神の子とはどんな意味か 1999/5
聖書において神の子とは一体どういう意味かを知ることは重要なことです。
新約聖書においてイエス・キリストは神の子と言われています。しかし私たちにとってはイエスが神の子だと言われても別に大したことではないように思ってしまいます。それは「人間みな神の子」などと言われたりするので、イエスも我々と同じただの人間ではないかというほどの意味しか感じられないのです。
これは聖書の誤った理解へと導いてしまうことがあります。(例えば、エホバの証人) しかし聖書ではそうした簡単な意味ではないのです。それは次のような箇所を見ればわかります。
「イエスは彼らに答えて言われた、・・『わたしと父とは一つである』。
そこで ユダヤ人は答えた、『我々がお前を石で打ち殺そうとするのは、お前が神を冒涜したからだ。お前は、人間なのに、自分を神としているからだ。』
イエスは彼らに答えて言われた、「・・父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしが神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。」(ヨハネ福音書十章より)
この箇所でわかるように主イエスがユダヤ人から石で打ち殺そうとされたその原因は主イエスが自分のことを「父と一つである」と言ったからです。それに対してユダヤ人たちは「自分を神としている」と言って非難したのです。そしてそれに答えて主イエスは自分のことを「神の子」であると言っています。
要するに「神と一つである」ということと「神と同じであるとすること」と「神の子」であるということとは同じような意味であったのがわかります。
私たちが日本語で「神の子」ということで思い出すようにだれでもが神の子であるならば、決してユダヤ人は主イエスを殺そうとはしなかったはずです。神の子という人を神を汚したとして死刑にせねばならないほどの罪であったのです。
聖書は二千年も昔の書物であり、しかも日本語でなく、ギリシャ語で記されているので、日本語とは意味が大きく違ってくることがあります。
マルコ福音書ではその冒頭に「イエス・キリストの福音のはじめ」という文があります。しかしこの福音書の古い多くの写本では「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」となっています。またマルコ福音書の最後に近い部分では処刑されるのを見てローマ人の将軍が「まことにこの人は神の子であった。」(マルコ福音書十五・40)と告白しています。これはマルコ福音書の究極的な目的が「イエスは神の子である」ということを示すことにあったのがわかるのです。
このことを考えても聖書においては時々私たちが耳にする「人間みな神の子」というような簡単な意味ではありえないのがはっきりとわかります。
さらにキリストの弟子の代表格であったペテロはイエスのことを
「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えています。(マタイ 十六・16)
メシアとはユダヤ人が何百年も昔から待ち望んでいた救い主のことです。ペテロは大工の息子にすぎないイエスをばまさにそのメシアであって、神と同じ本質をもったお方ですと直感したのでした。
このことは決定的に重要なことであったので、主イエスは「ああ、あなたは幸いだ。私のことを神の子と信じることができたのは、人間的な考えによるものでなく、神が直接にあなたに現したからこそ分かったのだ。」と祝福されたのです。
イエスを神の子であるとわかるのは、理性的に考えたり、教えてもらってわかることではなく、神からの直接の啓示によるというのです。それほど神の子ということの意味は深いものがあるのです。
主イエスが初めて現れてから、現在に至るまで「イエスとは何者なのか」ということは根本問題となっています。イエスはただの偉人かそれとも人類の救い主なのかという問です。
イエスが単なる人間でなく、神と等しい本性を持っていることを啓示されることが、人間にとって一生の転機になってきます。それが「イエスは神の子」と告白することなのです。
以下の箇所を見ても「神の子」という言葉がいかに常識的な意味とは違っているかがよくわかります。
「イエスが神の子ですことを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。」(Tヨハネ 四・1)
イエスが神と一つになっているお方ですということを分かった人、そしてそれを他の人の前で告白するなら、神も共にいて下さるというほどに大きいことなのです。キリスト者であるかどうか、それは「イエスを神の子と告白する人」ですということになります。
だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子ですと信じる者ではありませんか。(Tヨハネ 五・5)
この言葉も同様であって、イエスを神の子と信じることができるならその人と共に神がいて下さるゆえに、この世のいろいろの悪いことから守られるというのです。
舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。(マタイ 十四・33 )
イエスを神の子として受け入れることは、イエスを神と等しいお方として受け入れることですからイエスを拝したと記されています。
「イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」(マタイ 二十六・63)
イエスを裁判にかけた時、最大の問題はやはりイエスがふつうの人間でなく、神の子なのかどうかということでした。
「ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当ります。神の子と自称したからです。」(ヨハネ 十九・7 )
神の子だということは死刑になるほどの重い罪でした。それは自分を神の子ということは神ですということに等しいからです。
「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアと信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためです。」(ヨハネ 二十・31)
この箇所は事実上のヨハネ福音書の最後の部分となっていますのはこの表現によってもうかがえます。(あとの第二十一章は一種の付録だと考えられる)
ヨハネ福音書が記された目的は、イエスが神の子であるということを信じるためでした。
以上の箇所でわかるように新約聖書においては「神の子」というのは決して、神が造ったからだれでも人間は神の子だなどという意味には用いられていません。イエスを神の子と信じるかどうかは、永遠の命が与えられるかどうか、救われるかどうか、という最も重要なことにつながっているのがわかります。
また新約聖書の中のヘブル書にはヨハネ福音書と同様にその冒頭に、キリストが神の子であるということを述べるとともに、キリストの神性をはっきりと述べています。
主よ、あなたは初めに、地の基を据えられた。もろもろの天もみ手のわざである。これらのものは滅びてしまうが、あなたはいつまでもいます方である。(一・10〜)
この言葉は旧約聖書の詩編にあります。そして主とはもちろん唯一の神に対して言われた言葉です。しかしヘブル書においてはそれがキリストに対して言われています。キリストこそ地の基を据えたのであり、永遠の存在であるというのです。
以上のように新約聖書において、キリストが神の子であるというとき、父なる神と子が異なる存在であるということを言いたいのでなく、逆に神と等しい存在なのであるということを力をこめて語っているのがわかります。