キリストは出会いを与える  1999/6

かつてまだキリスト教信仰のなかったとき、友人を求めたことがあった。心をすべて打ち明けることのできる友を求めてやまないある寂しさのようなものが心にあった。

 そのうちに、いろいろのことを打ち明けて話しあうことのできる友が与えられた。大学での学び、自分の現在の悩み、当時、学生の切実な関心事であった政治・社会的問題への関心、女性との交際のこと、人類の将来など、ほかの友人には話したことのないことも話しあうことのできる友人であった。

 しかし、そうした友も私がキリスト信仰に出会ったときから離れていくことになった。あれほど親しい友であったにもかかわらず、キリストのことを持ち出すことで、離れていった。

人間の友のはかなさを知った。

 しかし、主イエスを知ったときから、あれほど求めていた人間の友を求める心が消えていった。主イエスが心にいつもある友になってきたからであった。

「私はあなた方を友と呼んだ」と主イエスは言われた。

 そして神は必要な友をあちこちに与えて下さった。キリストを知ったときから、私たちの生活は受け身となる。自分で友を獲得するのでなく、神が必要なときに必要な友を与えて下さるようになる。そこからいろいろの出会いを与えて下さるようになる。
 今も、生きて働くキリストこそ、出会いをもたらしてくれるお方である。

 求めよ、そうすれば与えられるという有名な言葉は、たしかに真実な言葉である。

 また、主イエスは山という自然をもさらに深い味わいある友のようなものにして下さった。山野の野草なども同様で、それらも次々に友となっていった。

この終わりの時代には、御子(イエス・キリスト)によってわたしたちに語られた。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造された。

御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられる。(ヘブル書一章より)

 主イエスが私たちの心に住むようになると、私たちはこの世のさまざまのものに関心が生じてくる。キリストを信じて学ぶ心が生まれてこないなら、本当に信じていないのだと言った人がいるが、たしかに心の内にキリストを受け入れるとき、私たちは学びたいという心が燃え始める。

 それは、すでに引用したヘブル書にあるように、キリストがこの万物を創造し、いまも万物を支えているからなのだ。

思いのままにすすまないこと

 人は誰でも自分が予想したままに動いていって欲しいと思う。自分の健康についても、結婚や家庭のこと、子供についても、○人欲しい、男と女をとか、職業でもこんな職業につきたい、それもずっと勤めたい、また、自分や子供将来についてこうあって欲しいと希望する。
 そしてその希望通りにならなかったとき、落胆し、悩み、苦しむ。

 その度合いがひどいときには、運命をのろい、神などいるものかと思ったりするだろう。

 しかし、神は私たちの思いのままになることを止められる。それはもし私たちが考えるままに成っていくなら、私たちは自分の力だと錯覚し、自分を誇るようになる。

 そのような危険から守るために、私たちの予想をくつがえすような形で、物事が生じる。しかし、そのとき、私たちは人間の思いをはるかに超えた神のご計画の一端に触れる思いになる。

天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を

わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。(イザヤ書五十五・9


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