休憩室   1999/5

手話辞典、ろう教育とキリスト教


 日本で最もくわしく、内容的にも今までと違った考え方で作られたもので、日本の代表的手話辞典といえるものが数年前に、発行されました。

 それはこの編者の一人のキリスト教会での出会いからでした。著者の米川明彦氏(大阪・梅花女子大学教授)は、教会において、ある聴覚障害者の女性と知り合い、その女性から手話への関心を強められていきます。そして米川氏は手話に関する論文で博士号を取るほどに手話の世界に深く入って行きました。そうして全日本ろうあ連盟が決定した本格的な手話辞典をつくることになり、それの中心メンバーとなって加わったのです。

 日本の代表的な手話辞典も、その生み出される背後にキリスト教があったのがわかります。

 また、日本の聴覚障害者が全国で統一的な指文字を使っています。それはいつごろ、だれが考案したかというと、戦前の大阪市立ろう学校の校長であった高橋潔が、部下をアメリカに派遣して、アメリカの指文字を取り入れ、それをもとにして、さらに日本で作った指文字を組み合わせて完成されたのが、現在ひろく全国で用いられている指文字です。一九三一年のことでした。高橋も、アメリカに派遣された部下もともにキリスト教の大学である東北学院の出身でした。

 高橋潔は、今から七〇年ちかく以前、全国が手話による教育を否定して、口話教育(*)に全面的に傾斜していくなかにあって、手話の重要性をはっきりと認識していた人でした。そうした流れの中で、大阪市立ろう学校は、ただ一つだけ手話をも重視して教育を続けたろう学校であったのです。その高橋潔はキリスト者でした。

*)口話教育とは、発語、補聴器による耳の訓練、読話(唇の読みとり)を重んじる教育で長年、手話による教育と対立するものとして見なされてきました。しかし、私自身のろう学校教育の経験ではその双方が必要なのであり、互いに補いあうものです。手話だけでは、声を出して話すこともできなくなり、日本語をきちんと身につけることはできません。また、口話教育だけでは、それについていけない多くのろう者を見捨てることになり、また、互いの会話も十分にできず、互いの心情が十分に伝わらなくなります。口話だけでは、楽しい会話、長時間の会話など到底できないのです。

 また、世界で最初の手話はフランスのレペ神父が考え出したと言われてます。

 このように、手話もキリスト教との関わりが深くあります。

 他方、手話による教育と対立してきた感のある、口話教育はだれが取り入れたのでしょうか。それは、A・K・ライシャワー夫妻でした。(*

 ライシャワーはアメリカから日本にキリスト教を伝えにきた、宣教師でした。彼らに聴覚障害の娘が生まれ、その娘の教育のためにアメリカに帰った母親がアメリカのろう教育によって身につけたのが口話教育であったのです。それを日本に持ち帰って、日本聾話学校を設立し新しいろう教育法として広めていきました。

*)ライシャワーは一九〇五年来日。明治学院で教え、東京女子大学や日本聾話学校の創設に中心的役割を果たしました。次男のエドウィン・ライシャワーは駐日大使でした。

 それから次第に口話教育は日本のろう教育に広がり、手話は悪としてろうあ者の教育の世界から追い出されていきました。

 現在、相当数のろう者が一般の人と会話が何とかできるのは、ひとえに口話教育の成果といえます。もし、幼児期から手話だけしか使わなかったら、到底そのように発声もできず、手話を知らない健聴者と話すこともできなかったのです。この点で口話教育の批判をする人も口話教育がいかに重要な意味を持っていたかを十分に認識しないで言っている場合も見受けられます。

 しかし、口話主義をあまりにも強調しすぎて、ろう者の母国語というべき手話を否定し、禁止したために、唇の読みとりがうまくできない聴覚障害児たちは、ろう学校の授業がわからず、事実上、見捨てられるようなことまで生じていきました。

現在では、そうした状況の反省に立って口話か手話かのいずれかだけが重要なのだという議論でなく、そのいずれもがろう教育には必要であるという考え方が多く受け入れられるようになってきています。


 このように、ろう教育において六〇年にわたって教育の柱であった口話教育も、またそれ以前からあった手話による教育も、いずれもキリスト者が深く関わっていることに驚かされるのです。


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