もし、私が足を洗わなかったら 1999/12

イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、・席に着いて言われた。「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。(ヨハネ福音書十三・1〜15より)

主イエスが弟子たちの足を洗ったこと

 主イエスが最後の夕食を弟子たちと共にしようとしたとき、だれもが予想もしなかったことが生じた。それは、主イエスが弟子たちを最後まで愛し抜かれたことを象徴的に示すものであった。
 弟子たちが、エルサレムに来る途中に主イエスは自分がもうじき殺されるといって重大な事態になると予告しているのに、弟子たちは、自分がイエスの新しい支配の国で、高い地位につきたいと願ったり、だれが一番偉いかと議論している有り様であった。そうした弟子たちのかたくなな心がこの、主イエスが弟子たちの足を洗ったという記事の背後にある。
 イエスは、手ぬぐいをとって、上着を脱ぎ、たらいに水を汲んできて、弟子たちの足を洗い始め、てぬぐいでふき始めた。
 このことは、当時の習慣を反映していると考えられている。当時は、晩餐に参加するときには、会場となる家に出発する前に、自宅で体を洗う習慣があり、途中の道での汚れを、目的の家について奴隷たちが洗うのであった。
 足を洗うということは、当時は奴隷がする仕事であった。だから、弟子たちは主イエスがそんなことをしようとしたので、とても驚いてペテロはただちに拒んだほどであった。そのようなペテロに対して、主イエスは、「もし、私があなたを洗わなかったら、あなたは私と何の関わりもない」と言われた。
 足を洗わないだけで、それまで三年間もずっとともに行動してきた主イエスとペテロが何の関係もなくなるということは、本来はありえない。今までも夕食のときに、主イエスがペテロの足を洗わなかったことが普通であっただろう。だからこそ、弟子たちは驚いたのであった。それゆえこの主イエスの言葉は、キリスト信仰の重要な内容を象徴的に現していると言えるのであって、その意味を考えてみよう。
 私たちが主イエスから足を洗ってもらうとは、どんな意味が込められているだろうか。、足の汚れとは、私たちの霊的な汚れ、罪の汚れを意味している。そしてそのような罪の汚れを清めて頂くのでなかったら、たしかに私たちは主イエスとは何の関わりもなくなってしまう。私たちが主イエスと関わりがなくなるということは、実に大きなことである。この箇所は、たいてい、互いに足を洗い合うという側面が強調され、そのことがとくに印象に残ってしまうことが多い。しかし、主イエスと何の関わりもなくなってしまうということは、滅びるということをも意味している。それは直前に言われている裏切り者のユダと同様になってしまうことを意味する。
 私たちは、主イエスから洗ってもらった、だからこそ、主イエスとつながりを持つことができるのである。
 ユダはどうして滅んだのだろうか。それは、同じようにキリストの愛のなかに置かれ、その神の言によって導かれたにも関わらず、それを受け取ろうとしなかったからである。 主イエスが奴隷と同様な最も低い姿となって、弟子たちのために足を洗おうとされた。そのことを受け取らないときには、関わりがなくなってしまう。
 私たちが最も必要なことは、主が私たちにして下さった愛のわざを感謝して受け取ることなのなある。もちろん、当時の弟子たちのように、文字どおりに主イエスに足を洗ってもらうなどということはありえない。主イエスが十字架で死んで下さったこと、犯罪人と同様な低い低い姿で私たちのために汚れを担い、身代わりに死んで下さったことを感謝して受けることである。
 それによって、私たちは主イエスとのつながりを保ち続けることができる。
 主イエスは、つぎのように言われた。

「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」

 この箇所も用いられている言葉はわかりやすいが、必ずしも意味は分かりやすいとは言いがたい。すでに体を洗ったといっても、いつどこで洗ったのだろうか。どこにもそれは書かれていない。
 この言葉は、ヨハネ福音書の十五章三節の「私の話した言葉によって、あなた方はすでに清くなっている。」という言葉と関連がある。弟子たちが主イエスの愛のなかに生き、その真理のみ言葉によって導かれているとき、すでに清められていると言われているのである。
 主イエスに身をゆだねた者は、「からだを洗った」と言える。これは、その後の箇所で、ユダは「清くない」と言われていることからわかる。主イエスの愛を拒み、み言葉を拒絶するとき、清められていないということができるがユダはまさにそうした拒絶する人であったと考えられる。

 主イエスに足を洗ってもらうということ、すなわち清めてもらうということの意味は、「そのときには弟子たちにはわからないが、後で、分かるようになる」と主イエスは言われた。これは自分は清いと思っていてもどんなに汚れた思いが生じるか、どんなに重い罪を犯してしまうかを知らないからであった。ペテロも自分は正しいと思っていても、主イエスを三度も知らないと言ってしまうほどであった。そんな自分の弱く醜い本質を知るとき、主イエスによる清めがいかに必要であるか、それなくしては、たしかに主イエスとはつながりを持つことができない存在であることを思い知らされるのである。
 それは聖霊を受けて初めて真理が明かになっていったことを意味している。聖霊はすべてのことを教えると、ヨハネ福音書に記されているとおりであった。聖霊によって、主イエスが足を洗うこと、(清め)が不可欠であること、十字架の死こそ、その清めと赦しを万人に与えるものであったこと、をも知らせるものであった。復活も十字架も聖霊を受けて初めて弟子たちもその意味が分かったのである。
 現代の私たちにおいても、主イエスが私たちの汚れを洗って下さったということがどんなに深い意味を持つか、あとになって少しずつ分かってくる。
 からだを洗ってもらったから、足だけを洗ったらよいという言葉の意味については、私たちが聖霊により、主イエスキリストにより新しく生まれ変わっているなら、あとは、日々の生活でこの世の汚れを日々洗って頂くことだけが必要なのである。たしかに、キリストの十字架を信じて罪赦された者であっても、日々の生活の中でさまざまの悪との戦いによって次第に世の汚れがしみこむとき、私たちはいつのまにか、キリスト信仰からはずれていく。実際、そうした離反していく人をいろいろと私たちは見てきた。

 このように、私たちは信じてキリストの言葉を受け入れた時点で、清くされているが、その後の生活においてつねに何らかの汚れはつきまとってくる。それゆえ、日々の罪を告白して赦して頂き清めて頂くことが必要なのである。

 「もし、私(イエス)が足を洗わなかったら、あなたは私と何の関わりもない。」この箇所は、現代の私たちにとっては、キリストによって汚れ、罪を洗って頂いて初めて、イエスとつながることができることを意味している。それは私自身の経験であった。そして主イエスによる罪の赦し、清めの重要性がわかるということが、すなわちキリスト信仰の世界に招き入れられるということなのである。
 ここからすべては始まる。これはキリスト信仰の出発点であり、だからこそ、決別遺訓の冒頭で言われていると考えられる。
 主イエスによる清めを受けて始めて、そこから互いに奉仕しあうこと、互いに足を洗い合うことが可能になる。だからこそ、主イエスもまずイエスが弟子の足を洗ったのちに、互いに足を洗い合うこと、互いに愛しあうことが命じられている。それをすることによって初めてキリストの弟子となれると言っている。
だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ福音書七・47)
 多くの罪を赦されるとは、主イエスによって、より多く洗って頂くことである。もし、主イエスが私たちの罪の汚れを洗わなかったら、私たちは愛を知らず、他者を愛するという本当に意味がわからないままになっていたのである。

 ヨハネ福音書では、この箇所にある、互いに足を洗い合うようにとか、互いに愛し合いなさいという戒めが多く見られる。
 それでは、新約聖書のほかの内容ではどうだろうか。互いに○○せよという教えがいかに多くの箇所に現れるか、実際に感じていただくためにその箇所を別にあげておく。

なぜ、新約聖書には「互いに○○せよ」が多いのか
 それらの箇所を見ればわかるように、新約聖書において、「互いに○○せよ」というのは、私たちが想像する以上に多いと言えよう。
 旧約聖書においては、このような「互いに○○せよ」といった戒めは、次の一カ所しかないことを比較するなら、新約聖書の特徴が歴然としてくる。
「万軍の主はこう言われる。正義と真理に基づいて裁き、互いにいたわり合い、憐れみ深くあり、やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者を虐げず、互いに災いを心にたくらんではならない。」(ゼカリヤはダレオス王時代の預言者。紀元前520ー518頃に活動した。心を合わせてエルサレム神殿の再建につくし、ユダヤ人指導者を激励した。)(ゼカリヤ書 七・9ー10)

 新約聖書にみられる、「互いに教え合い、互いに相手を優れた者と思い、互いに忍耐し・・」など、のさまざまの互いに○○せよという戒めは、一言で言えば、「互いに、愛しあうように」ということに尽きる。
 なぜ新約聖書では、これほどまでに互いに愛し合うことを強調しているのだろうか。それは、つぎのような理由が考えられる。
 まず第一に、キリストを信じる者の集まりは、「キリストのからだ」であるからだ。もし、私たちが一つのからだであるならば、一つの部分が苦しめば、別の部分もまた苦しむというのは、ごく自然なことになる。キリストご自身が、愛そのもののお方であるゆえ、私たちの苦しみを苦しみとして受け取って下さり、喜びをともに喜んで下さる方である。それゆえ、私たちも、互いに愛し合い、重荷を担い合うことによって、よりキリストと一つになることができる。そしてそこからキリストからの慰め、励ましもまた受け取ることができる。
 互いに○○せよという戒めは、それが可能であるから言われている。それは、まずキリストが私たちを愛して下さって、その愛を下さっているからである。
 次の理由は当時は迫害が始まっている時代であり、そうした時代には、互いに愛し合うこと、命まで捨てる覚悟でキリスト者たちが相互に愛し合うことがきわめて重要であったからである。それは、キリスト者として当時の国家権力と戦って信仰の道を生きていくために、不可欠のことであったのである。
 次に、互いに愛し合うということは、周囲の偶像崇拝の世界に真の神を宣べ伝えるためにもきわめて重要であったと考えられる。それは、つぎの言葉のように、互いに愛し合うということは、単に相手が困っているからとか、可愛そうだからそうするというだけでない。それは、神を私たちの内に強くとどまっていて頂くための最も重要な手段ともなるのである。
愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきである。 いまだかつて神を見た者はいない。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのである。(Tヨハネ四・11ー12)
 そして神が私たちの心のうちに、また、私たちの人間関係のただなかにとどまっていて下さるならば、私たちが福音を伝えるときにも、そのとどまり続けておられる神が働いて下さるであろう。そしてまだ神を知らない人へと、福音を伝わらせていくのである。
 キリスト教がローマ帝国に広がっていく時代は、三百年ほどもずっと迫害がつきまとったのであって、そのような迫害の時代においては、互いに主にある愛で、命がけで愛し合うということが必要であったのである。そのようなところに神が働き、その神がキリストの福音を迫害のただなかにおいて伝えていったといえよう。
 さらに、こうした迫害のほかに、キリスト教の真理をゆがめる異端の教えが忍び込んでくるという状況があった。ローマ帝国の迫害が目に見える形で襲ってくるのに対して、このほうは、霊的なものであって、キリストの福音の根源を破壊しようとするものであった。こうした偽預言者とか異端の教えに惑わされないためにも、互いに愛し合って、主が信徒のただなかに生きて働いていただく必要であった。
 理論的に、異端を論駁することは、知的理解力が恵まれている人たちには、効果的であろうが、一般の人々にとってはその議論そのものが十分理解できないことが多いから力とはならない。しかし、互いに主にある愛で愛し合うことは、そこに働く主が聖霊を注いでなにが真理か異端かを教えてくれることになる。

私自身の経験

 互いに足を洗い合うという意味について、私自身が私たちの集会において実際に、学んでくることができたのは、主の恵みというほかはない。
 私たちが主イエスを愛すれば、主から愛し返して頂けるように、私たちの集会または、集会員に何らかの関わりをもってきた人に、主にある愛をもって関わるとき、相手もまた私たちに何事かを与えてくれる。また、関わること自体が新しい学びとなっていく。
 私たちの集会でも互いに奉仕しあうことによって、今日まで集会が続けられてきた。その点で、例えば集会を継続していくために不可欠となる、集会場がもう三十年ちかくも、杣友さんによって提供されて、そこで集会が継続されている。それは、まず杣友さん宅を集会のために、最初は一週間に一度、現在では、三〜四回も毎週使わせて頂いているが、それは実に大きい奉仕である。毎週日曜日の礼拝集会はもちろんのこと、そこでどれほどか、信仰への導きのための交わりの場や、集会が持たれてきたことだろうか。
 問題をもった人、悩みのある人、またまだ信仰に入れない人、あるいは、聴覚障害者との交わりや、聖書の話を伝えるには必須である手話のこと、子供の日曜学校、信徒同士の交わり、集会準備等など実に多くのことに使うことができてきた。このように、家を提供すること、またそこに多くの奉仕をすること、それによってまた集会員も、その精神を学んで、他者に奉仕をするようにと導かれていくことになる。
 単なる言葉による勧めだけでは、人間はあまり動かされないが、杣友さんご一家の奉仕があったからこそ、集会員もそれを実地に学ぶことができてきたのである。
 こうした、よき集会場が与えられていたので、日曜日に集会に参加できない人たちのために、とくに日曜日以外の日に定期的に集会をもうけること(火曜日夜の集会)も可能となった。また、集会に加わろうとしている人の具体的な問題に何らかの形で関わっていくこと、家を訪ね、少しでもキリストのことを紹介し、集会へと導くこと、そのために例えば、盲人なら継続的に送り迎えすること、聴覚障害者との関わりのために手話を覚え、手話で聖書の講話をすること、病気の人、あるいは自分では移動することができない身体障害者のために家を訪ねること、集会をその人の家で開くこと等などがなされてきた。
 こうした奉仕は、一方的な奉仕では決して終わらない。必ず不思議なことだが、奉仕を継続的に行う人にも、また何らかの奉仕がなされるようになるのである。
 それは、この世の形式的なお返しといったものとは根本的にちがったもので、内に働く主イエスが相互に仕え合うようにと導いていくのである。
 互いに足を洗い合うこと、それは互いに重荷を担い合うことでもある。私たちは自分だけの重荷を背負うことで精いっぱいであって、他者の重荷を担うことまでなかなか考えない。しかし、それは私たちの内に主イエスが住んでくれることによって、そのイエスが相手の重荷を担って下さるのがわかる。そして同時に自分自身の重荷をも担って下さるのを感じる。私たちが互いに○○せよという主イエスの言葉を困難でできないと思ってしまうのは、主イエスが内にいないからである。
 私たち自身が担おうとするなら、それは到底できない。

使徒パウロの例

 キリストの使徒たちの中で、具体的にどんな奉仕が互いになされていただろうか。
 パウロ自身は、しばしば天幕を作ることを仕事としながら、キリストの福音を宣べ伝えたことが書いてある。しかし、つぎのパウロ自身の言葉に見られるように、数々の迫害にであった身であり、あちこちとたえず居場所を変えていたのであるから、到底いつもそのように天幕作りで生きていくことができたとは考えられない。
苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。
ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。
鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。
しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、
苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。(Uコリント十一章より)

 実際、彼自身が述べているように、テント造りをキリスト者のアクラ夫妻とともにやっていたが、すぐあとには、 シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉(神の言、福音)を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。(使徒十八・5)
 と記されていて、パウロは神の言を伝えることに専念し、パウロ自身の生活はべつの人が支えていたのがわかる。
 また、コリントのキリスト者の集会の人々に宛てた手紙には、つぎのように記されている。

わたしは、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れました。
あなたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした。マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれたからです。そして、わたしは何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきた。(Uコリント十一章より)

 このように、パウロはコリントのキリスト集会の人々には、負担をかけなかったが、そのパウロの生活を支えたのは、コリントの北方のマケドニア州から来たキリスト者たちであった。その点でパウロは福音を知らせ、真理を提供するという奉仕を人々にしたが、他方では人々からの奉仕を受けて伝道を続けることができたのがうかがえる。
 パウロはまた、エルサレムのキリスト者たちのために危険をおかして献金を持っていった。多くのキリスト者たちが、エルサレムに行けば、捕らえられて異邦人に引き渡されるという預言をきき、必死になって行かないようにと懇願したが、パウロは、つぎのように答えた。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」(使徒行伝二十一・13)
 これほどの決意をもって、エルサレムに行こうとした目的は、私たちにとっては意外だが、エルサレムのキリスト者たちに異邦人のキリスト者たちから捧げられた献金を持っていくことであった。
 パウロ自身は、イスパニアへと伝道のために赴くことが希望であった。当時の世界の大都市であったローマですら彼の最終の目的地ではなく、当時世界の果てであったイスパニアこそが目的地であったということのなかに、パウロのただ神のみを信じてどこまでも未知の世界にキリストを伝えようとする志しを感じることができる。
 彼はそのような大きい目的を持っていたにも、かかわらず、イスパニアとは正反対のエルサレムに行って、ギリシアの諸教会からの献金を携えていこうとした。
 結局パウロは預言された通りに、エルサレムで捕らえられ、危うく殺されそうになる危険にも直面したが、ローマに護送されることになった。
 使徒パウロが、献金の問題をいかに重視したかは、使徒行伝の他に、ガラテヤ書にも触れられ、コリント書では前後書に、とくに後書にくわしく述べられ、さらにロマ書にも述べられていることからもうかがえる。
 このようなパウロの生き方を見ても、いかに彼が、互いに足を洗い合う、重荷を互いに負い合うということを実際に行っていたかがはっきりと浮かび上がってくる。
 このようにパウロが仕え合うということを命がけで重視したことは、意外なことにあまり知られていない。 
 このようにヨハネ福音書やヨハネの手紙、パウロの手紙などにつよく表現されている「互いに○○せよ」という教えは、すでに述べたように、当時の迫害という困難な時代を考えるとよくわかる。
 しかし、現在では迫害がそんなにないのだから、そうした視点はいらないのだろうか。決してそうではない。私たちすでにキリストを知らされた者が、まだ知らない人にキリストを伝えようとして、多くの祈りとエネルギーを注いでようやく一人の人がキリストによる罪の赦しを知り、聖書が永遠の真理き書であることを知ったとしても、集会員が互いに祈りあい、主にある愛をもって重荷を担い合うことをしなければ、続いていかないことが多い。互いに愛しあうことによって神はそうした人間の内におり、その神が集会から離れることを止めるということがある。

一つになるために

 そしてもう一つの重要な意味は、ヨハネ福音書にもパウロにも強調されているが、「一つになる」ということである。
わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。(ヨハネ十・16)

父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。
あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。(ヨハネ十七章より)
 このように、互いに愛し合うことは、一つになるために不可欠のことだといえる。そしてその一つになるということが、神を知らないこの世に対しての証しとなること、福音伝道にもつながることが言われている。
 キリスト教は独立の精神を持たせる。だからこそ、内村鑑三も雑誌の名前を「東京独立雑誌」と名付けた。そしてそのなぜ「独立」と名付けたかについて次のように述べている。
「・・頼るべきに頼る、これこそ高尚なる依頼である。弟子がその師に頼り、あるいは、友が相互に頼るがごとき、みなその類である。真正の独立とは実にこの種の依頼をもって成っている。頼ることを知らない者は実に一人立つことを知らない者である。・・」(東京独立雑誌第一号「初言」一八九八年)
 このように、独立といっても決して全く一人、単独という意味ではない。完全な独立あるいは、単独ということが可能なのは、神か動物であると内村も昔の人の言葉を引用して言っている。
 このように、真正の独立とは、いかなる者にも頼らないのでなく、頼るべきに頼るものである。主イエスも、弟子たちもそのようにされた。まず第一に神に頼るなら、そして神の国と神の義を求めていくならば、必要な人や物が与えられる。主イエスも弟子たちもやはり伝道の日々の生活のとき、食事や、宿泊などは、さまざまの人たちによって支えられていたのである。
 キリスト教独立学園にしても、その名前からみると一見どこにも頼らないでやっている学校のように見えるが、決してそうでなく、無教会関係の団体としては、最も多くの献金を受けてきた団体である。しかし、それは内村が述べたような、全く自発的な神への捧げ物とする気持ちで捧げられた献金であり、援助であり、祈りがそこには込められている。 このように、独立ということ自体、それが真正のものであれば、神のみに頼るゆえに神が愛される人たちの援助をも感謝して受けるのであり、そうした互いに仕え合う姿勢を内に含んでいるのである。そしてそこから、多くのよきものが生み出されていくのである。そこに捧げる者も、受ける者も、一つになるのであって、聖書でいわれていることが実現していくのである。
 このようにして、キリスト者の集まりは一つになることを目指している。無教会のキリスト者が集まる全国集会もまたそのような仕え合うということのために、なされているのである。

 このように、新約聖書においては「一つになる」ということが言われている。
 しかし、キリスト信仰以外の世界においては前途をどのように考えるだろうか。
 物理的に考えると、私たち人間は、寿命が尽きると焼かれて、大気へと分散し、あるいは一部の金属成分は大地に帰っていく。また、この地球は次第に、太陽が熱くなり、あと数億年で地表の温度は百度に達して、水は失われ、生命は失われる。五十億年後には、太陽が膨張しはじめて、赤色巨星となって水星、金星、地球をも飲み込んでしまう。膨張する太陽の高温のために、地球は太陽に引き寄せられ、溶け、ついには蒸発してしまう。そして太陽とともに、宇宙空間へと飛び去ってしまう。
 このように、物理的に考えると、人間も地球も次第に分散していく方向にある。
 しかし、主イエスを信じる者は、一つになる。最終的には、天も地も一つに
なると言われている。そうした方向を私たち自身が実感することができるようになっている。それは、キリストを信じる者が一つになるということである。
 私たちはキリストのからだであって、一つとなるように召されている。
 弟子たちとの最後の夕食が終わって、イエスが捕らえられる直前にしたと伝えられる、つぎのような主イエスの祈りがある。

父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。
そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。(ヨハネは十七・21)
 人間や社会、そして物理的には、この地球もまたバラバラになっていく方向にある。そうした大きい流れとまったく異なる流れが、キリストによって与えられている。それは、一つになるという流れである。そしてその大きい流れを私たちが実感できるようにしてくださった道がある。それは、キリストを信じて生きる私たちはキリストのからだであり、一つであるということである。
 私たちキリストを信じる者はキリストの目に見えないからだである。だからこそ、互いに重荷を担い合い、赦し合い、奉仕しあうのは自然なこととなる。
 そしてそのように一つとされていくことは、それだけで終わるのでなく、さらに雄大な前途に向かっている。それは、パウロの次の言葉に表されている。
こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。(エペソ書一・10)
 これほど、大きい前途の希望があるだろうか。まずキリストを信じる者たちが一つになり、そこに働く神の愛が自ずから周囲へと広がり、隣人への愛へと流れ行きキリストの福音が世界へと伝わっていく。
 しかし、決してそれだけで終わるのでない。神が定めたもう時には、天にあるもの、地にあるもののすべてがキリストのもとに一つされるというのである。
 互いに足を洗いあい、互いに重荷を担いあい、互いにキリストの愛をもって愛し合うということは決して単なる道徳的な教えで終わるものではない。私たちが互いに足を洗い合うことは、こうした神の宇宙的なご計画の流れのなかに移し入れて頂くことになると言えよう。
「もし、私があなた方の足を洗わなかったら、あなた方は私とは関わりのない者となる。」
 そしてこうしたすべての祝福への入り口に、このイエスの言葉がある。まず、主イエスが私たちの足を洗って下さったこと、すなわち主イエスが十字架において死んで下さり、私たちの罪の汚れを潔め、赦して下さったことを信じて受け入れることにある。

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