弱き者を 1999/6

私たちは弱い。どんなに強そうなことを言っている人でも、みなその内部はというと、実にもろい。揺れ動いている部分がいろいろとある。
 人間の社会ではそうした弱さをそのまま出せば、見下される。そのために弱さを隠そうとする。強い部分、私たちの優れた部分を出そうとする。
 しかし、神には、弱い部分をそのままさらけ出しても受け入れて下さる。むしろ、弱いことをありのまま、言えば言うほど深く受け入れて下さる。また、神の愛をもいっそうはっきりとわからせて頂ける。
 意志の弱い者、身体の弱い者、能力に自信のない者、人から見下されて苦しむ者、仕事のできない状況ある者・・いろいろの意味における弱さを持つ者は、主イエスのもとに行くとよい。
 そこではどんな人間にも受け入れてもらえなかった自分の弱さのなかに、神の新しい力と励ましを受けることができる。

いつくしみ深き  友なるイエスは、
われらの弱きを  知りて憐れむ。
悩み悲しみに   沈めるときも
祈りにこたえて  慰めたまわん (讃美歌三一二より)

 使徒パウロの比類のない強さは、だれよりも自分の弱さを深く知っていたところにあった。彼は、自分は弱い者の頭(罪を犯す第一の者)とまで言ったほどであった。
 そのような弱さを深く知り、そこに限りのない神の力を豊かに受けたがゆえに、彼の影響は二千年を経た今日もなお、変わることがない。それほどに神の強さを受けたのであった。


それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、それに行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(Uコリント十二・10

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