君が代と元号について   1999/6

平成○○年ということを何も考えないで用いている人は実に多いと思います。なぜ、西暦とともに昭和とか平成とかの年号(元号)があるのか、考えたこともない人がほとんどのようです。

 最近、君が代の問題がいろいろと言われるようになっています。そしてこれはなぜ問題になるかというと、君が代の歌詞が天皇の御代が永遠であるようにとの内容だからです。もし、これがそんな内容でなく、もっと明るい国民の平和への希望や正義への願い、日本の美しい自然を歌い込んだ内容なら、そもそもそうした歌を歌うことを強制したり、そのために自殺する校長が出るなどありえなかったことだけは確かです。

 戦前では、天皇を現人神としており、君が代の歌詞がちょうどその天皇を祝う歌として都合のよいものであったからこそ、戦前に強力に戦争を後押しするものとして使われたのです。

 このように考えると、君が代の問題は、天皇制の問題だと言えます。

 この天皇制と深く関わっているのが元号なのです。元号は中国の古代の制度をまねて、造ったものです。その元号は明治になるまでは、一人の天皇の時代に何回も元号を変えることがありました。それは、何か事件が生じると縁起が悪いといって変えていたことがあるからです。

 しかし、明治になると天皇を現人神として絶対的な権力を持つようになったため、その天皇を国民の意識に深く植え付けるために考え出されたのが一世一元制です。天皇一代においては、一つの元号しか存在しえないということになったのです。天皇が死んで代替わりになって初めて、元号をも変えるということです。

 こうなると元号は天皇の死後の贈り名として贈られるので、事実上、その天皇の名をもって、時間を考えるようになってしまいました。中年以上の人に、あなたは何年生まれですかと尋ねると、ほとんどの人は、大正○○年とか昭和○○とかでしか言えません。それは西暦何年ですかと尋ねると、言えないという状態です。(この意味は大正天皇の支配の○○年目という意味になってしまう)

 これは、それほど深く天皇の名前が人々の心に刻み込まれているということですし、まさにそうしたことを目的として一世一元制は造られたものだったのです。

 ある人間の名前で時間を表すというのがいかに奇妙なことかは、例えばつぎのような例を考えてみるとわかります。

 アメリカで大統領が変わるたびにアメリカではクリントン元年、二年などというようにしようと誰かが言い出せばそれは笑いものになるでしょう。あるいは、どこかの県で、例えば佐藤という人が知事になったとすると、その人がこれから、自分の名前で県のいっさいの文書を表す、佐藤元年、佐藤二年というようにせよなどということになったら、それは正気とは思われないでしょう。

 歴史上で数々の暴君が現れても、時間を自分の名前でもって表そうなどと考えた人はいなかったのです。しかし、そのような無意味で不合理なことを現在の日本では行っているのです。

 日本の天皇は長生きするから何十年も一つの元号が使えるという人もいるかも知れません。しかし、大正天皇は十五年ほどで終わっている例もありますし、人間の命はだれも決められないはずです。

 特定の人間の名前で、時間をよぶというのは、もしその人が死んだら、たちまち一切の文書類を書換える必要が生じます。それは膨大な手数がかかりし、費用も非常な多額になります。

 もともと、日本の元号は中国古代の王が時間をも支配しようとして考えだしたものをまねたものにすぎません。そうした原始的な制度なのです。

 また、病院などでも、昭和○○年に入院したとか、発病したとか表すと、いまから何年前かとてもわかりにくかったのです。しかし西暦で表すと、ただちに何年の病歴があるかわかるのです。

 このような全く不合理な制度なので、世界では日本しか行っていない制度です。

 君が代の歌詞は天皇の支配でないのに、天皇の御代(支配)が永遠に続きますようにという内容であって国民主権になっている戦後からは全く不適切な歌であるのに、それを強制的に歌わせようとするのです。

 元号は、天皇の事実上の名前で時間を表すという無意味なことなのに、官公庁などでは、事実上強制的に使わせている事実があります。このように、元号問題は君が代の問題と共通したものがあります。

 君が代の問題を考えるときには、もっと日常的なこと元号のことをも考えて、それがいかに世界的に、また歴史的にも、実際的にも無意味であるかを知るべきだし、そのことをわきまえた上で、元号を使わないようにしていくべきと思います。 

100)自分自身は決して感じたことのない、他人の感情のただ中へ自分を投入する力をこれほど必要とする仕事はほかに存在しないのです。・・

 そして、もしあなたが、この力をもっていないならば、あなたは看護から身を退いたほうがよいでしょう。

 患者に彼が感じていることを言う努力を強いることをせず、その顔つきに表れるあらゆる変化を読み取れること、これこそ看護婦のABCなのです。(ナイチンゲールの言葉・「音楽の癒しの力」(*)日野原重明著18Pからの引用) 

*日野原重明 一九一一年生まれ。京都帝大医学部卒業。聖路加(ルカ)国際病院内科医長、院長を経て現在名誉院長、聖路加看護大学学長。

・自分は経験していない、病人の痛み、苦しみ、悲しみのなかに自分を投げ入れ、少しでも共感するということは、看護婦でなくとも、私たちすべてに求められていることである。このことは、私たちには至難のことであるが、主イエスはあらゆるそうした病人の感情に共感することができた。私たちも主イエスとともにあるとき、少しでもそのような共感を持つことができるようになり、それがまた「重荷を担う」ということへの小さな一歩となる。


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