原子力の危険性について 1999/10

今回の東海村の核燃料加工会社で生じた大事故において、初めて原発関係施設からの放射線の危険が一般市民にも体験されることになった。
 原子力を利用しようとするとき、必ず生じるのが放射線である。そしてこれが特に問題となるのは、人間にはそれを知覚したり、守るための感覚が備えられていないということである。
 ほかの危険なものに対しては、人間(動物)にその危険を知覚し、それから身を守るようにできている。例えば、熱さについてはただちに熱さを知覚して、そこからからだを移動させたり、そうした熱いところに近づかないようにして身を守ることができる。
 また、刺のようなものに対してもそれが皮膚を刺す痛みによってその危険をただちに感じとって、わずかの痛みによって、その刺に刺される危険から身を守ろうとする。
 あるいは、寒さに対してもそれを感じて暖かくしようとするし、寒さの中に置かれると、ふるえるがそれは筋肉を収縮させて熱を発生させ、寒さから身を守ろうとするための現象である。
 また、毒虫の毒についても、刺されるとただちに痛みが生じてそれ以上刺されることから身を守ろうとする。有毒物質についても、苦さ、しびれ、痛みを感じて吐きだそうとするし、有毒ガスなら強い刺激臭などを感じて息を止めようとするなどして反射的に身を守ろうとすることが多い。
 このようにさまざまの感覚によって危険なものに出会ってもそれを感知し、それを取り入れることを避けるとか、そこから逃げることができるように人間(動物)は創造されている。
 しかし、放射線はこうしたものと全く違っていて、人間は防御する仕組みを持っていない。放射線を浴びても痛くもかゆくもない。これは、だれでも放射線の一種であるエックス線を病院で照射されてもなんら熱くも寒くもないし、痛みもないことでだれでも想像できる。
 もし、放射線を受けて吐き気がしたら、もはや相当の放射線を浴びてしまっているという状態である。だから、チェルノブイリ原発事故のときも、今回の東海村の事故の場合も駆けつけた消防隊員たちは、放射線事故だと知らされない限り痛くも熱くもないので大量の放射線を浴びて一部の者は取り返しのつかないことになったのである。
 人間の五感で、放射線を感じることができないということは、神が人間や動物を創造されたときに、放射線から身を守るような能力を与えていなかったということになる。それほど原子力を人間が用いるということは自然に反していることだと言えよう。
 しかも、ひとたび原子力を用いて発電をするということになると、そこから生じる廃棄物はプルトニウムのように、二万四千三六〇年も経ってもやっと、そこから発せられる放射線の量が半分になるにすぎないような物質もある。だから、放射線を出す量が初めの四分の一になるまでには、その倍であるから、五万年ちかくもかかることになる。これは、人間の生活の長さからいうと、ほとんど永久的といってよいほどに長い寿命をもっていることになる。
 今回のような事故が生じて、原子力を用いるということがいかに危険を伴うかを庶民も実感したにもかかわらず、政府は一向に従来の原子力政策を変えようとしていない。
 他方、ヨーロッパの状況はどうであろうか。
 スウェーデンでは、二十年ほども前にすでに「脱原発」の方針に転じている。一九八〇年に原発の国民投票で「二〇一〇年までに、全部の原発を段階的に停止する」と決議された。そのために、使用済み燃料の施設の建設や、最終処分のための研究などに八千億円もの巨額の費用を投じる予定になっているという。
 ドイツでは、昨年誕生したシュレーダー政権によって、原発を徐々に減らすという脱原発の方針が打ち出されている。そして、期限は明示しないが、原発を廃止するという方向に進むことになっている。
 また、昨年末までに三百万キロワット近い風力発電機が設置され、世界最大の風車大国となっているという。こうした姿勢は第二次世界大戦で敗戦となった日本とドイツが原子力に対する姿勢では大きく異なっているのがはっきりとしている。
 日本では、原子力発電に向かって、突き進むばかりであって、こうした風力や太陽エネルギーを本格的に用いる研究とかに力をわずかしか注ごうとしていない。風力発電の分野では、ドイツの百分の一にも達していないという。
 また、イタリアでは、チェルノブイリ事故の翌年に、国民投票で、八〇%が反対の意志表示をし、政府も原発推進を止め、計画中の二基も白紙に戻すことに議会でも承認されたのであった。フィンランドでも新規の五基の原発の計画は凍結となった。
 そしてスイスでも新規原発を十年間凍結することになった。そのほか、ベルギー、オランダ、ギリシャ、デンマークなどでもそろって、新規の原発建設計画は凍結された。
 フランスでも、「放射性廃棄物の健康と環境への害は数十万年、あるいは数百万年にわたって継続する」このような人間にとっては、永久的とも言える害をもたらす原発への依存度を少なくしていく方向へと向かっている。その一つの現れは、高速増殖炉の開発を中止することにし、世界最大の高速増殖炉である、「スーパーフェニックス」を廃止する作業が今年から始まっている。フランス政府は、これ以上原発を建設しないで、エネルギーを別の手段でまかなう計画を出したが、これは、それまでの原発は不可欠だとする大前提が初めて破られた例だという。
 高速増殖炉にしても、アメリカやロシア、ヨーロッパなど欧米の国々がみな中止、または廃止の方向に向かっていたのに、日本だけが、強力に推進という立場を崩さなかった。それが、「もんじゅ」のナトリウム漏れの大事故が生じてやっと、高速増殖炉に向かっていた方向を転換することになった。しかし、今度は、危険なプルトニウムをウランと混ぜて発電に用いる方法にかえて無理に使っていこうとしている。
 何度事故が生じても、今回もまた政府は原発推進の方向は変えないと断言している。こんなことでは、ある外国の研究者が、アメリカのスリーマイル島原発事故や、チェルノブイリ原発のような大事故が生じなかったら日本の政府は原発の危険性に目を開こうとしないと言っていたが、本当にそんなことになりかねない様相を呈している。
 なぜ、日本人はこのように、現在および、将来の人間に対して永久的ともいえるほどの危険を持つ原発に対して鈍感なのであろうか。ひとたび大事故が生じると、はかりしれない放射能汚染や、犠牲者をつくることへの重大な罪の重さ、あるいは何万年もの歳月にわたって危険な放射線を出し続ける廃棄物を子孫にのこすことの罪の深さを認識できないのである。
 こうした人間の弱さともろさ、醜さなど、人間の罪そのものに対する認識の低さは、太平洋戦争というアジア全体に多大の悲劇を起こした大事件に対して、最高責任者であった天皇の罪を明らかにせず、太平洋戦争の時の商工大臣であった岸信介が戦後(一九五七年)に、首相にさえなったことなどと共通している傾向である。彼は、太平洋戦争の際に戦時経済体制の実質的な最高指導者であって、あの戦争においては、多大の責任があった人物であり、それゆえにA級戦犯となっていたのである。
 こうした問題は、やはりキリスト教を受け入れる人が日本ではごく少ないという事実と深く関係がある。私たちに目先のことだけでなく、将来のことを見据えるまなざしを与えてくれるのがキリスト教信仰であり、聖書なのである。

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