神を讃美する歌を  1999/7

 君が代とはこの百数十年の間、天皇への讃美の歌として歌われてきた。どのように解釈をこじつけようとも、君が代とは明治政府以来、たしかに天皇讃美の歌として続いてきたのである。


 しかし私たちは天皇という特定の人間や、その支配を讃美していったい何が得られるだろうか。それをどこまでも押し進めていったその結果が、太平洋戦争であり、数しれないアジアの人々の命を奪い、傷つけてしまい、日本人もまた、多大の命を失ったのである。 私たちが讃美するべきは、そのような特定の人間でなく、宇宙万物を創造し、すべての人間を愛をもって見つめ、導く神でなければならない。すでに内村鑑三は、今から百年ちかく昔にそのことを述べている。

いずれの国にも国歌なるものがなくてはならない。しかし、わが日本には、まだこれがない。「君が代」は国歌ではない、これは天子(天皇)の徳をたたえるための歌である。国歌とは平民の心を歌うものでなくてはならない。国は実は平民の中にあんて貴族の中にはない、平民の心を慰め、その望みを高くし、これに自尊自重の精神を提供する歌が日本国民の今日最も要求するところのものであると思う。(内村鑑三・万朝報・一九〇二年)

 聖書は人間に真の意味で神こそ讃美の最もふさわしい対象であることを示してきた。本当の神を知らされるところにこそ、神への驚嘆があり、感謝があり、叫びがあり、喜びがある。それらが歌となる。


 しかし、そのような愛と真実の神を十分には啓示されていなかったと思われる古代ローマの哲学者ですら、神への讃美こそ人間にふさわしいと書き残している。

われわれに理性があれば、我々は人と一緒の場合にも、一人の場合にも、神を讃美したり、誉めたたえたり、神の愛を数えあげるべきではないだろうか。

 土を掘っているときも、働いているときも、食べているときも、神への讃美歌を歌うべきではないだろうか。

「偉大なるかな神、神は手を与え、胃を与え、知らないあいだに成長させ、眠りながらも呼吸させて下さる」と。

 多くの人々はこのような大切なことがわからなくなっているのだから、だれかがその埋め合わせをして、みんなのために神への讃美歌をうたうべきではないのか。いったい、足の障害を持つ老人である私は、神を讃美するのでなければ、他のなにができるだろうか。私は理性的存在なのである、私は神を讃えねばならない。これが私の仕事である。私はそれをする、そして私に与えられている限り、この地位を捨てないだろうし、またあなた方をも同じこの歌をうたうように進めるだろう。(エピクテートス・語録より)(*

*)エピクテートス(AD.50頃〜138頃)はローマ帝政時代のストア哲学者。ローマの奴隷の身分であったが、ストア哲学を学んで、セネカなどと共に古代ローマの代表的哲学者の一人となった。

 人間を讃美するべきでない、神こそ讃美すべきだ。古代哲学者すら、このように神への讃美を最も重要なこととして認識していたのである。

 本当に讃美すべきお方を知らない日本、

 主よ、ここに真の神を啓示したまえ。

深き淵から

深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。

主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。

主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐えましょう。

しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。

わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。

わたしの魂は主を待ち望みます、見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして。

イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに、豊かな贖いも主のもとに。

主は、イスラエルをすべての罪から贖ってくださる。

 この詩は詩編のすべての詩のうちでも、珠玉の詩の一つであると広く認められています。

 宗教改革者ルターにおいても、この詩は彼が最も愛した詩のうちの一つでした。彼が詩編のうちのどれが最も重要な詩であるかと問われて、ためらうことなく、「パウロ的なもの」と答え、それらは詩編の三二、五一、一三〇、一四三編であると言いました。

 この詩編一三〇編からルターが作詞したのが、讃美歌二五八番、讃美歌21の一六〇番(*)で、曲もルターが作曲したと言われ、ドイツの代表的な名曲の一つとなっており、バッハのカンタータ(**)にも、「深き淵より」というのがあります。 

*)讃美歌21の一六〇番

深き悩みより われは御名を呼ぶ

主よ、この叫びを 聞き取りたまえや

されど、わが罪はきよき御心に

いかで耐え得べき(讃美歌21・一六〇番)

・讃美歌二五八番

尊きみかみよ、悩みの淵より

呼ばわるわが身を 顧みたまえや

み赦し受けずば きびしき裁きに

たれかは堪うべき

**)カンタータとは、独唱、合唱、管弦楽などから成る大規模な声楽曲をいう。

 深き淵、罪という深い淵を現代ではあまり深刻なものと考えていません。キリスト教でいうような罪のことはほとんど問題にしない傾向があります。

 しかし、よく考えてみると、現代のあらゆる問題は実は罪の問題です。経済問題ということも、物を第一に考え、物をできるだけ自分のものにしようとする物欲と深い関わりがあります。環境問題も実は人間が必要以上の快楽や便利さをどこまでも求めていく物欲の産物でもあると言えます。

 人間は深い淵を持っています。その淵は病気であったり、人間関係であったり、また職業の問題であったりします。家族や親族の問題で深い淵にいる人もあるでしょう。

 病気はそれが重いものであって、末期ガンのように治らないとはっきりわかっている場合には、ことに深い淵にあると思われます。

 しかし、人間関係、家庭の問題、職場の問題、あるいは、将来の問題などそれが深刻になればなるほど、その当事者にとっては、だれよりも深い淵に投げ込まれていると感じるはずです。

 そこからどんなにしたら脱出できるのか、どんなにあえいでも人に相談する気にもならない、それは深い淵にあればあるほど、他人はその深刻さを知らないのがはっきりと感じられるからです。

 聖書とは、そうしたあらゆる深き淵にある人へのメッセージを豊かにたたえた書物であると言えます。

 人間の生涯にはそれぞれの人が数限りない淵に出会うことがあります。そのような時に、何がそこから引き出し、助け出してくれるのかということがこの詩に示されているのです。

深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。

主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。(一〜二節)

 この詩のはじめの部分は、そうしたあらゆる深い苦しみにある人の祈りとなって、二千数百年の歳月を流れてきたのです。

 いま、健康な人、家族が仲良くできている人、職場でもとくに問題のない人は苦しみの深い淵というのは感じないかもしれません。しかし、そうした人にも深い淵はあり、じつはその人はまさにその罪の深淵のただなかにいるかも知れないのです。

 パウロは言っています。

次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。

悟る者もなく、神を探し求める者もいない。

皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。・・彼らの目には神へのおそれがない。」(ロマ書三・10〜)

わたしはなんと惨めな人間なのか。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのだろうか。(ロマ書七・24

 最も深い淵にあってもなお、この詩の作者は神に向かって叫ぶことを止めませんでした。

 神を信じていても私たちは深い淵に陥ることがあります。主イエスも十字架にかかるときに、その深い淵から叫んだことが記されています。

「わが神、わが神、どうして私を捨てたのか!」と。

 もちろん主イエスが叫んだのは罪の淵からでなく、その激しい苦しみの淵からであったのです。

 どのような深い淵にあってもそこから叫ぶこと、希望を持ち続けることがキリスト者には与えられています。そこから必ず救いがあり、淵から引き出される道が約束されているのです。

 聖書は重い罪を犯した人、身体のさまざまの病気や障害、例えば、目や耳が聞こえなくなった人、足の不自由な人、精神の病、悪霊につかれた人、ハンセン病など、ありとあらゆる深い淵にあった人たちがなお、絶望せずそこから叫び続け、そこから救いだされた記録なのです。

 この詩の作者は自分の罪の重さと深さを知っており、そのことを思ったら神に顔向けできないことを十分に知っていました。

主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐えることができようか。(三節)

 人間の前には罪を隠すこともできます。しかし、神の前ではいかなる罪もすべて知られており、隠すことはできません。そのような重い罪を犯したときに、ただ裁きを受けるだけです。

 そうした神の厳しい姿を知っているとともに、この作者はもう一つの神のご性質をも深く知っていました。それは、赦しの神ということです。神は宇宙を創造し、万物をいまも支え、すべての悪を裁くという無限大のお方であるにもかかわらず、私たち一人一人の心を深く見つめて、悔い改めの心には、赦しを与えて下さるということは、神の最も根源的な性質であると言えます。

 神に心を向け、心を尽くして赦しを願うときには実際に赦しの実感を与えられるということは、キリスト信仰を与えられた者にとっての最大の経験です。これこそ、使徒パウロが力をこめて新約聖書で語っていることです。

 そのように、はるか後に現れる新約聖書での罪の赦しの深い実感をこの作者ははやくも経験していたのがわかります。

しかし、赦しはあなたのもとにあるからこそ、人はあなたを畏れ敬うのです。(四節)

 ここでは神は赦しの神であるからこそ、人間は神を真の意味で畏れ敬うということが言われています。このような神への見方はふつうには知られていないと思われます。昔から人間が神をおそれるというとき、それは地震や雷、台風、火山といった人間の力をはるかに越えた自然の力への恐怖がそのままそうしたことを起こす神へのおそれとなっています。そこには信頼や真実、愛などといったものはありません。

 しかし、聖書でいう神へのおそれは、そうしたおそれをも含みながらも、それと全く違ったところから生じているのを示しています。それは、自分の最も弱いところ、また誰にも言えないような心の深いところでの罪の赦しという経験です。そのような罪の赦しを受けた者は、そうした赦しを与える神というお方がどんなに偉大で、また深い愛のお方であるかを知らされます。それは地震とか火山とかの自分の外で生じることでなく自分の最も奥で生じることであるので、何にもまして深い実感を与えてくれるのです。

だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。(ルカ福音書七・47

 神への愛、主イエスへの愛は罪の赦しをいかに深く受けたかということと結びついているということです。

 同様に神への真の畏れもまた、罪をどれほど豊かに受けたかによって生じるのがわかります。

 このように神への畏れというのは決して単なる恐怖でなく、深い神の愛を受けたところから自然に生じるものであって、人間的な愛とはまるで違うのがわかります。

 この詩の作者は、罪の重さと神の裁きを知っていました。そしてもし赦しがなかったら、自分は苦しみのうちに滅びてしまうことも知っていました。そこからは絶望への道が続いているのが見えていたのです。

 しかし、そうした絶望のただなかから、神を待ち望み、神の赦しの言葉を待ち続けることを知っていたのです。どれほど真剣にこの作者が神の言、自分を赦し、励ましてくれる言葉を待ち続けたかがつぎの言葉に現れています。

主よ、わたしは待ち望む、

わが魂は待ち望む。

あなたのみ言葉をわたしは待つ。

わが魂は夜の番が朝を待つにまさり、

しかり、夜番が朝を待つにまさって

主を待っている。(五〜六節)

 神を信じる者とは、神を仰いで待ち続ける者なのだとわかります。

 聖書には、旧約聖書のときから、はるかな年月を越えて、メシア(救い主)の到来を待ち続け、迫害のときには、神が裁きをして下さることを待ち続けてきた記録が記されています。現代の私たちもまた、神を信じるときには、あらゆる状況におかれても、望みを失わずに、待ち続け、そこからの解放と御国に入れられることを待ち続け、さらにはキリストがふたたび神の力をもって来られることを待ち続けるのです。

 後ろを振り返ったり、望みを失ったりすることなく、あくまで神へのまなざしをもって待つ民へと変えられていくのがこの詩によって表されているのです。

イスラエルよ、主を待ち望め。

慈しみは主のもとに、豊かな贖いも主のもとにある。

主は、イスラエルをすべての罪から贖ってくださる。(七〜八節)

 このように、罪の赦しを待ち望み、そこから赦しを深く受けたものは、その体験の深さを自分だけで隠しておくことは決してできなくなります。

 自分に与えられた罪の赦しの経験、深い淵から救い出される経験こそは、万人の共通の経験となることを深く知らされたこの作者は、同胞のイスラエルの人々への呼び掛けをせずにはいられない魂へと変えられていくのです。

 キリストの十字架による罪の赦しを受けた者がそれを決して自分だけのものとしておくことはできずに、告げ知らせるようになって、世界にその福音が知らされるようになったのは、この詩の作者の経験と同じ本質があったのがわかります。

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