1999年9

虹  ワーズワース

私の心はおどる
 虹が空にかかるを見るとき
私の生涯のはじめがそうであった
大人になった今もそうだ
老いてもそうであるように
 さもなくば死んだがまし
子供は大人の父だ
私のおくる一日一日が
自然に対する深い敬意の心で結ばれるように。
 
THE RAINBOW
MY heart leaps up when I behold
   A rainbow in the sky:
So was it when my life began ;
So is it now I am a man;
So be it when I shall grow old,
     Or let me die!
The Child is father of the Man;
And I could wish my days to be
Bound each to each by natural piety.
     (William Wordsworth
 
ワーズワース(一七七〇〜一八五〇)はイギリスの代表的詩人の一人。一八四三年に桂冠詩人に選ばれた。自然を深く見つめた詩人として有名。
 この詩はワーズワースの詩の中でも、わかりやすく内容的にも親しみやすいので特に知られています。虹のスケールの大きさ、そして美しい七色、さらに虹が現れるときは、少しの雨と、空に広がる雲、わずかの間しか見られないことなど、とくに神秘的かつ、雄大な現象であって、すでに数千年も昔から注目を浴びていたのがわかります。
 例えば、旧約聖書のノアは神を信じて正しく生きる人であったとして、神の恵みを受けて、人類を滅ぼした大洪水にも生き残ることができました。洪水がひいたあとで、美しい虹が現れました。
 
わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。
わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。
雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。(創世記九章より)
 
 このように、神が立てた契約のしるしと言われています。虹を見て、単に驚くだけでなく、そこに神の立てた契約を啓示されたということは、旧約聖書に出てくる人々の見方がいかに自然と深く結び付けられていたかを示すものです。
 
 ワーズワース三十二歳のときに作られたこの詩は、詩人がいかに虹に心打たれたかを感じさせてくれます。ニュートンは、虹のできる仕組みを科学的に解明しましたが、虹はそれにもかかわらず、人々に特別な印象を与え続けています。

 太陽光が水粒で屈折して生じるのが虹だとわかっても、そのような仕組み、法則を創造して美しい七色が大空に現出するようにしたのは神であり、その不思議さ、素晴らしさは変わるものでなく、別な意味でまた神の創造の力を讃える気持ちが湧いてくるものです。 虹への驚きはちいさな子供のときから持っていたが、大人になっても変わらずに虹への驚きを感じることに詩人は、深い喜びを感じているのです。そしてこのような自然への敬意、それはその自然を創造した神への敬意と重なるものがあると感じますが、それが老年になっても持続するようにと願っています。虹に現れているような自然の美しさや深い意味に感じなくなるなら、死なせて欲しい、死んだ方がましだというのです。
 さらに、子供の持っているこうした、驚異の心、感動の心こそは、大人が手本とせねばならないことだと言い、自分の今後の毎日がそうした自然への深い敬意で結ばれていく一日一日でありたいとの願いで結んでいます。
 このことも、聖書にあるつぎのようなことにワーズワースが影響を受けたことを感じさせます。
 
あなたの栄光は天の上にあり、幼子と乳飲み子との口によって、ほめたたられています。(詩編八・12より)
 
イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者に示されました。(マタイ福音書十一・25
 幼子のような心にこそ、神の栄光は讃美され、真理が示されると言われています。
 私たちはこうした自然の深い本質はその背後にある神の御手の業であるからだと知っているので、美しい自然に触れたときにもそこでとどまらずに、そうした自然を創造された神への信仰と感謝へと導かれていきたいと思うものです。

新古今和歌集より

秋風に たなびく雲の 絶え間より
    もれいづる月の 影のさやけさ
                  左京大夫顕輔

 この歌からは、今から八百年ちかく昔の人が、秋の風のさわやかさの中にいて、雲の間から洩れてくる月の光に心を動かされている様子が浮かんできます。
(なお、ここでの「影」とは「光」のことであって、現代の意味とは違っています。このような用例は、讃美歌にもときどき見られます。例えば、讃美歌三五五番の三節にある、「うららに 恵みの日かげ照れば・・」の箇所では、恵みの日の光という意味です。)
 さやけさとは、清く澄んでいるさまをいうのであって、現代のようにコンクリートの建物もなく、舗装道路も車も、工場などいっさいがなかった時代であり、ほとんどの地域においては、少数の茅葺きの家のほかには、ただ山々と草原、田畑、そして小川などばかりが広がっていた時代なので、雲の間からもれてくる月の光はまさしく清く澄んでいたことと思われます。
 空気も澄みきっていて、そのようなところに静かに注がれる雲の間からの月の光を浴びていると、心の奥まで清められるような気持ちになってきます。こうした自然のただなかに身を置くことは、現代では、困難な地域が多くなっていますが、だからこそ、いっそうこのような歌によって神の創造した自然の清さを心によみがえらせる必要があると思われます。
 なお、この歌は、後代のいくつかの歌集にも選ばれており、藤原定家が高く評価していた作だと言われています。
 現代の私たちにとって、聖霊が注がれるときには、こうしたよき自然の失われたところ、都会のただなかにあっても、この歌で言われているようなさわやかな光を内に感じさせて下さることを期待できるのです。

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