君が代の問題点  1999年7

 君が代、日の丸とセットで扱われることが多いが、ここではとくに君が代に重点をおいて考えてみる。

 私は高校や盲、ろう、養護学校などで教員を三十年ちかく勤めたが、その間ずっと君が代の問題は念頭にあった。生徒に歌わせるということは、その歌詞を歌うことであり、その意味がわからなかったら歌う意義がなくなる。

 そのとき、どう考えても君が代は私たちが歌える歌ではないとの感を深くしていたため、その歌詞が戦前はどのように歌われていたか、どんな意味のものとして歌われていたのかを生徒たちに教えることにしていた。

 天皇の御代(天皇が支配する時代)が永遠に続きますようにとの意味で歌われてきたし、たしかに現在においてこれほどまでに力を入れようとするのは、やはり君が代が天皇を歌う歌であるからだ。

 政府はよく外国での国歌、国旗の尊重を持ち出すが、外国の例を見てみよう。(毎日新聞六月十二日付けなど参考)

 イギリスでは、国歌は慣習として、メロディーだけが演奏される。学校の入学式とか、卒業式では、国旗や国歌は掲揚も斉唱もしない。

 アメリカでは、連邦法で、学期中は校舎に国旗を掲揚すべきだと規定されている。国歌は各州の政府に扱いがゆだねられている。

 またフランスでは、入学式とか卒業式自体がないので、それらの式に国旗、国歌を用いること自体が問題となっていない。

 ドイツでは、入学式、卒業式でも通常は、国歌や国旗は掲揚されたり、斉唱されることはない。また、国歌を法律で規定するということもなく、有名な作曲家ハイドンの「皇帝」という曲に歌詞をあてている。


 中国では、一九四九年の建国のときに、一般から募集して選ばれた「五星紅旗」が国旗に制定されている。

 オーストラリアでは、一九七四年に国民投票が行われて、十九世紀に作られた国民歌が支持されて八四年に国歌となっている。国旗も一九〇一年のオーストラリア連邦の成立したときに、やはり公募で選ばれている。


 こうしたヨーロッパの主要国の例をみると、いかに日本が特別に学校での掲揚や斉唱を強力に推進しようとしているかがわかる。

 アメリカが国旗については掲揚に力を入れ、学期中は掲揚し、学校によっては毎日国旗に宣誓することが規則とされている学校もあるという。このような状態をみて日本も国旗を学校でいつも掲揚すべきだなどという議論をする人がいる。

 これはアメリカと日本の国家ができたいきさつや地理的状況の大きな違いを知らないところからくる。アメリカは、合衆国(United States)というが、それは united(結合された)state(国家)という意味であり、その名の通り、多くの民族や国が寄せ集められた国家なので、たえず意識的に一つの国であるということを国民の意識にたたき込んでおかねばならない。

 しかし、日本は島国であり、外国からの侵略にはほとんど会うこともなく、長い年月を過ごしてくることができた。民族的にも圧倒的多数が日本人であり、アイヌ人や韓国の人は全体からみると、ごく少数者である。

 だから、日本において、北海道とか四国が日本から離れて独立するなどはおよそ考えられないほどに、一つの国として歴史的にも民族的にもまた地理的にもまとまっている。(ただし沖縄は歴史的にも違った歩みをしてきたので、独立という考えを持つ人もいる)

 このような日本において、あえて国旗への忠誠を強制するなどということは学校教育において今、何が一番重要なのかを見失っているところから来ている。

 学校で心の支えになるもの、時間や場所によって変わらないもの、すなわち真理が教えられないし、教師もそれを知らない者が多数を占めているからこそ、生徒たちも心の奥底で本当に信頼できるもの、頼るものを知らないままで大きくなっていく。

 土台がない状態なのである。そうした土台こそ一番重要であるのに、そのような土台づくりをしないで、本来ただの布切れである日の丸や天皇への賛歌にほかならない君が代を半ば強制的に歌わせることによって、生徒たちの心を荒廃させることにつながっても、何等よいことは生じないだろう。

 学校にも校歌や校旗があるように、一般的にいえば国に国歌、国旗を決めておく必要はあるだろう。国旗、国歌は国のシンボルとなるからこそ、国民の間で、歌詞、音楽の両面から十分な時間をかけて新しいものを考えていくことこそ必要なのである。

 ドイツやイタリアは第二次世界大戦のときに日本と同盟していたが、それらの国は侵略戦争に重大な関わりをしたということで、その戦争当時の国旗や国歌を戦後は変えている。

 戦前は君が代、日の丸ともに天皇を意味し、または天皇を指し示すものとして最大級の尊重がなされた。そして天皇が現人神として崇拝されたほどであった。

 戦後五十数年たって再び君が代、日の丸へのある種の不可解な力の入れ方からうかがえるのは、日本人の精神の根本に天皇にかかわる何かを植え付けようとする勢力が感じられる。

 しかし、そのようなただの人間にすぎない天皇を学校教育で特異なほどに強調することこそ、若い魂になかに一種の偶像的なものを刻み込むことになりはしないか。そんなまちがったものを心のなかに刻むことからさらによくないものが若い世代に醸成されてくるように思われる。

 日本では天皇が象徴だとされるが、そもそも天皇というような人間が国歌の象徴となれるだろうか。鳩は平和の象徴であり、白は純潔の象徴であると言われる。そして鳩や白というものは変わらずに存在している。鳩の柔和さ、また、純白の持つ清いイメージなどは変わることがない。

 しかし、天皇というのは、本質的に我々と同じ人間であり、ときには精神的に未熟な人、あるいは何らかの罪を犯したり、病的な人が天皇になることもあるだろう。世襲の王とか支配者のなかには、つねにそうした人間として未成熟な者も見られてきたところである。日本の天皇に今後とも、そんなことはないなどと決していうことはできない。

 もし、そのような不適格な人が天皇となった場合、そうした人物が日本を象徴できるであろうか。イギリスの王室に見られたように、王となる予定の人物が男女の関係で不正なことをしたりすることもあり得る。もし、日本の天皇となる人物が同様な罪を犯した場合、このような人間が日本の国を象徴するというようになってしまうではないか。

 このように、天皇という人間を国の永続的な象徴にするということ自体が問題なのであり、そのような象徴天皇を年若い人々に強制的に歌わせるということは何等よい結果を生まないだろう。 

日の丸の問題点

 また、日の丸は太陽が真ん中にあるきわめて単純、率直な図柄である。これは、本来は、その図柄から多くの人に親しまれやすいものであろう。

 しかし、この日の丸をどうして戦前から、特別に重んじようとするのかというと、そこにも、天皇との関連が見られる。

 戦前において、天皇家の祖先は太陽神である天照大神であり、天皇はその天照大神の子孫であって、現人神であるとされた。そこから太陽を表す日の丸を見るときに、天皇を連想するようさせるという目的があった。

 七月六日の沖縄における国歌・国旗法案の地方公聴会にて、平良 修氏(日本キリスト教団佐敷教会牧師)が次のように述べているのもそうしたことを言っているのである。

「日の丸は日本国を・日出ずる国・とし、太陽神の神の霊を受け継ぐ天皇によって支配されるべき特別な国体であるという思想を表している」

 このように、君が代、日の丸の根本問題は、それがいずれも、戦前のように天皇を国民の意識に深く植え付けようとするところにある。ただの人間をそのような日本人の精神の根源に据えるというようなことからは、真によいことは決して生じない。それは戦前がそのような思想からどんな悲惨なことが日本やアジアの国々にもらたしたかを見ればわかることである。

 現代の日本の問題はそうした人間精神の根本に据えるべきものが教育においても教えられないというところにあるのであって、天皇のような人間でなく、宇宙を創造した、愛と真実に満ちた神、今も生きて働く神にこそ置くべきなのである。

 君が代、日の丸の問題は単に国歌、国旗を法制化するかどうかの問題でなく、日本人の精神の根源に関わる問題であり、未来の日本人がなにを精神の基とするのかという問題とつながっているのである。 

101)上を仰ぐ心からの愛のまなざしは、それを受ける神のがわからは、たしかに最も美しい形式的な祈りよりも価値があるものである。

 私たちもまた、そのような「物を言うまなざし」・それは小さな子供やさらに小さな動物すらも持っている・をどんな、表面的にきれいな言葉よりも愛する。(ヒルティ・眠れぬ夜のために上二月二五日) 

・神は私たちの心からのまなざしを一番に喜んで下さるということは、実にありがたいことです。苦しみの折には、ただそうすることしかできないことがあるからです。

 多くの美辞麗句よりも、真実な何ものかを語るまなざしこそが心に届くと言われていますが、それはヒルティの言うように動物すらも、さらには夜空の星や野草の花の一輪、山にしずみ行く夕日などもそのような、いわば神からの何ものかを語るまなざしのようなものを感じることがあります。

102)キリストがあって、聖書がある。聖書があってキリストがあるのではない。

 キリストがもし実在しないのなら、聖書を百万回読んでも我らはキリストが今も生きておられるということを実感することはできない。

 キリストは想像された存在ではない。実在するお方なのである。

 キリストは聖書を離れてもなお、存在しておられるお方なのである。

 我らは聖書を尊ぶあまりに活ける救い主を古き文字の中に発見しようとしてはいけないのである。(「内村鑑三所感集」一九〇五年)

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