた、私たちの心に何かの種を蒔くことになる。

 そしてだんだんと世の中はこうした不正や憎しみ、またお金や権力が一番強いのだというような考えの種が蒔かれるとき、その人間はだんだんとそのようなものを第一に考えるようになっていく。

  他方、そのような人間社会が日々私たちの心に蒔いていく種とは本質的に異なる種がある。

 それが、神の言葉であり、その神の言葉にかかわる私たちの思いや行動である。

 私自身をふりかえると、21歳の5月末に、私の魂の奥深くに神の言葉が蒔かれた。 そして、私のうちに蒔かれた福音の種は、私が高校や盲学校、ろう学校などの教員生活のなか、一部の生徒や同僚たちの心にもまかれ、そこでまた成長していった。

 そして、さらに定期的に発行してきた印刷物や実際の県外集会の方々とも接してそうした方々の中にもたとえ小さな種であってもそれらが蒔かれていくのに接してきた。

  キリスト以来二千年、無数の人たちがこの神の言葉という種、福音の種をこの世界に蒔いてきた。それゆえに福音は全世界に広がり、長く世界の果てのようなところにあった日本にも種蒔かれ、私たちもそれゆえに神の言葉を知らされたのである。

 しかし、そのような種蒔きにおいて、しばしば神は深い悲しみや苦しみを合わせ与える。

 歴史のなかで、はげしい迫害を受けつつ、神の言葉という種を死守し、それによって周囲の人たちの心に種を蒔いてきた人たちが数知れずいる。

 

…涙と共に種を蒔く人は、

喜びの歌と共に刈り入れる。

種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、

束ねた穂を背負い喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

            (詩篇12656

 この世に生きるとき、人はさまざまの重荷を伴ってくる。だれも求めてはいないような耐えがたい苦しみ―それは自分の苦しい病気や体の障がい、家族の困難な問題、また職場や災害、内戦等々―世界のどのような状況にある人たちも、それぞれに重荷が課せられる。

 なぜ、このような苦しみが自分に、また家族に負わせられたのか、なぜほかの多くの家族は喜ばしそうに生きているのに、どうして解決の道も見えない日々の苦闘があるのか―。

 そのような苦難のとき、人は多くの場合、神あるいは運命への不満や悲しみ、あるいは他者の幸いに見える人たちへの妬みや嫌悪、運命への怒り―等々が心の内にわだかまり、それをまた、自分の心やかかわる人たちの心に蒔いていくことになる。

 このような状況における種まきとは、対照的な種まきがある。それが、神の力によって導かれる種まきである。

 たとえいかに苦しくとも、私たちがあくまで愛と真実な神を信じ続けていくときには、必ずその苦しみのなかから種がまず私たちの心にまかれ、それが周囲にも伝わり、神によって育てられていく。

 涙とともに種蒔く人―それはかつての自分の間違った言動や思い―罪による涙の場合もある。その罪を知り、その赦しを受けつつ種まきをする。  また、他者によって苦しめられ、だれにも助けてもらえない孤独な悲しみの涙、愛するものを奪い取られた涙とともに種蒔く人もある。

 私たちが全能と愛の神を信じつつ、そうしたすべての涙をもって種蒔くとき、その神が最終的には喜びとともに刈り入れることを可能にしてくださる。

 私たちのその苦しみの叫びや涙は、神が聞いてくださり、それらすべてを良きに変換してくださる。

 

…神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っている

    (ローマの信徒への手紙828

 さきに引用した詩篇の言葉―涙をもって種蒔く者は、喜びの歌とともに刈り入れる―それは、神を信じ、その愛を信じて、人生でふりかかってくる苦難の歩み、涙とともに歩んできたときには、そうした苦難の打ち続く長い期間の終わるときには、ほかには代えがたい深い喜び、平安が与えられるということを意味している。

 人生の終りでなく、その悲しみのただなかで、天が開けて大いなる喜び―聖霊による喜びが与えられる方々もじっさいに無数にいた。

 しかし、そのような喜びが与えられないまま、うち続く苦難のただ中にあって死ぬことになった方々も多いだろう。そのような場合であっても、この御言葉によって約束された喜びは与えられる。

 それは、私たちの死後の復活ということによってである。

 最終的には、その約束が成就されることを信じて歩むことになる。そうした神への信頼の心はそれ自体が神から与えられた種であり、自分の中にさらなる信頼の実りを生み出し、また他者にも伝わっていく。

 現実のこの世の生活において、私たちはしばしば涙によって種蒔く状況に置かれる。それをいやすために、神は周囲の自然のなかに、数々の清い種を蒔いて下さっている。

 青く澄んだ大空に群がる純白の雲、海や山々の間を流れる渓谷の美とその流れの姿―それらも神がその御手をもって蒔いた種のひとつの現れであり、植物の花の姿、その香り、さらにその一つ一つの姿やその小さな葉などにも奥深い神の御心が種蒔かれている。

 私たちも他者のために小さな祈りを捧げるだけで、神は相手の人の魂にいかに小さくとも霊的な種を蒔いてくださると信じることができるし、祈る私たちの心にも種を蒔いてくださる。神は愛であるから。


リストボタン体と心の傷をいやすもの

 

 だれでも、体か魂(心)に傷を持っている。どんな人でもその生涯のうちに、かずかずの傷を受けるような事態に直面する。

 それは子供のときから、大人になり、さらに老年になってもその双方の傷は新たに生じる。

 この世は、傷つけるものがあまりにも多いからである。

 私自身も振り返ると、周囲の人間から傷を受けてきたし、また自分自身も他者にさまざまの傷を与えてきたことだろう。

 私自身が受けた傷は、主イエスを信じるようになってから、不思議と消えていった。事実でないこと、ひどい中傷を言われたこともあったが、それらは心の傷としてあまり残らなくなったし、しばらく傷の痛みを感じても、そのうちに祈りへと変えられていく。

 聖書の最初の兄弟のことを思いだす。理由なく、一方が他の兄弟の命を奪うほどに傷つけたことが書いてある。

 どうしてこんないまわしいことが書いてあるのかと、いぶかしく思ったものだった。

 しかし、神のまなざしは、すべての人間を見抜く。そうした鋭く深い目をもってすれば、人間はそのような悪意―深い罪を心の奥に秘めているということをこの聖書の記述は暗示している。

 ふだんはそれは隠れていても、何かのきっかけでその深い本性が表に現れる。それは戦争という事態になれば、他者の命を大量に奪い続ける異常な事態が当たり前とされ、あるいは国民全体が戦争という大規模殺人を喜ぶというほどに変質することからもわかる。

  人間同士はこの世にあって絶えず傷つけられ、また傷つける存在なのだ。

 体もいかに頑健であっても、老年になるにつれだんだんと弱さが現れ、体中がだるくなり、死にたいと思うほどになることもある。

 心の傷―それはだんだんと固くなり、若きときのそうした深い傷はもはや癒えることもなくなり、固まってしまう。

 そうして内臓、血管、骨等々も傷ついていく。体も固くなり、心もまた美しいものや善きものに反応しなくなり、固まっていく。

  そのような満身創痍ともいうべき状態にあって、もはや人間の力、科学の力はどうすることもできない。

  そのような心身の傷だらけになった状況が次第につもり、最終的には死が訪れ、永久に動くことがないものと成り果てる。

 そのようになることは、いわば科学的必然であるゆえ、多くの人たちは、それが動かぬ真理だと思っているようである。

 しかし、ひとたび全能であり、かつ正義や愛に満ちた神を信じるときには、それとはまったく別のことが示されてくる。

 それは聖書の次の言葉にあるように、私たちはそのような傷だらけの者であるにもかかわらず、キリストと同じような栄光の姿に変えられるということである。

 

…キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、

わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる。(ピリピ 321

 

 たとえ傷だらけになってもなお、私たちは全能の主を信じているゆえに、究極的にはキリストの栄光あるからだと同じ姿になる―。

 私は静かにかえりみるとき、いままでの生きてきた道において、知らず知らずのうちに他者にどれほど傷を与えてきたことだろうかと思う。

  キリストの十字架―それは、こうしたあらゆる自分が受けた傷、他者に与えた傷をも赦し、いやしてくださる大いなる力である。 


リストボタン大いなる主、悪の力を退け、賛美を生み出す神    ―詩篇48

 

 旧約聖書の詩篇とは、いろいろな古代民族が持っている詩集の一つである。(*

 

*)中国では、「詩経国風」(BC10世紀〜)、ギリシャでは、ホメロスの「イリアス」、「オデッセイア」(BC8世紀頃)、ローマではヴェルギリウスの「アエネイス」(BC1世紀頃)、インドでは、「バガバッド・ギーター」(BC52世紀)、日本では時代はずっと新しくなるが、「万葉集」(AD8世紀頃)など。

 

 それらの古代民族の詩集と比べて、聖書に収録された詩集と決定的に異なる特質がある。

 それは、聖書の詩集(詩篇)だけが、現在も全世界で読まれ続け、しかもその詩から派生した数々の賛美が讃美歌、聖歌として歌われているということである。そしてその詩編に関する注解書も膨大なものがある。

 そのように現代でも世界中で愛読され、またその詩篇のなかの一部が讃美歌として歌われている旧約聖書の詩篇であっても、今から2500〜3000年も前に書かれたものなので、距離も時間も離れている現代の私たちに分かりにくいのは当然である。

 例えば、この詩篇48篇においても、「シオンの山」、「城郭」などと言われても、現代の私たちとは関係あるとは思えず、そのような詩は深く考えつつ読むことなく、表面の文字だけ追って読んだという気持ちになることも多い。

 そうした一見関係のないと思われる表現の、その奥に流れている真理は何か、なにが現代の私たちとかかわるようなことなのか、と言うことを少しでもくみ取ることを目指したい。

 

大いなる主、限りなく賛美される主。

わたしたちの神の都にある聖なる山は

 高く美しく、全地の喜び。

北の果ての山、それはシオンの山、力ある王の都。

 その城郭に、砦の塔に、神は御自らを示される。(2〜4)

 

この詩においてまず、神はいかなる御方であるのかが言われている。

それは単純なひと言―大いなる主ということである。その広さ、深さ、英知、私たちの周囲の一切―万物創造をなさる力、時間にも朽ちない永遠性―どれをとっても、たとえようもない偉大さである。

 そのような神のお心(ご意志)を書いたものが聖書であるので、聖書もまた、高く美しく全地の喜びである。聖書ほど霊的に高い世界を描いているのはどこにもない。

 美しさという面でも、さまざまな美しさがあるが、歴史の中においても、芸術のいろいろな分野―美術、音楽あるいは建築などの美もキリスト教から生まれてきたものが実に多い。だからそこには究極的な美がある。

 そのことが霊的に深くわかるとき、おのずから湧き出るのが、その神をたたえる心であり、賛美である。

 人間が偉大だ、と思う心には、神への賛美は湧いてこない。だが、日本の教育においては全く宇宙万物を創造した神や永遠に変わらない愛の神、などということは全く教えられない。

 自然現象はすべて、愛や正義と関係のない自然法則により、あるいは、単に偶然的に生じているのだということが当たり前のようになっている。

 そして金メダルを獲得したとか、ノーベル賞学者、宇宙飛行士などを偉大だ、などという。しかし、そのような人間も、交通事故や、小さな鉄の破片といえる弾丸などでも一瞬に死ぬし、自分自身の心を清めることもできないし、他人の心の自分中心という本質を変えることもできない。

 明日のことも何が起こるか、何十年も政治学や経済学をやった者でも全くこたえられないという無力な存在である。

 そのような小さな弱い存在である人間と比べて神はあらゆる点で無限に超えた壮大さを持っている。そのことが少しでもわかってくるとき、人間でなく人間も含めたすべてを創造された存在―神への賛美が生まれる。

 この詩の冒頭はそうした自然の心の動きをまず示している。そしてそのように神を受け止め、賛美することが人間の究極的なあり方なのだと言おうとしているのである。

 この詩の著者の心にあるのは、シオンの山である。短い詩の中にシオンという言葉が三回も出てきて、象徴的な意味を持っている。シオンは聖なる所で、神がおられる所と信じられるようになった。シオンの山にある城郭にしても、塔にしても神の力がそこに現れていると感じられていたのがうかがえる

 現在の私たちにはシオンは直接には関係ないが、私たちにとってのシオンはある。

 神がおられるところは本当に素晴らしく、高く美しく全地の喜びとなるということである。

 私たちにとっては、二人、三人集まるところには神がおられる。だからキリスト者の集まりも霊的に高められることができる。

 迫害の時代は特にそうで、ローマ帝国迫害の時代には、地下墓所のような日の光も当たらないところで過ごし、そこで礼拝を捧げ続けた多くの人たちもあった。そのような弱い存在と見えた彼らが霊的には高くあげられ、後世へ福音が伝わる重要な存在となった。

 また昔の結核病棟やハンセン病の療養所など、一般の人たちから嫌われ、無視されていたような中で、神を信じる人達が起こされ、そのような苦難や悲しみをいやし、さらにその苦しみにうち勝つ力を与えられていった。

 そこには何らかの高さや美しさ、喜びがあったから伝わっていった。このような集まりは、霊的に見ると高く美しく、そして喜びにも繋がっていく。人間の単なる集まりはそうはいかない。神のいるところは高く美しくなる。人間関係でも、間に神がいてくだされば、高く美しい関係になるし、そういう人間関係を見て周りの人にも喜びとなる。

 このように一見私たちには関係なさそうだけれでも、シオンの山―現代の私たちにとっては、主の名によって人々が集められたところ、神のいるところには、高く美しく、喜びがある―このような性質を持ちうる。

 私が初めて京都の集会に行ったときも、そこにはある種の高さがあった。人間の議論は学生運動の当時は散々やった。しかし、そのような攻撃や議論の応酬、さらには憎み合うような場には、高さも美もなかった。

 

…見よ、王たちは時を定め、共に進んで来た。

彼らは見て、ひるみ、恐怖に陥って逃げ去った。

そのとき彼らを捕えたおののきは

産みの苦しみをする女のもだえ

東風に砕かれるタルシシュの船。(58

 

 このような箇所もそのままでは、現代の私たちにはまったく関係がないと思われるであろう。

 この5節から内容が大きく変わっている。シオンを取り巻く現実世界を言っている。これだけ高く美しいシオンの山に、この世の目に見えない悪の力が襲いかかろうとする状況を示している。

 けれでも、シオンの山にみなぎる神の力に接して、逃げ去っていった。この世の力はこのように絶えず責めてくるけれども、しっかりと神の力を与えられていたら、悪の力は逃げ去っていく。

 これは主イエスが弟子たちを派遣するときに、悪霊を追い出す権利を与えられたという箇所がある。

 攻撃を加えようとしてくる王たちに、激しい動揺を与えるのが、シオンの山にみなぎる神の力だということを、8節の独特の表現を用いて言っている。

 襲いかかろうとする彼らのうちに生じた霊的な恐怖というものが、大風に揺られる大型商船のようだというのがこの詩の作者にありありと示された啓示なのである。

 ここで言われていることは、やはり私たちにとっても大切なことだ。

 すなわち、異国の王たちが、神の民への攻撃のために進軍してくるとは、神を信じる者たちへの攻撃である。

 王たちが万全の体制をもって攻撃せんと進めてきても、彼らは、突然恐怖に襲われ、産みの苦しみのような苦痛を感じつつ退いていく。それはまた、地中海の果て遠くへと進んでいく大きな船が大風で破壊されるほどの打撃を受ける。

 これは、もし私たちが神へのまなざしをしっかりと保ち、神の言葉を魂の中心に持ち、ともに祈り祈られるような人々のつながりをもったエクレシアならば、そこにサタンが近づいてきても、入っていけないということを暗示している。

 これは主イエスが、伝道のはじめに、サタンの試練に遭遇したとき、旧約聖書にすでに記されていた神の言葉をもちだしてサタンを退けたのと同様である。

 

… 聞いていたことをそのまま、わたしたちは見た

万軍の主の都、わたしたちの神の都で。神はこの都をとこしえに固く立てられる。

神よ、神殿にあってわたしたちは

あなたの慈しみを思い描く。

神よ、賛美は御名と共に地の果てに及ぶ。右の御手には正しさが溢れている。

あなたのさばきのゆえに、シオンの山は喜び歌い

乙女らは喜び踊る。

 

後の代に語り伝えよ

この神は世々限りなくわたしたちの神

死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。(915節)

 

  このようにまず、神を讃美し、そのあとに現実の悪の攻撃を浮かび上がらせ、さらにその中で神の力が本当に働くことを知らされたゆえに、9節からそれに対する讃美をうたっている。

 神がおるところは永遠に固く建てられる。私たちも神に繋がっていれば、何が起こっても揺さぶられ、沈没することはない。神に対する讃美は地の果てにも及ぶ。

 神のすばらしさを啓示された人たちは、今日まで全世界に広がってきた。

 このような意味で、この詩は預言的でもある。このように悪に対する勝利を確信するとき、讃美は絶えない。その大いなる喜びと感謝のゆえに、自然に体が動く―踊りだすほどである。

 そして再び現実に戻る。先ほどの地の果てと対応するように、今度はどんなことがあっても導いて行かれる神を、後の代にもずっと語り継げようといっている。空間と時間を超えて、神のすばらしさは広がっていく。

 このように、この詩は、神の力とこの世の力とを対比しつつ、サタンを退かせる神の力の絶大な力を啓示された魂の賛美の歌なのである。 


リストボタンドイツ戦没学生の残した手紙から

 

 次に引用するのは、第二次世界大戦において、ヒトラーの命令によって戦うことを余儀なくされた若き兵士が、子どもたちにあてた手紙である。

 書いた人はヨアヒム・ベンネス。ハイデルベルク大学の語学講師。一九〇六年生まれ。一九四四年三月六日に戦死。ここにあげた手紙を子供たちに書き残して、1週間あまり後に戦死したことから、この手紙はいよいよ死のときが近づいていることを実感しつつ書き残したのがうかがえる。

 この手紙は、「ドイツ戦没学生の手紙」から引用した。ドイツ語原書は、2万2千通以上の手紙が収集され、それらのなかから選ばれて出版されたもの。

 この手紙の収集に関しては、戦死者の大学や教授、友人たちからの貴重な援助、とりわけ、ヘルムート・ティーリケ教授に感謝すると書かれている。

 ティーリケは、ヒトラーの率いるナチスによって教授職を追われ、迫害は続き、講演や移動を禁じられたが屈せず、熾烈な空爆下にあって説教や講演を続けた。戦後、ハンブルグ大学学長、テュービンゲン大学総長にも選ばれた。そして、総長会議の議長もつとめていたときその立場からこの戦没学生の手紙の重要性のゆえに、その収集を広く呼びかけ、戦争の悲劇を生きた証言をまとめることによって、歴史に刻み込もうとした。

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一九四四年二月二十五日、

神さまがわたしをおまえたちからあまりにも早く引き雕すことを覚悟しなければならないような時代に、私たちは生きている。だがそれは目にみえる体のことで、霊的にはそうではない。わたしの愛はいっも. おまえたちみんなのそばを離れない。私たちは再び会うことができる。

 今はまだお前たちはごく小さいので、わたしのことばを理解することができないだろう。

だが、いつもいつもわたしの心の近くにいるおまえたちに対して、自分の見に起ころうとしていることについて黙っていていいだろうか。

 キリスト教のことを大切にし、学び、愛すること、それにしたがって生きるようにつとめなさい。キリスト教の本質に深く入るためには、絶えずそのようにする努力が必要である。

 私たちが生きていくうえだて、このことは群を抜いて大切なことだと私は信じている。お前たちが、信仰にしたがって生きるように絶えず努めるならば、そのときお前たちはしだいに信仰の果実を知ることになる。すなわち、真理、魂の自由、平和と喜びなどである。これらはこの世のものではないのだ。

 自然から学びなさい! 自然の中にこそ、神の意志は、人間の歴史の中よりも大きな文字で現れているからである。森や野、山や海に対する本当の関係を、歩くことによって獲得しなさい。 夜でもときどき、さえぎられることのない夜空の下に、起きていることをすすめるよ。動物や植物に親しみなさい!

 お前たちの生活において、決して表面的な利害を第一にしないようにしなさい。「人間は、神を深く知り、愛し、神に仕え、それによって天国に導かれるために地上に存在するのだ」私たちのキリスト教のこの教えこそ、お前たちにとって導きの原理とならねばならない。

 世界は滅びる。しかし、神と私たちの魂は残る。神様に向って手を差し伸べ、つねに神様に向って成長していかねばならない。お前たちの幸いはそれにかかっている。

 とりわけ、人間を欺いてその平安と真の人生の価値を奪い取ってしまう、金銭を追い求めないようにしなさい。貧しくとも、満足している幸いな人を、私はたくさん見てきた。 私がお前たちに残すものは、金銭以上の値打ちがある。私は絶えずはたらいたが、お金儲けということはついぞ考えなかった。

 私は貧しさをいつも私に忠実だった良い友だちとしてお前たちに推薦する。

 いとしい私の子供たちよ! 忍耐つよくあるように!

 あらゆる不自由、不正、軽蔑を受けることなどを耐え忍ぶ鍛練をしなさい。なぜなら世界はそういうもので満ちているのだから。

 そうしたこの世の不完全性が私たちを育てる母であり、さまざまの苦しみが私たちを強くする日々の食物なのである。

 苦しみ、困難、悲しみ、憂い…それらを抱きしめて、甘んじて耐えていきなさい。

 救い主イエスさまを見上げなさい。

 神様はこのうえなく愛の御方! 私はこれまでに、百度も、千度もそのことを経験してきた。神さまをたたえ、感謝をささげよう!

(「ドイツ戦没学生の手紙」124頁〜。新潮社1953年 高橋健二訳)


リストボタン「アンクル・トムス・ケビン」(ストー夫人著)の中から 

 

 これは小説である。しかし、すぐれた文学作品は単なる作り話ではない。それは人間の深いところをじっさいに流れる共通の感情を明らかにし、私たちが気付かなかった清らかさや美しさ、あるいは神の愛などをあざやかに浮かび上がらせてくれる特質がある。本来なら眠ったまま、あるいは耕されずにいたであろう、私たちの魂のある部分が耕され、深められ、そして清められるのである。そして固まりかけていた心がよみがえるような思いを与えてくれるものである。

 つぎにあげるのは、奴隷のトムが慣れ親しんだ主人のもとから、売られていくときの状況である。

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 そんなことができるでしょう?あんたがこれから行くところについて何かわかっていたら。どんなふうに扱われるかわかってたら。奥様は一、二年のうちに買い戻せるようにやってみるとおっしゃる。だけど、ああ、河下へ行って帰って来たものなんかありゃしない。あんたは殺されちゃうだろう。栽培地じゃひどくこき使うって話を聞いたことがあるよ」

「クロー、どこにだって、ここと同じ神様がいらっしゃるよ」

「そうかね」とクローばあやは言った。

「いるとしておこうよ。しかし神様もときどき恐ろしいことをなさるものだ。私にゃ安心できないよ」

「わしは神様の御手の中にいるのだ」とトムは言った。

「何ものも神様がなさる以上のことはできないよ。

 それが、わしが神様に感謝するただ一つのことなんだよ。それに、売られてミシシッピ川の下流へ行くのはこのわしで、おまえや子供たちではない。おまえたちはここにいれば無事だ。何か起るとしてもわしにだけ起るんだ。

 神様がわしをお助け下さるだろう。わしにはわかってる」。

 

○「神はどこにでもおられる、そうしてどんなに悪がひどいことをしようとも、神はそれらすべての上におられて、最終的には救って下さる」、これが、家族と引き離され、激しい強制労働が待ち受けている南部へと売られていく絶望的な状況にある奴隷トムの唯一の希望であった。これは、使徒パウロが、つぎのように述べていることを思い出させるものがある。

 

…兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまった。

 わたしたちとしては死の宣告を受けた思いだった。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになった。

 神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけている。(Uコリント一・810

 

 そして、こうした困難にあっても、「神は必ず助けて下さるということを知っている」と確信している。この確信もパウロの持っていたものであった。それは本当に助けてくださるかどうかわからないが一応信じるというようなものでない。「知っている」のである。信仰は単なる根拠のない希望でなく、一種の知識となる。よく知られた著作家のつぎの文もそのことを述べている。

 だれでも信仰の一時的な動揺を完全に免れるわけにはいかない。さもなければ、「信ずる」とはいえないであろう。しかし、信仰上の経験を重ねるうちに、信仰がしだいに一種の「知識」となる。(ヒルティ著 眠れぬ夜のために・上 四月四日の項より)

………………

 自分自身の悲しみに耐えて、自分が愛している者を慰めようとする健気(けなげ)な男らしい心!

 トムは、こみ上げてくるものをこらえていた。しかし彼は勇気を出して強く語った。

「神様のお恵みのことを考えようよ!」トムは…体を震わせて、そうつけ加えた。

「お恵みだって!」とクローばあやは言った。

「そんなもの私にゃ見えないよ。これは間違ってる!こんなことになるなんて間違っているよ!だんな様は借金のためにあんたを売っちまうようなことをしてはならなかったんだ。だんな様はあんたのおかげで二回以上も助かったんだ。あんたを自由にしなければならないのだ。何年も前にそうすべきだった。今だんな様は困っていなさるのは確かだ。でもそれは違うと思うよ。なんと言われても私の考えを変えることはできないよ。あんたは忠実だった。あんたは自分のことをする前にだんな様のことをして、自分の女房や子供のことよりも、だんな様のことの方を考えた。

 それなのにあの人たちは自分の苦しみから逃れるために、心にある愛や心の血を売り飛ばすあの人たちはいまに神様のお裁きを受けるんだ!」

「クロー、もしおまえがわしを愛していてくれるなら、おそらくわしたちが一緒に過す最後の時に、そんなふうに言わないものだ。なあ、クロー、だんな様の悪口は一言だって聞くのはわしは辛いよ。…

 天におられる主を仰がなければいけない。主はすべての上におられるんだ。雀一羽も御心なくば、落ちないんだ。」

 

○神からの恵みのことを考える、そのことは、キリスト者に与えられた特権でもある。聖歌のなかにも、つぎのような歌詞のものがある。

 

望みも消え行くまでに 世の嵐に悩むとき

数えてみよ主の恵み 汝(な)が心は安きを得ん

数えよ主の恵み 数えよ主の恵み

数えよ一つずつ 数えてみよ主の恵み(聖歌六〇四番、新聖歌一七二番)

 

 苦難のときには災いや苦しみのみが心に浮かんでくる。それらをつぎつぎと数えてしまう。そのような時にこそ、過去に受けた主からの恵みに思いを注ぎ、そこからいまの苦しみや困難からもきっと助け出して下さると信じる心を強められる。

 パウロのつぎのような言葉もこうした状況を知った上で言われた言葉だと考えられる。

 

…そして、いつも、すべてのことについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。     (エペソ人への手紙五・20

 いつも神に感謝せよ、と言われてもいま困難と苦しみのただなかにあるときにはどうして感謝できようか。それができるのは、ここで言われているようにかつての神からの恵みを冷静に思い起こすことによってのみ可能なのである。

 奴隷をどうしても売らざるを得なかったシェルビー氏の夫人はそのような悲しむべきことになってしまうのを、どうすることもできなかった。彼女ができることはただ、心からの愛と祈りの心をもって、奴隷たちの前に出ること、そうして将来、買い戻すと約束することであった。つぎはそうした場面である。

………

 その時男の子の一人が「奥様がいらっしゃるよ」と叫んだ。「奥様だって何もできやしない。何しにいらっしゃるんだか」とクローばあやは言った。シェルビー夫人がはいって来た。クローばあやは明らかに不機嫌な様子で椅子を勧めた。夫人はそういうことは気づかないようだった。彼女は青ざめて、憂わしげだった。

「トム」と彼女は言った。「私…」

 そして急に口をつぐみ、黙りこくっている一家の者を見て、椅子に腰を下ろし、ハンカチーフを顔に当てて、涙を流し始めた。

「まあ、奥様、もう何も、何も」

 今度はクローの泣く番だった。しばらくの間彼らは皆一緒に泣いていた。

 そして身分の高い者も低い者も、みんな一緒になって流すこうした涙のなかに、虐げられた者の悲しみと怒りはすべて溶け去っていったのであった。

 ああ、苦しみにあえぐ人たちを訪ねたことがある人たちよ、あなたは冷たい心で与えた、金で買うことができるどんなものも、真実な同情の心から流した一滴の涙ほどの価値もないことを知っているだろうか。

 「トム!」とシェルビー夫人は言った。「私はおまえの役に立つようなものを何も上げることができない。お金を上げたら、取られてしまうだろう。

 でも、本当に心から、神様の前で、私はおまえのことは忘れない、お金が自由にできるようになったら、お前の行き先をつきとめて、必ず、すぐにおまえを連れ戻しますからね。その時まで、どうか神様を信じていておくれ!」

 

○売られていくトムはただ、神にのみ望みを託していた。そして今後の過酷な生活をもそれによって耐えていくことができると信じていた。神は信仰を持つからといって困難や苦しみに会わせないという保証はない。しかしそうしたあらゆる困難からも、必ず共にいて助け出してくださるということを確信していたのであった。

 そして、自らの力ではどうすることもできない夫の事業の状況のゆえに、夫の手によって所有している奴隷が売られていくことに耐え難い思いをもっていたシェルビー夫人もまた、神に望みを託していた。この物語に現れるキリスト者たちは、奴隷を所有していた立場にいた者も、売られていく奴隷も、そして逃亡奴隷を危険を犯してかくまって、逃がしてやる人たちも、真剣なキリストへの心、信仰を持っていて、その信仰が生きて働いているのが感じられる。

 トムの売られていく状況と並行して描かれているのは、やはり売られることに決まった若い女奴隷と子供のことである。この女奴隷はエリザという。彼女がシェルビー氏の家から売られる寸前に命がけで逃げ出して氷の流れる危険な川を渡り、迫り来る追っ手から逃れて、倒れたところを救い出されたことは前回に少し記した。つぎはその助けられた家での出来事である。

 

 エリザは自分を介抱してくれる、その家の夫人をじっと見つめた。

「奥様」と彼女は突然言った。「奥様はお子さまを亡くしたことがおありでしょうか?」

この問は思いがけなかったし、まだ生々しい彼女の心の傷に深く触れた。それはこの家の一人の愛らしいヘンリーという子供が葬られてから、やっと一ヶ月がたったきりであったからである。

「では、私の気持ちをおわかり下さるでしょう。私は二人の子供をつぎつぎに亡くしました。この子だけが残りました。しかし、この子が売られようとしたのです。もしそんなことになれば私は生きていけないと思いました。それでこの子を連れて夜逃げたのです。追いかけてきた人たちにもう少しで捕まるところでした。私は冷たい水を流れる氷の上を跳んで川をかろうじて渡ったのです。最初に気がついたときに一人の人が私を助けて岸にひきあげてくれたことです。」…

 エリザを助けた人の家は、上院議員のバード氏の家であった。彼は逃亡奴隷をきびしく扱うようにという法案を通過させるのに力を入れた人物であるが、その夫人のメアリは奴隷の苦しみに深く感じる人であった。そうしたところにエリザが運ばれてきたのであった。

 そしてエリザの苦しみと非常な命がけの逃亡の旅を聞いて、バード氏も心を動かされた。そしてエリザを自分の地位が危なくなるようなことをしてでも、逃がしてやろうとするのであった。

 そしてこの死ぬかも知れないと覚悟しつつ、幼い子供とともに逃げていこうとするエリザへの思いやりが生まれてきた。

 彼は扉の所で、ちょっと立ち止って、少しためらいながら言った。「メアリ、おまえがどう思うか知らないが、あのタンスには、亡くなったヘンリーのものが、いっぱいはいっていたはずだね」そして彼はそれだけ言うと、扉をしめて出て行った。

 妻は彼女の部屋に続いた小さな寝室をあけて、ローソクを手に取り、タンスの上に置いた。それから鍵を取出してそっとタンスの鍵穴にあてて、突然手を止めた。…バード夫人はそうっとタンスをあけた。

 そこにはいろいろな形の小さな服やエプロンや、靴下などがはいっていた。爪先がすり切れた一足の小さな靴さえ中からのぞいていた。おもちゃの馬やこまやまりもあった。

 それはバード夫人が、愛児が亡くなったとき、涙をながしながら張り裂けるばかりの心で集めた形見の品であった。彼女はタンスのそばに腰を下ろし、頭を抱え、涙が指を伝ってタンスに流れるまで泣いた。

 そして突然頭を上げると、急いでなるべくきれいで役に立ちそうな品を選んで、それを集めてひとまとめにした。

「お母さん」とそれを見ていた、彼女の子供が、やさしく彼女の腕に手を触れて言った。

「誰かにおやりになるの?」

「可愛い子供たち」彼女は優しくしかも真剣に言った。

「もしあの可愛いヘンリーが天国から見ているとしたら、私たちがこんなことをするのを喜んでくれますよ。普通の人にこれをあげようとは思いません。でもね、母さんは、私よりももっと苦しみ悲しんでいる一人のお母さんにあげるのですよ。神様がこの品物と一緒にお恵みを下さるように」

 自分の悲しみをすべて他の人の喜びへと実らせていく清らかな魂がこの世にあるものである。そういう魂をもっている人のこの世の望み(子供)は、多くの涙とともに土に埋められても、それは種のようにやがて花を咲かせ、芳香を放って、よるべなき人々や悩める人々の心の傷をいやしてくれるものなのである。

 今、明かりのそばにすわって、そっと涙を流しながら、頼るもののない放浪者(逃げている奴隷のエリザ)に与えるために自分の亡き子供の形見を揃えている、思いやり深い婦人はそうした人間の一人なのである。 …バード夫人は大急ぎで小さいきれいなトランクにいろいろなものを入れて、それを馬車に乗せるようにと夫に言ってから、エリザを呼びに行った。彼女は子供を抱いて現れた。急いで馬車に乗せると、エリザは馬車から手を差し出した。それにこたえて出されたバード夫人の手と同じように柔らかく、美しい手であった。

 エリザは大きな黒い瞳に、はかりしれない真剣な意味をこめてバード夫人を見つめて、なにか言おうとした。彼女の唇が動いた、一、二度言おうと繰り返した、が、声にはならなかった。― そして決して忘れることのできない表情で天を指さして、崩れるように座席に腰をおろして顔を覆った。戸が閉められ、馬車は動き出した。

 

She fixed her large, dark eyes, full of eanest meaning, on Mrs. Bird's face, and seemed going to speak. Her lips moved,--she tried once or twice but there was no sound,--and pointing upward with a look never to be forgotten, she fell back in the seat, and covered her face. The door was shut, and the carriage drove on.

 

○エリザはバード夫妻からの特別な愛情を受け、逃げていくことができた。このような追いつめられた弱い女奴隷の心には万感胸に迫るものがあっただろう。そして彼女ができたことはただ、無量の思いをこめて恩人を見つめ、天にいます主を指し示して、神からの祝福を祈って別れることなのであった。

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「キリスト者であるとはどういうことなんだ、エヴァ?」

「誰よりも一番にキリストを愛すること」

「おまえは?エヴァ」

「もちろん一番に愛しているわ。」

「キリストを見たことなんかないじゃないか

「それはどうでもよいの。私はキリストを信じているの。あと数日で会えるの。」

こう言ったエヴァの顔は、喜びに輝いた。

このことがあってから、エヴァは急速に衰弱していった。もはや死を疑うことはできなかった。…輝かしいそよ風にのって天国の岸にに運ばれていく小舟のように、小さな魂の最後の旅路はあまりにも輝かしく、静かであったから、近づいてくるのが死であるとは実感できないのであった。エヴァは毎日弱っていった。

 彼女は特別に美しく、愛らしく、深い神への信頼に満ち、幸いであった。そのため、彼女の周囲には純潔さと平和の満ちた空気があり、しかも人を慰めるような影響をまわりのすべての人に及ぼしていくのであった。

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 南北戦争という悲惨な戦争も引き起こすことになった奴隷差別問題、そのあとで、奴隷解放令が出されたが、このような歴史的な状況から生み出された小説はおそらく二度と書かれることはないであろう。それゆえに、少しでもこうした小説の内容に触れていただきたいと思った

 前回述べたように、トルストイが特別にこの本を高く評価し、またスイスのキリスト教著作家のヒルティが、最も書いてもらいたかった書物としてあげているのは、この本の内容にある。この世の悪や罪などを描くことだけにおわっている通常の小説などと根本的に違うのは、この本が、そうした現実の悪のただなかにおけるキリストの愛と光が示されている点である。

(このストー夫人の「アンクル・トムの小屋」からの引用と説明は、14年ほど前に書いたもの。キリストへの単純率直な信頼は命がけの真剣なものでもあった。これは単なる想像の世界のことでなく、長いキリスト教の歴史のなかで、こうした単純な、かつ力強い信仰が流れてきた。現代の私たちにも主イエスが言われたようなこの幼な子のような心をもって信じる信仰を与えられたいと思う。)


リストボタン2016年 キリスト教(無教会)全国集会

 アンケート

 

 去る5月14日(土)〜15日(日)に徳島市で開催された、表記の全国集会に関する感想を、以下に記す。

 以下の項目について自由に書いていただいたもの。

・プログラムの中で心に残った聖書の言葉。(1P)

・聖書講話で心に残っている内容

・証しで心に残っている内容

・賛美について

・全国集会前夜の会、終ったあとの会について

 

Oプログラムの中で心に残った聖書の言葉

 

・創世記1の1〜3

・イザヤ19の2〜5(2名)

・詩篇19

・黙示録21(2名)

・混沌と闇、特に縦軸としての真の神を持たない日本人、しかし、その闇の中に光を放つのが聖書の御言葉とその力

・詩篇147の15

・人はパンだけで生きるのではない、神の口からでるひとつひとつの言葉で生きる(2名)

・詩篇34の9

・詩篇119の81と105

・「汝の言葉はわが足のともしび、わが路の光」(2名)

・話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向う(2名)

・大空は御手の業をしめす(2名)

・実にキリストはわたしたちの平和であります

・神の言葉はとこしえに変わることはない(2名)

・詩編19編4、5節話すことも、語ることもなく 声は聞こえなくても その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう。」

・ヨハネ黙示録21章4節「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」

・Tコリント10章13節「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。」

 ヨハネ4章23節「霊と真理をもって礼拝しなければならない。」

・ 創世記8:21 主が造り主であられ、被造物である自分の内の罪を思わされ 赦してくださるのも主であり、イエス様の他にないことを確認しました。

・ エフェソ2の14「キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し…」

 創世記45の5「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」

 創世記45の8「わたしをここに遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」

 

O聖書講話で心に残っている内容

 

・サマリアの女性が罪を認めイエスを救い主として受け入れたこと。礼拝場はイエスであること。言葉に確信と威厳、力があった。

・天才たちの業績は大海の叡知のひとしずく。わたしを変えたのは、難解な言葉や知識ではなく、神の簡単な真理に富んだ愛の言葉であった。

・十字架につけよと叫んだ人、許可した人、執行した役人、それらの中に、わたしがいる。

・神の国と義を求めて生きれば、迫害に会う。キリストの福音はいつの時代も荒野の福音、人生の荒野を開き力を与えるのも神の御言葉

・サマリア人に対するイエスの姿勢。単純に「信じること」ということの真意

・吉村さんが鳥の声のレコーダーを使用した点

・大空、土、虫、花、すべてに神様が創造された御旨を感じることができる。神が語られることを、耳を澄まして霊の言葉として聴き取ることが大切。静かなる、神の細き声を聞きたい。これを受け入れたら良きことが訪れる。これが福音。

・イエスを信じることによって、初めて罪が赦され、聖霊が与えられる。御言葉を通して与えられた神の恵みを他の人に伝えて行く。

・神の言葉は、広く、深く、清く、聖書を通し、自然のあらゆる事象を通して我々に示されている。

・神の言葉の中に。神の御心が示されている。神の言葉から、新たな希望と力を与えられたい。

・神の愛をたっぷりと語られ、信仰を導いていただき、感謝しています。神様のお話はうれしく、ありがたく、涙があふれます。

・「神の言葉ーいのちと希望」

・身近なところに神の言葉はあり、聞く心があれば聞くことができる。

・愛は人を造りあげる。知識は高ぶらせる。神のことばを聞くこと。(2名)

・吉村さんの講話が素晴らしかった。アーメンです

・イエス様は罪をすべて見通している。サマリアの女性がイエス様を信じ、水瓶を置き、飲み水よりも大切なものがあることに気がつき、とんでいって皆に伝えた。イエス様を信じる者に聖霊が与えられる。自分の思い通りに生きるのではなく、伝える義務がある。

・自然のみ声に聴き取ること。全地に響いている神のみ心に聴き取ること。

・「神の言葉ーいのちと希望」の御自宅での自然の録音ー『心をすます事の少ない』毎日を反省しました。

・吉村孝雄先生「主題について」、「神の言葉―いのちと希望」。神の声は自然の中に満ち満ちている。毎日、自宅近くの県立竜田公園を運動で歩いていますが、四季折々の自然を感じていましたが、神の声というところまで受け止めていなかったです。また、講演直後の賛美「聖霊きたれり」で先生の魂をこめた手話賛美は、感動的で涙があふれました。賛美の心が少しわかりました。

・清水勝さんの聖書講話で、サマリアの女は罪を赦されたあとは、自分の罪が周りの人に明らかにされても良いほどに変えられたこと 聖霊が与えられることを願いながら祈ること いのちの水は信じる者すべてに与えられること が心に残りました。

 

・吉村孝雄…言葉にならない言葉がある。信じて心の耳を澄ます。

永井信子…与えられた現実を背負って、空っぽの心で。

秀村弦一郎…主イエス・キリストと出会う所を自分で決めることはできない。

清水勝…預言者とは罪を指摘して悔い改めを迫るもの。恥から主イエスへと、それは罪の問題が解決されているから。

・サマリアの女が神(イエス様)の言葉をきく前と後の大きな変化に神の言葉に生命があることがよくわかりました。

・神様から与えられている美しいもの、聖いものにもっと目も耳も開かれたいです。

・秀村弦一郎…「神の言葉―希望に生きる」苦しい時に出会って下さるイエス様の言葉は希望である

 清水勝…「イエスとサマリアの女」サマリアの女はイエス様に出会い、飲み水よりも大切なものがあると気付き、水がめをおいて、人々に伝えに行った。彼女はすでに罪を赦されていた。

 吉村孝雄…「神の言葉―いのちと希望」静かなる細き声が絶えず響いている。その声を聞けば、そこに新しい道が開ける。

 

O証しで心に残っている内容

【全体的に)

・各人の人生の中で、神、イエスキリストの出会いの証し、神の言葉に従って生きている生き様に感動し、教えられた。確信に満ちた言葉は、とらえて離さないものでした。

・それぞれの人の信仰が素晴らしい。その居るところで、神とつながって、わたしもこの方とつながっているのだと思うとうれしいです。

・みなさん、お一人お一人が、神様とどのように出会ったか。赤裸々に語ってくださって、神様が生きて働いてくださる、ということを実感いたしました。わたしも励まされました。

・神の御臨在が迫るものばかりだった

・すべて良かったのですが、貝出久美子さん 鈴木益美さん 小舘知子さん 石原潔さんでした。この世的には最も悲しいご体験の中から神により深く交わるという学びがあったこと。時間、年が経過した時に、初めて主の御旨、恩恵を与えられたという証は心を揺さぶるものでした。

・小舘知子さんの証しで妹を思い出し、石原潔さんの証しで父を思い出しながら聞きました。そして母のために、すべてをご存じの神さまが平安をくださるようにと祈りたいと思いました。

 

・14日(土)の二人の証しについて。

 神様の時を待って、み言葉によって前進され、誠実に歩んでこられたお二人の信仰を強く感じました。

 

〇以下は個別の証しした方々への感想。

(西川求さんの証しに関して)

・千人がはたらく大規模農業の会社が一つでするより、10人がはたらく農家が100ある方がよい。1000×1より100×10、

・大農家の道を選ばず十数件の小農家で。目の届く範囲で。

 

(朴さん) 

・愛農学園で有機農業を学び、持続可能な社会を目指す。世界平和。

・同じ神の民、共に歩んでいきたいというメッセージ

・キリスト教信仰を告白しておられる朴さんに感激です。隣国のこのような方のお話は有り難いことです。旧約聖書のヨセフの話。

・韓国の方々が「いのちの水」誌を輪読して学んでいること、理事長としてさまざまな働きをしていること、プルムの有機農法が多くの地域の役に立っていること、苦しい時期に日本の無教会に支えられたこと

・あなた方ではなく神がそうされたのです。(創世記のヨセフの記事の最後の部分にあるヨセフの言葉)

・朴さんのお話を聞きつつ、私達の先輩たちが犯した罪、悲しい不幸な出来事の数々は、政治家にまかせておいては、永遠に消えないと思わされました。創世記とエフェソの言葉を用いて話された朴さんの広い心は感動的でした。14日の夕食後、雑談をしていました時、朴さんは「私は徳島が好きです。ふる里に帰ってきたようです」と言われ、私はとても嬉しかったです。

 

(貝出)

・救われたよろこびが伝わってきた

・ご自身の体験に基づく証しが素晴らしく心が揺さぶられた

・小さな記事が信仰の扉になった

・私が神の神殿であった。裁きと同時に赦しを与えられ、鎖から解き放たれた。

 

(鈴木)

・死んだ方がまし、という苦しみの中から救われた、神様の導きを思いました

・鈴木さんの証しが心に残った

・すばらしい神のお証し、わかりやすい話をありがとうございました。

・ご自身の体験に基づく証しが素晴らしく心が揺さぶられた

・平方氏の信愛ホーム設立、小羊集会と家族伝道

・裁きと赦しはひとつなのです。

・鈴木益美さんがどんどん視力を失われて行ったことはどんなに不安で苦しかったことでしょう。小さな子供さんを苦しい闘病の末になくされた小舘知子さんの悲しみ苦しみはどんなだったでしょう。お二人とも自分の十字架を背負ってキリストに従って歩まれたことをきいて、大きな励みをいただきました。

 

(安彦)

・賛美は二度の祈り、ひとつひとつの賛美に心洗われました

・命の大切さ

・讃美歌は、歌と言葉の二重の意味で神様を讃えている。

・話が心に刻まれました。主は最善になしたもう。

・アウシュヴィッツ 110cmの死のハードル。歌「花彩る春を」

 

(小舘)

・娘さんの死の意味だけでなく、生きる意味も与えられた

・答えを得ようと聖書を読み始めた。答えはいっぱいあったのに、その時はわからなかった。見いだせなかった。

・お子様を小さな時に亡くすという、大変な経験を話され胸がつまりました。十分な神様のお証しを拝聴。感動のお話。「涙をぬぐい去る」という神様の話。

・ご自身の体験に基づく証しが素晴らしく心が揺さぶられた

・聞いていてつらかった。キリスト教の根本そのものの証しだと思います

・娘さんの死について、父なる神の御子イエスを死なれた点がうかんだ。神の痛みの神学を思い浮かべながらきいていました

・愛娘の苦しみと死、という実例を通して信仰が深められたこと

・話が心に刻まれました。主は最善になしたもう。

・小舘知子さんの娘さんを通して神の言葉(黙示録21章4節)を食べていく様は感動的でした。

・あの時(幼い娘の死のとき)、神は居て下さった

 

(石原)

・マタイ受難曲、み言葉を通して奥様の看取りの時を重ねて話されたこと

・マタイ受難曲を通して、イエスの受難曲をとおしてのお話

・ご自身の体験に基づく証しが素晴らしく心が揺さぶられた

・神の痛みの神学を思い浮かべながらきいていました

・話が心に刻まれました。主は最善になしたもう。

・マタイ受難曲の第60曲、生きなさい、死になさい、ここに憩いなさい イエスの御腕に。

 

O賛美についての感想

・(武義和)独立学園の香りをいただいた。初めてでしたので、賛美のすばらしさを実感。

・(徳島の賛美)大変良かった。いつもよく準備され、賛美中、賛美と祈りを強く感じた。

・パワーポイントの歌詞により、前を向いて賛美ができた。生演奏が良かった。

・ハッピーバースデイ、生きていても良いのか?は日本人全体の問い?イエスキリストを通して真の神を知り喜ぶことこそ、生きる力の源。日本人がこのことを真剣に考えないからこれから先が心配だ

・賛美の選びが効果的であった。

・武さんの講話の中で、小国町に避難された女性が泣き出した話に感銘を受けました。

・全体に賛美の歌に力を入れているのがとても良いと思いました。

・武義和さんの歌。一生懸命練習したであろう、徳島聖書キリスト集会員のコーラスに心打たれました。

・二日間の日程全体を通して、賛美の大切さとその力を強く感じた。特に武さんのコンサートとお話には激しく心を打たれ、揺さぶられた。ここで与えられた恵みを持ち帰り、日頃の集会にも生かしていきたい。

・あふれるばかりの賛美を歌い、聞いたこと、うれしいです。

・神への感謝、喜びを、心から表現できる手話讃美のすばらしさ!

・音楽は言葉とは違った豊かさを与える、ということを思わされました。

・武義和氏のお話と賛美はわかりやすくてよかったです。

・手話讃美がすばらしかったです。

・新しい讃美歌も機会があったら歌いたい。

・神の御言葉にかかわる賛美が準備され、ひとつひとつが霊にあふれ、魂に響きました。「神の民」わたしたちも自分の罪に泣く神の民です。でも、主が共に歩み、導いてくださる。祈りが伝わってきました。

・徳島聖書キリスト集会の手話讃美も、武さん、安彦さんの物語を交えてた賛美も、オカリナ演奏も素晴らしかった。

・賛美はどれも楽しかったですが、集会員の皆様が心を合わせて歌を歌っているのは思いが伝わってきました。

・@賛美・讃美歌の歌詞について、意味と奥深さを再認識させていただいた。

 A武さんのお話は楽しかった。人間の基本的人権はイエスのすべての人を平等に愛するという視点は教えられました。「ハッピーバースデイ」の歌の深い意味を優しく解説していただいた。「わたしがいる」の賛美は素晴らしく思いました。信仰の神髄を歌い上げているものでした。

 B徳島全国集会で節目、節目で行われた賛美は本当によかった。賛美の意味を再認識させていただきました。本当に新鮮さを感じました。

・〇武義和さんの「主から受けし」 まえから知っていた曲で、賛美できてうれしかったです。「ハッピーバースデイ」 いじめや虐待で悩んでいる子たちに届けたいです。 〇安彦真穂さんの「主が手をとって起こせば」 好きになりました。また賛美したいです。 〇飛び入りプログラムで オカリナ演奏も聞けて、秀村弦一郎さんにも感謝です。 〇スクリーンの歌詞を見ることができるので、感謝です。ほかの方も手話して賛美してくださってました。

 

・(武義和、安彦真穂両氏による讃美タイム、徳島聖書キリスト集会員による賛美、全体の賛美などについて)

 賛美はどれも楽しかったですが、集会員の皆様が心を合わせて歌を歌っているのは思いが伝わってきました。

・武義和…1ヶ月間負けまい負けまいと思い続けてきた被災者の悲しみの心が、私が歌った歌によって解き放たれた方々に実際に触れたこと。

桜井保子さんによる手話讃美指導と全体の手話讃美。

全体の讃美のなかで心に残った賛美…「天の神、祈ります」「聖霊きたれり」

・賛美の美しさに酔いしれました。まるで天使の合唱を聞いている様でした。(天使の合唱を聞いたことはないのですが。何度も練習を重ねられたのしょうが素晴らしいです。そこに祈りの心が込められているからでした。)

・賛美を通して、心が開かれ喜びがあふれ感謝でした。 

・一番感動したのは、手話賛美です。とても美しかったです。できるところだけ真似しましたが、いつも思います。文字を追って歌っている時よりも一つ一つの言葉を意識します。少し離れた所で歌っておられた貝出豊さんのバスがとても効果的にひびいていました。

・コーラスもハーモニーがすごく美しかったです。ありがとうございました。

 

O全国集会前夜の会、終ったあとの会について

・前夜の交わり、そして、「祈りの友」の集まりの中で、多くの友を与えられ、まあ、具体的に祈り合うことの大切さを学んだ。

・前夜集会、初めて参加しました。とてもよかった。何人かの方が声をかけてくださり、祈られていることを感じました。一曲目の賛美「歌いつつ歩まん」とても力づけられました。

・遅刻しましたが、少しでも参加できてよかった。

・本番前のリラックス感もあって、始めての参加でしたがよかった。

・全国集会終了後の徳島聖書キリスト集会の集会所での交流会に参加し、集会所を目の当たりにして、又吉村さんを脇で仕え支えておられる集会の方々、徳島集会の姿をその一部だけれど、具体的に、ありありと感じ取った。

 

Oその他

・入院中の勝浦さんの生の声を初めて聞き、どうぞ一日一日がありがたいと思って生きていかれますように。

・徳島聖書キリスト集会が一体となり、この会が感動の内に過ごすことができた。手話ができたら、どんなに喜びに満たされるだろう。ひとつでも体得したいと感じた。

・うぐいすの声を集会中にきかれた不思議。

・(若者の会)司会の陽子さん、ありがとうございました。

・(祈りの友の会)具体的な祈り中心の迫力のある会であった。古川さんに感謝。

・昼食が早すぎた

・本当に素晴らしい会でした。キリストの旗印を掲げて歩む力を与えられました。

・準備から本番まで、多くのご愛労に明に暗に支えられた。タイムキーパーによって時間も守られた。

・久しぶりに全国集会に参加して、御言葉に生かされている仲間から元気を与えられた。思ったより、声をかけてくださるかたが多いので驚いた。大阪の全国集会以後、今回新たな気持ちで全国集会に出させていただいた。聖霊は群れの中に働く事を実感した。特に神を喜ぶ賛美することを基本にしておられる徳島集会においておおきな力を与えられた。ハレルヤ。

・東京の全国集会と、ひと味違った心遣い、味わいがあった。地方でこれだけのことができる体制に驚く。そのへんの苦労話も知りたかった。

・参加者のふれあいのウェイトが高かったようで大きなメリットと思う。

・徳島集会の迫力に圧倒させられました。皆さんで協力して良い会を作られていると感じました。

・全国集会を堤先生が呼びかけれたという意義がわかりました。

・全国から無教会信仰の方々とお会いして、同じ信仰の友が顔をあわせて証しやお祈りができたことは、うれしく涙を禁じ得ません。徳島の皆様、集会のプラン感謝いっぱいです。心からお礼を言いたいです。

・神の豊かな導きがあったことを強く感じた。

・高齢者、障害のあるかたがたへの配慮が行き届いているように見えました。弱い人、弱い立場にある人に合わせることが、いかに大事か、この集会に参加して教えてもらいました。感謝いたします。

・よく準備がいきとどき、配慮がなされていて、素晴らしい集会でした。感謝です。

・ひとつひとつのプログラムに祈りが込められ、多くのご愛労があったことを思い感謝でした。

・「祈りの友の会」も直接顔を合わせ、祈られ祈る時を持つことができ、本当に恵みを受けました。直接相交わることの大切さを思いました。途中で体調の悪くなったKさんの体調が守られよかった。今後も交流したいと思いました。

・すべて素晴らしい!!!

・黙想の時間はとても良いと思う。心を静める事の少ない現状(この世の社会全体)がとても気になります。祈りと賛美が直接 神様につながる事、実感しました。ありがとうございました。

・@徳島の集会員、お一人おひとりが適切に、それぞれのご担当業務が祈りをもって進められていることが、ひしひしと伝わってきました。また周到なご準備が拝察されます。

 A昼食のお弁当の受け取りは、体の不自由な方以外は各自で受け取りに行ってもよかったのではと思いました。中川陽子さんたちが一生懸命お世話をされていました。申し訳ない気持ちになりました。(余分なことですが感謝をこめて)

素晴らしい全国集会をご準備いただきありがとうございました。

・休憩時間をながくとってくださっていたので、安心できました。ありがとうございました。

 申込受付をさせていただき、はじめて会う兄弟姉妹にも廊下などで話しかけていただき、うれしかったです。

 予定通り参加できたこと、与えられたことをこなせたことは 兄弟姉妹のお祈りがあったからです。

 ありがとうございました。

・多くの主にある兄弟姉妹と、短くはあれ、言葉を交わすことを通して、その人となり信仰に触れることが出来て大変貴重であった。このような場を、私達一人一人の為に祈りつつ、備えて下さった徳島聖書キリスト集会の全ての兄弟姉妹に心から感謝申し上げます。

プログラムを通して働かれた全国の兄弟姉妹の方々に主に在る強い親近感を抱きました。私もなんとか力を尽くして、共に進んでまいりとうございます。

ハレルヤ! 

・今回も参加者一人一人のため(私のため)に祈っていただきありがとうございました。徳島の皆さんの神様への熱心をひしひしと感じました。ご愛労に心より感謝します。ステキな記念品もありがとうございました。遠くから近くから神様に集められた一人一人が神様に求め寄りすがる信仰を見せられ励まされました。

 

O全体の感想

 全国集会についての趣旨にありましたように、「無学な人、障害のある人、苦しみにさいなまされている人などにわかりやすい言葉でキリストが語られたように、弱さに苦しむ人にわかる話を!」の通りになっていたと思います。たとえそうでないと見える人でも、自分を顧みれば弱さを持った人間であり、神のみ前には誇る何物も持っていないと言える人の集まりではなかったでしょうか。私は一コリント1・27を思い浮かべていました。

特に皆さんの証しから、神の言葉で命・力・を得て、希望に生きている人の証言をお聞きでき、生きて働いている神様を讃えました。

プログラムを見たとき、証し・信仰感話を語る人が多いなと思いましたが、牛を1人で1000頭飼うよりも10人で100頭飼った方が繁栄するとの北海道の酪農家、西川求さんの話を思いだしました。一人が長時間語るよりも、多くの方々が、主にあって短く語るほうが霊的にうるおされることとなり、そのおかげで恵みが豊かに与えられたのでした。

 願わくは、次回の全国集会もこの地で!!などと勝手に思っていました。(次回は東京ですが)

 今回徳島の集会の方々が献身的に周到な準備をしていただいたこと、当日も実に至れり尽くせりのもてなしをしてくださったこと、 司会の中本さんは二日間和やかな雰囲気で会場を落ち着かせてくださったこと、皆様が参加者のために祈り続けてくださったことを心から感謝申し上げます。 参加者の一人としても祈り続けていました。また、行きたくても行かれなかった方々やそれぞれの集会のみなさんの祈りが結集して神様に届き祝福されていると確信出来ました。

 賛美集の歌はとうとう全部歌い尽くしました。おそらくこういうことは初めてのような気がします。奏楽者の武さん・安彦さんから教えられた賛美、更に、美しいハーモニーでうっとりさせられたコーラス・手話賛美等々----「民は賛美するために創造された(詩編)」賛美の力を感じました。

 お土産の封筒に入っていた賛美のCD。貝出さん作曲もあって。コピーして信友に差し上げましたら、このCDを聞いてアーメンと言えばお祈りになるね、と。CDも伝道されていきます。

 休憩時間が適当にあったおかげで、多くの人と会話でき感謝でした。

 数分の休憩時間に「数は問題でないという人がいるが、伝道は大事」と自己紹介で発言された人に「同感です」から始まって交わりが出来ました。

 韓国から朴さん、沖縄から友寄さんの参加は、韓国との沖縄のことを忘れないように、祈りを深めるようにと神様のご指摘と受け止めました。

 2日間、前日の交流を含めて3日間の受けた恵みは心に満タンです。こぼれて消えないように、ほかの人に伝えています。

  すべては、神の栄光のため。栄光は神に帰す。

 

・恵みあふれた全国集会でした。参加できたことを主に感謝します。多くの祈りが積まれ、主が確かに期待に応えてくださり、参加者一人一人に語りかけておられるように感じました。

・徳島集会に参加させていただくと、いつも弱い人に支えられて居るなぁと毎回思い知らされています。

 弱い人、一人一人に心を込めて、丁寧に手話で福音を伝えておられること、目の不自由な人にもやさしく案内、導びいておられること。などなど、心を込めてかまえてでなく、さりげなくされて居られた事が印象的でした。

 そんな中から、同じ弱い人を支え集会を支え、勝浦さんのように病床のなかから、僕ら集会のために祈ってくださっていること。

 同じではありませんが、人類の宝である、「ローマ書」を遠路ローマに届けたのは、フィーベという女性奴隷だったように、パウロを助け、支えたのはさまざまな奴隷たちであったことを思い起こしています。…

 全国集会を1991年に初めて地方の徳島で開いてくださったときは、まだ明石大橋が完成してなくて、教友たちがわが家に宿泊してくださり、ともにフェリーで参加させていただき、初めて徳島集会を知り、無教会に風穴を開けてくださったことを思いだして居ます。…

   

・復活の主が2千年前と変わらず、私達の間にご臨在下さって働かれたことを感じます。徳島集会の皆様が、私達の為に篤くお祈りくださったことを心に感じます。パーキンソンのため、歩行がやや困難なこともあり、便秘に苦しめられていますが、無事に着くことができスケジュールを参加できたことはそのお祈りのお陰だと思い、感謝です。

 

 ・細かいところまで気配りされ、愛の配慮のいきとどいた素晴らしい集会でした。徳島の兄弟姉妹が輝いて見えます。どうもご苦労様でした。ありがとうございました。 


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最近の夜空… 午後7時ころにの西空には、白く輝く星が見えています。宵の明星のように見えますが、これは金星でなく、木星です。木星がこのように夕方に西空低くみえるのは、長い間なかったことです。

 ほぼ真南には、火星の赤い輝きが見られ、その左方やや下(南寄り)には、やはり赤い星アンタレスが見えます。そして火星の左上には、土星の輝きが見えます。

 都会では、小さな星々は見えないですが、こうした明るい惑星やアンタレスのような恒星で明るい一等星などは見えます。

 

Oタカサゴユリ… 現在私たちの集会場の庭には、タカサゴユリが、高さ二メートル近くちなり、そこに純白の美しいユリの花が、6つも輪のように咲いています。ほんのりと香るこの大型のユリは心惹かれるものです。そのほかにもまだ咲きかけているいくつもの株があります。このユリは、台湾原産で、種が風に乗って遠くまで運ばれ、意外なところで増え広がります。肥料の乏しい山沿いの草地や荒れ地にも生育するたくましさがあるにもかかわらず、その花は大きく太い株ですととても見事な花を咲かせます。けれども、翌年はほとんど花を咲かせないとか小さくなってそのうちに姿を消し、また別のところで種が生育していくというほかのユリにはない特異な性質を持っています。

 


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